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はてなキーワード: 1991年とは

2022-05-10

anond:20220510124242

だいたい1991年バブル崩壊とされているで

氷河期があれだけ言い訳に使われるんやからだいたいそれぐらいの層やろ

ちなみにはてブができたのは2005年

2022-04-29

(n=6)ロシア人ウクライナ人生の声はてな民に教える 前編

A,B,C,Dはロシア人増田が全員と個別DMで会話している。

①,②:↑の友達ウクライナ人増田とは面識なし。①にはA、②にはBとC経由で質問状を送りそれに回答してもらった。

全員男性(選んだわけではなく偶然)。


B

——日本の人々に何か言いたいことはある?

「ある。『こんにちは!』」

——……。

ジョークだ」

——そう。

——日本人にロシアからの声を届けたいから協力してほしい。

「わかった」

——(おおっ、マジか)私が日本語に訳すよ、もちろん。

「そうだな、日本人に対してだけではなく他の人々にも語りかけることにする。

何と言ったらいいだろう? 

デフォルトときに多くの人々がロシア人を憎み始めた。しかしこの戦争は我々ではなく政府によって始められたものだ。当然のことだが、我々は誰もこの戦争を求めていない。また、我が国の人々は何度も団結して政府に立ち向かって来ている。だが参加者はいつも刑務所に送られてしまう。ネット上で意見を表明することさえ、政府が気に入らなければ誤情報の流布として逮捕される理由になる。
また、ある程度のロシア人政府プロパガンダに屈して"軍事作戦"を支持したこと否定しない。しかし他の国々の多くの人たちも実は同じことだ。彼ら偽善者ウクライナという国の存在すら少し前までは知らなかったにもかかわらず、ウクライナ運命心配するふりをしている。彼らに「DNRとLNRについてはどう思いますか」と問いかけたとしても答えられないだろう。これが現実だ。
もしあなたが心からウクライナのことを心配しているのならそれは良いことだ。だが多数派の人々はただ彼らの政府が仕掛けたトレンド、つまりプロパガンダに煽られてウクライナを憂いロシア人を憎んでいる。
つまり、私が言いたいのは「ただお互い仲良くしよう」だ。政府間の関係が良くなかったとしても、それは我々が同じようにするべきということにはならない。

——ありがとう明日読むね。

——ところでゼレンスキー以外のウクライナ政治家については知ってる?

「そういう事柄には詳しくない。自国政治家すらあまり知らない」

——ゼレンスキーについてはどう思う?

「何も。メディアによってそれぞれ違うことを言っているので判断できない」

——違うこと?

「実際、私はゼレンスキーについてはロシアメディアしか聞いていない。そこでゼレンスキーはいつも否定的に描かれている。ロシアメディアがどういうものかは知っている(他の国のものと大して変わらない)。何の信頼も置いていない」

——他の国のものと大して変わらないの?

redditでいくつかの投稿に、外国からニュースが入ってくるときメディアはいつも人々を操作しようとしていると書かれていた。メディアはいつも言う……外国ではどれだけの悪がはびこっているか、どんなごろつきが統治しているか、それと違って我が国はなんと秩序がある穏やかな国だろうか、と。west {増田注:西洋西側か迷ったのでとりあえずwest} ではロシアはいつも悪者として描かれ、ロシアではwestがいつも悪者として描かれる。両者は使う言葉さえ同じだ。westはプーチンヒトラーと比べ、ロシアはwestとウクライナファシストとしている。

事実他国いかにひどいものかを言うニュースはすべて自国問題から気を逸らし洗脳するためだけにある」

——そうなんだ。

——Bさんもわかると思うけど、私はいつもwestのニュースばかり見てる。westのおかしニュースをいくつか教えてくれないかな?

「私は偽善的なニュースには飽き飽きしているので追っていない。そのほうが精神衛生にいい」

——(つ、使えない奴)ところでwestについてはどう思う?

「実際には彼らはウクライナ運命に何の興味もない。ただロシア悪者と印象付けるのに使っているだけだ。彼らが完全に嘘をついているわけでもないが。他のすべての政府と同じように、自国利益だけを追い求める蛇だ」

——(外交は徹底してドライ自国利益だけを求めた方が結局うまく回ると大昔読んだのは何の本だっただろう……、ダメ全然思い出せない)

とはいえ政府などない方がいいと思っているわけではない。必要悪というものだ」

——そう。

——シベリアに送られたウクライナ人には会ったことある

「いいや」

——どこに送られたと思う?

「知らない」

——なら2014年に送られた人には?

個人的に? ない。

なんだって? 私たちウクライナ人シベリアに送っていると言われているのか?」

——ロシア政府が言ってる。

「まあ、シベリアは恐ろしい土地ではない。ロシアの他のところよりも少し寒いだけだ。この21世紀においては問題にならない。シベリアに住んでいる友達もいる」

——そう。ところでロシアウクライナ人シベリアに送ってるのは嘘だと思う?」

「わからない。ただ、もしそれが本当でも悪いことではないといいたいだけだ」

——そうなんだ……。

「私はモスクワから遠くない街に住んでいる」

——シベリアはもう田舎じゃないってこと?

https://cdn.discordapp.com/attachments/794889279214059522/966748540640559144/unknown.png

これがシベリア都市ノヴォシビルスクだ。確かにシベリアは大きいか田舎町もある。しかロシア政府はrefugeeをそこには送らないだろう。refugeeはいつもある程度大きい都市に定住する」

——なんで?

「refugeeはふつう集合住宅キャンプ生活するが田舎にはどちらもない。田舎インフラも弱い」

——どうして力づくで送り込まれた人たちが自分の住処を選べるの?

「知る限りrefugeeがどこに住むかは受け入れ国が選べる。もちろんrefugeeが資金を貯められたなら好きに家を買うこともできる」

——(なんか話が食い違ってる気が)そう。どうして政府は彼らをロシアに送るの?

ウクライナ政府のことか? ふむ、思うに、refugeeは彼らの国の意志からから逃れているのだ。どこでもいいから今いる状況から脱出手段を探している」

——えっ? ウクライナ政府が人々をロシアに送ってるの?

「うん? ウクライナ政府のことを指していると思っていたが」

——私が言いたいのは、ロシア政府ウクライナ人戦争で捕まえてシベリアに送っていることだよ。

「捕まえる? 政府ウクライナ人誘拐してシベリアに送り込んでいるというのか? ふふっ、ははははは、私が今までに聞いた中で一番馬鹿げた話だ」

——!?

スターリンからこちら、シベリアに送られた人などいない。21世紀にそんなことをしても何の役にも立たない。仮に捕虜がいたとしてもシベリアには送らないだろう」

——うーん、2014年には送られた人がいたよ。

「もう一度聞く。何が言いたいんだ? どうして2014年や今ロシアウクライナ人refugeeを受け入れたりするんだ?」

——捕虜受け入れのことなんて言ってないよ。ロシアが人を捕まえてシベリアに送ってることしか言ってない。

「なんでそんな無意味なことを?」

——う、うん。

メディアは敵国がいかに恐ろしいかの話を作るものだ」

——でもロシア公式文書に書いてあったって言ってるよ」

「わざわざ嫌われるようなことを書くか?」

——う、うーん……

増田はどうやってその情報が嘘でないとわかる? 公式文書からといって本当とは限らない」

——そう。

——この戦争で変わったり本性を見せたりした人はいた?

「いいや。知っている人たちはすべて今までと変わっていない」

「ああ、こういろいろ聞かれてみると、インタビューを受けている気分になるな」

——(気分もなにも、インタビューだよ)へへへ。

——ウクライナ歴史については知ってる?

「おおまかなことなら。ウクライナロシアは昔はRusという一つの国だった。20世紀にはソ連として友好国になり、1991年ウクライナ独立宣言した」

——あ、思ったより遅かったんだ。

——ウクライナのlanguage lawについてはどう思う?

「ふむ、難しい。ふたつ公用語がある国に住んだことはない。知る限り多くのウクライナ人はこの法律否定的だ。不便だと考えていると公式ソースにあった。私もそれに賛成だ」

——そう。(Bさんはアイデンティティ問題とかは言わず単に不便、なのか。そういえば私と違ってBさんは言語をただの道具だと思っているんだった。Bさんは文章文学に重きを置かない人間ではなく、むしろ物語キャラクターを好み文の細部までこだわる。……なるほど、文章を読み、聞くことにおいて、言語をただの道具と捉える行為はむしろ純粋かもしれない)

——プーチンについてはどう思う?

「良くはない、だがメディアで描かれるほど悪くもない。ヒトラーと呼ぶのは誇張しすぎだと言わせてもらおう。ロシア歴史上で最も恐ろしい統治者というわけでもない。私にはスターリンが一番恐ろしい。

プーチン名誉のために言うと、彼は外国との交渉時には実に強く、熱心で信頼が置けて好ましい印象を与える政治家だ。ただし彼の民には全く関心を寄せていない。『すべてはすぐに良くなる』と言い続けているが、彼の治世で良くなったものなど一つも…少なくとも普通の人々については一つもない。彼の権力に反発すると逮捕される。いつもプーチンを支持していた私の母でさえ失望したようだ。プーチン死ね生活が良くなると思っている人々もいるが、それは純朴すぎる。プーチンの座は同じく腐った人間が奪い取るだけだ。このState Dumaのあらゆる政治家プーチンと同じく腐っている」

——ロシア語で「ウクライナで」を表すна Украинеという言葉についてどう思う?

「何も。皆そう言うし、私もそれに慣れている」

——なんでそう表すかは知ってる?

「知らない」

C

——日本語のインターネットロシアからの声を届けたいから協力してほしい。

「これでいいだろうかhttps://cdn.discordapp.com/attachments/810750053178277908/966358629970231336/ff58e2f666e5f2b6.m4a

——(うわっ、マジで声送ってきやがった。しまったなあ、比喩のつもりで声なんて書くんじゃなかった。聞くのめんどい。後回しにしよう)ありがとう

——ゼレンスキーについてどう思う?

特に何も。普通ウクライナ大統領に見える。ところで彼はひとたびステージに立つと愉快な人になる。"The Club of the Cheerful and Resourceful"というスダンダップコメディのようなものを演じていた」

——普通の?

「そうだ。非難もしなければ賞賛もしない。彼はただ彼の仕事をこなしただけだ」

——シベリアに送られたウクライナ人には会ったことある

「そんな話は初めて聞いた。なぜ彼らがシベリアに送られるんだ? 意味がわからない」

——でも2014年には確かに送られたと聞いたよ。

「知らない」

——ウクライナのlanguage lawについてはどう思う?

「良くないものだ。我々は同じスラブ人、団結すべきだ。{増田注:ちょっとからない箇所があったので今本人に尋ねて答え待ってるところ}」

——(しゃーないそろそろさっきの聞いてみるか。

……あっ、好みの声だ。いやあ、「声」って言っておいてよかった!!)https://anond.hatelabo.jp/20220429233816

プーチンについてはどう思う?

ロシア大統領、それだけだ。良くも悪くもない」

——この戦争を始めたのに? {増田注:Cが戦争を嫌うそぶりを見せていなかったらもちろん聞かなかった}

「聞いてくれ、もし彼が戦争を始めたとしても、それは彼を憎んだり呪ったりすべきだということにはならない。また私はどちらの側にも立ちたくない。私は世界平和を望んでいて、自分自身も平和的でありたいと思っている。そして愛国者ではない。私の生まれ場所自分で選んだものではなく運命に決められたものだ。

侮辱してくる人であっても信頼がおける人であっても、『悪だ、善だ』などと考えたくはない。特にこの21世紀は人をどちらかの立場に立たせるためのフェイクニュースであふれている。好きではない」

——ゼレンスキー以外の政治家については知ってる?

前大統領ポロシェンコ2014年事態悪化させるばかりだったので多くの人から嫌われた。

元大統領ヤヌコビッチ普通大統領に見えたが、職を辞したのち民を棄てたので軽蔑している」

——ウクライナのお友達意見を聞きたい。

「{増田注:②として後で記す}」

——ロシア語で「ウクライナで」を表すна Украинеという言葉についてどう思う?

あと、どうしてそう言うの?

「正直、あまり考えたことはない。ロシア語の文法上正しいからそう言うだけだ」

2022-04-26

anond:20220426110846

日本人起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸から渡来集団が混血して弥生人となり、現代日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。1991年東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。

2022-03-28

アルメニア人歴史悲惨すぎる

anond:20220328134426

1800年代半ば、アルメニア民族主義の萌芽

オスマン帝国におけるアルメニア人は、中央政府共存共栄する共同体であった。

19世紀に入ると、カトリックへの改宗などを通じて西欧諸国庇護を受け特権享受する

アルメニア人が現れ、ムスリム住民との間に軋轢が生じた。

さらに1803年~1815年のナポレオン戦争により西欧において民族主義高まると、

アルメニア富裕層の間から西欧との交流を通じて民族主義に目覚める者が現れ始めた。

 

1878年ロシアによるアルメニア民族主義支援

1877年露土戦争で、ロシア帝国勝利南カフカスアルメニア居住地帯の北東部占領

ロシア帝国アルメニア系のイワン・ラザレフ中将に、

ムスリムアルメニア人の離間を目的とした任務に当たらせた。

ロシアオスマン帝国領内のアルメニア人を支援するようになり、1878年サン・ステファノ条約

オスマン帝国東部の六州におけるアルメニア人の権利向上を目指す改革実施約束させようとした。

 

アルメニア民族主義政党の勃興

ロシアという後ろ盾を得たことを機に、オスマン帝国領内でアルメニア民族運動が盛り上がり、

帝国外ではアルメニア民族主義者によるアルメニア独立目標とする政党が結成された。

やがて、彼らの中から帝国内に秘密支部を設け、オスマン官吏を狙った爆弾攻撃を行う者も現れた。

露土戦争ときアルメニア人がロシア軍に協力してムスリムを追い立てたのだとする風評ムスリムの間で広まり

アルメニア人を国内にありながら外国と通謀して「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。

 

1894年オスマン政府による「暴動鎮圧」としてのアルメニア虐殺

1894年アナトリア東部のビトリス県でムスリムアルメニア人の大規模な衝突が起き、

オスマン政府正規軍非正規部隊を動員して衝突を鎮圧し2万人の犠牲者を出した。

アルメニア政党はこれを国際世論に訴え、西欧諸国オスマン帝国批判

1895年1月、英仏露の列強は共同でアナトリア東部行政改革案を提示して、その履行をオスマン帝国要求した。

オスマン帝国はそれらの要求を受諾するも、履行しないため、アルメニア人による履行要求デモが行われた。

デモに対して「外圧を笠に着た横暴」と感じたムスリム民衆が激高しアルメニア人を襲撃。

富裕層アルメニア人はオスマン帝国から西欧諸国に逃亡した。

 

アルメニア民族主義政党による暗殺未遂

1905年7月21日アルメニア革命連盟爆弾によってアブデュルハミト2世暗殺を試み、

護衛26人が死亡、アブデュルハミト2世は軽傷で済み失敗に終わった。

 

1909年アルメニア虐殺

アルメニア人15,000-30,000人がムスリム住民虐殺された。

 

1915年頃、第一次世界大戦時のアルメニア虐殺

オスマン帝国同盟国側、ロシア帝国連合国側で第一次世界大戦に参戦した。

オスマン帝国内のアルメニア人がロシア軍に参加したり、

オスマン帝国に対するゲリラ活動を行ったりしてムスリム殺害された。

これに対してオスマン帝国イスタンブールアルメニア系の著名人たちを逮捕追放し、

著名でないアルメニア人たちをシリア砂漠に徒歩で強制移住させる虐待を行い、

60万人から80万人のアルメニア人たちが強制移住等の迫害により死亡した。

 

1918年3月ムスリム虐殺

1918年3月アルメニア革命連盟が、アルメニア虐殺への報復として、

バクー現在アゼルバイジャン首都)にて3,000-12,000人のムスリム虐殺した。

 

1918年5月ロシア帝国崩壊アルメニア第一共和国建国

ロシア帝国崩壊により民族主義的な社会主義政党アルメニア革命連盟を中心として

アルメニア第一共和国建国建国された。

 

1918年、同時期に建国された隣国アゼルバイジャン領土めぐり戦争になる。

 

1918年、同時期に建国された隣国ジョージアとも戦争になる。

 

1920年アルメニアソビエト社会主義共和国になる

アルメニア第一共和国が倒れアルメニアソビエト社会主義共和国というソビエト連邦構成共和国になる

 

1924年1月レーニン死去。スターリン時代

スターリンによる教会迫害政策が始まる。

160人以上の司祭逮捕され、そのうち91人が銃殺された。

1938年4月6日大粛清の一環としてホレン1世殺害され、8月4日エチミアジン総本山が閉鎖された。

1936年アルメニア人口を70万人まで減らしてグルジア併合することを目論んで、アルメニア人をシベリア強制移住させた。

その後、ソ連大祖国戦争疲弊

 

1946年スターリンによる帰還優遇キャンペーン

スターリン戦争によって疲弊したアルメニア経済復興を期待して、アルメニア人口増大と労働力強化のために、

キプロスフランスギリシャイラクレバノンシリアなどに散っていたアルメニア人をアルメニアに帰還させるキャンペーンを開始した。

帰還者には食品券やよい住宅などの優遇措置が与えられたために、在来アルメニア人との間に衝突がもたらされた。

また、帰還者の話すアルメニア語(西アルメニア語)と、従来のアルメニア人の話すアルメニア語(東アルメニア語)と分岐していたため、

帰還者の話すアルメニア語が侮蔑対象となった。

 

1980年代ゴルバチョフ時代

ソ連アゼルバイジャン編入したナゴルノ・カラバフ自治州アルメニア住民多数派)が、

ナゴルノ・カラバフの「アゼルバイジャン化」を懸念し、同地とアルメニア統合を求める運動を開始。

 

1988年2月スムガイ暴動

1988年2月29日にアゼルバイジャンスムガイトで発生した民族暴動

市内の路上アパートで、アルメニア住民に対するアゼルバイジャン人の群集の襲撃事件が発生し、

アルメニア人26人が死亡した。この事件の後、全てのアルメニア人が町から脱出した。

 

1988年12月、アルメニア地震

アルメニア大地震が発生。死者は少なくとも約2万5000人、負傷者は約1万9000人に上る。

震央に近い地域高層建築物ほとんど倒壊し、40万人を超える人が家を失った。

 

1991年アルメニア共和国建国

ロシア帝国領におけるアルメニア共同体ソビエト連邦から独立してアルメニア共和国誕生した。

 

それからずっとアゼルバイジャンと、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡って戦争してる

アルメニア人の歴史を見てるとユダヤ人に似ている気がするのだけど

イスラエルアゼルバイジャン軍に武器供与するなどアゼルバイジャンの味方らしい

そして日本トルコの海底トンネル事業大成建設が参画してたりなどトルコ蜜月

アゼルバイジャントルコと仲が良いのでトルコ親日からアゼルバイジャン親日らしい

アルメニア人の味方をするのは今のところロシアくらいしかない

しかウクライナ戦争のためにナゴルノ・カラバフ自治州からロシア軍は撤退してしまった

牡馬クラシック勝利したうえで古馬になってGIを勝った馬

ディープ産駒で牡馬クラシックを勝った馬は古馬になってGIを勝てない」というジンクスについて検証する。

というか「牡馬クラシック勝利古馬になってGI勝利」という例がどれだけ少ないかを見ていく。

「3歳時にJC有馬などの古馬GIを勝った例」は除外。

2000年以降のみ(追記1990年代を追加した)。

2021世代古馬になったばっかりだし除外。

皐月賞日本ダービー菊花賞
2020年コントレイルコントレイルコントレイル
2019年×サートゥルナーリア×ロジャーバローワールドプレミア
2018年×エポカドーロ×ワグネリアン○フィエールマン
2017年アルアインレイデオロ×キセキ
2016年×ディーマジェスティ×マカヒキ×サトノダイヤモンド
2015年×ドゥラメンテ×ドゥラメンテキタサンブラック
2014年×イスラボニータ×ワンアンドオンリー×トーホウジャッカル
2013年ロゴタイプ×キズナエピファネイア
2012年ゴールドシップ×ディープブリランテゴールドシップ
2011年オルフェーヴルオルフェーヴルオルフェーヴル
2010年ヴィクトワールピサエイシンフラッシュ×ビッグウィーク
2009年×アンライバルド×ロジユニヴァース×スリーロールス
2008年×キャプテントゥーレ×ディープスカイ×オウケンブルースリ
2007年×ヴィクトリーウオッカ×アサクサキングス
2006年メイショウサムソンメイショウサムソン×ソングオブウインド
2005年ディープインパクトディープインパクトディープインパクト
2004年ダイワメジャー×キングカメハメハデルタブルース
2003年×ネオユニヴァース×ネオユニヴァース×ザッツザプレンティ
2002年×ノーリーズン×タニノギムレットヒシミラクル
2001年×アグネスタキオン×ジャングルポケットマンハッタンカフェ
2000年×エアシャカール×アグネスフライト×エアシャカール
1999年テイエムオペラオー×アドマイヤベガ×ナリタトップロード
1998年×セイウンスカイスペシャルウィーク×セイウンスカイ
1997年×サニーブライアン×サニーブライアン×マチカネフクキタル
1996年×イシノサンデー×フサイチコンコルド×ダンスインザダーク
1995年ジェニュイン×タヤスツヨシマヤノトップガン
1994年×ナリタブライアン×ナリタブライアン×ナリタブライアン
1993年×ナリタタイシン×ウイニングチケットビワハヤヒデ
1992年×ミホノブルボン×ミホノブルボンライスシャワー
1991年トウカイテイオートウカイテイオー×レオダーバン
1990年×ハクタイセイ×アイネスフウジンメジロマックイーン

2000年から2020年までで「牡馬クラシック勝利したうえで古馬になってGIを勝った馬」は52頭中19頭。

追記1990年代24頭中7頭)

特にダービー馬は、三冠馬たちとメイショウサムソンウオッカエイシンフラッシュの6頭のみ。

追記レイデオロ秋天勝ってるのを失念していた。合計7頭だ)

追記1990年代トウカイテイオースペシャルウィークのみ)

早熟でなければクラシックは勝てず、早熟であれば伸び悩むことも多い、ということだろう。

しろアルアイン・フィエールマンワールドプレミアコントレイルと、

条件に当てはまる馬を4頭も輩出しているディープはよくやっていると言える。

ちなみにサンデーは5頭(ジェニュイン・スペ・マンカフェダメジャ・ディープである

そもそもなぜ「牡馬クラシック勝利したうえで古馬になってGIを勝った馬」なんて奇妙な条件が設定されたかというと、

ディープ産駒はGIを勝てない→リアルインパクト勝利

ディープ産駒はGIを2勝できない→ジェンティルドンナGI 7勝

ディープ産駒の牡馬GIを2勝できない→ミッキーアイルNHKマイルマイルCSを勝利

ディープ産駒の牡馬王道距離GIを2勝できない→サトノダイヤモンド菊花賞を勝ってから3歳で有馬記念を勝利

ディープ産駒の牡馬クラシックGIを勝った馬は古馬になってからGIを勝てない→アルアイン皐月賞大阪杯勝利

ディープ産駒の牡馬クラシックGIを勝った馬は古馬になってから王道GIを2勝できない→フィエールマン菊花賞を勝ってから天皇賞春を連覇

ディープ産駒の牡馬ダービーを勝った馬は古馬になってからGIを勝てない→コントレイル三冠達成してからジャパンカップ勝利

こうしてディープ産駒に何とかケチをつけようとして条件を複雑化していったためで、こんなもの最初からイチャモンにすぎないのである

ウィンブルドンと見せパンアンスコ)、あるいは国会での見せパン論争

テニスアンスコといえばフリフリ白パンツか、紺ブルマーイメージだ。純白のスカートから躍動する脚、チラチラのぞきブルマー。実物は見たことないのに、なぜかドキドキしてしまう。この偽装された記憶はどこから来たのだろう。

ウィンブルドン小史

ウィキペディアによれば、第1回大会センターコートに置いてあった芝生の手入れ用のローラーを新しくする資金集めを目的に、1877年7月9日から始まったそうだ。種目は男子シングルスのみのアマチュア大会だった。

1884年女子シングルスと、それまでオックスフォードで開催されていた全英男子ダブルスウィンブルドンで開催されるようになった。1913年には女子ダブルスミックスダブルスが加えられ、1968年にはプロ選手の参加が認められた。

世界中から強豪選手が参加するようになったため、地元イギリス出身者は長らく優勝できなかった。男子シングルスでは1936年のFrederick John Perryから2013年のSir Andrew Barron "Andy" Murrayまでの77年間、優勝がなかった。また、女子シングルスでは1977年のVirginia Wadeの優勝を最後に40年以上イギリス人の優勝者は出ていない。

ちなみに、このように海外勢いに門戸を開いた結果、地元勢が淘汰され消沈することを「ウィンブルドン効果」という。

開催時期は原則として6月最終月曜日から2週間で、ちょうど英国の社交の季節だ。競馬ロイヤルアスコット(「マイ・フェア・レディ」に出てくるあれ)、競艇ロイヤルヘンリーレガッタもこの時期だ。

ドレスコードが厳しいのでも有名で、原則身に着けるのは白一色である汗じみが見苦しくないようにともいわれる。ブリタニカのページなので確かだろう。

https://www.britannica.com/story/why-do-tennis-players-wear-white-at-wimbledon

女性テニスプレイヤーファッションドレスから見せパンまで

https://www.messynessychic.com/2017/07/07/from-corsets-to-culottes-the-women-who-dared-to-change-wimbledon/

元々、ウィンブルドンでは女性はロングスカートや分厚いシャツそれから帽子かぶることが要請されていた。こちらではコルセット付きだったとも(ただし白い衣装について異説を紹介していることに注意)。20世紀初頭のテニスプレイヤーは道行く女性の姿と大して変わらなかったのである。だから本気で優勝を目指すことはおろか、ちょっと大きな球を返すのさえ大変だった。当時の男性がずっと軽装だったのと対照的である

流れを変えたのはDorothea Douglass Lambert Chambersという選手で、1900年により簡素シャツネクタイ姿で登場した。7度シングルで優勝し、1908年には夏のオリンピック金メダルを取っている。彼女1910年ドレスコードやエチケットについての本を著している。

その後フランスのSuzanne Lenglenがテニス界のフラッパー(新しい女)として知られるようになった。飲み物ブランデーと入れ替えたり、強めのメイクをしたりといたずらも好きだった。負けると感情的になったことでも知られる。彼女は白のみのファッションを許容していたウィンブルドンに立ったが、エキセントリックファッションセンスでも知られていた。ミンクオコジョコートをまとい、当時としては短いスカートプレイしたのである彼女が次の世代女性たちに道を切り開いた。

そして戦後1949年、Gertrude Moran(Gorgeous Gussie)がスキャンダル引き起こした。というのも、ウィンブルドン意匠は白一色だと規定されていたのだが、そのあまりにも「明らさまな」白い衣装に観客はショックを受けた。どういうことか。試合の前にMoranは公式開催主のTed Tinlingに衣装デザインしてくれと依頼していた。一見すると規定に従った衣装に見えるのだが、実際にプレイするとフリル付きの下着が丸見えになったのだ。

これに関し、All England Club’sの委員会は「ウィンブルドンに野卑と罪を持ち込んだ」と猛烈に批判し、国会でさえ適切な衣装についての議論が起こった。Tinlingは33年のキャリアにもかかわらずウィンブルドンホスト追放された。にもかかわらず、Moranは魅力的な姿から彼女は人気だった。彼女は後に「自分はただの女の子だったが、メディアが大げさに書き立てたのだ」という趣旨発言を残している。彼女60年代まで活躍した。

見せパンの定着以降

https://www.thecut.com/2018/08/womens-tennis-outfits-convtroversy-history.html

衣装に関する議論は定期的に起きている。全ての内容を翻訳していてはページが長くなるので、見せパン関係するいくつかのみをピックアップする。

1958年アメリカのKarol Fagerousは金のラメ入りの見せパン全仏オープン披露したが、すぐさまウィンブルドン大会への参加を禁止された。「対戦相手不快にさせる」のがその理由だ。しかし、金のラメを白いレースで覆うことで参加を許可されている。

あるいは2016年ナイキデザインしたベビードール風のテニスウエアがある。しかし、選手身体を隠すのに苦労したし、ひらひらして浮いてくる。実際写真検索するとしょっちゅうパンというか見せパンが丸見えになる。なので、ナイキはすぐにその衣装改善したそうだ。

https://www.slideshare.net/guimera/wimbledon-2014-fashion-through-history

見せパンについてはこちらも参照。たとえば6番目の写真のChris Evert、1976年ピンクの見せパンや、41番のTracy Austin、1981年黄色の見せパン確認できる。50番はTatiana Golovinは赤の見せパン(短パン)で、このときウィンブルドン衣装がすべて白という規定抵触するかどうかでもめたらしい。一応、下着の色は自由だということでおとがめなしだったそうだ。56によるとMaria SharapovaSerena Williamsの赤の短パンが、そして色付きのネイル問題になったらしい。

https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/bbc-bosses-blasted-focus-female-17086364

なお、大衆紙によると2016年BBCの偉い人がテニス選手の見せパンやお尻ばかり撮影したと批判されたようだ。以前にビーチバレー記事でも書いたが、カメラ性的にならないようにする工夫というのは必要である

じゃあパンツの歴史は?

記事が長くなるのでこちらの週刊誌記事を貼っておく。

https://www.news-postseven.com/archives/20190904_1444086.html?DETAIL

エラリー・クイーンを読んでいた時に、確か「Zの悲劇」だったと思うが(いや、「レーン最後事件」だったかな?)、ペインシェンスという娘が恋人スキャンティパンティー、ショーツの別名)を買いに行く場面があった。同時代小説での証言として興味深いのでメモしておく。

https://www.elle.com/jp/fashion/fashion-column/a35747586/history-of-pantslooks2021/

また、パンツでヒットしたのでここに記す。死文化していたが、フランスでは女性スカートでないパンスタイルをはくことが法で禁じられていたとのこと。女性の権利に関して非常に進歩的である地域に見えても、案外不平等システム残滓が残っていたりするのもので、ときおり愕然とさせられる。たとえばスイス女性参政権が得られたのは驚くなかれ1991年である女性への制限男性への制限、どっちでもない人への制限、みんなで少しずつなくしていきたい。

ところで……

よくドレスコードなんかでもめる話で、ハイヒールを必ずはくよう要請される場所というのがある。なんかの映画祭でも話題になっていたことを記憶している。伝統に敬意を払うのは大事だが、はいていないと入場できないのはやりすぎのように思う。ドレスコードってのはみんなが居心地悪くならないようにするためのもので、人を縛るものとはちょっと違う。

例えば、足を怪我していたらどうするのか。もっと極端な話、脚が生まれつきない人はどうするのだ。茶化しているのではない。様々な疾患や障害があろうが困らないようにするほうが、誰にとっても生きやす社会になるはずだ。

結論

余談1

「Tennis Girl」というスカートからお尻丸出しの歴史的に有名な写真がなんと英語版ウィキペディアには掲載されている。ウィキメディアコモンズにはときおりとんでもない画像があるから驚かされる。

余談2

自分投稿ブルマ増田としてまとめてくださる方がいる。あるいは、いつも応援コメントをつけてくださる方がいる。ありがたいことだ。けれども、どうやって拾い上げているのだろう。一日に何千件も投稿されるはてな匿名ダイアリーの中から見つけるというのは大変な作業だ。すべてが注目エントリに入るわけではない。いったいどうやっているのかちょっとうかがってみたい。ブルマーというキーワードで定期的に検索をかけているのだろうか? それともそういうスクリプトが組めるのだろうか?

次回は?

気になっているテーマ複数ある。

例えば女性ショーツ(そして見せパン)の形の変遷、チアの見せパン歴史。また、古代エジプトクレオパトラカエサルと会ったときにどういう服装をしていたのか(絵画のようにトップレスになることがあったのか)、それからトップレスが許容されていていた地域時代的変遷だ。これは身分にもよるだろうし、少し複雑になるだろう。あるいは、どうしてギリシアローマの流れを引き継いだ西洋絵画では、長らく女性器と陰毛があまり表現されていなかったのか。多くの古代文明では時に具象的に、時に抽象的に表現されているのに。謎は多い。

インターネットだけでの調査にはおのずと限界もあるだろう。仕事家事時間がとれるとも限らない。

相変わらず次回はいつになるかはわからない。またいつか会いましょう。

2022-03-16

ロシアウクライナ戦争のある得べき帰結中国選択:国務院胡偉

https://uscnpm.org/2022/03/12/hu-wei-russia-ukraine-war-china-choice

露・ウクライナ戦争は、第二次世界大戦後最も深刻な地政学紛争であり、9.11テロはるかに上回る世界的影響をもたらすであろう。この重大な局面で、中国戦争方向性と国際情勢への潜在的影響を正確に分析し、評価する必要がある。同時に、相対的に有利な外部環境を目指すために、中国は柔軟に対応し、長期的利益合致した戦略的選択を行う必要がある。

ロシアウクライナに対する「特別軍事作戦」は、中国国内で大きな物議を醸し、その支持者と反対者が激しく対立している。本稿はいかなる政党代表するものでもなく、中国の最高意思決定レベル判断と参考のために、起こりうる戦争の影響とそれに対応する対策選択肢について客観的分析を行ったものである

I.露・ウクライナ戦争の未来予測

1. ウラジーミル・プーチンは期待した目標を達成できない可能性があり、ロシアは窮地に立たされる。プーチン攻撃目的は、ウクライナを電撃的に破り、指導者を交代させ、親ロシア政権を育成することで、ウクライナ問題を完全に解決し、ロシア国内危機から目をそらすことであった。しかし、電撃戦は失敗し、ロシア戦争の長期化とそれに伴う高コストを支持することができなくなった。核戦争を起こせば、ロシアは全世界の反対側に置かれることになり、勝ち目はない。国内外の情勢もますます不利になっている。仮にロシア軍がウクライナ首都キエフ占領し、高いコストをかけて傀儡政権樹立したとしても、それは最終的な勝利意味しない。現時点でのプーチンの最良の選択肢は、和平交渉によって戦争をまともに終わらせることであり、そのためにはウクライナが大幅に譲歩することが必要であるしかし、戦場で得られないもの交渉の場で得ることも難しい。いずれにせよ、今回の軍事行動は取り返しのつかない過ちである

2. 紛争さらエスカレートする可能性があり、最終的に西側諸国戦争に巻き込まれ可能性も否定できない。戦争エスカレートするとコストがかかるが、プーチン性格権力からして簡単にはあきらめない可能性が高い。露・ウクライナ戦争は、ウクライナ範囲地域を超えてエスカレートし、核攻撃可能性さえ出てくるかもしれない。そうなれば、米国欧州無関係はいられなくなり、世界大戦や核戦争の引き金になる。その結果、人類破滅し、米露が対決することになる。この最終対決は、ロシア軍事力NATOのそれに及ばないことを考えると、プーチンにとってさらに不利なものとなるだろう。

3. 3.ロシア必死の賭けでウクライナ奪取に成功しても、政治的ホットポテトであることに変わりはない。その後、ロシアは重荷を背負い、圧倒されることになる。このような状況では、ヴォロディミル・ゼレンスキーが生きていようといまいと、ウクライナ亡命政府を立ち上げ、長期的にロシア対峙する可能性が高い。ロシア欧米制裁ウクライナ領内の反乱の両方にさらされることになる。戦線はかなり長く引かれることになるだろう。国内経済は維持できなくなり、やがて引きずり降ろされる。この期間は数年を超えないだろう。

4.ロシア政治状況は、欧米の手によって変化するか、あるいは崩壊する可能性がある。プーチンの電撃作戦が失敗し、ロシア勝利の望みは薄れ、欧米制裁はかつてないほどになった。人々の生活に深刻な影響を与え、反戦・反プーチン勢力が集まる中、ロシア政治的な反乱が起こる可能性は否定できない。ロシア経済崩壊寸前である以上、露・ウクライナ戦争の敗北がなくても、プーチンが危うい状況を支えることは困難であろう。仮にプーチンが内紛やクーデターなどで政権を追われるようなことがあれば、ロシアさら欧米対峙しにくくなる。欧米に屈し、あるいはさらバラバラになり、ロシア大国としての地位終焉を迎えるに違いない。

II.露・ウクライナ戦争が国際情勢に与える影響の分析

1.米国西側世界指導力を取り戻し、西側諸国はより結束を強めるだろう。現在世論ウクライナ戦争は米国覇権の完全崩壊意味すると考えているが、実際には米国から離脱を望んでいたフランスドイツNATO防衛枠組みに戻り、欧州自主外交自主防衛の実現という夢が壊れることになる。ドイツ軍事予算を大幅に増やし、スイススウェーデンなどは中立放棄する。Nord Stream 2が無期限停止となることで、欧州米国天然ガスへの依存度は必然的に高くなる。米国欧州未来を共有する緊密な共同体形成し、西側世界における米国リーダーシップ回復するだろう。

2.鉄のカーテン」は、バルト海から黒海までだけでなく、西側支配陣営競争相手の最終対決まで再び崩壊するだろう。西側は、民主主義国家権威主義国家の間に線を引き、ロシアとの対立民主主義独裁の間の闘争定義するようになる。新しい鉄のカーテンは、もはや社会主義資本主義の2つの陣営の間に引かれるものではなく、また冷戦の中にとどまるものでもない。それは、西側民主主義に賛成する者と反対する者との間の生死をかけた戦いとなる。鉄のカーテンの下での西側世界の結束は、他の国々にもサイフォン効果をもたらす。米国インド太平洋戦略は強化され、日本など他の国々は米国さらに密着し、前例のない広範な民主主義統一戦線形成する。

3.欧米の力は著しく増大し、NATOは拡大を続け、非欧米諸国における米国の影響力は増大する。露・ウクライナ戦争後、ロシアがどのように政治的変革を遂げようとも、世界の反西側勢力は大きく弱体化する。イデオロギー終焉」論が再燃し、第3の民主化の波が勢いを失い、第3世界の国々が欧米を受け入れるという、1991年ソ連東欧動乱後の光景が繰り返されるかもしれないのである西側は、軍事力においても、価値観制度においても、より多くの「ヘゲモニー」を持ち、そのハードパワーソフトパワーは新たな高みに達するだろう。

4. 既成の枠組みの中で、中国はより孤立化する。以上のような理由から中国積極的対応しなければ、米国欧米からさらなる封じ込めを受けることになる。プーチンが倒れれば、米国はもはや二つの戦略的競争相手に直面することなく、戦略的封じ込めで中国を閉じ込めるだけでよい。欧州さら中国から切り離され、日本反中国の先兵となり、韓国さら米国に屈し、台湾反中国の大合唱に加わり、その他の国々は群集心理のもとでどちらかを選ばなければならなくなるだろう。中国は、米国NATOQUAD、AUKUSに軍事的に包囲されるだけでなく、欧米価値観システムから挑戦を受けることになる。

III.中国戦略的選択

1.中国プーチンと結ばれるわけにはいかないので、一刻も早く切り離す必要がある。ロシア欧米対立が激化すれば、米国の関心を中国からそらすことができるという意味で、中国プーチンとともに喜び、支援さえすべきだが、それはロシアが没落しない場合に限られる。プーチンと同じ船に乗っていると、プーチン政権を失ったとき中国に影響を与える。プーチン中国後ろ盾を得て勝利を収めれば別だが、今のところその見込みは薄く、中国ロシア支援する力はない。国際政治法則に「永遠同盟国も永遠の敵もない」とあるが、「我々の利益永遠永久のものである」。現在の国際情勢では、中国自国の最善の利益を守り、2つの悪のうち小さい方を選び、一刻も早くロシアの重荷を降ろしていくことでしか進めないのだ。現時点では、中国がその余地を失うまで、まだ1〜2週間の猶予があると推定される。中国は断固として行動しなければならない。

2.中国は、二股をかけることを避け、中立あきらめ、世界の主流となる立場選択すべきです。現在中国国連安保理国連総会議決棄権するなど、国際的発言選択において、どちらの立場も損なわないようにし、中道を歩んでいる。しかし、この立場ロシアニーズ合致せず、ウクライナやその支持者、同調者を激怒させ、世界の多くの人々から中国を不利な立場に置いている。場合によっては、見かけ上の中立賢明選択となることもあるが、中国が何も得るものがない今回の戦争には当てはまらない。中国は常に国家主権と領土保全尊重を主張してきた。この立場は、台湾問題解決にも資するものである

3.中国は最大限の戦略的突破力を発揮し、これ以上西側から孤立しないようにすべきであるプーチンと縁を切り、中立放棄することは、中国国際的イメージを高め、米国西側諸国との関係を緩和することにつながる。困難であり、大きな知恵を必要とするが、将来的には最良の選択であるウクライナ戦争に端を発した欧州地政学的混乱が、米国欧州からインド太平洋地域への戦略シフトを大きく遅らせるという見方は、過度の楽観視で扱うことはできない。米国内にはすでに「欧州重要だが、中国の方が重要だ」という声があり、米国の最大の目標中国インド太平洋地域支配勢力となるのを封じ込めることである。このような状況下で、中国の最優先課題は、それに応じて適切な戦略調整を行い、中国に対するアメリカ敵対的な態度を変え、孤立から自らを救うことである。要は、米欧が中国に共同制裁を加えるのを阻止することである

4.中国は、世界大戦や核戦争の勃発を防ぎ、世界平和にかけがえのない貢献をすること。プーチンロシア戦略的抑止力特別戦闘態勢に入るよう明確に要請したように、露・ウクライナ戦争は制御不能に陥る可能性がある。正義大義は多くの支持を集め、不義の大義ほとんど支持を集めない。もしロシア世界大戦、あるいは核戦争を引き起こせば、世界は間違いなく混乱する。中国は、責任ある大国としての役割を示すために、プーチンの側に立ってはならないだけでなく、プーチン冒険を阻止するための具体的な行動をとるべきである中国世界で唯一この能力を持つ国であり、このユニークな利点を十分に生かさなければならない。プーチン中国支援から離れると、ほとんどの場合戦争が終わるか、少なくとも戦争エスカレートさせる勇気はなくなるだろう。その結果、中国世界平和を維持したこと国際的に広く賞賛されるに違いなく、中国孤立を防ぐだけでなく、米国欧米との関係改善するきっかけを見出すことができるかもしれない。

中国国務院参事公共政策研究センター理事長胡偉

2022-03-14

この度の戦争きっかけに、多くの人たちが「ロシアはこれこれのことをやっている。共産主義国家はこれだからだめなんだ」と主張している。

門田隆将氏とか。

1991年12月ソ連崩壊後のロシア連邦共産主義国家ではないのだが・・・

日本高等教育を受けている人が30年経ってもそう思っているということは、海外のひとたちが、いまだにいつ軍国主義にもどって攻めて来るかもしれないと日本を警戒しているのも、わからないでもない。

2022-03-08

anond:20220308150638

はい増田君に宿題です。

以下のリスト全てに、「先に仕掛けたほうが負けた」かどうか回答しなさい。

1904年1905年 - 日露戦争

1911年1912年 - 伊土戦争

1912年 - 第一バルカン戦争

1913年 - 第二次バルカン戦争

1914年1918年 - 第一次世界大戦

1917年1922年 - ロシア内戦

1917年1921年 - ウクライナソビエト戦争

1918年1919年 - ウクライナポーランド戦争

1918年1919年 - ハンガリールーマニア戦争

1919年1921年 - アイルランド独立戦争

1919年1921年 - ポーランドソビエト戦争

1919年 - 第三次アフガン戦争

1919年1922年 - 希土戦争

1921年 - コト戦争

1922年1923年 - アイルランド内戦

1926年1949年 - 国共内戦

1931年1933年 - 満州事変

1932年1938年 - チャコ戦争

1934年 - サウジイエメン戦争

1935年1936年 - 第二次エチオピア戦争

1936年1939年 - スペイン内戦

1937年1945年 - 日中戦争

1938年 - 張鼓峰事件

1939年 - ノモンハン事件

1939年1945年 - 第二次世界大戦

1939年1940年 - 冬戦争

1941年1944年 - 継続戦争

1941年1945年 - 独ソ戦

1941年1945年 - 太平洋戦争

1945年1949年 - インドネシア独立戦争

1945年1954年 - 第一次インドシナ戦争

1946年1949年 - ギリシャ内戦

1948年1971年 - 印パ戦争

1947年1949年 - 第一次印パ戦争

1965年1966年 - 第二次印パ戦争

1971年 - 第三次印パ戦争

1948年 - 第一次中東戦争

1956年 - 第二次中東戦争

1967年 - 第三次中東戦争

1973年 - 第四次中東戦争

1948年~(継続) - パレスチナ紛争

1948年~(継続) - ミャンマー紛争

1949年~(継続) - 東トルキスタン紛争

1950年1951年 - チベット紛争

1950年~(継続[1])- 朝鮮戦争

1954年1962年 - アルジェリア戦争

1955年1972年 - 第一スーダン内戦

1956年 - ハンガリー動乱

1959年 - チベット動乱

1959年1962年 - 中印国境紛争

1959年1975年 - ラオス内戦

1960年1965年 - コンゴ動乱

1960年1996年 - グアテマラ内戦

1960年1975年 - ベトナム戦争

1961年 - ピッグス湾事件

1961年 - ゴア併合

1961年1962年 - 西イリア紛争

1962年1969年 - 北イエメン内戦

1962年1963年 - ベネズエラの反乱

1963年1968年 - アルジェリアモロッコ国境紛争

1963年1964年 - キプロス内戦

1963年1966年 - インドネシアマレーシア紛争

1964年~(継続) - コロンビア紛争

1965年 - ドミニカ内戦

1965年1979年 - ローデシア紛争

1965年1984年 - チャド内戦

1967年1970年 - ビアフラ戦争

1968年 - プラハの春チェコ事件

1969年 - 中ソ国境紛争

1969年 - サッカー戦争

1969年1998年 - 北アイルランド紛争

1969年~(継続) - フィリピン紛争

1970年 - ヨルダン内戦

1971年1992年 - カンボジア内戦

1971年~(継続) - カシミール紛争

1973年 第四次中東戦争

1974年 - キプロス紛争

1975年1989年 - ナミビア独立戦争

1975年1990年 - レバノン内戦

1975年 - インドネシア東ティモール侵攻

1975年2002年 - アンゴラ内戦

1976年~(継続) - 西サハラ紛争

1977年1979年 - ウガンダタンザニア戦争

1978年1988年 - オガデン戦争

1979年 - 中越戦争

1979年1989年 - ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻

1979年1990年 - ニカラグア内戦

1980年1992年 - エルサルバドル内戦

1980年1988年 - イランイラク戦争

1980年~(継続) - ペルー紛争

1982年 - フォークランド紛争

1983年2004年 - 第二次スーダン内戦

1983年 - グレナダ侵攻

1983年2009年 - スリランカ内戦

1979年1990年 - 中越国境紛争

1986年1987年 - トヨタ戦争

1987年~(継続) - ブルンジ内戦

1988年1994年 - ナゴルノ・カラバフ戦争

1989年2001年 - アフガニスタン内戦

1989年1992年 - 第一南オセチア紛争

1989年 - パナマ侵攻

1989年1990年 - エチオピア内戦

1989年1996年 - リベリア内戦

1990年1994年 - ルワンダ紛争

1990年1991年 - 湾岸戦争

1991年2001年 - シエラレオネ紛争

1991年2000年 - ユーゴスラビア紛争

1991年 - 十日間戦争

1991年1995年 - クロアチア戦

1992年1995年 - ボスニア紛争

1999年2000年 - コソボ紛争

2001年 - マケドニア紛争

1991年2001年 - ジブチ内戦

1991年2002年 - アルジェリア内戦

1991年~(継続) - ソマリア内戦

1991年~(継続) - カザマン紛争

1992年 - オセチアイングーシ紛争

1992年1994年 - アブハジア紛争

1994年 - イエメン内戦

1994年1996年 - 第一次チェチェン紛争

1995年1998年 - ハニーシュ群島紛争

1996年1998年 - 第一コンゴ戦争

1998年2000年 - エチオピア・エリトリア国境紛争

1998年2002年 - 第二次コンゴ戦争

1998年2001年 - ポソ宗教戦争

1999年2009年 - 第二次チェチェン紛争

1999年 - 東ティモール紛争

1999年 - カルギル紛争

2000年~(継続) - インドネシア紛争

2001年~(継続) - パキスタン紛争

2002年2003年 - コートジボワール内戦

2003年 - リベリア内戦

2003年2011年 - イラク戦争・Category:イラク戦争

2003年~(継続) - ダルフール紛争

2004年~(継続) - サリン紛争

2004年~(継続) - タイ紛争

2004年~(継続) - ワジリスタン紛争

2006年 - 東ティモール内乱

2006年 - イスラエルガザ侵攻・レバノン侵攻

2006年 - エチオピアソマリア侵攻

2006年2009年 - スリランカ内戦

2008年 - 第二次南オセチア紛争グルジア紛争

2008年2009年 - イスラエルガザ紛争

2011年 - シナ紛争

2011年 - リビア内戦

2011年~(継続) - シリア内戦

2012年~(継続) - マリ北部紛争

2013年 - スールー王国軍によるラハダトゥ侵攻

2014年 - ISISによるイラク内戦

2014年 - イスラエルガザ侵攻

2014年〜(継続) - クリミア危機ウクライナ東部紛争

2014年2020年 -2014年リビア内戦

2015年〜(継続) - 2015年イエメン内戦

2017年 - マラウィの戦い

2020年 - 2020年ナゴルノ・カラバフ紛争

2021年 - パンシール紛争

2022年 - 2022年ロシアウクライナ侵攻

2022-03-02

anond:20220302172457

1918年ロシア共産党の一派として創立。その後、ソビエト連邦共産党の一部となる。ソ連時代中、ウクライナ共和国政権を独占していた。

1990年ウクライナ最高議会選挙第一党となるも、1991年ウクライナ独立を勝ち取ると非合法化された。

プーチン傀儡排除されたということだから、例えば日本共産党議会から排除されるようなことを想像すると違うだろうなと思う。

2022-02-28

ウクライナ侵攻のまとめ

 

ちなみに、他国の意のままに操られている政権のことを、傀儡政権からかいせいけん)と言うらしい。

TBSエストニアポリコレと俺

TBS

TBS燃えている。4日前の2月24日駐日エストニア大使館TBS NEWSツイートに「TBSさん,またですか..いいかげんエストニアラトビアリトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国ソビエト継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです」とリプライたからだ。

https://twitter.com/estembassyjp/status/1496798387856834561

エストニアと言えば把瑠都仮想通貨しか知らない俺も、うっかりエストニアを「旧ソ連」と呼んで国際問題召喚しかねない。保身のために「エストニア旧ソ連じゃない問題」について検索してみた。

エストニア

「まとも検索」で「エストニア 旧ソ連」を検索すると、政府国立機関のページが見つかる。バルト三国は「旧ソ連」と呼ばれているのか?

外務省 わかる!国際情勢(2011年) 「現在エストニアは,バルト三国もっと経済状況が良好で, 2011年1月旧ソ連の国として初めてユーロを導入しました。」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html

国立国会図書館 リサーチナビ(2022年2月更新)「旧ソビエト連邦構成国(ロシアエストニアラトビアリトアニア以下略)の鉄道地図掲載されています

https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-371.php

日本政府公認旧ソ連である専門家が書いた本なら如何と志摩園子氏の「物語バルト三国歴史」(2004年)を手に取れば、「旧ソ連邦に属していた三国は、新たな国家建設に当たって(以下略)」と開幕即旧ソ連判定である

では逆に何故、「旧ソ連」と呼ぶのが「不正確」なのか?この本に沿って俺なりにまとめると、今のエストニアにあたる地域は、18世紀くらいかロシア帝国に支配されていたのだが、ロシア革命後の1918年独立宣言した(※国際的承認は1920~21年)。しか1939年ナチスソ連秘密協定勝手ソ連勢力圏と決められてしまい、1940年6月にはソ連軍に占領された。そして逆らう奴らは逮捕追放され、占領下で選挙実施して人民議会を開き、この議会ソ連編入を決めた、ということらしい。要はエストニアソ連軍に占領されながら「ソ連に加盟します」と言わされたわけで、ぐうの音も出ない茶番であるリトアニアラトビアも同様の茶番ソ連に「編入」している。

エストニアに言わせれば、こんなふざけた経緯の「ソ連編入」が無効違法なのは明々白々、俺たちバルト三国は半世紀間「占領」されていただけなので旧ソ連呼びは「歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国ソビエト継承国家ではないです。」ってツイートにつながるんだろう。

けど実際1991年までは政治行政経済ソ連の一部として回ってたんで、日本外務省専門家が「旧ソ連」と呼ぶのも当然と言えば当然。無茶苦茶なやり口で併合されたとはいえ、実際ソ連だったんだもん。

ポリコレ

なぜ駐日エストニア大使館は「行き過ぎ」とまで思えるほどブチギレたのか?「アジア経済研究所」というJETRO付属研究所が出している雑誌アジア経済」に、ロシア政治研究者バルト諸国政治研究者中央アジア政治研究者座談会2021年7月30日収録)が載っている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/62/4/62_79/_html/-char/ja

バルト諸国政治研究者中井遼氏が「旧ソ連問題を語っている:

中井「それと,最近やりにくいなと思うことがあって,「旧ソ連」というとすごく怒る方がいるんです。日本だと目立たちませんが,英語圏だと議員外務省メディアが一緒にキャンペーンをはって,former Soviet Union とか ex-Soviet states といった呼称を使った記事表現に対してものすごい勢いで抗議運動をやるんです。まだアカデミックなところではそこまで来ていませんけど,私ですら多少の圧力は感じますし,現地の研究者と話していると大変そうだなと思います。」

岡(※中央アジア政治研究者)「なるほど,これは地域名称の難しさですね。」

中井バルト 3 国のなかで,とくにエストニアラトビアは,そもそも国家理念としてソ連だったことはないという建前なんですよ。」

要はエストニア大使館の怒りのツイートは、エストニア外務省の「キャンペーン」の日本編なのであるこれはまさに政治的に正しいか否かという問題——いわゆる「ポリコレ」なのでは?と雑に納得すると専門家に叱られるだろうか。「歴史戦」チックな問題なのかもしれない。

どっちにしても、駐日エストニア大使館の言い分はあまりにも強気だ。「エストニアソ連だったことはない」という歴史認識は別に世界アカデミック常識って訳でもなさそうなのに、「旧ソ連」呼びを「不快からヤメテ」ではなく「歴史的にも法律的にも不正確」とまで断じているんだからグルジアジョージアになったのとは根本的に質が違う要求だし、「呼ばれたくない呼び方はやめようね!」程度の問題だと考えてるなら、エストニア歴史認識を実のところ解っていないままってことになる。

俺としては、日本外務省日本バルト三国専門家バルト三国を「旧ソ連」と呼んでいるわけで、TBSがここまで炎上したのは可哀想な気がする。エストニア政府歴史認識を尊重すれば「旧ソ連」と呼ばないのが親切かつポリティカリーにコレクトだけど、無茶苦茶併合とはいえバルト三国旧ソ連の一部だったことは確かだし、オウムの件のように明らかにTBSが悪い事件まで持ち出してぶっ叩くほどのことかというと疑問。けど炎上のおかげで俺のような無関心人(むかんしんちゅ)までバルト三国歴史にちょっぴり詳しくなったんだし、エストニア外務省の「旧ソ連と呼ぶな」キャンペーンは今のところ成功していそうだ。

それにエストニアキャンペーンを抜きにしても、「旧ソ連」という枕詞はそろそろお役御免かも。TBSは「バルト三国」の知名度が低いと感じて「旧ソ連」を加えたんだろうが、専門家をもってして今や「普通民主主義経済的に安定した国」(座談会中井氏)と言わしめる国々をいつまでも旧ソ連」と呼び続けるのは、間違いじゃなくとも何か変な感じだ。

...ここまで書いてから気付いたんだが、「エストニア政治歴史認識」(著者小森宏美氏)というどうやらそのものズバリの専門書が発売されているらしい。

http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/240.htm

結論、皆は把瑠都仮想通貨しか知らない増田怪文書なんかより信頼のおける専門家先生方の本を読もう!!!

2022-02-27

NATOからロシア

https://www.nato.int/cps/en/natohq/115204.htm

ロシアからNATO印象操作が垂れ流されているので、NATOの言い分「Top Five Russian Myths Debunked(ロシア神話トップ5を覆す)」を確認した。

以下DeepLの翻訳

神話1:NATO冷戦後ロシアに拡大しないことを約束した

事実: そのような合意はなされていない。NATO1949年の創設以来、新規加盟国に対して門戸を開いており、それは今も変わっていない。この「門戸開放政策」は、NATOの創設条約10条に明記されており、「この条約原則を推進し、北大西洋安全保障に貢献する立場にある他のいかなる欧州国家も」加盟を申請できるとされている。加盟に関する決定は、すべての同盟国の合意によって行われる。米国欧州ロシア署名した条約NATO加盟に関する条項が含まれているものはない。

特にワルシャワ条約がまだ存在していた1989年には、統一ドイツを越えてNATOが拡大するという考えはなかった。このことは、2014年インタビューミハイル・ゴルバチョフ確認している。"NATOの拡大 "という話題はまったく議論されなかったし、あの時代には持ち出されなかった。私は全責任を持ってこれを言う。1991年ワルシャワ条約消滅した後も、東欧諸国は一国もこの問題を提起していない。西側指導者もそれを持ち出さなかった。"

ホワイトハウス機密文書によると、1997年ビル・クリントンは、旧ソビエト共和国NATOに加盟しないという「紳士協定」のボリス・エリツィンの申し出を一貫して拒否していたことも明らかになっている。「私はNATOに代わって約束することはできないし、私自身がどの国に対してもNATO拡張拒否権を発動する立場になるつもりはない、ましてあなたや他の誰かにそれをさせることはない・・NATO合意に基づいて動いているのだ」。

神話2:NATO攻撃的であり、ロシアにとって脅威である

事実NATO防衛同盟であり、その目的加盟国を守ることであるNATO公式方針は、"同盟対立を求めず、ロシアに脅威を与えない "というものだ。NATOグルジアに侵攻しなかったし、NATOウクライナに侵攻しなかった。ロシアがやったのだ。

NATO過去30年間、一貫して公然ロシア接触してきた。麻薬対策テロ対策から潜水艦救難や民間緊急事態計画まで、NATOの拡大期であっても、さまざまな問題で協力し合ってきた。しかし、2014年ロシアウクライナに対する攻撃的な行動を受け、NATOロシアとの実務的な協力を停止しました。我々は対立求めないが、ロシア国際ルールを破り、我々の安定と安全を損なっていることを無視することはできない。

ロシアウクライナに対して軍事力行使したことを受け、NATO2016年バルト三国ポーランドに4つの多国籍戦闘団を配備した。これらの部隊は、この地域に恒久的に拠点を置くものではなく、同盟国の国際公約に沿ったものであり、約5,000人の兵力となる。ロシア100万人規模の軍隊に脅威を与えるものではない。ロシアによるクリミア不法併合以前は、同盟東部には連合国軍存在しなかった。

NATOロシアとの有意義対話に依然として前向きであるNATOイェンス・ストルテンベルグ事務総長が、NATOロシア理事会の全メンバーを、ウクライナ周辺情勢、NATOロシア関係、軍備管理・不拡散を含む欧州安全保障について話し合う一連の会議に招待したのはこのためである

神話3:ウクライナNATOに加盟できない

事実NATO加盟国ウクライナNATO加盟希望を歓迎し、2008年ブカレスト首脳会議でのウクライナの加盟という決定を支持している。

NATO加盟に関する決定は、個々の加盟申請者と30カ国のNATO加盟国次第である。他の誰でもない。ロシアはこのプロセスに介入する権利を持たず、拒否権を行使することもできない。

すべての国と同様に、ウクライナにも自国安全保障体制を選択する主権的権利がある。これは欧州安全保障の基本原則であり、ロシアヘルシンキ最終法(1975年)、パリ憲章(1990年)、NATOロシア建国法(1997年)、欧州安全保障憲章(1999年)などを通じて署名してきたものである

神話4:NATOロシアを包囲し封じ込めようとしている

事実: NATO防衛同盟であり、その目的加盟国を守ることです。我々の演習や軍事配備は、ロシア、あるいは他の国に向けられているわけではない。

この神話は、地理的なことも無視している。ロシア陸上国境のうち、NATO諸国と接しているのはわずか6%であるロシアは14カ国と陸上国境を接している。そのうち5カ国だけがNATO加盟国である

NATO領域外では、同盟コソボイラクにの軍事的プレゼンスを有している。平和維持活動(KFOR)は、国連安全保障理事会委任を受けて実施されている。

イラクにおけるNATOの非戦闘任務テロとの戦いに貢献し、イラク主権を完全に尊重した上で、イラク政府要請により実施されています。これに対し、ロシアグルジアモルドバウクライナの3カ国に政府同意なしに軍事基地と兵士駐留させている。また、ロシアウクライナ国境10万人以上の軍隊を集結させ、ウクライナに侵攻すると脅している。

神話5:NATO旧ユーゴスラビアコソボリビアへの介入は、同盟防衛的でないことを証明している

事実旧ユーゴスラビアは、NATOのせいで崩壊したのではない。同盟は、旧ユーゴスラビア国境を変更するために軍事力行使しなかった。1992年から1995年にかけて、NATOボスニアで飛行禁止区域強制国連平和維持軍への航空支援など、いくつかの軍事作戦実施した。これらの活動は、ロシアメンバーである国連安全保障理事会によって委任されたものである1995年ボスニアセルビア軍への空爆は、10万人以上の犠牲者を出したボスニア戦争終結させるデイトン和平合意への道筋をつけるのに貢献した。1996年以降、NATOロシア軍を含む多国籍平和維持軍ボスニアで指揮した。2004年欧州連合(EU)がその任務を引き継いだ。

2011年NATOが主導したリビアでの作戦は、1970年1973年の2つの国連安全保障理事会決議(UNSCR)に基づくもので、いずれもロシアは反対していない。UNSCR1973は、国際社会が「攻撃の脅威にさらされている民間人および民間人の居住地域を保護する」ために「あらゆる必要措置をとる」ことを認めている。これは、地域国家アラブ連盟加盟国政治的軍事支援を得て、NATOが行ったこである

1999年NATOコソボ作戦は、国連ロシアメンバーであるコンタクトグループ紛争終結のために1年以上にわたって行ってきた激しい外交努力の末に行われた。国連安全保障理事会は、コソボでの民族浄化と増え続ける難民国際平和安全への脅威と繰り返し烙印を押したのであるNATOミッションは、大規模かつ持続的な人権侵害民間人の殺害を終わらせることに貢献した。NATOコソボにおける継続的平和維持活動であるKFORは、国連安保理の委任状(UNSCR 1244)を受けており、ベオグラードプリシュティナ双方から支持されています

2022-02-25

150万枚のヒットだから知名度からもこっちが本家anond:20220221155600

Get Along Together」(ゲット・アロング・トゥゲザー)は山根康広の1枚目・2枚目のシングル発売元日本クラウン1991年冬、山根結婚する友人のため、1週間で書き上げた。

150万人は知っているからこっちが本家anond:20220225063334

Get Along Together」(ゲット・アロング・トゥゲザー)は山根康広の1枚目・2枚目のシングル発売元日本クラウン

1991年冬、山根結婚する友人のため、1週間で書き上げた。詞と曲が完成したのは結婚式の前夜であった[1]。

1993年1月21日デビューシングルとしてリリースオリコン最高12位。同年9月6日リメイクGet Along Together -愛を贈りたいから-」(ゲット・アロング・トゥゲザー-あいをおくりたいから-)を、2枚目のシングルとしてリリース。ロングヒット。

オリコン最高5位。有線放送から火がつき、同年10月6日付の有線チャートでは1位を記録[2]。第26回日本有線大賞最優秀新人賞、第35回日本レコード大賞最優秀新人賞受賞。本作で翌1994年の第45回NHK紅白歌合戦に出場。1994年夏までに150万枚を売上[3]。1990年代前半にヒットしたバラード曲を集めたコンピレーション・アルバムR35 Sweet J-Ballads』にも収録。

2010年7月29日にザ・プリンス パークタワー東京での市川海老蔵小林麻央結婚披露宴に招聘され披露[4]。

2022-02-22

1分でわかるウクライナ歴史

16世紀ポーランドなんや荒野に『コサック』っていう連中が住み着いてオスマン帝国を襲撃して略奪しとるわ…怖…」

ポーランド自治を認めたるからワイらのためにオスマン帝国と戦ってくれや」

コサック「やったりますわ」

1648年:フメリニツキーポーランド貴族どもが横暴やからコサックのみんなを集めて独立するで!」

→「ヘーチマン国家誕生現在ウクライナ中部あたり)

1654年:フメリニツキー同盟しとったクリミア国に裏切られたから、ポーランドに対抗するにはロシア保護下に入るしか無いわ…」

ロシア共通先祖から分かれた兄弟がまた元通りひとつになれたんやね(にっこり)」

ロシアウクライナ共通の源流にキエフ大公国があり、ロシア的には「生き別れの弟が兄を慕ってやってきた」みたいに受け取ったらしい

1656年:フメリニツキースウェーデンに対抗するためにポーランドロシア同盟結んだんやて! ほならスウェーデン同盟してまた独立や!」

1657年:フメリニツキー「と思ったけどワイはこれまでや…ほな…」→死去

1667年:ヘーチマン国家「フメリニツキーが死んだら内戦続き、結局はポーランドロシアに分割されてしまったやないけ…こらあかんわ…」

→以降、ポーランド側は「右岸ウクライナ」、ロシア側は「左岸ウクライナ」として統治され、徐々に自治権を奪われて滅亡。

1783年ロシア帝国「ワイら上り調子で『ロシア帝国』名乗らせてもらってます。そんでオスマン帝国に勝ってクリミア半島も併合したったで!」

オスマン帝国支配下にあったクリミア・ハン国がロシア帝国に併合される

1793年ロシア帝国「かつての強国・ポーランドも虫の息や。戦争に勝って右岸ウクライナをもろたで!」

1853年ロシア帝国「オスマン帝国戦争してたら何故かイギリスフランスとも戦うはめになってしまったで!」

クリミア戦争開始

ロシア帝国「クリミア戦争ほとんど負けやった…ワイらは遅れとるわ…」

19世紀ウクライナ「周りの国は民族主義とか国民国家とか盛り上がっとるみたいやで…ワイらもそろそろ『コサック国家』の復活を目指すべきちゃうか?」

1917年ロシア帝国「第一次大戦では敗色濃厚…何もかもうまくいかんまま共産主義者どもにやられてもうたわ…ほな…」

二月革命十月革命帝政ロシア終了→ソビエトロシア樹立

1918年ウクライナ「うおおおお!!! これを機にワイらは独立するで!!!

ソビエトロシア「許しまへんでー」

ソビエトロシア勝利ウクライナ傀儡国家

1922年ソビエトロシアソビエト連邦っちゅうのをつくるんでウクライナくんも参加してくれや」

1932年ウクライナ「作った小麦がぜんぶロシアに奪われて飢饉ヤバいねんけんど…」

→「ホロドモール」と呼ばれる飢饉で数百万人が死亡

1941年ウクライナ「ワイらの国が戦場になって国民が死にまくっとんのやけど…」

独ソ戦で1000万人前後が死亡

1986年ウクライナ「ワイらの国に建設された原子力発電所が爆発したんやけど…」

チェルノブイリ原子力発電所事故

1991年ウクライナソ連崩壊した! ついにワイらが独立するときが来たんや!」

ウクライナ独立

2004年ウクライナ独立したとはいえ未だロシアの影響は大きい…EUに加入すべきやないか?」

ウクライナ大統領「でもワイは親ロシア派やねん!」

ウクライナ不正選挙やろ!」

親ロシア派当選した大統領選への抗議運動が盛り上がり再選挙で親EU派が当選オレンジ革命

2010年ウクライナ「あれからEU派は内部抗争でグダグダしとるで…今回の大統領選はどうなるんや…」

大統領選で親ロシア派当選

2014年ウクライナ大統領マジで経済ヤバいんや! EUよりも今はロシアから融資をもらっとこうや!」

ウクライナ「は? なんでEUとの協定拒否すんねん!」

→大規模な反政府デモが勃発して大統領が逃げ出す

ロシア親ロシア派が多いクリミア半島は『もうロシアに入りたい』言うてまっせ」

ロシアクリミア派兵

クリミア「ワイらはウクライナから独立してロシアのお世話になりますわ」

2022年ウクライナ「ずっと小競り合いが続いてるしヤバいやろ…NATOに入らせてくれや…」

ロシア「許しまへんでー」 ←いまここ

2022-02-12

ウクライナ危機の原因、よくわからんかったけどこの記事見たらわかり

やすかったよ~

https://toyokeizai.net/articles/-/507676

ロシアウクライナに執着する理由は大きく2つあると考えられる。1つは国家安全保障に関するもので、もう1つはロシアウクライナ歴史的文化的親近性に関係するものだ。

国家安全保障に関してロシアは、よく報じられているとおり、ウクライナNATO加盟阻止が主たる目的である隣国ウクライナロシアの抑止を目的とするNATOに加盟することで、ロシア安全保障が脅かされるのを防ぎたいということであり、シンプルでわかりやす論理である安全保障観点から見れば、ロシアウクライナにおける影響力を確保し、自らの勢力圏にとどめようとしていると見える。

しかし、ウクライナNATOに加盟しようがしまいが、この期に及んでロシア勢力圏にとどまるとは考え難い。さらに、ウクライナ集団防衛の国際組織であるNATOに加盟することがロシアにとってどの程度の脅威になるかといえば、ロシア侵略意図を見せない限り、NATOロシア攻撃することはありえない。

実際、ロシアNATO加盟国であるフランスドイツとは良好な関係を築いており、特にドイツとの間では、アメリカヨーロッパ諸国懸念に抗してガスパイプライン「ノルドストリーム2」を開通させようとしているほどである。また、ヨーロッパ以外の唯一のNATO加盟国であるトルコとの関係も良好であり、トルコにとってのロシアアメリカと並んで主要な武器の購入国である

また、軍事力の大きさで比較しても、ウクライナロシアにとって大きな脅威になるとは考えられない。ウクライナ兵員約25万、戦車2500台、装甲車両1万1435台、自走砲785基であるのに対し、ロシア兵員約100万、戦車1万3000台、装甲車両2万7100台、自走砲6540基とされる。

NATOが喉元まで迫ってくる?

それでもロシアウクライナNATO加盟を恐れる安全保障上の背景には、ウクライナロシアNATOポーランドルーマニア)との間に位置しているという事情がある。

ウクライナが加盟すれば、NATOロシアの喉元までやってくることになる。ただし、2004年NATOに加盟したバルトエストニアラトビアもまた、ロシア国境を接しているのであるバルト諸国ロシアにとっての安全保障上の脅威となっているだろうか。必ずしもそうとは言えないだろう。

では、ロシアウクライナ特別視するもっと重要理由は何か。それはウクライナとの歴史的文化的親近性とそれに伴う近親憎悪にあると考えられる。

近代国家としてのウクライナ国家1991年ソ連崩壊後、初めて国家として成立した非常に若いであるが、歴史的に見れば、ロシアを含む東スラブ民族発祥の地である。つまりロシア人はウクライナ自分たちの一部と感じている。

一方のウクライナ人はロシアではなくウクライナとしてのアイデンティティを持っており、この双方の認識の違いが問題なのであるロシアによるウクライナへの執着は大きく、ウクライナロシアへの思いはほとんどないというわけである。この関係一方的片思いに例えてもあながち間違いではないだろう。

2022-02-11

サイゼリヤのはなしじゃなくてサイデリアの話しろよ。ウマ娘もつながりがあるぞ

https://anond.hatelabo.jp/20220210120348

外壁材『さいでりあ』や屋根材『やねでりあ』を全国発売していたことで知られる。

1991年から放送された、作曲家タレント俳優小林亜星を起用した「パッ!とさいでりあ」のCMが人気を集め

CMソングはシングルCDとしても発売された。このCMには、その他に俳優古谷一行も出演していた。

社長(当時)安田修が一代で全国63店舗・2000名の社員を有する会社となり、最盛期1995年には500億円以上の年商を誇り、業界大手とし業績を伸ばす。

社員ノルマは大変厳しく、その強引な訪問販売問題となった。

1995年秋には、さいでりあ商法週刊誌悪徳商法に取り上げられ社会問題となった。

1996年テレビ宣伝自粛を求められると、

業界内での競争の激化も相まって急速に売上が激減すると共に、銀行新規融資を止めるに至り、2003年には倒産に至った。

しかし、軽くて丈夫な外壁材として、金属サイディングや金属屋根材をメジャーにした功績は大きく、同業他社や各メーカーも認めるところであった。

一方でシンコーファーム経営軌道に乗っており、2001年には代表生産レディパステル優駿牝馬に優勝し、

2002年に新興産業から独立して株式会社化生産専門のマーケットブリーダーとして、その後もシンコウウインディフミノイマージンなどの活躍馬を送り出している。

シンコウウインディちゃん

2022-02-04

anond:20220204132155

ブラック・オア・ホワイト」(Black or White)は、1991年10月リリースされたマイケル・ジャクソンシングル

https://www.youtube.com/watch?v=FYIWoSLWzZI

ただ、後半の通称パンサーパート」と呼ばれるシーンに、マイケルストリートで車を壊したり、ガラスを叩き割ったりする描写があるため、暴力的だとして論争となった。

共演:マコーレ・カルキ

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