はてなキーワード: 創始者とは
イエス(Jesus)が死に至る瞬間に彼の魂からオーブ(Orb)が現れて世界を覆う光の源となった。ヤハウェのダーク・アジャー(Dark Assure)が世界を覆っていた時のことであるからその衝撃はある意味で凄まじいものとなる。神の子が屠られるという理不尽な仕打ちを受け入れたためにそれは仕事として存在し、唯一の永遠の命を可能にする所業としての価値を持っていた。
クロス・オーブ・アドベント(cross orb advent)の時にはオーブとアジャーの組み合わせによってスキーム(scheme)が生じて、それがキリスト教として世界を渡るようになった。すなわち復活を待たずして復活というのは避けられない真実としてその時を待っていた。キリスト教はイエスの十字架の上の業がクロス・オーブ・アドベントとして結実した時に成立したと言っても過言ではない。
元々の考え方では復活を告げる天使とそれを聞いたマリア達の福音によって成り立っているとも言えるのであるが、復活は確固たる事実として預言されていた。そのために彼らは事実確認をするという意味で必要であったが彼らの存在がなければ復活は証言し得ないわけではないのである。そもそもオーブとは仕事ごとに与えられる珠玉のようなものを象徴していて、あらゆるスキームに働きがける力を持っている。
イエスのオーブは唯一の永遠の命を与えるオーブであって、彼の左手の上に乗っているイメージである。これはキリスト教というスキームにおいてオーブに似たオーボイドを発生させうる。というのも彼の追従者はイエスに倣うことによって永遠の命に到達する。その時の状況は最も厳しい時においてはダーク・アジャーに似ているであろう。ダーク・アジャーは理不尽な場面における神意の漂いのようなもので永遠の命の出現を待ち受けているようである。殉教という瞬間にこそイエスへの真の追従が実現するのであって、その時にはクロス・オーブ・アドベントの時のように永遠の命が下される。
オーブとアジャーの組み合わせは実に重要であって、この世にあって仕事というのは同じ働きがけであっても場面ごとに意味を変えるのであるからオーブの現れとその時のアジャーの漂いはそれぞれが異なるスキームを生じさせる。ここにいうスキームとはそれこそ「キリスト教」などのように人間の集まりを含む時空のような意味合いを持っている。むしろキリスト教をスキームと呼ぶことによってスキームを理解してほしい。
例えば刀鍛冶のオーブとは刀を作り出すことであり、その際に漂っているアジャーとはその完成を待つ人々を含んだ雰囲気のようなものであり、オーブとアジャーの組み合わせによって生じるスキームというのはその刀を用いる人々を含んだ時空を表現している。すなわち刀鍛冶のオーブが出現した瞬間にそれを求める人々のアジャーにオーブの光が行き渡りスキームとして使用者の小宇宙が広がるのである。
クロス・オーブ・アドベントに関連する半ば英語の歌がここにあって、それはOrb Word God, God Get Odd, Old Knew Own, All Aim Awe, And Hold Gold, Ghost Wrest Heaven, Heard Cherub Laughというものである。その直接の意味はとりあえず置いたとしてクロス・オーブとは神を語る主体であり、 神を奇妙に変質させるようなものであるが古い存在は自分のものを知っていて、全ての目的は人々の畏怖と彼らが黄金を有することであり、霊は天国を勝ち取りケルブが笑うのを聞くというようなものである。この歌の啓示があったのが2022年の7月から8月にかけてであった。
クロス・オーブの重要な点はキリスト教においてイエスの死の理由を贖いのためというものからひたすら栄光のために変えるのである。イエスが屠られたために引き換えに我々は生きるというのでは論理が飛躍しているが、クロス・オーブ・アドベントによって光が生じ永遠かつ無限の命の価値のある神の霊が降ったことによって、それを継承し支配するイエスが決定したものに神の霊が分配されるといえば筋が通っているように思える。またクロス・オーブ・アドベントの時にクリスチャニティ・スキームの生成があってキリスト教の創始者を完全にイエスによるとの主張が成り立つ。
福音とはある意味でクロス・オーブの出現の音でありそれを直接耳にしたものはなかった。クロス・オーブのオーボイドとは福音のようなものであって、福音を聞いた人々の状況に相当している。それはある種二種類の炎であってイエスに纏わる灯火かあるいは地獄の炎であり、どちらも神への捧げ物としての価値を有している。
「最後にして最初の人類」は現代の人類から数えて第18番目の人類の進化を描写する奇書で、巨大な脳みそだけの存在になったり、知性を退化させてトドかアザラシみたいになってしまったりと、何億年にも及ぶ人類の歴史が豊かな空想力で描かれる。プロットとキャラクターは極めて希薄で、現代の作家がこんな作品を書いて売れることは考えにくいのだけれど(ほぼ設定資料に近いかも)、個人的にはお気に入りと言うか性癖に近い魅力を感じる。
「スターメイカー」はそれをさらに発展させたもので、時間と空間を越えて精神が銀河を飛び回り、エキセントリックなエイリアンの生態の設定を惜しげもなく披露しつつ、それが銀河の歴史にどのような影響を与えたかを語る。そして、この宇宙を創造した存在の意図を探求する旅をする。光速の限界があるため、その旅やエイリアン同士の交流はテレパシーで行われるという設定はSFとしては苦しいが、宇宙創造の目的たる究極の歓喜の瞬間を目指すヴィジョンは美しい。残念ながら、その瞬間までには人類はとっくに滅亡していることが示唆されるんだけどね。冷えて寿命を迎えつつある宇宙で必死に命をつなごうとする生命の描写は壮絶。
「アッチェレランド」は指数関数的に発展するAIを10年ごとに描いた小説で、タイトル通り加速のスピードがとんでもない。最初の21世紀は現実世界と地続きなんだけど、21世紀半ばには進歩しすぎたAIが地球を解体してダイソン球を作り始め、その過程で地球のすべての化石だとか地質だとかをアーカイブ化しはじめる。人類は暴走するAIを止められなくて太陽系の辺境に追いやられていく。その途中でエイリアンともコンタクトを取る。
これはとある一族の三代にわたる因縁話でもある。最初の世代では夫がAI・特異点信奉主義者でコピーレフト大賛成、妻がガチガチの保守主義で著作権とかに厳しく、しかもSMプレイの女王様だ。2代目は妻が夫を無理やり犯すことで妊娠した子どもだという、ドロドロの設定。
「皆勤の徒」は遠い未来の地球で、地球外生命体に奴隷として使役されるコピー人間の苦悩を描いている。この短篇集は優れた言語感覚、日本語の漢字表記とルビの可能性を拡張した造語であふれており(というか酉島伝法の作品はだいたいそう)、異文化に触れたときの驚きや、似ているけれども少し違う文化に対する戸惑いが感じられる。ただし、かなり読解に力を要するので、場合によってはネタバレ覚悟で世界観を通常のSFの用語で説明した巻末の大森望の解説を先に読んでもいいのかもしれない。
「宿借りの星」はとある惑星で地球人類との宇宙戦争に勝利した昆虫型生命の弥次喜多道中記で、舞台や固有名詞こそ異質だがストーリーそのものは非常に読みやすくなっている。まったく異質なものを作り出すことにかけてはこの作家は他の追随を許していない。そして、滅ぼしたはずの人類がどこかに生き残っているのでは? という疑惑から物語は不穏になっていく。
天文部だった主人公が宇宙に出ていくという意味でもすごく夢がある。
まずは前述したH・G・ウエルズの「タイム・マシン」の遺族公認続編「タイム・シップ」が面白い。前作で行方不明になってしまったヒロインを救うために、再び未来に旅立ったはずが、なぜか前回とは似ても似つかない未来にたどり着いてしまう。
時間旅行のたびに歴史改編がなされ、パラレルワールドが生成されてしまうとしたら、主人公はどうやってヒロインと再会するのか? いっそ歴史を改変してしまってもいいのか? さまざまなジレンマに悩まされる冒険小説だ。
また、この著者は「時間的無限大」という作品も書いている。これは宇宙最強の種族ジーリーを扱った「ジーリークロニクル」の一編だ。作中世界では、人類はクワックスというエイリアンの支配を受けており、それに対抗する手段を知っているという「ウィグナーの友人」という、とある思考実験にちなんだ名前を持つ謎の団体が暗躍する。主人公は父親との(正確にはその再現人格との)屈折した関係に悩んでいる。作中に出てくるタイムマシンは、少なくとも現代の物理学とは矛盾しないらしい。ちょうど90年代の「ニュートン」で紹介されていた。
で、確かこの作品だったと思うんだけれど、人類もクワックスもジーリーという宇宙最古・最強の種族のテクノロジーのおこぼれで生活してるんだけど、そのジーリーでさえ恐れている存在がいる……というのがこのシリーズの基本設定。
なお、同一世界観の短編集が「プランク・ゼロ」「真空ダイヤグラム」にまとめられていることを最近知った。それに、長編も結構邦訳がある。未読だけど気になる。
短編集「ウロボロスの波動」は高校生時代に読んですごく好きだった。実際にかなりありそうな宇宙探査が描かれていたからだ。太陽系に侵入してきた小型ブラックホールを捕獲して天王星を周回する軌道に乗せるという設定と、作中の謎解きがすごく魅力的だった。
ただ、なぜかそれ以降の「ストリンガーの沈黙」「ファントマは哭く」が読めなかった。キャラクターの会話や背景となる政治の設定がかなり説明的で、ぎこちなく感じられたからだ。読むのに気合がいる本は、持っていてもあえて図書館で借りることで、期限を決めるという強硬策があるが、まだ試していない。
「オーラリーメイカー」「法治の獣」。とにかく事前情報なしで読んでほしい。日本のファーストコンタクトものの第一線に立っている。とにかく奇抜なエイリアンが出てくるし、どうやら知的生命体の連合らしきものが確立されていく歴史の一部らしいのだが、この「オーラリーメイカー」という宇宙人の種族の作り上げたシステムは、素晴らしく絵になる。
おなじみクトゥルフ神話の創始者の一人。前にも書いたけど、ラブクラフトの作品は知識欲に負けて禁断の知識に触れて発狂するか未知の存在に拉致されるかするオチばっかりなんだけれど、人類は宇宙の中では取るに足りない存在なんだという絶望感が僕は好き。
SFを紹介するのが趣旨なのでエイリアン(地球外の神々や人類以前の種族)の歴史の壮大さを感じさせてくれるのをピックアップすると、南極探検で発見した人類以前の知的種族を扱う「狂気の山脈にて」や、異種族の図書館に幽閉される「時間からの影」だ。侵略ものとしては「宇宙からの色」かな。ニコラス・ケイジがこれを原作した映画で主演を務めていたはず。
ダンセイニ風のファンタジー作品も好きだ。読みやすいとは言えないが、ラブクラフト全集を読んでほしい。というかアザトースの設定が好きすぎる。元ネタのマアナ・ユウド・スウシャイそのままだとしてもね。
「ブラインドサイト」についてはこちらに書いたので、「6600万年の革命」について。巨大小惑星の中で暮らす人類と、それを管理するAIの物語だ。彼らは銀河系にワームホールのネットワークを作る旅路に出ているのだが、もはや地球の文明が存続しているかどうかも定かではない。すでに正気を失いそうな時間が経過しているが、使命をひたすらこなしている。
管理AIは人間の知能を越えないようにギリギリ調整を受けている。そのことから「チンプ」つまりチンパンジーとあだ名がつけられている。とはいえ、地球時間で6600万年が経過していると、「もしかしてシンギュラリティ迎えたんじゃない?」みたいな出来事があり、人間がAIに対してレジスタンスというか隠蔽工作をする。バイタルを始め何から何まで知られている人類は、AIに対して何ができる?
アシモフの例えば「銀河帝国の興亡」なんかはシリーズが進むと「鋼鉄都市」や「はだかの太陽」などの「ロボットシリーズ」とクロスオーバーして行って、確かにアシモフが発表順に読んだほうがわかりやすくなるんだけど、さすがに全部読む前提で書くのはちょっとしんどかった。個人的にはアシモフは「黒後家蜘蛛の会」というおっさん萌えの短編ミステリがおすすめ。英米の文学や地理に関する雑学が無いとわからないところもあるけど、口の悪い仲良しなおっさんの同士のじゃれあいを読んでなごんでください。
堀晃の「太陽系から3光日の距離に発見された、銀河面を垂直に貫く直径1200キロ、全長5380光年に及ぶレーザー光束」が出てくる「バビロニア・ウェーブ」はハードだなって思ったんだけど、どういう話か思い出せなかったので省いた。まずは「太陽風交点」かな?
あと、SFじゃないんだけど「マン・アフター・マン」あたりも未読だったのでリストに入れなかった。人類のグロテスクな進化という意味では、上記条件は満たしていたと思う。「フューチャー・イズ・ワイルド」は読んだ。
ダン・シモンズの「ハイペリオン」四部作はSF全部乗せだし、AIの反乱だとか人類が進化した宇宙の蛮族だとか愛が宇宙を救うとかとにかく壮大なんだけど、とある場所で増田では評判の悪い(?)「夏への扉」以上に男性主人公に都合のいい描写があるのが欠点。あと、それ以外の作品はもっと男性に都合がよくなっていて、保守的な僕もちょっと「おや?」って感じた。でも、「三体」にどっぷりハマった人だったら好きになると思う。「三体」よりも前の90年代SFだから時代背景を知ったうえで、加点法で楽しんでください。
あと、全然エイリアン・宇宙SFじゃないんだけど、今注目しているのは空木春宵で、この人は東京創元社の年間傑作選やGenesisですごくいい作品を描いてる。どれもいいんだけど、たとえば「地獄を縫い取る」は「アリスとの決別」や「allo, toi, toi」に並ぶロリコン・ペドフィリアを扱った名作に並ぶ。
エイリアンSFも出てくるけど、「世界の中心で愛を叫んだけもの」「ヒトラーの描いた薔薇」のハーラン・エリスンは人種差別を扱った作品も書いていて、これもいい。穏健派の黒人男性がテロリストに転身してしまう作品はつらい。とかくエリスンの絶望と怒りは若い人に読んでもらいたい。
自分が一番SFを読んでいた時期は、今と比べて女性作家が推されるずっと少なかったし、さらに自分は古典を好んで読んでいた。アジアの作家が紹介される機会も少なく、そういう意味では感受性のみずみずしい今の若い読者がうらやましい。
後は、女性作家で今回のテーマである宇宙を扱った作品は男性よりも少ない気がするのだが、よく考えてみればル・グインの「ハイニッシュ・ユニバース」があるし、ティプトリー・ジニアも「たった一つの冴えたやり方」で始まるシリーズがある。スペースオペラでは「叛逆航路」のアン・レッキーもいることだし、単純に探し方が悪いのかもしれない。
最近短編ばっかりで腰を据えて長編を読んでないな。銀河系で忌み嫌われた人類の唯一の生き残りが活躍する「最終人類」とか、面白そうなのがいっぱいあるので、そのうち読みたい。
というか、僕の選んだ作品の他にもっといい作品を知っている、勧めたいという方は、どんどんトラバやブクマで追記していってほしい。
気が向いたらまたなんか書きたいな。まだおすすめしたいSFもあるし、池澤夏樹の世界文学全集を9割読んだのでその感想も書きたいし、かなり疲れるから数ヶ月後にはなるだろうけど。
【翌朝追記あり】劉慈欣「三体」の好きなところと微妙なところについて
はみ出たのでこちらに。
言ってることは分かるし、この内容が伝わらない人は少ないと思う
そもそもこれってジャニーズに限らずアイドル一般的な話だし、男女も関係ない
ただ問題はそこじゃなくて、そのアイドルの所属事務所がジャニーズだということ
創始者の一人が生粋のレイパーで被害者は数百人単位、マスコミや芸能界への影響も大きく悪習を広めてきた
アイドル個人は悪くないという感情は分かるし、むしろ被害者の可能性も高いけど、結果的にそのアイドル個人はこの事務所を支えている一端になっているという歪な構造
そしてそのアイドルを支えてるファンの人達も事務所を支える一端になってしまっているという現実
というのが建前で、実際には非ジャニーズ勢のマウント・勢力拡大、正義の代弁者オナニー、お祭り好き・アフィのネタといったところじゃないかと思う
業界が腐ってるのなんて数十年前からの周知の事実だし、アイドルなんて最も穢れた類のものだし、今更そこに正義やクリーンさを求めてもね
言ってることは分かるし、この内容が伝わらない人は少ないと思う
そもそもこれってジャニーズに限らずアイドル一般的な話だし、男女も関係ない
ただ問題はそこじゃなくて、そのアイドルの所属事務所がジャニーズだということ
創始者の一人が生粋のレイパーで被害者は数百人単位、マスコミや芸能界への影響も大きく悪習を広めてきた
アイドル個人は悪くないという感情は分かるし、むしろ被害者の可能性も高いけど、結果的にそのアイドル個人はこの事務所を支えている一端になっているという歪な構造
そしてそのアイドルを支えてるファンの人達も事務所を支える一端になってしまっているという現実
というのが建前で、実際には非ジャニーズ勢のマウント・勢力拡大、正義の代弁者オナニー、お祭り好き・アフィのネタといったところじゃないかと思う
業界が腐ってるのなんて数十年前からの周知の事実だし、アイドルなんて最も穢れた類のものだし、今更そこに正義やクリーンさを求めてもね
『万物の黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的に冒険的で実験的なものであり、自由と平等の呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである。歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつの体制から抜け出せなくなっており、その理由を理解しようと努めなければならない。
これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たちの人間性を規定する政治的本能や社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先が平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。
彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類は歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせや虐待、支配も実験しただろうと主張しているようだ。
G&Wは、私たちが革命の過程で社会的、道徳的に人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間の言語、意識、親族関係、道徳は漸進的な進化の過程で進化し、それが巨大な社会的・政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間は本来利己的で競争的だから社会主義は不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的な偏見に挑戦することであった。
私はいつもこう答えていた。そう、私たちは類人猿の一種である。そう、私たちは霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的な本能を持っている。しかし、それが私たちの成功の原因ではない。優秀な母親や父親になる能力、自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力、道徳的なルールを確立する能力、他人が自分を見ているように自分も見ている能力、音楽、ダンス、言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命の産物であり、成功した革命なのだ。
この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファー・ボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスとジェンダーの力学についての言及を一切省くことで、政治的な観点から安全策を講じた理論のバージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスなバージョンなのである。
ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的な競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者を支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下からの集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団を支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たちの祖先のチンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観にコミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである。
G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑、羞恥、遠ざけ......他の霊長類に類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団で採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術が進化の過程で人間の本性を形成する上で重要な役割を果たしたという考えである。
ボームの説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類は基本的に平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)
唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉は引用に値する:
ひとたびどこかのバンドが平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的な拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)
これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類は基本的に平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつの特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである。
かなり不当なことに、『万物の黎明』は現代の進化論を社会進化論と混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀の物語である。ダーウィニズムは科学的であると私たちは語り聞かされるが、実際は純粋な神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類の起源に関する視点を、読者が真剣に検討することを期待している。
この著者たちが認める唯一の科学は「考古学的科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物の黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。
このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術と象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近の証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ、幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端のダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学、儀式の実行パターン、性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.
残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間の本能と心理の形成における集団的育児の重要な役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別な神話を「重要なもの」と表現している。そして、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、このような洞察は部分的なものにしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話に疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディの画期的な研究が、私たちの共通のミトコンドリアDNAの祖先の年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに、人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
中石器時代や新石器時代の考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽や言語に対する生得的能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!
タイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『万物のティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期のフランスとスペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学が面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。
G&Wにとって、狩猟採集民の祖先がアフリカでもっと早くから平等主義的なライフスタイルを確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。
つまり、狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間の文化的・知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。
ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的な抵抗が狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型であると結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立を有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベルの政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいかに危険かを理解する知性があると彼は説明した。
しかしG&Wによれば、富の不平等は問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀にヨーロッパの「文明」を批判したファースト・アメリカンのカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初のアメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。
G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:
こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉が示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等は本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?
どんな未来?アフリカの狩猟採集民からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代の都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。
はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的、政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。
(続く……)
ジャニーズのアイドルたちの顔をしばらく見たくない。雑誌の表紙とかでも。
ジャニーズのアイドルたちには問題がないかもしれないけど、その裏にいる熱狂的・カルト宗教の信者みたいなジャニオタがすごく嫌になった。カルト宗教の創始者をキャー!ワー!ってテレビに出さないじゃん。もうジャニーズのアイドルたちは本人が望んでなくてもその立場になってるんだよね。
で、ジャニオタは鉄砲玉になって、反日だー!みたいになってたり、不買します!○くんは悪くない!みたいに大騒ぎしてる。
あと今までジャニオタだけど進歩的なワタシ!アイドルオタクやってるけど政治批判もしてる自分サイコ-!みたいな人たちが軒並みバグって「なんで私たちが攻撃されなきゃいけないの!?悪なの!?」ってなってるのもキツかった。
文章にしていて整理できてきたのだが、このコメントを書いた人の気持ちはわかる気がするし、他の人たちがスターをつける気持ちもわかる気がする。
俺は別に、こうした個々人が嫌なのではなくて、集団というか、はてなブックマークの構造自体が嫌いになったんだろう。
とは言っても、このコメントも、それを同意してスターをつけるのもトンチキだ。それについて書く。
まず、このコメントを読むと、「犯罪に加担した事務所に籍を残す」=「自分も犯罪に加担している」ことになると思うが、まず、そこが納得いかない。
一度脇にそれるが、実はこのコメント自体は「犯罪に加担した事務所に籍を残すのは、自分も犯罪に加担すること」とは明記していない。
ただ仮に、「事務所に籍は残っているけど犯罪には加担していない状態」というのがあり得るなら(俺はあり得ると思うが)、その人物と企業が契約しようが更新しようが何の問題もないはずで、なのに問題があるというのだから、やはり、「『犯罪に加担した事務所に籍を残すのは、自分も犯罪に加担すること』であり、そういう人物と契約を結ぶのも犯罪に加担すること」という主張として読むべきだろう。
話を戻す。で、それがトンチキだ、ということである。
この理屈で言えば、昨日今日、当該の事務所に入ったエンターテイナーや従業員でも、に辞める意思がなく、例えば今後何かしらのかたちで収入を得れば、犯罪に加担していることになる。犯罪の当事者である件の創始者が死んだ後に加わった者でも、である。
俺はそれは相当ヘンテコな話だと思う。籍を残すかどうか、「所属」というところに重点を置いたせいで、渦中の有名芸能人だけでなく、新人も裏方も一緒くたの扱いになってしまった。
「ヘンテコじゃない、残るという判断をするなら、どういう背景や経緯だろうが犯罪に加担しているのと同じだ」というなら、この点についてはそれまでだが。
おそらくここで、「いや、他の人は関係ないのだ。これはあくまで、経歴の長い超メジャーグループの一人に関する事柄であり、出自も特筆すべきものがある、非常に特殊なポジションの人物で、その人が残る判断をしたことが問題なのだ」という反論があると思うが、それは苦しい。
俺は別に、渦中の人物を非難する気はないが、擁護する気もない。だからはじめから、当該の人物のきわめて有力かつ特殊な経緯を云々するかたちで、その人物と契約する際の問題性を問えばよかったのだ、と思う。
ただ、はてブでのコメントは「籍を残しているから、それと契約するのは企業も犯罪に加担するのと同じ」という理屈であり、これは無理筋もいいところで、整理すると、企業が犯罪性を免れるには、当該の人物が事務所から離脱していることが要点、みたいなトンチキなことになってしまう。別に、事務所を離れていたって、過去がうす暗い人物と契約したらまずいに決まっているのに(当の芸能人に問題があるとは言っていない。念のため)。
重要なのは、事務所に残っているかどうかより、何をしてきたどういう人物か、だ。その重点を籍の有無にずらし、当該の人物の固有性を脇にのけたのはコメントの方で、それでもはてブでは多くのスターが集まったこと、これが重要だと思う。
その人物が何をしてきたかではなく、いまどこに所属しているかが要点として肥大化し、さらに、そこに所属している者に接する者まで、一緒くたにして自分たちの価値体系からはじき出すこと。
そして、その所属から離脱すれば、自分たちの価値体系の中に迎え入れてやるとあざ笑うこと。
俺は小学校や中学校の教室でそういうものを何度も見てきて、数十年経っていまここで同じものを見せられて、いい歳こいた連中のダサさが極限を突き抜けていてうんざりする。それがガキの頃の、イケてる・イケてないみたいな基準でなく、年齢相応に良識を背負っているつもりだから、なおさら本気でくだらねえと思う。
俺はこのコメントにスターを付けた人たちを気違いの集団だと思っている。
一方で、スターを付けた人たちも俺のことを気違いだと思っているだろう。犯罪に加担した人物に肩入れして犯罪の片棒を担いでいると思うんだろう。お互いに自分こそ正気だと思うしかない。
そして、俺は本当は、このコメントを書いた人の考えも、そこにスターをつけた人たちのこともわかる気がする。
何かを批判するときに、なるべくアクロバティックで、それでいて、なるべく多くのものを巻き込める理屈を、俺も常に考えている。
誰かに同意を示すとき、細かい理路なんて俺はいちいち気にしないし、大筋、自分の敵に敵対しているならこいつは味方だと思っている。
こう想像すれば、はっきり言って普段の俺と同じである。本当のところは、まったく違うことを考えて書いたりリアクションしたりみんなしていたのかもしれないが。
そういう意味で、やっぱり「所属」というのは恐ろしくって、このコメントにスターを付けた集団は、俺の目には狂人のかたまりにしか見えないが、個々人で見たら普通に良識的な人たちなんだと思う。
まあ、こんなことを書いたって気違い扱いされた側からすれば自分を気違いだと呼んだ気違いに、さらに「居丈高・傲慢」という役が乗るだけだろうし、やっぱり「群れという実態のないものに振り回されてはいけないな。一人一人を見ないとな」という教訓以前に「事務所に残ってるかどうかとか、契約で大事なの、そこじゃねえだろ」という方が大きいので、やっぱり相いれないと思う。そういうわけで、はてブを止めることにした。
ググったら予想以上に設定が細かくて草
ソレナンテ・エ・ロゲ(Sorenant et Roage)は1599年4月1日生まれのフランスの評論家である。
主に人間の性欲に対する研究を行い、また、学会では批評を行った。
●誕生
父親は後にフランス東インド会社となるパリ国営貿易会社本部の創始者であり、また、母はルイ11世の服装を製作するデザイナーという大富豪の家に生まれる。
幼少期には何にも興味を示さず、養育係やメイド達を困らせたが、13歳の時に友人であるピエール・ダレソレの奨めで同級生であるエマ・ギラクサと付き合う。
それをきっかけに恋愛にのめりこみ、数年のうちに数十人の少女と付き合ったという。
しかし、両親は一人息子が初めて物事に興味を持ったからと屋敷に離れ屋を作り、そこに彼女達を住まわせたと言われている。
なお、後にこれが現代のラブホテルの発端になったという説もある。
20代前半にして、既に100を超える女性とつき合っていたソレナンテは女を見る目が肥えて、フランスの週刊誌「プワソン・ダヴリル」に女性との付き合い方についての1コーナーを担う事になる。
そのコーナーは女性と付き合う為のバイブルとして貴族から平民まで幅広く読まれる事になった。
また、沢山の女性と付き合いながらも、三角関係を円満に解決したり、アメリカから連れてこられて売春婦にならざるをえなかった女性の人権についての批判もしていた。
そんな中、女性の人権を守る会(ドロワ・プル・プロテクション・ドゥ・ラ・ファム)の会長マルキ・ド・サドに注目される。
彼は活動当初は男尊女卑の社会であった為全く注目されなかったが、徐々に思想が広まり、認知されて来ていた。
そんな彼が、ソレナンテに注目したのはある意味必然とも運命の悪戯であるとも言えるだろう。
また、サキュバス・インキュバスの研究をし、それが強姦による妊娠への言い訳であるという批判をしていたザッヘル・マゾッホも彼に注目。
やがて同志となった。
しかし当然の事ながら、男尊女卑の体制を敷いていた貴族から危険分子として注目されてしまう。
貴族達の陰謀により彼らは何度も逮捕され、また釈放されては活動を行い逮捕されを繰り返した。
「またお前か」
と半ば飽きれられる程の知り合いになり、囚人が寝静まった頃こっそりと酒を飲む仲になっていたという。
そんなソレナンテだったが、貴族の陰謀によりついにルイ14世によって処刑が決定され1664年2月30日に処刑された。
@MORI_Natsuko
15時間
ゲイである砂川秀樹教授や歌川たいじ氏が、女子トイレについてトンチンカンなことをおっしゃっている。バイ女性の私がLGBT活動家を批判し、女性スペースを守る活動をしたために、活動界隈に近いLGBTの友達を失ったという事実が、ノンケの皆様にもご理解いただけるかと思います……。
@MORI_Natsuko
15時間
ただ、私は、女性スペースの安全については、LGBTの友人を失っても主張すべきことだと思っている。私がそれを主張することで、この日本社会の女性や女児の性犯罪被害が減るのであれば、LGBTの友人を失うことなど些末なことだと思える。それに、最初からその程度の友達だったということなんだよ。
Tamaxまる 🌕15·16🍀19・20🍯 29🦖3👾6・7🍷13・14🌹🔮✋㉚
@Tamax0
なんで昭和では当たり前当然だった話が今になって女は公衆トイレで用をたそう!みたいな頭おかしい話題になってんの
https://twitter.com/Tamax0/status/1647323342779875328?s=20
https://archive.md/2023.04.16-053600/https://twitter.com/Tamax0/status/1647323342779875328
Tamaxまる 🌕15·16🍀19・20🍯 29🦖3👾6・7🍷13・14🌹🔮✋㉚
@Tamax0
Japan【 #sky #イマソラ タグ創始者】β版からのユーザー Twitterに写真投稿のブームを作った元大型掲示板管理人 らじろぐ・Stickam・こえ部 配信も広めたよ ポリアモリー クラファン達成率650%達成世界2位 Icon:BaconWong【毒舌まるは、“魔王”キャラ】OC管理人7371080
JAPAN 日本 静岡 おひさまのおまち 毒吐師粒谷区twitter.com/Tamax0/status/…2009年11月からTwitterを利用しています
正確に言えば23K68なのですが(文は煙や)でも構いません
産業革命のあとにはイギリスとイタリアが硫黄を巡って争いました
ドイツ人のフランツ・リストが刑事法を社会政策として使うというおそろしい技術を生みました
観念的競合を考えたのも同じ人
日本では硫黄業を始めるために様々な家が新政府側の婿に乗っ取られました
刑法として新律綱領ができました親属殺人罪もありました、しかしが立件義務はあったでしょうか
硫黄王と言われるようになったのは今の損保ジャパンの創始者でした
LOVEBITESという日本の女性メタルバンドの周辺がいまちょっと面白いことになっているので解説します。ヘヴィメタルに興味がない人も人間ドラマとして味わい深いのでよかったら読んでみてください。
LOVEBITESの動画には「私は今年70歳になるロックファンだが30年振りに夢中になれるニューバンドを見つけた」というような英語コメントが頻繁に書き込まれる。「LOVEBITES reaction」でYouTube検索すると膨大な量の海外リアクターの動画と、そこに書き込まれた膨大なオタク早口の英語コメントを見つけることができる。Wikipediaは日本語版より英語版の方がはるかに充実している。そういう存在のバンドだ。
世界中の音楽チャートがヒップホップやR&Bといったダンスミュージック中心になってもう長いこと経つ。そんな中で日本のチャートは異様なほど独自の多様性がある。別の言い方をすると世界的な音楽トレンドから取り残されて、時代遅れのダサい音楽も生き延びる余地があるユニークなシーンだ。
2010年代前半BABYMETALがアイドル+メタルの企画物としてデビューした。しかしながらボーカルの歌声とメタルアレンジが本物すぎたので妙に受けた。特にメタル音楽がほぼ失速していた海外においてメタルファンが衝撃を受けた。それ以降、流行りの音楽とは別の嗜好を持った世界中の音楽ファンたちが日本のインディーバンドを熱心に発掘するようになった。
なぜ、日本ではロックバンドが生き延びているのか。アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」の設定にもあったが、80~90年代のバンドブーム世代の人たちがお父さんお母さんになり、親の聴くロックバンドの影響を受けた子供たち世代が出てきたのが今の日本だ。
BABYMETALと同時期に国内ではDESTROSEという女性ジャパメタバンドが活動していた。DESTROSEはメンバーも安定せず成功したとは言い難いが、現在のシーンを牽引するNEMOPHILA、FATE GEARなどのメンバーを輩出した重要バンドである。そしてまたLOVEBITESも元DESTROSEのメンバーが結成したバンドだ。
NEMOPHILAやLOVEBITESの世代の特徴は圧倒的に本格派という点にある。例外はあるが、それ以前の女性バンドは男性バンドにくらべると演奏技術がそれほど高くなかったり、どこか女性的なポップさがあったりした。だが今のバンドは演奏技術や音の志向において、もはや男女の区別は意味を持たない。
LOVEBITESの音楽は、アイアン・メイデンやジューダス・プリーストのようなパワーメタルと、ハロウィンやドラゴンフォースのようなメロディックスピードメタルの系譜にある。サビがメジャーコードのメロスピを演奏してさまになるのは国内では稀有な存在である。
日本人女性の発声はハイトーンになると細くキンキンしがちでメタルでは不利なことが多い。BABYMETALは、アイドル的な透明感がありつつ激しい演奏の中でもよく通るSU-METALの声が重要な成功要因であった。LOVEBITESのボーカリストasamiは低い音から高い音まで発声の気持ち良さが特徴で、他のボーカリストやボイストレーナーから発声に関する評価が非常に高い。やさぐれた感じがせず声を張り上げたりドスをきかせたりしてもどこか品がある点も過去にあまりいなかったタイプだ。さらにクラシックバレエの素養もあり、長いギターソロ中でも手持無沙汰になることなくパフォーマンスできる。
バラードはほとんどやらない。全員が鍵盤楽器を弾けて本格的なクラシックピアノが弾けるメンバーもいるが、これまで50曲近くリリースした中で激しい展開にならないスローバラードはわずか1曲のみである。基本的にはテクニカルでパワーとスピード命で、海外メタルのトレンドも踏まえた音楽性になっている。そのためデビュー後すぐに海外からも注目された。
デビューの翌年には英国のメタル雑誌でBEST NEW BANDを受賞して、その次の年にはドラゴンフォースの英国ツアーに参加している。
バンドも好調で、2020年のZepp Tokyoのライブはもはや伝説的なクオリティだ。
そこまで注目されていたLOVEBITESだが、2021年ベースのmihoが脱退する。コロナの影響による環境変化でライブなどの活動ができなくなり、いろいろと思うところがあったようだ。mihoはバンドの創始者であり、LOVEBITESのコンセプトもmihoによるものが大きかったはずだ。バンドはそのまま終わってもおかしくない状態と思われた。
2022年コロナ禍が徐々におさまる兆しが見えてきた中、残されたメンバーはベーシストオーディションプロジェクトを発表した。東京都内近郊を拠点として日本と世界各地で活動できること、というのが唯一の条件で、年齢・性別・国籍・プロ/アマ問わず応募可能としていた。
このオーディションには、すでにソロ活動で一定の評価を得ている彪(AYA)、一ノ瀬といった実力派ベーシストも参加した。
ここで登場するのがfamiだ。
YouTubeにやたらうまいベース動画を上げているJKがいると以前から話題になっていた配信者、登録者数は67万人もいるチャンネルなので一度は見たことがあるかもしれない。顔出しをせず、自室のドアの前で踊りながらスラップやタッピングを多用したトリッキーなアレンジでボカロ曲カバーを演奏する。リアルぼっちちゃんレベル100みたいなベーシストだ。
高校を卒業し、クラウド・ファンディングでソロアルバムを出し、すぐに川口千里のような実力派ミュージシャンとして活動していくものと期待されていたが、その後あまりうまくいっていなかったようでYouTubeチャンネルも数カ月更新が止まっていた。
それが2022年10月に「皆様に大切なお知らせがあります」という動画を突然公開した。
YouTuberの言う大切なお知らせはたいてい大切でもなんでもないしょうもないものと相場が決まっているがこれは違った。
LOVEBITESのオーディション最終選考に合格して、バンド側の発表動画も公開されたという内容をオタク早口でたたみかける内容だった。また、この動画から顔出しをしてカメラに向かってしゃべっており、アーティストとしてあらたな道を踏み出した決意を感じる。
どんなベーシストでも前任者のmihoと比べられてしまうのは避けられない。mihoは安定したリズムと時折見せるセンスの光るオブリガートの評価が高い王道メタルベーシストだった。手足の長い恵まれたスタイルに低く構えたベースのたたずまいはステージ映えしてLOVEBITESの悪そうでかっこいい側面を担っていた。
famiのキャラクターはそれとはまったく異なる。明るく楽しそうにぴょんぴょん飛び跳ねながら5弦ベースをスラッピングするベーシストだ。オーディション時点では19歳でおそらく他のメンバーとは10歳近い差があり新世代という印象だ。この新たな風こそがバンドの必要としていたものだった。
アイアン・メイデンのスティーヴ・ハリス的ベーシストが抜けてミスター・ビッグのビリー・シーン的ベーシストが加入しLOVEBITESは新体制となった。以前からfamiとLOVEBITESの両方を知っていたリスナーにとっては、別々の線がひとつに交差して、止まっていた二つの物語がトップスピードで再開するという衝撃的な嬉しいニュースとなった。
ただ、famiはトリッキーでテクニカルではあるもののメタルのベースが弾けるのか、と心配する声もあった。公開している曲はボカロカバーばかりだし、ソロアルバムもメタル色はなかったからだ。
そんな中、2023年2月22日に満を持してLOVEBITESの新アルバムがリリースされた。吉と出るか凶と出るかfamiにとってもバンドにとっても審判の日である。
そこにはBPM200の16分音符で凶悪かつスリリングにルートを刻むfamiがいた。ドラムとの相性もよくメタルのベーシストとしても超一流であることをfamiは実力で証明した。これを聴けばもう心配する人はいないだろう。実はLOVEBITES加入まで語られてこなかったがfamiもまたメタラー親父に英才教育を受けたメタラー二世だったのだ。
他方、バンドの方にも変化が見られた。アルバム発売日に公開された新曲のMVはいままでのLOVEBITESとかなり異なるものだった。曲のパワーとスピードはこれまで以上であるが、以前のようなメタルの美学的な映像ではなくカジュアルな服装で楽しそうにわちゃわちゃ演奏している明るいMVになっている。こういった演出もfami加入以前には考えられなかっただろう。
アルバムとしての評価も高く、すでに世界中のメタルチャートで一位となっている。
そして3月の復活ライブはチケットが瞬殺した。YouTubeコメントを見ると海外ファンも飛行機に乗ってこのライブを見るためにチケットを買ったらしい。その後も9月には国内ツアーが予定されている。完全復活である。近いうちに海外イベントにもまた出演するだろう。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。