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はてなキーワード: 演目とは

2018-07-19

おじちゃーん今期のアニメ考察して―

大場ななちゃんイメージカラーバナナ黄色茶色キリンも同じ色。つまり彼女実態はあのキリンであり、演目に参加して競い合っているように見えて実際は観客席から劇を俯瞰する立場にいる」

すごーい

意味わかんね―

もっともっと

2018-06-28

生きにくい世の中だ

「みな平等最近はずっとこればっかり。

嫌いな奴にも平等に接しろ。(社会人なら嫌々接してるだろうが)

面白いこといえない奴が可哀想から、言うのをやめろ。

○○できないやつがかわいそうだから、お前はやめろ。

演目で主役になれない子がかわいそうだから、皆主役をやらせろ。

日本人気質は、根っからネガティブな奴が多いのか?

頑張って努力している奴がいたとしても「他のやつがかわいそうだからやめろ」って禁止する。

そんな世の中になって本当にすばらしい未来が来るとでも思ってんのか?

段々、言い分が極端になってきているのに気づいていない奴がいるのか?

これがどんどん進んでいくと

・嫌いな奴を避けることは許されない。⇒ストレスでぶっ壊れて暴走するやつ増加

努力しない奴と同レベルにしないと怒られる

 「素敵な絵を描きたい!と努力しても「うちの子が出来なくてかわいそうでしょ!」と弱者(?)正義時代

金持ちの金が分配されて、みな平等になり、誰も仕事をしなくなる

 (仕事をしたら、「仕事ができない人が可哀想!」と騒がれる)

・「日本人、何もしねぇな」と外国から言われる

・何でもかんでも「○○が可哀想でしょ!」と言っていたら相手の行動を制限できる

こんな時代くるの、俺嫌なんだけど。

2018-06-07

メモデレステミリシタ 要望

以下は、あとでデレステミリシタ運営へ送る要望の保存用メモなので(外出先で打って保存)、そのうち消します。

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デレステ1

 

 いつも楽しくプレイしていますアイドルの可愛さもゲームの楽しさも味わえる神アプリになっていると思いますスタッフの皆さんに感謝いたします。

 さて、本日要望が3つあってメールしました。

 

 

1.ユニット単位アピールする機能がほしい

 昨年実装された『誕生日カード作成機能』『フォトスジオ機能』は素晴らしいです。「ウチのアイドルは素敵だろ!」とアピールし合う事こそが最終目的の『アイドルマスター』に相応しい神機能だと思いますありがとうございます

 この素晴らしい機能に加えもう一声、『2~5人のユニット単位アピールできる機能』が欲しいです。モバゲー版『アイドルマスターシンデレラガールズ』の『アイドルLIVEロワイヤル』のように、「これがウチのユニット!」「この組み合わせ良くない?」をみんなでシェアしたい。

 モバゲー版の『ドリームLIVEフェスティバル』のライバルユニットデレステ誕生日カードのように、複数人アイドルイラスト特技発動時に出てくるもの)を同一画面内に表示してユニット表現したり、モバゲー版の『ぷちスナップ機能』のように、3Dモデル複数人表示させてポーズを取らせて写真を撮りみんなに自慢できる機能があると、よりプロデュース活動が楽しくなると思います。また、名刺機能でも「このユニット担当!」と言えると嬉しいです。

 

 

2.トレチケタイムスケジュール表が欲しい。

 トレチケタイム機能はありがたいのですが、「あれ、今日は何時から何時がトレチケタイムだっけ」というのが分かりにくいのが玉に瑕です。当日から3日~7日くらいのトレチケタイムスケジュール表がどこかに表示されていると、生活の中にデレステ組み込みやすくなると思います

 

 

3.営業の一覧性を高めてほしい

 『営業』も楽しい機能です。沢山抱えすぎたアイドルみんなに活躍の場が与えられるし、忙しい時にスタミナをパッと消費できるのもありがたいです。

 ただ、「6時間コースでトレチケが手に入る営業はどこだ?」「4時間コースで特訓アイテムが手に入る営業は?」みたいに、望みの営業先を探すのが若干面倒に感じます。小さなアイコンでいいので、全体マップに、各エリア内のどこにどんな営業があるかが表示されてるとありがたいです。

 

 

 以上3つになります。何卒ご検討の程お願い致します。

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デレステ2

 いつも楽しくプレイしていますコンスタント改善と要素の追加とで、とても楽しく遊びやすくなっていますありがとうございます

 さて、本日要望が5つあってメールしました。

 

 

1.『ススメ!シンデレラロード』での獲得ポイントに対するステータス閾値公表

 『ススメ!シンデレラロード』、とても面白いイベントだと思います。声が実装されていないアイドル活躍楽しいし、ゲームとしても、参照されるステータスが毎度変わるので飽きが来ません。

 ただ、「獲得ポイントに対する参照ステータス閾値」が公表されていないため、ユニット編成に面倒を感じたり、思考放棄してゲームの楽しさが減退してしまうことがあります効率的に楽しくユニットを組むためにも、各ステータスについて閾値公表して頂きたく思います

 

 

2.『LIVEParade』で、公演目標を常に参照したい

 『LIVEParade』も各タームで達成条件が違って、ユニットを考える楽しさがあるイベントなのですが、曲を選んでいる最中アイドルを選んでいる最中に公演目標を見られないのが不便です。

 「コンボが求められているからこの曲とこのアイドル」「ハイスコアが求められてるからこの曲とこのアイドル」のように、せっかくの「いろんな曲やアイドルを選ぶ楽しみ」を活かすためにも、曲選択画面とユニット選択画面でも公演目標を表示したいです。

 

 

3.Pの性別選択

 ネット上の言説やライブを見ても、過去と比べ女性プロデューサーの増加は顕著です。ぜひ、Pの性別選択できるようにしていただきたいと思います。(アイドルセリフ等は大分配慮されているように見受けますので、Pの一人称などを修正するだけでだいぶ変わると思います

 

 

4.曲の得意不得意を数値化したい

 これは『LIVEParade』をやっている時に特に感じるのですが、「結局自分はどの曲が得意で、どの曲なら高スコアを出せて、どの曲ならコンボを繋げられるのか」を、感覚ではなく数値で知りたいのです。

 要するに、「『ミリシタ』で最近実装された『パーフェクト率』の実装」「フルコンボ数に対しどれだけコンボ数を出せているかの『コンボ率』の実装」「『パーフェクト率』『コンボ率』を軸にしたソート実装」を検討して頂きたいです。少なくとも『LIVEParade』の期間中だけでもお願いしたいです。

 

 

5.アイドル所属枠の拡張

 色々な人から要望があると思います。かなりきついです。ぜひお願いします。

 

 

 以上5つになります。何卒ご検討の程お願い致します。

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ミリシタ

 いつも楽しくプレイしていますサービス開始当初は「んっ」と思いましたが、システム改善、度重なる良曲の追加、そして豊富サービスによって、『デレステ』にも負けない神アプリになってると思います。わかちこPをはじめスタッフの皆さんに感謝いたします。

 さて、本日要望が4つあってメールいたしました。

 

 

1.自分の得意曲でソートしたい

 最近実装された『パーフェクト率表示機能』、いい機能だと思います。「パーフェクト率を高めていく楽しみはあるけど、ゲームとして報奨対象にしない・高めることを必須にしない」というバランスが素晴らしい。ただ、せっかくなので、このパーフェクト率を基に「自分の得意曲が何なのか」を、感覚ではなく数値で知るためにも使いたいです。「フルコンボ数に対しどれだけコンボ数を出せているかの『コンボ率』表示」「『パーフェクト率』『コンボ率』を軸にしたソート機能」も実装して頂くと、今後のゲームプレイ練習がよりスムーズになると思います

 

 

2.Pの性別選択

 ネット上の言説やライブを見ても、女性プロデューサーの増加は顕著です。ぜひ、Pの性別選択できるようにしていただきたいと思います。(アイドルセリフ等は大分配慮されているように見受けますので、Pの一人称などを修正するだけでだいぶ変わると思います

 

 

3.初期曲への歓声SEの追加

 『Happy Darling』や『エターナルハーモニー』は、曲や歌やダンス楽しいですが、所謂"俺たち"のコール楽しいです。まるでライブBDを観ているような、ライブに参加しているような感覚を味わえます。「ライブを楽しくするのが到達点」のミリオンライブにふさわしい機能だと思います。亜利沙の曲も楽しみにしています

 ただ、新規実装された曲がここまで楽しくなってくると、今度は逆に初期実装の曲に歓声が少ないのが気になります特に『素敵なキセキ』! コールの楽しさ・ライブ現場での楽しさもミソとなっている曲なので、この曲に歓声が少ないのはとても寂しいです。『Thank You!』なども含め、是非とも初期曲への歓声の追加をお願いします。

 

 

4.名刺ユニットを表示

 名刺で、例えば「クレシェンドブルー担当です!」「灼熱少女担当です!」とアピールしたり、あるいは「『美希、貴音、響のユニット』の担当です!」「『琴葉、恵美、エレナユニット』の担当です!」とアピールする機能が欲しいです。LTPやLTH以降、素晴らしいコンビユニットが生まれていったミリオンだけに、需要があると思います

  

 

 以上4つになります。何卒ご検討の程お願い致します。

2018-05-28

昨晩スカイプで姪っ子甥っ子がダンス披露してくれた

運動会演目らしい

見ててとても楽しかったけど、ばあば達のが喜ぶのでは

と思いながら水をさすと思い言いそびれた

3曲ほど踊って生ライブ終了

2018-05-18

2018/05/12 アイドルマスターMR 千早主演公演第3部に参加して  その3/3

https://anond.hatelabo.jp/20180518014637 の続きです。

長すぎて途中で切れたので、そこから再開しま

記事全体の構成

2018/5/12に開催された「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSICGROOVE☆」の如月千早主演公演第3部に参加してきました。この公演では如月千早が体調を崩し、歌うことが困難になるというトラブルが起きました。ここでは、その公演で私が感じた感情とその後考えたことを整理するためにまとめた文章を公開します。


レポート感想というよりは感情吐露です。また、如月千早は私が一番好きで応援したいと思っているアイドルです。そういった人間が書いたということを念頭においていただけると全体のめんどくささを予想、納得いただけるかと思います


※注意※

・公演の詳細に触れますので内容を知りたくない方はご注意ください。

基本的自分千早観丸出しなの独善的解釈を多く含みます


構成

●公演の概要

感情の整理。

●少しだけ理性を取り戻して。これから出来ること。


●少しだけ理性を取り戻して。これから出来ること。

注意:ここから先は今井麻美さんについても必要場合言及いたします。

【実現したいこと】

1.如月千早約束をかなえる⇒リベンジMR公演を実現させる

2.今回のようなことを防ぐ⇒アイマスイベントで体調を押して演者が参加することを防ぐ


2.今回のようなことを防ぐ⇒アイマスイベントで体調を押して演者が参加することを防ぐ

結構大きな問題だと思っています

基本的後遺症が残ったり、長期間治療リスクを発生させるようなことは、たとえ可能性が低くても絶対に避けるべきです。

どういう理由があってもです。

何よりこんな思いはもうしたくないのです。

からこそ、何か防ぐために出来る事があるならやっておきたいと思いいろいろと考えてみました。


【今回の公演について】

それはそれとして、私は今回の公演を否定しません。如月千早のやったことを否定しません。

彼女の何を思って舞台に立ったのか、それを考えれば考えるほど、その選択をした彼女はまさに私が応援してきた如月千早のものであり、私が支えたい、応援したいと思ったアイドル選択として痛いほど苦しいほど納得できます

からといって、彼女が傷つく姿を見るのは何より辛いです

公演が成功だったとは口が裂けてもいえません。

が、それでも私は、「避けるべきリスクを避けずに行われたあげく、結果製品レベルサービス(すなわちちゃんと歌えるソロパート)が提供できなかった」という理由をもってして、「今回の公演はすべて失敗でありあらゆる判断は間違っていた」と結論付ける事は絶対にしたくありません。なのでしません。

これはこの章においてなお理性の1000倍存在する感情判断なので、理性に欠けておりいろんな意味でよくない判断だと思います

それでも私は如月千早舞台に立ったこと、そしてその決断をした背景と意思否定したくありません。

如月千早は観客のことを思い舞台に立ちました。

結果、第三部は互いに傷ついてぼろぼろになりながら何とか最後までたどり着くというかたちになりました。

多くの部分で良くも悪くも感動があり、大きな心の動きがありました。

私はより如月千早を好きになり、応援したいと思い、支えたいと思いました。

でもこんなライブは二度とごめんですし、絶対に繰り返してほしくないですし、繰り返させないようにしたいです。

その上で、がんばった千早とその思いは否定したくないのです。絶対に。

なので私の中でこの公演については例外として扱います。唯一無二の例外です。

これ以外は絶対にもう二度と同じようなことは認めません。というつもりで生きていきます


今井麻美さんについて】

今井麻美さんについても言及します。

目的は3つです

1)今回のような事態リスクの重大さを確認するため

2)今井麻美さんに対するポエムを書きたいか

3)今回のような事態アイマスにおいて防ぐ方法分析のため


今回の件のリスクの重大さを理性的判断するには今井麻美さんにも注目する必要があります

なぜか。今回のような無理をしてリスクを背負うのは如月千早今井麻美さんであり、実存存在今井麻美さんだからです。

今井麻美さんは声優であり歌手です。したがってのど・歌声というのは命と同じぐらい大切なものです。

そこにリスクを負うということが今回行われました。これは大変なことです。

今井麻美さんは如月千早役だけをやっているわけではありません。

歌も歌いますし他のキャラクターにも声を当てます

そしてそれを生業として人生を歩まれています

一個のコンテンツが、ひとつイベントが、その人の人生を左右するようなリスクを背負わせていいのか?

一般的に言えば「コンテンツ側の都合だけで持たせるのは絶対NO」です。


以上が(1)の確認です。アイマスを長く続けるためにはコンテンツ全体でこういった事態を招かないような仕組みを保持し、信頼を獲得する必要があるようにも思います


さて、リスク確認できたところで(2)のポエムを挟みます

確認したようにリスクを負うのは今井麻美さんです。

このことから今回の件については、今井麻美さん自身も少なくない割合で「如月千早舞台に立たせる」という判断をとったのではないかという推察が出来ます

リスクを負う本人の意思はまったく考慮されず、ライブ制作側(バンダイナムコから強要だけで強行ということは考えにくいからです。

あくまで推察であり、経緯の詳細が判明することはありませんが、少なくとも今井麻美さんの判断0で決まったということはないでしょう。(そんなことしてくるような極悪人集団と10年以上辛酸をなめながら同じコンテンツを作るなんて到底無理です。)

これは逆も言えることで、演者が無理を押して出たいといっても主催側がOKを出さなくては舞台が始まらないはずです。

主催側にはいろんな事情がありそうです。

1つ前の公演の終了が会場時間の1時間半前ということも考えると、主催側としても公演の中止や内容変更についてかなり厳しい状態判断する必要があったであろう子とも想像できます


では、今井麻美さんは何を思いあの舞台如月千早を送り出したのでしょう?(ポエム開始)

今井麻美さんにとって如月千早が大切で特別存在であるということは随所のインタビューコメントなどで知ることが出来ます

今回はその如月千早MR公演の初回であり、現実世界における初めての舞台でした。

私はおそらく世界で一番如月千早のことを思う今井麻美さん自身が、少なからず今回の公演を予定通り実施することにこだわった可能性はあるのではないかと思っています

千早を最もよく理解し、千早とともに悩み、歩き、喜びと苦しみを分かち合ってきた今井麻美さんだからこそ、ゆずれないものがあったはずです。

自分負担とか不利益とかそういったことを超えて、如月千早にとっても、今井麻美さん自身としても、逃したくないもの、失いたくないもののために、今この時をどうしてもゆずることができない。

そういった感情があったのではないでしょうか。

如月千早絶対にやりきるはずだ。やりきってみせる。彼女の志を、積み重ねを嘘にしないために。

そういった思いがあったのではないでしょうか。

そういう妄想です。


(3)について。

ポエムでもちょっと触れましたが無茶をする背景には演者舞台主催側両方の都合があるはずということです。

ではどっちかを説得できれば今回の事態は避けられるということで、そこにヒントがありそうです。


ポエミーおおめの前置きが長くなりましたが、私としては

といった意見です。


上記を踏まえ取り組んでいくとよさそうなことを考えてみました。


・本件の神格化美談化を防ぎ「好ましいモデル」になることを防ぐ

最近ではもう前時代的な感覚になってきていると思いますが、スポーツ競技特に若年層の部活動などでは怪我や不調を押してチームに貢献しようと試合に出たりそれで結果を残したりする選手が居ると、美談化され感動物語としてもてはやす風潮がかつて見られることがありました。

これは結構危険です。

「その選手自分意思でやってんだからいいやろ!」というのが有りますがそういう問題だけではないです。

どちらかと言うとその選手の周り、コミニティ価値観が作る空気のほうが問題になってくると考えます


ミニティの中で上記のような行動がもてはやされていると少なからずそれを強制する力が働き、場合によっては逃げられなくなります

チームの柱、そいつが居ないとどうしても戦えないような試合エース限界を超えて延長戦永遠に出場し続ける。

そうするとほめられる風潮がそれを後押ししている可能性は大いにあります

そして一番厄介なのがその風潮のせいで「そうしないといけないのでは?」「そうしなかったら私は薄情ものになるのでは?」と言う気持ち選手に抱かせる可能性があるということです。

「みとめてやらなくちゃいけないのでは?」「こいつの意思を踏みにじるだめな大人なのでは?」という迷いを監督指導者に抱かせる可能性があるということです。


関係ない話に見えますが構図は似ているように私は感じます

アイマス元祖である765ASの歌姫、蒼の系譜如月千早が行った今回の公演が美談化され神格化されたとしましょう。

そんな中、ほかのアイマスアイドル演者達が似たような窮地に立たされたとしたら。

演者は何を思うでしょうか。現場は何を思うでしょうか。


防ぐ必要があります

今回の事はあってはならぬこと、深く反省し戒めるべきことだとコンテンツ消費者側が認識していることを表明する必要があります

皆さんお気づきの通り私はこれを行うことが出来ません。

私は先ほど自分勝手な感情論で「今回の公演を絶対否定しない」と決めたからです。

ですので皆さんが私の代わりに、今回のような体調不良を押して、後に影響が残るかもしれない健康身体リスク演者に背負わせる公演はダメ!ということをコミニティ共通認識にしてください。

プロデューサー達はアイドル健康について大変関心が高く、無理をすることを好まない」

これは予防としては大変効果的だと考えます

私はその動きに参加も貢献も出来ませんが、邪魔絶対しません。


アンケートで体調を押しての出演はやってくれるなと伝える

意思決定機関の内の一方、舞台主催であるアイマス制作陣営に「消費者演者の体調が優れない場合は、公演強行よりも中止や代打演出変更での対応を高く評価する」といった認識を伝えるということです。

これが最も直接的で効果的だと思います。そしてそれ以外ほとんど手がないようにも思えます

どうやったって当日現場でまさに今判断とき!となっているところに私達は口を挟めないです。

ですので、中止や代打演目変更が妥当で最善だと判断させるための材料を事前に送っておくしかないでしょう。

私は、今回のMRアンケートにはかなり強めに複数個所「今後はもう絶対にやめてほしい」と意見を書きました。

これは私にとって直接第三部公演を否定しない行為だったので何とか実施できました。


最後

5/17の深夜(正確には針はてっぺんを越えているのでもう5/18です)、果たして明日の公演はどうなるのか。

複雑な思いを抱えながらこの記事をアップしています


はじめはネットに散らばる色々なプロデューサーの記録を拝見することで感情を整理しようと考えました。

色々な意見見方、捉え方が有り、千早へのアイマスへの愛がありました。

そして多くの方の思いに触発され、私はよりいっそう色々と考える結果になりました。

そんな中、自分感情を整理するために怪文書をしたためたわけですが、いまだに様々な感情の渦が心をめぐり、落ち着きません。


結局、元気に力強く歌を歌う千早に再び出会うことでしか整理できない何かを感じているのかもしれません。

彼女の窮地に手を差し伸べることが出来ず、逆に彼女に救いを求めているというなんとも情けない状況です。


情けなくても何でもいいので私は心から如月千早に元気になってもらいたいです。

如月千早回復と復活を祈ります

今井麻美さんの回復と復活を願います

今後も如月千早応援し続けます


健やかに歌う如月千早が帰ってくるよう祈り続けます




2018/05/18追記

2018/05/18に開催された千早主演公演に参加してきました。

結果、彼女はこの日の公演をすべて歌いきってくれました。

参加した1部、2部公演の感想レポートにまとめました → https://anond.hatelabo.jp/20180518235241

2018-03-15

多ステって悪ですか

自分とあるユニットファンだ。

そのユニットはまぁまぁそこそこ人気があり、イベントやらステージやらがあるとチケット争奪戦になる。

そういう機会の度に毎度モヤっとしたり腹が立ったりすることもあるが、普段なかなか言えないので長くなるけれども吐き出したい。

少し前にそのユニット舞台チケット当落があったときに、知人が2回いけることになった。

最初本人の申し込みが落選したことを残念がっていたのだが、恐らく一緒に行こうとしていたご友人は当選したのと、あとは別の人がお誘いをしたことでいけることになった。

だが2回いけることをツイートしたらそれを見たフォロワー引用RTをしてバッシングをはじめた。

相互フォローだったようだが直接リプライするわけでもなくエアリプで取り上げ、別のフォロワーと2回行く行為についてバッシングしまくった。

"自分だったら行けない人に譲る、それをしないなんて”、という観点でのバッシングであった。

行けない人がいるならばそちらにチケットを譲りたい、という広い心はいいと思うが、それはあくま個人の考えであって、自分はこうするから他の人もこうすべき、という押し付けはいかがなものかなと思い、モヤモヤとした。

自分立ち位置としては一つのイベントについて行ける限り複数行くタイプだ。

ただチケットが取りにくいものに関してはそういう行動について目に付くところに出すと面倒ごとが起きると思っているので出さないし、知人についてそれを表に出してしまたことは迂闊だったなと思う。

この知人に限らず、チケット当選したというだけでブロックされたという話も聞いたし、「見たい人がいるのに何回も行くなんて○○さん(ユニットメンバー名前)が聞いたら怒っちゃうよ」とか本人が言ってもいないことを出してバッシングする人も出てきた。

そんなに複数回行くことが悪なのか。

マナーとまで言えるようなことなのか。

自分正義だと振りかざせるようなことなのか。

正直疑問なのだ



舞台などはチケットを買う機会は色々ある。

ファンクラブ、携帯サイト会員、劇場先行、主催先行、プレイガイド先行(有料会員先行も別にあったりする)、一般発売

一般勝負のものもなくはないけれど、大体何かしらの先行がある。

ということであればなんら違法なことをしなくても一人の人間複数チケットを手にする機会が存在するということだ。

まぁ先述のような人たちはFCなどで当たったらそれ以降申し込みすべきでないというスタンスなのかもしれないけれども、公式がご用意している限りは持っている権利だと自分は思う。

で、よく耳にする文言としては「行きたくても行けない人がいる」というやつなのだけれども、その「行きたい」とはどの程度行きたいのか。

どの先行も申し込んでも申し込んでも落ちてしまうのは運だから仕方ないというところは実際ある。

でもその落ちてしま理由っていうのもただの運だけじゃないと自分は思う。

例えば、申し込む全てが東京初日や楽日、土日に集中して、多くの希望者がいるところだけだった場合、当然当選率も落ちる。

それは「自分が都合のいいときに行けない」であって本当に「行けない」というのとは違うんじゃないだろうか。

例えばそういう日程ばかりでしか申し込まず、全然当たらない…と言ってる人に対して、交通費が多くかかる地方でのチケットがあると言ったら行くだろうか。

自分も勿論人気の日程も行きたい気持ちもあるが、申し込みをするときにはまず「行く」ことを優先して、場所、日程共にどこだったらば当選率が高いかを考えて申し込みをする。

駄目元で人気日程を申し込みをすることもあるが、そのときは申し込み枠を半分捨てる気持ちは持っている。

それで確実にチケットを取っていき、各先行でチケットを増やしていく。

また、先行だけじゃなくても、友人などがチケットを被らせてしまって譲渡をしたいというのであれば迷う余地なくすぐに譲ってもらう。

それが飛行機に乗らなければならない距離であったとしても。

公演日直前になって同行者が行けなくなったとか、 外せない仕事でいけなくなってしまったとかで席が空きそうという連絡を貰えば最大限調整をする。

その他おけぴ等のチケットお譲りは随時チェックを欠かさないし、有難いことに友人からのお誘いもあって何回も行けることが出来る。

利益を上乗せしない個人間の譲渡がアリかどうかという点については今回の論点ちょっとずれるのでおいておく。

ただダフ屋のような転売には一切手を出さないし、当落の後、落選の怒りは全部オークション転売サイト違反報告にぶつけている。

友人から譲渡等については本当友人に感謝しかないのだが、そういう繋がりでのやりとりを快く思わない人もいる。

最初に出した知人の件だが、知人にチケットを譲った人は、知人をバッシングした人とも繋がりがあったらしい。

知人は、その人に譲ればよかったのかな、と落ち込んでいた。

もしその人がバッシングした人の方に譲ると言っていた場合、どういう行動を取ったのだろうかな、と思ったりもする。

この件とは全く別の件だが、同じように一回行けたなら行けてない人に譲るべき!と息巻いていた人がいたが、蓋を開けてみたら抽選形式の当日券にて何度も観に行っていたりして、どの口が言っていたのかと思ったことがある。

他の人は譲るべきで自分だけはいいのか。

から先ほどの件もバッシングの仕方を見て下衆な憶測をすると、自分と繋がりがあるにも関わらず、自分ではなく他の人に譲られるのが腹が立ったんじゃないかなと。

でもその譲った人は知人に譲ったわけで、恐らくそこには知人と相手との交友関係があったからで、そのバッシングした人は譲渡した人とそこまでの交友関係を築いていなかったわけで。

日頃交友を結ぶことへ労力をつぎ込んでおくのも大事なことであり、普段そういうことをしないでチケットだけ勝手に舞い込むなんてあるわけがない。

仕事があるし遠征は難しい、という人もいる。

本当にそうなんだろうとは思う。

でも、そういう道を選んでいるのは自分自身だと思う。

自分は昔休み自由が利かない仕事を長らくしていて身動きが取れなかったときがあったが、自分が行きたい舞台にもろくにいけない生活に正直心は死んでいた。

今は自分時間がある程度コントロールできる仕事をしている、が給料は安いし、不安定雇用形態だ。

だとしても自分が行きたいとき自由に動ける立場というのが自分の中ではとても大事で、それで貧しい生活になったとしても何も苦ではない。

から仕事で行けない、と理由を言う人については仕事を変えればいいじゃないと軽率に思うし、それが出来ないのであればその舞台より仕事の方がずっと大事なのだから行けないのも仕方ないじゃない、と思う。

あっちもこっちも全部成り立たせようというのだから無理が出てくる。


こんなことを改めて思ったのは、件のユニットとは別にチケットを取ろうとしたものがあり、先行が連続で落ちてしまって取れなかったことがあったからだ。

その界隈に明るくなかったからそこまで人気だということを知らなかったので甘く見ていた。

別に見たいだけで席はいいところでなくてもいいし、夜の公演なら仕事終わってからでも十分間に合う時間だし、と考えながらの申し込みだった。

しかし先行も落ち、一般ぴあの端末まで行っても惨敗

落ち込んだところで友人に言われたのが「○○(地域名)ならあるみたいだよ」とのこと。

日帰りで行けなくはないが、ちょっとしんどい距離

そこだけでなく、大きい都市以外の地方チケット一般でも全然残っており、行きたければ行ける状況。

その状態でも自分は「あぁ、行けないなぁ」と思った。

から、その状況における自分の”行きたい”は所詮そんなもんなんだな、と思った。

そんなことがあって、複数ステを悪とする人の言う「行きたい人」ってどれほど行きたいものか、と考えた。

自分が追っかけているユニットについては、東京だったら行きたい、とか、土日なら行きたい、という人の”行きたい”より、どの地域でもとにかく行きたい自分の”行きたい”方がより強い欲求、強い熱量だと思う。

それだけ行きたいなら行けるように自分環境を整えろよ、いろんな先行に目を光らせろよ、有料の会員になって申し込めるタイミングを増やせよ、日々チケットを探す手間を惜しむなよ、普段から交流してネットワーク作る努力しろよ、それらを惜しんでただぼんやりチケット欲しいなぁ~って人が口を開けてるだけで来るわけがない。

勿論ビジネスとして行きたいと思ったまだ浅いファンや、ちょっと興味を持った人が行けない状況というのはファンの間口を狭めることになるので、行きたいと思った人が皆行けるのが理想ではあるが、なにぶん入れる人数に限りがあるので難しい。

その分、チケットが取りづらい為に楽日などには全国の映画館ライブビューイングもやって、見たいけど見れない人の受け皿をちゃんと作っている。

ちょっとチケット代も安いので、初心者にはそれくらいがちょうど良かったりもするんじゃないかと思う。

それこそ、一人一回しか見るべきではないという制限をつける方がビジネスとしては厳しい状態になると思う。

都会はチケットがなくなるけれど、田舎はガラ空き、そうなったとするとその実施地域では採算が取れないということになり、今後そのエリアでの上演はなくなってしま可能性も十分に考えられる。

実際、全国を回るツアーなどでの観客のそこそこの人数は遠征してきている人たちだ。

少し話はずれるが、その実施地域についてはその地元の人が行くべきで、遠征組は控えろという意見も見たことがある。

だが地域としては地元民だけではなく、遠征人間がその土地へ行き、観光をし、普段の食よりちょっと奮発していいものを食べ、お土産を買ったりすることでその地域の為になることも少なくない。

一人一回とかにすることで得られるメリットより、その制限を設けることで損失することの方が多いのではないかと思う。

沢山ある演目中連日盛況でチケット争奪になるものというのは偏りがある。

行われる多くの舞台ではチケットが残り続けたり、盛況に見せるためにあまりすぎた公演はチケットプレイガイド社内で配って客寄せをしたりすることだってある。

地方が空いているのであれば一度見に来てくれている人がまたお金を出して来てくれるのはありがたいことだ。

それを複数行くことでメンバーが怒るとか、本人が思ってもいないであろうことをなに勝手に代弁しているんだと思う。

他の人が行く為に自分が一回しか行かないという心がけは結構

だがその価値観はけして他の人に押し付けるべきじゃないし、マナーでも、正義でもなんでもない。

違法行為でもないことについてそこまで言及出来るまでの根拠自分にはわからないし、そういうと「違法じゃなければしなくていいわけじゃない」とか言うゆるっゆるな根拠が出てくる。

チケット当落とかある度にモヤっとしている。

2018-02-13

平昌オリンピックは「ベルリンオリンピック」と同じ役目を担っている

https://anond.hatelabo.jp/20170523204731

前にこんな話を書いた。

端的に言うと「歴史が繰り返されるのは『役者』が変わってるから一見して同じ演目をやっていると気づかない」という内容だ。

この後日本の政治は激動したが、結果的に「二・二六事件」は起きなかった。

前回も描いた話だが、安倍晋三という人物は散々ヒトラーに例えられて、マスメディアでも散々危険視されてる。

これだけ警戒されてる人間は、最後まで危険な企てを達成できない。

一部の人たちはよく自分に都合の悪い選挙結果が出ると「愚民」だなんだというが、日本国民の大半は馬鹿じゃない。

「一度やったパターン」なら、回避できる。歴史勉強して、メディアも散々その危険をあおってくれるからだ。

からこそ、俺は次に「ヒトラー」になれるのは、これまで一度も「ヒトラー」に例えられてない奴だけだと思っている。

小池百合子は、そういう意味ではとてもいい線を行っていた。

カイロ大学で学んでいたせいか彼女民主主義を軽視し、独裁的な手法で次々と物事を決めていたが、メディア小池百合子を一度もヒトラーとは言わなかった。

俺は、小池百合子選挙に勝って勢力を広げていくのを見ながら、この政治家は、次の独裁者役割を担える「役者」だと思った。

国政に出てきたときはいよいよ危ないと思ったが、「排除」の一言で最大の味方だったメディアからそっぽを向かれ、反乱は不発に終わった。


ただ、最近テレビを見ていて「結局、歴史は繰り返しそうだな」という思いが増してきた。

連日開催されている、平昌オリンピックがその理由だ。

今行われている平昌オリンピックは、1936年の「ベルリンオリンピック」と同じ役目を担っているように見える。

ベルリンオリンピックは、ヒトラー政権化のドイツで開催された夏の五輪だ。

ヒトラー自身オリンピックを「ユダヤ人の祭典」とみなして毛嫌いしていたが、周囲からプロパガンダ活用できる」と説得され、力を入れて実施する方向に考えを変えた。

その後の歴史を知っていれば、「なぜヒトラー政権下でオリンピックができたんだ」と不思議に思う人も多いだろうが、このときヒトラー重要な決定を下していた。

それが、「人種差別政策の一時凍結」だ。

国内からユダヤ人迫害を煽る看板などを撤去し、ユダヤ人を含めたさまざまな人種の出場を認めることで、ヒトラーは無事ベルリンオリンピックを開催にこぎつけた。

その後ヒトラーは「聖火ランナー」をはじめ、これまでのオリンピックになかった演出効果的に取り入れることで、大会成功に導いた。

大会の様子は世界中テレビ中継され、世界中の人々が釘付けになった。

意思勝利」の監督でもある女性映画監督リーフェンシュタールによって、この大会は「オリンピア」という名前映画化され、その映像国内外で絶賛された。

この歴史をふまえて、今の平昌オリンピックの様子を思い出してほしい。

開催されているのは韓国平昌だが、その話題の中心は北朝鮮だ。

開催直前に、金正恩対話姿勢を見せたことで、文在寅は喜んで北朝鮮選手団を迎え入れ、統一チームさえ作った。

開会式には金正恩の妹・金与正が派遣され、世界中メディアが、その姿を連日報道し続けている。

美女応援団は堂々とスタジアム内での応援を許され、明らかに金日成のものと思われる「美男子仮面」まで取り出したが、お咎めはなかった。

これらの様子は、世界中メディアが「融和」の言葉とともに連日報道し、誰もが金与正、美女応援団存在を知っている。

見事なプロパガンダだ。

アメリカペンス副大統領は、世論が「朝鮮半島の融和」一色に染められないよう、

北朝鮮拉致され拷問死した大学生オットーワームビアの家族とともに北朝鮮訪問していたが、

そのことを取り上げたメディアはごくわずかだ。地上波で取り上げられた時間は、金与正の百分の一以下だろう。

金正恩北朝鮮は、オリンピックを利用したプロパガンダに、現在進行形成功している。

その意味を、どれだけ多くの人が真剣に捉えているのか、正直疑問だ。

さらに悪いことに、ヒトラーと違って、金正恩は「核兵器の廃棄」を約束すらしていない。

オリンピックが終われば、すぐにその野心を隠さなくなるはずだ。


ベルリンオリンピックが開催されたのは、1936年だった。

次の開催予定地が何処だったか。思い出した人は、俺が言いたいことを理解してくれていると思う。

1940年の開催予定地は、東京だった。

いわゆる「幻の東京オリンピック」の年だ。

俺は、2020年オリンピックが幻になる可能性は、ゼロじゃないと思っている。

前回は、開催される可能性は「50%くらい」じゃないかと書いたが、今は、その可能性はもう少し下がったと思う。


プロパガンダに利用されたオリンピックが、この21世紀にまた生まれしまった。

歴史は、役者を変えながら繰り返している。

2018-01-16

新たな文章練習法について

 文章サボり過ぎている。頑張ろう。

 文章トレーニングのための新機軸練習方法を思いついた。まだ思いつきの域を出ていないとは思うが、それはどんなものかと言えば思いついた単語を片っ端から書くというものである。あるいは頭文字共通している単語を書きまくるというものである赤ちゃんあんこアンダンテアスキー、とかみたいにね。つまりそうやって適当単語を書きまくっている内に――つまり無秩序単語を書きまくっている内に――秩序のある文章を書きたいという純粋欲求が生まれてくることを狙った文章練習法なのである。訳分からんことを敢えて書きまくっていると勝手に訳の分かることを人間は書きたくなるのではないかと俺は思っているのである。どこかの作家が言っていたが「誰にでもできることから始めることで、より高度な行為可能になる」ということなのだ。思いついた単語を書き並べることは(殆ど)誰にだってできることである。だから、まずは誰にでもできることを行うのが肝要なのだ。俺はそう思う。


 例えば、今ここまで文章を書いたところで俺のモチベーションは随分と下がってきているのだけど、あんことかアンダンテとか有馬記念とかみたいな単語を並べることは当然できる。だからモチベーションアップを図ることができるのだ。多分。知らんけど。


 ここまで書いたところで更にモチベーションが低下してきた。それでもまだ例の文章練習法に頼る必要は無さそうである。このままとりあえず書き続けてみよう。それで、モチベーションが底をついたところで実際に例の文章練習法を試してみるのが良いかもしれない。とは言え一応文章を書き続けることが(今のところ)できているので、そう、今のところその文章練習法に頼る必要は無い。やったぜ。


 そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。独り言のように何とかなりそう何とかなりそうと呟ける内はまだ何とかなるのだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないかである。「そろそろモチベーションが尽きかけてきた」→「何とかなる何とかなる」的な。しかし先程の論法に従って言い換えてみれば次のようになるのかもしれない。「同じことを繰り返し書くことは誰にでもできる。だから、そうやって誰にでもできることをやっている内に、再びモチベーションが生まれてくる」と。そういうことなのかもしれない。書くことに迷ったらあんことかアンダンテとかアルゼンチンとかそういうことを書かずに、今まで書いたことを書写していくのがいいのかもしれない。その方が文章推敲にも役立ちそうな気がする。今にして思えば。


 例えば、今からこの直前の段落を俺は複写しようと思う。「そろそろモチベーションが再び尽きかけてきた。いや、まだだ。まだ何とかなりそうだ。しかしそろそろ難しくなって来た感がある。というのもさっきから同じことの繰り返ししか書けていないかである。」

 やはり同じことの繰り返しとは言え、何かを書いている分には脳の方でも「こいつ何か書いてんな」と反応している感がある。つまり、脳は割と鈍感なのかもしれない。同じことの繰り返しであれ複写であれ何であれ、ともかく何かを書いていれば「こいつ何か書いてんな」と脳は認識し、結果的に「何かを書く練習」になるのかもしれない。つまり文章技術一般を鍛えるための練習になるのかもしれない。人間の脳なんて基本的に騙し騙されなのだ適当文章を何度も何度も複写していれば、まるで新たな文章を五千文字書いているかのように脳は錯覚してくれるのだ。多分。知らんけど。実際知らんけど。そもそも練習になっとるのかどうか知らんけど。結局は脳の判断云々よりも人間が如何に新しいものを書こうとするかに文章価値根本存在しているのだとすれば、今俺が「脳は結構鈍感で勘違いする」とか言ってる傍からオリジナル文章を書きまくっているその意味もはっきりしてくるのかもしれない。しれない。よく分からないけど、多分そうなのかもしれない。

 というか今これだけ色々と文章を書けているのはひょっとしたら昼間に飲んだコーヒーに含まれカフェイン効能なのかもしれない。それだけのことなのかもしれない。しれない。よく分からない。でもそうかもしれない。何か結局同じことを繰り返し繰り返し書いてるだけにはなっていやしませんかね自分

 あいうえおあんこアンダンテ、秋、憧れ、有馬記念阿久津主税八段(将棋棋士)。


 以上の文章文字数は千八百文字程度である。こんなに書いたのに、普段目標としている千文字文章を二つ分弱書き終えた程度の文字数しか稼げていないことに愕然としている。やはり繰り返すしか無いのかもしれない。あるいはあ行の単語やか行の単語を並べていくしかないのかもしれない。


 ところで自分が何故このような文章練習法を思いついたかと言えば、それは安眠法の記事を読んだからなのだ。その安眠法は「連想式安眠法」と言って、先程述べていたような頭文字限定した単語を幾つも幾つも思い浮かぶ限りで頭の中で唱えていくという安眠法なのだが、これが中々人の脳の中にあるざわめきを抑える効果を持っているようで、つまりは実際安眠に役立つのである。で、俺もその安眠法のファンになってしまったのだが、しかし何度も何度も頭文字共通する単語を頭の中で唱え続けていると、今度は秩序だった文章を頭の中で唱えたい欲求が生まれてきたのである。この文章練習法は以上の体験を元に考案されている。どうだろう。結構この文章練習法良くないだろうか。実際相当文字数を稼げていると思うのだけど、でもやっぱりこれも昼間飲んだコーヒー純粋作用しているだけなのかもしれない。だってそんな簡単文章を大量に生産できるわけがないと思うのだ。今まで俺は文章をたくさん生み出すことが中々できないから焦ったり悩んだりしていたわけであって、それがこんな簡単方法によって改善するとしたらおかしいではないか、と心の一方では思っているのである。だから、どちらかと言えば自分自身の考案した練習法が功を奏したのではなく、昼間飲んだカフェイン所為と言ってしまう方が安心するのである。変な話だけど。

 基本的に俺という人間人生において空回りばかりをしており、自分の考案した方法が功を奏したことなど数える程も存在していないのだ。あるいは一つとして存在していないのだ、実数分からんけど俺本人の印象としては一つも存在していないと言いたいくらなのだ。だから、実際物事が功を奏したとはどうしても思いにくい、そう、「自分の手柄とは思いにくい症候群」が現れているのである。難儀なもんですね全く。ところでキーボードを叩き過ぎて段々指先が痛くなってきた。キーボードを叩くという実にヤワ運動が指先の神経を破壊したりするものなのかどうか俺には分からない。もしそんな事実存在するのであれば全国の小説家廃業しなければならなくなってしまう。だって彼らは日常的に三千文字とか四千文字文章を書きまくっているわけだから、つまりもしそんなペンだことかと同じキーボードだこ的な職業病存在するのだとすれば全国の作家及びキーボード日常的に使用する全ての職種の人々は皆等しく指先の神経破損症候群的な持病を抱えることになってしまうのであり、しかし世の中で生きていてもそんな持病の存在について耳にすることは殆ど無いことから、あるいはそんな持病は存在しないんじゃないかと思ったりもする。とは言え、俺のキーボードタイプする力は常人よりもやや強いのかもしれない。若干指先がひりひりし、指の第二関節が少しばかり痛む程度には俺のタイプチカラは強いのかもしれない。そもそも俺は小指を使わずタイピングを行う自己流の要矯正タイピング法に慣れ親しみすぎており、つまり他の人々よりも指の負担がやや多くなっている可能性があるのである。小指が本来受け取るはずであった負担を四本の指に分配してしまっている可能性があるのである。そう考えると俺だけがこの指先神経破損症候群的な症状に罹患してしまうとしても強ち想像力の枠外とは言いにくいのではなかろうか。


 こんなところでようやく文字数が三千文字を超えていった。とは言えまだ三千文字しか書いていないのかという感覚存在している。あるいは俺の考えた文章練習法のお陰ではなくカフェイン所為なのではないかという疑惑も依然として根強く存在し続けている。

 しかし今ふと思ったのだけれど、やはり効果的な練習法の条件の一つには、人間心理的ハードル技術的なハードルを落とすことが含まれるのかもしれない。あるいは技術的なハードル心理的ハードルを下げることを含む必要があるのかもしれない。だって幾ら効果的な練習法が存在したところで、それが技術ハードルおよび心理的ハードルをゴインゴインと引き上げてしまったら元の木阿弥で誰も挑戦しなくなってしまうことになるではないか。俺今正しいことを言ってる感覚がある。そう、「誰にでもできることから始めよう」作戦は実に正しいのである。例えば、カメラに習熟したいならシャッターを押しまくれば良い。シャッターを押すだけなら大概の人間にはできるからだ。バカチョンカメラとも言うではないか。誰でもちょんと押しさえすればカメラは大抵風景を切り取ってくれるものである。多分。もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれないけれど。

 ホラ見ろそんな注釈自分で付け始めることないのに自分からハードル高くしにいってんじゃねーかと思う。「もっと専門的でテクニカルな要素を持ったカメラ撮影があるのかもしれない」とか言い出しちゃうタイプ人間なのだ俺は。つまり自分心理的技術的なハードルをゴインゴインと上げてしまタイプ人間なのだ。俺は。そう考えるとやはり誰にでもできることをやることは、全くもって善なる練習法なのではないだろうか。だって俺がこういう性格しちゃってるもんだから、尚更その「バカチョンカメラ」式練習法が輝かしいものに感じられるのだ。つまり自分が書いた文章最初から書写したりとか、あるいは頭文字が「あ」で始まる単語を書きまくるとか、そういう「誰でもできること」がやっぱり大切なんではなかろうか。そんな気がどんどんとしてきた。ホラ、だって文章が目茶苦茶量産体制に入ってるのは、さっき自分心理的技術ハードルを落としたからではなかろうか? そう考える傍から「いやいやカフェイン所為でしょそれ」的な思念が浮かんできてしまうのだが、これは良くないことなのかもしれない。しれない。分からない。小麦粉か何かだ。古いねこのネタ。正直昔このネタ聞いてもあんまり面白いとは思わなかった。恐らくこのネタ楽しいと思うにはそれまでラーメンズが演じてきた演目に対する知識必要になるのではなかろうか。なかろうか。俺、さっきから「なかろうか」とか「かもしれない」的なことを書きまくってるけど、それは俺の中にある自分が書くものに対する不安の念の現れなのかもしれない。現れなのではなかろうか。しれない。かもしれない。分からない。小麦粉か何かだ。


 ようやく四千五百文字を超えた。というか文章を書き始めてからこの辺りで既に四十分近くの時間が経過している。あっという間だ。今俺はライティングハイ的な状態になっているのだ。それがカフェイン所為なのか、あるいは俺の編み出した練習法により心理的技術的なハードルが下がった所為なのかは分からないが(その真偽は恐らく明日以降カフェイン摂取しない自分が自ずから証明してくれるであろう)、いや分からんね。そもそも自分が何を書こうとしてるのか分からんから必然的に「分からん」とか「知らない」とか「小麦粉か何かだ」的な記述が増えてきてしまうのです。


 ところでアレですよ、最近「なろう小説」というもの流行ってますよね。流行ってるんです。ええ。流行ってますとも。多分。知らんけど。

 この「なろう小説」の特徴としては、大体物語の冒頭で主人公が死んで転生するところから始まる。そして転生後の世界主人公稀有な才能を持った偉人として君臨することになる。そういう筋書きが殆どなのだ。この呼称はどのように生まれたかと言えば(アノニマスダイアリーに生息する御仁達には説明不要かもしれないが)この小説ジャンルは「小説家になろう」という小説系の投稿サイトで幅を利かせたジャンルなので、「なろう系小説」とか「なろう小説」といった呼称をされているのだ。説明すればするほど醜悪まりない作法によって書かれた小説ジャンルだと思うが、中には面白い作品もあって、個人的には「異世界料理道」なるタイトル作品推しておきたい。これはもう既に商業デビューを果たした作品であり、商業デビューするだけのことはあって世界観の組み立てやストーリーテリングが非常に上手い小説なのだ。二百話近くあるエピソードの半分以上を読んでしまったくらいだ。

 で、俺が言いたいのはそういう稀有面白さを持った小説に対する賛辞ではなくて、その「なろう系小説」を書いている人間文章生産能力に対する賛辞なのだ。俺はプロになる為には一日最低三千文字から四千文字文章生産する能力を持たなければならないと思っているが、いわゆる「なろう系」の小説を書く人間の中には一日に一万文字とか二万文字を平気で書き上げる人間ゴロゴロしていると言うのだから驚きである。一日二万文字と言えば、速筆で知られたか西尾維新氏が、それくらいの文章生産能力の持ち主だったかもしれない。しかし俺だってカフェインブースト心理的技術ハードルを下げる効果的な練習法さえあればそれぐらいの量の文章を書くことなんてお茶の子さいさいだぜと言いたくなってくる。実際そろそろ五千文字突破して六千文字に迫るか追い抜くかをしているところだと思うが、あ、そろそろキツくなってきたかもしれない。いやしかし「キツい」キツいと繰り返している内はまだ大丈夫だと先程言ったばかりである。これもまた繰り返している。繰り返し。繰り返し、リピートリピート。繰り返すことが人間心理的ハードル技術的なハードルを下げ、人間効果的な文章トレーニング提供することになるのだ。多分。でも一応今日はこの辺にしておこう。

2018-01-08

宝塚と黒塗り、追記。

anond:20180107045314を書いた増田です。

ほとんど同じことの繰り返しになっちゃって蛇足なんだけど。

オリジナル脚本からメディアミックスまで、様々な時代と国を舞台にした演目があることが宝塚歌劇の魅力だけど、フィクションである以上、ラテンのショーも悪い言い方をすれば「なんちゃってラテン」、フランス革命だってなんちゃってフランス」、私が個人的もやもやするショーの演出も「なんちゃってアラビア」だ。

結局宝塚舞台で上演されるのは、「夢の世界」ではあるけれど、私たちが抱くあらゆる文化的イメージに、ファン演出家が共有する「タカラヅカ的要素」をがっつり組み合わせ、作り手なりの真摯さで、精巧に作り上げた美しい虚構だ。

どの舞台も、演目に合わせてある程度メイクを変えるけれど、最終的にモデルなりモチーフなりにする国の風俗を正確に再現することは求められていないし、目的ともしていないし、そもそもそんなことは不可能だ。男役だって娘役だって現実男性女性とは異なったコードで描かれている。

 

本文にも書いたし、元増田が訴えていたことでもあるけど、黒塗りを含む宝塚の化粧は、観客の大多数を占める日本人演者にとって、「タカラヅカ的異国」の説得力を持たせる装置ひとつだと思う。

そして、もっと重要なこと。「黒塗りの○○ちゃんはかっこいい」という観客の素朴な熱狂喚起させるもの

結局は、本質的他者文化であるものを、どこまでデフォルメして自分のものとすることが許されるのか、という問題なのかなあ。

宝塚の異国は、私達観客の文化に関する規範を確実に反映している。

でも、宝塚歌劇の描く世界は、宝塚歌劇なかにしか存在しない、唯一無二の美しい世界なんだよ。

 

結局擁護論に落ち着いちゃってる文章だとは思う。ただ、簡単に割り切れない複雑さに溢れているのが宝塚の魅力でもあるんだけど、「夢の世界」という、宝塚本質的なところに関わる言葉によって正当化されているものがないか、逆に否定されているものがないか個人としていちど立ち止まって考えてみる必要性を感じて、この文章を書きました。

2018-01-07

いち宝塚ファンとして悩むこと。

anond:20180106164019

私も結論が出ていないけど、ブコメトラバの誤解をいくつか正したくて書く。長くて申し訳ないけど。

まず、宝塚音楽学校日本人しか入れない、これは間違い。

宝塚では劇団員のことを「生徒」と呼ぶ。

中国系韓国系の生徒が占める割合はそれなりに多いし、トップスター上りつめた生徒もいる(発音問題がないことが前提条件だとは思うけど)。

 

アメリカを中心とした欧米諸国出身の親をもつ、いわゆるハーフの生徒もそれなりに多い。むしろ舞台映えする頭身バランスはかなり好まれている印象がある。

ただ、相当顔の濃い生徒や東アジア東南アジアルーツを持つ生徒はいるけど、黒人の生徒が入ったことは今までにない。

それが1000人が受けて40人しかからない選抜過程問題か、日本人口バランス問題か、宝塚歌劇を好む層の問題かはわからないけど、実際この先どうなるんだろうね? とたまに思う。

ものであれば、必要に応じて舞妓さんのような白めのドーランを塗る。

フランスものスペインもの日本ものドーランの塗り方がすべて違うのが宝塚のやり方である。それはおそらく、生徒の肌色が白〜黄色であることを前提としている。

さて、宝塚ラテン・ショーの「黒塗り」は、どちらかというと日焼けした肌の色、褐色の塗り方であって、今回のブラックフェイス議論からは少しずれてくると思う。明らかに「黒塗り」という名前が先行して誤解を招いている。

個人的に、通称「黒塗り」をしたタカラジェンヌラテン風の衣装に身を包み、舞台で目をギラつかせながら踊り狂っている姿を見ると、日常のすべてのことを忘れられる。めっちゃかっこいい。

この文化がなくなることを、私は個人的に望んでいない。

今回元増田が投げかけた宝塚のショーでの「黒塗り」は、日焼けした、褐色の肌をセクシーものとして消費する目線に基づいているけど(このへんは補足を読んでほしい)、小麦色の肌をしたラテン系色男という、(宝塚歌劇の描く)ヨーロッパイメージに基づいているために、差別的文脈かというとかなりのグレーゾーンにある、というのが個人的所感。

そしてラテン系といっても、スパニッシュ風のダンスがある程度で、全体としてのショーの仕上がりはかなり無国籍風だったりする。宝塚歌劇が描くのは結局は非現実だ。

長々書いてきて結論がなくて申し訳ないけど、私は、万国さまざまな時代舞台にしたショーや芝居を上演することで、美しい夢の世界を見せてくれる、宝塚歌劇を愛している。一回3500円で見る宝塚歌劇は、私のとるにたらないこの人生を支えてくれている。

風と共に去りぬ」で黒人奴隷を演じるにあたって、かなり色の濃いドーランを塗るといったことは、もうやめたほうがいいのかな……と思う。ブラックフェイスという議論があると知った以上。

ただ、宝塚では様々な国や時代物語を演じられる、舞台となる時代や国に合わせて、さまざまな化粧のあり方がある、それが夢の世界演出をある程度支えている。

そのこと自体はどこかで守られてほしいと思っている自分がいる。

風と共に去りぬ黒人奴隷の黒塗り(じゃあ、ホワイトウォッシュは……?)や「〜ですだ」という口調はアウト、ここには同意しても、ラテンショーの上演や、インド映画宝塚化するにあたって、肌を褐色に塗ることを否定されると、反発したり戸惑ったりするファンは多いと思う。

それは、宝塚歌劇が常に新しい演目に挑戦して、様々な世界舞台を作り上げていくことそのものを揺るがしうるから。

宝塚歌劇演出家代替わりしていくにつれて、観客がノーをつきつけるような描写が減りつつあることは感じている。

今後観客がどう考えるか、宝塚の中の伝統欧米諸国日本規範整合性をどうとるかだと思う。


【補足】

ここからの話はかなり込み入っている。

宝塚のショーの「黒塗り」は、ラテンイメージだと述べたので少しずれるんだけど、黒人差別文脈ではなく、むしろ褐色の肌をエキゾチックものとして消費する、オリエンタリズム問題文脈に近い危うさをたたえているかも、と思うことがある。自戒をこめて。

(1/9追記:つまりセクシーと思ってるからOKとは一概にもいえなくて、私は宝塚の黒塗りが好きだけど、本当に本当につきつめて考えれば、どんな肌色を美しいと思い、逆にどんな色をそうでないと無意識に考えるのか。これって個々の社会文化的規範とも関係のある、きわどい問題だと思う。宝塚が悪いわけではなくて、一般論として)

私も専門家ではないので誤りがあったら申し訳ないけど、オリエンタリズムとは、かみくだいていうと、「実体に基づかない、西洋に都合の良い勝手イメージを押しつけて消費し、それを東洋の後進性とむすびつけていくような考え方」のことだ。

たとえが貧弱で申し訳ないけど、よく古い映画絵画に出てくるエキゾチックオスマン帝国ハーレムとか、アラブ美少年イメージ

そうしたものエキゾチックものとして描くことが、どこかで東洋を劣ったものとして位置づける差別意識につながっていき、それが西洋東洋特に中東)に対する植民地支配正当化する装置としてはたらいた。

それを問題にしたのがエドワード・サイードをはじめとする学者だ。

日本もその「東洋」に属することは間違いなくて、ゲイシャだのなんだのというイメージ押し付けられているわけだけど、日本クリエイターが他の国々に対して、無自覚オリエンタリズムに基づくイメージを投げかけていることはままある。

宝塚歌劇なかには、ショーの一場面などでオリエンタルアラブ風の演出を好む演出家がいるので、やめるべきとまでは思ってないけど、遠い先に問題になるかもしれない、とは思っている。肌色問題というより、あまりにも典型的オリエンタリズム再生産だとして。

ちなみにこうした場面が、ショーの一場面として上演される場合は、その場面だけ化粧を変える時間もないし、大体洋風の色白メイクだ(ブコメで突っ込まれていたけど、私はこういう演出に関して、色白メイクからOKとは思っていない。ぶっちゃけ肌色関係なく、あーまた演出家趣味でこんな場面か、とたまにうんざりするだけだ)。

上で述べたとおり、今度アラブなりインドなりを舞台にした物語を上演するときに、メイクをどうするかという問題も今回浮上したし。

完全なポリティカルコレクトネスを実現することは多分不可能だし、何がポリティカルコレクトネスに反するか、コンセンサスをとることも難しい。ここで書いてきたのは、宝塚以外の場所でもありうる話。

ただ、宝塚歌劇というか、ある文化無意識に立ってる価値観について、個人としてちゃんと考えてみたかった。

2018-01-06

そもそも、なんでそこまで黒塗りしたいの?」

宝塚ファンの一人としてここ数日葛藤している。

別に黒塗りが無くなったって困らないでしょ、とのブコメをちらほら見るが私は…私は…どうしたらいいのだろうか。

実は宝塚には黒塗りの文化がある。

お芝居の中で黒人役がある場合タカラジェンヌドーランで肌を黒く塗り黒人に扮する。代表的なのは風と共に去りぬ』のマミー役だ。宝塚において『風と共に去りぬ』というのは『ベルサイユのばら』と並ぶ古典演目で、何度も何度も再演されてきた大切な作品だ。しかし、いくら名作であっても今現在ポリコレ基準で考えるとアウトになるんだろう。

つい最近も、花形スター黒人役をやる演目があった。「うちの黒塗りは笑いにしてるんじゃなくてカッコイイと思ってやってるんだからいいんです」という理屈は通じるのだろうか?それって傲慢じゃないのか。

これが他所劇団ならば、黒人役者を引っ張ってくればよいのだろうが、ご存じの通り宝塚は大半が若い女性たちで構成される劇団である。そうした役者の制約のあるの中で国籍を問わず老若男女を演じなければいけない難しさはどう解決したらよいのだろう。

宝塚の黒塗り文化は芝居だけではない。ショーにもある。いわゆる「黒塗りショー」と呼ばれるジャンル。私としてはむしろこっちの方を心配している。黒塗りって差別的だよねっていうことを何となく理解してもなお、率直な気持ちとして宝塚から「黒塗りショー」が無くなったら心から悲しい。

ショーにおける黒塗りというのは、黒人というより褐色の肌をしたラテン系イメージであるこちらの代表は『ノバ・ボサ・ノバ』。これも歴代トップスターたちが演じてきた名作。私の大好きな作品だ。燕尾服スーツでビシッとスタイリッシュに決めた男役もカッコいいが、裸足でオラオラサンバを踊る男役のカッコよさも捨てがたい。

宝塚のお芝居はヨーロッパ歴史物が題材になることが多いので(特にフランス革命酷使っぷりはすごい)、黒人役っていうのはそもそもかなり少ないのだが、「黒塗りショー」はジャンルとして確立されているので定期的に新作が生み出される。もしかしてこれってすごく危うい状況なのだろうか…。

宝塚はずっと昔から定期的に海外公演を行っており、今年も台湾公演が計画されている。劇場でもちらほらと外国人と思しきお客さんを見かけることもある。だから日本感性だけでいいっていう開き直りもなかなか厳しいよなって色々考えては鬱になってる。

2018-01-03

他人族に扮するのが差別とは馬鹿らしい

日本人が黒塗りでアボリジニーネイティブアメリカンアフリカ民族なりに扮して、黒人白塗り歌舞伎メイク衣装バッチリ決めて一つ演目をやってみる。

実に面白そうだと思うね。

2017-12-18

生きる糧とは

2017年1月、年が明けて3連休も過ぎた週末、私は宝塚大劇場月組公演を観に来ていた。11からと15時からの公演を両方観る、いわゆる「マチソワ」である。本当は15時公演だけ観るつもりだったが、たまたまB席が空いていたので飛びついたのだった。

演目は、待望の再演と言われていたミュージカルグランドホテル』と、日本初のレビュー『モン・パリ誕生90周年を記念したショー『カルーセル輪舞曲』だった。

大変いい舞台を観たはずなのに、私は不快な思いをしていた。原因は11からの公演で隣に座っていた女性の行動である

その女性は「ただ今より開演いたします」というトップスター・珠城りょうさんによる開演アナウンスが流れたタイミングで着席した。

その後、彼女は上演中も一緒に観劇していた人と話をしていたのだ。開演前にも注意のアナウンスがあるように、上演中の話し声は非常に迷惑ものである出演者の演技をちゃんと観ていたいのに集中力を削がれるのである彼女の話し声のせいで私は観劇に集中できずイライラが募ってしまった。

終演後に劇場から出たところ忘れ物をしたので取りに行くと、その女性に声をかけられた。私は彼女に対して少し声を荒げてしまった。でも、「あなたはもう観劇に来ないでください!」と言わなかっただけ良かったと思った。彼女観劇慣れしていなかったというか、初めての観劇だったかもしれない。そんな人に辛く当たったら「来なければよかった」と思われたらどうしようもないし、私も「そういうお前が観劇に来るな」と言われる。やりようがない思いを抱えたまま15時公演を観ていた。

その後私は地元に帰ってきたわけだが、以前から職場での就労環境人間関係が原因でストレスを抱え込み仕事に出られない状態が続いてしまい、ついに2年間働いてきた会社を辞めてしまった。

私は、専門学校に入って就職活動をしていたが、卒業後も就職先が見つからず、その間アルバイトをしても失敗ばかりだった。このタイミングで「広汎性発達障害」の診断を受けた。

それからは、就労継続支援事業所で2~3年ほど一般就労に向けて作業などに取り組んだ。そこから職場実習をさせてもらったのがきっかけで会社に入ることができた。一応、株式会社と名乗っているが就労継続支援A型施設である。前の事業所と比べて賃金保証されている。一生懸命に働いて遠征費を稼ぐことができた。

ところが、去年から事業を拡大し始めたあたりで異変が起きた。少人数で捌ききれない業務量、他のメンバーミスを訂正する手間、イライラを募らせる上司…。何度か職場に出られないことはあったが、今年に入ってとうとう壊れてしまったのだ。

それからは、もう一回観劇しに宝塚へ行ったりサカナクションツアーに参加したりもできたけど、障害年金から3分の1ほど実家に入れるお金差し引いた分しか使えなくなってしまった。

2017年12月、約半年ぶりに宝塚に来た。雪組・望海風斗さんのトップ披露目公演、ミュージカルひかりふる路』とショー『SUPER VOYAGER!』である宝塚に来るまで、私はすっかり待ちくたびれてしまったし、心が何度か折れていた。

そこで私は隣りに座っていた女性に声をかけられた。彼女は大昔に観劇たことはあるが、宝塚歌劇ファンの方のお誘いで来たという。

私はショーの客席参加演出で使うポンポンを持っていたのだが、それを見て「こういうグッズがあるんですね」と声をかけていただいたのだ。「そうなんです!この公演限定ですけど」と答え、終演後も少し話すことができた。今まで一緒に観劇していた人と話をすることはなかったのだが、この時は「雪組さんありがとう!」と心から思えた。

私はまた来年春に月組を観に行く。それまではまた心が折れてしまうかもしれないし、どんな顔をしたら良いかからないと思うこともあるかもしれないけど、またいろんな舞台を楽しみに生きていきたいと思う。

2017-12-15

祖母着物活用するには?

母方の祖母着物をくれた。まだ生きてるんだけど、足腰を悪くして、もう着られそうもないからと生前贈与。私じゃなくて母にくれたんだけど、母もあまり着そうにないので、将来的には私のものになるだろう。祖母は母と私より小柄なので、少々チンチクリンだったらどうしようかと心配だけど、趣味のいい人だし、結構な値段のものを買っているようなので、かなり良いものじゃないかと期待している。(っていうか母は自分でもらって来たのでどんな着物か分かっているはず。)

が、これの使い道がなくて困っている。とりあえずこれを着る権利の持ち主は母なんだけど、若かりし頃美人と言われていたわりに、化粧にもお洒落にも無頓着であるいちばんキレイといわれて然るべき年代に私と弟の子育てに追われ、父の安月給で家計をまかなわねばならなかったから化粧や洋服に手間と金をかけるという発想がない。でもその頃は若くて白髪もなく、そんなにこてこて塗りたくる必要のない肌をしていたので、当時を知る小学生時代からの友人は「○○ちゃん(私のこと)のお母さん、キレイ」と母ばかりを褒めたたえ、娘の私のことは一言も褒めてくれない。

それはさておきさすがに70歳を迎えると肌にシミが目立ち、眉毛も手入れをしないとボサボサ感が目立つ。髪の毛も染めてないけど中途半端白髪なので手抜きしているようにしか見えない。娘の目から見ても、多少手をかければ「上品で素敵なお婆さん」に見てもらえそうなのに惜しい。私は祖母着物を着てみたいけど、まずそれより先に母にその着物を着せたい。「勿体ないから着なよ!」というと「そんなのどこに着ていくの?」と言われる。確かにそんなに気張って出かける場所はない。歌舞伎チケットでも買ってあげれば着物を着て出かけようとか思ってくれるのだろうか。歌舞伎のこと全然わかんないけど、海老蔵の出る演目でも選んで、「分からなかったら海老蔵の顔でも鑑賞してなさい」とでも言うか…。

あと3年もすると金婚式を迎えるので、その時に着せて記念写真など撮るのもいいかと思うけど、お金をかけて形式ばったイベントをやるのがキライなので、そんな提案をしても却下されそうだ。どうでもいいっちゃどうでもいい悩みなんだけど、着物好きな人って一体どこに着て行っているんだろう?本人も「いい着物をもらったんだから着なくちゃ」という意識は薄々あるようで、着付け練習用の安い着物は買ったらしい。元々着付けの基本編は分かっている人なので、あまりフォーマルでない着物に柔らかい帯を締める分には自分で着られる。フォーマルな硬い帯で飾り結びとかするのは難しいみたいだけど、金婚式みたいなイベントなら美容院で着せてもらってもバチは当たらないと思う。くだらない話で恐縮だけど、いいアイディアがあったら教えてください。

2017-11-29

ネカマをやっていた頃

俺はこれまでの人生半年だけ無職だった時期がある。ネカマをやっていたのはその頃のことだ。26才だった。小人閑居して不善をなす。まったくその通りだと思う。つまらない人間に暇を与えるとろくなことをしない。きっかけは2ちゃんだった。当時、俺は2ちゃんに入り浸っていた。ある日、表現規制について議論になった。その時に誰かが俺に言った。

「だから女はダメなんだ」

面食らった。俺を女だと決めつける奴が現れたのだ。その時はネカマだったわけではない。向こうが勝手勘違いしたのだ。俺はなんとなく楽しくなり、そのまま女として振る舞った。すると誰もがそういう前提で話しかけてきた。議論のものよりそっちが楽しくなった。

それから俺はネカマに目覚めた。しばらくは2ちゃんが主戦場だったが、やがて色々な場所に書き込むようになった。ツイッターチャットルーム増田ネカマをやっていていちばん驚いたのは、なんと言っても食いつきの良さだ。ツイッターでの反応はたぶん男女で百倍ぐらい違うと思う。どんな下らないつぶやきにも一定の反応があった。男は基本的アグレッシブだ。この世に草食系なんて実在しない。

俺はこの「入れ食い状態」が楽しくてたまらなかった。それまでネカマなんて最低の変態野郎だと思っていたが、いざやってみたらこれだ。ネカマ麻薬みたいなものだと思った。俺はネカマをやることによって歪んだ承認欲求を満たし、さらに女を演じることにより、倒錯的な快楽にも目覚めてしまった。いちどこの沼に浸かると、なかなか抜け出せない。色んな男がいた。とにかく会いたがる奴、画像を送れとうるさい奴、下心が無いことをやたらとアピールしてくる奴、どぎつい下ネタを吐き捨てて消える奴。

気付くと俺は8人の女を操っていた。ゆき、さとみ、みわ、けいこ、まさみ、れいなあいめぐみ

その中のひとり、さとみについて。

彼女ツイッターの鍵アカだった。8人の中でいちばん素の俺に近かった。特にキャラを作るわけでもなく、俺の本当の生活趣味を、性別だけ偽って淡々とつぶやいていた。

それでも話しかけてくる男はけっこういた。大抵は他愛ないリアクションから始まるのだが、こっちがリプを返すと、相手は一瞬にしてテンションを変えた。自戒を込めて言うが、本当に男は単純だ。露骨エロ目的の男もいた。下着姿の画像を送れと言うので、ネットで拾った適当素人投稿画像を送る。すると今度は別のアングルが欲しいと言う。また適当に拾って送る。男は「体型が違う」と指摘してくる。やべえ、バレた、ブロック

不毛だ。こんな不毛行為が他にあるだろうか。しかも俺は無職だった。仕事を探せ。

そんな中、ある男とDMで話すようになった。彼は古典芸能マニアで、女流義太夫というかなりマイナーな分野に精通していた。実は俺も女流義太夫マニアなのだ大学の時にこの世界を知り、一気にのめりこんだ。知らない人にどう説明すればいいだろう。人形浄瑠璃人形が無いバージョンと言えば伝わるだろうか。義太夫三味線の二人だけで演じるのだ。

ある日、俺は上野義太夫を見に行き、あまりに感動してさとみのアカウントでその想いを興奮ぎみに連投した。彼はそれを見て話しかけてきたのだ。

「僕も女流義太夫ファンです」

さとみ(俺)と彼の交流が始まった。彼は京都に住んでいた。彼の古典芸能に関する知識は凄まじかった。さとみ(俺)は彼を師と仰いだ。それまで俺には義太夫を語り合える相手がいなかった。だから喜びもひとしおだった。彼とは古典芸能の話だけをした。それ以外のプライベートなことには全く触れず、ひたすら女流義太夫の素晴らしさについて語り合った。義太夫の声の唸り、絡みつく三味線の繊細な響き、そのアンサンブルの素晴らしさについてDMで何時間も語った。そんな日々が3ヶ月ほど続いた。だんだん俺は後悔するようになった。俺がさとみであることに。俺は彼を騙しているのだ。こんなに深く語り合える相手なのに。罪悪感に押し潰されそうだった。最初から男として知り合っていれば、こんなことにはならなかったのだ。一緒に観劇もできたかもしれない。終演後にビールを飲みながら語り合えたかもしれない。

俺は決意した。彼に本当のことを話そうと。それで関係が終わるならもう諦めるしかない。怒られたら誠心誠意あやまろう。俺は彼にDMを送った。実は男であると伝えた。悪気はなかったが、結果的に騙していたことはたしかで、その点については深く反省している。後悔もしている。もっと早く言うべきだった。そういう旨を伝えた。何度も何度も推敲して、どうにか気持ちが伝わるように書いた。たぶん無視されると思った。それも仕方ないだろうと覚悟していた。でも予想に反して、翌日に返信が来た。

安心して下さい。実は私は女です」

驚くべき展開だった。私もずっと罪悪感を抱えていました、いつか本当のことを言わなければと悩んでいました、だからあなたが男だと知った時は逆に嬉しかったです、これでオアイコですね!

どう返信したらよいかからなかった。あまりの衝撃に指が震えた。キーボードがうまく打てなかった。すぐに彼女から追加のメッセージが届いた。

「来週東京に遊びに行くので、お暇なら一緒に義太夫を見に行きませんか?ちょうど面白そうな演目を見つけました」

もちろん俺は暇だった。何せ無職だ。時間は腐るほど余っている。余りすぎてネカマになったほどだ。俺達は会うことになった。当日、現れたのは白髪混じりのオッサンだった。

「いやー、反撃してやろうかと思って。僕も女に化けてみたよ!」

オッサンはそう言って豪快に笑った。その笑顔はとびきり優しかった。恥ずかしい話、俺は落涙しかけた。

オッサン京都のけっこうでかい会社役員で、かなり立派な人だった。俺達は一緒に義太夫を見に行き、帰りにビールを飲んだ。オッサンは俺が無職であることを本気で心配してくれて、色々と親身になってくれた。ネカマの件は一笑に付してくれた。その日を境に俺はネカマをやめた。どうにか転職もできた。来月、今度は俺が京都に遊びに行く。またオッサンと一緒に義太夫を見に行く。

2017-11-16

明るい物語でなければ観劇を楽しむことは出来ないのか?

先日ジャニオタな友人と会ったときに、彼女推しが出ているというジャニーズ舞台の話を聞いた

友人も一度、観劇したらしく感想も話してくれたけど「題材が戦争から、楽しむために現場に入りたい自分には合わなかった」らしい

それを聞いて題名のように疑問に思った

自分観劇経験もほぼなく舞台関係に詳しいわけでもないが、明るいストーリーのものを観ることだけが「楽しむ」ことではないと思う

なので明るい物語じゃないから楽しむことが出来なかったと取れる友人の感想不思議でならない

暗くシリアスな内容でも、どんな展開になるかドキドキしながら観るような引き込まれストーリーのものだったら……

観劇twitterなどに書いたり人に話したりする感想に楽しかったという言葉は出ないかもしれないけど観劇を楽しむことは出来るのでは?

演目中の推しの演技で好きな部分を見つけるつもりで観るのは楽しむことにはならないのか?

友人の死と折り合いがつかない

もうすぐ4年になるのに、全然理解できない。

なんでもないときに突然思い出して、ぼんやりしてしまう。

別に号泣するとかじゃないけど、ただ彼女のことをぼーっと考えて時間けが過ぎていく。

ていうかそんな親しかったわけでもない。中高一貫女子高で同級だっただけだ。

私は自分で描いた拙い漫画をせっせと刷ってコピー本にして地元の小さなイベントの端っこで配ってるようなオタ女で、同じようなオタ女たちとよくつるんでたけど、彼女はとびきり美人性格も社交的だったから、そういう子が集まる派手めなグループにいた。

高校になっても私は受験組、彼女は附属大推薦組で、選択授業が被ったことはほとんどない。

唯一の接点が管弦楽部。でもこれは学年の4分の1くらいの子所属するような大所帯だったから、そのなかでもやっぱり仲良しグループはあって、そこでも私は彼女とつながりはなかった。

ただ、彼女は目立つ子だったけど、少し要領が悪いというか、世渡りが苦手というようなところがあって、一度だけ、見かねた私が半ば強引に手助けしたようなことがあった。助けっていうほど大げさなものではなくて、普通にクラスメイトが困っていたら皆するようなことだったけど、それでも彼女は恩義を感じたのか、たまに話しかけてくれるようになった。彼女は優しい。

それでも、そのころの私たちには中高生ありがちなグループ体裁みたいなものがあったから、話すときはなんとなく二人きりになったときだけだった。彼女は私のしょうもない話によく笑ってくれた。その顔がすごくかわいいので、私はくだらない持ちネタを繰り返した。彼女が笑うと満足した。

一緒にどこかへ遊びにいったりしたことはついぞなかったけど、彼女地元楽団にも参加してて、あるとき私を誘ってくれた。

大きなコンサートがあるときは、人数確保のために楽団員が知人を紹介することができるシステムだった。チェロ(私の担当楽器)が足りなくて、よかったらきてくれない?なんて言われたら行ってしまう。ふたを開けてみれば私しか誘われていなかったので、ちょっとした優越感でニコニコしてしまった。たぶん本当にチェロ人員けが足りなかったからだろうけど、彼女から選ばれることは得意な気分にさせた。

彼女バイオリン(とても上手)なので練習は別々だったけど、最後の合わせでは一緒に帰った。電車で座って、それまででいちばん長くしゃべった。私はそのとき彼女に外部受験して地元を離れることを話し、彼女は私に子供が好きで音楽先生を目指していることを教えてくれた。

そうして私たちはそれぞれ進学し、二年の冬に彼女は亡くなった。

葬儀はご家族だけで執り行われて、私たち卒業生は母校でお別れ会を開いた。

そこで区切りがついたつもりだったのに、その後しばらくして、飲み会で入ったお店で流れているBGMが、あの、彼女と参加したコンサート演目だと気づいたとき、すごく動揺してしまった。お酒が入ってたからかもしれない。

それから度々、突然彼女のことが心に浮かんで、とても寂しくてやりきれない気持ちになってしまう。心が体の真ん中から徐々にずれていって、そのままどこかにいってしまう。誰かを亡くした人ってみんなこんな気持ちを抱えて日々生きてるの?こういうのどうやって乗り越えてるの?寂しくて仕方ない。

卒業式も寂しかったけれど、これからみんな別々の道でそれぞれ元気にやっていくんだという信頼や希望のようなものがあったから、こんなどうしようもない悲しみだけではなかった。こんな私でも日々をあれこれなんとか過ごしているのに、彼女はどこにもいなくて、なにもしない。働いたり遊んだりしないし、バイオリンを弾かないし、笑ったり泣いたりしない。もうなにも作らないし、生まないし、何にも干渉しない。そんなことがあるだなんて思いもしなかった。あの、音楽室で隣に座って笑っていた人間が、この地球のどこにもいない。頼むからみんな長生きしてくれ。

彼女との記憶なんてこれだけで、でもそれだけをずっと繰り返し思い出してしまう。彼女のご家族お別れ会で初めて拝見したし、グループにいるとき彼女とは関わりがなかったので彼女共通友達はいないし、誰とも彼女の話をできなくて、ここに書いてしまった。文字にしてたら落ち着いてきたから、明日からまた静かに日々が過ごせそう。表現の自由はすごい。

ていうか読み返すと自分のことばっかりでめちゃくちゃ気持ち悪い。彼女のご家族のほうがずっとずっと寂しいでしょ。お風呂入って寝ます

2017-11-13

anond:20171113131241

歌舞伎とか見てるときに、演目の中の役名ではなく、役者名前(屋号)をコールするのと同じでしょう。

その役者の芸を見に来ている感じ。

2017-10-22

anond:20171022162946

正しいよ。演劇部とかはむしろ遠回り

日本ミュージカルは、宝塚の人気演目とかでないとチケットがなかなか売れないんだ。日本ミュージカル界のスターみたいな人が出ててもね。

それでどうするかっていうと、広く知名度があったり固定ファンついてる人をキャスティングするのよ。暇な芸能人とか売れないアイドルとかね。声優平野綾とか、松田聖子の娘の神田沙也加とか、イケメン若手俳優ね(本人の希望もあるのかも知らんけど)

そりゃべらぼうにうまいとか、バレエダンスうまいなど技術があるならそういう道に進んで最終的にオーディション受けることで実力でミュージカル女優になれる。けど、今の日本じゃ、よほどの技術があってもそれだけで客を呼べるかわからない。たぶん呼べないだろうと思う。技術のあるやつより、少しでも知名度のあるやつ。キャスティング側がほしいのはそういう人材。悲しいけどなんかそうなっちゃってるんだ。

からミュージカル女優になるのに地下アイドルってのはいい線いってると思うよ。歌やダンスが見ていてしんどいレベルなら難しいかもだけど、そこそこできるなら増田有華のようにチャンスがやってくる。増田有華だってAKB入ってなきゃ歌だけでミュージカルに出られたか?というと無理だろうからね。彼女めちゃくちゃ歌上手いけどね。そういうもん。ブロードウェイはまた違う

2017-09-29

小池知事リボンの騎士に ハロウィーンコスプレ

http://www.sankei.com/photo/story/news/161029/sty1610290008-n1.html

概要[編集]

天使チンク悪戯誕生した、男の心と女の心を持つサファイア王女王子)をヒロインヒーロー)に据えたファンタジー作品お姫様が「男装の麗人」となって悪人と戦うという、当時の少女漫画としては斬新な内容であった。

手塚自身が幼少のころから親しんだ宝塚歌劇団の影響を強く受けており、サファイアモデルは元宝塚歌劇団娘役淡島千景である[2]。当時、淡島の大ファンだった手塚が、娘役である淡島たまたま男役を演じた舞台観劇して、それをヒントにサファイアを考え出したという。なお、テレビアニメサファイアの声を担当した太田淑子宝塚歌劇団出身の元タカラジェンヌである。本作を元にしたミュージカル公演が数回行われている。ただし、宝塚歌劇団演目として取りあげられたことはない。

少女漫画としては初の「戦う少女」であり、今で言うところの変身、コスプレツンデレなどの萌え要素の先駆けでもあった[3]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/リボンの騎士

へー緑のお婆さんは男装の麗人をへー

小池知事は、衆議院議員だった昨年も同イベントで「魔法使いサリー」に扮した。

作品概要[編集]

魔法の国から人間界へやってきた小学5年生の少女サリーと、サリー魔法使いであることを知らない同級生たちが繰り広げる愛や友情物語

https://ja.wikipedia.org/wiki/魔法使いサリー

へー

チートものが好きなんですかねえ小池お婆さん

2017-09-25

[] #37-4「同じアホなら」

俺たちはダンス会場に赴いた。

盆踊りではなくダンスなのは、「時代錯誤だ」という一部の若者意見主催者バカ正直に受け取ったかららしい。

そんな調子で突発的に作られたイベントものからルールが所々ユルい。

参加条件は特になく、ダンステーマ自由

優勝を決めるらしいが、評価基準が「一番盛り上がった」でとにかく曖昧

「一番盛り上がったのが優勝って、その場のノリで決まっちゃうじゃないですか」

賞金は魅力的だが、勝算のないもの時間を割いてもただの徒労だ。

「逆に考えるんや。だからこそ、ワイらみたいな一般ピーポーにも付け入るスキがある」

だが、どうやらカン先輩には秘策があるようだった。


様々な参加者が思い思いのダンスをするが、お世辞にもレベルは高いとはいえない。

老獪なダンス

子供愛嬌以外に褒めるところのないダンス

流行の曲と振り付けによる既視感バリバリなのにクオリティは劣るダンス

夫婦タンゴという、踊っている当人以外誰も得しない、企画趣旨を全く理解していないダンス

……ていうか、俺の両親じゃないか

勘弁してくれ。


「それでは次の参加者カンさんと、マスダさん。先輩後輩による、アニメーションダンスです。それでは、どうぞ」

テクノポップな曲が流れると、その音に合わせてスローモーションな動きをしたり、体の部位をそれぞれバラバラに動かしたりと奇妙な動きをして見せる。

今までと毛色の違うダンスに、観客も目が釘付けになっている。

もちろん、こんなダンスを思いつきで踊れるわけがない。

それなりの練習必要とされる高度な代物だ。

じゃあなぜ踊れるかというと、実は俺たちが学校行事披露した演目の使い回しなのだ。

まだ体が覚えているので振り付けバッチリだし、ほとんどの観客にとっては新鮮にうつる、というわけ。

周りが大した練習もせず何となく参加している中、入念に作られたプログラムで踊るのだ。

一線を画すダンスに観客たちの盛り上がりは最高潮

勝負は目に見えていた。

……酷い茶番だ。

俺はこんなところでいったい何をやっているのだろう。

……ふと、そんな思いがよぎって、集中力が削がれたのがマズかった。

「おい、マスダ、寄りすぎや!」

距離感を測り損ね、カン先輩の突き出した足が目の前に迫る。

とっさに身をよじって何とか避けるも、そのせいでバランスを崩して俺は盛大に転倒してしまった。

自分の額から嫌な汗がたれるのを感じる。

慌ててアドリブで誤魔化すが、曲から外れた動きであることは明らかであり、失敗を取り返せるものではない。

観客の反応はそれでもよかったが、やや尻すぼみな結果であることは否めなかった。

「すいません」

「まあ、ぶっつけ本番やったし。しゃーない。それに、この参加者たちのレベルからして、多少の失敗を加味してもウチらの優勝が濃厚や」

気を使ってそう言ってくれているのもあると思うが、実際優勝できる可能性はそれでも高いのは確かだ。

だが俺たちが優勝だと確信するための、決定的な“何か”が足りないという違和感もあった。

そして、それが何であるかを弟たちのダンスで知ることになる。

(#37-5へ続く)

2017-09-06

はてなの棒暗記」

ことわざ落語演目っぽさがあって良いと思います

2017-08-31

日野皓正騒動を受けて映画セッション」について

著名なトランペット奏者である日野皓正氏が、演奏最中に共演していた中学生ビンタしたことが波紋を呼んでいる。

《完全版》世界トランペッター日野皓正中学生を「往復ビンタ

http://www.nicovideo.jp/watch/1504064045

ジャズトランペット奏者の日野皓正さんが往復ビンタ 中学生との演奏会で 世田谷区教委「行き過ぎた指導。だがイベントは続けたい」 殴打された生徒は…(1/3ページ) - 産経ニュー

http://www.sankei.com/affairs/news/170831/afr1708310010-n1.html

ジャズミュージシャンが教え子に体罰に近い暴力を振るったということで、

音大ジャズドラマーを志望する学生主人公にした映画セッション」を連想したという声も多い。

日野皓正 セッションに関するTwitterニュース



が、この「セッション」という映画を、

青年スパルタ教師のしごきによって疲弊していく様を描いたサイコスリラーだとか、

教師の手厳しい指導に食らいつき成長していくスポ根ドラマというふうに捉えている人が意外にも多い。

僕が思うにそれはこの映画評価して的を外したものではないかと思う。

セッション」という映画音楽に対して不遜な人間たちが共依存関係に陥っていく過程を描いた映画だ。

まず映画を通してみて主人公演奏技術が向上したという描写はない。

フレッチャーの下心ありげ言葉を除けば誰もその演奏を際立てて褒めるわけでもなく、

観客がわかるような明白な上達の描写もない。

それは至極当然で主人公が「いい演奏をしたい」と思っていないからだ。

上級クラスに入りたい。」「いい成績を収めたい。」「教授に可愛がられたい。」「ミュージシャンとして羨望を集めたい。」

主人公欲求はいつも自己顕示的なことばかりでその視線はいつも自分に向いている。

音楽の道を志す動機もどうも浮ついていて、インテリジェントエリートとして将来を期待される従兄弟を持つが故の劣等感によるところが本音だろう。

印象的なのがチャーリー・パーカーエピソードである

チャーリー・パーカーアドリブに熱を入れすぎてドラマーからシンバルを投げられたというエピソードが劇中の会話に登場するが、

主人公はそれを冷水を浴びせられた屈辱をバネに精進したと解釈するのだ。

本来ならば出鼻を挫かれたことで冷静に自分を見つめられるようになったという教訓を得るべき小話をナルシシズムによって曲解しているのである

自分対外的評価しか見えていないために独りよがり思考が歪んだ主人公家族にも恋人にも音楽院からも見放され最終的に孤立していく。

そしてそこに魔の手を差し伸べるのが悪名高いフレッチャーなのであった。

フレッチャー教授もまた音楽ことなどその実どうでもいいと思っている不遜者である

彼の指導支離滅裂学生を恐怖心で抑え込みコントロールする以外の効果はない。

彼もまた音楽家として、指導者として羨望を集めることしか眼中になく、自分が携わる音楽クオリティなど二の次なのである

映画終盤で主人公逆恨みしたフレッチャーは、実際とは異なる演目主人公に伝えて舞台上で彼の音楽生命を絶たせることを画策する。

いい演奏がしたいという気持ちが微塵でも存在するならドラマーを罠にはめて演奏会を混乱させる真似など出来るだろうか。

フレッチャーもまた自己中心的な振る舞いが祟り音楽院から追放されたわけだが、

フレッチャー孤立すればなお自分を崇拝する人間を渇望するわけである

フレッチャー主人公を罠にはめたのは恨みをぶつけるためでもあるだろうが、自分の手中に収められる無力な下僕を作り出すためもある。

何にせよなんの後ろ盾もない大学中退者で大ポカかました主人公に明るい未来は多分ないのだ。

から評価されず未来もない孤独青年からこそ、因縁があるフレッチャーなんぞにわらをも掴む思いですがって行った。

そして名誉を得ることにしか価値を置いていないからこそ、主人公フレッチャーという有名人と関わりを持つことに喜ぶのである

あの最後の笑みはい演奏ができたから笑っているのではない。

どう転んでも演目にない曲を演奏して暴走することは失態である。あれはフレッチャー自分を見捨てないであろうことに安堵しての笑いだ。

フレッチャーもまた青年がいいドラム披露たから笑みを浮かべたのではない。

彼が完璧に無力な存在に成り下がり自分支配下に置くことができるようになったことを喜んでいるだけだ。

話は日野氏の話題に戻るが、件の中学生もこの映画を見ておりスポ根ドラマだと誤解していたのかもしれない。

多分そうでなくて単にソロパート演奏中に気持ちが高まりすぎたという可能性が高いが、

何にせよあれは失敗というほかなく、演奏者として道徳として師である日野氏が叱責すべき行いだっただろう。

舞台上という表立った場所感情的な振る舞いをしてしまったことは非難されても致し方ないのかもしれない。

しかし氏の叱責そのもの否定するのは当該生徒含めイベントに参加していた生徒にもあまりよろしくないのではないかと思う。

当該生徒やイベント主催した世田谷区が氏に一定の理解を示しているのは幸いだ。

そして「セッション」という映画ジャズもとい音楽に狂酔する人々の話だと誤って紹介されることは、

子どもジャズをよく知らない人に悪影響だと思うので、なんだか見過ごすことはできないのである

2017-08-17

ガッツのないオタク

私は数年間、ある若手俳優オタクをやっている。

推しのことは大好きだけど、ガッツのあるオタクになれない。

若手俳優オタクは、全通!物販積み!高額プレ!スタンド花!を網羅しているオタクが「強い」のかな?思う。

舞台はなるべく通う。イベントは行く。プレと花は過去数回な程度。物販はちょっと積む。

急な舞台イベントゲストには対応できない。そのくらいのオタクである

お金時間仕事)の都合がある。という言い訳をしようと思ったけど違った。

多分お金時間があれば、高額プレ貢ぎ&スタンド花はするだろうけど

全通はきっとしないんだろうなあ、と思った。

他のオタクは、どの程度まで「楽しく」観劇できるのだろうか。

私はある程度観劇を重ねると、失礼ながら退屈を感じるようになってくる。

大好きなシーン以外の、自分気持ちが上がらない場面とか。

(もちろん演目によっては、1公演目からすべてにおいて飽きがくる公演もある)

非常に眠くなって、舞台を観るよりも寝ないように必死になることもあった。

そんな状態観劇することの意味とは?その時間価値とは?家に帰って寝た方がいいのでは?

そしてこんな意識座席につくのは失礼では???と考えてしまう。

まあよく楽しいと思える回数は越してしまうのだけれども。

大体の演目は予定がつかない日以外は行くけれど、これ以上行ってもなあ・・・と思う、

ちょっとアレな公演はチケットを増やさないようにしている。

ガッツのあるオタクの皆さんからすれば、とんでもなくクソオタクに映ることだろうと思う。

しかしたら推しも、とりあえず席を埋めてくれと思っているかもしれない。

推しオタクを名乗っているくせに、推しを支える意識の低い、薄情なオタクだ。

でも、私は「私が楽しい」と思えないと、現場に通う意味なんてない。

無理して楽しいと思えない公演に通っていたら、病んで降りているだろう。

どうかそれでも、あなたファンでいさせてほしい。

2017-07-30

何で古典古典化したのか

理由の一つに、高度経済成長期に「モーレツ」に働き過ぎた点があるように思う。

あの時代の直前までは、芸者遊びみたいなのが、どこの都市にもあった。

私の暮らす地方都市にすら、かつてちゃんと見番があって芸妓がいて、料亭があった。


あなたは、「長唄」と「謡」の違いについて、いきなり説明を求められて答えられるか?

代表的演目や、例えば常磐津との関係とかを答えられるか?

これらの芸能が、あなたの住む町のどこで習うことができるか知っているか

調子こいたけど、俺も詳しく知らん。


当時は、市役所上層部会社社長銀行幹部や、金持ち農家なんかが長唄や謡いなんかを習っていて、そして夜は料亭遊んだわけだ。

そこでは古典に題材を獲った芸が行なわれていて、それを見て聴いてわかるリテラシーがあったわけだ。

金持ちたちは、何かを習ったり、そのリテラシーを楽しむ時間的余裕を持っていたし、そういうのに金を費やす心意気を持っていた。

彼らは「旦那衆」と呼ばれた。


経済成長の結果かなりの人間が、昔より金銭的に余裕ができたし生活の質は向上した。

だけれどその代償か、遊びは、どこかで失われてしまった。

芸者から女給の時代になった

現今ネットでは、短い間に特定ミーム流行ってそしてすぐに消えていく。

2chで「ぬるぽ」というとどうなるか?

ニコニコ動画車などが追突した場合、何と書かれるか?

航空事故に関連する話題で「はい」と書き込まれ場合、どうリアクションするのが正しいか

人間はある種のパターンミームみたいなのが大好きなのだ


昔はそれが、源氏物語だったり平家物語だったり太平記だったりしたのだ。原文を読まずとも、なにかそれへのきっかけになる芸能があった。

私たちは、高度経済成長期以降、着物を着なくなって伝統的な日本家屋に住まなくなって井戸を止めて上下水道になってテレビのせいで方言差異が減って……。んで伝統芸能へのアクセス手段も減ってしまった。みんな余裕ができたんだから、みんなが長唄や謡や、踊りや三味線リテラシーがある社会になってもおかしくなかったのに。


こうした断絶を経て、今ネット社会はある。

SFみたいな世界に生きているんだな、と思うことがある。

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