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2022-12-27

anond:20221226163816

この本にそうした男女の差について詳しかったです

存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く(河出書房新社

https://bookwalker.jp/series/304633/

2022-10-21

法治国家と遵法義務

 この問題は何度も世に出てきていると思うが、法治国家のことを勘違いしている人がけっこういる。

表現の自由界隈からも「法律を超えたら表現の自由はない」ってのが無邪気に言われまくってるけどさ、じゃあ、「本日から漫画を描いてはいけない」って法律ができた瞬間、漫画を描く表現の自由はなくなるの?逆なんだよ。表現の自由が先にあって、それを侵さな範囲規制が許されるだけ。

https://twitter.com/jikapan/status/1582716271023398912

これに対して

自由侵害する法律が作られたら法の手続きに基づいて侵害されないように法改正をするのが法治国家自由行使なのだ

気に入らない法律は従わないではただのアウトローしかないのだ。

https://twitter.com/serast_km/status/1583274143444652032

のほか、同様の趣旨ツイート複数見られる。

 法治国家原理は、法律法規創造力の原則国民権利を新たに制限し、義務を課す法規範は国民代表議会のみが作ることができ、行政立法してはならない※)、法律の優位の原則行政活動は議会制定法に反してはならない)、法律留保原則国民権利を新たに制限し、義務を課す行政活動は、法律によって授権されていなければならない)から成り立つ。これらのどこにも、自由侵害する法律が作られたら、法改正を待つべきであり、あえて規制に逆らうべきではない、という議論は含まれない。

※これは行政に関する原理であるというのがミソで、私人同士で新たな義務を課すのは、原則として自由である。たとえば、100万円を借りるという金銭消費貸借契約を結べば、あなたはカネを返す義務を課されることになる。それに先だって国民代表議会の授権規範必要であるというのは馬鹿げている。しかし、原則自由からこそ、社会における事実上の力関係によって一方的立場が弱い契約を結ばされるということが起きる。そこで、契約自由制限する法律が制定されたり(例えば借地借家法を思い浮かべよ)、裁判所判例法理によって調整が図られることがある。

 二番目のツイートは、法治国家を(古代中国法治国家伝統もあって)遵法義務問題と取り違えているだけで、些末な揚げ足取りではないかと思われるかもしれない。しかし、遵法義務問題として考えてもおかしい。もちろん、国法は自らに従わない者に対して制裁の仕組みを用意することが多い。刑法にせよ、行政上の何らかの義務履行確保の手法にしても。刑罰という結果を避けるために従った方がベターであるというプラクティカル議論としては意味があるだろう(事実としての強制秩序の問題)。しかし、それと服従義務とを混同するべきではない。たいていの法学者は、不正な法に対して服従する義務はないと考えているのではないか(例:ラートブルフ「法律による不法法律を超える法」)。ラズなんかは、それを超えて、一般論としては国法への服従義務などない、と言っているようだ。

 

 ただ、これは難しい問題で、誰が不正かどうかを判断するのかという問題がある。万人が自らに都合の悪い法を不正である判断すれば、アナーキーとなり、宗教戦争の再来である※。しかし、実定法にただただ服従するべしと言えば、ナチスの法にも服従する義務があるのか(事実として強制されるからやむなく従うのではなく)と言われてしまう。結局、個々の法規範に則して個別的判断する他あるまい。上記ツイートでいえば、一般論として漫画という出版様式禁止無視たからといってアナーキーに陥ると考えるのは馬鹿げているであろう。


 現代違憲審査制は、こういった正義実定法ジレンマをなるべく起こさないようにするためにある。憲法人権という形で示された一般的正義原則に照らして裁判官実定法審査し、不正な法と認定した法規範の適用拒否するという仕組みが我々の社会には導入されている。ただ、裁判官の目をすり抜けてどうしようもない実定法が作られることがないとは言えない。立法者と裁判官にさしあたって頼らずに正邪を判断する視点を持つことは、自由民主的社会市民であり続けるために必要なことである・・・自分の頭で考えた結果、おかし結論に到達する人もいるかもしれないのが頭の痛いところだが、それが自由であるということである

 悪法といえども国法に従う義務があり、悪法をただすには法改正に賭けるべきという態度は、肉屋を支持する豚と言われてもやむを得ない※。

※ひょっとすると熱烈なホッブズ主義者なのかもしれないが、ホッブズ主義者なら、本当に当該禁止によってアナーキーが避けられるのかをもうちょっと真面目に検討するのではないか

参考文献

長谷部恭男『法とは何か[増補新版]』河出書房新社2015年

おまけ:

表現の自由』は憲法保証されているので、

それに反する法律は作れません。

意味のない仮定です。

https://twitter.com/MIKITO_777/status/1582999065138036736

 こうした見解に対する批判は本文中にも書いた通りだが、この人の中では、薬事法(古い名前だ)の薬局距離制限規定が作られたことはなかったのだろう。薬事法は、自分に関連する分野ではないのか(薬剤師ではないから、違うかな・・・)。

2022-05-27

anond:20220526235925

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ (著), くぼたのぞみ (訳) 河出書房新社

これでも読んでしこって寝な

2022-05-26

anond:20220526233648

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ (著), くぼたのぞみ (訳) 河出書房新社

2022-02-18

増田メンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい

私は「インターネット上で故人のブログが閲覧できる」ということを知り、廃墟サイトまとめを閲覧していた。

そもそも一体なぜ私が故人のブログに興味を持ったのかということについて述べたいと思う。中学生の頃、図書館南条さんの本を借りた。当時私はリスカアムカを常習的に行っていた。そのような自傷行為きっかけで南条さんの本に辿り着いたと記憶している。

本には、南条さんという人物について、また彼女インターネット上に残したものについて書かれていた。


「死んだらインターネットで公開したものが残り、さらには書籍化されるパターンもあるらしい」

衝撃だった。

南条さんは、生存した証をインターネット上に残して死んだ。いや、「生存した証がインターネット上に残ってしまった」と言い表した方が正しいのかもしれない。


さて話を戻すと、インターネット上で閲覧できる故人のブログというのが、二階堂さんの「八本脚の蝶」という日記サイトだった。利用されていたのは「@niftyホームページサービス」で、このサービスから推測できるように、当時はまだ世の中に気軽に開設可能ブログサイトは広まっていなかったのかもしれない。

二階堂さんもまた、南条さんと同様にに生存した証をインターネット上に残して死んだ。特筆しておくべき点が、二階堂さんは南条さんと異なり「自らの意志生存した証をインターネット上に残して自殺した」という点である


私は、南条さんも二階堂さんもインターネット上でリアルタイムにて追うことができなかった。そのことについてなぜか「残念だ」と感じてしまうの自分自身気持ち不謹慎でたまらなかった。

インターネットではブログサービスの代りに増田流行り始めた。私は主にメンタルヘルスについて発信している増田を好んで見ていた。そのうちそのクラスタ内のある増田について「どうやらあのアカウントの持ち主は自殺したようだ」と囁かれている場面に何度か遭遇するようになった。

このような場面を目撃し私は、非常にモラルの欠けた発言になるのだが「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と感じるようになっていた。


さて、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化され河出書房新社より発売された。文庫化されるという情報を得た時点で既に私は、自分の心の中で妙にひっかかるものを感じていた。故人の尊厳について考えた。

前置きは長くなったが、本編の日記を読んで感じたことを述べていこうと思う。



その日記は2001年6月13日水曜日から始まっている。

はいつの間にか、2001年当時自分が何をしていたかということについて思いを馳せていた。2001年6月13日水曜日、私は小学6年生だった。私は6年生のゴールデンウィーク旅行先で体調を崩し、風邪をこじらせてしま入院した。自宅で寝ていると熱がぐんぐん上がり、布団に包まっても寒くて寒くてたまらなかった。後になって改めて親とその話をしていると、どうやら熱性けいれんを起こしていたらしい。

ところで北海道運動会は春に行われる。私は運動会当日までに退院することができた。当時の担任先生が「持久走どうする?」と確認してきたので、私は「徒競走だけ出ます」と答えた。グラウンド5周の1キロなんて走りたくなかったのである

私にとってそんな小学最後運動会が終わり、初夏なのか蝦夷梅雨北海道にも一応梅雨のような時期が一瞬だけ存在する)なのかわからない曖昧気候の中で、小学生活を送っていた。おそらくそれが、私の2001年6月13日水曜日だったのではないかと思う。


2002年4月8日、月曜日。おそらくこの日に私は中学1年生になった。中学校に進学したといっても、私が通っていたのは小中併置校だった。わかりやす説明すると、小学生の教室が校舎の2階にあって、中学生教室が3階にあるということだ。つまり中学生になると階段を上る段数が増えるだけのことである

私は新学期の校舎の何とも言えないにおいに敏感な子どもだったので覚えているが、小学生のフロア中学生フロアとでは、においが異なっていた。中学生の階の廊下教室は、やはり中学生らしい大人っぽいとでも言ったらいいのか、とにかく少し変なにおいがしたのを覚えている。

4月も8日頃となると、多くの会社にとっては新年度区切りを迎えてから日経過したというところで、まだ新しい環境には慣れていないという時期ではないだろうか。

2002年4月8日の月曜日二階堂さんにとってのこの日は、ある本に引用されていた詩を見つけることができた日ということになっている。どうしても読みたくて探していたのだという。彼女にとってのちょっとした記念日であるように感じられる。


2002年の3月末~4月初旬の彼女日記確認してみると、すっぽりと更新されていない空白の期間になっていることがわかった。年度末から年度初めは、やはり忙しかったのだろう。

彼女文学部哲学科を卒業した後、編集者レビュアーとして働いていたようだ。新年度が始まって早々しかも平日に、ずっと探していた本が見つかったという出来事日記に書くほどに、彼女は本に対してかなり熱心な人物だったんだろうとぼんやり想像する。


2003年4月1日火曜日、この日は平日だ。

平日だが、二階堂さんの日記は「その一」「その二」「その三」「その四」「その五」「その六」「その七」、これに止まらず「その八」「その九」、さらに続き「その一〇」「その一一‐一」と綴られている。私はそのことに気付き、なんだか雲行きが怪しくなってきたと感じた。「その一一‐二」「その一二‐一」「その一二‐二」と日記は続くが、いくら新年度決意表明にしても長編すぎやしないだろうかと思う。「その一二‐三」の日記の次に、彼女はやっと翌日の4月2日を迎えられたようだ。

しかしその4月2日水曜日日記タイトルは「その一」とある。この日は「その七」まで綴られているが、分割されている記事もあることを踏まえるとトータル9回更新されたということなのだと思う。おそらく当時はスマホなど普及していなかったはずなので、勝手個人的な予想になるが、彼女は自宅で夜中になるまで複数回にわたってブログ記事投稿したのではないかと考える。もしくは、職場PCから小分けして投稿していたという可能性も考えられる。しかし、2002年4月8日月曜日日記から判断する限り、彼女であれば絶対にそんなことはしないのではないかと思う。


投稿あたりの文字数は、今でいうブログ(いわゆる収益化を目的としたブログ)と比較するとかなり少なく感じられる。

しか彼女複数回に及ぶブログ投稿現代増田で例えるなら、短文の増田をかなりの回数にわたって連投しているという状態に置き換えられるのではないかと思う。多くの人はそのような増田のことを、はてなーもしくはいわゆる「病み増田メンタルヘルス系の内容を扱う増田の中でも特に思春期中高生が該当するように思う)」に分類すると思う。事実私も、一晩にかけてそのように連投しているアカウントを見かけると、どうしてもメンタルヘルス系の悩みでも抱えているのだろうかと見なしてしまう。

さて連続して投稿された日記の内容はというと、私が生きてきた中でそのタイトルも作者も聞いたことがないような本から引用である。また、彼女が数年前に受け取ったと思われる知人から手紙引用している投稿も見られる。


ふと私は、おそらく二階堂さんは思考の整理のためにブログを使うというやり方をとるタイプ人間ではないだろうかと感じた。というのも私も時たまTwitterをそのような用途に用いるかである。そしてどういうときにその思考の整理をするかというと、それは「ものすごく死にたいが、どう対処していいか方法が見当もつかないときである。これについては、もしかするとピンとくる方もいるかもしれない。そのようにしばしば私はTwitter思考の整理を行う。なぜなら自分自身脳内の回転及びそれによって生じる思考インターネットに吐き出さなければ、到底処理しきれない状態に陥っているからだ。

そしてなぜあえてインターネット吐露するのかというと、リアル社会には私の話を聞いてくれる人が存在しないからだ。私にとって、リアル社会相手の様子を窺いつつ的確なタイミングでふさわしい言葉相談を持ちかけるという動作は、極めて難しい。過去に何度も相談時のコミュニケーション挫折する経験を重ねたことがきっかけで、そのような事態に辿り着いてしまったのではないかと疑っている。


彼女本心は今となってはわからない。そのため私のような人間が、勝手彼女自身を重ね合わせ、どこかに類似点があるのではないかとあれこれ想像してしまう。

ふと、彼女の死とはこのような在り方でよかったのだろうかと思わず考えてしまう。死後に自分作品が残るとは、そういうことなのだと思う。


2003年4月に私は中学2年生になり、無事に厨二病発症した。インターネットに本格的に参入したのは、この時期だったか記憶している。休み時間には、情報担当教諭ヤフージオシティーズアカウント取得を手伝ってくれた。

やはり、当時はまだブログがそこまで一般的ものではなかった。私はまずは無料レンタルスペース(現代でいうレンタルサーバーのようなもの)を契約個人サイトを作っていた。そしてレンタル掲示板を設置し、同盟バナーハッシュタグで繋がる文化など当然存在しなかったため、共通趣味で繋がる同盟という文化が主流であった)を貼り、繋がっていた。あの頃はそのような時代であった。

私は夜な夜な日記(これはノートに綴った日記であった。というのも夜はインターネットができない家庭環境にあったのだ)を書き、アムカをするようになっていた。田舎特有地域性、そこで生じた問題、そして本来の私の性格と一体何が根本的な原因であるのかはわからないが、ちょうど家庭内でもそこそこ大きな出来事が発生し、私は混乱のさなかにあった。

やがて私は個人サイトの別館を作るようになった。それはおそらく現代でいうTwitter複垢サブアカウント)のような類に非常によく似ているのではないかと思う。私はやがて、いかにも「メンヘラポエム(笑)」と晒されそうな文章を拙いながらも公開するようになっていた。


私は日本におけるインターネット内でポエム馬鹿にされる風潮にいまいち納得がいかないので補足するが、あの頃は「テキストサイト」とカテゴライズされる個人サイトが充実していた。現代詩ともエッセイともいえない、インターネットならではの文章ポートフォリオのようにまとめた個人サイトは、当時かなり多くみられたように思う。

このように、思春期も相まって私は何かと思いつめて過ごす時間が多かった。先に述べたアムカをするようになったのは、確か半袖を着なくなった秋頃だったか記憶している。


二階堂さんの日記は2003年4月26日の土曜日更新が途絶えている。4月26日というと私の誕生日の翌日なのだが、そんなことなど今はどうでもいい。4月26日の日記は、6回更新されている。「その一」「その二」「その三」、そして「お別れ その一」「お別れ その二」「お別れ その三」という題で投稿されている。

そしてその後に、おそらくこれは投稿時間を設定したことによる自動投稿なのではないかと思うのだが、「最後のお知らせ」が更新されている。その内容は、「2003年4月26日のまだ朝が来る前に自ら命を絶ちました」という旨を報告するものである


人の死についてあれこれ憶測することが心苦しいが、おそらく夜中のまだ朝が来る前に、最期のまとめとお別れの言葉を、何人かの対象に向けてそれぞれ投稿したのではないかと思う。そして、2001年から更新が続いていた日記ありがとうございましたという言葉で締めくくり、パソコンシャットダウンしたのかどうかはわからないがきっと彼女ことなら身支度を整えてどこか高い建物へ向かい、そして亡くなったということだと思う。


インターネット死ぬとはこういうことなのか。


断っておくと、私は『八本脚の蝶』すべてを読破したわけではない。二階堂さんが好んだ幻想文学などの専門分野について私は詳しくないため全文の理解が困難であるという言い訳により、私は挫折した。しかし何とも言えないモヤモヤとした疑問が残った。

冒頭で私は「インターネットに生きた証を残して伝説になるのも悪くはない」と述べた。再度ここで明記するが、『八本脚の蝶』は2020年2月に文庫化された。

しかするとインターネットに生きた証を残して自殺するということは最悪な選択肢なのではないかと私は思った。というのも、自らの意志に構わず書籍化され、需要編集者の熱意があれば数年後に改めて文庫化されるというパターンもあり得るということが今回わかったかである


果たして彼女はそのようなことを望んでいたのだろうかと、厚かましくも疑問に感じてしまう。世に広まるということは、全く想定していないターゲット層にまで届いてしまうということだ。もしかすると「自殺なんて弱い人間が行うことだ。自殺をする人間は敗者だ」などと主張する層に触れ議論を呼ぶこともあり得るかもしれない。

事実書籍化された『八本脚の蝶』は私のような読者にまで届いたし、加えて私は今こうしてこのような文章まで書いている。果たして私のこのような行為は許されるものであろうか。


文中で軽く触れたが、私にとって増田思考の整理のためのツールとして役立っている。

私は物心ついた頃より、「この子ぼんやりと過ごしているねぇ」と周囲から見なされることが多かった。しかしその一方で、「あなたは随分と真面目だね」などと言われる場面もたびたびあった。その理由について私は、私の脳は必要以上に過剰な思考を行っているためではないかと考えている。


私にはストレスや言いたいことを溜め込む傾向がある。「我慢しちゃだめだよ」とかなりの数の人たちから言われた経験がある。しかし、言える相手に言える範囲相談をし、さら増田で大量に噴出しても追いつかないのが残念ながら現状なのだ

私は、増田を含むインターネットとは「最後の砦」であると考えている。リアル社会で捨てきれない期待をインターネットに託している。もし私がインターネットに見捨てられたなら、どうにかして確実な方法で間違いなく命を絶つと思う。それほどまでに私はインターネットに縋り付いている。


果たしてインターネットは苦しみの最中に置かれた人間にとっての救いとなるのだろうか。

今となっては、様々な利用目的によりインターネットは利用されている。インターネット事業を興し収入を得る個人も随分と多く見かけるようになった。しかインターネット上に人が増えたわりに、一向に私はそこで救われることがないように感じる。

私はリアル社会の中で、絶望絶望を重ねている。冷静に振り返ると自滅して傷ついている場面が多いようにも感じられるが、何らかの救いを求めてインターネットに入り浸っている。もしも私がインターネット絶望しきってしまったのなら、それは完全に終了の合図だ。「死」以外に何もあり得ない。


インターネット彷徨っていると、「死ぬ以外の選択肢が無いために死ぬという選択を取った」という人間が多数存在することに気付かされる。

二階堂さんが一体どうして「八本脚の蝶」というウェブサイトを立ち上げたのか私にはわからない。もしかすると彼女日記のどこかで触れられているのかもしれない。  

しかし、私にはそのことについて何時までもこだわっている時間は無い。正直に言うと、小康状態を保ちながら生きていく上では、他人のことを気にかける余裕など皆無なのだ。そして当然なことであるのかもしれないが、健康人間にとっても同様に、いわゆる「生きづらい人」を気にかける余裕というものは本当に無いらしい。最悪の社会だと思う。

しかしその「最悪な社会」だからこそ、インターネットは救済希望者を受け入れて欲しい。私の意図することをより明確に言い表すなら、「すべての利用者インターネットを通じて他者を救済する世界であって欲しい」。


相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。

私は自分自身人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。


自分自身とよく似たパーソナリティ人物言動思考を知ること」は、抱えている苦しみを解消することにかなり役立つのではないかと思う。そのような情報医療機関提供してもらう機会が少なく、私はインターネットに救いを求めている。そういうわけで私は毎日欠かさずインターネットを利用している。

私はインターネットヘビーユーザーのまま亡くなっていったすべての人たちを観測したわけではないが、目にした限り彼らは社会に対する憎しみを叫ぶことなどせずにこの世を去っていったように思う。彼らに共通することとしては、後世に何らかの表現方法アドバイスを残し、そして希望を託して亡くなっていったように感じられる。


私は彼らから希望を託された側として生を続けたいと思う。そしてそれがいつまでの期間になるかはわからないが、インターネットに救いを求めつつも、積極的自分自身の不幸を開示していこうと考えている。

増田には、メンヘラにとって永遠に救済をもたらすサービスであり続けて欲しい。

2022-01-31

anond:20220130195853

君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ(北原白秋

年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり岡本かの子

早春レモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ(葛原妙子)

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ塚本邦雄

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(寺山修司

男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる(平井弘)

あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ(小野茂樹)


Twitterに名歌botがたくさんあるので適当フォローするといい

本だとちょっと古めなら『日本文学全集29 近現代詩歌』(河出書房新社)(上で引いたのはこの本から

新しめなら『桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表』(左右社)か

短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房)がおすすめ

2021-11-23

anond:20211123195140

>いま本で売れるのは骨太小説か、骨太ノンフィクション。軽い読みものが入る余地がなくなってきている。

2021年上半期ベストセラー

1 推し、燃ゆ 宇佐見りん 1400円 河出書房新社

2 スマホ脳 アンデシュ・ハンセン 久山葉子訳 980円 新潮社

3 星ひとみの天星術 星ひとみ 1200円 幻冬舎

4 人は話し方が9割 永松茂久 1400円 すばる舎

5 鬼滅の刃 塗絵帳−蒼−

鬼滅の刃 塗絵帳−紅− 吾峠呼世晴 各800円 集英社

6 52ヘルツクジラたち 町田そのこ 1600円 中央公論新社

7 本当の自由を手に入れる お金大学 両@リベ大学長 1400円 朝日新聞出版

8 秘密の法 大川隆法 2000円 幸福の科学出版

9 呪術廻戦 逝く夏と還る秋 芥見下々 北國ばらっど 700円 集英社

10 鬼滅の刃 風の道しるべ 吾峠呼世晴 矢島綾 700円 集英社

11 呪術廻戦 夜明けのいばら道 芥見下々 北國ばらっど 700円 集英社

12 鬼滅の刃 しあわせの花 吾峠呼世晴 矢島綾 700円 集英社

13 ブラック・ショーマンと名もなき町の殺人 東野圭吾 1800円 光文社

14 鬼滅の刃 片羽の蝶 吾峠呼世晴 矢島綾 700円 集英社

15 おしりたんてい おしりたんていの こい!? トロル 980円 ポプラ社

16 白鳥コウモリ 東野圭吾 2000円 幻冬舎

17 よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いか図鑑 大野萌子 1400円 サンマーク出版

18 元彼遺言状 新川帆立 1400円 宝島社

19 現代語訳 論語算盤 渋沢栄一 守屋淳 820筑摩書房

20 「育ちがいい人」だけが知っていること 諏内えみ 1400円 ダイヤモンド社

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

2021-06-18

純文学新人賞についての解説

純文学とは

純文学とは制度的には文芸誌に載っている小説作品のこと。芥川賞はこの文芸誌掲載から選ばれることがほとんど。

その文芸誌とは下の5つしかない。

まれ早稲田文学やその他のインディーズ雑誌から芥川賞候補に選ばれることはある。

純文学新人賞について

上記文芸誌5誌はそれぞれ新人賞主催している。

最終候補に残ると編集部から電話がかかってくる。いつその電話があるのか、公式には明らかになっていないが、過去経験者がブログTwitterでほのめかしており、5chの文芸創作板を見れば、だいたいの情報が集まっている。

9月末締め切り。最終候補の連絡は1月? 選考会は3月。受賞作は4月発売の文學界5月号。

10月末締め切り。最終候補の連絡は2月? 選考会は4月。受賞作は5月発売の群像6月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売の新潮11月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売のすばる11月号。

3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は8月。受賞作は10月発売の文藝冬号。

七年ラノベの賞に一次落ちし続けてたんだけど、やけになって純文学の賞に応募したらなぜか最終選考まで行った

https://anond.hatelabo.jp/20200519161343

この増田を読んだが、私はワナビとして、過去数年分の最終選考に残った作品の選評を読んでいるが、「書きたいことや日頃の鬱憤をごちゃ混ぜにして書き殴った」作品ひとつもなかったように思う。

あと5月の段階で、最終に残っているが、選考会がまだだという新人賞はない。

ちなみに小説新人賞については、優れたデータベースがある。

文学賞世界

https://prizesworld.com/prizes/

追記

上記の5大新人賞は、プロ純文学作家になるための賞である

プロ純文学作家とは、出版社から仕事を依頼され、原稿料の出る仕事をする物書きのこと。必ずしも物書き仕事だけで生活できるとは限らず(いやほとんどの作家はできず)会社員をしながら作品を発表しつづける人もいる。

ただ芥川賞を取って10年くらい生き残れば、どこかの私立大学創作学科教員になれたりすることが多い。

小説新人賞は、出版社主催する新人賞以外にも、地方自治体新聞社主催する、「地方文学賞」というのものがある。

地方文学賞は受賞しても、賞金がもらえるだけで(ただし上記の5大新人賞より賞金が高かったりする)、本も刊行されない。それはデビューとは言えないし、たぶん受賞した人もデビューだとは思っていない。当然、仕事の依頼とかは来ない。

(ただ地方文学賞でも本が出版社から刊行される太宰治賞という例外はある)

2021-04-03

anond:20210402191645

芸術作品存在価値は娯楽としての使用に耐えられてこそ認められるものではないか

西洋絵画史を少しでも齧っていたらこんな言葉が出るはずがない。偉そうなことを言う前に、己の無学を恥じて本の一冊でも読め。エルンストゴンブリッチの『美術物語』(河出書房新社)がお薦めだ。

2020-10-01

ネタバレ注意】『ラッシュライフ』の章題「最高時速240キロ場所から物語が始まる」考察

※※ご注意!※※

伊坂幸太郎著『ラッシュライフ』(新潮社刊)の伏線考察であり、トリック的な部分に深く触れています。未読の方はこの記事を閲覧しないことをお薦めします。

作家伊坂幸太郎さんの人気作『ラッシュライフ』。

画商と画家プロ泥棒新興宗教信者精神科医サッカー選手失業した男・・・つのストーリーが併走する、巧緻な群像劇ミステリーで、とても好きな作品である

先日、書店に行ったところ、作家生活20周年を迎えた伊坂さんのフェアがスタートしていて、伊坂さんのインタビューが載った特別記念冊子も置かれていた。このインタビューの中で「二十周年だから明かせる、作品に関する秘密」はあるかと質問された伊坂さんは、『ラッシュライフ』について興味深い発言をされていた。

ここに引用してみる。

ラッシュライフ』の冒頭の章扉に、「最高時速240キロ場所から~」と書いてまして、ある機会に一度話したことがあるんですが、あれって物語構成示唆している伏線なんですよね。その分野に詳しい人が、「あれ?」と違和感を覚えて、読み終えた後に、「そういうことだったのか!」と喜んでくれるんじゃないか、と期待していたんです。ただ、意外にそういった声は聞こえてこなくて、独りよがりだったかなあ、と少し反省しています(笑)。当時、最初の一行目にヒントがある、というのをやってみたかったのかな。


この「物語構成示唆している伏線」というのが気になってしまった。

引用文では「最高時速240キロ場所から~」と省略されているが、正しくは「最高時速240キロ場所から物語が始まる」。伊坂さんが話しているように、章扉に書かれている一文なので「章題」と呼ぶべきものだろう。

自分は『ラッシュライフ』は複数回読んでいるが、そういえば、この章題をさほど気に留めたことはなかった。

章扉の次ページからラッシュライフ』の本文になる訳だが、その始まりは「画商と画家」のパートだ。画商の戸田画家の志奈子は得意先回りのために「のぞみ500系」に乗車している。

から当然、「最高時速240キロ場所」とは、この「のぞみ500系」のことだろう。今まで単純にそう思いながら読んでいた。

これの何が「伏線なのだろうか?

1人でただ考えていても見当がつかず、何か手掛かりはないかと「のぞみ500系」でネット検索してみた。

すると、あれっ?と思う結果が出たのだ。

のぞみ500系」は2010年に引退し今は走ってはいないが、運行していた時の最高時速は「300キロ」だというのである

「240キロ」ではない。

では、この章題は、間違っている・・・

まさか「間違っていること」が「伏線」なのか?

やはり考えても分からなかったので、さらに『ラッシュライフ』の再読を進めることにした。

すぐに、あることに気づいた。

のぞみ500系」ではない、新幹線名前が登場するのだ。

文庫版(初版)だとp.21、ここから新興宗教信者」のパートが始まる。仙台駅近くの喫茶店で、信者河原崎がコーヒーを飲んでいるシーンだ。

河原崎がぼんやりと窓から眺めているのが、ホームに入ってくる「MaxやまびこE4系である

そこで、「MaxやまびこE4系」も検索してみた。

この車両2012年に引退しているそうだが、それはともかく。

その最高時速。

「240キロ」だった。

これはいったい、どういうことなのか。

重大なネタバラシをしてしまうと、『ラッシュライフ』は数日間の物語だが、時間的に古いエピソードから順に書かれている訳ではない。作者は5つのパート時系列を崩して配置しているのだ。その配置によって、異なるパート登場人物たちが接近しているように見えたり、時間を隔てたエピソード連続して起きているように見えたりする。そう見えることがさらに謎を生み、ストーリー錯綜しているように読者は錯覚してしまう。本書の読みどころは、その「騙し絵」のごとき、巧みな構成だ。

具体的に言えば、前述の戸田と志奈子の「のぞみ500系」乗車シーンは、冒頭ではあるが、実は物語の「いちばん古いエピソード」ではない。

では、時系列としての「ファースト・シーン」はどこなのか。

それがはっきり分かるのが、p.450からの本文。仙台駅前に白人女性が立っている。彼女スケッチブックを手にし、街行く人に声をかけて「好きな日本語」を書き込んでもらっている。登場人物たちがスケッチブックに書き込んだ順番がここで明かされることで、物語の正しい時系列が判明するのだ(本書には、このスケッチブックエピソード以外にも、読者が正しい時系列を把握するための描写が随所に散りばめられている)。

さて、スケッチブック最初に書いたのは、誰だっただろう。

それは「新興宗教信者」の河原崎だった。

時間的には、『ラッシュライフ』は河原崎のパートからスタートするのである

河原崎は喫茶店から、最高時速240キロの「MaxやまびこE4系」を眺めている。

最高時速240キロ場所から物語が始まる――

この章題は、「間違い」などではない。 

これは「MaxやまびこE4系描写されているシーンから物語が始まる」という意味だ。

物語の真のスタート地点」を暗に示した「伏線」だったのだ。

伊坂さんはインタビューで正解を語っていないので断定はできないのだが、「物語構成示唆している」とは、こういうことだろうと推測する。

インタビュー中の「その分野に詳しい人」とは、鉄道マニアのことだろう。

かに鉄道に詳しくないと、自力でここが「伏線」だと発見するのはかなり難しい。

鉄道が話の筋にに大きく関わる訳でもないのに、「500系」「E4系」と車両形式まで書かれていることにまず疑問を持つべきだったのだが、残念ながら今までまったく気にせずに読んでいた(戸田と志奈子は「のぞみ500系」を降りた後、東京食事をし、仙台へ向かうためにまた新幹線に乗るのだが、その場面では、ただ「東北新幹線」と書かれているだけ。愛称車両形式も記されていない。問題伏線とは関係ない新幹線なので描写する必要がなかったのだろう)。

それでも、伊坂さんからのヒントによって、こうして『ラッシュライフ』に秘められた、伊坂さんの洒落っ気、遊び心を知ることができて嬉しい。この作品がより好きになった。

最後に、『ラッシュライフ』の5つのパート構成については、『文藝別冊 総特集 伊坂幸太郎』(河出書房新社刊)に、詳細な「時間事件相関図」が掲載されているので参照するといい。

2020-07-23

全書・叢書・大系・文庫の類を適当

珍名文庫冨山房

冨山房漢文大系」

国民叢書(民友社)

立川文庫立川文明堂

岩波文庫岩波書店

岩波現代文庫岩波書店

岩波書店日本思想大系」

岩波書店日本近代思想大系」

岩波書店シリーズ世界周航記」

岩波書店日本古典文学大系」

岩波書店新日本古典文学大系

岩波書店新日本古典文学大系 明治編」

講談社文庫講談社

講談社学術文庫講談社

講談社ブルーバックス講談社

講談社文芸文庫講談社

講談社「興亡の世界史」

ちくま文庫筑摩書房

ちくま学芸文庫筑摩書房

筑摩書房近代日本思想大系」

筑摩書房現代日本思想大系

筑摩書房明治文学全集

筑摩書房世界古典文学全集

中公文庫中央公論新社

中公クラシックス(中央公論新社

中央公論社世界の名著」

中央公論社日本の名著」

平凡社ライブラリー

平凡社東洋文庫

平凡社世界教養全集

平凡社中世思想原典集成」

平凡社中国古典文学大系」

角川ソフィア文庫

光文社古典新訳文庫

河出文庫

戦史叢書防衛研究所朝雲新聞社)

ミネルヴァ日本評伝選

吉川弘文館歴史文化ライブラリー

国書刊行会叢書

大日本史

日本古代法典

古典文庫吉田幸一

国史大系経済雑誌社、吉川弘文館

日本評論社「明治文化全集」(明治文化研究会)

集英社「全釈漢文大系」

明治書院「新釈漢文大系」

明治文化資料叢書明治文化資料叢書刊行会、風間書房

明治大正農政経済名著集(農文協

昭和前期農政経済名著集(農文協

河出書房新社世界の大思想

春秋社世界思想全集

明徳出版社陽明学大系」

明徳出版社朱子学大系」

日本評論社「学生叢書」(河合栄治郎

こぶし書房こぶし文庫 戦後日本思想の原点」

有朋堂「漢文叢書

早稲田大学出版部漢籍國字解全書」

国民文庫刊行会「国訳漢文大成

国民文庫刊行会「続国訳漢文大成

2020-07-22

オタクジェンダー規範に関する研究を読もう

twitterでたまに、男オタクは女や非オタク男と比べて「男は仕事、女は家事」のような性別役割分業を支持する割合が高く保守的である、という結論の棒グラフが回ってきているのを見かける(例:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/phanomenologist/status/1228500960588124163)。あれはしばしばフェミニストによって「男オタク女性蔑視の表れ」のように引用されるが、そもそもどういう文脈で出てきた棒グラフだったかちゃんと確かめた人はいるのだろうか? そして、あのグラフをめぐって学者同士の意見対立していることはどのくらい知られているのだろうか?

ということで、以下であのグラフが出てきた文脈を紹介してみるよ! なお、増田は男オタクだけど、統計とか専門外だよ!

あの棒グラフの出典は、社会学者北田暁大による若者趣味に関する研究の一節である北田 2017: 291)。だがもちろん研究というものはそれだけで完結するものではなく先行研究の積み上げた文脈のもとに成り立つものだ。そして北田(2017)が特に目の敵にして批判しているのが、心理学者山岡重行による研究である山岡2016年単著において腐女子心理学的に分析し、腐女子恋愛観だけでなく彼女たちに向けられたイメージについても論じた(山岡 2016)。

山岡研究はどう評価すればいいのか難しい。確かに興味深い点が多く、たとえば2015年時点でもオタクに対する否定的イメージ存在し、そのなかでも腐女子は同じオタクから否定的に見られているということを学術的に明らかにしたこと山岡 2016: 99, 132)などは、オタクあいだでは公然事実とはいえ一定の意義があるだろう。しかし一方で、男オタク腐女子は相性が良いんだからもっと恋愛すればいいのにというようなアドバイス大きなお世話というかソバイスの極みであり、腐女子心理について質問調査のみに基づいてものを言うのはいいとしてもBL作品構造を論じる上でテキストクリティークを欠いていることは理解しがたい(山岡 2016: 229-230)。山岡データに基づく研究重要性を主張するが、物語構造などの質的な面に踏み込むのであれば、数字で示されたデータだけでなく様々なテクストに当たって読み込むという人文学的な手法採用する必要があるはずだ。心理学実証研究としては面白いが、実証以外の部分で余計なことを言い過ぎている、という評価をするのが最も良いだろうか。

では、それを批判した北田研究はどのようなものなのだろうか。実はこれ、読んでみるとわかるがかなりのツッコミどころの塊なのだ

まず、北田がこの調査で用いた方法論について確認してみよう。北田依拠しているのは、2010年練馬区1988年1990年まれの男女に対して行った調査である。つまり2020年現在アラサーに対して10年前に行われた調査に基づくデータである。このデータは、北田が中心となっている若者趣味についての共同研究の一環として採られたものであり、北田(2017)が収録されている本に収められた他の論文も同様にこのデータを出典としている。

北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ、男オタクの消費が東の言うようなデータベース消費である一方で女オタクすなわち腐女子(ここ、「ん?」と思う人が多いだろうけどとりあえず脇において続きを読んでほしい)の消費が関係性消費である、という先行研究提示される図式を踏襲する形で分析を進めていく。当然、ではこの論文で言う男オタクと女オタクってのはどんな集団を指すんだ、腐女子かどうかはどうやって決めるんだ、という操作定義が求められるわけだが、北田がどんな定義をしているのかを以下で見てみよう。

北田はまずオタク操作定義を示すが、この時点で首を傾げてしまう。たとえば「ライトノベルが好きだ」という質問はいいとして、「マンガきっかけでできた友だちがいる」や「アニメきっかけでできた友だちがいる」という項目は、そりゃそれに当てはまるオタク大勢いるだろうがコンテンツきっかけでできた友人がいるかどうかはオタクとしての本質に何も関係ないよね? もちろんこの研究では若者趣味というテーマを掲げていて、趣味人間関係がどう連関しているかという点も研究対象に入るわけだからそういう質問項目が悪いわけではないのだが、それをオタク定義に使われると困惑するほかない。やめてください! 友達がいないオタクもいるんですよ!

そして北田は、上記のような質問定義した「オタク」を更に「二次創作が好きか否か」で分類する。つまりオタクを「二次オタク」「非二次オタク」に区分し、それをさらに男女で分けるわけである。そしてこの「二次創作好き」というのを定義する指標として「マンガ二次創作(同じ登場人物で、原作ストーリーとは違うストーリーを考えたり読んだりすること)に興味がある」(北田 2017: 270)というのを持ち出している……えーっと、これだと、銀河英雄伝説』も『炎の蜃気楼』も『東方』も『アイドルマスター』も原典マンガではないので当てはまらないのではないか? この調査の後にヒットした『ラブライブ!』も『艦隊これくしょん』も『刀剣乱舞』も『ユーリ!!! on ICE』も、いずれも原作マンガではない。仮に私が当時練馬区に住んでいてこんなアンケートを渡されていたら、「私が買っているのはアニメ作品二次創作なんだけど……」と回答に悩んでいたことだろう。「作品」「コンテンツ」とでも言い換えれば済むところをなぜ「マンガ」と表現したのか理解に苦しむ。ゲームを全部ファミコンと呼ぶおかんかよ(この喩えもいい加減古くなってきたな……)。

さらにこの調査は、「二次創作が好きな女性オタク女性二次オタク)」と「二次創作が好きではない女性オタク女性二次オタク)」を区別しているが、肝心の二次創作の中身については区別していない。つまりBL同人を読んでいようが男女カプの二次創作をしていようが「女性二次オタク」だし、商業BL一次創作同人専門の読み手二次創作に手を出していなければ「女性二次オタクである。つまりこれは、二次創作が好きなオタクを析出することはできても、本質的に腐女子を析出できる調査ではありえない。もちろん同じことが男オタクにも当てはまり、女キャラ無駄淫乱になって男相手にサカる同人誌も女キャラ同士がプラトニックイチャイチャする同人誌も同じ「二次創作である。種つけおじさんレイプ百合区別できない質問項目をもとにデータベース消費と関係性消費の対立みたいなこと言っていいのかな……いやダメでしょ。

だが北田定義おかしさはこれに留まらない。彼はなんと、「二次創作好きでオタク度の高い女性を『腐女子』という言葉でまとめあげることにはもちろん問題がある。二次創作好きとBL好き、やおい好き、女オタクなどの差異を孕んださまざまな概念が交差する地点に『腐女子概念存在している」としつつも、便宜的に「『二次創作好きで、オタク尺度が高位2層である女性』を、操作的に腐女子と」定義している(北田 2017: 307)。はぁ???

言うまでもなく、腐女子の全員が二次創作に興味を持つわけではなく、二次創作に興味を持つ女性オタクの全員が腐女子でもないのだから(男女CP百合の愛好者はどうすればいいんだ)、この段階で北田研究対象を正確に捉えられていないことがわかる。BLが好き」という質問項目を入れてないのに「腐女子」の操作定義なんてできるわけないだろ! この問題については山岡からtwitterでツッコまれているほか(https://twitter.com/yamaokashige/status/1131363111636615168)、「興味」と「嗜好」を区別すべきだとも批判されている(山岡 2019: 21)。妥当な指摘だろう。意地悪なこと言うけどさ、これを注に放り込んでるのって悪意ありますよね?

さらに、男オタクに関しても、「二次創作好きオタク男性ディープ男性オタク」(北田 2017: 294)と記述している。当たり前だが二次創作にはたいして関心もないがディープオタクはいるだろうと言わざるを得ない。声優のおっかけを熱心にやっているオタクディープオタクではあるかもしれないが二次創作が好きなオタクとはいえないだろう。

総じて、北田研究は、オタクとしてディープであるか否かとか腐女子であるか否かといったことを、すべて「二次創作が好きか」で測ろうとしている。だがそれはとんでもない勘違いである二次創作好きな人ディープオタク腐女子であることとの間にはある程度の相関関係はあるだろうが、あくま論理的には一対一で対応しているわけではないのだからディープオタク定義したければ注ぎ込んだ時間やカネや知識量を、腐女子定義したければBL趣味の有無を、それぞれ尋ねるべきだったのだ(特に客観的な測定が困難な「ディープオタク」と違って、腐女子かどうかは「BLが好きだ」という項目を入れた上で性別と組み合わせれば一発で判定できるのだから、ここで手抜きをしているのは許しがたい)。

少なくとも山岡の著書にはパッと見で「おかしいぞ?」と思うような操作定義あんまり見当たらなかったのに、北田論文操作定義はパッと見でもわかるツッコミどころが多すぎる。これもうどんグラフ出されても信用できないでしょ。データの処理とか以前に操作定義おかしいんだもん。

で、北田にさんざんdisられた山岡は別の著書(山岡 2019)を発表して北田反論している。個人的にはその議論はおおむね妥当であるように思えたので、詳しく知りたい人は山岡(2019)を読むか、彼のtwitterを見てほしい。私は統計とか詳しくなくて、前提となっている操作定義おかしさは指摘できても、標準得点に差があることは「対極にある」ことを意味しない(https://twitter.com/yamaokashige/status/1125940271298990080)とか、このへんはまったく気づかなかったので。

最後に、北田山岡のどちらの研究おかしい、と思ったポイントがあるので言及しておく。

北田データ練馬区若者から採ったものであり、山岡データ都内複数私立大学学生から採ったものである。つまり東京圏居住しているか、通える距離に住んでいる若者データに偏っており、さら後者大学生のみのデータとなっている。これが血液型性格判断の話であればいいかもしれないが(よくないけど)、オタク文化拠点東京などの大都市に集積していることと、就労等によって趣味との関わり方が変化すること、そして趣味学歴が及ぼす影響を考えると、東京圏若者」のみに焦点を合わせて「オタク」の全体像を論じることは適当ではない。そこで集められたサンプルは、オタクコンテンツが身近に溢れていて可処分時間が多く学歴も高いオタクサンプルに過ぎず、オタク代表例とも若者代表例ともいえない。

とはいえ、では他にどういう調査のやりようがあったのか? というと、思いつく計画がどれも高額の研究費を要求するものになってしまって個々人の研究ではなかなか厳しい。少なくとも、東京だけでなく日本全国(最低でも、大阪札幌などの東京以外の大都市圏)からサンプルを抽出することは必要だろうし、そのサンプル調査には大勢非オタクも引っかかる以上はサンプル数もそれなりのものにする必要があるだろうし……こういう大がかりな質問紙使った研究ってやったことないかイメージ湧かないんだけどどんくらい金かかるんだろう。

それと、北田山岡統計データを重視しているので、あえて質的研究には踏み込んでいないのだろうが、それでもやはりいずれの研究当事者の言説分析を欠いていることは大きな欠点であろう。オタク自分たちについて膨大な自分語りを残してきており、それを悉皆調査すべきだとは無論言わないが男オタク腐女子自分たちのことをどう語っているのかも踏まえた上で論じられればなお良かったんじゃないかな。もちろんそれは大規模な質問調査並にめんどくさい手続きであり、代表性とかどうやって保証するんだ、という感じではあるのだが、せめてオタク自身の手になる非学術的な文献はもっと多く引用されていてもよかったのではないか。それは一歩間違えば大塚英志(2018: 136-140)が指摘するような当事者営為無視した簒奪的な研究にもなりかねない、と思う(もちろん彼らは文化のものを論じているわけではないので、文化を論じる研究者に求められるほどの慎重さは要求しなくてもいいとは思うが)。

いやでもやっぱりこれ北田(2017)のほうがひどいわ。山岡(2016; 2019)の操作定義を見てると、彼自身オタクではないにせよ、趣味によってつながる人間関係のありようみたいなのを肌感覚でわかってるって感じがするけど、北田定義トンチンカンなんだもん。もしわかった上でやってるならクソだけど、仮に本気でああい定義を持ち出してきたんだとしたら、それはもう根本的に趣味でつながる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないってことだよね。趣味人としてのリアルからかけ離れすぎてるんだよな。

あと北田研究がひどすぎるからって社会学全般が悪く言われないといけない理由はないので念のため。北田研究別に社会学者なら誰もが参照してしかるべきみたいな位置づけのそれではないので……

追記

よく分からんのだが、その北田氏の研究がいい加減なものだとしても

2007年練馬区若者においては、漫画アニメが好きで二次創作を好む男が

それ以外と比べて保守的男尊女卑傾向だ、って事はとりあえず事実、って事になるのでは

anond:20200722104112

これ、回答の平均値じゃなくて標準得点を元にしたグラフなのよ。標準得点をもとにそんなこと言えるか? って山岡批判してるからそれ読んで(https://twitter.com/yamaokashige/status/1126035720122953729)。

ワイが間違ってたわ。言えるっぽい。すまん。

続きはanond:20200722142616で。

文献一覧(あいうえお順)

2020-02-09

今日も女は

なんで野蛮な男の中で性別理由差別されてきた純粋無垢な私達みたいなノリなんだろうな?

ガルちゃん小町や女向けまとめサイトや5chの女が多い板、みんな叩きに愚痴ネタばっかりやん

2019-10-19

anond:20191018131310

なるほど、という気持ち

非常に勉強になった。

一般的フェミニストたちは感情が先行して結論だけ書くことが多いので、当人がどのような思考回路でその結論に至ったか外側からではよくわからないことが多い。

その結果アウトプット支離滅裂であることもあり、これがいわゆる「お気持ち案件」が嘲笑される一つの原因なのではないかと思われる。

その点、この元増田は冷静に思考の流れを書いていてくれるので、彼女たちがどうやってその結論に至ったのかがかなり伝わりやすい。

その意味だけでも、この元増田文章は非常に価値がある。

その上で、個人的に感じた元増田論理の飛躍を以下に数点指摘していきつつ、日本赤十字擁護をしていこうと思う。




A.) 「誰かに許可なくジロジロ見られない権利」はあるのか?

その人権の中には、

・誰かに許可なく触られない権利

や、

・誰かに許可なくじろじろ見られない権利

や、

安心して生活を送る権利

などが含まれる。

女性性的な目で見る」行為は、女性のこのへんの権利侵害している。

さて、人権は非常にデリケート問題だ。この一点をもってしてもかなりの議論必要になる。

かに何かをされない権利存在は、本質的に誰かに何かをする権利規制になるからだ。

「誰かに許可なく触られない権利」の存在は「誰かに許可なく触れる権利規制」であり、暴行罪存在がこの規制をしていると言えなくもないかもしれない。

しかし、誰かを許可なくジロジロ見ることを規制する法律は、少なくとも現時点では存在しない。

ストーカー規制法が近い役割を持っているかもしれないが、今回想定されているシチュエーションは間違いなく異なるだろう。

からと言って街中で誰かが目に入ることを規制するというのは社会活動を行う以上ありえないことは自明である

今回想定されるのは「偶然目に入る」以上「ストーカー行為」以下の「ジロジロ見る」という新しい概念提唱と、その規制だ。

全ての権利規制は、非常に慎重でなければならない。

そして誰かの権利規制したいときは、規制側に「なぜこの権利規制すべきか」の立証責任がある。

しかし多くのフェミニストたちが、自分たち不愉快におもう権利規制されるべきであると考え、それが自明であるかのように振る舞う

今回であるならば元増田に、少なくとも「ジロジロ見る」の定義を行い、それが規制されるべき理由を示す義務存在するが、それすら飛ばされていきなり自明のものとして扱われている。

大きな論理の飛躍ひとつだ。



B.) 「宇崎ちゃん」は、「萌え絵」か?

「宇崎ちゃん」は、「萌え絵である

萌え絵」とは、エロゲールーツに持ち、人間身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。

そして、そのディフォルメの目的は明らかに身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである

この文章は一行目と二、三行目の間に大きな論理の飛躍がある。

一見、一行目は正しいようにみえる。

「宇崎ちゃん」は、一般的定義(例えば、Wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/萌え絵)による解説に当てはまるかどうか)でいえば、確かに萌え絵だ。

しかし、ここでの「萌え絵」の定義は二、三行目に記されており、これに従うと一見正しく見えた一行目に疑問が湧いてくる。

試しに、以下のように書き換えてみよう。

萌え絵」とは、エロゲールーツに持ち、人間身体的な特徴をディフォルメし、大げさに描くことで、独特の雰囲気を持つイラスト、とここでは定義する。

そして、そのディフォルメの目的は明らかに身体を魅力的に描くことであり、さらには、それを見る人の目を楽しませ、性的な興奮を呼び起こさせることである

「宇崎ちゃん」は、「萌え絵である

単純に文章の順番を入れ替えただけだ。そしてこれこそ、本来書くべき文章の順序だ。議論のもととなる定義最初に示すべきである

しかしこう書くと飛躍はさらに明白になる。

「宇崎ちゃん」が元増田定義の「萌え絵」にあてはまる理由説明がなされていないのだ。

今回の定義の「萌え絵」が一般的定義萌え絵を全て内包しているのであれば、

1. 「宇崎ちゃん」は一般的定義上の萌え絵である

2. 一般的定義萌え絵は、全て今回の「萌え絵」でもある。

3. よって「宇崎ちゃん」は今回の定義上も「萌え絵である

となるのだが、残念ながらこれは偽である

一般萌え絵アニメキャラかわいい理由は、それが人間赤ちゃんに似た特徴を持つからであり(https://www.dplay.jp/article/0000017682)、性的に興奮させられるからではない。

性的な興奮は、あくまでそう感じる人もいるというだけだ。

元増田はまた、「萌え絵」に対して

身体をディフォルメして魅力的に描いて」、「人の目を性的に楽しませる」という趣旨イラスト

としているが、それなら河出書房新社が発刊する絵本が好きな子供はかなり気色の悪い状態であるということになる。

しかし実際、こうした絵柄が子供からも人気であることは同社のTwitterアカウント2018年11月8日言及している。

このことからも単純に一般的萌え絵と今回の「萌え絵」を結びつけ、「宇崎ちゃん」のイラストを「人の目を性的に楽しませる」趣旨であると断定することは軽々にはできない。




C.) 「意図しない隠れたメッセージ」を抽出することは妥当か?

ここまで読んでくださったみなさんには、きっと分かってくださることと思うが、メッセージときに、発信者意図しない隠れたメッセージを伝えてしまう。

そして、そのメッセージによって、傷ついたり、安全を脅かされたりする人がいることを、発信者は常に意識する必要がある。

一般論として、これは正しい。

権力者公共の場に限らずとも、なんらかのメッセージを発するものは、そこに「誤解」がしばしば発生する可能性には注意するべきである

それはこの文章を書く私も、元増田も同様であり、「匿名掲示板から誤解を招くような不完全な文章を書いてもいいや」とはなるべきではない。

しかしそれは、あくまでも誤解を招くことに注意するべきである、ということだ。

意図しない隠れたメッセージ」の抽出には誤解以上の「曲解」が入ることも多々ある。

そしてその線引きもまた、簡単ではない。

その気になれば誰かの言葉から意図しない隠れたメッセージ」を抽出することなどとても簡単だし、それを規制したり撤回させようものなら言論封殺も容易に行える。

力あるものが、公共の場で発信するときに、意図としないメッセージを汲み取って、それを批判する。

これを無秩序に行うことを可能とした場合、例えば以下のような芸当も可能となる。

"""

知名度のある弁護士

②誰でもアクセスできるインターネット上にて

フォロワーの多いTwitterアカウントを使って

オタクコンテンツ批判を行なった

以上、①②③④の全てが揃ったことにより、太田啓子弁護士は「全てのオタクセクハラ加害者であり、その人権規制するべきである」という「隠れたメッセージ」を発信した。

これは明らかなる人権侵害であり、太田啓子弁護士は今回の日赤ポスターの件に関して謝罪して撤回するべきである

"""

以上の命題が真であるならば、日本赤十字表現問題視する声をあげることはできない。

であるならば、そもそも日本赤十字表現問題視ではない。

このような奇妙な状態が生まれしまう以上、「意図しない隠れたメッセージ」の抽出には慎重になるべきだし、誤解と曲解の間にもある程度の区別は設けるべきだ。

それをやらずして、この議論推し進めていくことはかなり難しい。





D.) 日本赤十字問題なのか?

仮に上記までの問題をすべて受け入れ、あるいは譲ったとしよう。

なるほど、人には「ジロジロ見られない権利」もあるし、「宇崎ちゃん」は今回の定義上も「萌え絵」だし、「意図しない隠れたメッセージ」を日本赤十字はばらまいたとしよう。

しかし、果たしてそれが日本赤十字問題なのか?

そのメッセージがある空間、そしてそのメッセージが許される社会で、「すべての人には人権があり、その人の体は、その人だけのものである」という意識を、みんなに持ってもらうのが難しくなる。

自分の体を、許可なく性的な目で見られたくない人は、その社会では安心して生活できなくなる。

安全暮らしが脅かされる。人権侵害に繋がる。

元増田はしているが、仮に「誰かの身体許可なく性的な目で見ることは人権侵害である世界であったところで、それはあくまで、「誰かの身体許可なく性的な目で見た」人間が悪いのではないだろうか?

まず罰し、規制するべきは「誰かの身体許可なく性的な目で見た人間」であり、日本赤十字ポスターではない。


そもそも論として、こうしたポスター存在することにより人権意識希薄になってしまうということがすでに論理の飛躍だ。

それを示すデータはどこにもないし、数字には見えないなどといって逃げることも許されるべきではない。

オタクコンテンツは昔から、「ゲームをするとゲーム脳になる」「ひぐらしのなく頃に暴力事件を誘発する」などとあらぬ批判を受けてきた。

からこそオタクは、何の証拠もなくそコンテンツ規制されることに大きな抵抗を覚える。

真に人権意識改善し、適切に規制を行いたいのであるならば、こうしたエビデンスを示していくことが規制派に課せられた義務である




以上、ざっと目に止まったところを書き出してみた。

この長文をここまで読んでくれた人がいるのなら、心から感謝する。

2019-06-22

独断偏見で選ぶ、動物を使った心理学に関心のある学生に勧める書籍30選

動物心理学」は動物学習、知覚、認知生理機構といった諸形質の放散と収斂の原理過程の解明を目指す心理学の一領域である

心理学全体の中ではマイナーではあるが、国内研究者の集まりである動物心理学会」は、実は数少ない戦前から続く (1933年発足) 学会であったりもする (ただし、悲しいことに、動物心理学が学べる大学は減り続けている)。

だが、動物心理学を学びたいと思った学生が、何から手を取ればいいのか、あまり紹介の記事が世に出回ってない気がした。そこで、独断偏見で、オススメ書籍を挙げてみた。番号はオススメ順とかではなく、特に意味はない。気になったものを読めば良いと思う。

(1) 動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (技術評論社)

藤田 和生 (著, 編集), 日本動物心理学会 (監修)

日本動物心理学の主だった研究者たちが、動物心理学代表的研究について平易に語った本

(2) パピーニの比較心理学―行動の進化と発達 (北大路書房)

マウリシオ・R. パピーニ (著)

日本語で鈍器のような大きさでまとまっているのはこれくらいか

(3) 鳥能力―小さな頭に秘められた驚異の能力 (化学同人)

渡辺 茂 (著)

鳥類の行動とその神経基盤について解説した本

筆致が軽やかで、ベッドの上で寝転がりながら読んでも十分に理解できる。書名通り鳥限定であるが、名著である

(4) ハトがわかればヒトもわかる―比較認知科学への招待― (共立出版)

渡辺 茂 (著),

同著者がハト比較認知科学研究に特化して書いた本

心理学ではハト伝統的によく使われる。

(5) ソロモン指輪動物行動学入門 (早川書房)

コンラート ローレンツ (著)

動物行動学の創始者ローレンツいか動物と向き合い、その行動を観察していたのかを記したエッセイ

ローレンツ論文は難解で読みづらいことで有名だが、一般向けの著書は対照的に驚くほどとっつきやす

(6) タコの心身問題――頭足類から考える意識起源 (みすず書房)

ピーター・ゴドフリー=スミス (著)

哲学者である著者がダイビングタコイカと接することを通じて彼らの生き方

タコとて侮るなかれ。動物心理学を志す者が覚えていてほしい動物との向き合い方がぎっしり詰まった一冊である

(7) 動物心理学史―ダーウィンから行動主義まで (誠信書房)

R. ボークス (著)

動物心理学が、いかなる過程独立した分野として成立したのかを述べた本

傑作である絶版なので図書館で探そう

(8) 種の起源 (光文社古典新訳文庫)

ダーウィン (著)

言わずと知れたダーウィン古典である。いつ読んでも何かしら発見があるもので、それが古典古典である所以なのだ

余談だが、動物行動学の論文ダーウィンが扱った問題を再び取り上げるときは “Charles Darwin once said…” という殺し文句で始めることがある。

(9) 遺伝子から解き明かす脳の不思議世界 (一色出版)

滋野修一 (著), 野村真 (著), 村上安則 (著)

「脳」の起源と、その発生、さらには脊椎動物の脳のデザインいかに生じたのかを、ホヤから霊長類研究者まで多彩な研究者が論じた本

図や動画が手に入るURLQRコードがついてくる嬉しいおまけつき

(10) 感覚器の進化―原始動からヒトへ水中から陸上 (ブルーバックス新書)

岩堀 修明 (著)

はいかにして出来上がったのか?感覚器 (視覚聴覚、触覚、嗅覚、味覚) が現生の形になった進化道筋解説した本

(11) 生物から見た世界 (岩波文庫)

ユクスキュル (著), クリサート (著)

比較生理学の祖、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが豊かな想像力動物生理学的機序からその「環世界」について語った本

名著中の名著である

(12) 動物環境と内的世界 (みすず書房)

ヤーコプ・V・ユクスキュル

同著者が、生物の生きる、その固有な世界像について、当時の解剖学的知見と合わせてより詳しく解説した本

(13) あなたのなかのサル霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 (早川書房)

フランス・ドゥ・ヴァール (著)

チンパンジー研究者大家、ドゥ・ヴァールの一般向けの著書

ドゥ・ヴァールはかなり擬人主義的な研究者で、研究者によって評価が真っ二つに分かれる。動物心理学一枚岩ではない。氏の著作同意するかどうかは、自分をどのような立脚点に置きたいのかをはっきりさせる意味でも一度は目を通すと良いだろう。

(14) 心の先史時代 (青土社)

ティーヴン ミズン (著)

人間の心はいかにまれたか?スティーヴン・ミズンは「元は個別用途進化させた認知機能が、文脈を問わず適用できるようになった」認知流動性により、高度に柔軟な我々の心が生じたと考える

内容は既にやや古いが、独創的な論考の面白さは色褪せない

(15) 行動理論への招待 (大修館書店)

佐藤 方哉 (著)

行動主義心理学エッセンスが詰まった本。絶版なので図書館で探そう。

「行動主義」的なもの見方は、認知研究では棄却すべき対立仮説として扱われることが多い。しかし、実際にはその対立仮説は多くの場合単なる誤解であり、藁人形を叩いているに過ぎない。

(16) 認知心理学有斐閣ニューリベラルアーツ

箱田 裕司 , 都築 誉史 他

比較認知科学は、動物心理学の中でも、動物認知機能を種間で比較し、その種差や共通性を描出する分野である比較認知科学実験では概念手続き認知心理学のものを援用することが多い

従って、認知心理学についてよく知るのが重要なのは至極当然なのだ

(17) キャンベル生物学(エッセンシャル版)

池内 昌彦 (監修, 翻訳), 伊藤 元己 (監修, 翻訳), 箸本 春樹 (監修, 翻訳), 道上 達男 (監修, 翻訳)

今日科学の分野間の壁はますます小さくなり、生物学と動物心理学をことさら区別する必要性も薄くなりつつある。

とはいえ原書版は鈍器のように重たいので、エッセンシャル版の方が挫折しないと思われる。

(18) カールソン神経科学

泰羅 雅登 (監修, 翻訳), 中村 克樹 (監修, 翻訳)

同様の理由で、自身神経科学を取り入れるか別に神経科学についてもどこかで通っておいた方が良いかと思われる。

そもそも、「動物心理学に固有」な方法論というのは現代にはなく、近隣領域連続的なつながりを持って成立しているのだ。

(19) 流れを読む心理学史 (有斐閣アルマ)

サトウ タツヤ (著), 高砂 美樹 (著)

心理学の成り立ちに関して、コンパクトかつしっかりまとまった本

歴史を学ぶと、どこかで役に立つ。物理学者エルヴィン・シュレディンガー言葉を引いておこう。

歴史は, あらゆる学問の中で最も基本的ものである。なぜなら、人間の持つ知識には、その成立条件や解決してきた問題や, 果たすべき機能が忘れ去られた場合, その学問的意義を失わないもの存在しないかである

サンキューシュレディンガー

(20) 視覚科学 (勁草書房)

横澤 一彦 (著)

別に動物研究の本ではないが、視覚についてよくまとまった本

視覚に興味があるなら、読んでおいて損はない。

(21) メイザー学習と行動 (二瓶社)

ジェームズ・E. メイザー (著), James E. Mazur (原著), 磯 博行 (翻訳), 坂上 貴之 (翻訳), 川合 伸幸 (翻訳)

学習完全に理解したマンになりたい人が必ず読む本。学習完全に理解したマンになりたいなら読もう。

次に読む本としては『オペラント心理学入門―行動分析への道』も良い本である

(22) 古典的条件づけの理論―パヴロフから連合学習研究最先端まで

入門レベルでは「犬とベルと唾液」くらいにしか教わらない古典的条件づけがいかに奥深く、理論的な探求に富んだ領域なのかが概観できる。例えるなら魔術書である

(23) 感じる脳 情動感情脳科学 よみがえるスピノザ (ダイヤモンド社)

アントニオ・R・ダマシオ (著), 田中 三彦 (翻訳)

これも動物研究者の本ではないが、ダマシオは身体性を重視する立場認知神経科学の方向を作った一人だ。

ダマシオは多作で、『デカルトの誤り』『自己が心にやってくる』など、他の著書も面白い。

(24) 盲目時計職人 (早川書房)

リチャード・ドーキンス (著)

進化学流布の急先鋒ドーキンス一般向け書籍。同氏がスリリングな筆致で進化について語る。

利己的な遺伝子』の方が有名だが、オシャレさでは『盲目時計職人』の方が上だ。

(25) 脳の中の幽霊 (角川書店)

V・S・ラマチャンドラン (著), サンドラブレイクスリー (著)

これの動物研究者ではなく、ヒトの神経科学者の本であるが、大変面白逸話がたくさん載っているので挙げた。

続編に『脳の中の幽霊再び』『脳の中の天使』も出ていて、どれも楽しく読める

(26) 鳥たちの驚異的な感覚世界 (河出書房新社)

ティムバークヘッド (著), 沼尻 由起子 (翻訳)

鳥にも我々と同じように目・耳が二つ、舌が一つ、皮膚には触覚受容器が備わっている。しかし、世界の見え方はまるで違うことがわかっている。彼らの感覚世界について、鳥類学者一般向けに語った本

(27) 実は猫よりすごく賢い鳥の頭脳 (エクスナレッジ)

イサンエメリー (著), 渡辺 智 (翻訳)

鳥の代表的認知研究について、各項目2p程度でまとまった入門書。どんな研究が、どのような方法で行われているのか、ざっと知るにはぴったりである

ちょっと邦題間抜けな感じがするが、原題は "Bird Brain: An Exploration of Avian Intelligenceである

(28) 脳科学と心の進化 (岩波書店)

渡辺 茂 (著), 小嶋 祥三 (著)

生物という視点から「心」がどのように形成されたのかを解説した本

まとめ方が独特だが、面白いことには間違いない

(29) 「つながり」の進化生物

岡ノ谷 一夫 (著)

動物コミュニケーションはヒトの「人間らしさ」について何を語るか?

元が高校生向けの連続講義であったらしく、大学生なら誰でも読める。

おまけ

(30) ご冗談でしょうファインマンさん (岩波書店)

リチャード P. ファインマン

ノーベル物理学賞を授賞した天才物理学者ファインマン好奇心に満ちた生涯について書かれた伝記

読めばきっと、未知への興奮と探究心、そして科学への憧憬が刺激されるに違いない

2018-11-09

けむに巻かれたと感じるような読解力の人

anond:20181109103232

萌え絵というもの志向したわけではなく、

子供自身が飛びつく絵にしたいと考えただけなので、

「なぜ萌え絵にしたのか」と質問されても答えられない、

説明するならば「こういう絵のほうが子ども自身が飛びつくと考えたからです」

ということになるだろうが、何度言っても理解してもらえない、

という主旨であって、

それに「事実として萌え絵じゃん!」と指摘するのは意味不明だよ。

もちろん「何が萌え絵かなんて共通認識はない」というのも含めてね。

他人の言い方を「頭の良い」ように感じてしまうのは自分頭が悪いからだ、ということを理解してほしい。

2017-04-12

奈良の夜は早いというステレオタイプ

最近、『もんくもん』(読売テレビ)や『ちゃちゃ入れマンデー』(関西テレビ)、『VOICE』(MBS)などで「奈良5時くらいから店閉まるもん。全部そう」「年に一回くらいしか外食しないんか?」などと言われる。

これは昔からで、具体的な名前を出すと、関西人の謎ですねん!(河出書房新社)、月曜から夜ふかし(日テレ)、第1次さんま内閣!(フジ)、産経新聞VOICE(MBS)Nスタ(TBS)All About News Dig奈良あるある(TOブックス)、世にも不思議なランキング(TBS)、ten.(読売テレビ)、ロケットニュース24日経新聞、おとな会(MBS)、まぐまぐニュース!、今ちゃんの「実は・・・」(朝日放送テレビ)、ならナビ(NHK奈良放送局)、ニュースほっと関西NHK大阪放送局)、ちゃちゃ入れマンデーなどきりがない。

だって奈良なんだから」と思われるかもしれないけど、土産物店飲食店を一緒くたにしないでほしい。

過去に、産経新聞の「主要駅周辺の飲食店の多くが午後8時に閉店する」という記述反論するために各メディア文書が配布されたことがあるけれど、それによると

・ 東向商店街にあっては、31店舗のうち20時で閉店するもの喫茶4店舗うどん2店舗和食1店舗の7店舗のみで、多くの店の閉店時刻は22時となっていること。

小西さくら通り商店街にあっては、30店舗のうち喫茶系6店舗お好み焼き2店舗和食2店舗20時までの閉店であり、多くは22時から23時、場合によっては午前1時頃まで営業する店もあること。

飲食店の少ない餅飯殿商店街においても、16店舗のうち20時までの閉店は、うどん店とレストランの各1店舗のみであり、多くは22時から24時が閉店となっていることがわかります

https://www.facebook.com/permalink.php?id=126514210892904&story_fbid=243353179209006

となっていて、飲食店に限れば早々と閉める方が少数派であることがわかる。

2017-03-13

レバ刺しについては忘れよう

レバ刺しについては忘れよう。

レバーは、ペーストにしやう。ナガタユイ

@book{2014テリーヌ,

title={テリーヌ\&パテ: とっておきの本格レシピが誰でも作れる},

isbn={9784309284927},

year={2014},

publisher={河出書房新社}

}

2015-05-21

新しいリベラルアーツのためのブックリス

リベロ池袋本店リベロ福岡天神店で開催された「新しいリベラルアーツのためのブックリスト」フェアがとても良く、僕も何冊か読んだので、感謝気持ちを込めてリストします。

1〜2[人=分野]/[日]ぐらいのペースになりそう。

2014-12-31

社会的生化学的影響が、誰が生殖するのかを決めることもある

ドブネズミ交尾時、ライバルのオスがいると、より多くの精子を射出する。生殖競争は、卵管を経て卵子の表面に至るまで続くかららしい。同じ理由から類人猿の精巣の大きさは競争相手のオスの数に比例する。過酷競争条件下にあるオスのチンパンジーは、実に巨大な生殖器を持っている。一方、ハーレムの中で唯一のオスとして君臨するゴリラ場合は、あまり生殖器は発達していない。これが進化道理であり、ライバルのいないオスには、父親になる確率を上げるための特別適応必要ない。

以上、ジョン・T・カシオポ、ウィリアムパトリック孤独科学 ー 人はなぜ寂しくなるのか」 河出書房新社2010年、p.180 より。

オークの男女比はオス99対メス1なので、他のオークのオスの精子を掻き出すために、巨大なエラを張ったペニスを持つように進化したとか、大量の精液を射出するように進化したとか、そういう設定で誰かエロ漫画描いてくれませんかねぇ(ゲス

2010-05-28

河出書房新社馬鹿野郎。

ああ、でも、そういうところが好きだったんだよなあ。

2009-01-07

[][]アベレージは簡単に人を殺す

森達也

http://mainichi.jp/enta/book/kyodoInterview/news/20090104org00m040005000c.html?link_id=TT002

「(人の)アベレージは簡単に人を殺す」と作中にあります。

 殺すと思います。つい最近ノーベル賞作家クッツェーの「鉄の時代」(河出書房新社)を(読んだのですが)、南アフリカ作品なんだけど、アパルトヘイト断末魔の時代で、それまで黒人迫害してきた白人がおびえちゃって、どんどん自警団を作るんです。で、その自警団が黒人を見て「線を越えた、あいつをぶっ殺せ」っていう作品で。

2008-09-07

イスラムオタが非オタ彼女イスラム世界を軽く紹介するための10冊

http://anond.hatelabo.jp/20080721222220

まあ、どのくらいの数のイスラムオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らないイスラム世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、イスラムのことを紹介するために見せるべき10冊を選んでみたいのだけれど。

(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女アニメ布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う4巻、6巻のシリーズは避けたい。

できれば新書文庫、長くても単行本一冊にとどめたい。

あと、いくらイスラム的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。

映画好きが『カリガリ博士』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼女の設定は

イスラム知識はいわゆる「テレビまんが」的なものを除けば、高校倫理世界史程度はかじっている

サブカル度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずは俺的に。出した順番は実質的には意味がない。

井筒俊彦イスラーム文化』(岩波文庫

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「井筒以前」を濃縮しきっていて、「井筒以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。厚さも文庫一冊だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。

この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

片倉もとこ『イスラーム日常世界』(岩波新書)、桜井啓子『日本ムスリム社会』(ちくま新書

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな入門書(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのものという意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

イスラムオタとしてはこの二つは“エッセンス”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

ニザーミー『ライラとマジュヌーン』(平凡社

ある種のイスラム神秘主義オタが持ってる愛への憧憬と、ペルシア文芸のオタ的な悲劇へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも谷口悟朗

童貞的なださカッコよさ」を体現するマジュヌーン

童貞的に好みな女」を体現するライラ

の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。

リチャード・ベルコーラン入門』(ちくま学芸文庫

たぶんこれを見た彼女は「聖書学だよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の作品がその後続いていないこと、これが東洋学では古典になったこと、イスラム世界伝統とは相容れず、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。

佐藤次高・鈴木董・坂本勉編『新書イスラーム世界史』(講談社現代新書

「やっぱり新書は一般のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは板垣雄三編『「対テロ戦争」とイスラム世界』(岩波新書

でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける著者たちの思いが好きだから。

断腸の思いで削りに削ってそれでも三巻、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

全三巻の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが『新書アフリカ史』や『物語△の歴史』(中公新書)だったらきっちり全一巻にしてしまうだろうとも思う。

なのに、各所に頭下げて迷惑かけて全三巻を作ってしまう、というあたり、どうしても「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ著者たちがそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。

深見奈緒子世界イスラーム建築』(講談社現代新書

今の若年層で神戸モスク東京ジャーミーを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

現段階でイスラム建築研究の制度的担保がなされていない日本において、関連する新書はこの作品以外にはほとんどないとも言えて(中公新書の『モスクが語るイスラム史』は絶版)、こういうクオリティの作品が日本でこの時代にようやく出てきたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくイスラム好きとしては不思議に誇らしいし、報道や資料集でしかイスラム建築を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。

マルジャン・サトラピ『刺繍イラン女性が語る恋愛結婚』(明石書店

現地女性の「目」あるいは「語り」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。「座学の教義理解からはとらえられない地域の日常を毎日生きる」的な感覚イスラム教徒には共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ地域を知るための基本書は『もっと知りたい○』(弘文堂)、『暮らしがわかるアジア読本●』(河出書房新社)、『◎を知る■章』(明石書店)以外ではあり得なかったとも思う。

日常を生きる」というイスラム教徒感覚を知りたいという気持ちが今日さらに強まっているとするなら、その「理解」の源は現地の声をじっくり聴くことにあるんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

中田考『イスラームロジック』(講談社選書メチエ

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういう日本人イスラム教徒イスラム理解をこういうかたちで書籍化して、それが非イスラム教徒に受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫

9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。

井筒から始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のアニメ時代の先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。

「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

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