はてなキーワード: のんとは
日曜の朝、珍しく私よりも早くに起きていた恋人がソーセージとスクランブルエッグをフライパンで焼いてつくってくれた。
普段、朝ご飯を食べない彼と朝から食卓を囲むのはとても稀少だ。
せっかくなので、私は冷蔵庫に余っていたアスパラガスを焼き、ついでに食パンもトースターでチンした。
卵の黄色、ソーセージの茶色、ケチャップの赤、アスパラの緑、パンの白……非常に代表的で理想的な朝ご飯ができたではないか。
「準備してくれてありがとうね、いただきます」そう言い合って食べたブレックファーストは、非常においしかった。
たまにはこういうのもいいね。そう思いつつも、心のどこかで「かー!朝ご飯はやっぱ一人で食いてえな」とも思っていた。
平日の彼は出勤が早いので、私が朝ご飯を食べる頃にはもう家にいない。
私は彼を見送った後、野菜とキノコを刻んでドレッシングを手作りしてサラダっぽくして食べる。
そして「はい栄養補給終わり、あとはフリータイム」とコーヒーと菓子パンなどの甘味をゴリゴリ食べる。これが私のモーニングルーティンだ。
食べながら24時間チャージ系のアプリ漫画をスマホでダラダラと見て、ボリボリお菓子を食べて、のんびり洗いモノをしてテレワーク開始。
これが平日の私。誰もいないので食べ方も何にも気にしない。お母さんに小さい頃「これ」と言われるような食べ方だってしちゃう。
彼のいない朝は私にとって、非常に下品でだらしなくて、最高に自由な一人時間なのだ。
別に彼がいて同じことをしても、例えば朝からお菓子ダラダラ食べてても、まあ彼なら許容してくれるだろう。
でも、なんかやっぱり、「ひとりでダラーーーっと品なく過ごす」と「彼といるときに人に見せられないような状態でダラダラする」というのはちょっと違うと思う。
一人暮らしをしていたときと同じように、誰の目も気にせず、親の「これ」もなく、過ごせる平日の朝ご飯の時間が、私は好きなのだ。
でも、一人暮らしに戻りたいとも別に思わない。誰かといる時間も、誰ともいない時間も、どっちも楽しめる今の生活は非常に気に入っている。
ただ、素敵な朝ご飯をふたりで食べながら、「カー!スマホアプリ見て下品にくいてー!」ともちょっと思ってしまったなって話。
変なの。夜ご飯を彼と食べられない日は「彼と食べたいな」と思うのに。変なの。
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
この本しんどいな。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ最初の感想がそれだった。
土曜の夜23時、昼間参加した友人の結婚式の疲れを引きずりながら、少し暗くした部屋でベットに寝そべりダラダラと読んでいた。隣のリビングからは、夫が録画した刑事ドラマを見ている音が響いてくる。あしたは日曜で何も予定がなく、深夜までドラマを見続けるのだろう。美咲も多分、明日は午前中はダラダラと寝て過ごし、パンかカップスープの適当な昼ごはんを食べ、夕方なんとなく近くの駅ビルの買い物に出かけ、夕食は作るのが面倒になって外食で済ませて帰ってくるのだろう。結婚して1年近く続く何もない週末のいつもの過ごし方。
鈴木美咲は1990年生まれの28歳。生まれは山梨県で、大学で上京するまでは地元で自営業を営む両親のもとで特に大きな反抗もなく健やかに育ったと自分では思っている。勉強は小さい頃から得意で、地元の進学校に進学した際には、東京に行くことが当たり前の選択肢になっていた。市内の一番偏差値が高い大学はいわゆる”駅弁”の大学で、進学校の中でも勉強のできる子は上京するのが当たり前だった。彼女の両親は東京の大学を出て地元に帰ってきた人だったため自分が大学で上京することに特に違和感は抱かず、自然と東京の大学を目指した。根が真面目な彼女は高校時代も勉強に多くの時間を割き、国立大学は不合格となったものの、無事都内の私立大学に合格し、18歳の春に上京した。今年で上京して10年目になる。
彼女の母親の時代は女子が進学するといえば短大だったそうで、その時代に東京の4年制大学を卒業した美咲の母親はそれを誇りに思っている節があり、娘にも上京を勧めた。母が20代の頃、美咲の母方は酒の卸業を営んでいた。当時はだいぶ繁盛しており経済的に余裕があったためか。美咲の母は就職活動をせず地元に帰り2-3年ほど家業を手伝い、美咲の父となる人物とお見合いで出会い結婚した。父は口下手で商売が上手なタイプではなかったが、家庭の中では優しい父親だった。母がよく癇癪を起こしているのに対し、父が言葉を荒げているのは美咲の記憶にはない。花が癇癪を起こすのは大抵父が全く家事を手伝おうとしないからだった。母は父を一生懸命教育しようとしていたが、家事は女性がやるものと思っていた父はなかなか身につかなかった。60代になりようやく自分で皿を洗うようになったと最近母が言っている。
美咲に対して、母は今後は女の人も外で働く時代なのだから、一生懸命勉強しなさいと強く進めた。美咲の成績が上がると母も喜んだ。東京の大学に行くことを賛成し、美咲が英語が得意だとわかると英会話塾のパンフレットをたくさんもらってきては彼女の能力を伸ばすことに力を注ぎ、美咲が外国語大学志望だと進路希望で話すとその大学出身の卒業生のエッセイなどを買ってきては彼女の夢を応援した。美咲自身は多感な年頃ならではの母親へのウザさのようなものは感じていたが、基本的には嫌いではない母親だった。
美咲は地元にいた頃から一貫して共学で育ってきた。自分自身があまり恵まれた容姿ではなく、自分のニキビをからかわれ、「ニキビ」という知性のかけらも無いそのままのあだ名をつけられてからは男子が嫌いになりずっと距離を置いていたため共学ならではの彼氏ができるとか放課後一緒に男子と帰るといった甘酸っぱい青春を過ごすことはなかった。しかし、男子が身近にいることは普通だったし、2つ離れた年下の弟もいた。美咲は勉強ができたが、それに対して男子と比較されて何か不都合を感じたことはなかった。勉強ができる人は男女関係なく一目おかれたし、男女関係なく進路を好きなように決めたし、母のように女子は短大といった時代でもなかった。ただ文系のクラスの方が女子が多かった。男子があまり得意ではなかった美咲にとって、女子が半数を占める文系クラスは過ごしやすい環境だった。国立に落ち第二志望で進んだ私立大学も、外国語教育に力を入れており文系がメインの大学だったため、全体的には女子の方が多い大学だった。大学の間も相変わらず彼氏はできなかったが、多摩地域ののんびりしたキャンパスで4年間を過ごし、休みの間には短期海外留学も経験して、語学力を向上させながらやりたかった海外分野の勉強をして過ごした。
自分が女子であることに違和感のようなものを感じるようになったのは、就職してからだった。震災後に採用を抑えていた2012年の就活戦線はなかなか苦戦し、50社以上のエントリーシート、20社の面接を受け、最終的に内定が出たのは2社だった。当初地元に帰ろうかなと思っていたものの、内定した会社は誰もが名前を知るIT企業とメーカーで、大手企業に就職が決まったことで、彼女自身も家族もホッとし、東京に残ることを納得した。結局新しいことができそうなIT企業への就職を選んだ。IT業界はリモートワークなどの制度を生かして女性が活躍しています、と先輩社員がセミナーで語っていたのも理由の一つだった。メーカーの方は男性ばかり出てきて少し古い印象を持ったことを美咲は覚えている。
美咲はソフトウェア製品の営業職として2013年4月に社会人生活をスタートさせた。自分の同じ部門と認識できる範囲には100人ほどの人がおり、女性の先輩も2割ほどいたので全くいないわけではなかったが、営業職の先輩は、みな独身か、結婚していても子供がいなかった。既婚子ありの女性の先輩は業務部門でひっそりと仕事をしている印象があり、営業職の美咲はほとんど関わりがなかった。営業部門は8割が男性で、かつ半数以上は50代だった。夜の飲み会は大抵自分以外はおじさんという状況が多く、美咲はその場ではじめて焼酎の水割り・お湯割の作り方を覚えた。飲み会では大体業務部門の人たちは営業できないお荷物、という言い方をされ、美咲はただ笑って過ごすしかなかった。いずれ子供を産んだら自分もそこに行くのかな、という思いもある中、関わったことのない業務部門の人たちについて何かをかばうことも出来ないし、やり過ごすほかなかった。
その会社でのソフトウェア事業は、正直言ってメイン事業ではなく、ハードウェアのおまけのような扱いの部門であった。営業職として客先に行くには、まずは社内営業。ハードウェアの営業に客先の同行をお願いし、OKが取れたらやっと客先に行き、自分の製品を紹介する。ある女の先輩は言っていた。「飲み会に誘ってもらえるのは女子の特権なんだから、若いうちの飲み会は全て断らずに参加しなさい」と。先輩のアドバイスは正しかった。美咲はお酒は弱かったが、飲み会のような場は嫌いではなかったため、最初の2年ほどは結果も出せず苦労したが、もともと人と関わるのが好きな彼女は社内の飲み会にも積極的に顔を出し、仲のいい人を多く作って行くことで仕事も徐々に自分で結果が出せるようになっていった。
入社して5年目、一通りの経験をこなし、大きな案件を複数経験して自信が出た美咲は、社内異動制度に応募してハードウェア部門へ異動した。ある意味傍流から本流に異動したわけで、彼女としても意気揚々の再スタートだった。前の部門でおじさんと飲むことに慣れていた美咲は、異動初日の飲み会で、やはり50代の男性が多い同じチームのメンバーに対して「私はセクハラ大丈夫なんで」と笑って宣言した。意外だったのは、部門長である優秀な40代のマネージャーが、「そういう発言はやめたほうがいい」とはっきり言ったことだった。彼は今後役員まで上がるだろうと期待されている、社内のエースのような存在だった。えらい人からそのようにキッパリ言われたことで少し美咲はビビったが、その発言はそのほかのメンバーには笑って流された。
「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、美咲には何かが刺さった。これまでの彼女の人生の中で、キム・ジヨンのような思いをした経験が、同じ世代の日本人女性なら1度や2度はあるはずだ。と、こんな風な長々した文章を書いてしまうくらい、何かを伝えなければ、声を上げなければと感じた。しかし何を言えばいいのかがわからない。何か目の前の明確な不平等を変えて欲しいわけでは無い、自分はむしろ恵まれているほうだと思う、でもそれでも何度か自分のせいだけとは思えない壁にぶつかり、しんどい思いをした、ように思う。何が変えられるのかよくわからないが、とりあえず自分の思いを言葉にしないことには始まらない。
ひねくれものがお前に会いにきたぞ
しばらくみないうちに
お前は伸ばした手に
落ちるまぎわの水みたいなつぼみをつけた
たくさんつけたな
さくらよ
お前はえらい
人々がお前の化粧を「もういいや」と見捨てた
ころから
いっぱい息をして
いっぱい光をすって
いっぱい水をのんで
こうやってつぼみをたくさんつけた
さくらよ
お前は誰も殺さなかった
恨むこともしなかった
手を乱暴に触られても
手を人から切られても
黙ってお前は春を待ちつづけた
さくらよ
俺はお前がうらやましい
俺は生き方がへただ
知らぬ間に誰かをきずつけてしまっている
呼吸すらこんなに一生懸命にならなければ
音を立てなければすることができない
さくらよ
ひねくれものの俺なんか嫌いだろう
だけど俺はお前のことがすきだ
好きだからこうやって春を前に
お前が化粧の準備をするのを
見にきてしまっている
さくらよ
お前はすてきだ
生きるために立派になった根っこも
ここで空を眺めている姿もだ
さくらよ
よろこべもうすぐ春がくるぞ
そして人々がお前の化粧をわすれたころに
嫌になるぐらいあついあつい
夏がくるぞ
触れ合うとき
ぼくはまた生きてお前と会おうじゃないか
それまでしばらくさよならだ
『旦那が大便が付いた下着を、そのまま洗濯機に入れた。それに気づかず洗濯機を回してしまった。離婚原因にできるか』みたいなやつ。
ああ、やっぱりそうなんだ、と思った。
男って結構うんこ漏らすよね。結構な歳いってる人でも。サンプルが少ないから主語デカなのかもしれないけど。
私が働いている職場にいる男性(50代、独身)もうんこ漏らす。
もうひとり同じように独身で50代男性もいて、こっちもうんこ漏らす。漏らすっていうか、トイレにうまく出来ないのかうんこが便器からはみだしてる。
自分の肛門の位置?うんこが落ちるポジション?が把握できていないのか、便器の後ろ側(背後?)に落ちてしまうみたいで時々落ちてる。
てかさ、落ちたなら自分で片付ければよくない?自分のうんこくらい。なのに、そのままにして出てくる。あとからトイレ入ったらうんこ臭ヤバイし、そもそもうんこがある。おかしくない?普通、自分のうんこを他人に見られるのとか恥ずかしいと思わない??
なのに、そんなのが月に一、二度ある。
んで、トイレ掃除するのは職場で一番年下の、女である私。それが周知の事実なのに、自分のうんこを片付けない。
私はこんなのを何度か経験してるので、職場のトイレには極力入らないようにしているのだけど、掃除はしなきゃいけないから何度かうんこを片付けている。絞め殺したくなる。トイレきれいに使って下さいねー、とやんわり言うんだけど分からないらしい。うんこはみ出てんのわかってないのか?いや、もうトイレが臭いんだからどっかにうんこあるなってわかるじゃん。あんた、うんこしてから、うんこはみ出させてからもトイレ入ってんじゃん?そのときに、あ、うんこ出ちゃってたなとか気づかないん??
家族でもない私にうんこ片付けさせるのをなんとも思わないって何かの障害なのでは?
話を最初に戻すと、このうんこはみ出しマンとは別の50代男性ははみ出すどころか漏らしたことが数回。
運転中に漏らしたとかいって、しまむらでパンツ買ってきてと言われたのも同じ回数。しね。なんで私が家族でもない彼氏でもないやつのパンツなんか買ってこなきゃいけないんだよ。糞が。うんこか。
このひとも、便器からはみ出しとまではいかないけど、便器にうんこ付けてそのままにしている。
うんこが便器にこびりつくのはわかるとしても、そのときにトイレットペーパーで拭けばよくない?目の前にトイレマジックリンスプレーあるんだから、それをシュッとしてトイレットペーパーで拭けばそれで済むじゃん。
なのになにもしない。
なんなの?
あとこの二人に共通するのは、うんこマンというだけではなく片付けが出来ないということ。
ペン使ったらそのまま、カッター使ったらそのまま、引き出し開けたらそのまま、お茶のんだ湯呑もそのまま放置。
「ものを使ったら片付けましょう」って幼稚園で習わなかった?親に教えてもらえなかったの?
習ってたとしても覚えてないんだろうし、片付けなくても許される環境で育ってきたんだなぁと。で、この二人とも長男で実家住みなのが納得できるとこ。
ママに何でもかんでもしてもらってきてるんだろうな。ママがご飯作ってくれて片付けてくれてパンツも洗ってくれてるんだろう。パンツだろうが便器だろうが、うんこついてても何も言わない優しいママなんだろう。
片付けに関しても、大抵は恋人が出来て同棲したり、結婚したりして、他人と共同生活していくうえで
子供が出来てしつけをしていく中で自分も同じことを学んだりするのだろうけれど
こういう、ある程度の年齢になっても独身・実家住まいの長男はママが面倒見てくれるから赤ちゃんなところが消えないのだろうな。
仕事があって、安定した収入があって、税金を収める、一家を支える人間だとしても、自分のうんこを適切に片付けられない時点でうんこ以下だよ。
と、今日もまた職場のトイレにうんこがあるのを見つけたのでこれ書いた。
友達がいる。小中が同じで、ずっと一緒にいた。いつも冗談を言って私を笑わせてくれた。鍵を忘れた彼女を、よく家に招いて一緒にゲームをしていた。母も彼女が好きで、たくさんのお菓子や果物でもてなした。暖かくて楽しい日々。
中3になって、私は塾に缶詰になって、遊ぶ時間が減った。彼女とはあまり将来の話をしなかった。彼女は勉強が苦手で、勉強しようと考えたことは無いようだった。それをハンデとは思っていなかった。そしてそのまま地元の荒れた公立高校に進学した。偏差値は40を切っていた。
私は必死に勉強して、憧れがあった少し遠い私立に通うことになった。卒業式の日、もう会わないかもね!とふざけ合った。これからもたくさん会えると思っていたからこそだった。
高校生になって、会うのは2.3ヶ月に一度くらいに減ってしまったけど、それでも定期的に出かけたり、私の家でのんびり過ごしたり、以前と変わらぬ尊い時間を過ごした。
この頃から、彼女は地面に尻をついて座るようになった。何がいけないのかわからないといった顔をした。ボディピアスが増えた。ごみを道に捨てた。深夜のストーリー更新が増えた。同級生との喫煙をインスタに載せて、別室登校になった。
私と離れている間、どんな場所で、どんな人たちと一緒にいるかわかるような気がした。それでも、暖かくて、明るくて、優しい彼女のままだった。寂しかった。
数年後、私は大学生になっていて、彼女は専門学校を卒業して、バーの個室で知り合ったというベンチャー企業に就職した。一般事務として採用されたと言っていたけれど、4月になると配属されたのは車で1時間半走らせたところにある契約先の店舗だった。
夏になって、彼女はうつになったから仕事を辞めたと言った。夜にドライブに連れ出してくれた時にそれを聞いた。彼女が働いている時に、飲酒運転がばれた、遅刻したら怒られた、眉ピアスを注意された、ちょっとくらいいいじゃん、と度々愚痴っていたので、いずれ辞めるのだろうな、とは思っていた。
仕事を辞めて時間ができた彼女を、一度大学にこっそり招いた。私の大学はお洒落して大学に通う学生が多いので、彼女にもそれを伝え、バレないように馴染む格好で来て、と言った。当日彼女は、毛玉だらけのスウェットで現れた。お気に入りだと言うドンキホーテの健康サンダル。禁煙の校舎内でタバコを吸い、講義中椅子に足を乗せる。注意しても、また何がいけないのと不思議そうにしていた。大学の同級生の、あぁ、そういう子ね。という目。友達を恥ずかしいと思いたくなかった。それでも彼女のことは大好きだった。
後から聞いたことだが、退職するにあたって、契約書が良くわからなかったが、100万くらい払わされた、と言っていた。父親が法学部だから、なんとかしてもらうと言っていた。でも結局、彼女は貯金を切り崩して、100万円ほど支払ったようだった。
クラブの男に性病をうつされたらしかった。病院には行っていないようだった。代わりに痩身エステを契約していた。
私はただ、大げさに普通を装った。彼女は私の事を何にも興味が無いやつだと言うので、そうするのが良いと思った。
最近、彼女はよくTwitterで死にたいと言うようになった。死にたいのか、現状を変えたいのかわからないから、いつも通り銭湯に誘った。
疲れました。 きっと俺たちは......。.impressive gauge――それは天才的な文学作品、あるいはsf作家に向けた、狂気に満ちたデスヴォイス(悲鳴)だ――それは、声の主である、神の言葉の響きが、あたかも未来に現される、神の姿そのものに似ているからである。詩人、アーレントはこう名付けた――偉大なる天才は時に、狂気をも駆使し、時に、狂気をも駆使して、神の言葉の力を確固たるものとする
ほんこれ。震度7にも耐えられる耐震等級3の鉄筋コンクリート造の住居に住んで、資産は当然ながらオルカンその他で分散投資。仕事はリモートでできるようにスキルと経験を積んできているから北海道でも沖縄でも海外でもどこでも移住すればいいだけのこと。なんならこれを機会にFIREして投資家としてのんびり悠々自適の生活に入るのもいいかも。
中堅~マイナー(深淵)絵師だと結構、これは明らかに男だろってのがわかりやすい気がする
性癖が凝り固まってる感じで画面から奇臭はなってるような絵になっちゃえるのは男感すごい
・まあ男でしょって感じ
狭暗
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すけだい
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われもの注意
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エンデアア
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・女の可能性も感じないではない
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なんとなーく言いたいことの感覚的なところがわかってくれるとうれしいんだが