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はてなキーワード: ルーツとは

2019-04-14

両家顔合わせ出来ないなら結婚しないべき?

去年結婚しようとしてたけど、彼親の都合で延期になってしまった。

私親としては、「嫁に出すのだから親同士顔合わせすべき!彼のルーツ?知るべき!」という考え。

彼親は知らない。

前に彼親のせいで延期になったのだから

顔合わせはこちらに合わせてくれればいいのに

全然合わせてくれようとしない。

彼親は

会社休みが木曜だから、木曜じゃないと無理

5月がいいな、6月は無理

7月には結婚しようと思ってる)

私親は両方働いており

私も彼も土日休みから

皆わざわざ休まないといけない。

でも、彼親はなんとも思わないようだ。

面倒だからそもそも彼親に会いたくないんだけど、私親は「両家顔合わせは当たり前」と。

私もそうだと思うけどね。

去年彼親のせいで結婚を諦めたため、

私親は「無理なら顔合わせは大丈夫」と折れてくれそうだ。

でも、なんで私親だけ我慢させられるの?

なんで彼親は傲慢な態度取り続けるの?

嫁に貰ってやるよ的な感じなの?

前に彼親とあったときは「嫁に来るなら相応の覚悟しろ」だの「どんな状況でも旦那を支えろ」だの圧が凄かった。クソ姑になりそうな予感。

さすが!DV結婚して、少しだけ彼を虐待しただけありますね。お風呂で頭捕まれて溺れさせられたことが良くあり、トラウマで泳げないらしいですよ!子供より旦那優先だったのかな!すごい!!

ということで彼親は嫌い。彼と両親との同居は絶対にしないと話してある。

男女差別ダイレクトに見せつけられた

昨日、「昔ココ住んでました」という番組を見た。

芸能人が昔住んでた家や地域に行って思いを馳せたり自身ルーツを語ったたりする内容だ。

調べてみると、今年の年始テレビ東京で流れた特番らしく、系列局がない地域向けの再放送と思われる(私は愛媛県住み)

番組内で、優木まおみ学生時代バイトしていたTSUTAYA男性店長と再会するシーンがあった。

当時の店長本部社員になってここにはいないため特別に来ていただいている、という紹介のされ方だった。

次に、アンガールズ上京したての22年前に行きつけだったガストに行くシーンがあった。

そこでなんと、22年前と同じ女性店員と再会したのだ。

本部社員になった男性と、22年経っても同じ場所同じ役職でいる女性

何気なく見ていたテレビ番組の中で、まさかこんな生々しい男女差別を見せつけられるとは思わなかった。

2019-04-01

拉致被害者に寄り添うあまり北朝鮮を不必要非難しすぎると、コリアンの中でも特に半島北部ルーツのある人々が傷つくというし…

全員に平等に寄り添うのはほんとうに難しい

2019-03-30

隠れなきゃいけない腐女子同性愛

自分でも言いたいことがよくわかってないつまらない長文をぐたぐだ書き留めておきます結論もないです。

近年、LGBTの考え方が広まって一般人同性愛への理解が深まり、例えばツイッター有名人が"ホモとか気持ち悪い"とか手を滑らせて仕舞えば叩かれ炎上する、そんな社会の風潮ができてきた。

私が疑問に思ったのは腐女子の隠れなければならないという暗黙のルール

もしかしてもういらない?

腐女子って名前ルーツ男性同士の恋愛妄想してしま自分気持ち悪さから(だと思ってる)。つまり蔑称で、それは男性同士の恋愛が異常だからで、でも今の社会はどっちかっていえば異性愛を受け入れよう!って感じだし同性愛キモイなんていったらLGBT人達から総叩き。じゃあもう男同士の恋愛創作だって堂々とやってればいいのでは?なんて思う。

そこで私が気づいたのは腐女子って大抵は二次創作ありきなんじゃないかなってこと。(正直腐女子って概念がいつからあってどこの人が作ってとかは知らないか主観入るけれど)。

それならわかる。二次創作自体が隠れなきゃいけないものだし作者にもキャラクター勝手ホモにして申し訳ないし隠れて不快にさせないようにすることは大事だ。最悪創作禁止されてしまう。だから妄想を隠そう。とてもわかる。

(でも最近だと作品2次創作は必ず付いてくるものだしそれが大きな利益にもなってる。制作側もそれをわかってるから大々的に禁止にはしないよね)。

じゃあたとえば、"2次創作ok自由に書いてね!"の場合はどうなる?そういう環境の中でも腐女子は隠れるべき?隠れなくてもいい?でも作品投稿サイトとかじゃ腐向けってわけなきゃ叩かれるよ。ノマカプはそのまんまなのに。男同士は2次創作範疇じゃないとか?でも言ってしまえば2次創作は全部捏造だし、どこがわけるラインなんだろう。原作描写のないキャラ同士を恋仲にするな気持ち悪いってことなんだろうけど、それどのカップリング創作にもいえることじゃないのかな。でもノマカプのあの2人は別にカップルじゃないよ!男女だからべつにいいの?あのキャラは女しか好きになれない?なんで断言できるの?

だって創作で、男女で描いたら平気なこと、男同士にしたら叩くでしょ。マナーがなってないって。垂れ流すなって。それ何処が基準?なんで駄目なんだろう。

ここまで書いてもしかしたら!って思ったんだけど攻めと受けの概念のせいかな。ちんこをいれるかいれないかってある意味下ネタ腐女子につきものからかな。でも攻め受けがない腐妄想ならどうなんだろう。(まあでも正直腐女子自己投影みたいなところあるだろうから攻め受けの概念はなくならないよね。よくわからないけど)。

当たり前だけど私は腐女子は公の場に出るもんじゃないと思うし出て欲しくないし気持ち悪いし恥ずかしいものだと思ってる。あの特有のノリとか苦手な人多いだろうし、私は好きじゃない。本屋に置いてるセックスシーン丸出しのBL本も18禁にしないのガチ気持ち悪いと思う。あと、やっぱりLGBTマイノリティで、大勢が受け入れられるわけじゃないともわかってる。マイノリティマイノリティで少数で、基本は異性愛者が多数だから異性を好きになるのは当たり前。LGBTBL全然違うこともわかってるつもり。だけど、不思議だなって思うことあったから書き出してみた。終わり。

2019-03-28

砂の器2019

映画版が(原作は未読なので知らん)宿命ルーツハンセン病を置いて、

それへの差別こそが和賀英良を作った、和賀の罪はおれらの罪だよ。って形なのに対して、

今回は平成凶悪事件ルーツにその加害者家族へのメディアスクラムを持ってきたのに、

当事者の一人でもあるフジテレビにその自覚あるの?って見えてしまうのがな。

2019-03-09

anond:20190309232422

日本人のものルーツ大陸とか南方から渡ってきた人たちなので、結局のところDNA的にみんな同類兄弟さ。

言葉文化も思いっきり断絶してるけど。

2019-03-03

アカデミー賞の録画見たんだけど

アメリカやべえってなったな

作品賞とってそれが人種問題を描いたやつでそのスピーチが話し合えば理解できる、だもんな

そういうとこだよってなったわ

いや理解できなくても尊重しろよって

映画とかドラマとかドキュメンタリーしか知らないけど薄々思ってたんだよ

何かアメリカ理解できないもの叩いていいと思ってね?って

からみんな主張しなきゃいけなくなるんじゃねって

主張して理解させる努力を怠ってるなら叩かれても仕方なし的なとこあるわアメリカ

マイノリティも人と違う事を尊重しよう、じゃなくてマイノリティ迫害されてるから尊重しようって節あるし

よく日本でやべーやつが差別大国日本!みたいに言ってるの見るけどそれみたいに自分差別的マインド差別的な事言ってるって微塵も思ってないレイシスト的なのすげーいるみたいに見えるわアメリカ

アメリカ個人主義とか聞くけどそれ微妙に違うなってのも思うし

すげー帰属意識が強いと思うし相手批判的になる時も相手が属してるとこの影響は大きい気する

基本個人主義なんだけど人種とか性別とかルーツとかそういうのには全体主義

スクールカーストとかまさにって感じで

いや行った事もアメリカ人と喋った事もないし全部何か見て言ってるだけなんだけど

見てる9割フィクションだけど

作品賞とったのにつーかとる前からだけど何か本国で叩かれてんのもそういうとこじゃねーのって思った

英語読めないけど

2019-02-27

ダブルという概念への疑問とプリキュア

ハーフという呼び名ネガティブからダブルにしよう、という働きがある

私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ

そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも

少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフ言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツベースとし残り半分の割合を指すものメディアで目にするものも含め一般的ものであるように思う

同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプル客観的で図式的な概念であり、本来単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い

だがハーフネガティブなのだ、という

ダブルへ繋げる論拠として

単語として「半分」という意味である

そこから人として半人前だ、という含意の存在

あるいは血統主義から一方の国、この場合日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す

またそこから上記の「半分」の意へ発展させたもの

というのがざっと目に入った大方の意見だった

正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う

先にクォーターハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ

ハーフは「半分」クォーターは「4分の1」

彼ら、彼女らの言うネガティブである単語からマイナスイメージで言うならクォーターハーフより印象は悪い

ハーフが半人前ならクォーター人間が四分の一しか出来ていない、となる

ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない

繰り返すが言語的な用法としてハーフクォーター現実として連なっている

ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない

クォーターに通じない論理ハーフ解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える

クォータークアドラプルとでも言うのだろうか

だがダブル法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合意味での用法ではなくなってしま

アメリカクアドラプル(4倍)」では意味が通らない

それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーター日本アメリカダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいしま

日本トリプルアメリカシングルとすべきなのだろうか

単純にハーフ上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない

だがなぜかそうではないのだ

単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフ否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない

そもそもこのハーフに対する話は日本和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた

ただ日本のように単語自体ルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい

またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味ネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った

ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった

そういえば以前テレビ番組ハーフネガティブからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフアメリカ出身女の子アメリカでも普通に使う、言葉自体ネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した

ダブルハーフ海外で通じる通じない、という日本ガラパゴス意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった

それでもダブルを通じさせるためには略さず言う必要がある

さないのであれば、また略さないそれがそのままダブル意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフ否定的になる理由はない

ならなぜダブルなのか

調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本ミックス表現として使っている人も既に少なからずいるようだった

特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った

そこからの輸入でのミックスという表現なのだと思う

言葉としてハーフクォーターと平行して組み合わせる事も可能汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体ルーツの意を含ませる事自体も、ハーフダブル比較すれば難しくはないらしい

言語的にも、日本ガラパゴス言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる

違う言語から見て、初めて聞くハーフというそ言葉ネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う

そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう

言葉における現状を知りようがない状態での誤解に罪はない

そして誤解とはいえネガティブな枠で自身定義される、それ自体への拒否感も理解できる

だがその場合ハーフという言葉言語として、用法としてのネガティブさは認められない

問題日本独自略語和製英語が生む対外的な混乱による認識差異、ただ1点だ

だがダブルという新たな和製英語を使おう、と言う

そしてハーフ言葉としてネガティブから、と言う

ミックスではなくダブルなのだ

単語として、ハーフ基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える

実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフマイナス面が語られ、ダブルポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的ものに留まりハーフ差別的であるネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ

ハーフマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う

そもそもダブルが持つとする言葉ポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフマイナス面を示す事でのあくま相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う

賛同している多くもハーフネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある

それにしてもダブル肯定するという事は当然過去遡って差別的ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしま

多くの賛同者はただただダブルポジティブ!とやっているのだ

そのポジティブさはハーフという言葉相対的犠牲理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と

かに現実としてハーフという言葉ナショナリズムから悪い意味をのせる人間はいるだろう

しかしそれは今の通例としての言葉概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれレイシズムにその他大勢人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実用法とはかけ離れるレイシスト意図をその文化圏象徴のように語るのはそれ自体差別的であるように思える

その上でネガティブな印象に受け取るのは個人選択であり、本来意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない

自身自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する

ハーフネガティブから、というのは結局はそういう事なのだ

それら全部分かっていてもハーフという言葉ネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする

だが、それはあくま自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う

「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的しかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る

そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない

その人間意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定理由にした小さな悪意であり、自尊心アイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない

そして何よりやはり言葉としてあまり出来がよくないと思う

その人が言葉に持たせた意図やその言葉意味でなく、ネガティブだと捉えた自身根拠ポジティブになるためにその相手非難めく

近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う

少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュア男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た

そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた

画像男の子大和撫子パリジャンのダブルから、という言い方をしていた

しかしたら設定として、その男の子日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない

そんな可能性を示す、そこには何の異議もない

実際そのダブル和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた

現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう

だが、これはアニメ

この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う

女の子が口にしたハーフルーツ意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語用法そのままの意味ダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較ハーフダブルの印象へと繋げる

これはそのままダブル賛同者の論理のように見える

先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂しかない

そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身ルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフ使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える

だが、そこで略語としてのハーフ否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ

もしこの男の子ハーフルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現である理解しているならどうだろう

その場合、その子ハーフと口にした女の子差別的な要素をも含むネガティブ言葉無自覚にでも使った人間である意識の低さを指摘し、また同時に相手意図より自分が思う言葉意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる

そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ

言葉としての意義に悪者であるハーフ否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ

これはあくまで仮の話ではある

だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実

そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ

それは啓発なんてものじゃなく単なる大人の我だ

本当にとても理不尽言葉だと思う

今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュア男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現本来ダブルという単語用法ひとつとして使う時が来るかもしれない

だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う

そこにあるネガティブさを肯定する事は私にはできない

2019-02-26

PDF文字はなぜ小さいのか

調べてみるとPDF文字サイズ論文からきているらしい。論文はなぜそんな文字を使うのか。どう考えても見づらいし手書きで12ptの文字をかける人間もいない。PCiPadPDFをみるたびにストレスを感じる。

補足

PDF文字サイズについてさらに調べてみるとそのルーツタイプライターだとわかった。欧米人タイプライター文書を作っていたためそのサイズ基準となり現在採用されているようだ。

2019-02-24

父と母が怖い

年を重ねるにつれ実家で暮らす時間は徐々に減っていき、ついに実家を出て20年あまり

でも、どこにいても振り返れば、あの懐かしい暖かな場所はそこにある

はずだった。

父が家出してから2か月が経った

その間、父は戻ったり再び出たりを繰り返し、

から財産分与を進めるだの、女性関係ではないかもしれない、だの。

浮気喧嘩?2か月経っても真相不明なまま、拗れていく一方。

私の大切な場所を、年老いた父と母が、破壊していく。

まさか父と母に対して、こんな負の感情を抱く日が来るとは、夢にも思わなかった。

ずっと考えていることがある。

これは私に対する罰なのかと。

大切だった場所が、ルーツが、崩壊していくのを、ただ見ている事しかできない、罰。

これ以上見たくないのに、もう聞きたくないのに、目をつぶっても、耳を塞いでも、逃げられない

もう元に戻すことはできない、そして、この先死ぬまで、続くであろう苦しみ、喪失感

はいつの間にか、どれだけの大罪を犯してしまったのだろうか。

私の半生が真っ二つに引き裂かれるような苦しみ。

父と母の血を引く人間はこの世にただ一人私だけ、だからこの感覚はきっと誰とも共有できない。きっと父と母とも。

せめて因果がなければ、とても耐えられないのに。

日々罪悪感に苛まれる。

父と母が無性に怖い。

そして憎い。

2019-02-16

百合ジャンル歴史現在 後

承前

https://anond.hatelabo.jp/20190216024920

 そして2018年現在百合ジャンルはその定義をやっと安定したものとして確立し、内部で属性の細分化が進行している。「少女小説」にルーツを持つ「正統派百合」や「セーラームーン」にルーツを持つ「戦闘美少女もの、多数のメディアミックス作品からなる「アイドルもの、「アイカツ!」や「プリパラ」の代表的女児向けアニメ本編での百合的な描写など、ひとことに百合といっても多岐にわたる作風や絵柄、対象層の想定の下で日々多くの作品創作されている。この流れを示唆するのが、2017年からみられるようになった細分化された特定百合ジャンル作品掲載したアンソロジーの発刊である。例としては、おねロリ(お姉さん×少女カップリング限定したアンソロジー)、社会人百合(学生設定の多い中、ヒロイン二人の年齢を成人以降に限定したアンソロジー)、夢(一人称視点ストーリーが進行し、主人公としての読者とヒロイン恋愛が描かれるアンソロジー)などがある。また、少年誌で連載されていた百合マンガアニメ化が続々と決定し、各書店百合特設コーナーが作られるなど、確実にやおいBLコンテンツと肩を並べられるまでの規模に成長しつつある。さらに、「ユリイカ」「ダ・ヴィンチ」といったオタク向けでない雑誌においても、「百合」が特集されて取り上げられることもあった。これらによって百合ジャンルは読者層をどんどん広げ、境界線の明確なものではなく、あらゆる作品エッセンスとして取り入れられるように変化してきているといえる。

まり2000年初頭にみられた「百合」論争とファン同士の対立とは逆に、ジャンルの細分化によっていい方向に百合という概念拡散してきているといえよう。女性男性議論を重ねながら平等構成している百合ジャンルは、マンガジャンルの中でも特異な体質のものだ。しかし、やおいBLジャンルに関する研究は数多くみられたが、百合GL ジャンルに関する研究現在ユリイカ掲載されたもののみである。今後、さら百合ジャンルが広まっていくにあたり、読者分析や内容分析によってさらに細かい分析をするに値する分野だと考えられる。特にマンガという表現形態だけに限らず、各時代代表する百合作品時代背景を踏まえ、ジェンダーフェミニズムといった視点からのより詳細な分析必要性を感じた。

<参考文献>

川崎賢子, 2014,「半壊のシンボル――吉屋信子百合欲望共同体」『ユリイカ12月号:42-49

上田麻由子,2014「内なる少女を救い出すこと――『シムーン』の孤独連帯」『ユリイカ12月号:190-198

藤本由香里「『百合』の来し方――『女同士の愛』をマンガはどう描いてきたか?」『ユリイカ12月号:101-109

アライ=ヒロユキ, 2015,「オタ文化からサブカルへ――ナラティヴへ誘うキャラクター繊研新聞社

<本文中で紹介した作品><単行本

吉屋信子, 1925,「花物語洛陽堂 『少女画報』掲載

山岸涼子, 1971,「白い部屋のふたり集英社 『りぼんコミック掲載

池田理代子, 1972-73,「ベルサイユのばら集英社 『週刊マーガレット掲載

池田理代子, 1974,「おにいさまへ…集英社 『週刊マーガレット掲載

武内直子, 1992-97,「美少女戦士セーラームーン講談社 『なかよし掲載

さいとうちほ, 1996-98,「少女革命ウテナ」小学館 『ちゃおフラワーコミックス掲載

介錯, 2004-05,「神無月の巫女角川書店 『月間少年エース掲載

サンライズ佐藤健悦, 2004-05,「舞-HIME-」秋田書店 『週刊少年チャンピオン掲載

なもり, 2008-「ゆるゆり一迅社 『コミック百合姫S』・『コミック百合姫』掲載

えばんふみ, 2010-2011,「ブルーフレンド」集英社 『りぼん掲載

白沢まりも, 2011,「野ばらの森の乙女たち」講談社 『なかよし掲載

アンソロジー

2017,「パルフェ おねロリ百合アンソロジー一迅社

2018,「あの娘と目が合うたび私は 社会人百合アンソロジーKADOKAWA

2018,「百合+カノジョふゅーじょんぷろだくと

雑誌

2003-05,「百合姉妹」ムック

2005-,「コミック百合姫」一迅社

2007-2010,「コミック百合姫S」一迅社

2007-2011,「コミック百合姫Wildrose」一迅社

2007-2014,「コミック百合姫」一迅社

2018,「ダ・ヴィンチ 3月号」KADOKAWA

テレビアニメ

2011,「魔法少女まどか☆マギカ

2012-2016,「アイカツ!サンライズバンダイナムコピクチャーズ

2014-2017,「プリパラタカラトミーアーツシンソフィア

あとがき

 これを書いたときはやが君アニメ化前だったので取り上げなかったな~と思うと感慨深い。あとファン考察が雑で本当に申し訳ございません。いつかしっかりやろうと思います

百合ジャンル歴史現在 前

 本稿では、BL/やおいと比べ論じられることの少なかった「GL/百合ジャンル確立歴史と、その現状について考察する。

 はじめに、「百合」というマンガアニメにおけるジャンルを示す言葉概要説明する。「百合」とは主に、女性同士の恋愛と、それに満たない関係性も含めて描いた作品ジャンルを指す。川崎によれば、定説として語源ゲイ雑誌薔薇族」に由来する。男性同性愛を指す「薔薇族」と対になるよう、女性同性愛者を「百合族」と呼称した「百合族の部屋」というコーナーが1976年から不定期連載されるようになったのが始まりであるとされる(川崎2014:44)。当時はレズビアンを指す用語だったが、徐々にサブカルチャーに輸入され女性同性愛を扱った作品群を呼称する言葉に変化していった。

 まず、日本での「百合」のマンガジャンルとしての成立について述べる。そもそも大正ごろの日本においてマンガとしての形態以外で女性同性愛テーマにした創作物としては、性描写過激男性向けポルノか、少女向けの小説に二分されていた。特に女学生同士の姉妹関係エス」をテーマにした少女小説金字塔として、「花物語」(1925)などが代表される。しかし、大正時代少女文化として流行した「エス」の概念現代の「百合概念とは違い、上田は「自覚的女性を愛することを選択したというよりは、良妻賢母になるための安全なる予行演習という側面もあった」と述べている。(上田 2014:192)

マンガが発展し、女性同士の関係性を主題とした最も初期の連載作品1970年代ごろから山岸涼子「白い部屋のふたり」(1971)、池田理代子おにいさまへ…」(1974)、「ベルサイユのばら」(1972-73)のオスカルロザリーなどにみられはじめる。これらは、「24年組」に代表される少年愛テーマとしたマンガと同時発生的に少女マンガ誌に掲載されたものだ。藤本は、このころの百合マンガの大きな特徴として

 ①対照的な二人の容姿(中性的・くっきりとした美人可憐少女イメージ)

 ②演劇モチーフ(宝塚歌劇の影響)

 ③悲劇的なストーリー(少年愛を扱う作品対照的同性愛による葛藤描写)

を挙げている(藤本 2014:101)。これらの特徴は、1970年代女性の抱えていた抑圧感を反映していたものなのではないかと考えられる。女性作家による「少年愛」が現実の抑圧から解放として、性的未分化存在(少女)の何物にも縛られない感情の動きを描写したものなら、このころの「少女愛」はそれと対照的に、抑圧からの逃避としての悲劇的な結末が設定されることが多かったのではないだろうか。表現手法舞台設定は耽美幻想的でありながらも、当時の日本での女性のおかれる立場に忠実な閉塞感が描写されたものだと考えられる。また、この時代百合マンガ少年愛ほどの大きなムーブメントには発展せず、作品数も多くはなかったため、自然消滅的に衰退していった。

 しかし、1990年代同人誌文化の発達に伴い、百合ジャンルも急速にその勢いを復活させる。

まず、「美少女戦士セーラームーン」(1992-97)によって、女児向けマンガにおける戦う美少女という概念ジェンダー論的な観点においての大きな転換点となる。異性愛的な要素が物語の中心に関与していたにもかかわらず、同人イベントではセーラー戦士同士のカップリングを描いた作品が爆発的なブームとなった。その理由として考えられるのは、消費される客体としてではなく主体としての戦う美少女像が確立されたことではないだろうか。これにより、百合的な描写70年代における悲劇的な結末に向かう物語ではなく、少女が二人で主体的に幸せを獲得していく過程が重視されるようになっていったと推測できる。

そして、物語の中の関係から百合文脈を汲み取っていた時代から、前提として百合のもの主題においた作品も増加していく。代表的なものとして、「少女革命ウテナ」(1996-98)がある。この作品は、古典的少女マンガシンデレラストーリーを基盤に「王子様」と「お姫様」を少女同士に置き換えてなぞりつつ、70年代百合作品に見られた演劇的なモチーフや学園モノ、男装美少女といった設定を取り入れ、また絵柄としても耽美で繊細なものであったが、これらは意図して行われたパロディ化された演出だった。ストーリーの結末も、最終的には二人が離れ離れになる点は悲劇的にも取れるが、その後ヒロインたちの再会が示唆されている。アライによると、「王子様」と「お姫様」が結ばれてハッピーエンド、という構造少女同士で反復するだけではなく、最終的にヒロインたちは「王子様」と「お姫様構造破壊し、自身覚醒させ歩き出すことで、社会的女性規範を打ち砕くことができるのだ。(アライ 2015:57)それこそが「世界革命する力」であり、この結末によって投げかけられたのは、異性愛規範や家父長制へのアンチテーゼと、黒人女性解放運動日本女性ウーマンリブ運動などの背景を踏まえた社会的メッセージだった。

これらの2作品によって、社会的な動きと呼応した百合マンガの潮流が形作られはじめる。「セーラームーン」も「ウテナ」も少女マンガ誌に掲載されており、本来ターゲット層は10代の少女対象にしていたと考えられるが、ここでのプラトニック少女たちの絆がオタク層にも受け入れられ、恋愛的な文脈解釈した成年層による二次創作が爆発的に流行する。これと同時に一次創作オリジナル同人誌においても、「百合」という概念が定着しはじめ、少女同士の恋愛主題にした作品がみられるようになる。

 そして2000年代に入ると、マンガジャンルとしての百合を専門に掲載した「百合姉妹」(2003-2005)が発刊される。その後、「コミック百合姫」(2005-)に統合され、現在刊行中。専門誌の発刊は大きなジャンルの発達の手掛かりとなり、この雑誌に連載されていた作品アニメ化や二次創作流行によって、「百合」というジャンルがはっきりと定義されはじめ、広く認知されるようになっていく。しかし、その定義に関して「男性が主要人物として登場し、恋愛関係に介入する」「性的関係が生じた場合百合ではなくポルノ」などといったさまざまな議論が巻き起こったのもこの時期である

また同時期に、「神無月の巫女」(2004-05)や「舞-HIME-」(2004-05)などの少年誌で連載される百合作品が登場する。これらの作品は、少女マンガ作品よりも直接的な同性間の恋愛としての描写性的表現が強く押し出されていた。ここから現代男性向けと女性向けの要素を同時に内包した現代百合マンガ形態確立しはじめたといえる。2007年には、前述した「コミック百合姫」の姉妹紙として一迅社からコミック百合姫S」と「コミック百合姫Wildrose」が発刊。「S」は本誌よりソフトで繊細な関係性の百合を扱い、なもりゆるゆり」(2008-)が代表するような「日常系百合」の流れを作った。一方「Wildrose」は、それまで成人向けポルノとしての過度な性描写忌避されがちだった(厳密な定義での「百合」ではないとされる議論があった)当時の風潮の中、直接的な性描写掲載した作品を扱う専門誌として独立した挑戦的な試みだった。

 ここで、2008年に行われた「コミック百合姫」の読者アンケートを参照してみる。2008年7月号時点の『コミック百合姫』読者の男女比は男性27%、女性73%であるのに対し、『コミック百合姫S』の方は男性62%、女性38%となっている。つまり現在統合された「コミック百合姫」の購買層は、この男女比を単純に平均すると男女差はほぼ半々で、やや女性読者のほうが多いということになる。ここでは百合マンガの購読層を性別と消費の形態に4つに分類して考察した。

①「傍観」型女性

 女性購読層において基本的には、社会的比率を前提にすると異性愛女性のほうが多いと考えられる。彼女たちは少女同士の関係性に、「現実における異性愛ジェンダーロールによる苦痛から隔絶された「非現実的な同性間による越境快楽」を心の拠り所として愛好するのではないだろうか。なおこれについては、やおいBL ジャンルを愛好する女性においてもほぼ同じ理論適用できる層が存在すると思われる。

②「投影」型女性

 百合というジャンル性質上、他の恋愛形態をメインとしたジャンルよりもレズビアンバイセクシャルを自認する女性が購読層に多い傾向にあることは考慮するべきである彼女たちは、異性愛女性が「少女マンガにおけるロマンティクラブ」を夢見るのと同じように、自身性的指向に一致した自己投影先として「百合マンガにおけるロマンティクラブ」を享受していると考えられる。

③「傍観」型男性

 百合自分投影先の存在しないストーリーを消費するものとして受け取っている購買層。①「傍観」型女性とほぼ同じ論拠が適用できると考えられる。

④「投影」型男性

 百合マンガ登場人物自己投影する男性は、ジェンダーロールから解放と、女性との恋愛の疑似体験を同時に達成できる。この購読層の性的指向に関しては、社会的比率として異性愛男性が多いと思われるが、異性愛コンテンツNL)ではなく百合GL)を愛好する彼らに関しては、③「傍観」型男性よりさらに複雑な感情ルーツを持っていると考えられる。また、TS願望を持つ男性MtFとは区別する)や、同性愛男性共感を持って少女同士の関係性を愛好する例も、この枠にひとまず収めることとする。

⑤「乱入」型男性

 特に男性向けの性的描写の含まれ百合マンガ等においては、その世界の中に没入し登場人物の中に「混ざりたい」という観点で消費する層も存在する。これは上記の4つの例と異なり、少女同士の関係性ではなく「(男を知らない、穢れのない存在として描写される)レズビアンである少女を自らの男性性によって屈服させたい」というマウンティングによる性的欲望や、男性主人公やその代わりとなる女性キャラクター存在しない「ハーレムもの」といった受け止め方に由来するものと思われる。ただし、これらの男性百合ジャンルファンから忌避される傾向にあり、特に近年の百合主題とした作品においては減少している。

これらのファンがそれぞれ百合というジャンル定義について議論を重ね、各需要を満たすような創作物制作していったことにより、百合ジャンルが発展していった時期だった。

次に、2010年代百合文化を振り返る。このころに代表的な作品として挙げられるのはテレビアニメ魔法少女まどか☆マギカ」(2011)だろう。この作品は、「セーラームーン」にルーツもつ戦闘美少女系譜を受け継ぎながら、現代調に前提として百合意識して構成された作品ひとつで、魔法少女同士のカップリングを扱う二次創作が爆発的に流行した。

 また、少女マンガ誌において百合を扱った作品が満を持して再び登場する。70年代以降、異性間のラブストーリー(NL)に偏っていた少女誌において約30年ぶりに百合が復活した形で、「野ばらの森の乙女たち」(2011)や「ブルーフレンド」(2010―2011)が連載された。これらの作品は、少女漫画特有の筆致でありながらも明確な少女同士の恋愛関係としての描写があり、また両作品とも70年代のような悲劇的なラストを迎えることはない。少女向けの要素として、学園設定や疑似姉妹などの設定は残されているものの、これらは批判的なパロディというよりも前時代少女誌における百合作品に対する敬意からくるオマージュ解釈するほうがふさわしいだろう。これは近年において少年誌よりもジェンダーロールの強固だった少女誌界隈に百合ジャンルブームの波及がみられた、極めて注目すべき例である

<続きと参考文献リストこちら>

https://anond.hatelabo.jp/20190216025236

2019-02-07

恵方巻起源

恵方巻花街の艶遊びをルーツにしている」という説がある。

要するに、太くて黒くて長いブツ女の子かぶりつくさまを見て、品の良くない楽しみ方をしていた、という説。

平たく言うとフェラチオメタファーですわ。フェラチオ

かに太巻きかぶりつく様子はあんまし品が良くなくて、そう言う連想をしてしまうのは解る。

しか聡明な私はここで違和感を覚える。

・そんなんわざわざ節分の日にやる理由ないやん

恵方巻が始まった頃は性的テクニックとしてのフェラチオ一般的ではなかったのでは

まず1点目、 「節分の日に太巻き遊女かぶりつかせる」という遊びは、いきなり発生するにはハイコンテクストすぎるように思う。

仮に花街でそういう遊びがあったとしても、それ以前に太巻き風習自体存在し、そこに艶遊びの要素が付与されたと考えるのが自然ではないだろうか。

2点目、もの資料によると、日本フェラチオが普及したのは、昭和中期(1972年)のアメリカ映画であるという。

江戸時代にはフェラチオ一般的だったという話もあるが、日本における性規範明治時代に一旦リセットされているため、恵方巻が始まった時期(よくわからんがおそらく明治以降戦前)には、性的技術としてのフェラチオ一般的ではなかった可能性が高い。

上記2点より、巷でまことしやかに囁かれる「恵方巻ルーツ花街の遊び」説は疑わしい、と判断するのが妥当ではないかと思う。

どうだろうワトソン君。


こちらからは以上です

2019-02-05

anond:20190205121254

よく読めよ。

じゃ君はアメリカに住んだらアメリカ人になるの?

日本人のままじゃないの?

自身アイデンティティ確立した土地自分ルーツなんだから東京で育ったんなら東京人間と思う。

コンプレックスかいちいちそういう風に考えないけどな。

2019-02-03

トリビア】ワタナベさんは節分豆まきをする必要なし

→ 鬼がワタナベさんにビビってるから

https://anond.hatelabo.jp/usa02/edit

父のご先祖ルーツは、渡辺の綱とつながるらしいので、(つまり源氏

鬼退治は、しないでももともとしてたメンバーから

でも遠縁?なので、苗字は違う。

なので豆まきはすべきだったのだ……。

2019-02-02

anond:20190202100434

アフリカルーツの人たちが日本差別を受けていることが認識できたのなら何よりだよ

子ども時代は、男女関係なくアフリカルーツというだけで物理攻撃ボコりで、

成人してから言葉就職ボコ

日常的に警察官に止められ、日常的に日本人じゃない、これだからXXX人はと言われる

なお、アフリカ系とは違い、物理攻撃は受けにくいものの、インドなどの褐色系も同じ傾向だそうだ

結局日本に戻ってきてるって自分日本の方がずっとマシだって証明してるじゃねーかよ

マシとか以前に言葉文化も分からず更に非常にシャイじゃそうなるやろ

日本人なので日本文化言葉はわかるし

自称KKO妄想ではなく現実にある差別だよ

外資以外でアフリカ系の人に会ったことない

内向的なやつがボコられてるのを見てきたはずだが

物理的なボコりは犯罪なので警察通報しますし

自分経営者になった時に同じスタンスを貫く経済体力を持てるかは別として

現状サラリーマンの今は負う責任は何一つとしてないので、

発達障がいかなぁ・・・と思う子も積極的フォローしてるやで

anond:20190202093038

黒人からって理由ボコられてるか?

残念ながらボコられるようです。アジャコングボコられたそうな。以下は芸能人スポーツ選手ではない方のインタビュー

――小学校ではどんな経験があった?


入学してから3ヶ月ぐらい経ったとき、2つ上の上級生3人からいじめを受けてさ。その時から「俺はやっぱりすごいバカにされてるんだな」ってことに気づいて。あれはちょっと精神的につらかったかな。


――何か言葉で言われたりとか?


言葉というか、もう暴力という感じだね。言葉だけだったらまだいいけど、暴力になると「俺はやっぱりいじめられてるんだな」っていうのがその日からわかった。

■「日本人」とは何か?「ハーフ」たちの目に映る日本社会人種差別の実際

  https://www.refugee.or.jp/fukuzatsu/lawrenceyoshitakashimoji01


卑怯なことに男性は成長すると強そうなので物理的にボコられなくなるみたいだけどね (女性場合アジャコングみたいな目にあったら危ないので、超無理してでもインターナショナルスクールへ通わせるみたい > 青山テルマ

強そうに育てば物理ボコりはなくなるが、言葉ボコられるのは日常で、警察にも頻繁に止められ日本人と信じて貰えない模様

そのため、中身が日本人しか日本人の中でも(いじめや目立った経験から)シャイでも、

馴染みのないアメリカアフリカやその他のルーツの国へ渡るそうな

けど、日本人の中でも更にシャイなので馴染めず、結局、日本へ帰ってくる人も多いらしい (青山テルマも帰ってきてる)

2019-01-24

日清食品CM炎上問題について考えてみた

日清食品テニスの王子様コラボCM炎上していて、日清食品サイトからCMが削除されたらしい。

個人的には、これを炎上させた側の「偽善」がどうしても解せない。

炎上した理由は、CMに登場した大坂なおみ選手の顔の色が白く描かれていたかである

そもそも、今まで大坂なおみ選手人種的ルーツについての言及や、それに対する批判は多くあった。

彼女日本人なのだろうか」という問いかけに対して、「肌の色は関係ない。彼女という個人だけを見るべきだ」という批判がそのパターン

そう、「肌の色は関係ない」のである。私個人的にも、それには賛同する。

ならば日清食品CMに出てきた大坂選手の肌の色が何色であろうが、「肌の色は関係ない、彼女彼女だ」という姿勢を貫くべきではないのか。

私はあのCMを見ていても、特に違和感は感じなかった。

逆にあのCM炎上させる側こそ、大坂選手の肌の色に人一倍こだわっていないだろうか。

批判する根拠として、米国メディアで行われている、黒人白人のように描く「ホワイトウォッシュ」の手法だというのが批判する側の持論。

しかし、その発想自体黒人を貶めていることになぜ気がつかないのだろうか。

「肌の色は関係ない」のだから彼女の顔が何色になっていようがスルーするのが本来のあるべき姿である

2019-01-12

東京も由来は様々だけど韓国系ルーツがある地域結構あるし

大阪アンタッチャブル東京は叩いていいって感覚はなんか変な気がするんだがのう

ネットの人は単に知らないだけ?

2019-01-07

寝れないから月の爆撃機を語らせて欲しい。

とても寝れないので月の爆撃機について書かせて欲しい。

俺はブルーハーツの月の爆撃機って曲がめちゃくちゃ好きだ。この曲の歌詞は(個人的解釈だが)絶対に譲れない男の中の一線を歌っているようでたまらない。古い表現かもしれないがシビれる。

歌詞の中の「薄い月明かり」は、個々の持つこだわりや譲れないポイントなんだと思う。

そういう心の中の明確に表現しえない「自分の在り方」をぼんやりと照らす月明かりになぞらえているんだと思う。

から、「友達恋人も入れない」譲れない一線を照らすのが「薄い月明かり」で

から、「どんな風に逃げようか、全ては幻と笑おうか」と諭す自分思考が「薄い月明かり」なんだと思う。

普段自分は、自分深淵にある白い月に照らし出された影なんだと思う。

からこそ、普段自分がどんなに悩んでも、そのルーツとなる「薄い月明かり」が不変だから「僕らの行く道は変わらない」んだと思う。

それは俺たち皆に適用されることで、色んな選択肢に苦しめられても、取るべき答えは自分のやりたいことでいいんだぞって訴えてるんだと思う。

自分人生に向き合って、色んな選択肢に悩まされた時、「手掛かりになるのは 薄い月明かり」なんだと思った。

ます

2018-12-23

親と似てない

血の繋がりは確かにあるのだが。

顔や容姿ではなく、性格とかルーツみたいものの繋がりを感じられない。

例えば、世襲制でなくても、親と同じ職種業界就職したりする人とか。

自分運動神経の良さ(あるいは悪さ)は親譲りだ、とか。

親の聞いていた音楽に影響を受けるとか。

そんなの家庭によって違うとか人それぞれだとか言われればそれまでなのだが。

どうして自分にはそういうのが希薄なんだろう。

いわゆる毒親的な感じでもない。

ただ小学生の頃からずっと疎外感が強く、自分けが家族の一員ではないような気がする。

買ってきた大きい家具かに近い。

無視とかはなく会話もたくさんあり家族旅行なんかもした。

家具だって時間が経つと愛着わくからね。

アイデンティティ形成血縁関係に強く感じ、表現する人たちと自分の違いはなんなのか。

ちょっといいなと思ってその人たちの真似をしようとしたら親と似てなくてできなかった。

2018-12-16

anond:20181216222432

なるほどな。

ルーツからし妥当結論なのかもしれない。

 

日本は、江戸時代以前に輸入して来た儒教道徳が、明治以降に輸入した西欧近代と混ざりきらずに、2レイヤーになってるよな。

それを一つの社会システムにまとめるのは、限界がありそうだ。

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