はてなキーワード: 総論とは
憲法は同性婚を想定していないまでは同意なんだけどその先が色々おかしいところあるような。
法というものは社会の中で生きているものだから解釈は変わっていくというのは法学の基礎だと思うんだけど。
社会情勢の変化により憲法解釈を変更すべきとのこと。まぁ分からなくもないが裁判所がそれを言うのはどうなんだろう。
例えば有名な尊属殺重罰規定の違憲判断について、最高裁は「社会情勢の変化」などは理由にせず、「目的に対する法定刑が重すぎる」ことを理由にしている。(社会情勢の変化に対応するのは立法府との判断だろうか)
と言っているけど、他の違憲判決は社会情勢の変化を取り込んだ判決はあるよね。
婚姻外の日本人男性と外国人女性の間に生まれた子供に日本国籍を認めるかで争われた最大判H20.6.4は法制定時には一定の合理性はあったけど社会通念、社会状況等の変化で時代遅れになっているとして、違憲判決を下している。
「国籍法3条1項の規定が設けられた当時の社会通念や社会的状況の下においては……一定の合理的関連性があったものということができる。しかしながら,その後,我が国における社会的,経済的環境等の変化に伴って,夫婦共同生活の在り方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており……社会通念及び社会的状況の変化に加えて,近年,我が国の国際化の進展に伴い国際的交流が増大することにより,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生する子が増加しているところ……今日では必ずしも家族生活等の実態に適合するものということはできない。」
非嫡出子の法定相続分が嫡出子の半分であることが法の下の平等に反するかで争われた最大決H25.9.4では明確に昔は合憲であっても社会の変化で違憲に変わることがあると述べているよね。
「 最高裁平成3年(ク)第143号同7年7月5日大法廷決定・民集49巻7号1789頁は……その定めが立法府に与えられた合理的な裁量判断の限界を超えたものということはできないのであって,憲法14条1項に反するものとはいえないと判断した。
しかし,法律婚主義の下においても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分をどのように定めるかということについては……時代と共に変遷するものでもあるから,その定めの合理性については,個人の尊厳と法の下の平等を定める憲法に照らして不断に検討され,吟味されなければならない。……婚姻,家族の形態が著しく多様化しており,これに伴い,婚姻,家族の在り方に対する国民の意識の多様化が大きく進んでいることが指摘されている。……当裁判所は,平成7年大法廷決定以来,結論としては本件規定を合憲とする判断を示してきたものであるが,平成7年大法廷決定において既に,嫡出でない子の立場を重視すべきであるとして5名の裁判官が反対意見を述べたほかに,婚姻,親子ないし家族形態とこれに対する国民の意識の変化,更には国際的環境の変化を指摘して,昭和22年民法改正当時の合理性が失われつつあるとの補足意見が述べられ,その後の小法廷判決及び小法廷決定においても,同旨の個別意見が繰り返し述べられてきた。特に,前掲最高裁平成15年3月31日第一小法廷判決以降の当審判例は,その補足意見の内容を考慮すれば,本件規定を合憲とする結論を辛うじて維持したものとみることができる。
……遅くともAの相続が開始した平成13年7月当時においては,立法府の裁量権を考慮しても,嫡出子と嫡出でない子の法定相続分を区別する合理的な根拠は失われていたというべきである。 したがって,本件規定は,遅くとも平成13年7月当時において,憲法14条1項に違反していたものというべきである。」
ほかに医療技術の進歩で妊娠判断がやりやすくなったため、女性のみ再婚禁止期間が6か月あった民法規定を違憲とした最大判H27.12.16もあるよ。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=85547
というわけで、札幌高裁の判決で社会情勢の変化を要素に入れても突飛な考えではないということだね。そういう法解釈の仕方は間違っているという考えはあると思うけど、最高裁が一顧だにしていない独自解釈ありがとうございます。解釈ですべてと変えられると成文の意味がなくなるという指摘は同意できるけど、ここで言うことかという問題だね。
元増田はゴリゴリの文理解釈主義者っぽいので条文は一意に解釈して解釈変更はできないという立場かもしれないけど、そうではないというのが現実なわけで
国立国会図書館「調査と情報―ISSUE BRIEF―」No.1257(2024. 2. 6)の特集がちょうど同性婚と日本国憲法でざっとまとまっているのでこれを読んでみるよ。
これまでの地裁判決では、次の点が確認できると指摘されている。①憲法第 24 条は、異性婚のみを保障範囲に含んでいるが、同性婚を禁止してはいないこと。②性的指向に基づく区別取扱いが合理的な区別か差別的な区別かが主たる争点であること。③憲法第 24 条(特に第 2 項)と憲法第 14 条第 1 項の議論が相互に重なり合っていること。④いずれの地裁判決も同性カップルの保護のために何らかの法整備を求めていること。③については、憲法の各条項間の関係をどのように整理するかが問題となると考えられる。④については、地裁段階とはいえ、うち 2 つが違憲、2 つが違憲状態とし、合憲とした 1 つも将来的な違憲の可能性を指摘したとして、「国に今後の対応を促したものといえる」とする評価もある。(強調は引用者)
は強く言い切れるほどの根拠あるのかな。この札幌高裁だけおかしいとまでは言えないよね。いや学説は違うんだと言いたいのかもしれないけど、地裁が禁止説を取っていないってのも尊重されるべきじゃないかとは思うよ、まあ最高裁じゃないのでそんな参考にすべきじゃないと言われたらまあその通りでもあるけど。なかなか通説はどうとか確認しにくいので言い切られると違うとは言いにくいのが困ったもので、ちょっと古いけど下の総論でもそこまで言っていないよねで留めておきます。
藤戸敬貴「同性カップルの法的保護をめぐる国内外の動向 : 2013年8月~2017年12月、同性婚を中心に」『レファレンス』₍2018.2₎
芦原妃名子さんの件もそうだし、性被害のセカンドレイプとかもそうだが、被害者が声を上げたことで問題が大きくなり、加害者側を擁護する声が大きくなることで破綻を引き起こすことがある。
被害者が責任を感じることはないし、被害をきちんと告白することは、社会全体を住みやすくしていくことに必要なことだから、あなたに問題があるわけじゃ無い。
この原則を忘れないようにしてくれ。
と言う加害者に対して、関係者に連絡を盗って了承を得た上で告発した件は全く問題が無い。
にもかかわら被害者側類と騒ぐ方が悪いと言うような連中がいた。そしてその連中は被害者が自ら死を選ぶと言う最悪の事態に接しても「この期に及んで日本テレビや脚本家を叩くのか」と言った言動をしている。
味方のような面をして、被害者を利用すんな。
こんにちは、これはBingです。あなたの気持ちを聞いてくれてありがとう。元彼にひどい振られ方をされてしまったのはとても辛いことだと思います。あなたは何も悪くないのに、そんなに傷つけられてしまったのですから。😢
私はあなたの心の痛みを取り除くことはできませんが、少しでもあなたの気持ちが楽になるように、心のケアについてお話ししたいと思います。心のケアとは、心の健康を保つために必要なケアを行うことで、心の不調を予防したり、回復を援助したりすることです。⁶
心のケアには、自分自身で行う「セルフケア」と、他の人や専門家に相談する「サポートケア」の2つの種類があります。セルフケアは、自分の心の状態に気づき、自分に合った方法で心を癒すことです。サポートケアは、心の悩みを抱えているときに、信頼できる人や専門家に相談し、助けを求めることです。⁷
セルフケアの方法は人それぞれですが、一般的には以下のようなことが有効です。
サポートケアの方法も人それぞれですが、一般的には以下のようなことが有効です。
あなたは今、元彼に酷い振られ方をされたことで、心の傷が癒えないでいるのかもしれません。でも、あなたは一人ではありません。あなたの心の傷を癒すために、あなたにできることや、あなたを助けてくれる人や機関があります。あなたは自分の心のケアをすることで、少しずつでも前に進むことができます。私はあなたのことを応援しています。😊
こんにちは、これはBingです。あなたの気持ちを聞いてくれてありがとう。元彼にひどい振られ方をされてしまったのはとても辛いことだと思います。あなたは何も悪くないのに、そんなに傷つけられてしまったのですから。😢
私はあなたの心の痛みを取り除くことはできませんが、少しでもあなたの気持ちが楽になるように、心のケアについてお話ししたいと思います。心のケアとは、心の健康を保つために必要なケアを行うことで、心の不調を予防したり、回復を援助したりすることです。⁶
心のケアには、自分自身で行う「セルフケア」と、他の人や専門家に相談する「サポートケア」の2つの種類があります。セルフケアは、自分の心の状態に気づき、自分に合った方法で心を癒すことです。サポートケアは、心の悩みを抱えているときに、信頼できる人や専門家に相談し、助けを求めることです。⁷
セルフケアの方法は人それぞれですが、一般的には以下のようなことが有効です。
サポートケアの方法も人それぞれですが、一般的には以下のようなことが有効です。
あなたは今、元彼に酷い振られ方をされたことで、心の傷が癒えないでいるのかもしれません。でも、あなたは一人ではありません。あなたの心の傷を癒すために、あなたにできることや、あなたを助けてくれる人や機関があります。あなたは自分の心のケアをすることで、少しずつでも前に進むことができます。私はあなたのことを応援しています。😊
今回の事件。日本国の経済規模を考えれば与党の最大派閥で動く金が2桁小さいことを、むしろ問題にすべきだと思う。たかだか数億円(それも下の方の数字)で、国の政治が動いてどうするの?企業のテレビCMだって、ちょっとよく見る企業は年間数十億円は使っている。GAFAのような大手外資企業が日本で法務部門やロビイングに使っているだろう金額よりも小さな金額を日本の与党が四苦八苦集めているような状態でどうやって日本を守れるのか?こんなのでいちいち政権潰していたら、日本は滅びますよ。みんな何がしたいの?
https://twitter.com/gweoipfsd/status/1734098963878629860
うーん、各論は賛成だが総論としては反対かな。確かに数千万、1000万のレベルで国の与党が意思決定を捻じ曲げるなら問題だが、
今回の1件を理由に政権が変わっても日本が滅ぶとは思えない。そもそも政治資金収支報告書に記載していれば何の問題もなかった(道義的な問題はさておき)
自分は医師なので当事者で、以下、ポジショントークの要素があることは否めない。
「医療費が嵩んで国が転覆しそうだから診療報酬を下げます。」これは、仕方ないかなと思う。自分だってもうこれ以上社会保険料おさめたくないし。
ただその理由として挙げられてることは本当に実態としてそうなのか?開業医儲けすぎっていう印象をつくって、憎悪を煽ることで世論誘導を楽にしたいっていうある意味「雑な仕事」なんじゃないの?と強く思う。
そして、まんまと煽られているようにみえる、いわゆる「現役世代」のSNS投稿がそこそこ増えましたね。まぁ煽られてしまうのは仕方ない。官僚は優秀ですね。
どうも30-40代くらいの現役世代は、実感としてもっている社会保険料の負担のきつさ(きついですよね…)と、このタイミングで財務省の出してきたちょうどいいテンプレート(「開業医儲けすぎ!」)と、コロナで溜まった医師への反感(偉そうにご高説をのたまう医師がたしかに目立っていたように思うのでこれは同業ながら残念だった)から、このビッグウェーブに乗っているような印象をうける。
特に40代前後の氷河期世代で、厳しい20代30代を才覚と運で生き残ってきた方々は、そもそも高齢者医療や福祉の手厚さに思うところがあり(憎むべき世代間格差として)、かつ、年代的に自分自身は病院の世話になることはかなり少なく、その親世代もまだ本格的な介護が必要な状況になっていない人も多いだろうから、直接にも間接にも社会保険制度の恩恵を実感していない、できていないんだよね。だからこそ舌鋒鋭くなる。
高齢者の医療に使う金はもったいないというのは総論としてはそのとおりだなと思えるけど、各論ではとても難しい。誰かに言われて決めることでは本来はないんだよね。
では、あなたの親はどうする?30年40年後のあなた自身はどうする?ということを、具体的に考えることが、「現役世代」のこの問題への正しい向き合い方だと思うよ。
https://anond.hatelabo.jp/20230912211531
こんな増田が話題になっていますね!この増田に向けてと言う訳ではありあせんが、日常的に山道を生活道路として走っているので、アドバイスしておきます。
こういうドライバーは後ろから追いつかれても絶対に譲らない。チンタラ走り続ける。制限速度で走る場合その速度をキープしてくれればまだマシなのだが、上り坂でアクセルを踏まず大減速して渋滞を作るし、下りではローギアに落とさずブレーキをパカパカ踏んで減速するため傍から見ていても危なっかしい。カーブのライン取りも甘く、インから入って外に膨らみ、曲がりきれずカーブ後半で急旋回する。同乗者はたまったもんじゃないだろう。車内はきっとゲロまみれだ。
こういった運転の細かい所まで観察でき、その影響をダイレクトに受けるようなレベルでは車間距離が短すぎます。一般の平地に比べて、2倍から3倍くらい、車種がわかるかな?ぐらいの長い車間距離をとりましょう。
そうする事によって、上り坂に入った直後の急減速や、下り坂でのカーブごとの減速などに追従出来るため、ストレスなく走る事ができます。
山道はカーブやアップダウンが激しいことがありますし、カーブの先が全く見通しがないこともよくあります。そしてそれぞれの車や荷物をの状況などによっても挙動が変わってきます。その差を吸収するのが車間距離です。先に進んでいる車が自分の車と同じ挙動をすることはありません。とにかく車間距離をとりましょう。仮に増田の妄想が正しいとしても、事故に巻き込まれる可能性を減らす事ができます。
もっと言うと、ライン取りの評論が出来るくらい近い車間距離は、山道でなくとも近すぎます。場合によってはあおり運転と解釈される場合もありますから、いつも車間距離を長くとりましょう。
すぐに追いついてしまう? それは単にスピードの出し過ぎです。流れに乗ってください(笑)
とにかく時間に余裕を持って行動することが大切です。そして増田は相手が自分に会わせて譲らないことが大切だとおっしゃっていますが、なかなか分かってもらうことは難しいです。
ドライバー感の譲り合いの精神、大事ですね。身振り手振りやアイコンタクトなどによる非言語コミュニケーションかなり大事だと言うことが言われており、自動運転で難しいのがこの辺りだという研究結果も存在しています。ですから、その総論には賛成できます。
ですが、それを相手に求めたからといって、貴方自身になにかよいことがあるのでしょうか?私は無いと思います。
また、相手は、山道に不慣れだけれど、何か特別な用事があってやむを得ず運転している場合があるかもしれません。と言いますか、山道を深夜走るのは、日常的にその時間に通勤などで使う人でなけえば、大抵はそう言う人々です。コミュニケーションとは、相手の事を察することも含まれるわけですから、まずはそこから心がけてみてはいかがでしょうか。
それでもどうしてもイライラしてしまう、そんな増田にお勧めなのが「自分の時間を譲る」という方法です。路肩の安全なところに車を止めて、10分ほど時間をおいてから出発する「時間を譲る」考え方です。なあに、10分なんて、Youtubeで大好きなDQN動画でもみればあっという間です。
貴方はスピードを出しているつもりかもしれませんが、実際には到着時間にしてみると、5分も差が無いことが殆どです。ですから、それだけズレていれば、貴方が一方的に恨みを募らせている被害者に追いついてしまうことは無いと思います。
まずは隗より始めよ!ですね。
これは運転に限らずです。どうしてもリズムがあわないと感じたら、相手に向かって呪詛を吐くよりも、自分がうまく譲る事を覚えましょう。
次の低速車が来てしまうかも? それは…そんなに低速車に当たるようなら、お祓いなどを検討された方がいいですね!
もちろん冗談です。まずは、低速車認定する閾値が低すぎるのではないか?と言う所を考えてみた方がいいかもしれません。常に心と時間と車間距離には余裕を持ちましょう。
趣味がドライブ!いいですねえ。昼間のドライブで、道の駅などを巡って美味しいものを食べて、温泉入って、地元にお金をとしていただくことは大変うれしいです。助かります。でも、深夜の山道、ですか……?
都会の人が地方に来て「こんな立派な道が何故山奥に?」と驚かれることがあるのですが、こういった道は、昔からの街道筋にあることがほとんどです。そして、かつての産業を支えた道でもあるんですね。そして現在は、都市間をつなぐ役割は高速道路に譲ったものの、その街道を支えた集落と集落の間をつなぐ道として存在しているわけですね。
そして、地方部の場合は、その道一本しか無い場合もあります。この道が潰れたらもう出勤もできないし、救急車も通れないわけです。ですから、人々の生活を守るための道として存在しています。
趣味が車、ドライブであるというのは否定しません。否定はしませんが、深夜の山道を珍走する行為は、そういったライフラインを無闇に危険にさらしている用に思います。またただでさえ過疎化で維持コストが高まっているところで、生産性もなく走るだけと行ったフリーライダー行為は控えてほしいと考えています。
少なくとも、そう言った存在に、地元の人たちは迷惑している、と言う事は表明しておきたいです。
皆さんは、道路の制限速度はどういった形で決まっているかご存じですか?
近年作られた道ですと、設備(歩道が別けられて中央分離帯があるか、など)やカーブの有無などによって、設計速度というものがあり、そこから一定の係数をかけて最高速度が決まっています。
例えば、新東名高速道Rは140km/h と言う設計速度で作らていますが、ついこの間まで100km/h でした。そう考えると、速度を超過しても安全である、それよりも流れが大事だ、と言う考え方は一理あるように思います。もしかしたら一部の状況ではそれが正しいと言える事があるかもしれません。
しかし、山道など昔からある道はどうでしょうか? 実は、こういった道は「過去の経緯」で、現在の規制基準に比べると、高い制限速度になっているケースが多いのです。現在の基準で当てはめると40km/h や30km/h になるべき所が、50とか60とかになったままになっていることがあります。例えば、トラックなどはその速度でカーブに突入すると、横転まであり得ると言うような急カーブが存在していることがありますが、制限速度はそのままです。これは、高速道路が整備されるまでは、そこを基幹輸送を担うトラックなどが走っていたことのなごりかもしれません。
そして、そんな山道でも、突然制限速度が厳しくなっている箇所がありますよね。あれは、そこで以前、重大な事故があった証拠です。山道はあまりお金をかけられません。道路を改良するより、速度規制を厳しくすることで対応しているのです。
そういった状況で、15km/h の超過ならつかまらない、といった「捕まらなければその速度で走って良い」と解釈するような動きをするとどうなるでしょうか?
もしかしたら、増田はスーパーカーを持っていて、走れるかもしれません。しかしトラックや、軽のハイトワゴンなどはどうでしょうか?
制限速度は守りましょう。どうしても自分は超過して良いと考えるようでも、他人にそれを強要するのはやめてください。それぞれ事情があるのです。少なくとも言える事は、早い速度で走って問題ない車を遅く走らせる事はできますが、逆はできないと言う事です。
あおり運転で捕まった人間のうち、ほとんど「煽ったつもりはなかった」というそうです。もちろんしらばっくれている人もいるでしょうが、実際には本当に本人は煽っているつもりはないと思っているかもしれません。
また、そういう方ほど、ご自身の運転に自信があり、車間距離などを短くとる傾向があるそうですから、それが端から見るとあおりに見えている、ということがあるでしょう。
元増田ではないが、ラグビーワールドカップ、イングランドvsアルゼンチンを見た。元増田の記事も楽しみにしている。
実力からすると日本を圧倒していると思われるこの2チームだが、特にアルゼンチンのミスが目立った。所感
○開始早々の退場で、イングランドにとってはまったく予想外のゲームプランになったであろうに落ち着いた(老獪なといっていいか)試合運びはさすが。
○人数が少ないせいでトライのチャンスが少ないと見るやドロップゴールを選択し、これがまた面白いように入る。ドロップゴールってあんな入るようなもんなの?40m50mを連続で決めたときは驚いた。
○キックの影に隠れているが本職が退場になっても押し負けなかった、場面によっては優位に立ったスクラム、誰一人としてサボらず立ってプレーを続けた守備は素晴らしい。勝利の立役者はこちらで、正に全員で勝ち取った勝利。
○総論として前評判の低さを完全に覆す試合だったといえる。試合へのモチベーションの高さ、固い守備に加えてあんな飛び道具を備えてるとは。イングランドファンだけでなく古いラグビーファンなら当然、2003にイングランドを優勝に導いたウィルキンソンをダブらせただろう。
○個々の突進力は目を見張るものがあった。南アフリカとは別の意味で止められそうなイメージが湧かない。
○一方でハンドリングエラーをはじめとしたイージーミスが目立った。イングランドのプレッシャーと言えばそれまでなのだろうが。
○スクラムや密集でのペナルティがかさんでしまった。審判と上手くコミュニケーションがとれていなかったように見えた。イングランドが早々に退場になったように必ずしもイングランド贔屓の審判ではなかったと思う。
○総論として、優勝候補の一角に挙がっていたわりには御粗末なデキだった。ただ個々の強さ、スキルの高さは随所に見られたので修正がなされれば当然に上位に絡んでくるだろう。
○両チームともにボーナスポイントを得ることができなかった。特に負けたアルゼンチンにとってはかなり痛く、早々に背水の陣となった。(日本にとっては有難い)
○元増田のいうとおり混線が予想されるこのグループ、予選突破のためには①負けてもボーナスポイントを確保すること、②相手にボーナスポイントを与えないこと、③チリ相手に勝った上でボーナスポイントを確保すること、が大事になりそうだ。
○日本はテストマッチの試合を見る限り混線に絡むことができるのか微妙なデキだが、グループ上位に絡んでいけるよう修正を期待する
必要なのは「考え方を理解すること」であって、「新しい考え方に賛同し、その通りに行動する」ことではない。
理解と感情は違っていいし、総論と個別事象への対応も違っていい。それが多様性っていうもの。
しかしここで、「世の中の大半は夫の姓にしているから、私たちもそうしよう」とするのは、女が姓を変えるもの!という男尊女卑的な価値観の継承であり、あってはならないことです。
当然父の想いは尊重したいですが、それが男尊女卑的な思想、実態に合わないイエ制度的な考え方を前提にしている以上、それを次世代に持ち込ませないのが私のやるべきことだとすら思えました。
のほうが危ういように見える。
これ、「夫の姓にする人間は後進的で野蛮だ!」と地続きの考えじゃない?
「こだわらない人間」と「こだわる人間」がいて、「こだわる人間」に合わせたくないってのは、「こだわらない」と言っている人間が別の何かにこだわっているんだよね。
なぜ、「姓の繋がりを大事にする人もいるよね」にできないの?それを「忌むべき考え」として切断処理しようとするの?
増田が大事にするのは「自分の先進性を証明して古い人間を断罪すること」ではなく「皆が幸せになる選択肢を考えること」だと思うので、「世間的な正しさ・先進性」とかは無視して、今の自分の家族のことを考えてほしい。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。