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はてなキーワード: 人文科学とは

2018-01-07

anond:20180104132743

受験生君、社会に出て活躍するにあたって、意外と教養って大事だぞ。

古典漢文仕事に直接使うという事はほぼあり得ないんだけれども、
なんだろうね、日々の学習の積み重ねから形成される
その人の人柄や思考の含蓄みたいなものって、
すごく成果に直結する気がします。

特に企画とか分析とかをする上で
すごく差が出る(これは自分の部下や取引先ののいろいろな人を見ていて思う)し、
営業をする上でも“良いお客さん”をつかまえて、
一緒に仕事をする能力にも直結する気がする。

また、君の主張は受験科目に出すんだったらもっと意味のあるものがあるだろうという事だと思うけれど、
おそらく受験と言うのは知識を試すと言うよりも、
学習能力と目の前の課題をやり抜く力の査定とふるい落としをするものなのではないだろうか。
したがって、おそらく問題なんて、極論スワヒリ語でも何でも良いっちゃ良いのです。
ただ目の前に行きたい大学がある。課題として古典漢文を学ぶことをそこが求めている。
その科目が受験科目である必然性は確かに存在しないのかもしれない。そんなことは誰もが思っている
けれど、そこで逃げずに努力でき、成果を出せるやつとそうでないやつがいる。
受験というのは、そこをふるいにかける作業ではないだろうか。

あと、君が一生一兵卒で終わりたいなら良いけれど、
マネジメントをするうえでは漢籍教養結構役に立つ。
論語』とかのありがたみが、人を統率したり、
組織不条理と戦うにつれてすごく実感出来るようになる。

君が見ているのは目の前の受験なのだろうけど、受験なんてほんの一瞬。
しかも、今の君には想像もできないだろうけれど、
長い人生にたいして影響のある出来事でもありません。

だけど、君が日々積み重ねている学問
特に古典漢文のような人文科学的な教養は一生の財産です。
目の前の受験だけにとらわれず、地道に日々取り組んでほしい。

絶対に、損をするようなことはないはず。
おっさん保証します。

2017-12-09

anond:20171208213700

スペキュレイティブ・フィクションを以ってしてサイエンス・フィクションなのだという名言が有りますね。

そこに至る人文科学地球外生命体の過程思索させてくれないスペースオペラなど仮面ライダーウルトラマンと同カテゴリなので別ものですね。

彼らの孤独ストイックな戦いもエンタメ系入ってるSFにはヒロイズムに酔わせてくれるのでマッチしますが。

2017-11-15

anond:20171115223458

ええええ、、、、、、。

パチンコだとかガチャから献金もらってて外したのだろうか。そこら辺の知識あったらパチンコが割が合わないものだと気づかれるから

だけども、自然科学社会科学人文科学も、結果がスパッと出るような理工系以外ある程度ちゃんと立証しようと思ったら統計処理必須だと思うんだが。

まあ、統計処理なんて考えずに調べたらこんなん出ました!で済ましてるからなぁ、、、。

2017-07-26

ニセ科学批判ネトウヨが結び付けられるようになったことについて

 最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。

 先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界科学だろう、という思いは変らない。

 余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分積極的フォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。

 あらかじめ書いておくと、自分見解は、「ニセ科学批判とネトウヨ本来、つながらない」であるしかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。

 なお、あくま自分観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンス統計的根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。

 あと、話は基本的ツイッター世界が中心である

3.11以後の動き

 ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。

 3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリ左派左巻健男石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたか想像に難くない。

 元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なから割合がただのウヨアカウントであり、人権問題危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。

多層的な「ニセ科学批判者」

 ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベース意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的ニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。

 こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報割合的にはごくわずかということになる。

 俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分であるデマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。

 この層、とひとくちにいっても、いくつかある。

(1)善意悪用して、自分イデオロギーをのっける層

 まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。

(2)人を叩くのが好きな層

 言っちゃあ何だが、科学正義であるしかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。

 正義暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。

(3)理系としての選民思想の持ち主

 一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。

 ところが、ネット理系研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタアニメ談義が話が合うという理由高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。

 これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである

 しかし、本来意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想親和性を持つのはまあ時間問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。

 そうすると、本来関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。

 (この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。

 後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要カテゴリーかもしれない。

こじらせびとたちの罪

 ネトウヨ定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近人間大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベル定義みたいなものだ。物語シリーズラノベかとか三毛猫ホームズラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。

 しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由ネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供ももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間京大生でなければ狂人である京大生でも狂人かもしれない。

 菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。

 ジャンルは違うけれど、所謂キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。

フィードバックはめぐる

 ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。

 RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。

 ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイート文章のものであるツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。

 さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイート自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うからニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。

 ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい

 でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。

 「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。

 それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。

 2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。

 ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。

そして深まる左右対立

 このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来意味も、日本独自派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。

 よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。

 「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタけが受けるものではなく、左派いちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。

 しかしその結果、溝はますます深くなるのである

 こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。

経済をめぐる対立

 先日ツイッター問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーリフレニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨ定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。

 経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。

 ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。

 なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字勘定してイメージやすい「ロジカル」なものからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。

 これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレ経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。

おわりに

 昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。

 それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。

 ここ10年くらいのインターネット歴史は、ノンポリ政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。

 1970年ごろの学生運動だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。

 俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。

(追記しました→https://anond.hatelabo.jp/20170802040735

2017-05-27

文系だと文献リスト必須じゃない」の意味

なんかけっこうな数の人に勘違いされてるようで驚く。そんなおかしなことじゃないでしょ。ということで補足。

言っとくけど、これは剽窃無断転載をしていいって意味じゃないですよ。参考文献の情報を表示する方法が違うってだけの話。

標準的理系とか社会科学系の論文では、注ってこうやって示しますよね(以下、例はあくま架空のものです)。

Trump (2018: 70)は次のように主張している。一方、Obama (2018: 47)はこれに反対していて……

この場合、文献リストがないと駄目です。だってこれだけじゃ、どの論文書籍ことなのかわからないもん。だから論文の末尾に文献リストをつけて、

って書く必要があるわけです。これがないとアウト。

でも、人文系場合は、

トランプは次のように主張している(※1)。一方、オバマはこれに反対していて……(※2)

※1 Donald Trump, Make America Great Again (New York: Trump Tower, 2018), 70.

※2 Barack Obama, Yes, We Can (Chicago: UC Press, 2018), 47.

って表示することが許されてるわけですよ。これ、末尾に文献リストつける必要あります? そりゃつけた方が親切だと思うけど、なくても別にいいでしょ。だって参考文献の書誌情報はじゅうぶん伝わってるんだから

なんで下のようなやり方がされるかっていうとですね、私も確かに上の方が便利だと思うんですが、文系論文だと、

みたいな資料引用することが結構あってですね、そういうタイプ資料を扱う研究者にとっては下の形式の方が楽なんですわ……。もちろんそれらの資料でも、工夫すればちゃんと上の形式引用できますし、実際そうやってるひともいるけど、下のやり方は伝統的なので根強く残ってるのです。

あとまあ、学会によっては「下のやり方で書いて文献リストをつけるな」って投稿規定に書いてあったりするしね(もちろん上を指定してる学会もあります。ケースバイケース)。

http://anond.hatelabo.jp/20170525145352

トラバブコメに応答

シカゴマニュアル読んで出直してこい、あほ

http://anond.hatelabo.jp/20170527080444

おっ、せやなシカゴマニュアルのものじゃないけど、手元の解説書を読んでみたら、次のように書いてあるわ(分量的に引用として許される範囲を超えているけど、そこは勘弁してほしい)。

本書は、2つの最も一般的引用方式を扱っている。「注記式参考文献目録方式notes-bibliography style」、または簡単に「参考文献目録方式bibliography style」(人文科学全般や一部の社会科学で用いられる)と、「カッコ入り出典―参照リスト方式parenthetical citations-reference list style」、または「参照リスト方式reference list style」(大部分の社会科学、および自然科学物理学で使われる)と呼ばれるものだ。(後略)(※1)

参考文献目録方式引用では、資料を使ったことを、典拠言及するセンテンスの最後に、上つき数字を付けることによって示す。

He argues that "in an uncertain world, printed materials can be put to use in ways that make them powerful." 1

それから対応する数字をつけた注で、引用の出典を挙げ、それに関する情報(著者、表題、および出版情報)とともに、該当するページ番号を明示する。注はそのページの一番下(脚注と呼ばれる)か、レポート最後に集められたリスト(後注と呼ばれる)の中に印刷される。すべての注は共通形式をとる。

N: 1. Adrian Johns, The Nature of the Book: Print and Knowledge in the Making (Chicago: University of Chicago Press, 1998), 623.(※2)

※1 ケイト・L・トゥラビアン(沼口隆・沼口好雌訳)『シカゴスタイル――研究論文執筆マニュアル慶應義塾大学出版会2012年、194頁。

※2 同、195頁。

で、シカゴマニュアルが何ですって?

id:death6coin

海外でも下があるの?これもガラパゴスだったりする?

元増田でも例を挙げたけど、この方式採用している英文学術誌なんてたくさんあります。私が見たことある限り(ちゃんと読んだというわけじゃなくて、単純に論文ダウンロードして形式確認した限りということ)では、中国語韓国語ドイツ語フランス語スペイン語イタリア語ロシア語学術論文でこの形式は許容されてる。

海外の著者だと、たとえばウンベルト・エーコが『論文作法』って本の中でこの方式を詳しく説明してるので、ご覧になってみては。

文系からすると、この方式を知らない方がガラパゴスですよ。だって文系理系の人はこの方式使わないで別の方式使うよね、って知ってるもん。なんで理系は、文系では別の方式も使うよねって知らないんです?

もちろん、この方式でも、たとえば1冊の本にまとめる場合なんかは末尾に文献リストをつけるのがふつうだと思いますだってそうじゃないと、その分野に関する文献にどんなのがあるか知りたいときにめんどくさいもの。一度、文献リストをつけられてない英語の本を読んだことあるけど、注を逐一確認して文献を探すのめんどくさかったですよ。ただ、論文程度の分量なら、注を逐一確認するのもそこまで苦ではないし、だいたい単にめんどくさいってだけでじゅうぶんに出典表示の義務果たしてるし、紙幅の問題もあるしで、つけないことが多いんじゃないかなぁ。学位論文とかで、文献リスト絶対につけること! っていう決まりがある場合はつけないといけないけど、それは単に投稿規定守れっていうのと同じ話なので……

2017-04-18

タモリの疑似社会科学っぽさ

先に言うとタモリは好きだ。

子供の頃からいいともをよく見ていたし、ジャングルクッキングとかのタモリもよく見ていた。

タモリ倶楽部面白いし、いまでも好き。

しかし、タモリは全肯定されすぎな気がする。タモリ教養あるように思われている昨今だが、あれは教養ではなくて、豆知識の集積であるように感じる。

ブラタモリもまちの新たな見方提供した番組のように思われているが、どうもサイエンス的な裏付けが弱い気がする。

いうなれば、やたら俗説をよく知っている戦国オタクのようなもので、最近タモリ界隈の雰囲気は疑似社会科学っぽさが高い。

はてな界隈は疑似(自然科学には目ざといが、社会科学人文科学では途端に俗説をよく知っている戦国オタクのようなものを褒め称えている気がする。

#追記

想像以上に反応が大きくてびっくりした。殴り書きのつもりだったので、みんなの反応をみて自分の考えも少しまとまった。

これは完全に同意。私もタモリ科学的に合ってる/間違ってると言いたいわけじゃなくて、「ブラタモリで言ってたからうんぬん」という周囲の反応がおかしいと思っているんだと気付いた

これも完全に同意。昔の中国人の真似とか、タモリ本来茶化す」人なんだと個人的には思っている。なので、タモリネタでやっていると思うんだけど、受け手が真面目に受け取りすぎている気がする。ブラタモリはオープニングで尻を振らなかったのがよくなかったんだ!(番組自体面白いと思います

あーもしかたらこれこそが一つの元凶なのかも、と思ったりした。タモリがまち歩きながら放言するくらいが面白かったのかもしれない。NHKが真面目すぎて、下手に専門家とか呼んで権威づけを結果としてしてしまたから、受け手もそのように捉えてしまっているのかもしれない。

個人的には知識自体教養ではないと思っていて、批判精神こそが教養だと思う。そういう観点では、タモリ権威に流れずに思ったこと質問しているので教養はあるのだと思う。

  • この反応にタモリはニヤリでは?

そう思う。というかみんながこういう反応をしてくれると思ったはずなのに、真面目に受け取られてタモリも当てが外れてそう(そんなこと気にしてないかもしれない)

言われてみればそうかもしれないタモリ自体芸能界の中では趣味人(古い意味でのオタクであるので他人社会に興味がないのかもしれない。所ジョージとか同じ雰囲気

なるほど。その観点はなかった。そういう学問分野にあまり詳しくないので思いつかなかったが、天皇陛下さかなクンを考えればありなのかもしれない。

しか主観を並べているだけですね。最初に書いた通り、タモリは好きだし,タモリ倶楽部ブラタモリも好きですよ。そういう意味タモリをこきおろしているわけではなくて、タモリを全肯定している人をこきおろしているのかもしれません。書いた時は自分意識していなかったですが。

荒れそうなのでノーコメントです

2017-04-04

大学学芸員図書館司書の授業やるのやめませんか?

学芸員図書館司書

大学で授業を取って資格をとっても何の役にも立たない2大資格である

そして、今年も人文に興味を持ってしまったウブな大学生が続々と、「なんとなく良さげ」であるだけの理由学芸員資格図書館司書資格の授業を取ろうか悩んでいる。

しかし、彼ら彼女らがそんな資格を取ったところで、なんの役にも立ちはしないのだ。

学芸員は、そもそも博士まで出ないとなりようがない。

図書館司書は働くことは簡単だが、最低レベル待遇で超薄給なのは周知の事実である

もう、やめませんか?

そうやって、生きていくことに直結しない人文の夢を見させるの。

人文で飯は食っていけません。

人文科学に興味を持ってしまう時点で、社会的弱者となることが決定している趣味嗜好をもっているわけですが、そんな彼ら彼女らに、「もしかしたら図書館博物館で働いて生きていけるかも」という夢なんて見させないでください。

勘違いさせないでください。

2017-03-31

菊池誠どうしてこうなった

菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。

現在では一山いくらネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。

しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。

というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。

菊池誠とは何をしていた人なのか。

2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。

これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。

この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。

また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいか評価すべきかということについて学んでいった。

よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。

当時その運動の中心にいたのが菊池誠である

ニセ科学ニセ科学批判

ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。

ニセ科学とは自然科学に関する嘘である

ニセ科学批判対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。

証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である

科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である

しかしながら個人霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判スタンスだ。

ニセ科学主体も様々である

営利企業大学教授特定肩書のない個人的ブログ政党や国そのものである場合もある。

彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益金銭)・社会的利益名誉)・思想利益党派性)・倫理的利益善意の施し)である

どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。

例えば近藤誠武田邦彦動機は金と売名だし、安倍晋三下村博文共和党言動党派性の発露であり、有象無象ブログ代替医療他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。

ニセ科学批判はこれらの動機や背景を問わずに殴りつける。

ニセ科学批判党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠言葉であるが、定義上これは正しい。

また、個々人のレベルで見ればその批判対象選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動総体として捉えればそれは働かない。

組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能からである

運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身党派性を表明しているに過ぎない。

例えばid:finalventにはニセ科学批判左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタから当局におもねった保守的運動である批判されている。

ニセ科学は大きくデマという概念内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学手続きの有無を利用している場合それをニセ科学呼称すると言い換えても良い。

ここからニセ科学批判方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。

例えば歴史学における歴史修正主義である

ニセ科学人文科学社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判ニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分からというだけである

ニセ科学批判参加者自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。

そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである

「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」

そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。

kikulogとtwitterから見た菊池誠

さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初テーマに関して結論を出さなければならない。

でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。

よく考えたら私は菊池誠親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。

でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。

(4/2追記)

どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。

・7年ぶりくらいに菊池先生名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。

菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災それから1年以上後。

2009年から現在に至るまで菊池誠ネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置id:hazumaちょっと似てる。

2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。

・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。

どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEASTSである

STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。

・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。

ブクマニセ科学批判ってもっとからあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語webだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。

以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。

2017-03-22

聖徳太子しろ何にしろ科学政治バランスをとるべきではないのか。

https://togetter.com/li/1093213

なにやらはてなブックマークがあるツイートで盛り上がっていた。

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/CatNewsAgency/status/843667650999799808

https://twitter.com/CatNewsAgency/status/843667650999799808

まとめはそれを元にしたまとめ(なんだろう)が、なんとなく観点がずれてる気がしたので、長文だが意見を書かせていただきたい。

100文字では書けん。

大前提として、まとめのほうのタイトルになっている

歴史学歴史学者の独占物なのか?」という「問い」に対しては「独占するべきではない」と思う。

歴史家特権階級になってはいけない。

そして、教授陣とはまた違った「在野で歴史を考える者」の意見も、また参考にされるべきなのだ

まあ、教授左翼云々は偏りだというまとめでの指摘も最もだけど。

しかし、歴史学も「人文科学」なのである。「科学である

科学」が「市民感覚」でないがしろにされて良いのだろうか。それは豊洲の件で大いに問題になったはずだ。

豊洲科学的に安全なのに、「安心」できないから駄目などと言われている。

これは「科学風評に負けた」例となりうるだろう。

まとめを読んで、豊洲の例を惹かれて説明されている、このあたりが自分としては特に心配に思った。



でも、だからといって、学者がすべてを決めてしまう、

エリート独裁」的なことが行われてしまえば、それはそれで問題である

大事なのは科学政治バランスをとるべきではないのか。

まとめ文中では軍事を例にして、専門家だけで暴走することの危険性が語られているが、これはある程度当たっていると思う。

この国は、関東軍暴走という自称から戦争が始まってしまった国なのだ。それは反省し、今後戦争をおこさないようにすべきだ。

でもその例で言えば、軍人絶対に無理という作戦政治家が指示してしまった場合はどうなるのだろう、とも思った。

戦前反省を元とした言説にこのようなことを突っ込むと、特にリベラルはてなーには、やれ軍国主義だのなんだの言われるのかもしれないが

現実問題政治家が専門外のことをそこまで指揮を取れるのか。それは歴史学だって言えると思う。

そこで思ったのは、「様々な説を検討する段階をオープンにすること」そしてそれによって「バランスを取る」ことである

結局、学者の独占も、過度の政治の介入も両方よろしくないのだ。今回の件は、ある一つの説を押し通そうとしてしまったというところに問題があるようにも思える。

所謂主流の説、「権力を持った学者」の説を押し通すのではなく、オープンにしていく。それが必要なのではないのかと思った。

そして、教科書に関しては、複数の説の併記必要なのではないか

東大京大で学派が違い、入試問題採用する説も微妙に違うということも起きているが、

これも両論併記でどうにか出来ないものなのか。

とは言えども、結局どうやってバランスを取るのか、現実的手段はあまり思い浮かばない。

このあたり、頭がいい人達が考え出してくれないかなあ、と思う。

2017-03-18

http://anond.hatelabo.jp/20170318041041

よくわからんけど、哲学的ってのは必ずしも「科学的の枠」を超えてしまうのだろうか?

哲学だって人文科学」の範疇だし。

からこういうことを問うてもきちんと答えは得られないだろうけど

プラス意味で使った哲学的という言葉」ってそういう意味かと思った。

2017-02-25

就活戦線、接近間近

地獄の釜が開くまで、残り一週間弱と言ったところか。

地獄の釜とは就活の話。

駅の構内で、大手就活マスコミ広告をよく見かけるようになった今日この頃

現在、私は就活中の大学三年生です。

去年の11月から少しずつ就職活動を始めて、最終面接に辿りついた会社が2社。エントリーは7社くらい。それほど悪い途中経過ではないが、最終面接が終わるまで油断はできない。

自身の本性を覆い隠しながら(嘘を付いたことはない)面接に挑んでいるが、度重なるストレス尋常ではなく、早くも脳味噌から血が噴き出そうな時分だ。無論、エントリーしろ面接の場数にしろ経験が少ないことは自認している。

でも、辛いもんは辛いし、苦しいもんは苦しい。

主観ではあるが社会不適合者濃度75%ほどの私にとって、就職活動ガス室に閉じ込められているようなものだ。

強固な自我を有した学生人文科学系の学問を極めた果てに社会不適合者になった学生コミュ障を拗らせた学生、遊び足りないがゆえに社会に出る目的を見出だせない学生

ひとくくりにできない事情の数々が、人の数だけ存在する。その事情とやらを社会人練習として、見栄えよく加工し説明するのが就職活動だ。

そうは言うものの、それが難しくて苦労するのが就職活動でもある。文章にしてみると簡単そうに見えるが、現実非情だ。

そうした世の中の価値観とズレた感性を持ってる学生、この記事に目を通した人がいたら、是非教えてほしい。

支離滅裂とした独り言になってしまったけれど、これを読んでいる就活生は自分自身とどのように折り合いをつけて戦場に繰り出すつもりなのか。

2016-10-05

でも、何かを捨てるしかない

「基礎研究大事だ」←わかる

「『役に立つ』が社会を殺す。それは人文科学も一緒だ」←わかる

でもお金がありません

さあ、何を諦める?

2016-09-12

[] 言語論的転回

言語論的転回(げんごろんてきてんかい、英:Linguistic turn)は 20世紀西洋哲学における重要な展開である。その最も重要特性は、哲学が、またその結果として他の人文科学が、現実構成するものとしての言語へ関心を集中させたことである

まず最初に、実際のいすのようなものがあると思われ、それに続いて「いす」という言葉が参照するいすという意味があると考える。しかし、「いす」と「いす」以外の言葉(「つくえ」でも何でもいい)との差異を知らなければ、私たちは、いすがいすである認識できないだろう。以上のようにフェルディナン・ド・ソシュールによれば、言語意味は音声的差異から独立しては存在しえず、意味差異私たちの知覚を構造化していると言う。したがって、私たち現実に関して知ることができることすべては、言語によって条件づけられているというのである

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E8%AB%96%E7%9A%84%E8%BB%A2%E5%9B%9E

2016-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20160526183523

色々と反論もあるだろうけれど、私はこの増田共感する。

私は文系博士を取得したけれど、増田の言う「きっつい」人に行き当たることが多かった。

大学同級生で、とくにやりたい事もなく公務員独立行政法人職員になって(ま、それはそれでいいんだが)、その後もその職にやりがいプライドも持たず(←前段に比してここが大事自己のつらさを愁訴するばかり。

社会学と言うかフェミニズムに傾倒した発言をするもの実践が伴わない。

SNSで「社会人院生やりてー」とか言うだけ。友人も交際相手もなし。

ファッション学問をやるのはやめてほしいといつも感じていたが、きっと院に進まなかったらこういう感じでも仕方がないのかもと考えてきた。

そして私自身こういう「きっつい」人になっていないだろうか。とも思う。

人文科学は江湖で発揮してナンボだ。人文科学の知識や手法は生きて行く中で役に立つし、周囲にプラスの影響を与えられる。

そう信じて専門職をやっている。

2016-05-24

http://b.hatena.ne.jp/entry/seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352

音楽」と「音楽学」はまったく違うってみんな分かってる?

あと音楽学って人文科学系の学問のなかでも専門性も身につけにくくて、なにかときつい分野だよ。

音楽学というと音楽家についての研究作曲家、曲など)や音楽史(音楽ジャンルの変化など)が多くて、がんばってる人だと一次資料を読み解く労力と能力がすごかったり、まだ生きてる題材(作曲家や団体など)に対して情報を足で稼ぎまくっていてすごい人はすごい。

だけど、分野全体が文系研究分野の古いところが色濃く残っていて、大多数の(修士以上の学生の)研究一般化と論証がすごく弱い。文系研究で発生しやすい悪い部分が出まくったような研究がほんとうにが多い。

工学系あたりの手順をちゃんと踏んだ修士以上の研究なら、どんな人のでもある程度形になっていると思う。けど音楽学ってその手順の部分が弱く(ie. 身につけにくい、古くてアップデートされていない)、どうにもならない人が発生しやすいと思うよ。

2016-04-04

アイドルを出迎えるとき

私の彼女人文科学系の学問を専攻していた。そのせいで、いわゆるポリティカルコレクトネスに敏感だ。

彼女が嫌いな女性所作がある。例えば嵐の桜井君なんかがテレビで颯爽と登場した時に、女性の観覧者が狂乱したように「キャー」ということが往々にしてある。

この叫び声が良くないと彼女は言う。まず、男性はそんなことをしない、と言うのだ。例えばAKBの誰かがテレビで登場した時男は「キャー」ってならない。拍手で出迎える。

一方男性アイドルなどが登場した際は、女は獣のように叫び出迎える。テレビ番組のこういうところが大嫌いだし、女の方もこれがはしたなく自らの品位地位を貶めるものとの自覚がない。

私は「ほっちゃーん! ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」の事例もあるじゃないかと反論するのだが、それはあくまでも限定的事象であり、そうであるからこそ明文化されたのだと説く。

それに、そういう男と女の差違を、ただ平板化するのでなく、差違を認め合うことこそが重要なのではないかと言う私の多分教科書通りの反論も、論点はそこではない、無自覚構造こそが重要なのだと言い返されてしまう。

彼女インテリだし話していて面白い彼女はしっかりしているんだけど、お酒飲んでちょっと素行が崩れたり、動きが可愛くなるところもまた好ましい。うへへへ…

2016-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20160330144201

一方的被害者意識ができないのは当たり前だろ。で、身から出た錆理論一方的加害者意識には頭を垂れるのね。

こんなバランス感覚ではつらいのは当然じゃない?

個人ではどうしようもない社会問題に対する罪悪感を過剰な自罰的態度で解消しようとするアレとか、自尊心の低い人が人文科学アカデミズム系の知見にかぶれたときのアレかもね。心理的には実はそれほどつらくなく、オタクもこのスタンスもずっと続けちゃうやつ。

2016-03-20

広瀬すず

今日は三月で去る人を個人的に送ってきた。カウンターで三人で飲んだ。去る人は一番右。私は一番左。

私の隣りに若い女性二人がやってきた。狭い店内なので自然と話が聞こえてくる。高校の思い出話を主にしているようだ。同級生なのだろう。

しばらく経ったら、いきなり女の一人が「広瀬すずって不細工じゃね?」と高らかに宣言した。

相手もこれには相当に困ったようで、同意しつつも、「うーんそうかな~」と上手いことかわしていた。

広瀬すず不細工だしCMキモイ性格も悪いうわさがある。広瀬すずはクソ! 姉も同等! と女性は続けて宣言

隣りの女性が本当にかわし方が上手くて「確かに性格が悪いって聴くよね」という種類の同意を繰り返していた。男女同権が叫ばれて久しいが、このかわし方をできる男性はなかなかいないだろう。

ここで私は即座に女性の顔を見たくなってしまった。こんなこと増田しか書けない。じゃ、お前の顔はどの程度なのか? と端的に思ったわけだ(あとでこっそり見たら、ちょっと懐かしいけど「馬姉さん」みたいな顔でした)。お前そんなことよく宣言できるな、と思いながら、それどころではないと思いなおして送別会精神を集中した。俺は大学ジェンダーを学んだんだ。頭の中で止めるテクニック人文科学に学んだんだ。隣りの女の突拍子もない宣言に流される俺ではない。

去る人は手に障害があるんだけど、帰り際その女がそれをガン見してきた。お前は20数年生きてきて障害者見るのがそんなに珍しいのか? やっぱ女ってくそわ! じゃねーわ。その、その日その居酒屋の隣りに座ったそのクソ女がクソ。個人においてクソ。全宇宙の、より広い女だとか若者だとかそういうカテゴリーじゃなくて、その女の有する存在の諸要素が、その女のオリジナル・唯一性を以て糞。死ね

2016-03-06

疑似科学へのリテラシー

水素水みたいな疑似科学。これまでもあったしこれからもあるだろう。

こういうのは科学的根拠がない、と啓発することも科学者役割だろう。「科学リテラシーの涵養」ってやつだ。

おい科学者よ。研究ばっかやってんじゃねーぞ。その成果を説得的に人々に示せないと意味ないだろ。

水素水信じてるなんて、頭痛の時に額に梅干し漬けるくらいのあれだぞ。全然世の中科学の世じゃねーじゃねーか。どうなってんだ。

モノばっかり進歩して人間認識がまだまだうんこのままじゃねーか。

というかこういう疑似科学への心構え的なもの人文科学範疇なんだろうか。

社会学とかの範疇? 「カルト」に捉われるシチュエーションなんかは大学の授業で習ったけど、疑似科学もそういう分野に近い気がする。

とにかく、これだけ教育が充実した世の中なのに、水素水とかどうしてこうなるわけ? と思う。

2016-02-09

http://anond.hatelabo.jp/20160209105831

間違ってるものを「みんなそうしてるからそうすべき」ってするのは似非科学信者とおなじやで?

人文科学においては「みんなそうしてるならもはや間違いではない」んだよなあ

2015-11-28

ポール・グレアムを再読して涙ぐむオッサン

オッサンになると涙もろくなる。

ワイ氏の場合、「人の真摯さ」に弱い。

(多少だが)苦労していると、「この人は真実を語っているな」ということは大体分かるし。

ネット世界では凄そうな人がいるんだけども、身近な凄い人は案外そういうのと無縁で生きている。

少なくとも、四六時中ネットリアルタイムの話題にリソースを割くなんて馬鹿な真似はしない。

ネットはいきなり頂点の人が可視化されるので自信を無くす」という話はよく聞くが、

自分の体験からすると頂点らしいネットの凄い人も身近な凄い人も能力的にはあまり変わらない気がする。

要は「本人がやりたいかどうか(いや、「やるかどうか」)」が問題なだけであって、煌びやかさに惑わされて

足下がお留守になってしまうと本末転倒だと思った。

能力が無いと思っている人も続けていれば勝手に能力はつく。連戦連敗でも「何割かは勝ち」の場合もある。

それを次につなげれば、逆境であるほどレバレッジがかかって能力が上がる。

ある時、凄く出来る女性プログラマーがいて「どうやればそんなに出来るんですか?」と聞いたことがある。

答えは、「デスマーチをくぐっていけばこれくらいの実力はつく」だった。

から能力が無いと嘆く若者も(オッサンも、あるいは女性も)絶望する必要は無いと思った。

単に守りの姿勢ポジションが安定したので、後は受け身で人生守りに入ろう、となった瞬間に思考が硬直化

するだけの話であって。

とまあ、増田で書いた所で寝言なのだが、「ネットの人がそれほど凄くもない」ということは、

はてブホットエントリを見れば一目瞭然だ。

例えば、はてブで上がってくる書籍関係記事ほとんどフィクション系でノンフィクション系が少ない。

いつだかの村上春樹ネット相談で、「小説バカにする夫が許せない」みたいな話題があったが、

実際は逆じゃないかな?と思う。「ビジネス書を読んでいる人は意識が高い」と揶揄されるのが

本当のところではないのか。

しかも下らないライフハック系の記事ホットエントリになったりして、Kindleセールで買えよと思う訳だが、

そんなことを言っても聞き流されるのがオチだと言うことも分かる。

それはともかくとして、最初の話に戻ると、真実を語っている人に弱い。

今日、ようやく仕事区切りがついたので、ダラダラとネットを見ていたが、久々に再読してフリーでもいい文章

落ちているものだと思った。上に書いたワイ氏の駄文の何千倍も役に立つ文章が落ちている。

リンクを貼っても読まれないと思うので、抜粋しながら以下に転載したい。

ハッカーと画家」のポール・グレアム抜粋だ。ハッカー以外にも役に立つと思う。

転載元

http://practical-scheme.net/trans/hs-j.html

<版権表示>

和訳テキストの複製、変更、再配布は、この版権表示を残す限り、自由に行って結構です。

(「この版権表示」には上の文も含まれます。すなわち、再配布を禁止してはいけません)。

Copyright 2005 by Paul Graham

原文: http://www.paulgraham.com/hs.html

日本語訳:Shiro Kawai (shiro @ acm.org)

<版権表示終り>

(「知っておきたかったこと」より)

から卒業演説はこんなふうになるだろう。 「きみと同じ能力を持つ誰かができることなら、きみにもできる。

そして自分の能力過小評価しちゃいけない。」 でも、よくあることだけれど、真実に近付こうとするほど

多くの言葉を費さなくちゃならなくなる。 かっこよく決まっている、でも正しくないスローガンを、 泥を

かき混ぜるみたいにいじってみたわけだが、 これじゃあまり良いスピーチにはならなさそうだ。 それに、

これじゃ何をすべきかってこともよくわからない。 「きみと同じ能力」って? 自分の能力って何だろう?

風上



この問題の解法は、反対側からやってみることだ。 ゴールを最初に決めてそこから逆算するんじゃなく、

より良さそうな状況に向けて少しづつ前に進んでゆくんだ。 成功した人の多くは実際にはそうやって成功したんだ。

卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、 次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。

ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、 今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより

増えるものを選ぶってことだ。

時間無駄にしてない限り、実際に何をするかってことはあまり問題じゃない。 面白いと思えて、選択肢

増えるものなら何でもいい。増えた選択肢のどれを 選ぶかなんて後で考えればいいんだ。

たとえば、君が大学の1年生で、数学経済学のどっちを専攻しようかと 迷っているとする。この場合はね、

数学の方が選択肢がひろがるんだ。 数学からほとんどどの分野へも進むことができる。数学を専攻していたら、

経済学大学院へ進むのは簡単だろう。でも経済学を専攻して、 数学大学院へ進むのは難しい。

グライダーを考えてみるといい。グライダーエンジンを持っていないから、 風上に向かって進もうとすると

高度を大きく失うことになる。 着陸に適した地点よりずっと風下に行っちゃったら、打てる手はひどく

限られるものになるだろう。風上にいるべきなんだ。 だからぼくは「夢をあきらめるな」のかわりにこう言おう。

「風上をめざせ」。

でも、どうすればいい? 数学経済学の風上だったとして、 高校生はそんなことを知っていなくちゃならないんだろうか。

もちろん知らないだろう。だから、風上を自分で見つけ出さなくちゃならない。 風上を知る方法のヒントを

いくつかあげよう。 賢い人々と、難しい問題を探すことだ。賢い人々は自分達で固まりがちだ。

そういう集団を見つけたら、たぶんそれに参加する価値はある。 但し、そういう集団を見つけることは簡単じゃない。

ごまかしがたくさんあるからだ。

大学生になったばかりのときには、大学のどの学部もだいたい似たように見える。 教授たちはみんな

手の届かない知性の壇上にいて、凡人には理解不能論文を 発表している。でもね、確かに難しい考えが

いっぱい詰まっているせいで 理解できないような論文もあるけれど、何か重要なことを言っているように

見せかけるためにわざとわかりにくく書いてある論文だっていっぱいあるんだ。 こんなふうに言うと中傷に

聞こえるかもしれないけれど、 これは実験的に確かめられている。有名な『ソーシャルテクスト事件だ。

ある物理学者が、人文科学者の論文には、 知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめにすぎないもの

しばしばあると考えた。 そこで彼はわざと知的に見えるだけの用語を連ねたでたらめ論文を書き、

人文科学学術誌に投稿したら、その論文が採択されたんだ。

一番良い防御は、常に難しい問題に取り組むようにすることだ。 小説を書くことは難しい。

小説を読むことは簡単だ。 難しいということは、不安を感じるということだ。 自分が作っているもの

上手くいかないかもしれないとか、 自分が勉強していることが理解出来ないんじゃないかという不安

感じていないなら、それは難しくない問題だ。 ドキドキするスリルがなくちゃ。

ちょっと厳しすぎる見方じゃないかって思うかい不安を感じなくちゃダメだなんて。 そうだね。

でもこれはそんなに悪いことじゃない。 不安を乗り越えれば歓喜が待っている。 金メダル

勝ち取った人の顔は幸福に満ちているだろう。 どうしてそんなに幸福なのかわかるかい安心たからさ。

幸福になる方法がこれしかないと言っているんじゃないよ。 ただ、不安の中にも、

そんなに悪くないものがあるって言いたいんだ。

野望



「風上をめざせ」というのは、現実には「難しい問題に取り組め」という ことだった。そして、

君は今日からそれを始めることができる。 ぼくも、このことに高校にいる時に気付いていたらなと思うよ。

たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと 思う。いわゆる現実社会では、

この要求はとても強い力なんだ。 しか高校では、上手くできたからっていいことはあまりない。

やらされていることが偽物だからだ。 ぼくが高校生だった時は、高校生であることが自分の

仕事なんだって思ってた。 だから、上手くやれるようになる必要があることっていうのは、

学校でいい成績をあげることだと思ってた。

その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、 たぶん大人は生活のために

稼がなくちゃならない、と答えていただろう。 間違いだ。ほんとうの違いは、大人は

自分自身責任を持つということだ。 生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。

もっと大事なのは自分自身に対して知的責任を取ることだ。

もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を 昼間の仕事のようにあしらうだろう。

学校でなまけるということじゃないよ。 昼間の仕事のようにやる、っていうのは、

それを下手にやるってことじゃない。 その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。

たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、 自分をウェイターだとは思わないだろう。

同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。 そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。

高校時代を思い出して一番後悔することは何かって尋ねると、 たいていみんな同じ答えを返す。時間を大いに

無駄にしたってね。 君が、今こんなことをしてて将来後悔することになるだろうなと 思っているなら、

きっと後悔することになるよ。

これは仕方ないと言う人もいる。高校生はまだ何もきちんと出来ないからってね。 ぼくはそうは思わない。

高校生が退屈しているというのがその証拠だ。 8歳の子供は退屈しない。8歳の時には「ぶらつく」かわりに

「遊んで」いたはずだ。 やってることは同じなのにね。そして8歳の時、ぼくは退屈することがほとんど

無かった。裏庭と数人の友達がいれば、一日中遊んでいることができた。

今振り返ってみれば、中学高校でこれがつまらなくなった理由は、 ぼくが他の何かをする準備が出来たからだった。

子供であることに飽きてきたんだ。

友達とぶらついちゃだめだなんて言ってないよ。 誰ともつき合わなかったら、仕事しかしないむっつりした小さな

ロボットに なるしかない。友達と出かけるのは、チョコレートケーキみたいなもんだ。 時々食べるからおいしい。

毎食チョコレートケーキを食べていたら、 たとえどんなに好きだとしても、3食目には吐き気がしてくるだろう。

高校で感じる不安感はまさにそれ、精神的な吐き気なんだ。

良い成績を取る以上に何かしなくちゃならないと聞いたら、 『課外活動』のことだと思うかもしれない。

でも君はもう、ほとんどの『課外活動』がどんなにばかげたものかを知っているよね。 チャリティ

寄付集めは称賛されるべきことかもしれないが、 それは難しいことじゃない。 何かを成し遂げるってこと

じゃないからだ。 何かを成し遂げるっていうのは、たとえば上手く文章を書けるようになるとか、

コンピュータプログラムできるようになるとか、 工業化以前の社会生活が実際どんなものだったかを知るとか、

モデルを使って人間の顔を書くことを学ぶとか、そういうことだ。 この手の活動は、大学入試願書に一行で

書けるようなものにはなかなかならない。

堕落



大学に入ることを人生目標にするのは危険なことだ。 大学に入るために自分の能力を見せなくちゃならない

相手っていうのは、 概して鋭いセンスを欠いている。多くの大学では、 きみの合否を決めるのは教授じゃなくて

入学管理者で、 彼らは全然賢くない。知的社会の中では彼らは下士官だ。 きみがどれだけ賢いかなんて

彼らに分かりはしない。 私立の進学校存在することが、その証明になっている。

入試に受かる見込みが上がらないのに多額の金を学校に払う親はほとんどいない。 私立の進学校は、入試

かるための学校であることを明示している。 でも立ち止まって考えてみたまえ。同じくらいの子供が、

ただ地域公立高校だけに行くより私立の進学校に行った方が入試に受かりやすくなるってことは、

私立の進学校入試プロセスをハックできるってことだ。

君達の多くは、今人生でやるべきことは大学入試に受かるように なることだと思っているだろうね。

でもそれは、自分の人生空っぽプロセス、それを堕落させるためだけで一つの業界存在しているほどの

プロセスに押し込めていることになる。 シニカルになるのも無理ないよ。 君が感じている不快感は、

リアリティTVプロデューサータバコ会社の重役が感じているものと同種のものだ。 君の場合給料

もらっているわけでもないのにね。

じゃあどうしようかね。 ひとつ、やっちゃいけないのは反抗だ。 ぼくは反抗した。それは間違いだった。

ぼくは、自分達の置かれた状況をはっきり認識していなかったけど、 なにか臭いものを感じていた。

から全部投げ出したんだ。 世界がクソなら、どうなろうと知ったことか、ってね。

教師の一人が試験対策アンチョコを使っているのを見つけた時に、 ぼくはこれでおあいこだと思った。

そんな授業でいい点数をもらって どんな意味があるっていうんだ。

今、振り返ってみれば、ぼくは馬鹿だったと思うよ。 これはまるで、サッカーで相手にファウルされて、

おまえ反則しただろ、 ルール違反だ!と怒ってグランドから立ち去るようなものだ。 反則はどうしたって

起きる。そうなった時に、冷静さを失わないことが重要だ。 ただゲームを続けるんだ。

きみをこんな状況に押し込めたのは、社会がきみに反則したからだ。 そう、きみが思っているように、

授業で習うほとんどのことはクソだ。 そう、きみが思っているように、大学入試茶番だ。 でも、

反則の多くと同じように、悪意があってそうなったわけじゃない。 だから、ただゲームを続けるんだ。

反抗は服従と同じくらいばかげたことだ。 どちらにしてもきみは他人に言われたことに縛られている。

一番良いのは、直角の方向に足を踏み出すことだ。 言われたからただやる、でもなく、

言われたからやらない、でもない。 かわりに、学校を昼間の仕事にするんだ。昼間の仕事だと

考えれば 学校なんて楽勝だよ。3時には終わるんだし、なんなら自分のやりたいことを 内職しててもいい。

好奇心



じゃあ、本当の仕事は何になるんだろう。 きみがモーツァルトでない限り、やるべきことはまずそれを

探し出すことだ。 やりがいのあることって何だろう。すごい発想をする人達はどこにいるだろう。

そして一番重要なこと:自分は何に興味があるだろう。 「適性」という単語はちょっと誤解を招きやすい。

から備わった性質のように思われるからね。 最も強い種類の適性とは、ある種の問題に対する

どん欲な興味だけれど、 そういう興味は後天的に獲得するものが多い。

この考えの変化したものは、現代の文化においては「熱意」という言葉で 呼ばれている。

最近、ウェイター募集広告で「サービスに対する熱意」を 持った人を求めている、というのを見た。

本物の熱意は、ウェイターくらいじゃおさまらないものだ。 それに熱意という単語も良くない。

むしろそれは好奇心と呼ぶのがいい。

子供好奇心旺盛だ。ただ、ぼくがここで言っている好奇心子供のとはちょっと違う。

子供好奇心は広くて浅い。 ランダムに色々なことについて「どうして?」と尋ねる。

多くの人は、大人になるまでにこの好奇心が全部渇いてしまう。 これは仕方無いことだ。

だって何についても「なぜ?」と尋ねていたら 何もできないからね。でも野心を持つ大人では、

好奇心は全部渇いてしまうのではなく、狭く深くなってゆくんだ。 泥の庭が井戸になるんだ。

好奇心を持っていると、努力が遊びになる。 アインシュタインにとっては、相対性理論試験のために

勉強しなくちゃならない 難しい式の詰まった本ではなかったはずだ。 それは解き明かしたい神秘

見えていただろう。 だからたぶん、彼にとって相対性理論を見出すことは、 今の学生が授業で

それを学ぶことほど、努力とは感じられなかったんじゃないかな。

学校で植え付けられる幻想の一番危険なものは、 素晴らしいことを為すには自分に厳しくなければ

ならないというものだ。 多くの科目はあまりに退屈に教えられるから自律心が無いと全部に

出席することなんてできやしない。 大学に入ってすぐに、ぼくはヴィドゲンシュタイン言葉を読んで

びっくりした。彼は自律心が無くて、たか一杯のコーヒーであろうと 欲しくなったら我慢することが

できなかったというんだ。

今、ぼくは素晴らしい仕事をした人を何人も知っているけれど、 みんな同じなんだ。自分を律すると

いうことをほとんどしない。 延ばせることはぐずぐず先に延ばすし、興味のないことをやらせようと

しても全くの無駄だ。そのうちの一人ときたら、自分の結婚式に 出席してくれた人へのお礼の手紙

出してない。 結婚して4年経つのに。もう一人は、メールボックスに26000通のメールをため込んでる。

自律心が全くのゼロだったら困るよ。走りに行こうかなと思うくらいの 自律心は必要だ。ぼくも時々、

走るのが面倒だなあと思うけれど、 一度走り出せばあとは楽しめる。そして何日か走らないと具合が

悪くなる。 素晴らしい仕事をする人にとっても同じことなんだ。 仕事をしてないと具合が悪くなるし、

仕事を始めるだけの自律心は 持っている。ひとたび仕事を始めれば、興味の方に圧倒されて、

自律心は必要なくなるんだ。

シェークスピアは偉大な文学を産み出そうと歯を食いしばって 勤勉に努力したって思うかい

そんなわけないさ。 きっと楽しんでいたはずだ。だから素晴らしい作品が書けたんだ。

いい仕事をしたいなら、必要なのは見込みのある問題に対する 大きな好奇心だ。アインシュタイン

とっての一番大事な瞬間は、 マクスウェル方程式を眺めて、これはどうなっているんだろうと

自問したところにあった。

生産的な問題に照準を合わせるのには長い時間がかかる。 本当の問題は何なのかを見つけるだけで

何年もかかるかもしれないからね。 極端な例を言えば、たとえば数学だ。数学を嫌う人は多い。

でも学校で「数学」の名前でやらされていたことは、 実際に数学者がやっていることとはほど遠いんだ。

偉大な数学者のG. H. ハーディは、高校の時は数学が嫌いだったと 言っている。ただ他の生徒より

高い点数をとれたから選択しただけだったと。 後になって、彼は数学面白いということに気づいた。

質問に正しく答えることのかわりに、自分で問題を見つけるようになってからね。

ぼくの友達の一人は、学校で提出するレポートに苦しんでいると 母親が「それを楽しむ方法を見付ければいいのよ」

っていうんだとぼやいていた。 でもそれが、やるべきことなんだ。世界面白くする問いを見つけ出すんだ。

素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。 ただこの世界の中の、

ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。

これは学問だけの話じゃない。

「車はどうして贅沢品じゃなきゃいけないんだ? 車が日用品になったらどうなるだろう?」

これがヘンリー・フォードの発した 偉大な問いだった。フランツ・ベッケンバウアーの問いはこうだった。

「どうしてみんな自分のポジションに留まってなくちゃならないんだ? ディフェンダーシュートしたっていいじゃないか。」

2015-11-16

人文科学

世の中がやばくなってくればなるほど人文科学が大切になってくるんだなと今実感してる。

欧州はかつてない危機に直面している。何が正しくて、何が間違っているのか。科学の力だけだははどうにもならない問題がある。

日本文系あんまりいじめないでもしもの時のために、大切にしてあげてください。

多様性大事です。

2015-09-04

未だに幸村かよって思う

これだけ識字率もあがり教育も充実しインターネットが広がってなんでも調べられるし理解できる時代になったのに真田信繁のことを未だに何の臆面もなく真田幸村ってしちゃうのはどうしてなのか。

軍記物などの昔のものは仕方ないとして、現今のゲームなどでも幸村にしているのは何故か。何故信繁ではいけないのか。というか、信繁が正しいのにどうしていつまでも幸村に固執するのか。誤字や誤用を細かく指摘することが結構あって、この信繁幸村問題もそれに類するのかもしれないのだけど、どうしても幸村という表記を見るとおかしいのではないか? と思ってしまう。名前間違ってるわけだ。たとえば、有名な神護寺蔵「伝源頼朝像」って全然頼朝じゃなかったわけだ。それと同じで幸村は幸村と生前名乗った形跡がなく信繁が正しいのだ。

こういう事実があるにもかかわらず幸村表記ばっかり。もちろん理由があったり、ねらいがあったり、考えがあるのなら良い。でも何も考えもなく幸村なんて、この科学人文科学であってもだ)が発達した21世紀において幸村にしちゃうのは本当にダサい

2015-09-03

五輪エンブレム問題についての純丘曜彰氏(大阪芸術大学教授)の発言


五輪エンブレム白紙に戻った。

この一連の騒動の中で気になったのが、大阪芸術大学教授純丘曜彰である

反「佐野エンブレム」の急先鋒としてメディアで派手に〝活躍〟した人物だ。

エンブレム問題の経過をつぶさに見てきた者、デザイン周辺の知識をもっている者で

純丘氏の発言に疑問を持った人も少なくないのではないだろうか。

筆者の感じた純丘氏への疑問とは、

「明らかなデマの流布」「度の過ぎた個人的感情の表出」

そして「独りよがりデザイン論」「デザインに関する知識不足である



明らかなデマの流布


東京オリンピックエンブレムはもう無理筋8月10日

http://www.insightnow.jp/article/8591


瞬く間にメディアのあちこちに取り上げられ、反「佐野エンブレム」への動きを活気づけた記事である

デザインに関して識者といえる人物がここまであからさまにエンブレム下ろしを唱えたのは初めてであり、

純丘氏が五輪エンブレム問題の御用コメンテーターになるきっかけともなっている。

以下は、佐野氏のデザインしたトートバッグに関する部分である


ニーチェの独文の警句英文引用して、名前綴りコピー元のままに間違っていたり

(page:2 より)


Pinterest に一枚の画像として存在していたニーチェの一節、

その最後名前部分に綴り間違いがあり、佐野氏が孫引きしたために同じ箇所で間違えている、

すなわち佐野氏が Pinterest を利用していた証拠である、という論旨だ。


このニーチェの脱字の件は、丸ごと事実誤認なのである

Pinterest綴り間違いの画像などなく、佐野氏のほうだけがたまたま書き間違えていたのだ。

ここで問題なのは佐野氏が Pinterest を利用していたかどうか」ではない。

事実誤認、それも2ちゃんねるが発信源である単純なデマを、

純丘氏はのまま引き写して記事構成しているのである


この純丘氏の記事が出たころにはもう2ちゃんねるの当該スレは自らその事実誤認に気づいており、

ニーチェの一件は「佐野氏が Pinterest を利用した証拠」としては除外の方向へ向かっていた。

純丘氏は、佐野エンブレム下ろしに使えるものはなんの検証もなく使っていたのである

最低でもその誤字があるとされる Pinterest の元画像をその目で確認してから記事を書くべきだろう。


このような杜撰情報収集と決めつけで書かれた文章

大阪芸術大学教授」の肩書きで公にされてしまえば、何も知らずに読んだ人は事実と思い込んでしまう。

論文というのは人文科学であろうと事実を積み重ねなければならないものだが

こんなお粗末な方法文章を書いている人物が学生論文指導をしているのはいかがなものだろう。



度の過ぎた個人的感情の表出


オリンピックに潜り込んだゴキブリたち」8月20日

http://ironna.jp/article/1881


あんな黒いゴキブリ印は、生理的に無理。とても嫌な感じがする。汚らしい。穢らわしい。なにより不潔だ。あまりに不吉で、自分まで不幸に呪われそうな黒いゴキブリ。金と銀の足が夜中にカサコソと動き出して、きみの手の上に登り、パジャマの中にまで入り込んで来る。きみに、多種多様の救いがたい病原菌をなすりつけ、触覚をピロピロさせる。おまけに、突然に羽を広げて飛び上がり、きみの顔をめがけて襲い掛かる。考えただけでも寒気がする。あまりに気味が悪い。


この記事の、黒い生き物の比喩を用いた執拗レトリック

およびそこに貼られた画像は、読む者をいやな気分にさせる。

まるでいやな気分にさせること自体目的ひとつにもなってしまっているようだ。

純丘氏の「佐野エンブレムが嫌いだ」「黒が嫌いだ」という気持ちはよく伝わってくる。

だがそれは個人的感情であり、公にするにしてもせいぜい個人のブログにとどめるべきだ。

大学教授美術博士という肩書き付きでオピニオン系サイトに開陳するようなものとは思えない。

識者なら事実を元に冷静に分析し、問題を明らかにする役割を担うべきだろう。

騒動の中、感情ほとばしる文章で純丘氏は何を訴えようとしたのか。

これ以降、掲示板でもエンブレムゴキブリ呼ばわりする人が一気に増えていった。



独りよがりデザイン


佐野五輪エンブレム超弩級の駄作!」8月26日

http://www.insightnow.jp/article/8644


もはやリエージュロゴからの盗用かどうかは関係なく、

ひたすら駄作である、見るに堪えない、と力説している。

疑惑があるとはいえ、多くの人が関わって世に送り出されたもの

超弩級の駄作」「ゴキブレム」「梅干」と品なく形容する姿勢にもあきれてしまうが、

この他者制作物に対する容赦ない物言いは、おそらく氏の、

デザイン制作とは無関係な経歴(専門は哲学)と関係あるように思う。

むろんそれ自体問題ではないが、次章の「デザインに関する知識不足」も含め、

己の手にあまるデザインに関する解説を、あたかも〝識者〟として発表するのは

それこそ「無理筋」ではないか、と言葉を返しておきたい。


孤の中心がロゴの中心にある限り、この2つのパーツは、このロゴの四隅以外に配置することは不可能である

(1. 形態問題:パーツの寄せ集め より)


この一文の含まれ段落を「デザイン論」として理解できた人がいたら

ぜひ翻訳してほしい(もちろん逐語的な理解はしている)。

「9分割を元にフレキシブルな組み替えが可能」というアイデア否定するのが目的のようだが

なぜそこに「無理と矛盾」(純丘氏)があるのかわからない。

9分割の真ん中に必ず弧の中心が来なければならないデザイン上の理由とは?

さまざまな大きさ・形でさまざまな場所に弧が立ち現れていた、

あのアニメーションのどこに無理と矛盾があるというのだろう。


黒は、ほとんどすべての文化で、死や悪、権力、固着、腐敗、を意味する。同様に、赤は、血のシンボルであり、命や致命傷だ。それに金銀を加えるなど、まさに軍事配色のナチス悪趣味

(2. 配色の問題ナチスフラッグ色 より)


ここは純丘氏お得意の表象である

解釈はさまざま可能なのでナチスフラッグとみる者がいてもいい。

エンブレムを仮に芸術ひとつとするなら、芸術はさまざまな解釈に向けて開かれたものだ。

しかし、これは誰もが知っているようにオリンピックのために施された「デザインである

デザインとは、提示された課題を〝解決〟するものであって、

アートのように何ものからも束縛されない自由意志構成、配色したものではない。

見る者も「日本」で開かれる「五輪」の「エンブレムであるという情報とともに接する、

そのような場、コンテクストにおいて機能するようにあつらえたものだ。

解釈といっても常識的範囲がある。


佐野エンブレムスポーツを感じさせないとか、祝祭感が足りないとかいった批評は可能だ。

が、「ナチスフラッグである、「ゴキブリ」「致命傷」であるなどというのは

エンブレム出自コンテクスト無視した悪意のあるミスリードしかない。

ゴキブリ画像同様、ナチスの絵まで用意して独りよがり解釈

強くイメージとして植え付けていこうとする純丘氏の手法には疑問を禁じえない。



デザインに関する知識不足


どんな媒体でも、ほぼ同じような発色になるように考えておかないといけないのに、全体が印刷物無視RGBベースで出来ていて一般フルカラー印刷YMCKの四色のインクでは出せない「特色」の金銀が入っていたり

(上掲「佐野五輪エンブレム超弩級の駄作!」page:3 より)


デザイン生業としている人、その周辺に詳しい人で

この部分を読んで頭の中が「?」でいっぱいにならない人がいるだろうか。

この2行だけでも純丘氏が自分の手にあまること、自分のよく知らないことを

結論ありき、佐野下ろしを目的に書いていることが明らかである


CMYK を「YMCK」としているところはご愛敬だが、

純丘氏のこの不案内な言説はさまざまな場所で〝プロ〟のそれとして引用されてしまっている。

発表されたエンブレムRGB ベースでできていて、CMYK ベースではないらしい、

色指定の要領を知らず、特色を用いてしまっているらしい、

佐野研二郎氏は、デザイナーとしてはひどく低いスキルのまま今のボジションに祭り上げられ、

あたわない五輪エンブレム設計者の大役もしくは影武者の役を任されたようだ……


RGB ベースというのはモニターなど映像における混合方式であり

CMYK ベースというのは紙媒体など印刷で用いられる混合方式である

RGBCMYK は、媒体に応じてふさわしいデータを用いる、ただそれだけである

RGB ベースでできている」もなにもない。

ウェブでの使用に向けてロゴを配布するならば RGB だし、

ポスタープログラム印刷するなら CMYKデータを用意する。

純丘氏の中で佐野氏は、この知識としても初歩の初歩、

デザイン業務上、日々出くわしてはそれに従って作業している単純なことをまるで知らないという設定らしい。


ここに、さら意味不明な特色のくだりが加わる。

特色というのは印刷インクの一種で、

通常のプロセスカラーCMYK インク)で表現できない色をカバーするためのものである

エンブレムに特色の指定がしてあったというのはどこから情報かわからないが

(筆者は見たことがないので、まずはそのソース問題である)、

それだけをとれば、企業ロゴなどにおいては珍しいことではない。

RGBCMYK と同様、特色を用いるかどうかは運用現場に応じて「自然に」決まるのであって

雑誌カラーページなら金は4色分解(CMYK)で表現されるだけである

媒体や場面によっては、予算や仕上がりを考慮した上で

金や銀を特色にすることも、黒や赤を特色にすることも可能だ。

もちろんそのために CI マニュアルのようなものがあり、

特色で刷るならばここはこの色(PANTONE 、DICなどの番号)、

4色で表現する場合はこの CMYK 値、

そしてディスプレイ用にはこの RGB 値というように、列記されているのがふつうだ。


・特色番号(印刷用)

CMYK 値(印刷用)

RGB 値(映像用)


純丘氏の言葉を再掲する。

以下のような色指定を同一の紙の上に記すデザイナー想像できるだろうか。

すなわち、これが「ワンセット」になっていて、それ以外の指定CMYK 値)のない、

そのような色指定が本当に存在するだろうか。

純丘氏の作為産物か、氏がまたネットかどこかで拾ってきてしまったデマではないのか。

むろん常識的デザインの知識さえあれば、

このような「物理的に」とすら言っていいほど存在しえない〝キャラ設定〟をすることも

デマを拾ってきて書き写すとこともありえないのだが。


RGBベースでできていて(略)「特色」の金銀が入っている



最後


大阪芸術大学教授純丘曜彰氏の言葉は、目くらましのように効果を発揮してきた。

佐野五輪エンブレム超弩級の駄作!」での、ルネッサンスからフラットデザインへ至るくだりなど

エンブレムとはデザイン論において爪の先ほども関係ないが(ゴール地点のフラットデザイン自体なんの関係もない)、

このペダンティック解説や周辺タームは、氏の肩書きと一緒になって人々の目にもっともらしく映り、

エンブレム白紙化の力のひとつになったと考える。

芸術デザインの「専門家」(日刊ゲンダイ)と目される社会的影響力のある人物が、

この混乱の中で、明らかに事実に反すること、半可通なことを、

己の求める結論佐野エンブレム下ろし」に向かって品のない言葉作為的イメージを用いて

流布してきたことには、疑問を通り越してあきれてしまった。


ここには、筆者の知る事実デザインとその周辺に携わる者なら誰でも知っているような知識から

明らかにおかしいと思われるものについてだけ論じた。

五輪エンブレム騒動の中で交わされた、デザインに関する言葉への理解一助となれば幸いである。

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