はてなキーワード: 八百屋お七とは
行動固着増田はリベラルとフェミニストと戦い続ける弱者男性横綱だったのか
なんでお前みたいな発達障害ってすぐ行動固着してしまう ...
なんでお前みたいな知恵遅れってすぐ行動固着してしまうん? ...
なんでハッタショってすぐ行動固着してしまうん?
XとかYouTubeの限界系ウヨサヨとかも 早い話が高齢者なんだ ...
恋に狂って男に会うために放火した発達臭い女が何でこんな ...
松本さんが戻るためには「勝つ」という明確な結果を得ることが一..
そういうことですねw
まっちゃん戻って来るには勝つしかなかったのでは? どっち ...
児童ポルノ漁りと人力BOTしかやることがないなんて辛いよな。
「八百屋お七」の話は、実際にはリベラルな価値観とは少し ...
はてな匿名ダイアリー - 107ページ
オタクたちはこの上なく団結し、みんなで協力?して共通の敵をやっつけるという体験をした。
中にはこれによってはじめてツイートや動画がバズったといって大喜びしている人間もいた。
どうやら今回の件は彼らにとって成功体験、いや耐え難い快楽になったようだ。
それから物言いが過激になったり、いろんな人に物申すのを我慢できなくなったりしているやつがちらほらいる。
これって、フェミニストの連中が最初は明らかにおかしい奴をやっつけるために必要性があって団結してたのに
いつの間にか「あの時の快感」をもう一度得たいと考えて火をつけるようになったことを思い出す。
オタクくんたちは身の程をわきまえてすぎた欲望を抱かないようにしてほしい。
お七の家は天和2年12月28日の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介 と恋仲になる。
やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。
「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
◉◉
「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
◉◉
オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。
八百屋お七のせいじゃないですかね