はてなキーワード: 不適応とは
非モテ男性がどう生きにくいのか、考えて知ってみようと思って調べてみたけど。
内容が、相手の女性の意思を尊重しないで済むようにしよう!何もコミュニケーションできなくて迷惑をかけても非モテ男性は可哀想だから多少の脱法行為は社会は許容すべき!女性は黙ってセックスを受け入れ、男性は非モテ男性に富と女を譲ろう!
みたいなのばっかで、そこに突っ込まれると、
いや、言いたいことはわかるんだけど、
コミュニケーションのできない人間と友情や恋愛や結婚を継続できるわけがないんだけど、この人たちは女がわがままを言わなければ結婚生活がうまくいくと思っているらしい。
適切な社会科訓練や療育を受けられなかったASD,ADHD,LD,知的障害者に必要なのは社会がADHDの犯罪を見逃すことではなく、女を意思のない無償介護要員にすることではなく、療育を受けることだし、
療育を受けて社会で人と暮らすための社会科訓練をすることが多分1番合理的な解決策だと思ったよ。
アンフェミのような人たちってこういう属性が少なからずいるんじゃないだろうか。
彼らの感じてる不平等感は「モテ」ではなくて、単純な障害特性による社会不適応なんだけど、不適応ゆえに気づかないってことなんじゃないか?
まず私はウマ娘の二次創作というのは作った事もないしこれから作る事もないであろういちオタクである事をここに明記しておく。なおアニメは見たしゲームはやっているよ。
先日ウマ娘公式から二次創作のガイドラインが改訂される形で出てきてオタクの学級会が勃発したが正直私は特に思うところは無かった。
先ほども書いたように私はウマ娘の2次創作を作った事も無いし作る気も無かったからだ。
思うところが出てきたのは私のTwitterのTLにて「…ん?」となる発言があったからである。
後述する理由もあり誰とは言わないがその発言の主は某小学生探偵作品のホモ絵(R18要素有り)を描いている腐女子アカウントだった。
彼女はウマ娘の二次創作ガイドラインをここぞとばかりに称賛していた。反対する奴はただの性的描写目的なイナゴ絵師とまで。
いやちょっと待て、お前が描いている某色黒探偵とCIAのエロホモ同人だってダメだぞ。
同人界隈では有名な話だが小学生探偵を連載している小学館は明確に二次創作を禁止している。過去には土下座騒動まで発展したのはオタクとしてはまあ印象に残っている出来事だ。
この手の話は親告罪なのでお前はただ目を瞑ってもらっている、見逃されているだけであって別にウマのエロに対して偉そうに言える立場ではないんだぞ?
流石の私もドン引きしてしまいそっとミュートしたが、ここである疑問が出てくる。
「ウマ娘の二次創作ガイドラインを口実にエロ絵(厳密にはガイドラインに引っかかる表現)を批判しているオタクははたしてガイドラインが定められている他作品でそれを守った二次創作活動をしているのか?」というものだ。
例えば「東方プロジェクト」という二次創作同人がかなり盛んなコンテンツがあるがこれだって「その他過剰な性的表現や、特定の個人、団体、人種などを中傷する内容等、社会通念上著しく不適応だと判断される行為」が明確にガイドラインにて表記されている。
「過剰な」というのが曖昧で厄介ではあるが一応東方プロジェクトですらエロ表現に禁止事項を出している。
果たしてウマ娘の二次創作について賞賛、ないし良識人の顔をしていたオタクは、はたして他作品のガイドライン守っているのか?
本当に気持ち悪いインターネットの使い方ではあるがその周りのツイートから辿っていって過去その手の作品がないか調べてみた。
結果としてはほぼクロである。
もちろん上記に挙げた東方プロジェクトの例のように「過剰な性的描写」という判定を怪しくしてしまうものもあり、私の主観もだいぶ入っているので怪しいが(それでも過剰の基準を割とガバくしたつもりだよ)ほぼほぼクロである。
ちなみに東方プロジェクトをわざわざ例に挙げた理由の一つとして「過去東方プロジェクトのエロ二次創作を描いておきながら、ウマ娘のガイドラインを盾に『滅べイナゴ絵師!』みたいな事を言っていた万単位でフォロワーがいる絵師を見つけたからである。
ひろゆきに「なんかデータあるんですか?」と言われてしまいそうだが私基準でクロである。
唯一シロと言って良いのは単にそのキャラの絵を描いただけといったわかりやすいファンアートを描いていた人たちくらいであとはほとんどクロである。
純粋に二次創作が禁止されている運営や会社の作品でやったり、かなり甘く見積もってもガイドラインに引っかかんだろこれ、みたいなものばかりだった。
かなり長い前置きになってしまったがここからが本題で、要は「他人の二次創作にとやかく言えるような立場にあなたはいるの?」って事である。
イナゴ絵師だキャラへの云々が無いエロ絵師だがなんだが憎いのは理解するとして、じゃあその人たちを断罪できるほどあなたが作ってきた作品はなんのルールにも引っかからない表に正々堂々出せる物だと言い切れるの?
正直「はいそうです!」と言える様な人はハッキリ言っていないだろう。
言っておくが私は別に二次創作に反対の立場なんてとらない。私も過去あるコンテンツのBLホモ小説を描いたことがある(今更ながら私は腐女子だ)。
そしてそのコンテンツはガイドラインが無いためグレーゾーンであった。
「お前らは性的描写が好きなだけでウマ娘が好きなわけじゃない!」みたいな馬鹿ツイートがバズっていたが別に「性的描写が好きな事」と「〇〇というキャラの性的描写を見たい描きたい」は矛盾無く両立する。
さも良識人面しているがその過去絵だってちゃんと報告すれば一発アウトのものであり、あくまで見逃されているだけだからな?と。無論グレーゾーン(ガイドライン無し)の作品も同様である。
まあここまで書くとさもエロ絵師擁護に見えてしまうし、何が言いたいかっていうと
「お前らだって一つや二つそういう作品作ったんだろうからガイドラインを棍棒に学級会を始めるんじゃねえ」という事である。
更にここからは私の嫌な予感であるのだがこういったことがある以上二次創作作品についての「キャンセルカルチャー」が起こってしまうのではないかという事だ。
ウマ娘のガイドラインを過剰に称賛し、やれイナゴ絵師だなんだと人に対して揶揄した以上その厳しい目が言った当人にも向くのは当然の事である。
そこで過去に描いた、創った作品、もしくは製作者当人の発言まで洗われるかもしれない。
ジェームズガン監督の騒動を思い浮かべてもらうと分かりやすいかもしれない。
私が冒頭でアウトなホモ絵を書いて尚且つウマ娘のガイドラインを称賛していた女オタクを明かすつもりはないと言ったのがここにあり私はキャンセルムーブについては明確に反対の立場だ。
改めて言う
「ウマ娘のガイドラインについて賛同したうえで誰かを揶揄ったり批判したりした、自分は大丈夫だと思っている(二次)創作作家や絵師」へ
以下まぁまぁフェィクが入っているので、話半分にお聞きください。
勤め先の大学に、業績主義ガチガチの同僚がいる。なお分野は語学である。
表面的には人当たりはよいんだが、仕事が遅かったり、立て板に水のようにしゃべらない人がいると、その人を軽く扱う。
性格的に少し弱い奴は、巧妙にパワハラチックに追い詰めて、力関係を確認しようとマウンティング行動をとる。
ちなみに彼によれば、彼より私の方が高偏差値大学出身なので、私は信頼できるそうである。
もうなんか頭がおかしいのではないかと思う。妙に弁がたってそれらしいことをいい、
そのため同僚の多くは遠巻きにして、距離感を開けて付き合っている。
それをまた、皆が尊敬してくれているとか、自分を怖がって上にみていると捉えているような雰囲気がある。
一部の押しの強そうな、でもどことなく頭の悪そうな一派で気持ちい感じでつるんでいる。
それはいいのだが、その一派の子供達が、学校不適応だったり、非社会的な行動をとったり、
学校でのトラブルが多かったりする。そこで、私が心理学者なので相談を受けたりする。
親がそうだから、子も変になるとは思うのだが、とてもそれは言えない。
そういう時期もあるよなどと話す。成績や勝ち負けだけに注目しすぎると辛くなるので
生活の楽しみ方を家族で話しあったらなどとアドバイスをしてみても、上下や勝ち負けの
世界に生きている彼にとっては、ピンと来ないようである。子供も時に大学に連れてこられている時があり、
こっちも興味津々なので、やさしげに話をしてみるが、子供にはどことなくはつらつとしたところがなく
このおじさんは偉いのか弱いのかというような軸で評価している言動がある。
こういう成果主義的な養育者と子供の育ち、特に社会不適応は関係あるのかと思い、
趣味的にアンケート調査をしてみた(本来の心理学における専門とは全く違う)。
それほど強い相関ではないが、関係あるようですね。おもしろいので世の中に出そうかとも思ったが、
成果主義的な奴らのご家庭など、子々孫々に至るまで滅んでしまえと思っているので、データと分析結果は、
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
現状から一歩踏み出すためにまとめてみた。
少し時間が経ったら、追加したり書き直してブラッシュアップするつもり。
会社員生活に性格的になじめない。今まで我慢して続けていたが、現在とは違った収入手段を得て会社を辞めたい。
人間関係でストレスを感じる。もともと対人関係スキル、ストレス耐性が低かった。会社に入って慣れていくこともできず、ストレスから不眠症状などが出て、生活の質が低いと感じる。
生活は地味目で支出はあまり多くない。月20万円程度の収入を目標(年収200~250万円)にして、ウォーキング、読書、ネット徘徊などを趣味にして、マイペースで生きていくことを希望。
転職しても、また現在の職場と同様、人間関係に悩むことになるだろうから、ネットを使った個人事業プラス足りない分を短期間のアルバイトで補うかたちで収入を得たい。
・自分のような「会社員生活不適応人種」が、この世の中で細々と生き延びるスキルとか考え方をつづる。現在社会の中で「生きづらい」と感じている人も一定数いるだろうと思われるので、その層から購読者を得たい。
・同様の内容を発信している人はすでに多く、いかに特色を打ち出していくか。
・個人によるアフィリエイト収入は多くを望めず、かなりの作業量を投入したとしても月1~2万円程度が関の山か。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
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なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
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「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
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