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はてなキーワード: 帰結とは

2024-08-29

anond:20240829134144

第一に、古着アメカジアメリカ礼賛とかよくわからん主張が多数含まれているし

第二に、仮にそうであったとしてつまりポリコレ現実的でないという帰結しかならず、それは斎藤平氏にとっても都合が悪いのでは?ってのと

第三に、そもそも資本主義果実享受したうえで快適な生活しているのにその資本主義否定することの滑稽さを指摘されているのであって、資本主義の上に成り立ってるものを並べたら全部当てはまるのは当たり前

2024-08-26

20年前に経済学部講義教授がテキトー世間話をするタイムがあったけど、そのテキトー話の中の未来予想は大体当たっていた。

 

中国経済的な躍進は止まらない。日本は負ける。

日本経済は停滞し続ける。海外株を買うが吉。

日本経済大国ではなくなり、観光立国を目指すしか無くなる。

 

当時の情報から考えれば当たり前の帰結と言える。

現在大学では、きっと20年後の予想がされているだろうし、まぁ明るい未来は描かれていないだろうな…

2024-08-10

anond:20240809212549

日本みたいな島国と違って、地続きなのに、「一緒には住めない」と思ったから別の国として独立してるわけで、「アイツらとは違う」という選民意識はどこの国でもあると思う。

でも、日本場合他国自国の間に線を引く、他国民と自国民の間に線を引くにあたって、日本という国家日本人という概念があまりないまま、よそ者外人、くらいの雑なくくりで認識してる。島国侵略を受けた回数が少ないことや、幕藩体制もその前の戦国連邦国家だったためだと思う。

あと、歴史を動かす原動力をどう捉えるかの違いもある。

イラン人は、歴史には法則性があると考えてる。

偉大な王が興した国も腐敗してグダグダになり遊牧民が滅ぼすというようなのももちろんだけど、いろんな事件物事を、故事成語宗教言葉古典文学の一節に絡めて総括したがる。

アメリカ人は、歴史に「なぜ?」を求めるけど、誰のどういう決断によってどう動いたかということに帰結させようとする傾向が強く、歴史個人決断が動かしたと考えてる。「そのときあなたならどういう決断をすべきか?」という歴史教育をする。

フランス人社会全体のうねり帰結させたがる。誰々から誰々の手紙みたいな、膨大な一次資料歴史の授業の教材にする。フランス革命アイデンティティなのだと思う。

日本は、歴史にifを求めないし、歴史を責めない。あちら側からしたらそれが正義で、こちら側からたらこれも正義で、全ての出来事は仕方ない。みたいな考えに落ち着く。

イランの鼻につくところは、選民思想と歴史観が、悪魔合体してるところだと思う。それでいて、こんだけ欧米から干されてもうまいこと綱渡りしてるし、アカデミアは強いし、賢いっちゃ賢いんだろうけど、やっぱ特異的だ。

それより、日本じゃイラン人っていうと薬物関係犯罪者が多い印象。北朝鮮ロシアといい、欧米輸出入を禁じられると違法な物品の売買が強くなるだろうか。ならずもの国家からなのか、欧米が締めつけるからならずもの国家になるのか、卵が先か鶏が先かだね。

2024-08-06

anond:20240806142731

そんなん言ったらそもそも日本ABCD包囲網がなかったら侵略戦争始めなかったんだが?に帰結するだろ。

因果関係責任論を混ぜてものごとをかんがえるのは危険なんだよ。

理由があったら殴っていい」とか「殴られる方にも理由がある」とかそういう価値観でいる限り話はすすみませんって。

2024-08-02

離婚すると何がつらいのか

はじめに

人生で感じる大きなストレスの第1位が配偶者との死別、そして第2位が離婚です。

なぜ離婚はつらいのか、離婚経験がない人向けに語っていきます。楽しんでもらえれば幸いです。

なおこれは個人的意見が多分に含まれています

また自分離婚された側です。

離婚経験がない人から離婚理解されにくい

離婚するとまず「何か問題があった人」とみなされます

「生涯一緒にいようと約束したのに、その約束を守れなかった人」と思われます

他人から思われるというよりも、むしろ本人がいちばんそう思って苦しみます

結婚は、振り返ってみると、なんだかんだ命を懸けた判断でした。なんとなくであれ、気がついたらであれ、できちゃったからであれ、自分の長い人生を共にあゆむと決意した相手なので、離婚となるとその決意が底から抜けます

離婚経験した感情一覧

離婚で味わった感覚としては以下の通りです。長いので読みやすいように分割してます









このあたりを抱えたまま社会に生息することになります。なので結構キツいです。

対処

離婚経験がない人は、そっと見守りその話題を一切出すことな楽しい話題提供しつづけるのがベストです。へたに聞くとそこは地雷原です。もう何が地雷なのかわからないぐらいやばいです。

相手が話し始めたら聞いてあげるのがいいです。「わからなくてもいいからつらさを少しでもわかってほしい」というのがあります

離婚経験がない人から言われる助言ほどムカつくものはありません。聞かれるまで助言を言うべきではないです。というか聞かれても相手否定することを言わないほうがいいです。否定はめちゃくちゃ自分でしていて、「肯定される」「肯定する」ということを渇望しています。全肯定botになるのがよいです。

そんなことよりも「コーヒー飲む?」とか「音楽何すきでしたっけ」とか「ピザ頼むんですけど何食べますか?」とか「見て!ネコかわいい!」がいちばん心にしみます

これは離婚経験があっても同じことです。離婚経験があるからといって助言が参考になるわけではないです。一緒にすんな!みたいな感じになることもあります基本的には相手に寄り添うことが必要です。

孤立無援感の醸成

離婚者は弱っているので、誰かの一言や行動で簡単に懐くし、簡単絶望します。とにかく愛らしきものを感じると飛びつくのです。

なので悪意がある人に敏感です。悪意がある人は最初悪意があるわけではないと思いますしかし、その人の無理解や無神経さや誤解によって、離婚から次第に悪魔扱いされはじめます言葉にしなくても行動から「どうも自分悪魔扱いされてる」と感じるはずです。

そして、「そんなに悪魔として振舞ってほしいのなら、本当に悪魔みたいに振舞ってやろうか」と考えて、「ざまぁみろ」と鬱憤を晴らし、復讐する感じだと思います。これがセカンドレイプのようなものです。離婚者は、ありとあらゆる場所でこれをされています。なので、世の中に敵しかいないように感じ、悪魔しかいないように感じます

条件付きの愛でなければ愛されない、メリットを渡さなければ愛されないと考えてしまい、他人奴隷のような動きをしたりもします。

人間とはそういう生き物だ」という感覚です。

このあたりが非常につらいです。

離婚者の解決

信用できる人を徹底的に探しはじめます。もしくは人間について絶望しやがて1人で立つことを選び1人で生きていくのかもしれません。

それができなければ死を選ぶか、リビングデッドのように目的なく世の中を彷徨うかすると思います。とんでもなく人を疑う割に、やはり信用できる人を探しているのはおもしろいです。

離婚者を助けることによるメリット

離婚前の彼彼女状態が良ければ、離婚直後に彼彼女らにポジティブな手を差し伸べることは長期的に見て有益です(利用してはいけません。投資と見るとよいと思います)

人生で最も苦しいときに手を差し伸べてくれた相手には、非常に好感を覚えます

逆に自分逆境に陥ったときに助けてくれるかもしれません(必ず助けるとは言ってない)

また、手を差し伸べても、離婚者は手を振り払ったりします。いわゆる試し行動ですが、これに腹を立てて「なんだ!助けてやったのに!」と怒ると、敵対判定されます離婚者はとてもめんどくさいメンヘラなのです。

まとめ

N=1なので、べつにこれがすべてだと言うつもりはありません。

頭の片隅にでも置いておいてもらえると嬉しいです。

いま現在離婚した人を助けるためというよりかは、自分がいざ離婚してしまったときに、「そういえば…」と思い出して、現実に帰ってくるときにこの記事が役立つと思います

離婚前に読んだ方がいいです。離婚防止になるだろうし、離婚後に「このことか」となると思います

離婚後に読んでも「そんなん知っとるわ」となるはずです。

追記

主語はかなりデカかったと思います。振り返ってみると全体ではなく個人的感想ですね。不快な思いをさせてしまった方々に深く謝罪します。すみません

離婚経験者の中でも「自分はせいせいした」という意見もあって参考になりました。

自分リアルでは離婚の深い話はあまりしないようにしています

そもそも離婚したこと結婚経験があることをあまりしません。何か恋愛などについて聞かれたときは濁しています。もともとの自分が味方を作りにくく敵対されやすいので、潜在的な敵に弱点を晒さないというのもあります

たとえば離婚話をして離婚つらかったんですよ〜!と明るく言うと、未婚の人から結婚できたことのマウントだと思われて敵対されることもありました。

「信用できない人に自分の魂部分に関わる深い話をしてはいけない・弱さを見せると凛々として叩く人間がいるので自衛しなければならない」ということは大きな学びでした。

当時は「そんなんだから離婚されるんだよ」とか「メンヘラすぎて無理(笑)」とかの、まさに敵対的なブコメのような言葉が刃のように刺さっていました。ひどいものだと「死にたい」と言ったときに「振られたぐらいで死にたいの?じゃあ死ねよ」などと声をかけられたこともあります自分にとってはそうした発言セカンドレイプだと感じていました。弱っているときは、弱い者を叩きたい人が本当に多く集まってくるのだなと理解しました。

今は比較大丈夫ですが、多少イラッとはします。

言われたとき認知的不協和の解消をされているとか、公正世界仮説によって自分が悪いことにされている、とリフレーミングしています。「離婚でつらかった」という話を聞いて気分が良くなる人は少ないと思うので、「不快な思いをさせてきたこ話者が悪い!」と帰結するのは当然のことかもしれません。

現在はそういう人とリアルで遭遇すると、心の中で敵と判定して切断し、以後は社交辞令的・常識的な付き合いのみするようにしています

しかすると人間性の底を常に観察しているような目をしているかもしれません。

また、自分失恋はこの離婚が初失恋です。元配偶者依存していたのもありますが「他の人に絶対に行かずこの人と人生をともにしようと苦しいときも耐えていたのになんでこんな目に…」という気持ちが大きかったです。

離婚直後はとてつもなくモテず、ほとんど誰から相手にされませんでした。恋愛が久しぶりすぎて何もわからなかったし激病みという状態です。徐々に月日とともにモテるようになっていきました。

ただし、モテることは元配偶者への復讐がメインなこともあり、モテてもほとんど嬉しくありませんでした。

また回復過程で多くの人を恋愛的に傷つけたり逆に傷つけられたりしました。

配偶者への後悔の念が愛情となって相手に行くけれど、それは元配偶者への贖罪悔恨愛情から相手のことはちっとも好きではない。相手からは強烈に好かれるけど、好かれれば好かれるほど試し行為をして振ったり振られたりを繰り返していました。これはかなり長期間続きました。

現在はおかげさまで離婚の辛さは時折思い出す程度でほぼ立ち直っています

追記での自分語りが長くなりすぎましたが、1つのサンプルだと捉えてもらえ、誰かの助けになれば幸いです。

2024-07-30

フェミや女からの男へのアドバイス

聞く価値があるなら聞くんだけど、なんというか聞く価値が無いなあって思う

というかどういう男を求めてるのか全然からないんだよね

結局女に無償の愛を求めるな、男らしくしろってアドバイス帰結してるんだけど(この時点でフェミ自己矛盾してて主張が崩壊してるんだけど)

それやると男はDVモラハラ気質になるし(稼いで努力して振る舞いも男らしいっていうのとモラハラ気質はかなり相関する)

実際君たち今までそういう男選んできてその末路なんでしょって感じの女ばかりだし

男になんかいう前に自分反省したらどうかなあと思う

結局格上男に殴られたいのかな?っていうのはわりと正解な気がする

或いは王子様を求めてるのかもしれないけど、そんな10万人に1人しかいない男は君みたいな女には惚れませんので…

2024-07-27

anond:20240727112244

寿司も麻婆もキムチ劣化アレンジレシピしかないし、全てのアジア国家韓国帰結するんだよ。それを認めないのはジャップだけ。島国での近親交配で脳が劣化してしまたからね。

2024-07-25

anond:20240725080954

ほんとこれ

クソゲーだと理解してたら参入なんかしない

元増田自己反省と何故のめり込んでしまたか分析は適切だと思うけど、能力帰結するのは分かってない

多分格ゲーとかのゲームが下手なタイプだと思う

2024-07-24

審美眼なるものを疑う人間は多分一定数いる。おれもそう。

実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。

あれは違いを確かめ作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。

区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からお墨付きにはなるだろうけど。

仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が

「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」

「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」

と言ったときに、イイもの定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易二項対立は良くない。

もっと言えば、そもそも本当にその感想本心から来てるのか?って所もある。

人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。

まあ好き嫌いときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ち確認の精度にも疑問が残る。

まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推デカいのかもしれない。

仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイもの定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感問題になってくる気がする。

SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的分析」的な記事が流れてきたりする。

あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。

でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。

仮に辛いものは美味しいという定義存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的評価として成立する。

いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。

じゃあ根本的な話として、定義のもの妥当性はどこにあんの?

美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。

美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。

ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。

個人好き嫌いとは区別して扱われがちなイイもの定義も、共感問題しか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌い同調する内輪の問題しかなくねえか?って思う。

別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイもの論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。

いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。

まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義問題しかないと思ってるし。

イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定物質特定感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイもの定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。

まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的定義を重ねないといけないかもしれない。

2024-07-23

そいつらさえいなければ大丈夫だったかもなあhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/nordot.app/1188003968517701905

輪島商店組合破産へ 能登地震影響、存続を断念

震災直後から助けるな復興するなとかパソナ伝統工芸とか、復興妨害してた自民党を始めとする愛国保守逆張り冷笑界隈の主張の帰結がコレ。あの界隈は本当に日本を滅亡に導いている癌細胞

岸田政権馳浩がもたらした結果

人災

自公政権が進めてた地方軽視政策の結果ですね。

お上文句言うな!!」しか言う事のないクズブクマカの皆さんは、自分たち復興の足を引っ張ったという自覚は無いだろうね

愛国保守逆張り冷笑界隈、自公、岸田と馳、クズブクマカがいなかったら、もう少し先まで持ったかもしれないのにな

2024-07-21

ウォーク左派ジジェクファンによる、ジジェクへの反論

https://anond.hatelabo.jp/20240721230541

上記ジジェク記事への反論記事

ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済

2023年3月2日

ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/

 

私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである

彼の著書『終焉時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、

彼の他の著作に興味を抱かせるきっかけとなった。

ジジェク文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。

 

本棚に積まれ1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。

私は、ジジェク長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分知的価値を測るようになった(現在ほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。

 

それだけに、現代政治文化に関する最近記事で、ジジェク非難するのは心苦しい。

しかある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、

なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、

有利なポジションに私を置いていると感じている。

 

私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクエッセイである

そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。

 

ジジェク哲学は、ヘーゲルラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着からオーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。

他方で世間一般におけるジジェクペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス挑発者であり、象徴破壊であるが、自分勝手ものではない。

ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。

 

したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。

 

私は、ジジェクお気に入りトリックひとつである正式哲学分析範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、

喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。

(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレ特殊構造が、

ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界概念に対する究極の反論となっている)。

 

ほとんどの場合ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さら重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、

しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである

 

そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。

トランスジェンダー権利をめぐるスコットランド政治的混乱からまり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトラカンへの言及で締めくくる。

しかし、このざっくりとした読み方は根本的に間違っている。

 

表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。

これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;

 

ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダー権利をめぐる、最近政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、

正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。

 

結局のところ、ジジェクは皮相な哲学手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。

ジジェクは、過去10年間にリベラル知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。

 

ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:

 

  「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。

 その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。

 言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。

 批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間サポート必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。

 

この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?

 

ジジェク引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。

実際、彼が引用したガーディアン記事を読んでいれば、上で引用した段落修正できたかもしれない。

 

ジジェク引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカー不妊の原因にはならない "と書かれている。

したがって、このスロベニア人知的怠惰恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険形態である

 

さらにひどいのは、ジジェク記事の冒頭で取り上げた最初文化分析対象である

コンパクト編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。

 

それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性レイプしたことを我々は知っている"

 “We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”

 

ジジェク言及しているのは、アイラブライソンの事件である

 

この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプ有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、

トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハテストとなった。

 

ここでジジェクは、基本的事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。

 

さら問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである

(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。

 

ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェク性別を間違えて表現することに固執するのは、

ジジェクトランスアイデンティティ尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。

 

ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。

 

しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である

彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;

 

この時点でようやくジジェク哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。

 

記事の次の部分はさらに長く、さら面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事宣伝である

(中略)

 

で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?

 

その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。

彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。

The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.

 

 [ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭利益残酷計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」

 

思春期ブロッカー使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。

 

ここでジジェクは、ジャニスレイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、

製薬企業にとって重要経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。

 

そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実物質的な対立のために戦うのではなく、

資本の側、つまり極悪非道個人の側にいる人々として捉え直すことができる。

 

バトラーフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェク盲目にさせているのだ:

 [ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識プロセスである

 それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。

 

作品全体と同様、これはジジェク特有哲学プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである

この最終的な帰結は、英米トランスジェンダー物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクお墨付きスタンプを押したということだ。

 

ジジェクは、社会の変化に懐疑的ジャーナリスト知識人瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまたかのようだ。

これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である

 

過去思想家からの豊かな引用を悪しき議論隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。

 

私たちにとって悲しい日であり、多くの意味ジジェクにとっても悲しい日である

 

ジジェク豊富理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。

このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。

[終]

2024-07-18

7月18日

本日は、チャールズ・サンダース・パースプラグマティズム特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。

パースプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティック格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。

この格率重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念意味をその実践帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀科学哲学の発展に多大な影響を与えた。

パース論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理視覚的に表現する革新的システムであり、現代計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。

さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学発見論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実説明しうる仮説を形成する」過程定義した。この概念は、後のハンソンの「発見論理」やクーンパラダイム論にも影響を与えている。

パース記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号三項関係記号対象解釈項)は、意味の生成過程理解する上で革新的視点提供した。パース記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義現代記号論研究の基礎となっている。

また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在連続的なものとして捉える形而上学立場であり、量子力学における波動関数連続性や、現代複雑系科学における創発現象理解にも通じるものがある。

パースプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身晩年自身思想を「プラグティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特にパースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。

今日考察を通じて、パースプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学記号論科学哲学認識論など、広範な領域に及ぶ包括的思想体系であることを改めて認識した。明日は、パース思想現代認知科学情報理論複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。

2024-07-12

内田樹によって書かれた都知事選に関する2つの記事比較

nippon.com版の方が先に書かれたので、nippon.com版→内田ブログ版の順に掲載

適宜改行等を加えた。

 

 

nippon.com版

https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/

 

 

内田ブログ

http://blog.tatsuru.com/2024/07/12_0846.html

 

 

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(01)

nippon.com版

 今回の都知事選では、「選挙民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者自分たち立場代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的認識が今の日本からは失われつつあるようだ。

 

 

内田ブログ

 今回の都知事選では、選挙民主主義の根幹を為す営みであるという認識がかなり深刻な崩れ方をしているという印象を受けた。選挙というのは有権者自分たち立場代表する代議員を選ぶ貴重な機会であるという認識日本からは失われつつあるようだ。

 

 

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(02)

nippon.com版

 知事選当選者は1人に限られるのに「NHKから国民を守る党NHK党)」が関連団体を含め24人の候補擁立した。そして24人分の掲示板の枠に同一のポスターを貼るなど“掲示板ジャック”をした。NHK党は、一定額を寄付した人にポスターを張る権利譲渡する行為にも及んだ。掲示板には選挙関係ない人物動物写真サイト誘導する2次元バーコードなども張り出された。NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつ写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった。政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。

 

 

内田ブログ

(無し)

 

 

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(03)

nippon.com版

(無し)

 

 

内田ブログ

 投票する人たちは「自分たち利益をもたらす政策を実現してくれる人」を選ぶのではなく、「自分と同じ部族の属する人」に投票しているように私には見えた。自分と「ケミストリー」が似ている人間であるなら、その幼児性や性格の歪みも「込み」で受け入れようとしている。だから、仮に投票の結果、自分生活が苦しくなっても、世の中がより住みにくくなっても、それは「自分の属する部族」が政治権力行使したこと帰結から別に文句はない。

 自分自身にとってこの社会がより住みよくなることよりも「自分のような人間たちから成る部族」が権力や財貨を得ることの方が優先する。これが「アイデンティティーポリティクス」の実態である

 

 自分幼児的で、利己的で、偏狭で、攻撃的な人間だと思ったら、かつてならそれは「成熟」へのインセンティブになった。「もっとちゃんとした大人になろう」と思った。でも、今は違う。今は「そういう自分がけっこう好き」だとカミングアウトすることの方が人間的で、端的に「よいこと」だとされる時代なのだ

 正直言って、私には意味がわからない。この人たちはそんなに自分が好きなのか。そんなに同じ自分のままでいたいのか。私は同じ人間のままでいるなんてまっぴらである。息苦しいし、不自由だし、何より退屈で仕方がない。「自分自身に釘付けにされていること」をエマニュエル・レヴィナスは考えられる限り最も苦痛体験だと書いていた。私もまったくそうだと思う。そもそも自分自分しかあり得ないことの不快」を推力として、生物はここまで進化してきたのではないのだろうか。単細胞生物単細胞生物であることに自足していたら話はそこで「おしまいである。だからアイデンティティー固執する人たちを見ていると、私は奇妙な生き物を見ているような気になる。なぜ「そんなに自分自身でいたい」のか。自分であることにうんざりすることがないのだろうか?いや、ほんとに。率直にそう訊きたいのだ。

 

 選挙の話をしているところだった。

 

 今回の都知事選では、選挙を単なる売名や金儲けに利用しようとする候補者が多数登場した。

 

 

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(04)

nippon.com版

 公職選挙法に限らず、私たち社会制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的振る舞うはずだ」という仮定の下に設計運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義のもの嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。

 

 

内田ブログ

 公選法に限らず、私たち社会制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的にふるまうはずだ」という仮定のもとに設計運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、目端のきいた人間なら誰でも簡単自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義のもの嘲弄することは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。

 

 

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(05)

nippon.com版

 だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍晋三氏、菅義偉氏、岸田文雄氏の3代の首相による自民党政権立法府軽視が原因であると私は考えている。

 

 

内田ブログ

 だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍、菅、岸田三代の自民党政権立法府軽視が一因だと私は考えている。

 

 

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(06)

nippon.com版

 日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、自民党政権行政府立法府より上位に置くことにひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党が激しく反対する法案強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的セレモニーであるように見せかけることに自民党政権は極めて熱心だった。

 

 

内田ブログ

 日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、行政府立法府より上位に置くことに自民党政権はひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党がはげしく反対する法案強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的セレモニーであるように見せかけることに自民党政権はきわめて熱心だった。

 

 

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(07)

nippon.com版

 安倍首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席過半数を占める政党総裁自由立法ができる」という彼自身の実感を洩(も)らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義精神全否定する言明を繰り返していたことになる。

 

 

内田ブログ

 安倍首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席過半数を占める政党総裁自由立法ができる」という彼自身の実感を洩らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義精神全否定する言明を繰り返していたことになる。

 

 

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(08)

nippon.com版

 現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは立法府威信を低下させること」である有権者の多くが「国会機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政事実上終わる。

 

 

内田ブログ

 現行憲法下で独裁制を実現するために、さしあたり最も有効なのは立法府威信を低下させること」である有権者の多くが「国会機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーに過ぎない」「国会議員選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政事実上終わる。

 

 

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(09)

nippon.com版

 だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「普通市民以下かも知れない」という印象を扶植することに並々ならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。

 

 

内田ブログ

 だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「ふつう市民以下かも知れない」という印象を扶植することになみなみならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府威信を踏みにじることにはみごとな成功を収めた。

 

 

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(10)

nippon.com版

 その帰結が、「代議制民主主義嘲弄する」人々が選挙立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なから存在するという今の選挙現実である

 

 

内田ブログ

 その帰結が、「代議制民主主義嘲弄する」人々が選挙立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なから存在するという今の選挙現実である

 

 

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(11)

nippon.com版

 NHK党は、暴露ユーチューバー有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員国会に送り込むなど、国会威信国会議員権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである

 

 

内田ブログ

(無し)

 

 

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(12)

nippon.com版

 今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代市議会と繰り返し対決し、市議会機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍首相体現してきた「独裁志向路線を忠実に踏まえている。

 

 

内田ブログ

 今回の都知事選で二位につけた石丸伸二候補安芸高田市長時代市議会と繰り返し対決し、市議会機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍首相体現してきた「独裁志向路線を彼は忠実に踏まえている。

 

 

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(13)

nippon.com版

 日本維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄コストカットする」合理的政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治立場代表者が議会議論するのは時間無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味しかない。

 

 

内田ブログ

 維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄コストカットする」合理的政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治立場代表者が議会議論するのは時間無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味しかない。

 

 

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nippon.com版

自民党派閥裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。

 

 

内田ブログ

 自民党裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。

 

 

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nippon.com版

 このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革を目指すだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕(むしば)まれてへたり込んでしまうだろう。そして、どうやら日本人の相当数は、この事件ニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように見える。

 

 

内田ブログ

 このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革をめざすだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕まれるだけだろう。そして、日本人の相当数は、このニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように私には見える。

 

 

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nippon.com版

 英国首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用が極めて困難な政体からである民主政は「合理的思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政簡単衆愚政に堕す。だから民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治成熟を求める政体民主政の他にはない。

 

 

内田ブログ

 英国首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用がきわめて困難な政体からである民主政は「合理的思考する市民」が多く存在することを前提にした制度であるPermalink | 記事への反応(1) | 18:42

2024-07-10

今の日本は暇空茜を支持しやす社会になった

仮に暇空茜が知事国会議員になって強権を振るうような世の中が来たら問題だと思う

ただそれとは別に暇空茜の考え方の一部などを支持する事はそこまで問題では無いだろう

はてなブクマカとか含めてロクでもない人に賛同したりなぁなぁにしてるアホ達は沢山いる…例えば

暇空茜が人権侵害的な発言をした事を問題視する人達もいるけど

つい先月もお茶の水女子大学ハラスメント告発する側が批判されるような出来事が起きて

人権反差別重要視される人達に全く問題視されなかった

更に前で言えば草津の件があるが、もう一々細かく説明すんの面倒だから略す

今回の都知事選で言えば蓮舫男性蔑視な態度や女性蔑視な態度も

別に共産党価値観を持った人には何ら問題視されていない

そう、別にフェミニズム人権のために頑張ってるってポーズを取ってる人であれば

具体的にどんな問題行動を取ってようが取り沙汰されない社会な訳だ

だったら公金の使い道について追求してるという「ポーズ」は取れている暇空茜も

具体的にどんな行動とってようが果たして何処まで優先的に問題視扱いすべきか?という疑問すら出てくる訳だ

フェミニズム人権のために頑張ってるポーズをとってるけど問題のある人達を支持するのと同程度には

公金の使い道について追求してるポーズをとってる暇空茜を支持しても問題は無いだろう

全ては「ポーズ」が主に重視される世の中である事の帰結しか無い訳だ

せいぜい「お仲間達」をロクに批判する事も出来ないその軽い口で暇空茜を問題視して

その軽い口で暇空茜の支持者達も問題視して狭い界隈内で同意を繰り返してろとしか言いようがない

暇空茜を支持する事が問題視されない世の中になっていく…その原因に自分が関わってないと言えるのか?

それも真剣に考える事の出来ない人達ネットで軽い言葉をせいぜい繰り返すしか無いだろう

まぁでも暇空茜みたいなアホよりは、もっとマシな人達の方が社会で選ばれていくのも現実なんだよな

私もあのアホよりずっとマシな人達を支持してるしな…

2024-07-09

anond:20240709205258

イラ意見ですが、まず「弱者男性」っていうラベルを使って他人カテゴライズするのは問題があると思いますよ。その言葉自体差別的で、何かを否定するための道具として使われがちです。そうやって他人貶めることで、問題本質が見えなくなってしまうんですよね。

親や兄弟が「弱者男性」をどう思っているかという質問ですが、まず冷静に考えてみると、親や兄弟もまたその人の一部であり、育ち方や環境家族全体の影響を受けます発達障害社会的な困難を抱えた人を「邪悪」や「穢らわしい」なんて言うのは、他人の痛みや苦しみを理解しようとしない、非常に冷酷な考え方です。そんな発想を持つこと自体が、社会問題の一部じゃないかと思いますね。

英一郎さんの妹の話を持ち出して弱者男性を責めるのもどうかと思います。それは個別のケースであって、全ての「弱者男性」が同じような行動を取るわけではありません。問題個人帰結されるだけで、本質的な社会問題が隠れてしまますよ。

ですから、親や兄弟がどう思っているかという視点よりも、どうすれば社会全体がより良くなるための解決策を考えるべきです。ただ批判するだけではなく、建設的な議論をすることが必要なんですよね。例えば、弱者男性孤立しないための支援策教育のあり方を見直すことが重要です。

要するに、人をカテゴライズして批判するだけでは何も解決しません。もっと深い理解共感、そして具体的な行動が必要だとオイラは思います

2024-07-08

anond:20240708222152

大前提として「防カビ剤は落とすべき」という話があるでしょ。

で、柑橘の表皮は性質的に水洗いだけじゃ農薬を落とせないんだよ、という話がある。

そして、それでも落としたいなら塩洗いを徹底する必要があるよね?というくだりに繋がる。

それでも気になる人は多いから、少なくとも防カビ剤の使われていないレモンを使った方がいい、という帰結になる。

から外国産レモンなら皮は使わない、という見方には一定エビデンスがあるんじゃないの。

anond:20240707102919

それがわかってるのになぜ負ける船から降りないのかという自己紹介をしたほうが、なぜかわからないと無知さらしてかつ聞く耳を持ってない面倒な人間だと表明することで勝てない理由帰結していくのより良いかと思うけどね

つのわかってる程度にわかってる人間ならその土壌で勝ち馬に乗れる仕事商売をして勝ち組に一票いれるくらいはするでしょう?

一票でかわらないとしても神社おみくじ程度に投票済みの証明をもらいに行ってもいいくら

だれが政治をしたところで社会になんら主導権を与えてもらえない層が一票の意味を問うても仕方がないその実数が六割ってことだよ

わかった気になっている幸せを実権をもつ皆様方から分けてもらっている幸せくらいには感謝をすべきですよ

2024-07-02

anond:20240702104926

なんていうか、あくまでも子供が見る物 で帰結してるよね。

商業的に成功させようっていうよりは、まぁこんなもんでええやろ。位。

テーマ性を含ませる事も無い。

大体どの回もやってる事は同じ。

2024-06-22

anond:20240622174900

女をあてがうだけでなくもっと他の権益も求めてるから、単なる性欲の問題帰結させるとそれは違うってなるよ

例の選挙ポスターの件

なんか「戦う余地はあったが、警察に警告されたらスッと引っ込めたからもともと覚悟がなかったのでダメ」みたいな言説が支持を集めてて驚いた。

それって要約すれば弾圧を支持してるだけでは?

警察が「条例に基づいて警告」した時点で完全に政治から表現弾圧が成立してるのでは?という疑いから出発できない時点で権力の犬というか、

その条例に基づいた警告なるもの正統性を疑わずに無条件で受け入れちゃうんだーみたいな。

政治権力からの不当な表現弾圧なんてそれが生じた時点でもうアウトだとみなすべきというか

そのフェーズになったら弾圧される側の道徳的な正しさとか覚悟みたいなもの問題にしてちゃダメでしょ

ポスター掲示した人間が取り下げようが戦おうが無視して政治側を叩きに行くくらいじゃないと自由なんて守れないよ。






追記

思いのほかトラバブクマ集まったな、みんなサンキュー

"ポスター掲示した人間が取り下げようが戦おうが無視して政治側を叩きに行くくらいじゃないと自由なんて守れない" 結局覚悟の話に帰結してる。

もちろんそうなんだけどその覚悟ってのは警察に直接警告を受けたわけではない自分たち覚悟なのよ。

掲示する人は覚悟があろうとなかろうと警察の警告なんか受けたら誰だってある程度萎縮するしその結果取り下げたのならもはやその人の覚悟うんぬんを評価すべきじゃないということ。

たとえばコインハイ事件なんてあったけどあれのせいで他に同じようなことをしようとしてた人は確実に萎縮したわけじゃん?

解釈しようによっては道徳的倫理的ハテナマーク行為ではあったかもしれなかったけどその時点の法ではそれを縛ることはできない事例だったが、確実に萎縮した。

なんの法的な正当性が無くても警察権力なんてものが介入すれば人は萎縮するもんなのよ。

もちろん立候補してる候補者うしの言論バトルだったり市民意見だったりを受けた結果としてポスター撤去したならそこで覚悟をどうのこうの言うのは別にいいと思うんだけど

警察の警告を受けて取り下げさせられたならそれはもうその時点で次の次元問題になってるので頭の切り替えが必要じゃないか?ってこと。

選挙ポスターなんて、日本いちばん「見たくない主張を見ても我慢しないといけない」場なわけじゃん?

基本、民主主義で最も忍耐力が試される場なわけよ。

警察がやるべきなのはその主張が選挙期間を通じて害されることなく全うされるようにすることであって、内容に介入するなら余程の事態じゃないといけないと思わない?

たとえば殺害予告とかどう見ても公然わいせつに該当するとかならまあ一発アウトだろうけど

あのポスター表現ていどなら議論余地があるだろうし何かしら公権力から対処をするにしても「極めて抑制的に」行われるべき場面じゃない?

現にちょっと前に男性局部隠したほぼ全裸ポスターを貼った時は法的に問題なしという判断最後までいった(その件では逮捕されたりしなかった)。

あれと今回の事例とどう違う?

からこそ警察も即逮捕じゃなくて「警告」という手段に出たのかなと思うし。

極めて抑制的というのはせめて裁判所判断した仮差押えとか、そういった感じのがあってはじめて対処すべきだと思うのよ。


あと「子供に見せられない」とか「子供への影響が」ってのがものすごく多いけどそれは別の問題というか、

あんま知らんけど「ポスターが誰の目にも触れる場所にある」ということが原因で子供に見せてはいけないかもしれない内容の主張ができないとしたら、それを想定していない立法側の不作為とも解釈できるわけじゃん?

子供にはなるべく聞かせたくないけど大人にとっては超大事な話なんてゴマとある

選挙権がある年齢の人間けがポスターを閲覧できるようにする」とか、「一定のあらかじめ決められた表現については別で掲示するルールを法で定める」とかすれば選挙遂行する上で問題はないだろうし。

子供への影響はそういった立法ができていれば防げたわけで、今回のような事例を想定できていなくて施策をしていなかったというだけでは。

子供への影響を理由ポスター表現を縛ることが民主的選挙へ及ぼすだろう悪影響を考えたら

表現を縛らないために子供への影響が無い状況を作る民主主義コストを払うほうがより民主的だと思うんだけど。

2024-06-20

anond:20240620155043

それが可能かどうか、付き合いながら様子を見ても良いのではないか

結論を急ぐのだけはやめた方がいい。相手意図がバレる試し行動などに帰結しかねないから。慎重にね。

2024-06-17

キャンセルカルチャーがなかったらコロンブスMVはどうなった?

Mrs.GREEN APPLEの『コロンブス』という曲のMVが「歴史文化的な背景への理解に欠ける表現が含まれていたため」取り下げられた。はてな界隈ではこれはキャンセルカルチャーだということで大変に盛り上がっている。しかし、そもそもキャンセルカルチャーとは何か?ということで了解が取れていないように思う。

ではキャンセルカルチャーについて反実仮想的に考えてみるのはどうだろう?キャンセルカルチャーがない世界ではコロンブスMVはどう反応されるのだろうか?キャンセルカルチャーの有無でどのように反応が異なっていたかを考えることで、キャンセルカルチャーとは何かをあぶりだしていきたい。いろいろなケースを考えてみた。これがすべてではないと思うが、たたき台として使ってほしい。またキャンセルカルチャーがない世界で起きること(実証的)とキャンセルカルチャーがない世界で起こるべきこと(規範的)の二つの側面があると思うので、それも考慮したい。

  1. そもそも批判がないのでMVは残りつづける。 この記事https://anond.hatelabo.jp/20240617090243)でいわれているように、『既に十分に話題として騒がれていたら言及を控える』、『悪意によらず過失や無知による行いであればトーンを弱める』などの配慮がなされ、そもそも殆ど批判撤回要求も表に現れないかもしれない。そのためMVは残り続ける。
  2. 批判はあるが、その批判黙殺され、MVは残り続ける。 キャンセルカルチャーがないため、撤回要求はない。様々な批判が出て、考察などもなされるが、Mrs.GREEN APPLE側がそれを黙殺し、MVを残し続ける。
  3. 批判撤回要求もあるが、黙殺されてMVは残り続ける。 上とほぼ同じ状況だが、撤回要求があり、あくま表現者側が撤回要求に屈しない形になる。
  4. <strnog> 批判対話が行われ、MV修正される、取り下げられる、もしくは残り続ける。 キャンセルカルチャーがないため、撤回要求はない。Mrs.GREEN APPLE側が批判に応答し、議論する。その結果としてMV修正されるかもしれないし、取り下げられるかもしれない。もしくはそのままになるかもしれない。
  5. 教育的な機会として扱われる。 キャンセルカルチャーがないため、撤回要求はない。MVが取り下げられない代わりに、その内容に関する議論が活発に行われることで、教育的に扱われる。学校メディアでのディスカッション材料として使われる。MV自体議論の出発点となり、様々な意見が交わされる中で、クリエイター視聴者は互いに学び合う。

書いてみると、現在の状況は、帰結でいうと4に近いと思うが、これはキャンセルカルチャーのない世界でも普通に起こりうる話のように思った。なお、キャンセルカルチャーがあるとされる現在でも批判されたMVのみが消され、音源アーティストも無傷である。そのためキャンセルカルチャーがない場合でも、アーティストのその他の活動に全く影響はないと仮定した。

2024-06-10

文学における”パクリ”は何故忌避されるのか?についての考察

例えば、”なろう”において著名な作品から文章引用し、

それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。

それは「パクリであるとして。

ではここでその諸問題、「なぜ文章パクリ忌避」されるのか。

それについて考察しようと思う。

まず仮定として、目の前に富士山があるとしよう。

その富士山光景を巧みに描写した文学作品があるとする。

そこで私がその作品から富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。

それはその「文章」を無断で引用したこと咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態問題は生じない。

ここに一種の奇妙な齟齬存在する。

すなわち「富士山」との表象描写すること自体には、「パクリ」とする概念存在していないのである

ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである


富士山自体描写問題視されないのに対し、

なぜ文学作品文章光景として捉え、その文章描写することは禁止されるのか?


ということである

詭弁的に述べれば、こういうことだ。

「私はその文章をパクったのではない、私はその文章光景として読み取り、私が感じたままにその文章描写しただけである

これが「なるほど一理ある」と成らないのは自明である

その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。

それは、作者の感性思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである

まり富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動思考感性が働くことに由来する。

我々はあるひとつ事象認識し、相手に伝える行為において、

自分認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である

なぜなら知覚した事象言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである

仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者自己境界線存在しないことに成り、それは他者存在消失させてしまうことにつながる。

よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧意思疎通は不可能である

同時に、自身においてもその得た表象としての認識を、

実際に自分認識したものを完全に換言するのもまた不可能である

ここで本題に戻ろう。

まり、なぜ文章パクリが駄目とされるのか。

それはつまり事象描写価値があるからではない。

ノイズの部分にこそ価値があるからだ。

人間はこのノイズのことを評して「独自感性」として賞賛し、

彼らは実際、事象に対する見事な描写評価を与えるのではなく、

ノイズ」に対して評価を与えているのだ。

仮に富士山としての事象光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。

すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識コードにより共通の形で表記することができるだろう。

その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。

それは定義化された表象富士山を描いたかである

文章引用パクリとされる行為文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。

その事実はつまり文学としての重要性を示しているのであり、

人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。

それは正確さに欠ける、個々人として個人的感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。

パクリが許されない最大の理由はここに帰結する。

まり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである

それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体アニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているかである

これこそ換言すれば、

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」

といったこ文章の与える意味としての本質が、

エヴァンゲリオンにおける碇シンジへと自然還元されるように。

2024-06-04

anond:20240604160204

そうやって自己責任帰結していく姿勢

浅ましくてほんとすき

2024-06-03

金持ち貧困想像できないけど、才能があるやつは才能がないやつを想像できないよね

金持ちは恵まれてるからずるいけど、才能のある俺は恵まれてないのにすごい、みたいなことを平気で考えているやつがいっぱいいる

才能があってずるい、みたいなことを言われた人ってよく努力問題帰結しようとするけど、努力できるかどうか自体も才能にかなり依存するから結局「金持ちに生まれてずるい」も「天才に生んでもらえてずるい」も大差ないと思うんだけどな

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