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はてなキーワード: 遍在とは

2024-07-19

anond:20240719083952

ごめーん見ちゃった。ブコメの返信では文字数が足りなそうだからここに書かせてもらいますね。

まずは、心配してくれてありがとう。今のところ私は元気に農作業配信をやっています。早く私の部屋にもエアコンという文明が訪れるといいんですけどねー。

そしてこの文章に目を通す人全員に伝えたいから一番最初に言うんですが、サボらず健康診断を受けましょう。何か異常があれば適切な検査処置を受け、あなたあなたが大切に思う人のために、少しでも長生きしてください。

さて、あなた心配してくださっていることについてです。

私もね、父が亡くなった後に改めて考えました。自分が、あるいは家族のことが見世物として消費されることは果たして良いことなのかと。

それで考えた結果、やっぱり自分のことや父のことを配信で話そうと考えました。家族にも相談しましてね、配信中に父のことを話していいかと聞いたら身バレしない程度ならOKとのことでした。

折角なので私が配信を始めた動機についても聞いていってくださいよ。もしかしたら気持ち悪い話になるかもしれないんですけど。

結婚に失敗してるんですね。届を出す前に失敗したんでこの言い方で合ってるかわかんないですけど。そらもうバキバキに失敗してて、結婚とか向いてねーなと思っている次第です。

それで、世の中には親孝行って言葉があるじゃないですか。親孝行is何と聞かれたら、結構早い段階で「孫の顔を見せる」ってのが出てくるんじゃないでしょうか。なんならうちの親も希望してました。でもそれってできなかったし、多分この後もできずじまいになりそうなんですよね。

孫の顔が見たいって、要は自分DNAが次代に受け継がれて行ってるのを見て安心したいってことなのかなーと私は思うわけですよ。でも私はそれができそうにない。私自身としても私のジーンが残らず淘汰されていくということは非常に残念だなあと思っています

からアバターを作り始めましたし、配信を始めました。「ジーンが無理ならせめてミーム」だとか、「私はインターネット生殖するつもりですよ」とか、モゴモゴ言ってたのはそういうことです。気持ちわるー。

だって淘汰されたくない、私が生きていたことひいては私の親が生きていたことをどこかの誰かに覚えていてもらいたい。だからインターネット遍在することで、私がお渡しできる何かの価値提供することで、あなたの心のどこかに私という存在を刻んでおきたい。そう思ったのが一連の活動を始めようとした理由です。ちょっとこの辺りの事情っていうのは言ったらドン引きされるかもしれんと思ってたので隠してました。なんせVTuberってアイドルじゃないですかー。

それに私は両親に愛されています。これは間違いなくそうです。そうとなれば父は私に幸せでいてほしいと思っているはずなんです。だから、私は前々からやりたかったVTuber活動をして、幸せに生きてやります

ということでね、私は私のエゴで、自分が消費されて皆様の血肉になっていきたいと思っております。もし、私の人生を消費することに罪悪感をお持ちでいらっしゃるなら、こういった事情もございますである程度安心して見ててもらえれば、そして私の遍在化にご協力いただければと思います。それにもし活動負担になってきたとあらば、私も根性なしですからすぐに逃げると思います

見ず知らずの私のことをこれだけ心配してくださって、本当にありがとう。長い長い実況にも付き合っていただいてありがとうございました。他の配信者さんが同じタイトルをやってるのと比べたらちょうど倍の時間がかかっててびびりました。

心優しいあなたの脳天に、幸せ手斧が降り注ぎますよう。

2024-06-09

匿名VTuber増田あのに」ちゃん作った/配布したよ

https://www.youtube.com/live/BS60Cd_cfX4

披露配信しました。この動画説明欄のところに配布用URLを載せています

配布しているのはVTuberとして使うことができるようなLive2Dモデルです。PCウェブカメラorスマホカメラマイクがあればVTubeStudioを導入の上VTuberごっこができますよというものです。

見た目については配信に載せていますのでよければご覧ください。はてなユーザーの人が見たらちょっとだけニヤっとできるような意匠にしたつもりです。

ときどきあったじゃないですか、増田VTuberいたらどんなのかみたいな大喜利。そのVTuberを実際に作ってみた感じのやつです。

名前増田のんちゃんであったり増田あのにちゃんであったり色々でしたけど私は「増田あのに」ちゃんしました。

匿名の人には誰もがなれる訳で、むしろ誰でもないか匿名と言えるんじゃないかと思ったりもして、つまり不特定多数の中に遍在していることが匿名要件なんじゃないか、みたいな考えから配布することにしました。

まあ自分だけで使っててすぐ飽きたらもったいないとか、そもそも自分VTuberの才能なさそうだとか、末代(誤用)になる可能性が高そうなのでジーンは無理でもせめてミームをとか、そういう配布の理由もあるんですけども。

家族の体調面等の問題があり離職し在宅できる時間が増えたのを機に、一番星はてのさんを最初に見たときからやりたかったLive2Dモデル作成をやってみました。これを逃すと下手したら一生やれなくなる気がしたので……

具体的な導入方法・使い方については配布用ファイル同梱の「使用前にお読みください」というテキストファイルの中に書いています。適切な説明の分量がどの程度なのかわからなかったんですけど、多分はてなの人たちはこのぐらい書いてあれば後は自分で調べてくれるだろうと思っています。でも不備等あればテキスト内に記載のXのDMまでご連絡ください。

自分なりの増田あのにちゃんとして配信する(これは私もやる予定です)なり、喋るAIのガワとして利用するなり、リモート会議アバターとするなり、どなたでも使っていただければと思います

一応のお願いとして、同梱テキスト内にも記載しています不特定多数が見るようなタイプ配信等を行う場合には名義に"増田あのに"という文字列を含めてほしいです。

あと公序良俗に反したり違法行為に関わる用途での利用はやめていただきたいです。活動の内容にあまり縛りは入れたくないのですが、何かしらのヘイト関係だとかのエグいやつが出てきた場合にはお願いごとが増えるかもしれません。その他のお願いについてはテキスト内の記載をご確認ください。

最後に、「増田あのに」ちゃんはてなユーザーの人たちが唱えたミームを下敷きにした創作です。私は法律知識に明るくないのですが、私が今やってることはルール上きわどい部分もあるんじゃないかと存じております

なので、予めお伝えしておきたいのですが私はこのミームを独占的に使うつもりはありません。それぞれが考える「増田あのに」ちゃんやそれに近似の存在はあると思いますし、私の創作物がそれとかけ離れているのなら、むしろ別の形で表現された「増田あのに」ちゃんを見てみたいとも思っています

上記の話に少し関連して、今のところ私の作ったモデルは、ミームの部分の著作権は私にないと断った上での商用利用可としています。また、私自身もLive2D作成者名義でファンボックスアカウントを持っていたりします。最悪の場合改名するつもりではいますが何卒お目こぼしいただけると幸いです。

長くなりましたが頑張って作ったモデルです。誰かに愛してもらえると嬉しいなと思っていますよろしくお願いします。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-27

Vtuberモデル作ったよ

年始ぐらいからぼちぼち作り続けていて完成しました。

名前は「増田あのに」ちゃん、としました。増田Vtuberになったらどうなるみたいな大喜利たまに見かけるじゃないですか。

あい概念へのファンアートみたいな気持ち作りました。どこにでもいてどこにもいない、誰かであって誰でもない、インターネット上に遍在する存在を作りたかったんですねー。

遍在と言うからにはモデルを配布して、私以外の人もその人なりの増田あのにちゃんとして使えるようにしたいと思っています。実際には配布データを誰も使わなかったとしても、他の人が使える状態なのは遍在する可能性があると言えるんじゃないかって自己満足のためです。

まああと、自分自身でもVtuberごっこしたいんですけど早々に飽きるなりした場合、誰かに使ってもらった方がもったいなくないみたいなとこもありますね。

なお、この名前はもしかすると最初に考えた人(たち)の何らかの権利を侵すかもしれないので問題が出れば改名します。できればこれで行きたいなあ。

Dropboxってこういうの配布できるのかなー。使ったことないけど。

2024-05-22

anond:20240522025230

パートナー代替物として性的消費して女性全体の尊厳搾取してるオタク男性は、学生時代女子文化を見下すようなミソジニーに触れてるはずで、だから女性を遠ざけるようになる「前に」手を打つべきだと思うんだよね。

この先、オタク趣味民主化するよ。

これまでは、止むに止まれ必死にしがみつく日陰者たちの領域だったけど、一部の人だけに創作の楽しみを独占させる理由はなくて、社会性を身につけようと努力してきた人たちにも解放すべきでしょ。

いわゆる清潔感とか、基礎化粧とか、コミュニケーション能力とか、社会のあちこち普遍的遍在する、人間関係の潤滑剤的要素がオタク界隈にも浸透して、例えばイケメンチヤホヤされるようなフツウの文化圏になると思う。それが大衆化するということ。

2024-04-23

anond:20240423090226

ちょっと違和感がある。負けを認めたり逃げるのを男性から下りる、というのは、何かがズレていると思う。上手く言えないが・・・・。

頑なに負けないことにこだわっている訳じゃない。普通に諦めなくても留保余地なく負けることはある。男の生きづらさって、もっと遍在してるものだと思う。包囲網を作ってるような・・・

2024-04-15

anond:20240415025226

貴方の言ってることは100%正しいし、処世術としては最新鋭だと思うが。

それでも私は受け入れない。それは反知性主義ですよ。

理解を追求する科学的な態度と真逆。多くが納得できる明確な線引き追求の拒否は、思考停止だ。

文化されたルールがあると公平になるという法治主義にも反してる。人治主義だ。

かに、「上手くやれ」が実際なぜか一番上手くいってしまうことは同意する。

だけどそれは、個人が我を持たず意思放棄して公式による支配迎合する姿勢だ。

遍在する中国、とでも言うべきか。

2024-01-18

htokccがなぜ遍在と言ったか

思いつきすぎるけど、「わたしだけの」ヒロインでありたかたから、ではないか

言い換えれば、寿々子さんの思うヒロインとは、「私/僕だけを見てくれる」という点が外せない要素だったのでは?なんて夢

「私だけの」というのは、自分のものになるという意味ではない。でもヒロイン主人公が登場する物語では、ヒロインはいつまでも「みんなのアイドル」のままではいられないはず。必ず主人公と何かしら特別な接点ができていく

彼女が「ヒロイン」という言葉を使った理由の一端がそこにあるなら、「遍在」という言葉意味もそこにあるのでは

と思った

彼女は「あなたにとって特別存在」になりたかった。でも単に「みんなのアイドル」のように、「みんなの推し」のようにではなく

更に一歩踏み込んで、「あなたのことをよく見てる、知っている、だからこそあなたにとって特別存在」になりたかった。それが「心を見出す(あなたハートはココ)」ということ

きっとそれが彼女が「ヒロイン」という言葉に込めた意味だった

でも、多くの人を相手にするキャストである以上、ゲストから見たら「私にとって特別な人」とは思いづらい。 どうしても「みんなのアイドル」というイメージがつきまとう。

そのジレンマを乗り越えるために彼女が考えたのが「遍在」というキーワードだったのでは?誰しもに特別な「htokcc」がいる、そういう意図だったのでは

遍在性htokccのタグが生まれた経緯もあまり知らない(その時代わたしはいなかった)のでぜんぜん違うのかもしれないが。

鳩岡小恋がなぜ遍在と言ったか

思いつきすぎるけど、「わたしだけの」ヒロインでありたかたから、ではないか

言い換えれば、寿々子さんの思うヒロインとは、「私/僕だけを見てくれる」という点が外せない要素だったのでは?なんて夢

「私だけの」というのは、自分のものになるという意味ではない。でもヒロイン主人公が登場する物語では、ヒロインはいつまでも「みんなのアイドル」のままではいられないはず。必ず主人公と何かしら特別な接点ができていく

彼女が「ヒロイン」という言葉を使った理由の一端がそこにあるなら、「遍在」という言葉意味もそこにあるのでは

と思った

2024-01-14

anond:20240114162745

逆に田舎ホームレスがいないのはなぜ?

発達障害が生まれつきの能力というランダム性によりあらゆる地域遍在してるように、ホームレスになるかどうかも生まれつきの能力にかかってるだろうから、どこにでもいなきゃむしろおかしい気がするんだけど。

いないのは田舎だと凍死とかして湧いても即座に消えるから?それとも田舎ホームレスになるとわざわざ田舎から都会まで大移動でもするの?

2023-10-12

ガザ住民今日自己責任リベラル派は言うべきだ

ハマースは選挙によって信を得ていたという。ならばその政策帰結として侵攻を許すことは甘受せざるを得ないだろう。一時の夢に浮かれて原理主義者共を政権に擬したその責任を己で負わずして何の民主主義か。

ガザの外に出る自由もなかったと、青天井刑務所であったという。日々報復攻撃に苦しんでいたという。失業率が50%で働き口すらなかったという。無為の日々が苦痛であったという。

なぜそのような抑圧を受けるに至ったか。すべては統治を握っていた、あの日熱狂の末に選んだハマースの政策当然の帰結である

抑圧されているのならば革命を起こすことこそ、不正を見たのならば加担しないことこそ、正しき人民義務だったはずだ。

翻って、リベラル人士はこぞって一発の銃弾も打たず、一人の敵国人すら殺さなかったのになお、人民の敵であるという理由だけでアベを殺せ撃てと命じてきたのである

ならば、リベラル人士はロケット弾を発射し、隣人の老若男女を虐殺した、真に人民の敵であるハマースの首魁共をこそ殺せ撃てとというべきだろう。そしてガザ住民は現にそれを昨日まで怠ってきた。その帰結がこのテロルである。年端もいかぬ赤子の首を鍬で押し切り、住民であるというだけで射殺し、身も知らぬ異国人をそうであるというだけで辱めて殺し、遺体にまで侮りを加える虐殺である

外に出る自由がなかったのではない、出る蛮勇を持たなかったのだ。地中海を見よ、蛮勇によって千万難民溺死している。それでも彼らは自由明日を求めて絶望的な船出に己の身を賭けている。

日々報復を受けていたことは痛ましかろう。ならばなぜその原因となる攻撃を止めなかったか

働き口すらないのは難儀だろう。しかし逆説的に言えばそれで生活が成り立っているということは、テロ組織おこぼれにあずかって今日まで来たということだ。テロ組織に対する資金は即ち無為殺害された他人によって稼がれたものだ。それを承知で、湯気の立った生き血をもせせって浅ましくも生き永らえてきたのだ。

何もできなかった日々ではない、それら正しき行いをせずに空費してきた日々なのだ

ましてガザの地は全くの徒手空拳であった訳ではない。そこには突撃銃が、爆薬が、ロケット弾が、容易に入手できること日本の、世界遍在する本物の刑務所の比ではない。なぜ原理主義者共を打倒しなかったのか。自由と職と正義平和を求めて蜂起しなかったのか。それをガザの住人は大なり小なり怠ってきた。それをしない、即ち肉屋を支持する豚であったからだ。不正を、流血を、戦争傍観消極的にせよ支持してきたからこその今日がある。

明日には仇敵イスラエルが侵攻してくるだろう。

その前に酒を差し出して、戦車の前で歌を歌って、武器差し出して和を乞うことこそ、危機に際して人民の正しいふるまいだろう。リベラル人士は常にそう説いてきた。しかしそれを彼らがしないならば、その結果はやはり全くの自己責任であったというべきだ。

選択の時は十分にあった。正しさを選べなかったツケを払う時が目前に迫っている。残念ながらそれは彼らの選択の末だったということだ。

2023-07-16

バイオショックインフィニットみたいな「時空を越えて遍在して繋がっている塔」ってどこが初出なの?

めっちゃチコチで見たことがある気がする。

時空の特異点としてあらゆる時間空間を超えた場所に繋がっていて、そこから別の時間に辿り着くことが出来る時空の中ステーションみたいな概念

塔・図書館・駅・スタジアム集合住宅とか作品によって形は変わるんだけど、「複数の出入り口存在し、それぞれが別の時間空間に繋がっている」っていう所。

本当の本当に大本になってるのは神話なんだと思うんだけど、それがちょっと思い出せない。

つうか物語体型としてすげー定番からこれ自体名前があると思うんだよね。

『時空中継ステーション物語』みたいな名前で。

知っとる人いる?

2023-07-09

anond:20230709001304

インターネットのもの神秘が残っていた時代コンテンツ終焉なんだろうな。

ネットで起きている色んな違和感は結局そこに行き着く。

『赤い部屋』がもし今のネットにあっても小中学生トイレに生かせられなくする力があるって感じるかい?感じないと思う。こういった分こそがまさにネットのものが魔術的なパワーを帯びていない時代であることを示唆してる。

もうネットは不気味なオタク達の巣窟ではなくなっていて、アングラを気取ってる人間も単に公式警察に怯えながらコロコロと居場所を変えてはギリセーフのライン必死に探してるだけなんじゃないか

今や完全にネット万民のものとなりもはや誰もが使える当たり前の道具になった。車載電話PHSの発達により無線神秘性を失い、個人携帯時代が到来したことによって完全にトドメを刺された流れと同じ。

その昔は「石を回路につなぐと遠くで会話ができる」という糸電話チョットスゴイ版みたいなものに対して魔術的な憧れを多くの人が持っていた。

でも今やそれは完全に失われている。

そこから今後は一周回ってあえて古いものを使うことに魔術的な神秘性が宿るようになるんだろうけど、そこまであと10年か四半世紀って所かな。

たとえばキャンプなんてのは昔は生活において野営という物が日常一種として存在していたのが完全に過去のものとなり、あえて野営するということが魔術性を帯びるようになり、そこから更に一回り一般化が起きて今の状態がある。

インターネットは流石のドッグイヤーというか、既にその段階に突入しつつあって、VRでさえも一般人に対して開かれたコンテンツとなってる。

NFTや仮想通貨と言った投機コンテンツ一般人まで届いてないけど、これはむしろ「単なるババ抜きしか無い」ということを普通人間ほど見破りやすい(完全に理解したモード人間が一番疎い)という構造の結果でしかないのだと思う。

ネットはもう魔法でもなく科学でもなく日常しかない。

これが今の社会が持つネット世界観なんだと思う。警察の目が届かない不思議空間ネットよりも現実のほうがずっと広がっている。ネットでバズった違法動画はあっという間に通報嫉妬正義かは知らんけど)されてしまうけど、体育館裏や給湯室で密かに行われる悪徳は校内社内で多くの人がそれを知っていても、外の社会ルールによって介入されずに生き延びていく。

監視の目が届かないモラルスラムとしてのパワーはネットよりもリアルの方が上になった。逆転が起きた。新時代神様がどこからか生まれるならそこはネットの海じゃない。リアルの何処かだ。たとえそれがサイバー空間だとしても、それはオープンソースではなく、スタンドアロン環境研究室の中だろう。サイバー世界観の変貌によってネット神秘ではなく魔術でもなく闇でも光でもない場所になった。

狭苦しいリアルの窮屈な暗室と比べれば、今のネットのほうが風通しが良く広々としているのだ。驚くほどに四方八方に陽の光が反射し、淀んでない風がそこかしから入り込んでくる。いまや薄暗い秘密基地現実世界の方となった。相対的に。

からもう今になって本気でlainを崇めていても仕方ないんだよ。それは大昔崇められていた今はもう力を失った神様なんだ。

祟りを恐れるでもなく、恵みを求めるでもなく、古き良き村の祭りとして扱うだけでいいんだ。祀るべき意味が「そういう習わしを賑やかしとして残したかった」じゃ駄目だって言うなら、どれほどの神社仏閣が地上から消えるんだろうね。

畏れ多い神様として扱う時代が終わったんだ。日常の一風景しか無いカルチャーコンテンツの一つとして扱ってやれよ。

商店街の近くで祀られてる神様がやたらフットワーク軽くどうでもいいような近所のイベントに首を突っ込んでくるようなことってあるだろ?あのノリで扱われる時代になったんだ。神棚神輿に載せたまま、そこから畏れを一粒だけ残してとっぱっらちまえばちょうどいいぐらいの塩梅になるだろうさ。

ネット日常の一部だ。紛れもなくこの令和においてはな。そこに遍在するあまねく全てもまた日常の一部だ。

serial experiments lainがNEEDY GIRL OVERDOSEコラボしてしまった……【追記7/9 23:19】

追記

なるほど。

賛否両論意見多様性が強烈だな。

様々な感想存在し、様々なlain感、受け止め方、解釈がある。

作中で全てを語ること無くプレイヤーに委ねた結果、それぞれがそれぞれの勝手喜怒哀楽を持って受け入れる。

このパワーがまだlainに健在であるということを感じたよ。

今のlain周りがその力を生み出しているとは思えないけど、思い出の中にあるlainに今でも確かな力があったと感じる。

俺たちの脳細胞に刻まれ記憶が、ネットの海にlainとは何であったのかという記録を刻み続ける。

無限増殖するデジタルタトゥーlain伝説を語り継ぐんだ。

悪性変異したデュープのようにどこまでも広がっていくんだ。

たとえ今は陳腐化しようがかつてlain伝説として存在したことは、それを語り継ぐ人間がいる限り消えることはない。

生きた伝説でないことが、伝説の死を意味しない。

もう誰も本当の顔を覚えてないはずの歴史的人物名前が残り続けるのは、記憶と記録が相互ループし増殖を続けるからだ。

世紀末時代lainという作品があった」

この事実が失われることはない。今lain権利を持つスタッフによっても不可能なんだ。

今の人類技術ではまだ、刻まれ過去を消し去ることは出来ないから。

追記終わり



アニメ『serial experiments lain』の岩倉玲音が、『NEEDY GIRL OVERDOSE』配信番組にまさかの登場 - 電撃オンライン

馬鹿なんじゃないの?

lainテーマは「サイバーパンク現実のものとなりつつある空間としてのインターネット」であって、「メンヘラうようよの世紀末インターネッツ」ではないだろ。

なんで公式がそこを間違える?

マジで全く別物なんだよ。

かにlain当時のインターネットにはギークナードメンヘラを拗らせた社会不適合者がウヨウヨで、無法地帯を感じさせていたけど、インターネット無法地帯にさせていたのは加速し続ける技術進歩人類法律モラルが追いついていなかったという背景が強かったわけじゃないですか。

インターネット接続することそのものにそれなりの知能(せいぜいIQ90程度だけど)が必要で、そこによって区切りが発生することに対してメンサじみた特権意識を持ったイキり連中のウロつきの空気は今のアングラネットとは全く別物だよ。

玉ねぎ使用もしないで幼稚園児でも明日から使えるインターネット配信活動をする世界作品lain世界は繋がらないよ。

同じくインターネット舞台にしてるって言うならデジモンなりウェブダイバーなり連れてくりゃよかったんだよ。

つうか俺が一番失望してるのはlain公式がこの程度の判断を誤ったということ。

NEEDY GIRL一方的lainラブコールを送るのは勝手だと思うけど、lainの側からNEEDY GIRLに応えるのは違うだろ。

インターネットの海において遍在していてどこに現れてもおかしくないのがlain特性だけど、それならどこかの配信にだけ特別に現れるなんておかしいんだよ。全部の配信に顔を出すこともなくどこかにだけ偏在してしまっているなら、それはlainの在り方としての遍在とはまた別物なんだよ。

直接介入をしないからこそどこにでも存在していることを疑うことが出来るという実態の無さこそが本体都市伝説としての立場を守るべきだろ。

それでもなおlain特別にやってくるだけの繋がりはNEEDY GIRLとの間にはないよ。

ネット舞台メンヘラじみてるから一緒でしょ?」なんてのは外野けが取っていい態度であって公式がそれをやっちゃ駄目でしょ。

なんなんだよ。

25周年の一つの形として「お前らいい加減夢から醒めろよ。これは単なる紙芝居しかね―んだ。著作権持ってるスタッフ自由にして良いおもちゃ以上でも以下でもないんだよ」って突きつけようってのか?

畜生……それが正しいのかも知れねえ……俺たちは和製ニューロマンサーとしてlainを持ち上げすぎてその本質を見失っていたってオチは十分ありうる。

日本技術立国の形として電子の海に強い理解と関心を寄せるオタク達の島であって欲しいというキモい気持ちが、単なる一アニメ必要以上の役割を与えようとしていたんじゃないのか。

カルトアニメとして黙って持ち上げられてくれていたからそれに甘えていただけなのか……。

serial experiments lainに対して俺が見ていた25年の夢はとりあえず醒めたよ。

スゲーアニメだったのは間違いないけど、いつまでも日本サイバーパンク神輿として担ぎ上げるのは間違っていたんだろうな。

いつからだ……放送後3年ぐらいの辺りでもう歯車は狂っていたのかな。

結局コレもさ、lain攻殻ぐらいしか日本でマジメにネット社会の向こう側と向き合おうとした作品が生まれてなかったのが悪いんだよ。

色々あったけどさ、どれも最後はボーイ・ミーツ・ガールで甘ったるくくるんではい終わりにしてたろ。

そうやって誤魔化すんじゃなくて、最後まで物語の中心にネットの闇を置き続けるコンテンツもっと伸びてほしかったんだな。

結局最後は生身の人間ですよなんて話をインターネットコンセプトにしてやって欲しくねえんだよ。

あーでもlainアニメ最後、やっぱ生身だよねとはなったんだよな。

駄目だな……俺は自分の見たいものにピントを合わせてばかりで何も見てなかったんだな。

俺は俺の中にあるlainばかりを見てた。

現実lainスタッフ達がどう育てていきたかったのか、どういう作品だったのか、皆の中でどういう作品だったのかをちゃんと見ようとしてなかった。

から1人で思い込んで突っ走って、25年もかけて勘違いに気づいて今更失望してんだな。

馬鹿みたいだわ。

結局、俺が幼すぎたってだけのオチかよ。

あほくさ。

なんだったんだろうな。

俺にとってのlainって。

長い夢だったな、今やっと醒めた。

本当に夢から醒めたんだと思う。

2023-06-19

anond:20230619123328

でもそんな増田くんも偏在と遍在を間違えるんですよね?

2023-06-09

テレワークの暗黒面

職が住の中に遍在することで、住のほうを萎縮させていくっていう。

今までは日中住宅街なら子供が騒いでも赤ん坊が泣いてもさほど問題にならなかったのに、テレワーク民がいると気遣わなきゃいけない。

この増田は隣人だけど、ひどいと家庭内で「隣の部屋で会議してるからかに遊ぼうね」とかやるんだよ。地獄かよ。

anond:20230607185100

2023-05-21

脳外科医竹田くんはホワイト大企業遍在する

根本的かつ圧倒的に仕事ができない、そのくせ悪びれることもない。というか、むしろちゃんとやってるのだが?という態度を取るし、何言われても気にしない。

そんなジェネリック脳外科医武田くん』はホワイト大企業によくいる。

まずこの手のタイプは、勉強はできる。とにかく言われたことをひたすらやっていって学ぶ力はあるからだ。受験自分なりのやり方はなんでもいい。

すると、竹田くんが医学部に入り、医師免許を取得したように、それなりの大学にしっかりと入る。

それなりの大学で、友達からは呆れられたりされつつもなんとなく真面目なとこだけ面接で見せて、いい大学でてるので、有名企業に入ってしまったりする。

そこから、めきめきと竹田頭角を表してくる。

仕事ができないので、もちろん怒られるし評価も下がる。しかホワイト大企業なので辞めない。これが竹田くんをのさばらせる。

ホワイト大企業は余力があるし問題になりたくないので、無理やり辞めさせようとしない。きつい追い出し部屋みたいなのも無い。あるとすればメンタル病み上がりの人と、仕事ができない人が集まる、しかちゃん仕事はあるところに異動させられるくらい。

そしてホワイト大企業から、どんだけ評価が悪くて周りよりも給料低くても、世の中ではいい方になる。年収800万とかもらっちゃう。下手したら900-1000万とかキープしちゃう

会社仕事できなくても、まぁ心を殺して仕事してりゃミスしまくっても800万もらえるから竹田くんはやめない。

これがホワイト大企業じゃなければ、嫌がらせなりなんなりで退職休職に追い込まれて、一掃されるのだが…。

ちなみに自社もいろんな取引先も接する俺が見た竹田くんたちを紹介しておく。

(単純に書いてるが一度や2度でなく、毎度だし他にも色々やらかしつづけてるやつら)

取引先への報告資料エクセルを何回やってもミスするやつ。修正も「○時までにお願いします」と言うと、「はい!」と元気よく返事するが絶対無視する。間に合ってないとかじゃなくてやってない。YouTubeとか見てる。

取引先へのプレゼンに俺たちをつれていく営業担当プロジェクタープレゼンて話だったのに、取引先にプロジェクターがないこと現場で発覚。焦る俺らをよそに得意先と談笑してるが、よく聞くと頼まれてた別件やってなくて怒られてるやつ。(なのにヘラヘラ

その部署で相当のお荷物になっているし、怒られまくってるのにずっとジムトレーニング動画見て、SNSにもあげ続けるやつ。

指示しても無視し、自分なりのやり方でやって失敗。絶対あやまらないやつ。

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