はてなキーワード: 学歴とは
自分の事をあまり評価していない。学歴良くない。やる気もない。器量良くない。
隙あらばサボるし、現にこれも仕事中の社用PCより書いている。
出世欲も結婚欲もなく生活や趣味や交友に使えるお金が貰えれば文句はない。
それよりも出世などして責任が増えたり面倒ごとが増えるのが嫌だ。
部下の尻ぬぐいもしたくなければ残業もまっぴらごめんだ。
そう思って生きているのに何故か評価される。
自分的に、ネサフなんかを挟みながらゆーーーーーっくり作業時間を使って提出したものでも上司は文句が無いようだし、
率先して仕事をもらいに行くようなこともしていないのに、サボりとも思われていないらしい。
そんな私が親会社の社長にも評価されたらしく、仕事が忙しくなるそうだ。
お客様先に行くため通勤時間も倍になるらしい、趣味の時間も減り給料は据え置き。
それが嫌だから遊びながら仕事してるのに……。クビになったりしない程度ほどほどに無能認定してもらうにはどうしたらいいんだろうか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/151342
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/52303
「シリンジ(注射器)を使うと、精子が空気に触れリスクがある」
SNSで知り合った精子提供ドナーの男は、こう語って直接セックスをする提供方法にこだわった。
女性はしぶしぶ了承するが、男は行為時に身体を舐め回してくるなど、その姿勢は精子提供というよりも文字通りの“セックス”だった。
男女平等が進んでも、収入や学歴が向上したぶん日本の女は下方婚せず精子バンクでシングルマザーになるとか、やっぱり日本女には男女平等は早すぎたんだな。
早く男女平等を取り上げないと。
学歴に対するコンプレックスを抱えている人が低所得である場合、その人たちに対して抱く感情は『でしょうね』感しかない
現代社会では、国ガチャに勝利し、高値で売れる能力があるからこそ、高所得を得られる
そういう人々は、ご家庭に問題がなければ学歴を得やすい、ただ、それだけのことであり、以上でも以下でもない
だから、低学歴でも高所得者も存在し、高学歴でありながらワープーや無職の人も存在する
しかし、ご存知だろうか?世の中には、高所得者や有名企業に在籍している人々、ある界隈で有名な人々(価値があるかどうかは別として)でも、
ちなみにポンコツだけどペーパー得意って人もいるが、就活はクリア出来ても、ちゃんと大企業に入った後に落ちこぼれているので、
みんな落ち着くべきところにちゃんと落ち着いている感はある
ただ、学歴コンプどーたら関係なく、社会に本当に必要な職業なのに社会的に給与を抑えられている職種については
『感謝はしているけど改善方法思いつかない、すまん』としか言えない
ワイに限らずたぶんみんな感謝はしてる
今、若くてプログラマー目指して入ってくる若者と比較されるってい現実をしっかり見て欲しい。
新卒プログラマーの学歴とか結構上がってきてるし、大卒じゃなくてもIT系の専門卒だったやつとか、自作ゲーム作ってましたみたいな人間結構増えてるんよ今。
庶民の出は論外、幼稚園受験が候補に入る時点で客観性を感じない。世の中舐めてる。
立教は東大と比べたら受験ごっこってのはまあわかる。私立は特定教科のみだから馬鹿でもなんとかなる。
ただ学歴がないは言い過ぎ。そこそこ高校もいいとこっぽいし、平均と比べたらかなりいい。
勤め先も恥ずかしいは部分的にわかる。年収が高いけど、そもそも昔から金貸しは賤しい職業と言われるものの最たるものだから。
だから倫理観ない人も多いだろうし、上司とか見てイライラすることも多くて大変なんだろうなあって感じ。ただ大半の職業はもっとひどい条件だから視野が狭いんだなって感じ。
全体を通して、偏差65以上の人としか関わらず、それより低い人のこと欠片も知らないため、その世界の常識のみを語ってる。
近々図書館の司書さん達にお礼を言おうと思っている。その前にでも自分の頭の整理のために書いておきたい。
そして誰かの参考になればいいな思う。
タイトルの通り自分は3年前まで本が全くと言っていいほど読めなかった。本を開いても1~2行読んで「あ~もう無理」って感じですぐ閉じて、すぐ自己啓発系youtubeに逃げていた。当時だと西野亮廣、与沢翼、メンタリストDaigo、よくわからない弱小自己啓発系youtuber、俺的名言集など。
今でこそ笑い話だが、当時は「こんなに役に立つ情報が無料で見られるなんて、youtubeってマジ天国じゃん! これを吸収して俺は人生を逆転するんだ!」とか本気で思っていて、与沢翼がアップした1時間尺くらい(人生の本質とか何とか)の動画×5本くらい(10本くらいあったが途中で断念した)を1つ10時間くらいかけて見て、ノートに一言一句書き写すとかっていうことをやっていた。
「本なんて読まなくても、youtubeの動画を見れば人生逆転できる!」って本気で信じていた。
そして自分はそんな自分のことを「俺、周りよりも頭いい!」と思い込んでいた。
今思えば、陰謀論者みたいだな。
高卒。ここまで正社員経験無し。公務員試験受験に落ちてから、ずっとコールセンターでフリーター人生。
仕事も降格1回。会社もクビ2回。ナンパにも10年くらいハマったり。ってくらいに馬鹿である。
どうだ?
みんなよりもクソな人生だろう。
※メンタルヘルス、精神医学系の本を何冊か拾い読みした結果、おそらく自分にはADHD、ASD系統の性格傾向があると思われることがわかった。だがこれはあくまで「傾向」だ。でも少なくとも100%定形ではないだろう。自分の感覚だと3割くらいはその気があると思う。
話を戻す。
書いた通りのバカで、でも謎に「いつかは人生逆転してやる!」って息巻いていた。
でも実際はなかなか行動に移せず、その鬱憤を自宅に帰ってきてはyoutubeの自己啓発動画を見て「俺はやれるんだ!」って自分を高めては、翌日また現実の世界に打ちひしがれて帰ってくる・・そしてまたyoutubeを見る、という日本全国どこにでも居そうな陰キャ生活を送っていた気がする。
仕事のプレッシャーと職場の人間関係からなるストレスから発症したと思う。
(日付を見て気づいたが、ちょうど3年前の今頃だったと思う)
http://www.toyama.med.or.jp/wp/?page_id=1347
※「パニック障害」ってどんな病気? ~公益社団法人富山県医師会~
症状としては死への恐怖が一番強かったかな。
主治医に診てもらっても、自分の辛さがなんだか伝わっていないような気がして。とりあえず薬を出されて終わり。そんな感じだった。
「めちゃくちゃしんどいのに、お医者さんは何もしてくれない。それなら自分で調べるしかない」
それが図書館に行くことの始まりだった。最初はポジティブな理由でもなんでもない。
「この病気を自分で調べなきゃ自分が死んじゃう」そこがスタート地点。
最初はメンタルヘルス、うつ病、パニック発作、パニック障害とかの本をとりあえずひたすら読んでいった。
本の読み方とかもよくわからずに。ただむさぼるように読んで行った記憶がある。今の症状について、医者からほとんど何の説明もなかったからだ。だから知識が欲しかった。
本を読みいろいろな知識を得ていくうちに「あれ? 本ってもしかして人生を逆転出来るツールなのでは?」と思うようになる(単純)
ちなみに、この時の自分は読書の本当の凄さにはまだ気づいていなかった。
ただなんとなく、当時見ていた自己啓発系youtubeよりも多種多様な情報が図書館にはあるな。これを頭に入れることが出来れば、自分は今のクソみたいな環境から脱出出来るのでは?
それくらいの解像度だった。
たまたま18時に終わる仕事だったので、図書館に直行して閉館の21時まで入り浸る毎日を過ごすようになった。
1冊読み終わったらまた1冊。そしてまた1冊と次々に違う本を読んでいった。
いわゆる「乱読」というやつである。ただその時は「よーし、乱読するぞ」なんて思っていなかった。
「目の前にモンスターが出てきたから、とりあえず倒す!」くらいの感覚だった。
幼少期に多少読書をしていたとはいえ、こんなにも本を読んでいない。ましてや大学にも行っていないし、仕事で文章を読んでもいる訳でもない自分が、急に読めるようになる訳はない。
パニック症関連の本はある意味必要に迫られていたので、中身をなんとか頭に入れることが出来たが、当時の自分にとって自分に関連性のない分野の本は全くと言っていいほど頭に入ってこなかった。
図書館には「旅」のコーナーがあるので、旅日記、旅行記。それから写真集、絵本など、文章が少なく、写真や絵が多い本から初めてみることにした。これが意外と自分には合っていて徐々に自分を本に慣れさせて行くことが出来た。
旅行系の本は結構充実していて「一度は行ってみたい世界の絶景」みたいな本とか、「島、海、空」に特化した写真集なんかも何度も読んだ。とっても楽しかった(書きながら思い出している)。ああいう本はたぶん知らないうちに、自分の心を豊かにしてくれたんだなと思う。
俺の実家は宗教が複雑に入り乱れており、新興宗教に入信した兄弟もいたような家庭だったので、宗教には興味があったんだ。
「宗教学? 宗教を信じるための学問?」って思っていたくらいよく知らなかった。
その後も、少しずつ少しずつ。1日30ページずつとかではあるけれど、読書は続けていった。
その頃のジャンルは宗教学、人間関係、旅、メンタルヘルス、ハンディキャップ、働き方、思考方法など。
そうして徐々に、文字が多い本(いわゆる新書など)も読めるようになっていったと思う。
余談だが図書館の環境も良かったと思う。自分が通っている図書館は音楽が流れソファが用意され、読書をするには最高の環境だった。
読書をするためにわざわざカフェに行って、お金を払う必要がなかったのは大きい。
選書もとても良く、新しい本から古い本、海外の翻訳本まで次から次に読みたい本が見つかる。こんな素晴らしい図書館に出会えたのは本当に運が良かった。
そうして3年が経った今年。
3年前には本を開いても1~2行しか読むことが出来ず、youtubeの自己啓発動画に逃げ、動画の先にいる配信者を盲信していた自分が、今では読書を3~4時間は平気で行うことが出来るようになり、読むジャンルも法律、社会学、経済学、起業関連など、多少難しい本を読めるようにもなった。
それから、これまで乱読に近い読み方をしてはきたが、これがいわゆる「リベラルアーツ」という学問に当たるということも最近知った。
https://www.obirin.ac.jp/academics/arts_sciences/what_is_liberal_arts.html
そして自己啓発系動画は現在も見るには見るけど、以前と違い盲信することは無くなった。
Twitter(現X)のバズツイートや、インフルエンサーの情報発信を見ても、安直に信じることも無くなったし、必ず別の可能性を考えられるようになったと思う。
自分にとって本を読むことは、偉人、先輩方との対話であり、その本が入っている本棚、図書館は偉人たち、先人たちといつでも話が出来る場所だと思うようになって来た。
何かを考えるときも「あの本にはこんなことが書いてあったよなぁ・・」と頭の中で引用出来るようになってきた。
頭の中に様々な専門家が常時いるようなイメージだ。口寄せの術。
この3年。変な自己啓発本やビジネス書の類(書店で平積みされているようなやつ)は、ほとんど読んで来なかったことも大きい。
今までは「与沢翼のブチ抜く力」とか「西野亮廣の革命のファンファーレ」「あなたを癒やす100の名言」みたいな本ばかり読んで、わかった気になっていたが、そのような本に盲信することはもう無いだろう。
ただ、おかげさまで有益な情報はある程度取捨選択出来るようになったので、その意味では今後は目を通すことはあると思う。
岡田斗司夫は図書館のことを「貧乏人が行くところ」と評したが、自分は「司書さんがプロの目線で有象無象の中から、適切な本を選んでくれる最高の場」と言いたい。
最近は「得た知識を抽象化していつでも引き出せるように」訓練している。
読書を始めたきっかけは精神疾患とはいえ、本が読めるようになったこと。
また、読書のおかげで新たに人とのつながりも出来るようになってきた。これは予想外の副産物でもあった。
新しい人に出会った時に「本を読んでいます」というと、話が発展することが多くなったし(今までは、AVの話しやナンパの話し。風俗や借金の話ししか持ちネタがなかった)、読書サークルなんかにも通えるようになった。
そして今までは読んだ本(学問)同士のつながりを感じることが出来なかったのだけど、リベラルアーツという言葉を知ったおかげで、これまでの読書が一本の線でつながるような気がしてとても嬉しいんだ。
今後も引き続き勉強をして行きたい。 あと今後は文学作品も読んでいきたい。
だいたい、みんな「読書」って言うと、小説などの文学作品のことを語る人が多い。
自分のようにリベラルアーツ系の読書から入って数を重ねる人は一般的では無いのかもしれない。だからこそ小説を読むのは知らない世界を知れそうで楽しみである。
自分はこれまで、生活に苦労してきて、かつ学歴にもコンプレックスがあったりしたが。
ここから先の人生は読書が出来るということを武器にして、豊かに生きていきたい。
そして「自分って高卒なんだよな。結局大卒には勝てないんだよな」
読書は楽しい。死ぬまで続けたい。これからも自分に心の豊かさをもたらしてくれるものだと思っている。
そして読書ができる人は実はそんなに多くない。だいたいの情報はyoutubeなどのネットで得られる世の中だからだ。
電車に乗っても、子供から学生、そしてサラリーマンに至るまでみんなスマホをいじっている。スマホに夢中だ。
youtubeの切り抜き動画や対談動画にも、有益なものは非常に多いが、元をたどると古典などの本からの情報であることが多く、だからこそ読書は他人と差別化が図れるものだと思っている。
これからも続けて行きたい。
いつか、通信制でもいいので大学にでも行こうかな。そんなことを最近は思う。
そして図書館の司書のみなさん。ほんとうにほんとうにありがとう。
いろいろな人が読んでくれたようで本当にうれしい。
書いた後に、改めて自分でも振り返ってみたが、これほどまでに読書が継続できた理由のひとつは、やはり図書館の環境がとても良かったこと。
それから、オンラインで参加していた読書サークルに私よりも知的な方々が沢山いて(博士課程の学生や、大学の講師など)、「このまま読書を続けたらどう変わって行けるのか」という、少し先の未来を自分に見せ続けてくれたということが、大きかったんだという事にも気づいた。
読書サークル内では日夜テキストチャットで議論のようなものが繰り広げられていて、最初は会話に全くついて行けなかったけれど、だんだん話していることが理解できるようになってきた自分が嬉しかったりした。
いろいろな意味で運もあったのだと思う。
読書サークルにたまたま知的で素晴らしい方がいらっしゃった事。
友だちが少なく、親の介護も無く、仕事で要職についている訳でも無かったがために、逆にプライベートの時間を、読書にフルベット出来たこと。などなど。
この文章を書いてから、ナンパをしていた時代に毎日の様に行って、よくたむろしていたビル(飲み屋やカラオケ、ホストクラブやダンスクラブが入店していて、たまり場になっていた)に用事があって行ってみたんだ。
派手な服装の女性と、その女性を口説き落とそうとしている男性。
ウェーイって騒いでいる学生。
怖めの車で迎えに来た怖めのお兄さん。
仲間で歩いているホストくん達。
やっぱさ、私達が普段想像する陽キャと、現実の陽キャって全然違うよね。
想像上の陽キャ…相手が誰でも分け隔てなく優しい。陰キャにも声を掛けてくれて仲間に混ぜてくれる
現実の陽キャ…同質の仲間内だけで盛り上がる。陰キャに対しては、たとえ隣の席に座っていようとも空気の如くスルー。たまに声を掛けるとしても、相手に容姿や学歴といったメリットのある場合だけ。
ぼっちの陰キャに積極的に話しかけてくれてグイグイくる陽キャなど存在しない。
だからこそ夢見たくなるんだろうけどさ。
湯の前で人は平等になる。
我々は日々、社会という闘いを生き抜くために色々な武装をして生きている。生きているだけでは、そのことに気づけないほどに、その重みは我々の身体に染み付いている。
入り口で靴を脱ぎ、「男湯」と書かれた暖簾をくぐる。その瞬間、少し軽くなる。
不思議なもので、男と女を区別するその暖簾こそが、僕を男であることから開放し、僕を「人間」にしてくれているのかもしれない。
脱衣所で服を脱いで、シャワーで全身の汚れを落とした時、更に身体が軽くなる。
軽くなった身体は僕を湯の前に連れて行き、そこに広がるのは、同じく「人間」の姿をした裸体の男達だ。だらしない身体をしたやつ、少し鍛えているやつ、加齢で皮膚が垂れてきてしまっているやつ。ここにはみんないる。
あの子にモテる為に買った服も、彼女に貰ったネックレスも、自慢する為に卒業した学歴も、必死に覚えたメイクも、湯の前に連れてくることはできない。
数学が好きであるという理由で塾講師のバイトをやっていたことがあるが、講師陣の負け犬たちはクソだった。
まず驚いたのは「○○ちゃん、超かわいいです」みたいな私語を仕事終わりにしている連中がいたことだ。
塾とは勉強を教える場である。誰が可愛いとかそんな話をするのは場違いだ。
さらに驚くことに、成績が伸びる可能性が高い生徒を教えようとする講師が多い。駄目な生徒だと判断すると私のところに来る。
そうして勉強する時間さえ確保すれば成績が上がるような優秀な生徒を教えて、それを実績にカウントする。愚かしいにも程がある。駄目生徒の成績を向上させてこそ講師の力が試されるというものだ。
腹がたった極めつけは「数学は暗記科目なんですよ」などと戯言を抜かす講師がいたことだ。
学習には汎化というものがある。公式を覚えるのは前提条件としても、それだけでは対応できない問題など山ほどある。
沢山の問題の種類をすべて丸暗記させて解かせようとする講師が、宿題の量を馬鹿みたいに増やしていたのは言うまでもない。