はてなキーワード: 客観とは
真面目な親が、"お金を払って働く"というイミフな状況におかれ、それでも府民のためやでと働いてた。親を誇りに思うと同時に、人のためという思いは報われないことを知った。
国政もひどかった。はてブのエコーチェンバーにかかりどんどんと国への忠誠心が下がった。ふるさと納税も自粛し、コロナでは外出控えたが、そういう者が不利益を被る社会に絶望してきた。
資本主義が嫌いで慎ましく清貧に生きるつもりだったが、なんか吹っ切れてもう利己的でもいいかと思い始めて、国にとっては良くないかもしれない投資を始めた。
アベノミクスで円が刷られまくって、でも経済循環には回らず金持ちの懐に入るだけ入るという時限爆弾と化し、こいつぁ発火したらハイパーインフレも気をつけなきゃなあと思い、今のうちに資産をと外貨に避難してる。
金利差もあるので、国債を買うようなつもりで、気軽なFXを始めた。
国債をレバレッジかけて買うとか普通できないよなぁ!ということでFX。
100万預けて1日200〜250円もらえる。レバ20倍で見ると5万預けて日利0.5%だ。年利200%近い。爆益だ。
だから長期でドルを持った。リスク分散とは言いつつも、この行為が円安の原動力ともなり、自分だけ他人と比べて得をするという発想からの行為であり、他人のためにまったくならないことに頭を使うのは、なかなか居心地が悪い。
さて運用は余剰資金を年100万用意してレバ10倍程度かけて運用。
2022年:円安トレンドを見て再開。掛金倍プッシュした直後に為替介入が起こり、持ち続けて下がってロスカット引退
2023年:年始から投資。11月に掛金倍プッシュしたら円高に変わったがトータルではプラス300万
2024年:年始から投資。4月末に掛金倍プッシュしたら介入あり700万溶かすが、7月には2000万となる。レバ10倍になるよう掛金倍プッシュしたら介入あり1300万溶かす。
今年はちょうど2000万溶けてたな。まぁトータルでは400万の原資で700万まだ残ってるけど。
介入やらファンダメンタルやら雰囲気やらに釣られてトレード実施した時に損しなかったことは今のところ一度もない。
デイトレを天気予報に例えるなら、スパコンでシミュレーションされる数値予報が存在する前で、その情報にアクセスせず実況の天気図を見ながら、明日晴れるか曇るかを予想するようなもんだと思う。
デイトレにおける個人と機関投資家との差は圧倒的な情報へのアクセス性と金融工学知見その他ツールだろう。
素人なんて心理的な動きを統計的に刈られたり、ほにゃららな線を元に〜みたいなのを強引に刈りとる金の動かしができるんだから、予測性に対して圧倒的な格差がある。半々の博打と思ってはいけない。
そうはわかってるはずなのに、手を出してしまうのがギャンブル依存症。
個人的にレバレッジかけてる=ギャンブルなのではない。この言説よくわからん。機関投資家もレバかけてるっしょ。
負けるとわかってても、あの時こうしてたらいけたなと夢見てしまうそれがあかんのだ。
下がってる。今は引き上げよう。あれ1円下がってる。ショートで持ってたらあんなに稼げたのか……今からでも雰囲気一緒だし乗っかれるかな……とか考え始めて、もう溶ける溶ける。
事後諸葛孔明が、だから手を出すなというんだけど、でもほんとにあそこで逆張りしてたら…!という心理がものすごく強いんよねぇ。
ほんと、ほんの少しの、ほんの少しの先読みが当たれば、後から考えたらこう持てばみたいなのが、客観視がものすごく難しい。
ほら日本海に雲が広がってただろ、だからあれがやってきて曇るんだよって。後になったらわかるのに。
次の日はいや太平洋高気圧が張り出してるから、みたいなのを後になって考察できてさ。
こんなん予測に活かせられてなくて、後付の無根拠な理由つけだ。
デイトレは自分でツール開発するくらいしないならやめとけとしかいえんね。
戒めの日記。
700万守らなきゃ。
でも目が眩んでる。こんなん書いててもまだ眩んでチャートを開いてる。
自分でどうせ趣味のギャンブル資金だしとか言い訳つけてまた開いてる。一貫性が自分の中で保てない
まじでやばい。元の、金利差を頂戴するという価値観が、目の前の振れ幅に目移りしてる。
介入やらなんやらきっかけで一度デイトレで遊んでしまうと、つい手に取ってしまう。
鋼の心が必要。戒め。
よく聞くセリフだ。
もう何回このセリフを見たことだろうか、もうわからないくらい見ている。
なんで役に立たないのか、とにかく色んな理由を見てきたのだが最近目を覚ます理由があった。
あぁ、これでなにか合点がいった。
トラブルでパニクっている私、頭がフル回転どうしようどうしよう、旦那は落ち着いているので役に立たない。
あぁ、つまり「役に立たない」というのは
本人がほしい状況であって真実じゃない
ということがわかった。
こういうときに「お前は役に立たないんだからすっこんでろよ」とストレスのはけ口にするために「役に立たない」が必要なのだ。
もっと言うならばパニックで役に立たないとか、慌ててしまって役に立たない、という旦那は、多分「こうすりゃうまく行くんだろうけどなにか言ったら言ったことが何であれ100%嫁がブチ切れるからどうしようどうしよう」となっている可能性が多分全体の90%何じゃないだろうか。
「こんな時旦那は役に立たない」と言っている人は「そんなときに私は旦那をどう扱っているか」を見直して自分を客観視してみるといいと思うからぜひやってほしい。DVなので。
安野たかひろさんのポスター等、選挙活動で使うデザインを担当されたデザイナーのメイキングnoteを読んだ。
https://note.com/y_yukkie/n/nee5a7a5409fb
選挙期間中、安野たかひろさんのポスターを初めて見た時に、なんでこんなナード感を際立たせるような色使いや写真の使い方をしているだろうとか、視力と判断力が鈍った語彙の薄い高齢者がみたら「あのち◯◯みたいな頭の候補者か」とかいう風になっちゃうじゃん。って思ったので、これらがデザインされた過程や思考が見れて、デザインで食っているものとして勝手に学ぶものがあった。
まず、このポスターをはじめとした背景色/テーマカラーに暖色系のパステルグラデーション(インスタっぽい色)が選ばれていた理由が
>過去10年分ほどを振り返って、キーカラーにほとんどグラデーションが使われていないことは意外だった。
>他ポスターと差別化するためにパステルカラーのグラデーションを採用するという仮説
という、割とよく使われがちな原色系のカウンターからのチャレンジで、安野さんの顔、形や色相の相性、ブーストしたい雰囲気とかを主眼にしているようではない印象を受けた。
顔写真についても、日本のポスターのダサさに不満を抱きつつ、過去事例を研究して顔(写真)の印象の重要性の理解や顔写真の比率の話をされているが顔写真、被写体自体をどう演出して見せていくかという重要な部分にはそこまで触れられていない。
推測だが、近い人(候補を応援するボランティア)が手掛けたがゆえに被写体を客観視しきれない部分があったんじゃないかと思う。何度も人の顔を見ていると、色んな表情が連結されて自分の受け入れやすいように慣れてしまう。初対面の時に抱いた印象や違和感を忘れてしまいがちで、しかも応援している候補者であればなおのこと補正がかかりやすいだろう。
つまりデザイナーにとって安野さんの笑顔の写真は爽やかな笑顔に映るわけであるが、その印象は安野さんを知らない人が写真を見た時と比べると相当脳内補正が掛かってしまってるか、許容値がバグる状態に陥っている。自分も同じ状況に置かれたら、多分不可避だと思う。許容値がバグって客観視することが難しい前提で、この辺りの役割を割り切って決めておくのが重要だと学んだ。
ちなみにポスターを初めて見たときに、もし安野さんをほぼ知らない自分がデザインワーク担当するなら…を妄想してた。(安野さんに限らず、クセで他の候補者でも同様にイメトレしてる。)
(一般的な現場では写真素材を撮る前にレイアウトや色方向性のラフが決まっていることは多いが)写真素材が先行してある状況で、撮った素材の中から選んでデザインよろしくみたいなことになったら、まず、あの角度の写真を積極的には使わないだろうし、あの角度しかない or 使わなきゃいけない理由があるのであれば、ポスターでは頭を全て出さないようにトリムするレイアウトにする、もしくは頭の色に馴染むような背景色にして、極力ナード感を消すところから入る。その上で彼の清潔感や知性を際立たせるようなキーカラーを印刷の出やすさから考慮に入れて選ぶ。という妄想をしてたのだけど、ポスターをよく観察していく内に、いやいや、そもそも衣装を含めて限りなくシンメトリーっぽい雰囲気の被写体をあえてアシンメトリーっぽく絶妙にズラして使って不気味さを際立たせているとか、背景カラーからあえて頭をはみ出させて、立体的にアレに見えやすいようにしている?す、すべて計算してやってる…のか?という勘ぐりまで至ったが、単純に自分の感受性が下品なだけな気がしてきた。
ポスター見た後に生安野さんの演説をチラ見する機会があったのだが、長髪の珍しさはあれど、普通に好青年でポスターとのギャップがかなり強かったので、損しているなぁ…と思ったがもちろんこのポスターデザインが良いね!という人もいるので、好き嫌いの範疇をでない話だし、いかに目立つかを詰められていたので、意図してないかもしれないがある意味で目を惹くポスターでした。
13,000箇所の一等地に掲示する老若男女全方位向けのポスターを手掛けられるのってデザイナーとしては得難い貴重な経験値だなとnoteを読んで改めて感じました。おつかれさまでした。
逆説的だけど、恵まれた環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。
恵まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あんな境遇からとても偉い」になる。
恵まれた人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。
全ては自分の意志次第、の自己責任マンは知らん。自分の思想を客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間を排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分も構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。
基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。
もっと辛い境遇の人がいるから相対的に幸福、が通るならもっと恵まれた人もいるから相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。
いやまあ客観的というか一般的な基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。
でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。
もっと言えば世間の基準や外野の感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。
でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。
そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲームの理屈は置いといて、道徳の話としては。
そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。
こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。
あとなんかジョジョでも幸福は絶対的なものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的なものだ、的な話があった。
環境の幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれる環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。
わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。
そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人の人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。
でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。
マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。
幸せになれない価値観なんか捨てて思考を矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。
新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。
いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママで子供じみてる。
これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。
おれは客観的に恵まれた環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。
内面化された「環境に感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人の感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。
その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。
自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンスを勝手に一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。
まあこんなのも恵まれた人間の思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。
って最近思った。
いや、最近私が失敗しちゃってさ。
いやいや、私が馬鹿だったってだけでさ。それを認めたくなくて他の原因探してるだけだろうけどさ。
ちゃんと人付き合いができて、色んな立場の人と話をして、なんてできてる人の方がよっぽど客観視できるというか、ひとりの人間にのめり込みすぎると判断を誤るというか。
でも、思い返しても、そこしかなかったのかなー……なんて思ったり。自分が他の判断をできた気がしないというか……
ごめんね。こんなの第三者が読んでもよくわかんないよね。
ひとり反省会を具体的な言葉を取り除いて言語化してるようなもんだよ。
いや、その、ね? 怒られたんだ私。
それも普段優しくて、明るくて、コミュ力もあって、日陰者の私なんかよりずっと人が出来てる人で。
なのにさ、そんな人を怒らせることまでしちゃってさ。
その人はずっと正しくて、「人付き合いの多さが出来た人間を形成する」って後から思ったんだよね。
私がしっかりしてればよかったのかな。下手に流されちゃってみんな不幸にしちゃった。私のせいだよ。ホントに。
私が悔いてる様子が誰かの酒の肴にでもなればいい。そうだ。それでいい。
もうまとまりがつかなくなっちゃった。最初からまとまりなんてないか。
とにもかくにも、これで終わるや。さいなら。
都知事選挙の結果を受けて、東京は終わりだとか東京の良心は127万だけだとかいう言説を見ると、自分の大好きな作家さんの言葉を思い出すので置いておくぜ!
「尊敬する相手への自己投影、つまりは自分が慕う相手を神聖視することで自分自身も偉くなった気になっているだけ。
だからこそ、尊敬する相手より上の者を認められず、否定的を通り越して攻撃的になる。
別に珍しいことではないし、程度はともかく信頼とはそういう面がある。
それを客観視できないことや、問題視していないことは、決定的な抗争を引き起こしかねない。
自分で己の悪癖を自覚し、自分の行動によって心酔する相手へ迷惑になる、ということを認識しなければならない。」
みんなも気をつけようね。
※事実関係に関する情報が少ないまま推測で書いているので、的外れならすみません。
「なぜ死んだの?」と娘さんが尋ねるとすれば、それは別に「死因」を聞いているわけではなく、「どうして私にはお母さんがいないのか」という疑念に対する子供なりに合理性のある回答を求めているということだと思います。ことによったら娘さんは、「自分の誕生が母親の死の原因の一つなのでは」みたいな不安をもっているのかもしれません。子供がそんなことを考えるか?と思われる向きには、むしろ子供こそ「あらゆるこの世の事象の原因は自分にある」というある種の全能感を持ちがちであるということを指摘しておきます。夫婦喧嘩を聞かされた幼い子が、自分が原因に違いないと思い込んでふさぎ込むというのはよくある話です。
したがって、必要な「答え」とは、娘さんのそういった不安を取り除くことができる(あるいはそんな不安を抱かせない)答えだと思います。事実に直面するのは、もう少し心が成長し様々なことを客観視して受け止める体制が整ってからでよいでしょう。ただ、事実を隠すにしても、将来事実を知ったとき(あるいは何かのはずみで事実を知ってしまったときに)あまりにも整合が取れないことにならない程度にとどめておくべきだと思います。その意味では、「病気だった」という説明は悪くない答えの一つです。
ただ、そこで危惧されるのは、娘さんが「病気だったのに私を生んだ→それで病気が悪くなって死んだ→じゃあ私のせいで死んだんじゃ…」という思考に陥ることです。ですから「病気」路線で説明するとすれば、「お母さんは、あなたを生んだ後、重い病気にかかった」「後に残すあなたのことを気にかけ、幸せを祈りながら死んだ」「残された自分たちも同じ気持ちだ」といった語り方をする必要があるでしょう。ですが、もし自死に至られる経緯がもっと若いころからの希死念慮などから続くものであり、産後にという説明にあまりにも無理があるようなら、次のような配慮が必要になると思います。「元々長くは生きられない病気だった」「その短い生の中でお父さんと出会い愛し合ってあなたを産んだ」「短い人生をお母さんは一所懸命生きたと思う」…など。ご理解いただけますでしょうか。
なお、娘さんの周囲の大人(親戚、近所、学校の先生など)に対しても、上記のようなことについて根回しや口裏合わせは必要だと思います。親の言葉に納得しなければ、別な大人に答えを求めに行くのは十分考えられることですし、複数から同じ回答が得られれば、ある程度の納得感を得ることができると思いますので。
小学校低学年は、自分の生い立ちについて考察し始め、かつ、物事の道理みたいなものも理解し始める年齢です。「自分のルーツを、合理的に納得したい」という思いを受け止めつつ、適当なウソや作り話でごまかすのでなく、それでいて健全な発達が阻害されることのないよう、全面的な保護でなくかつ剥き出しの事実に晒すのでもない、そんな配慮が求められる難しい年ごろです。ご健闘をお祈りします。
最近サービスインした対戦ゲームがそこそこ気に入ってて、その有志wikiみたいなやつを編集している。マイナーゲーだから企業wikiとかも立ってなくて公式からの情報提供もまちまちなので各人がデータを集めて記載してるんだけど、まだコミュニティとも言えないような規模なのに勝手にルールを制定しまくるヤツ(古代の言葉で自治厨)が発生していて閉口している。
類似作品で喩える(236入力を波動拳と呼ぶみたいなやつ)のはNGだの文章は文語体で統一すべきだの俗称の表記の是非についてどうこうだのくだらないことを議論と称したおしゃべりをしてはルールを作成してwiki中に貼り付けて「経緯について詳しくはこの議論を参照」とか言って議論()のリンクを張ってるんだが、その会話には二人か三人しか参加してないとかザラ。そんなだから普通に他ユーザーから嫌われはじめていて非難のコメントも飛んできておりしばしばレスバを繰り返している。
そのうえ本人はこれ当てたらダメージがいくつみたいな客観データの記載はほとんどやらず、キャラクター評価みたいな一番おいしいところ(そして誰でも思い込みだけで書けるところ)をポエム交じりに書き散らかしている。他人にあれこれ注文を付けるくせに自分が書く部分に「筆者は○○使いだが~」とか入ってるのがキショすぎる。不特定多数が編集できるwikiで筆者とか言われても誰かわかんねえよ。中途半端に匿名性に逃げながら自己顕示欲出してくるんじゃねえよ。内容も普通に低品質だし。こいつランクいくつだ?本当にこのキャラやり込んでるのか?
話がそれた。キショいのはまあいい。というか有志wikiなんてゴミがあってナンボで、むしろそのゴミを排除して自分のお気に入りのゴミで満たそうとする行為が容認できない。草の根活動的にやるwiki編集なんてもともと信憑性も正確性も低いもので、各人が好きに編集してその結果たまたま出来のいいデータベースになったりゴミの山になったりするだけの話だ。完璧なものを作りたいなら個人か企業でやるべきで、不特定多数の力に頼りながら船頭は俺なんて無法は許されるべきではない(管理者でもないみたいだし)。自己顕示欲や支配欲を満たしたいならこんな場末のwikiじゃなくて東京都知事選に出てほしい。心からそう思いながら俺は黙ってデータの追記だけやっている。