はてなキーワード: トピックとは
これこれ。
持続可能な社会のためには好き勝手生きる単身者にも、ある程度負担してもらわないと不平等感はあるか。
『お子持ち様批判』をトピックにするのは良くなくて、むしろ『子無しさん大暴れ』とか言った方が実相を捉えてると思うが。
だけど分断を煽る結果にしかならないだろう。
必要なのは、どうやって彼・彼女らを抑えるかだ。既婚側としては子育て支援がまだまだ足りてないこと以外に文句はないわけで、別にブツクサ言うのは好きにすればよく特に人々に不満を持ってはいないだろう。
エンジニアに資格は不要と言われるけれど、個人的には結構勉強になると思う。
自己負担の実費でIPAのネスペ、セキスペと受けたけれど結構役に立ったなと思っている。
多分その辺を勉強していなかったらDNSキャッシュポイズニングとか迷惑メールフィルタのDKIMの仕組みとかDHCPスプーフィングとかセキュリティの話題に全くついていけなかったどころか興味も持っていなかったかも知れない。でもある程度わかって興味を持てるようにようになったのはIPAの試験のおかげ。
個人開発をしろだとか仕事でOJTでしか身につかないとかいう意見はあるが、個人的にはベクトルが違う、それはそれこれはこれだと思っている。
仕事をしながらDNSキャッシュポイズニングについて調べる機会とかなかなか遭遇しないだろうしARPの仕組みBGP-4の仕組みなんて絶対に知り得なかった。
野球で言うところの個人開発は練習試合、座学は筋トレ走り込みだ。練習試合だけしかしない人が野球が上手くなると思えない。
で、今IPAの試験も一通り受けて次勉強するって何をすればいいんだって思っている。
世の中にはまだまだ未知のIT技術に溢れている、低レイヤのICチップの仕組みだとか無線LANの仕組みとかJVMのこととか、都度都度自分で調べれば良いんだろうけど効率的ではないし、何より自分の全く知らない分野というものに気付く機会はない。
単純に価値観が違いすぎて一生分かり合える気がしない
トピックが変わっても、
男「感情や偏見を排してデータに基づいてフラットに考えろやバカ」
で無限に戦ってる気がする
…とは思わないが、(他の多くの言語と同じように)注意して使わなければまったくナンセンスな議論を平気で生み出してしまう言語ではある。
自分が最近特に気になっているのが、修飾部の制限用法と非制限用法の無節操な混同である。
これは英語のtoxic masculinityの訳語なので、当然この「有害な」という修飾は制限用法であり、「無害な男らしさ」の存在も暗に示すものである。
しかし、これを日本語にした言葉自体には、非制限用法の解釈もあり得てしまう。再翻訳すれば、"masculinity, which is toxic"(この有害なる男らしさ、とでも再々翻訳しようか)という解釈が可能だということである。
これが、時には無意識に、時には意識的に、日本語の議論を混乱させているのを昨今切に感じる。
「有害な男らしさ」を語る議論は、「男らしさの肯定か否定か」ということではないはずだ。
「何が有害な男らしさで、何が無害な(または有益な)男らしさか」を弁別することであるはずだ。
「有害な男らしさ」の定義なんてしないまま、前者の極論に持っていきたいことが丸見えのくだらない対立論しかメディアにはない。
(以下略)
飽きた。
ここから、ハリウッド映画の「依頼人」を例に、海外では女にも「有益な男らしさ」が求められること、「有益な男らしさ」がなければ誠実に議論する社会はあり得ないという話をしようと思ったが、そんなことはここまで読んで、わかる奴は既にわかってる話だし、わからない奴は何を言ってもわからないだろう。
非論理的な自然言語だからこそ論理的に使うのだという発想が社会になく、学校で教えてもいないから、良い大学を出ても平気でこの程度の基本的な文法事項も注意しないで使う、それどころかそういう詭弁で煙にまくのを賢いとすら思っている「インテリ(瀬川深)」がいっぱいいるような国では、保守もリベラルもないのである。
そして、こんな根本的にその議論の誠実さを証明するようなトピックをもこそこそと避け、あわよくば自分が何を言ってるかも曖昧なまま、反撃されずに気持ちよく他人を叩ければ良いという国民性こそ、日本のすべての凋落の元凶なわけである。
トレードオフはトレードオフでラーメン屋さん向けにアドバイスしたらいいと思うけど、「日本経済が負担している券売機の更新コストを少しでも引き下げる工夫はないものか」という話とは別物だね。
脆弱性についてはさ、本当に、現実世界とまったく変わらないのよ。
このうち、AやCの世界は今回のトピックじゃないよね。問題にしたいのは、Bの世界。
でもさ、たとえば2004年に福沢諭吉にホログラムが追加されてから、実際にホログラムのない旧札が券売機などで使えなくなったのって、いつごろだろうね?(調べられなかった)
少なくともホログラム新札の流通開始の2004年11月1日に、いきなり旧札が使えなくなったわけじゃないよね。たぶん、翌月でもないし、1年後でも使えていたんじゃないかな?なんなら、今でも使えるお店や券売機はあるかもしれないね。そもそも機械ではなく店員への手渡しなら今でも使えるだろうし、機械でもいつ「使用不可」にするかは、誰にも強制されることなく、お店が決めていいことだよね。
「旧札を切り捨てないと、偽造旧札を受け取ってしまう!」ような世の中になったら、みんな旧札を切り捨てるんじゃないかな?新札なら最新技術が備わってるから、偽造できないもんね。安心だよね。
んでこれ、元増田が提案する「互換性のある世界」でも、結局のところ新札には最新技術が搭載されているので、新札を偽造することはできないわけ。ここ、重要なポイントね。
あと、はしょっていい?
クリティカルシンキングの教師が生徒にJKローリングのトピックを使って指導している。
TERFのXアカウントが日本語字幕付き動画をUpしているが、
https://twitter.com/MojaMojappa/status/1755060051960799307
動画がフェイクでないことは、この教師のYouTubeチャンネルで確認できる
https://www.youtube.com/watch?v=zIPPpsJY39c
JKローリングがトランスジェンダーに対して差別的な言動をしているとはてな界隈でも話題になったのが数年前だが、そのとき自分はオリジナルのソースを確認せず、ブコメがJKローリングはトランス差別主義者だ!と言っているから、きっとそうなんだろうなぐらいに考えていた。
例のトランスジェンダー焚書騒動があったとき、JKローリングはいったいどんな発言をしていたのか彼女の過去ツイートを確認したが、日本の一部の右翼系TERFのようなトランスジェンダーに対する差別発言と思われるものは一切なかった。
この動画の中で取り上げられているようなツイートの主張が中心だった。
だとすると、はてぶでもよく見るJKローリングを差別主義者だと決めつけるこうしたコメントは現代の魔女狩りに他ならない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4752070563733598848/comment/el-condor
保守的で教育レベルが低い大衆はQアノンなどの陰謀論にはまるが、サヨクは知性レベルが高いので騙されにくいなんて思っていた自分が間抜けだったと気が付いた。
今、サヨクは「宗教右翼(統一教会)がトランス差別を扇動している」という主張をしているが、トランスジェンダリズムに批判的なツイートをしているアカウントを拾っていくと、確かにネトウヨも含まれるが、普通の女(フェミニスト?ジェンダークリティカル?)も多い。
一次資料に出来るだけあたって、クリティカルシンキングで考える。
昨日、氷河期世代やゆとり世代の中年層の若い時になぜ「新自由主義」が流行ったのかってトピックが上がってたけど
例えば、よくあったのが「中年の働かないおじさんをリストラして若い氷河期世代の奴を雇え」ってやつ
労働者の権利を蔑ろにしろみたいな言説がマジで氷河期世代やゆとり世代の中で流行ってたわ
中年の働かないおじさんやおばさんにも家族がいて人生があることもわからずに、解雇規制を緩和しろみたいな言説が
むっっっっっっっっっちゃ多かったわ
伝統的な日本型雇用では新卒で失敗したらそのまま底辺なのは仕方ないんだから、
(もちろん底辺でも努力して大企業や行政の下請けの社長ポジションになるってルートもあるが)
我慢して生きるしかないのに日本型雇用を壊そうとする意見が多かったんだわ
(昨日の投稿は放送大学の坂井先生のテキストから持って来たようだけど、
そういえば放送大学の貧困論のテキストですら、当時はそういった日本型雇用がおかしいって意見があったわ)
実際、当時の世論調査でも、中年層をリストラして若年世代に雇用を創出するって政策の是非について世代別に聞かれたこともあったけど
Z世代や後世の人に伝えておくけど、氷河期世代やゆとり世代の間で新自由主義言説が流行ったってのは事実だから覚えておいてくれ
かなり前、ここで何か書き込んだとき「脳死」って言葉を使ったんだよね
そしたら「脳死」というスラングの使用がいかに罪深くむごいか、植物状態の家族を持つ人間の気持ちを想像しろ、と訴えかけた上で私の人格を全否定する内容のコメントがついてさ
そこからどんどんそのコメントに賛同して私を叩くコメントが雪だるま式に増えて行って、罵詈雑言もどんどんひどくなっていったんだよね
コメントのおかげで「脳死」って言葉の不謹慎さに気づけて反省できたのは良かったよ、良かったけどさ、
その後お前ら他のトピックで何食わぬ顔で「脳死」「脳死」言ってるんだもんな、それで私のときみたいなバッシングは誰もしないの
シロクマ先生のコラムを読んで共感したことと、違和感を感じたこと。結論からいうとタイトルの通りで、自分キラキラは推し活に食われた概念だと思う。今や推し活を稼働させる内蔵のひとつ。
もとのコラムはこれ。
https://blog.tinect.jp/?p=85980
◯ 承認欲求の昔話
このトピックは、さすがに"何者かになりたい"をずっと追っている先生だけあって腑に落ちる。
自分をキラキラと演出すると、それに対して大量の承認が得られて、心理的に満たされる。このキラキラを身に纏うため、2010年代では皆が色んな方法を片っ端から実行した。
この実行フェーズが"自分キラキラ"ブームのピークだったのだと思う。それは華やかなナイトプールかもしれないし、神秘的な絶景の写真かもしれない。プロも顔負けなスーパープレイもあれば、美麗なイラスト制作も人気は高い。コラム内ではインスタグラムにだけ焦点が当たっているが、実際はYouTubeやTwitterも同様で、ツルハシは飛ぶように売れていた。
◯ 推し活が台頭するまで
いろんな方向にキラキラする人が生まれて、「みんな自分の好きな事してイイね!!」みたいな理想郷(あるいはインプレッションのドル箱)をSNS各社は維持したかっただろうけど、実際はそんな貴族は一握りなので虚構と金欠に疲弊した人から脱落していき、祭りは終わった。自分キラキラに疲れた社会は自分の好きなものを輝かせる、オタク的感性を受け入れ始めている。……ここまでが先生の見解だと思っている。普通に違ってたらごめんなさい。
ここで冒頭の話に戻る。
個人的な感覚では、推し活が台頭する理由については頷けるも、「自分が好きなものを輝かせる」オタク的感性とやらはそこまで浸透していないのでは?という違和感がある。確かにコミュニティの一部としては存在するが、それよりも自分をキラキラさせるための手段として推し活は利用されているのではないか。
元祖の自分キラキラブームに無くて推し活にあるもの、それは"絶対的推し"による恩恵じゃないかと思う。それは"推しの為なら"で無限に湧くバイタリティと、推しが世界から引っ張ってくる無数のオーディエンス。そして、バイタリティのあるオーディエンスで構成されるコミュニティ。
まず、"絶対的推し"を応援する活動は、そのすべてがコミュニティから称賛される。ハッキリ言うと承認を得るまでのパフォーマンスが良い。自分が1からフォロワーをこつこつ増やす必要も無ければ、派手な生活を演出する必要もない。お役立ち情報を発信しなくてもいい。ただ推しを応援することが称賛され、自分の内心からも他者からも承認され、心が満たされる。
さらにもっと承認されたかったら、グッズを揃えて祭壇を作ってもいいし、二次創作に励んでもいい。それが推しを盛り上げることにも直結する。推しのライブ情報をまとめると沢山のファンにも感謝される。外部の人に布教して、もっと推しの存在が広まったら万々歳。世界で有名人にはなれなくても、界隈の有名人になるのは容易い。これらのどこかで、自分キラキラはいくらでも見出すことができる。推しへの貢献は自分の名上げとなり、それなりのキラキラになる。
少し話が逸れるが、宇佐見りんの推し、燃ゆで描かれている主人公の推し活はそのあたりの解像度がかなり高い。本人は「各自がそれなりの思惑で推しを推しているし、そこに優劣はない」みたいなスタンスをしているが、ときおり自分キラキラが顔を出す。推しの成りすまし投稿を見破ったファンとして界隈では一目置かれているらしい(自称)とか、解釈ブログを更新するとコメントをくれるオーディエンスが居るけど、ちょっと返信ダルいな……wみたいな顔する。端からみたら「いや、しょーもな」と言いたくなるような小ささかもしれないけど、彼女の心はそれで満たされている。(ちなみに、作中の推しは暴力沙汰や騒動で希求力を失っていく。コミュニティも萎んでいく。)
全てをまとめると、推し活とは"絶対的推し"が寡占できるオーディエンスの可処分◯◯(時間|精神|所得)をコミュニティ内で山分けし、承認を行き渡らせるエコシステムの総称である。
だから推しが絶対的である限り、衰退することはない。推しを推すという大義名分で承認欲求を綺麗に隠しつつも、ちゃっかりコミュニティ内で承認を得られる仕組み、これが推し活の発明ではないかと思う。この原理のもと、自分の承認欲は必ず満たされるはずである。そして、オタク的な利他愛の感情はそこには無い……というのが自身の感触である。
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……そう考えると、「自分の好きなものを輝かせたい」というオタクらしい感性とは、一体何なのか。正直なところ、これは綺麗事に留まり、少数派の域を出ないのではないかと思う。n=1。
(先生が思ってる以上に、みんな自分のことが可愛いし、実は自分を見てほしいと腹の底では思っているはずですよ。)
あとは、推し活が広まると、推される側の席もある程度増えるというのは想像が容易い。自分キラキラ系の一部は過酷な競争を超えた後にこの席に座ったのではないかと思われる。自分キラキラブームの勝者と敗者は、推し活でタッグを組んでいるのかもしれない。この話はもっと詳しい人が居そうだから誰か書いてください。
なんかポリシーでもあるんだろうか
ルパン三世シリーズを熱心に見ているわけじゃないからなんともわからんな
自分が知らないだけで実は普通に現金もターゲットになっているというのはありえる
調べましょうね
PART1『7番目の橋が落ちるとき』で現金輸送車襲撃をしてはいるが……あらすじを見る限りちょっと違うな
PART2『マイアミ銀行襲撃記念日』、このエピソードでは現金がターゲットかな?
これを多いとみるか少ないとみるか
思ったよりはあった、というのが感想にはなるか
作劇するうえで現金とか金塊は物語を駆動させる力が弱いのかもしれんな
こういうのアニヲタwikiに独自研究がある可能性結構高いんよな
ポリシーの話をするなら盗み行為そのものを楽しんでいるって話か
特にトラブルも起きず普通に現金を盗むことに頻繁に成功しているが、それは日常の事なのでアニメのエピソードとして描写されていない……という可能性もあるか
まあ流石にこじつけ感もある
ほんとは全部のシリーズ見るのが一番確実なんだけど
あー、作中でルパン自身がなんか言及してたりせんかな こればっかりは本編見ないとわからん
日記です
かぐや姫が出した難題は当時どの程度の難題だったのだろう
気になる
「100%無理だ!」なのか
「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」なのか
21世紀の日本に生きる私から見ると「竜の首の珠」なんてそもそも竜が現実には存在しない空想上の生物と知っているから「100%無理だ!」という気分になってしまう
現代版竹取物語を考える時、同程度の難題はなんだろうとぼんやり考える
とりあえず『竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』をkindleで読む
ふむふむ、要求されたモノは実在するという体で5人の求婚者は動いているように見える
かぐや姫もそもそも存在しない架空のモノを要求しているんじゃなく伝聞で伝え聞く遠き異国の激レア珍品を要求したって感じに見えるか
じゃあ竹取物語が成立した9~10世紀ごろの読者の感覚としては「いや、実現可能性は0%じゃないけどさ……現実的に考えて無理だ」くらいなのだろうな……
ということは竹取物語が読まれる時代によって、読者が難題をどの程度の難易度と受け取ったかに差があるということになる?
以前「日本人は竜という生物の実在をいつ頃の時代まで信じていた?」というトピックについて調べた
その際には「少なくとも明治時代くらいまでは実在を信じる人がそこそこいたはず」という調査結果が得られた
もちろんこれは割合の話で、大正時代くらいでも竜巻を見て「竜が出た」という人はいたらしいし、江戸時代でも竜の実在を信じない人はもちろんいたようだが
なるほど、私が今気になっているのは「竹取物語がファンタジーとして読まれ始めたのはいつの時代からになる?」という問いか
いや、この問いの書き方はよくない……ファンタジーの定義が面倒くさい……
「5つの難題で要求されたアイテムは実在しない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
「月に天人はいない、と読者が認識したのはいつの時代からになる?」
という問いにしよう
まあ、だいたいこういうのは西洋の知識が入ってきて須弥山世界観が揺らいだタイミングと予想できるけれど
納得のためには調べる必要がある、推測では納得できない
そういえば以前「昔の人は月にウサギがいるとマジに信じていたのかどうか」というトピックについて調べたが、まだ納得できる調査結果を得られていない
改めて調べたい欲求が復活してきた
仏教とか神仙思想とかについて調べる必要が出てきたのだが前提知識があまりに不足していて調査が行き詰ったんだった
しかし竹取物語をあらためて読んでみるがしっかり面白い物語だな……
今昔物語集とか先に読んで浅く広く昔の人々の世界認識を知る方が近道かもしれん
こういう調べものは楽しくやらなきゃね
これは日記です
言うこと真面目に受け取っていい人間はしょうもないスクール運営や情報商材はしないので、
24.4.5
ある特定のトピックについての相談相手という名の鏡(自問自答用の装置)、それが彼女にとっての俺ということなのだろう。それ自体は望むところというか、光栄であり、実際に鏡として機能(しかし本当に誰にでもできる機能だ)している時はシンプルに嬉しい。この問題についての不安がなくなれば必要なくなるという未来についても、イコール彼女にとっての幸せなのだろうから受け入れられる(と、今は言ってるだけかもしれない。その時は惨めな気持ちになるのかも)。一番悲しいというか情けないのは、俺が俺としての言葉をひとつも吐けないことだ。強く信念のある言葉や、成功体験に基づいた説得力に満ちた言葉、彼女の心を適切に刺すピントの合った言葉、そんなものは俺の中にない。そしてそれを自覚するということはイコール俺のこれまでの人生の薄っぺらさを再確認することである。そしてまたそこに、自分と彼女との差をしっかりと見つめさせられるのだ。俺はやはり彼女に憧れていて、しかしその思いを表現する仕草は、口を開けっ放しでテレビのヒーローを眺める幼稚園児のように稚拙かつ受動的で、前向きという言葉がインストールされていない俺にとって憧れは自分の人生への拍車や鞭になることはない。そりゃせいぜいよく磨いて彼女が最も美しく映る鏡を全うするしかないよなとひとりごちる、その俺を映す鏡はどこにもない
なにかに言及する時、これが総意だなんて一言も言ってないし思ってもないし分かりやすく客観的に事象のみを説明してあげますなんて一言も言ってないし
俺が観測してる範囲ではこう映ったし俺はこう思っているよ、というのを書いただけなのに
なんでか勝手に総意や説明係扱いされてるしヤフコメのコメント欄みたいな使われ方をしている(よくある)
スレッドを立てるとかトピックスを立てるとかそういう形式じゃないじゃんはてなって
そりゃ賛同してくれる人が多かったら嬉しいけど別に絶対にこうだ!ってつもりはないから
こっちの言ってることが違うと言うなら詳しい人の補足説明は歓迎してるし色んな人の熱い意見も聞いてみたいから言ってくれたらいいのに
「あのさあ……w」くらいでごまかして終わっちゃう人が多いんだよな
何で?書けばいいじゃん、別によっぽどの誹謗中傷じゃない限り訴訟とかされないんだからさ、もしムカついてたとしても表現を調整すればいいだけ
……もしかして自分の意見を長めの文章で言語化するのがとても億劫だったり苦手だったりするんだろうか?
K2でもそういう話がちょっとあったけど片目の視力が終わってるせいで物を立体的にとらえたり遠近感を脳内処理するのが下手で
絵が全然描けないから絵師様が「他人の描く絵が気に入らないなら自分で描けば?w」とか言ってるとちょっとムッとするけどそういうこと言う奴の気持ちがちょっと分かったかも
「そりゃ物書きで食って行ったりするような上位者になるのは難しいかもしれないけど一般人の趣味の範囲内くらいなら超簡単に誰でもできるんだしやればいいのに、こんな自分でもできてるんだから」というのがあるんだろうな
絵を描くのが好きな人が上手くなるために練習して下手でも投稿しているように
キーボードカチャカチャするのが好きで文章は上手いに越したことはないから何回もこねくり回して拙くても投稿する
同じだ!
それが分かったところでなんだって話だけどさ
絵みたいに個人の性癖だよねとか練習中なんだねとかいう目で見てくれるわけでもなし
文章って思想と直結してるからたまに分かりやすいとか面白いとか言われることもあるけどだいたいは異常者扱いされるんで
noteとかで投稿始めても個人攻撃されるだけで何の得にもならないわけだろ