はてなキーワード: 審美眼とは
実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。
あれは違いを確かめる作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。
区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からのお墨付きにはなるだろうけど。
仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が
「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」
「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」
と言ったときに、イイものを定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易な二項対立は良くない。
もっと言えば、そもそも本当にその感想は本心から来てるのか?って所もある。
人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。
まあ好き嫌いごときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ちの確認の精度にも疑問が残る。
まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推がデカいのかもしれない。
仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイものを定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感の問題になってくる気がする。
SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的な分析」的な記事が流れてきたりする。
あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点が提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。
でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。
仮に辛いものは美味しいという定義が存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的な評価として成立する。
いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。
じゃあ根本的な話として、定義そのものの妥当性はどこにあんの?
美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。
美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。
ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。
個人の好き嫌いとは区別して扱われがちなイイものの定義も、共感の問題にしか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌いで同調する内輪の問題でしかなくねえか?って思う。
別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイものは論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。
いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。
まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義の問題でしかないと思ってるし。
イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定の物質が特定の感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイものを定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。
まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義は必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的な定義を重ねないといけないかもしれない。
AIの登場によって絵師がその仕事を諦めざるをえなくなるとしたら、
こういう発想が出てくる事自体おこがましいことなんだってことに気付いて欲しい
反AIが嫌われるのは「テクノロジーの発達によって属人的な技術が普遍化するのは喜ばしいことだ」っていう人類全体の進歩の大原則に歯向かっているからなんだよ
テクノロジーの発達によって職人的な仕事がなくなっていくってのは当たり前のことだし、それ自体は非常に良いことなんだってことをまずはわかってくれ
画材の専門店なんてのが主要駅の近くには必ずあって今で言う絵師に相当する人間はAmazonなんてあるわけないからわざわざそこに赴いて自分の技術に必要な商品を買っていた
ところがPCのソフトウェアの発達とペンタブの登場によってイラストに関する画材市場は壊滅的な打撃を受けた
パソコンならいちいちペンを持ち替える手間もないし書き損じたときに0からやり直す必要もないからどっちが便利かなんて明らかだったんだよね
ソフトウェアの製作者はユーザーの声を聞きながら「どうやったらあの画材の書き味をパソコン上で再現できるか」ってことに腐心して(反AIの言葉を借りるなら無断学習して)研究開発しまくった
その結果、結局今となっては画材屋なんて軒並み潰れ果てたし画材の製造会社だって何社も潰れまくっている
あるいは印刷分野に目を向けてもいいよ
今では考えられないことだけどadobeがここまで普及する前は印刷屋さんにDTPを行う専門の技術者が必ず常駐して高給で働いていて、同人を描いている人はみんなそこに依頼していたんだよね
絵描きの全員が印刷に適したデータを持ってこれるわけではないから、紙に書いた生原稿をスキャンしてちゃんと形式を整えて装丁して一冊の本として出す
当然いまはその程度の作業なんてみんな家で簡単にできるようになったからDTPの職人の働き口はめちゃくちゃ狭くなってしまった
絵師の使っているソフトウェアなりペンタブなりは全部そうやって廃業していったDTP職人なり画材の製造職人なり画材の卸問屋なりの屍の上に成り立っている技術なわけ
で、反AIはデジタル画材の普及に際して「創作市場そのものを縮めていく効果がある」なんて声を上げたりしたわけ?
してないよね?
自分たちだけが特別扱いされるべきだって考え方を恥ずかしげもなく披露しているその傲慢さは本当にどうにかしたほうがいいと思うよ
そしてまともな社会人はみんなこの手の技術革新に対してはちゃんと柔軟に対応しているんだよね
自分の携わっている産業が誰かの廃業の上に成り立っていることを自覚して、あるいは自分もいつ廃業するかわからないリスクを抱えながらキャリアプランを練っているわけ
例えばWEBライターなんかはあと数年で滅びるだろうけど、いまWEBライターやっている人もその経験を活かしてWEBサイトの分析等を行うマーケター、サイト運営そのものを担うWEBディレクターなんかに転職して、あるいはもっと趣味的で属人的な文筆業に鞍替えしたりして生き残ろうとしているわけ
仮に下手くそな絵を描いていたのだとしてもPhotoshopとか画像編集系のソフトの扱いに長けているんでしょ?
AIの登場によってむしろAIが生成した画像をレタッチしたり修正したりする仕事は需要が爆増するだろうし、あるいはちゃんとした審美眼を持っているデザイナーだって重宝されるに違いないわけじゃん
いざ顔さらしたり部屋晒したりすると、普通に美形だったり部屋もおしゃれだったり
顔晒さず首から下までだったとしても普通にスタイルよかったり着ているものも小綺麗だったり高級だったり
「終ってる」人がまっっっっっっっっっっっっっっっっっっったくいない
恵まれた環境で何不自由なく育てられて、生活に困ることなんかいままでもこれからもないのはあたりまえで
それ以上におよそ小市民には簡単に手にできないものに囲まれて、センスや審美眼、美意識みたいな無形の、心の財産も相続してきた者たち
なんでこんな奴らを持て囃さなきゃならんのだ
ふざけんじゃねぇよ
今すぐ道楽でやってる奴ら消えてくれ
一時期減ってた気がするんですけど最近また増えてきましたね。
批評家気取りのド素人がブログで調子こいたレビューかましてる光景。
的外れの駄文を書くにしたってキャラクターに対しての勝手なラブレターならまだしも、なんも分かってないままに創作論を振りかざすのは見てられないから辞めてくれよ。
「俺には合わなかった」は全然いいんだけど、「俺の考える創作論においてこれは悪手」ってなんの技術も経験もない奴がよーほざけるもんやな。
こういう輩の跋扈はほんま目に余るわ。
感想文でチヤホヤされたいならAIで絵でも描いてればいいものを、なんでか自分の審美眼を披露したがるんですよね。
誰だって気づいてるようなことに対して「これ気づきました?凄くないですか?」みたいに言ってるのほんま恥ずかしい。
ラーメン屋でオッサンが連れの若い子に「これ柚子胡椒効かせてるよね。でも俺苦手なんだよな~~」みたいにイキってて、そんでその人達出ていってから「あれ?店長、これほんとうに柚子胡椒」 「全然違うよ。まあわざわざ指摘するようなことじゃなかったし」みたいな事になっちゃってるときの共感性羞恥だよね。
いやマジでさ、「俺の解釈ではこういう風に映ったんだ!」で二次創作イラストTwitterに載せるんだったら「こう見えた人もいるのか~~~。ズレってけど面白いかもね」って思えたりもするが、全然物が見えてない癖に「俺は真実を見てしまいましたよ」みたいに言葉で語られてもそれはマジで痛々しいだけなのでいい加減辞めてくれ~~~
なんだろうね。あのアホどもに審美眼がないという点は正しいと思うけど、反AI感情への結びつけ方が強引だなと思う。
ai生成の絵はどれもこれもピントがずれた写真みたいな違和感あるから区別つくってのも分かるんだけど。(違和感は特にコンテキスト、時間の流れとオブジェクトの関係の変化のある絵だと顕著)
機械翻訳の例もなんかピンと来ないし、大体煽りが臭すぎる。文章の才能ないよ君
それにマニュアル系の文章なら人間翻訳通すまでも無いでしょ、最近のは特に。ツッコミどころ多い
この文章は実感の説明まではそれなりに妥当だけど、後半2部のたとえと推論の出来が壊滅的で評価を悪くしている。
終わり悪けりゃすべてだめ。
まあ、"アート"ならなんとなくAI産と人間製の区別ができるという実験結果もあるし、そう悲観するものではないと自分は思ってるよ。
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
昭和風のコスプレをしてることで有名な若い女性が「男性専用車両のない平等な昭和の電車に乗りたい」と取れる趣旨の発言をしたことにより中年フェミニストが大激怒している
昭和は痴漢が多いから危ないよ、という助言にとどめることなく彼女が男性から乱暴されて「反省」するような展開を強く望むような酷い発言も多く見られる
若くて可愛くて男性からちやほやされているから嫉妬で叩いているのだろうと言われているがそれはちょっと違って
「痴漢に怯えることなく楽しそうに電車に乗ろうとしているのがムカつく」、これだと思う
きっと激怒している中年女性は過去に痴漢に遭ったりモテていた時代にチャラ男と付き合って酷い別れ方をしたり現在は夫と不仲だったりいろいろと痛い目を見てきているからこそ男性と密着する電車を憎むようになったのだろう
だから電車への恐怖を持たない、辛い過去を持っていないであろう彼女の幸福に嫉妬しているんだと思う
夜職アカウントがお嬢様ずんだもんの子を芋女だなんだと馬鹿にしまくった件とも似通っている
ハイブラで着飾るためにはハイブラに詳しくなければならないのでハイブラの良し悪しを学んで審美眼を身に付けなければならない
ハイブラで着飾るためには多額の金銭が必要なのでおじさんのちんぽをしゃぶるという肉体的苦痛や精神的苦痛を味わわなければならない
より多くのおじさんのちんぽをしゃぶるためには指名されるためのコミュ力を磨いたり美容について学び顔面を切り刻んだり男モテするための正解の顔に近づく努力をしなければならない
顔面刻みにも多額の金銭が必要なのでより多くのちんぽしゃぶりが要求される
私はこんなにも苦労と努力を重ねているのにあいつは何の苦労も努力もせず安物の服で楽しそうに往来を歩いているのがムカつく、ということだ
方向性が間違っている努力や若い世代からすれば知らんがなな苦労を下の世代に必死にアピールしたり押し付けたりしようとする
苦労していないように見えたり楽しそうにしているのは昭和のめちゃくちゃな時代を経験していない若い子だったり可愛くて周りに愛されている子であることが多いから結果的に若さやモテに嫉妬しているように見えるが
このような女性が救われて他者を攻撃しなくなるには何が必要なのだろうか
理解あるイケメンに無料で「あなたはよく頑張ってるよ」と労ってもらえれば成仏するんじゃないだろうかと思うが
残念ながらそんな日は訪れないのである
某メンタリストが、まるで「力のある人」しか善を為せないかのようなことを言っていました。
例えば結婚した夫婦は家事を手伝い合うことで負担を分担します。これは一つの善です。
あるいは落とし物をした人がいれば、警察などに届けることができます。これも善です。
確かに、金をたくさん持った人がプロの慈善団体にたくさん寄付すればそれは立派な善をなせるかもしれません。
しかしそのこと自体を、庶民が行う身近な善を無価値にする理由にはなりません。
某メンタリストも、箴言の言うところの「舌の罪」を犯していると言えますし、ホームレスを侮辱するようなことを言っていたのが印象的です。
私はいっときのプライドのために吐く愚者の言葉というのは、本当に邪悪だと思っています。
なぜ「力のある人しか善を成し得ない」などと言うのでしょうか。
それは自身を「力ある者」と見做し、「弱者男性」などを見下すといった傲慢が存在しているかもしれません。
確かに、募金先を決めるといったシナリオでは、誰に募金すべきかを決める審美眼が必要になるでしょう。
そのことを指して「力ある人を見極めよ」と言っているのであれば、それは立派なことかもしれません。
しかし「力ある人のみが善を成し得る」というのは全く間違っています。
私も舌の罪を犯してしまいがちですが、「ソーシャルメディアでの発言を慎む」というのも、一つの善ではないでしょうか。
その場のプライドで他者を見下し、いい気分になるのは賢さではありません。傲慢です。
文意に沿ったトラバの必要はないが(別にうんち💩とか返して良い)、
赤坂あたりで億(近く)しなかったら逆になんかあるぞ
土地代やで
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常識的に考えればクソ高い土地代に見合ったそれなりの内装の上物にしてると思うんだよね。 貧相なキッチンとか言ってるヤツの審美眼が無いだけだと思う
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渋谷にも販売当時は億は確実にしただろう地獄のマンションあるよ
内装のグレードは今どきならマンスリーでもそこそこ嫌がられるレベルで
窓から見える景色も終わってて『成功者が手に入れるのがこれかぁ』って思ったもんよ
取り壊されたり、フルリノベされてなきゃ、ホテルとして使われてると思う
関連増田:https://anond.hatelabo.jp/20230627184703#
1億程度じゃ何も高級じゃないじゃん!の感想になると思うで
高級物件だなぁってなる物件は賃貸に出した時に100万円くらいになるヤツ
それ以下だと立地の値段だけで内装しょぼかったりクソ狭かったりで、
ぜんぜんレジデンスじゃないぞ