はてなキーワード: かぶとは
街コンに参加する度、僕は大体の流れを把握しているつもりだ。
それから互いのプロフィールを並べて、小さなトークで場をつなぐ。
仕事の話、趣味の話、休日の過ごし方──その瞬間はいつも、ハイボールの薄いレモン風味が口に広がっていくような、妙に頼りない期待感が漂う。
僕の前にはあくまで配られたカードしかない。取り替えもできないし、ジョーカーなんかも一枚も入っていない、地味なカードばかりの手札だ。
そもそも、僕は自分が特別だとは思っていない。きっと、どこにでもいる30代の男だ。特筆すべき魅力もなければ、さして豊かな資産もない。
仕事はそこそこ、趣味は筋トレと読書と少しの料理。顔も普通だし、ファッションセンスに関しても自信はない。
どこぞのアンケートで「どんな男性が理想ですか?」なんて聞かれたら、まず選ばれないタイプだろう。
そんなこと、本人が一番わかっている。
でも、スヌーピーは言うんだ。「配られたカードで勝負するしかないんだ」と。
街コンが終わりに近づくと、たいてい僕は一人でカフェに寄り道することにしている。
ラテを注文して、たっぷりミルクを注ぎ込む。その間、心の中のスヌーピーが小声でまた囁く。
その言葉に小さく頷き、僕は次のカードがどこかで待っていることを想像する。
スヌーピーはそういう時にやけに静かだ。
「どうだ?次はどうするんだ?」とでも言いたげな沈黙が続く。
僕の頭の中で、彼のシルエットがぼんやりと浮かぶ。スヌーピーの囁きがなくても、僕にはわかっている。
スタートレック(現在の正式名はスター・トレック)は50年の歴史があるうえに、1話完結のエピソードが多い。シリーズの入門ガイドの意味もこめてやってみた。
はてな界隈でスタートレック全話追っかけてる人は少ないだろうし、シリアスなファンははてななんて見てないだろうから、自分の価値基準で好き勝手書かせてもらう。
すごく偏ってると思う人もいるだろう。私もそう思う。海外のこの手のランキングでは常連のエピソードも入ってない。思うところがあれば、ぜひ書いてほしい。
なお、全938話は2024年9月末時点での話で、10月から『ローワー・デッキ』の新シーズンが始まったので話数はまた増えている。
スタートレックがSFドラマとして最も輝きを放つのは、銀河に存在する人間以外の存在を通じて、人間とは何かを描くときだ。それはあらゆるSF作品の共通の魅力でもあるが。
本作は人間に造られたアンドロイド、データが、自らの子孫を造ろうとする物語。AIの子供との「ファーストコンタクト」を通じて、子供を持つということが、個人にとって、種にとってどういうことなのかが描かれる。
本作には、派手なアクションシーンもSFXもない。しかし、その物語は喜びとユーモア、発見に満ち溢れ、重い悲劇として幕を閉じる。それは家族を描くキャラクター劇であり、SFであり、力強い人間ドラマだ。
スタートレック立ち上げ最初の年に、スタートレックらしさというものを決定づけた重要な一篇。怪生物の住む惑星に不時着したクルーが脱出するために取る行動を描く。
スタートレックの原型は西部劇(幌馬車劇)と言われるが、これはまさにインディアンに囲まれた幌馬車の設定を宇宙にしたもの。
しかしポイントは、主役がミスタースポックであるという点。感情がなく論理で動くヴァルカン人(と地球人のダブル)である彼は、助かるために論理に従うか、あるいは……。
本作は異星人の視点で人間の感情と理性の葛藤を描き、このモチーフは以降繰り返されることとなる。また作品にシャトルのセットを導入し、物語の舞台を増やした一作でもある。
宇宙大作戦の打ち切り後、少々品質を落としたアニメで継続となった本シリーズだが、名作はいくつかあった。しかし本エピソードはちょっと違う視点で選出している。
これ、実はラリィ・ニーヴンというSF小説家が書いた『ノウン・スペース』というSF小説群のにある短編の一つを、そのまんま映像化しているのだ。出てくる異星人も借りてきたもの。
ニーヴンを知る人も少なくなっただろうが、アシモフやハインラインの後の世代で、ハードな科学設定とエンタメとしての面白さを融合した作品を書き、SF界の潮流を作った人と言える。
本作は、スタートレックの世界観が他作品をまるごと呑み込んでも成立しうる、緩く、包容力のあるものだと示した。ローワーデッキのハチャメチャコメディスタイルが可能になったのも、ある意味この作品のおかげ。
宇宙大作戦にはTV史上初めて白人と黒人とのキスシーンを描いた『キロナイドの魔力』という記念碑的作品があるが、人種問題を深く描いた作品というと、こちらを推したい。
黒人の天才科学者が自らの知能と感情を転写し開発した自動航行AI。それに船を委ね、演習に参加したエンタープライズだが、AIは次第に狂いだす。
本作のAIは自らの判断に絶対の自信を持ち、誤りを認めようとしない。博士もAIを擁護し、次第に我を失っていく……と言うプロット。
AIの恐怖を描いた先進性はともかく、本作が人種問題の作品であることは、日本に生きる我々には少々理解が難しい。
この物語が暗喩するのは、飛び抜けた能力で社会から評価を受け、地位を得たマイノリティの苦しみだ。常に完璧を求められ、ひとつの失敗で社会から振り落とされてしまう、隠れた差別を描いている。
この複雑な問題を1968年のTVドラマに持ち込んだことこそ、評価されるべきだと思う。
「タイムループもの」といえば誰もが1作ぐらい頭に浮かぶだろう。映画『恋はデ・ジャ・ヴ』など様々な傑作がある。
しかし、それらの作品の多くは、「なぜ」タイムループが起きるのかを説明しない。なぜか寝て起きるとループしてたり、なぜか恋が成就するとループを抜けたり……。
スタトレ世界でタイムループを描いた本作が優れているのは、その「なぜ」が明確に定義されており、それを解決することが物語の目的になっている点だ。
突如として起こる反物質爆発で時空ループが生成されると、キャラ達は過去に戻される(都合よく前のループの記憶を保持したりしない)。
そこから毎回、艦のクルーたちは僅かな違和感から少しずつ状況を理解し、「なぜ」かを探り、回避するための答えに近づいていく。
ご都合主義的な「ふしぎな現象」はなく、戦うべき悪役もいない。ハードSF的な状況で、知力に頼ってロジカルに物語を進めていく。しかしこれが最高に面白いのだ!
舞台は艦のセットのみ、登場人物もレギュラーのみというミニマルな作品だが、スタートレックのSF性、センス・オブ・ワンダーを代表する1作だと思う。
スタートレックのフランチャイズ化は、TNGによるリバイバルを経て実質このDS9から始まった。いままでと違ったスタトレを作ろうという意欲に富んでおり、非常に作家性の強いシリーズだ。
未知の世界を訪れる宇宙船でなく、未知の存在が訪れる宇宙ステーションを舞台とし、全7シーズンの後半では巨大な宇宙戦争を連作として描いた。最近の『ディスカバリー』などのシリーズも、本シリーズがなければ成立しなかった。
その総決算と言うべきこのシリーズ最終話は、単体で観るとなると評価が難しいが、173話の積み重ねの末の1話としてみると、ずっしりとしたものが心に残る。
DS9はシリーズで初めて黒人俳優を主役とし、戦争犯罪や植民地主義のもたらす被害をストレートに描き、舞台となる異星の宗教と重ね合わせることで人間の信仰心をも題材にした。
更には、「これは一人の狂った黒人の観た夢なのではないか……」というメタレベルの視点すら取り入れ、多様な視点と重層的な葛藤、その先にある善とは何かを描こうとした。
シリーズに長く付き合うことでもたらさせる重い感動を体験してほしい。
ヴォイジャーはハードSF的な物語よりも、キャラクターの成長やモラルに焦点を当てた傑作が多いが、敢えてSF的なセンス・オブ・ワンダーに満ちた本作を推す。
ネタバレしてしまうが、これは「恐竜人類」の物語であり、「ガリレオ・ガリレイ」の物語だ。
遥か昔に宇宙に出て進化したある種の恐竜と、銀河の反対で出会ってしまった宇宙船ヴォイジャー。それを、なんと恐竜人類側の視点で描く。
故郷の星に、自分たちとは異なる知的種族がいたという事実を知った科学者の知的興奮と、その発見を社会から拒絶され、迫害される恐怖。
SFの根幹である科学そのものを主題にし、人間と科学の関係性に向き合った、ひとつの到達点。深い感動をもたらしてくれる傑作だと思う。
『スタートレック:エンタープライズ』以降停止したTVシリーズを、配信に適した連続劇フォーマットで復活させ、『ピカード』などのシリーズの端緒になった『ディスカバリー』の最終話。
連続劇で見せるスタトレにはまだ課題が多く、特にディスカバリーのシーズン4,5、ピカードのシーズン2などは間延びして物語の行先がわかりづらいという批判があった。
しかし、それらの連続劇も、最終話に来ると、そこまで迷走していたテーマが急にシャンと鮮明になり、ああ、なるほどこういうことだったのか、という感動をもたらす。
特に本エピソードはディスカバリーのグランドフィナーレとなるだけあって、描かれるものも壮大だ。銀河の知的生命の発祥の謎を求めて行われるトレック(旅)である。
しかしその結末、謎は解明されることはない。その代わりに提示されるのは、「真実を求めるトレック」とは何なのか、という命題だ。
スター・ウォーズやマーヴェル作品、ガンダムのような複数作品がひとつの歴史を形作るシリーズの楽しみは、クロスオーバー、そして「設定の穴が埋まる瞬間」だろう。
子供向けのCGIアニメシリーズとして作られた最新作であるプロディジーは、この設定の穴埋めを、他のどんな作品よりも見事にやって見せた。
新スタートレック、ヴォイジャー、ディスカバリー、ピカードなどの実写作品の設定を少しずつ掬い上げ、時に大胆にプロットに取り込んで、独立して楽しめる作品になっている。
その頂点がこのエピソードだ。シリーズを通じてのマクガフィンであったヴォイジャーのキャラクター、チャコテイの姿が見えた時は、その絵だけで感涙してしまった。
実にオタク的な楽しみだが、フランチャイズ作品に長く付き合ってきたものだけが味わえる、究極の悦楽がここにある。
プロディジーの日本語版は、2024年10月時点では製作されていない。英語版だけならNetflixで子アカウントを作り、基本言語を「English」」に設定することで観られる。
はっきり言ってシナリオの全体的な完成度は高いとは言えない。その質についても、表現手法についても注文の付く作品である。しかしどうしても外すことができない一篇がこれ。
1960年代、宇宙大作戦で人種や性別による差別のない理想世界を描いたスタートレックは、1990年代になりその理想のほころびを正直に描くように変化した。
本作で暗喩されるのは、性的マイノリティの直面する差別であり、同時に女性の権利でもある。
物語では、両性具有の種族の星に生まれた「女性」が、女性であると言うだけで罪とされ、矯正を施されようとする。
それは90年代に入るまで見過ごされてきた同性愛者への差別と、「治療」という名の暴力の告発である。
矯正の場へと連れていかれる彼女が最後に、法廷の場で叫ぶ。「私は女だ!」と。
自らの性を自らの物として誇れない、自由に語ることもできない、あらゆる属性の、抑圧された人々の叫びが、そこに込められている。
新スタートレックの日本語吹き替えは名優揃いで品質が高いが、これだけは英語版で観てほしい。その叫びは、魂の演技だ。
今回入れていないランキング定番としては、タイムトラベルの古典的傑作『危険な過去への旅』(TOS)や、エミー賞にノミネートされた世界でもっとも儚いロケットの打ち上げシーンが見られる傑作『超時空惑星カターン』(TNG)がある。
SFらしさが感じられるエピソード中心なので、人気の高いボーグのような強大な敵との対決とか、クルー同士のファミリー劇的な人情エピソードはあまり入らなくなってしまった。
また、『エンタープライズ』(ENT)、『ローワーデッキ』(LD)、『ストレンジ・ニュー・ワールド』(SNW)の作品も入らなかったが、もちろん傑作、快作はいくつもある。
ENTはバルカン人の設定を完成させた『バルカンの夜明け』3部作、LDはアニメならではの手法で連邦、バルカン、クリンゴンの若者たちの生活を描き交錯させた『wej Duj』、SNWは過去作の設定を活かしつつ現実の21世紀の社会情勢を24世紀の世界へと繋いで見せた第1話『ストレンジ・ニュー・ワールド』や、アースラ・ル・グインの小説『オメラスから歩み去る人々』のオマージュである『苦しみの届かなぬ高さまで』を推す。
飛び込むとかそういう話じゃないよ
橋に立って、街の人にずっと手を振り続けているんだ
あ、あいつまたおる、こんなアホなことせんともっと人の役に立つことすればいいのに、だから落ちるんだよ
ずっとそんな風に思っていた
それが前回の選挙
自分はどちらかと言えば保守派で、家業も仕事も保守系から資金が回ってくるので、立民の彼より自民の候補者がいいかな、と思っていた
でも、いざ投票所に行くと、立民の彼は顔が浮かぶのに、自民の候補者は顔が浮かばない
そして落ちたら彼をまた橋に立たせることになるんだな、それはなんか可哀そうだな、って思って、名前を書く手が止まってしまった
そして開票速報で、橋の上の彼が出口調査でやや優勢も、ほぼ互角という報告がされる
お、彼優勢なんか、よかったやんと思ってしまう
俺が投票したのは彼ではないのに、だ
開票が進むと、どうやら彼は旗色が悪くなってきた
めちゃくちゃ僅差だった
あー
あ、でもそういえば比例はどうなんだろと思って調べてみると、比例候補に名前が載っていた
システムよくわかんないけど、惜敗率が高い人から選ばれるシステムらしい
おお!
よかったじゃないか
いや、橋に立って手を振るなんて、無駄で無意味で非生産的だと思うよ
でも、今回彼のことを自分がここまで気にしていたのは正直自分でも驚いた
単純接触効果というか、顔見知りの近所の人感というか、そういう気持ちがこんなに影響するんだなと
残念ながらそこまでの気持ちのあった自分ですら彼に投票しなかったわけだから、投票行動を変えるところまではいかなかったかもしれないけど、それでもああいう活動って無駄じゃないんだなと思いました。
思い出し笑いがあるように、人にはおそらく思い出し怒りや思い出し憎悪がある
発作的に過去の屈辱やトラウマ、許せなかったこと、憎悪や殺意すら抱いた怒りを思い出して、何もかもが嫌になったり原因になった者への激しい敵意が再燃する
そうなると仕事中ではモチベが下がり、プライベートでも途端にテンションが落ちる
良くないとはわかってるし思い出して勝手に苦しむのはもはやリストカットじみた自傷なんだろうが、自分を構成する要素に「恨み」や「怒り」があるから根底の自分が捨てさせてくれないのかなあと感じる
苦しいよ、もはやいろんな意味で遠くにいるアイツや、もうこの世にいなくなったソイツとか、やったことも覚えてないコイツとか、自分の怒りの原因になった連中の顔や言動が脳裏に浮かぶのは
でも俺の脳が忘れさせてくれないし、定期的に思い出させてくるんだ、忘れるなって、怒り続けろって
それはきっとワイがこの道具を一緒に使う相手がいない真性喪だからや…
・イラストパッケージの絵師が「わかる…わかるぞ…!」ってなった
・バイブの類見るたびに「ひとりでしにたい」の叔母さんが死後、オナグッズを姪っ子に発掘されてドン引きイベント思い出して買う気せんわ
・アダルトショップで前戯としてちちくりプレイする漫画描きたくて資料のためにきたんだけど、
店員さんに「一目で使い方分かるだろうが!!!」な構造のバイブを「これぇ、どうやって使うんですか〜?」プレイをしてるのを3次元で目の前に見るとエロいとかいうより「この連れの女性のマ◯コに使われるのか…(浮かぶグロい3次元性器)」で心のおちんちんがシュン…ってなった
仕方ないね
・外国人観光客多め OTAKUカップルに英語でキレ気味で注意する店員さん やっぱ都心の人は当然のようにスペックが…高い…!
荷物がかさばってると後ろ通るのも大変っていうか無理
・エロコスとかは割と女性とかカップルかちらほらいる オナホとかバイブ(ガチの方)は男性のみ
・セクシー衣装は¥15000を目安にしてクオリティがグンと上がる 布やん!じゃなくなりちょっとしたアイドル衣装みたくなる
・これからはスケベグッズ沢山使う系のエロコンテンツを見た際は「総額いくらか」想像するという新しい目線ができたゾ
ペニパンが思ったより安かった と思ったけどチンチン部分は別売りだからか!(気付き)
商魂たくましい
「夢」売っとる…
コメにバンコクのレストランでの存在しない記憶体験書いてくださった方がおり、出張と重なっていたこともあり勢いで行ってきた、ほんとに今さっき。
前に書いた増田
https://anond.hatelabo.jp/20240914232747
店を教えてくれた方
https://anond.hatelabo.jp/20241010005731
バンコクのプルンチット駅のホテルオークラにあるエレメンツ。タイの公式観光サイトでも紹介されていてあのマシュマロマンにも認められた名店だ。
まあそれなりの値段ではあるもののゴチレベルのスゴイタカイ感じではなかったため、勢いでメール予約した。ただし予約後に一部前払いしないといけなかったのでちょっとびっくり。
プルンチット駅含めてのロケーションは静かで綺麗で落ち着いた印象。まあ流行りの某駅まわりはアカン葉っぱの看板がやたらめったら増えたので余計にそう思うのかも。内装が海外とは思えないぐらいぴっちり綺麗だった……。
まずテーブルにデカい碁石みたいなのが置かれていく。碁石のはしっこには可愛らしいあひると、ケーキのミニチュアと、そして小さいタルトがのっかっている。ウエイターさんの英語が流暢すぎてよくわからないものの、あひる、ケーキ、タルトの順で食べろということだ。
緑がかったつやつやのあひるは、小さな花が散りばめられたクッキーでできた台の上に乗っている。初っ端から可食部が分からないやつがきてしまった。昔コラボカフェとかのキャラが印刷されたウエハースを発泡スチロールと思い込んで避けて残したことを思い出すものの、さすがに花は発泡スチロールよりはちゃんと胃で消化されることだろう。花ごとあひるを口に入れるとフォアグラの味とサクサクとした食感がする。シンプルに美味しくて見た目が良い枠だ。
次のケーキは、便宜上ケーキと言っているがイクラが乗っかっている。そのまま食べるとほんのり魚介のテリーヌの味で、ディルの香りがする。時間差でこぼれたイクラがはじけて味変して面白い。
最後は胡椒のかかったクリームのミニタルト。こんなの絶対おいしいよ。タルトがサクサクしてたぶんホタテみたいなクリーム、その中に強烈なうまみ、そして、シャキシャキの……これはたぶん長ネギのはずなのだが、長ネギの中でもSSRのスーパー長ネギを複数本引いて重ねてボーナスまでつけて強化でもしたかのようなLRレジェンド長ネギ+99みたいな長ネギが満を持して出てきちゃった。サクサクシャキシャキシャキシャキジャキジャキ……歯応えがよすぎるうえに後を引く。今いちばん好きな食べ物聞かれたら絶対この長ネギって言うわ。MVS(モーストバリュアブル食材)だわ。
次にパンが3種類やってきた。ウエイターさんはどれにする?と訊いてきたがイヤしんぼなので3個もらえないか聞くといいよとのこと。ツチノコの形をしたソフトフランスときめ細かいクロワッサン、あとよくわからない真っ黒なパン。同時にバターが2個出てきたが、片方はどうやらみそバターということらしい。
ツチノコフランスは初見普通に美味しいフランスパンだったが、試しにみそバターを塗ると豹変した。インチキ英語力の私にはみそバターなのかどうかすらわからないが、これは、美味いハムの味だ。おめでとう、ツチノコは生ハム原木に進化した!
クロワッサンは、純粋にクロワッサンとしか言いようのない味であるものの、これもまた不思議なクロワッサンであり、脳の中に直接うまあじと多幸感が送り込まれてくる。これは紛れもなくカロリーの味だ。数ヶ月苦楽を共にしてきたあすけんの女の血の気が引いていく。飽和脂肪酸、禁じられたそれに手を出してしまったんですかと震える声がする。その罪悪感が多幸感を倍プッシュする……罪の味ほど美味いものはないのかもしれない。
黒いパン。これは普通の良いパン味のような気もしたが、食べたことのない食感だ。ちぎったところで別にトーストされたわけではないバターロールのテクスチャなのだが、歯触りが胡麻でも練り込んだみたいにプチプチで面白い。みそバターにもよく合って美味しかった。
ブリのカルパッチョにウニのエスプーマ、ペアリングのコンブチャ。
ウニは見た目どおりストレートに美味しい。ブリを一緒に食べるとこれが複雑な味になる。わざと奏でた不協和音みたいなえぐみのノイズが入る。好きだった地元のラーメン屋のスープの、今はもう失われてしまった大好きなあのえぐみに少し重なった。切ない。
ペアリングのコンブチャを一口。コンブチャってタコピーに出てきたアレだなあ、ピーチウーロンとかアップルグリーンティーみたいなノリかなと思って軽い気持ちで頼んでみたらドギツイ酢だった。普通に果実酢。これはそういうものらしく、単純にリサーチ不足。だけどウニコンブチャブリコンブチャと繰り返し口に運んでいくと、何かが「理解って」いく。そういうことね、完全に理解したわ。
鯛のムニエルが運ばれてきた。最初は鯛とイクラだけが皿に乗っていたが、後からウエイターさんがバターソースをかけてくれた。ライブ感。
ナイフを取ろうとしたら、その場所にはペインティングナイフみたいなのが置かれている。明らかに切るには向いていないペインティングナイフでどうせぇっちゅうんやと思ったものの、鯛の皮はパリパリで身はほぐれやすくてイクラとかソースとかをすくうにはちょうど良かった。
鯛の皮はパリパリサクサクのいいしょっぱさで、普段は焼き魚の皮アンチの私でも永久に食べていたいと思うぐらい。身も柔らかくまったりとしたバターソースと上手く調和していてとても美味しい。そして主役を食うぐらいの主張をするのがソースに浮かぶイクラだ。プチプチとかじゃない。バツン、バツンぐらいの弾け方をしていて大変に良い。いつもスシローとかで食べている無抵抗なイクラとは全然違う。まあ人間にも自分のような凡人もいればオオタニサンだっているんだしそんなものなのかもしれない。凡人でも頑張ればイクラ界のオオタニサンを口にできるのである。しらんけど。
食用の鳩が映える塩竈に包まれてやってきた。塩竈をはずしながら、ウエイターさんが流暢な英語で説明してくれる。10%ぐらいしらわからんものの、鳩は骨だらけだから後でもう一度持ってくるから撮影用に持ってきたんだよということだそうだ。実際めっちゃ映える。
しばらくするとさらに調理された鳩がやってきた。盛り付けが素晴らしく綺麗だった。鳩なんて後にも先にも今しか食べないものだから、味なんて想像すらつかないのでおっかなびっくり口に入れる。お肉はレアでしっとりと柔らかく、ちょっとだけレバ刺しの感じがしてそしてほろ苦い。付け合わせの玉ねぎがこれも甘さ辛さ食感と三拍子揃っていて良いアクセントになっている。ただやはり日本人には食べ慣れない味かもしれない(し、生っぽい鳥類はどうしても怖い)……これはちょっとだけ選択肢をミスしたと思われる。情報元の方と同じ牛肉にしておくべきだったかな。
何を言っているのかわからねーと思うが、メニューに無いデザートとメニューにあるデザートとメニューに無いデザートが出てきた。
まずメニューに無いやつ。かぼちゃのかき氷とアイスクリーム。これはちょっと全体的に酸っぱくて好きな味ではなかったかも。上述のとおり酸っぱいのが嫌いなわけではないものの……。
つぎにメニューで選んだやつ。キャラメルプリンのようなものとアイスクリーム。キャラメルプリンだけ食べてみるとちょっと野暮ったい印象。だけど飾りのクッキー細工と一緒に食べると甘さと苦さと食感が程よくなって楽しい。アイスクリームのほうも甘すぎないミルク味でいい感じ。逆にアイスクリーム単体だと物足りない甘みだから、匙加減が絶妙だと思った。
さいごにまたメニューに無いやつ、アンコール枠。テーブルに箱が置かれて小さなデザートが置かれていく。マカロン、クリームのはさまった抹茶クッキー、フィナンシェ的焼き菓子、ネスプレッソのカプセル……ネスプレッソのカプセル。二度見したけどやっぱりネスプレッソのカプセル。まんまキラキラで2色のやつ、マシンのスターターキットにいくつかだけ入ってる普段使いはできないレアなほうのカプセルでしかない。
ギョッとしているとウエイターさんが「これはスペシャリテのチョコレートだよ」と教えてくれた。しかし何故この形にしたグランプリ最優秀賞という感じではある。作ろうと思って精巧に作れたからお出ししたのかもしれない。そんなことを思いながら食べてみるとチョコレートの中にふわりとオレンジの味がする。騙し絵グルメとしてかなりの完成度でとても良かったです。
マカロンは美味しい(ねちょっとしない)タイプでアーモンドとフルーツのフレーバーがして、クッキーサンドはしっかり抹茶の味がしてこれも美味しくて、ハロウィン仕様でカボチャ型の焼き菓子も、焼き菓子のなかでは弾力があって不思議な食感だったもののとても美味しくいただけた。
味で色々な気持ちになれて楽しい良いお店でした、ウエイターさん達もタイ人あるあるのすごく優しくて色々教えてくれて高いホスピタリティを感じたものの、あまりにも相手の英語ペラペラすぎて何が何だかわからなかったです、美味しかったです、情報ありがとうございました!
大体皆が指摘済みなので抜けを補足するとキャベツの千切りを毎食山盛り食ってみて
食物繊維がーというかぶっちゃけ食った葉がそのまま丸まってうんこになるので少くともキャベツ成分の分は柔らかめになります
そして便量も増える
あと、不思議なんだけど宙明先生のドラムパートだけ流してるだけなのに、
アドリブで弾こうとするとゴーダンナーみたいなメロディーが浮かんでくるw
ベースから音が浮かんでくるなら分かるけど、もうドラムから宙明節w
その割にうまく音を外したり部分転調したりもするし、
風景とか名刹とか動画で見たいんだけど、自然音だけの動画なかなか無い
まあ、映像撮った時に一緒に入る音がいい感じじゃないから音楽かぶせちゃうんだろうけど
そこは頑張って「いい感じの音を別撮り」してかぶせて欲しい
というか、別に人の話し声とか要らん音が入っててもいいから、音楽かぶせるのやめてくれ
アニメだって効果的な劇伴じゃなくて無駄に曲流しまくってるの見ると興醒めでしょうが
意味の無いことすな
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
ギャルっていっても、まぁ今どきの清楚系とか地雷系とかじゃなくて、完全に昔ながらのガングロ系。
真っ黒に日焼けしてて、目の下には涙袋をこれでもかと強調するメイクをしてる。
だからうちに帰ってきてから、怒りと悲しみのあまり、リビングで大泣きしだした。
その泣き方が凄まじくて、涙でアイラインが滲んで顔がぐちゃぐちゃになりながらも、なおかつ涙袋だけは頑張って強調されているという、なんとも言えないカオスな状態。
その時、私の頭にふと浮かんだのがベヘリットだった。
あの不気味な形をした、泣いているか笑っているか分からないような顔のアイテム。
姉が泣いている顔が完全にそれだった。
なんだか神秘的ですらあって、思わず見入ってしまった。ギャルが感情をむき出しにして泣き叫ぶ姿っていうのも、ある種の儀式に見えてしまうぐらいだった。
「もう絶対男なんて信じない!もう恋愛しない!」なんて叫びながら、部屋中にクッションを投げつけ、ティッシュの箱が吹っ飛んで、リビングがちょっとした戦場になっていた。
見ているこっちとしては、どうしてもその光景がベヘリットに見えて仕方がなかった。
いや、たぶん姉が真剣に泣いているのは分かってるんだけど、涙袋が強調されすぎていて、涙がそこから滲んでくる度にどんどんベヘリット感が増していく。
こういったことも初めての事じゃない。
毎回、全力で恋愛して、そして派手に振られる。これまで付き合った男たちはみんな何らかの問題を抱えていて、姉はその度に今度こそ本物の愛!と信じて突っ込んでいくんだけど、結局裏切られて大泣きするのがいつものパターン。
そんな姉を見ていると、「またベヘリット発動か…」って、私の中でいつの間にかそんなセリフが浮かぶようになってしまった。
姉にとっての恋愛は、常に危険な賭けであり、心のどこかでそれを楽しんでいるようにも見える。
彼女が次の男に夢中になっている姿を見るたびに、「またあのベヘリット顔を見る日が来るのかな」と思ってしまうのが、なんとも複雑な気持ちだ。
翌朝、姉はケロッとした顔で起きてきた。そして鏡の前でまた涙袋をしっかりと描き直して、派手なギャルメイクを完成させた。その姿を見て、私はなんだか笑ってしまった。まるで何事もなかったかのように、また「恋愛の戦場」に出ていく準備をしているようだった。
「もう大丈夫?」と私が聞くと、姉は振り返ってニヤリと笑った。
「当たり前じゃん!泣いたのは昨日だけ。今日からは新しい人生のスタートだし!」と、自信満々に言い放った。
この強さこそが姉の魅力なんだろう。私には真似できないけれど、何度振られても立ち上がる姉の姿には敬意を感じずにはいられない。
そんな姉を見て、私はまた思った。
姉の強さ、そのものなのかもしれない。
涙袋が再び強調された顔が、今度は勇敢に見えた。
そして、その姿を見ていると、私はなんだか勇気をもらえるんだ。
まだいるの?
骨だけと、半分皮がないやつ。
1人で部屋に取り残されたときには、あの二人組の視界に入るのが怖くて出口まで行けなくて、誰か来るのをひたすら待ってた。
結局、助けは来なかったので意を決して棚の裏から出て走ったけどね。
その時の妄想映像(骨と半皮無しに追いかけられる)は今でもはっきりと目に浮かぶ。
ああ、怖かった。
美術館で、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見て真っ先に思い浮かぶのが何故ミキモトの真珠…?
https://openers.jp/lounge/14948
確かにミキモトはイメージした作品を作ったりしているらしいけれど、あくまで事後的なオマージュだしなぁ。
「真珠の耳飾りの少女」を見て感銘を受けて、まず何をするかって言ったら普通は図書館に行くんじゃないの?フェルメールの画集とか、フェルメールの人生や生きた時代について描かれた本とか。色々あるでしょ。
それから、他にも美術展が予定されていないか調べるとか。フェルメールが影響を受けた他の画家の作品も探すとか。
絵に描かれている光の反射などを検討するために真珠を見るにしても、博物館や水族館で扱っているところを探すとか、問屋街に行ってジュエリーになる前のパールを探すとか。
フェルメールの生きた史跡を辿りたいからオランダに旅行したいとか、他の絵も見たいからドイツやイギリスにも行きたいとか
そのためには金が要る→金を稼ぐには東京が有利、
という発想ならば、よーーーーく分かるんだけど…。
真っ先に浮かぶのがミキモトって、それ自体が文化的素養の枯渇を感じさせる。
釣りじゃないなら凄いなぁ。
30代。女。既婚。
小学生の頃、中学受験を目指す塾に通っていた。そこには天使のように可愛い顔立ちをした男の子がいた。目がくりくりしていて、女子から「ほっぺがぷにぷにだ」と直接触られていた。塾の中でも愛されキャラで、男子からもいじられてはいたが、同じだけ相手をいじり返す強さのある子だった。
私は薄ぼんやり「好みの顔だ」という意識はあったものの、彼のことは塾の中で仲の良い男子のうちの一人、という認識だった。
中学になってから、彼は男子校に通い、私は女子校に通った。いわゆる中高一貫校で、六年間同性に囲まれるある種快適空間だ。
そんな生活なので「新しい異性との出会い」などなかったが、高校生くらいから状況が一変する。mixiの普及だ。これによって、かつて同じ塾に通い別の学校に進学した友達たちと男女問わず繋がった。
繋がった人同士で塾のプチ同窓会のようなものが開かれる。そこで、例の可愛い男子と再会した。彼の可愛らしさは成長しても変わらず、本当に好みの顔で胸がときめいた。たしかこの頃メアドを交換し、直接連絡を取り合うようになったと思う。
私は味をしめて、プチ同窓会を開いてくれた幹事の友達に、「またみんなと会いたくない?」と提案した。友達も乗り気で、またプチ同窓会メンバーで遊ぶ機会を作ってくれた。私は、あの可愛い彼と会ってドキドキしていた。もし彼と恋愛関係になれたら、と妄想は止まらなかった。
私は懲りずに幹事の友達に「またみんなと会う機会を!」と提案し、そして友達に嗜められた。
「会いたい人がいるんでしょ? 彼を直接誘えばいいじゃん」
おっしゃる通りです……。
と、図星を突かれてはいたが、私は彼を二人きりのデートに誘うことが出来なかった。
時々彼とメールのやりとりは出来ていたが、彼のことを誘えるほど「好き」に対して覚悟を持てなかったのだ。
やがて彼とのメールは疎遠になり、私は大学生になった。共学に通い、大学で出会った人を好きになって、1年生の冬に付き合い始めた。私から告白した。
彼は初対面の時からすごくフィーリングが合い、趣味も合う・優しい・顔も好みと全く非の打ちどころのない彼氏だ。
私は浪人していたので、1年生の冬に成人式があった。彼氏から振袖姿が見たいと言われ、式が終わったら写真を送るねと、とにかく浮かれていた。
彼氏と付き合う前であれば間違いなく会いに行った。
でも今の私は彼氏持ちだ。しかも付き合って1ヶ月ホヤホヤの。これでもし、一時は恋愛関係を妄想した可愛い彼に会いに行ったら、あまりにも、その、……「ビッチ」すぎないか?
長い付き合いなので、順風満帆とは言えないタイミングもあった。関係が不安定になるたび、可愛い彼のことが頭に浮かぶ。
でも、私は可愛い彼のことを、「顔が好み」くらいしか分かっていない。
小学生の幼き頃は気が合ったような感覚はあるが、今の彼の内面を何も分かっちゃいない。
高校生の時にちゃんとデートに誘うべきだった。「女は誘われ待ちが良い」なんて旧価値観になぜどっぷり染まっていたのか。ガンガン女から行くべきだ。
そして玉砕するか、上手く付き合えたとしても恋愛を通した関係構築のゴタゴタを経験して、この人と人生のパートナーになれるのかしっかり吟味したかった。
そうやって、幻想を打ち破るべきだった。
これからも夫とうまくいかなくなるたびに、「可愛い彼」の幻想に耽りつつも、「とはいえきっと彼とは上手くいかなかったよね」と心を慰めるだろう。
何しろ私は、家事能力は壊滅的で、メンヘラで、他責思考で、と欠点を上げればキリがなく、そんな私でも見捨てずに支えてくれたのが夫である。
夫は私の欠点に打ちのめされるたび、このまま私との関係を続けるか躊躇していたが、「それでも愛している」と覚悟を決めてくれた。その覚悟に報いたい。治せる欠点は治して、「この人と結婚して良かった」と思ってもらえるような妻になりたい。私は夫を愛している。
間違っても不倫をしたくないので、可愛い彼に連絡を送ることはない。
いや、本音では可愛い彼とまた話したい。私には男女の仲になりたいという欲求は全然なくて、性別関係なく人間として彼がどういう人生を歩んだのか知りたいという思いはあるのだけど、そうはいっても男女だしな……対面で会ったら突然私の頭がバグり散らかして、不貞を働くかもしれない。警戒するにこしたことはないだろう。
70歳とか超えたら、さすがに性欲に振り回されない、大人の男女の友達になれるだろうか。
それまでお互い生きてたら声かけてみようかな。
みんな長生きしようぜ。
すごく情景が浮かぶ話だった
東出が熊のモツ煮を無心に食べてる姿、そしてそれを見て感動するあなたの気持ちが伝わってきた
東出の一心不乱に食べる様子が、ただの「食事」を超えて、もっと根源的な「生きる」ということの姿を見せてたんだろうね
確かに、普通の食レポとか美食家が見せる「味の感想」だけじゃなくて、ただただ食ってるだけってのが逆に強烈に「生」を感じさせる
東出はきっと今、色んなことから解き放たれてて、だからこそ素直に、ただ生きてるだけって感じなんだろうね
増田が「俺は東出みたいに、あんなふうに一心不乱にメシを食えているか?」って自問自答したってのも、まさにその通りで、我々が普段忘れがちな、ただシンプルに生きることのエネルギーを見せつけられたんだと思う
カイジみたいにキンキンに冷えたビールで「キンキンに冷えてやがる!」ってなる瞬間も、あれもまた、生きてる実感のひとつなんやけど、東出のあの熊のモツ煮の食べ方とはまた違うんだろうね
なんだかんだで、東出がそこに映し出した「生物としてのパワー」に惹かれたんだろうな
普通やったら照れくさくてできへんことも、あんな風に無心でやってるの見ると、むしろかっこいいと思わせる力がある。羨ましいって気持ちも、きっとその「生」を感じさせてくれるからなんだろうね
男の娘、NTR、百合、おねショタが好きな奴は木印率が高い。前者二つは嫌いな人にも平気で押し付けるし、後者は当然のように他所様のジャンルを荒らす割に自分がされるのは病的なまでに忌み嫌う。荒らされるどころか、自身の地雷がこの世に存在するのが許せないとかそういうレベルだ。
わけても酷いのが百合である。異性の思い人が原作に居るキャラの百合改変同人誌でシコる癖に、百合キャラと自身が認定したもの(同性愛と明言されていない日常系のキャラや原作に男の想い人が居るキャラさえ含む)に男の影がチラついただけで発狂する。
そしてこともあろうに「あの男は邪魔だ」とか言い出すのだ。たといそれが原作キャラだとしても。正直理解しがたい攻撃性である。
しかし百合がとりわけ酷いからと言って、他がそうでもないということは無い。男の娘やNTRも「この良さがわからないのは損」とか寝ぼけたことを宣うし、おねショタも百合に準じるほどには攻撃性が高い。
人類の性癖多様性に張り合えるのは夜空に浮かぶ星くらいであるのに、なぜこの四つだけがこうも目に付くのだろうか。少し考えてみると、私はあることに気がついた。
というのも、この四者にはそれぞれに対応したミームが存在するのである。順に「こんなに可愛い子が女の子なはずがない」、「脳が破壊される」、「百合の間に挟まる男は絶対に殺す」、「ショタに主導権を握らせるな」だ。ここでは代表的なものを挙げたが、他にも似たようなミームはいくらかある。
よくよく思い返してみれば他所様のジャンルに出張してきて暴れ回るタイプのオタクはだいたいこれらのミームを壊れたラジオみたいに繰り返している。
女の子のイラストに「こんなに可愛い子が女の子な訳がない」というリプが付いていたり、純愛漫画に「ここまでNTRの前菜」という感想が書き込まれていたり、異性愛ラブコメアニメなのに「女同士でくっつけ男邪魔」というコメントが流れてきたり、ショタ優位のマンガに富岡義勇の画像リプが付いていたり。
つまり、この四者が好きな者のうち他人に迷惑をかけるような輩は①関係ないところで②自分は面白いと思っているミームを③延々と繰り返す という特徴を持っているのだが、これもどこかで見たような存在である。
そう。淫夢厨だ。
つまるところ、上記の四性癖は性癖そのものに問題があるのではなく、半ばミーム化されているからこそコミュニケーションは双方向だということを理解していない淫夢厨みたいなメンタリティの恥知らずが浮き彫りになっているのではないか。
その証拠にこれらの迷惑行為を働くダチョウは文句を言われるとおしなべて「ミームを真に受けるな」とか、そういう旨のことを言う。アホである。
素がミームだとしても相手が不快に感じたらそれはもはや小粋なジョークではないし、そもそも我々自身が学生時代に「こんなことにマジになんなよw」と虐められてきたのに同じことをしてどうするのか。本当にアホである。
あとは市民権を得たから云々というのもしばしば見受けられる。これはNTRに多い。DLsiteなんかのランキングを持ち出して「もうNTRはメジャーだから云々」とか言い出すのだ。真正のアホである。
マイナーはメジャーに嫌な思いをさせられても黙ってろと言うのであれば我々なんぞは永遠に劣等人種だし、やきうの延長戦でアニメ放送が潰されるのにも文句は言えない。仮にNTRがメジャーであっても関係ないところで自身の性癖を開陳することの言い訳にはならないのだ。
巨乳のがスタンダードだからとはいえちっぱいが好きな変態を否定することはできないのと同じである。
とまあここまでしょうもないことを長々と述べてきたが、私が文句を垂れているのは発音こそギリN2レベルに引っかかれどリーディングに関してはカラス未満の連中である。
せいぜい百字もないようなコメントを見れば条件反射で「顔真っ赤長文で草」とか言ってしまうようなお歴々にここまで長い文章を読めと言うのは人道に悖るので、簡潔かつ平易に締めよう。