はてなキーワード: お茶とは
お茶でも飲んで落ち着きなさいよ
ストーリーが雑だぞ。
母親の高校卒業時期の1970年代前半、四天王寺は京大進学なんて望める学校ではなかった。80年代後半からポツポツ現れるくらいだ。天王寺と間違えたって?それはそれで母親の人物像に齟齬が出てくるよなあ。
そして70年代の丸紅は留学経験ある京大卒女子が入社するところではない。女子は90%お茶汲み10%受付か秘書の類という時代だ。秘書採用はほぼコネ持ちの女子大卒だったしな。まして、本社が東京に移転してロッキードで汚名まみれになってた頃だ。京大卒のお嬢様が就職する可能性はほぼゼロだろう。
なぜか?
結局、青葉という存在を生み出した経緯も、青葉自身がやったことも同じで、単なる「弱い者イジメ」でしかなかったからだ。
青葉は京アニに突撃するのではなく、プーチンと対決すべきだった。それなら少なくとも「弱い者イジメ」とは言わないだろう。
それができないのは、基本的に人間は、というよりも生物は「弱い者イジメ」しかできない構造(弱肉強食)になっているからだ。
青葉に人間としての知性が、矜持が残っていたならば、言論によって京アニへ抗議すべきだった。
私にはいかなる点においても、青葉の言動を肯定し、青葉を賞賛することができない。
青葉の言動を否定できない人は、弱い者イジメを肯定していると言わざるを得ない。
弱肉強食の動物の真似をして、暴力を行使して弱い者イジメを行っても、人類の課題は解決できない。
https://anond.hatelabo.jp/20230928010329
京アニ放火事件の青葉被告の、裁判での言動が日々メディアを騒がせている。
ヤフコメやXで見られる反応では青葉被告を徹底的に断罪したいようだが、私は公の法廷に現れた存在としての青葉被告を応援しているし、彼が無罪になればいいとも思っている。
少なくとも、青葉被告が、予定調和的に死刑になることは絶対に望んでいない。
被害者(=京アニ)についてはよく知らないし、遺族ほかを非難するつもりもない。これはただ私の思い入れこみによる勝手な文だ。
「もしお前やお前の家族が殺されたらどう思う」みたいな質問はここでは意味をなさない。そんな質問しかできない時点で、大きな断絶があるのだ。
青葉被告の死刑を容認する人々でさえも一部が指摘しているように、世間には「青葉」的な者がいる。そしてそれは、どんどん増えている。
魔の82年生まれとか発達障害の増加とかそういうお茶の濁し方ではなく、明確に、「青葉」被告的な苦痛に満ちた者が増えているのだ。
世間は少なくともそれをずっと認知して来た。それも、机上のグラフの上の数値ではない。
クラスに一人はいる彼。職場に一人紛れ込む彼女。近所や親戚に一人いるあいつ。
青葉の体験を一般化することはできないだろうが、あえて広く「彼等」の問題として考えたい。
彼等がコミュニケーションに行き詰った時、あなたはどう振舞っていたのか。
彼等がコンビニの列の最前列で何かにつっかえた時、あなたは舌打ちしなかったか。
彼等が同じ教室・職場で、教師・上司に何度も叱責される中で、ただ「そう」であることで評価を下げていなかったか。
私は、平均とか標準という考え方で言えば、「青葉」側の人間である。
ただ、例えば、世間の人々が得られる「幸せ」をあきらめることには納得はいく。
しかし、世間の人々に与えられる「逃げ道」をなぜか私が使えないとなったとき、その惨めさは何百倍にも何千倍にもなる。
私は青葉被告のどうにもならない体験を見て、そんな説明をひねり出すことができた。だが過去のいろいろな事件の時点でひねり出すべきだった。
小学校・中学校を通して、本人でもうまく説明が出来ない様な過ちをして、しょっちゅう教師にクラスメイトの面前で厳しく叱責されている、今でいえば学習障害とか自閉症なのだろうか、そんな同級生がいた。
この男子同級生はとても「愚か」「間抜け」ということになっていて、実際何を考えているのか、私達にもわからなかった。いや、わからないようになっていった。教師の度重なる叱責や軽視によって。彼が精いっぱい受け答えを捻りだすたびに、教師はその言動を叩き潰した。
今考えれば、教師は彼を叱責すべきではなく、話をゆっくりと聞くべきだった。もっと言ってしまえば、もはや「赦す」べきだった。教師こそがこの同級生の代弁を私達にすべきだった。
大げさに言えば、人に生きる意味を考えさせ、死の世界から遠ざける、ということをこの教師や社会はしていなかった。健全な市民を育むとかそんなのはどうしようもない建前だ。
そしてそれが為されないとき、この同級生が、教師を刺し殺したり私たちごと教室に「理不尽に」「逆恨みで」放火したとしても、私はもはや文句は言えない。これは一言で言えば「窮鼠猫を嚙む」という格言であり、逃げ場の許されない中で当然生じうる人間のむしろ正常な反応だとおもう。
そうできないならば、世間が彼を徹底的にバカにした通りに、彼はナイフやマッチの使い方もわからないまま見当違いの人を刺して燃やす。それは自然なことでしかない。世間が彼をそうさせた。
人を大切にしない社会は、そのどこをやりかえされてもしょうがないとおもう。
私は、あの同級生やそれと同じ人々が何千人と重なって一人となり、被告となって証言台に立っているのだとすら思う。
監禁された人間が「ストックホルム症候群」を起すことには同情されるのに、なぜ狭い世界で逃げ場を失った人間の行動には同情がされないのか。
そこで世間の人々は目を逸らし、「仕方ない、悲惨だけど、死刑」などという。
私は堂々と「青葉は無罪だ。無罪にすべきだ」という。それだけの問題提起をすべき理由がある。青葉を診療し死の淵から回復させた医者は「生きて裁かせる」という信念があったそうだが、直接関係ない私は「生きて無罪になれ」といいたい。
そして99%くらいの確率で青葉が死刑になったとしても、私はいい続ける。似た様な事件がまた起きればその被告を擁護する。
世間は、事件を繰り返させる前に、「青葉」的なものを真摯に今度こそ見つめ、「赦し」、我々の社会の要素として自然に見なすべきだ。それが達成されるまで、世間が目を背けた回数の分だけ事件が起きても、無罪にすべきだ。
十九世紀末のヨーロッパでも、社会の矛盾に対し、富裕層の集まる場所や公務員への爆弾攻撃で答えたアナーキストたちがいた。彼らは少なくとも自分の言葉と道具があった。
今は自分の言葉も道具すらも持てない時代が来ている。少しでもそんな時代から遠ざかるために。
私の匿名の日記は世間には何の影響も与えないだろうが、たくさんある非難に対して一つでもこういう意見があったと、どこかで思い出してもらえればいいなとおもっています。
https://gigazine.net/news/20230304-voltaire-quotation-investigation/
I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.
京アニ放火事件の青葉被告の、裁判での言動が日々メディアを騒がせている。
ヤフコメやXで見られる反応では青葉被告を徹底的に断罪したいようだが、私は公の法廷に現れた存在としての青葉被告を応援しているし、彼が無罪になればいいとも思っている。
少なくとも、青葉被告が、予定調和的に死刑になることは絶対に望んでいない。
被害者(=京アニ)についてはよく知らないし、遺族ほかを非難するつもりもない。これはただ私の思い入れこみによる勝手な文だ。
「もしお前やお前の家族が殺されたらどう思う」みたいな質問はここでは意味をなさない。そんな質問しかできない時点で、大きな断絶があるのだ。
青葉被告の死刑を容認する人々でさえも一部が指摘しているように、世間には「青葉」的な者がいる。そしてそれは、どんどん増えている。
魔の82年生まれとか発達障害の増加とかそういうお茶の濁し方ではなく、明確に、「青葉」被告的な苦痛に満ちた者が増えているのだ。
世間は少なくともそれをずっと認知して来た。それも、机上のグラフの上の数値ではない。
クラスに一人はいる彼。職場に一人紛れ込む彼女。近所や親戚に一人いるあいつ。
青葉の体験を一般化することはできないだろうが、あえて広く「彼等」の問題として考えたい。
彼等がコミュニケーションに行き詰った時、あなたはどう振舞っていたのか。
彼等がコンビニの列の最前列で何かにつっかえた時、あなたは舌打ちしなかったか。
彼等が同じ教室・職場で、教師・上司に何度も叱責される中で、ただ「そう」であることで評価を下げていなかったか。
私は、平均とか標準という考え方で言えば、「青葉」側の人間である。
ただ、例えば、世間の人々が得られる「幸せ」をあきらめることには納得はいく。
しかし、世間の人々に与えられる「逃げ道」をなぜか私が使えないとなったとき、その惨めさは何百倍にも何千倍にもなる。
私は青葉被告のどうにもならない体験を見て、そんな説明をひねり出すことができた。だが過去のいろいろな事件の時点でひねり出すべきだった。
小学校・中学校を通して、本人でもうまく説明が出来ない様な過ちをして、しょっちゅう教師にクラスメイトの面前で厳しく叱責されている、今でいえば学習障害とか自閉症なのだろうか、そんな同級生がいた。
この男子同級生はとても「愚か」「間抜け」ということになっていて、実際何を考えているのか、私達にもわからなかった。いや、わからないようになっていった。教師の度重なる叱責や軽視によって。彼が精いっぱい受け答えを捻りだすたびに、教師はその言動を叩き潰した。
今考えれば、教師は彼を叱責すべきではなく、話をゆっくりと聞くべきだった。もっと言ってしまえば、もはや「赦す」べきだった。教師こそがこの同級生の代弁を私達にすべきだった。
大げさに言えば、人に生きる意味を考えさせ、死の世界から遠ざける、ということをこの教師や社会はしていなかった。健全な市民を育むとかそんなのはどうしようもない建前だ。
そしてそれが為されないとき、この同級生が、教師を刺し殺したり私たちごと教室に「理不尽に」「逆恨みで」放火したとしても、私はもはや文句は言えない。これは一言で言えば「窮鼠猫を嚙む」という格言であり、逃げ場の許されない中で当然生じうる人間のむしろ正常な反応だとおもう。
そうできないならば、世間が彼を徹底的にバカにした通りに、彼はナイフやマッチの使い方もわからないまま見当違いの人を刺して燃やす。それは自然なことでしかない。世間が彼をそうさせた。
人を大切にしない社会は、そのどこをやりかえされてもしょうがないとおもう。
私は、あの同級生やそれと同じ人々が何千人と重なって一人となり、被告となって証言台に立っているのだとすら思う。
監禁された人間が「ストックホルム症候群」を起すことには同情されるのに、なぜ狭い世界で逃げ場を失った人間の行動には同情がされないのか。
そこで世間の人々は目を逸らし、「仕方ない、悲惨だけど、死刑」などという。
私は堂々と「青葉は無罪だ。無罪にすべきだ」という。それだけの問題提起をすべき理由がある。青葉を診療し死の淵から回復させた医者は「生きて裁かせる」という信念があったそうだが、直接関係ない私は「生きて無罪になれ」といいたい。
そして99%くらいの確率で青葉が死刑になったとしても、私はいい続ける。似た様な事件がまた起きればその被告を擁護する。
世間は、事件を繰り返させる前に、「青葉」的なものを真摯に今度こそ見つめ、「赦し」、我々の社会の要素として自然に見なすべきだ。それが達成されるまで、世間が目を背けた回数の分だけ事件が起きても、無罪にすべきだ。
十九世紀末のヨーロッパでも、社会の矛盾に対し、富裕層の集まる場所や公務員への爆弾攻撃で答えたアナーキストたちがいた。彼らは少なくとも自分の言葉と道具があった。
今は自分の言葉も道具すらも持てない時代が来ている。少しでもそんな時代から遠ざかるために。
私の匿名の日記は世間には何の影響も与えないだろうが、たくさんある非難に対して一つでもこういう意見があったと、どこかで思い出してもらえればいいなとおもっています。
"誰かに「無神経」な言葉を言われた時、ASDはどう感じるのか?"
【答】
何も感じない。です。
例として
→そうか、じゃあ次は他のお茶を出そう。悪いのはお茶であって私では無い。
⚫︎「あなたの着ている服、変わってるね。どこで買ってるの?(ニヤニヤ)」
→あそこの服屋で買ってる。(褒めてる訳では無さそうなのに何で情報を欲しがるのかわからんが答えられる質問なので答えた)
⚫︎自分の事ばかり話す
→へえ。ふーん。と相槌を打ちながらこっちも自分の事ばかり話す。
→忙しいんだな。
→まあ犯罪じゃないし
他にもあるのだろうけど、なにせどうとも思わないので記憶に残らない。
「自分が嫌がる事は他人にもしてはいけない」という教育法は致命的にASDに向いてない。
上記にあげた無神経発言の例はネットなどで学んだので判別はできる。悪意をぶつけてこられてもなかなか気づかないが、怒鳴られたり無視されたりの段階に至れば理解できる。
私の所属していた法人課税部門の話ではあるが、直接関わったわけではない。どちらかというと、もっと上の方の、課税全体の企画や調整・取りまとめを行う部署の話になる。
当時も、国税庁が掲げるところの「内国税の適正かつ公平な賦課及び徴収の実現」をめざして、日々勉強の毎日だった。世の中は変わり続けている。税の勉強に終わりはない。当時の仕事を平たくいうと、税制改正の内容を関係者・関係部局にわかりやすく伝えて質問相談苦情に答える、といったところか。管理職が近づいた当時は、そんな仕事をしていた。
40代が近づいても、税の世界は深かった。税理士資格は若い時分に取得したが、それでもマニアックな税分野とか、諸外国の税制度になると不案内だった。
そんな折、とある会議の最中だった。ある人が、たしか個人課税の徴収部門の責任者だったか、ビットコインの話を始めた。課税の方法がわからない人や、脱税の疑いがある人が増えており、(内閣府まで通じて)国レベルの対応を考えているという。
ビットコインのことは何となく知っていた。どんな形であれ、収益を得たのであれば納税するのが当たり前である。だが、事情があってできない者や、あえてそうしない者もいる。私の思い違いは、後者が思いのほか多かったということだ。
国の関係機関は、ビットコインほか暗号資産に関する文書を多数発行している。国税庁もそのひとつだ。それは6,7年前だったか、取り掛かったのはさらにその数年前になるが――上の会議の後で、主に若手職員が中心となって暗号資産の税務上の取扱いに関する文書(納税ガイドライン)を起草した。国税庁のページに今でも載っている。
ガイドラインを作るにあたり、各部署からは若手数人(YoungなAdultを含む。40代でもOK!!)が抜擢された。うち1人は私の同僚だった。あの頃、仕事帰りに個室の飲み屋で話をしたのを憶えている。彼は、ビットコイン(暗号資産)に対して恨みの感情をいだいていた。
・ただでさえ忙しいのに。ガイドラインの下準備だけでも難しい
・国際反社の資金源を絶とうと思えば、暗号資産を違法化してもよいのでは
・でも、それでは他国との足並みが揃わない。国力にとってデメリットがある
・暗号資産がどの国でも一般的な存在になれば、俺達のこの仕事は報われるかもしれん
・上司は評価をくれると言っていたが、貸し借りにすらなっていない感がある
・実は、「優秀な若手を」と言いつつ、優先順位の低い職員を駆り出しているのでは?
・こんなことが続くようなら、転職を考えた方がいいかもしれない
このような愚痴をもらしていた。この人は、高卒枠で国税庁に採用され、若い頃は地方税務署を転々とした。その後、実力を評価されて国税庁の現場寄りの部門で働くようになった。叩き上げというやつだ。普通に幹部候補である。このあたりの考え方は、省庁によって違う。※後述。
私だって彼のように、当時は「よくわからないもの」「社会に必要性がないもの」「反社の資金源」とされるものを扱う仕事に抜擢されたとしたら、どんな気持ちになっていただろう。憂鬱になっていたかもしれないし、反対にワクワクしていたかもしれない。おそらくはその中間だ。
ところで、件のガイドラインは相当に練られている。人件費で換算するなら、軽く数千万はかかっている。本来の部署でさえ仕事に忙殺されているのに、彼らはよく作ったものだと感心した。
____________________________
《後述の内容》
中央省庁は大卒しか採らない印象があるかもしれないが、高卒採用は私が知る限り全省庁で実施している。省庁によって雰囲気は異なるが。私が若い頃だと、毎年何十人も採用しているところもあれば、実質的に高卒者を採用していないところも当然あった。覚えている限りでは、次のような印象だった。
(総務省)
たくさん採用する。男女比は同じくらいか。データの取りまとめや解釈など、政策の基本になる数字を拾う仕事が多い。実力が認められると政策立案も担当できる。地方自治体への幹部待遇での出向も。
(国土交通省)
たくさん採用する。男性が多い。本庁に採用されても、ダム管理関係など現場作業をするポジションになる可能性があるからだろうか。工事用の図面作成なんかも当然あるだろう。
(財務省)
ほどほどの数を採用する。高卒枠だと、ほぼ女の子しか採用してなかった。もちろん顔採用だ。たまに業務で寄ることがあったが、当時の先輩が「俺も財務省の子と合コンしたい……」と呟いていた。当然ながら、銀行の一般職みたいに、大卒採用の男性とくっつけるためにやっている。
(国税庁)
略
(厚生労働省)
たくさん採用する。男女比は半々だ。労働環境が厳しいこともあるのだろう、私が知っている子は、ガタイがいい人ばかりだった。総じて言えることだが、高校3年生の時点で中央省庁の面接官の眼鏡にかなうわけだから、指折りの人材だ。特に「役職持ちの高卒者を見たら刮目せよ」のイメージは正解だ。
____________________________
かくいう私も、当時はこの仕事を続けるべきか迷っていた。実際、数年後には転職することになるのだが、正直やりがいを感じられなかった。
実際、あの彼の言うとおりだったと思う。あのガイドラインは、いわゆる『火消し』の仕事に近い。すぐにバブルが弾けてなくなると思われたビットコインが生き残ったことで、脱税者(善悪を問わない)が多く存在することが予想された。事前の対策を打とうにも、そんな余剰人材は配置されていない。
実際、暗号資産関係の脱税者がいたとして、まともに取り締まることができていなかったのではないか? 現金で数千万円を国内口座に出金、みたいな愚か者はすぐに摘発されただろうが、もう少し小さい金額とか、取引所にずっと利益を預けていたとか、そういう人は対応ができていないはずだ。他部門の私ですらわかるほど、それくらい国税庁はマンパワーが足りていない。
加えて、思い出②で説明したストリートレベルの行政職員の観点もある。海外の取引所や、すでに潰れた取引所で売買をしていた場合、納税者も行政庁も課税情報の証明ができない。そういう面倒かつ費用対効果の低い案件――それでいて該当者が数千人に上るであろう案件は、あえて手をつけないこともある。
さて、こうした想定外の事態が起こった場合、上で説明したように臨時のタスクフォースが編成される。今回の火消しチームだと、指揮を取る者が選り抜きであったのは言うまでもないが、ほかのメンバーを見る限りだと、各課がイマイチなメンバーを人柱にしていた感がある。正直、エースは残して温存させているように見て取れた。
そんな理不尽でも耐えられるほどに組織が魅力的で、職員にとってやりがいのある仕事内容や職場環境を用意できればいいのだが――こういうわけで、近年の若手官僚大量離職問題が起こっている。
ちょっと路線変更をする。思えば、このあたりの時期は私も病んでいた。過重労働で心が沈んでいた。
一応マイホームは買っていた。ただ、数年前から妻が病気で入院していて、子どもふたりは実家にしばらく預けてあった。つまり単身だった。
かつては、いろいろと堪え切れずにデリバリーヘルスを呼んでいた時期もあるが、穴があったら入りたい気分だ。煉獄さん……。
その日々では、深夜に誰もいないマイホームに帰宅して、独身時代が懐かしいと思いながらテレビを点けていた。ある時だったか、今時風のアニメが流れた。
♪ わんわんわん猫が好き 夢中で何も見えない
ほぼ終電+徒歩の関係で、自宅に帰る時間は固定だった。ダイニングの食卓の上に、コンビニのおにぎりと綾鷹を置いてから、大匙1杯の味覇を小鍋に入れて沸騰させ、菜箸で溶き卵を回し入れていた。最後にテーブルコショーを振りかける。ネギは買い忘れることが多かった。
食事の支度ができて、テレビを点けると上のアニメがやっていた。女の子が出てくるやつ。
サブカルチャーについては、若い頃に少し嗜んだだけの私でもわかった――これは三級品のアニメだ。放送枠を埋めるためにひとまず作られたような、1話につき実質4分間だけの5分もの作品。それが正体だった。
かわいそうに。作者はどんな想いだったろう。悔しいと思わなかっただろうか。残念ながら、番組製作者にとって優先順位が低いアニメだったのだ。※当時はそう思っていたが、今は違う。
内容だが、女の子同士が仲良くするようなものだった。はっきりいって中味はない。ただ単に、女子高生が仲良くしているか、仲良くしようとアプローチしているだけの。そういうやつだった。だが、観ている最中に何も考えなくていい。それがいいと思って、つい毎回見てしまっていた。
別に興味はない。なんとなく見ているだけだ。深夜帯だから、それ以外に選択がなかった。前後の時間帯にほかのアニメが放送されることもあったが、観ることはなかった。この齢になると、特に30分枠のアニメは見るのがしんどい。子どもと一緒に土日朝のアニメを観るのであれば、まだなんとかなるのだが。
愚痴が長くなった。この章は仕舞いにする。これ以外にもパワハラ職員とか、やる気のない職員とか、省庁間のいがみ合いとか嫌がらせとか、議員と行政との癒着・密着とか、嫌なことはいくつもあったが、本題ではない。
そういうのが知りたい人は、元キャリア官僚が書いた書籍やブログを探して読んでみるといい。意外とみんな、けっこうぶっちゃけている。生々しい。
その人達に比べれば、当記事の内容というのは、やはりベジタブルに違いない。冷静に考えて、野菜よりも肉の方がハイパワーだろう。そういうことだ。
「官僚から政治家になりたい」という想いを抱く人は、一応は存在している。そして、そういう人が政治側から求められる場面もある。
30代に入る頃の話だ。具体的にいつ頃だったかは失念したが、自由民主党で地方自治を担っているグループが各官庁にチラシを配っていた。要するところ、「官僚の皆さんの中で政治家になってみたい人、手を挙げて。ハーイ、ハーイ!!」と、ここまで軽いノリではないが、かくして官僚から政治家へ……というルートを希望する人は一定数いる。
そういう説明会に参加したことがある。「興味本位でいい。年齢関係なし」といったことがチラシに書いてあったが、会場に同年代はほぼいなかった。
説明会の流れは月次だった。自民党のそこそこ偉い人が挨拶をして、後は別の人達に交代して政治家への転身ルートの大まかな説明(国政コースと地方自治コース)があって、最後に簡単なグループ討議だった。
なお、これはずっと昔の話だ。今がどういうシステムかはわからない。
私がいた席の隣には、一回り年上の国土交通省(の前身)の技官であるIさんがいた。体格は小柄だったが、その割には大きく見えた。頭の回転が速くて、こっちが話しても0.5秒でレスポンスが飛んでくる。
Iさんとはグループ討議の後で連絡先を交換して、一度だけ飲みに行った。頭の回転だけじゃなく、教養のある話し方だった。人としてのスペックの違いを感じた。
Iさんが上の説明会に参加した動機は、出世や昇進に関係していた。上に行けないのであれば、いっそ政治の世界で活躍してみたい――そんなことを話していた。
Iさんは、東大でも京大でも筑波大でも東工大でもなく、一般的な国立大学だった。偏差値でいうと50ちょっと。私と同じくらいの。その大学名では正直、立身出世の見込みはなかった。よくて審議官、民間でいうと次長~部長ほどか。今はどうかわからないが、当時は学歴が問われる時代だった。国交省でも、上級管理職は東大が基本だった。
Iさんのキャラクターというのは、古い語彙になるが、ザ・自民党といった雰囲気だった。政治的に保守というやつだ。頭の回転が速いというよりは、物事の道理がわかるというか。いざという時には清濁併せ吞むことができる。そんな具合だ。
かくいう私は、政治家ルートは無理だと感じ、その後にあった面接を受けることはなかった。国会議員になるには地盤も看板も鞄も足りないし、かといって地方自治体に出向して市町村の助役(今でいう副市長)になるのはリスクが高すぎる。もし地場に合わなければどうすればいいのか。どの面を下げて霞が関に帰ればいいのか? いや、というか帰れない。片道切符だ。
でも、本当に政治家になりたい人であれば、不安に打ち勝ってしまえるのだろう。当時の私は、転職を考えはじめていたけれども、今と違って転職市場は整備されていなかった。インターネットでの転職活動も始まったばかりだ。リクナビ黎明期になる。
まあ、それらも言い訳に過ぎない。本気で転職したい人だったら、そんな事情は関係なく転職エージェントに架電していることだろう。心の底では、そこまで転職したいとは思ってなかったのだ。
その後も、厳しい日々が続いた。職責はどんどん増えていくけれども、やりがいは減っていった。給料も見合っていない。時給換算だと千数百円ほどか。上でいう40才になる頃には、自分がなんのために働いているのかわからなくなった。行政ロボットのようだった。
ひたすら政策課題に対して向き合い、法律や常識に照らして世間でいうところの正解と思われる回答を見つけ出し、複数の上司に忖度とやらをしながら仕事を回していた。税制を維持していくためのロボットになっていた。
あと数年以内には、おそらく課長補佐から課長級になる。もっと忙しくなるだろう。子どもを2人育てるなど不可能だ。
もやもやした気分で深夜に帰宅した時、やはり、あのアニメ――『犬神さんと猫山さん』が流れていた。たった三ヶ月の付き合いだったが、少しばかりの息抜きになった。コンビニおにぎりとお茶と、味覇のスープを飲みながら、ほとんど何も考えずに観ていた。
女性同士が仲良くすることに主眼を置いていたのはわかる。メインふたりの関係だけでなく、ほかの女性同士の関係性も描いている。
犬神さんは積極タイプだった。猫山さんのことが大好きだ。ほかの女の子とはいざこざがありながらも、最後には仲良しになっていた気がする。
強いていえば、犬神さんの猫山さんに対するアプローチには、セクシャルハラスメントを構成する要素があった。いきなり抱きついたり、薬物を飲み物に混ぜようとしたり、髪型を自分好みにさせようとしたり、猫山さんの反応が気に入らないとキレたり、ハラスメントし放題だった。デートDVに通じるものがある。人権という観点からは、現代社会で許容されるべきものではない。
この日記を書き始めた頃、ニコニコ動画に登録して全話パックを購入した。順番に話数を巡ったところ、第9話にこういうやり取りがあった。以下、犬神さんを「犬」とし、猫山さんを「猫」とする。
犬「あの~、今なんて……?」
犬「バッカなんですか猫山さん!」
猫「そこまでいうの犬神さん!?」
犬「だって、素晴らしいその猫っ毛を矯正するとか、そんなのって、そんなのって、コーヒーからコーヒー抜くようなものですよ!?」
リアルの高校生ならこういう会話をするのかもしれないが、中年の私には厳しい描写だった。若い人向けの作品なのだからと思いつつ、読者が真似をしたら相手が苦しいことになる――と当時は考えていた。こちら以外にも、若い人なりの情動(リビドー)が爆発するようなシーンがあったのを思い出す。
思えば、若い人向けの作品なのだから、少しオーバーなのがちょうどいいのかもしれない。作者が若年だったのもあるだろう。梶原一騎(巨人の星)にしても、雁屋哲(野望の王国)にしても、巻来功士(メタルK)にしても、CLAMP(聖伝)にしても、荒木飛呂彦(バオー来訪者)にしても、板垣恵介(バキシリーズ)にしても、作者が若いと、エログロやスプラッタや、恋愛的確執や社会的価値観との対峙など、青春期ならではのリビドーに溢れている。反対に、作者が齢を取ってくると確執的関係が雪解けするような、そんなシーンを描くようになる。『バキ親子ケンカ編』などが顕著だ。
あの人達が若かりし頃のマンガというのは、基本線として反社会的だ。反社会的といっても、若者にとっての抑圧を打ち破るという意味での反社会性だ。うまく料理できれば、マンガの魅力として存分に活きてくる。あの人達は、若者のそんな感情を搔き立てるのが抜群にうまかった……と、元若者が振り返ってみる。
追記 Iさんはその後、大成した。少しではあるが本人に馴染みのある地域で、市町村の助役として迎え入れられた。その後、国会議員や職員団体や地元からの応援を受けて市長選に立候補し、並み居る解放同盟の勢力を圧倒して市長になった。
あれから調べてはいないが、きっと長い間お勤めになったのだろう。ああいう人がもっと多くなれば、地方はもっと活性化するに違いない。
Part3/3
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
婚約者の母親が認知症を疑うレベルで怒りっぽく、一度怒ったら喚き散らして相手が謝るまでやめないことはもうわかってた。
そろそろやっと入籍というタイミングで、私に気に入らないところがあったらしく「結婚は認めない」「もしするなら事実婚にしなさい」とまた喚き散らした電話が婚約者と私にかかってきた。
その後は「涙が止まらなくて心が苦しくて眠れない」という泣き落としのメッセージが届く。いつものことだった。
他親族とも話し合い、こういうことを言われて正直会話にならないから関係構築は不可能だと思う、私は顔を合わせることはできないと意見したらそれで通った。
最初は婚約者も、婚約者親族も「増田さんと婚約者の母親はもう会わなくていい」ってことに同意していたのに、次の日になって「入籍日は親族みんなでランチしましょう」という連絡が来ていた。
それについて婚約者は断ってくれたものの、いつかは自分の母親と仲直りして欲しいと言われたけれど、私の両親についての罵倒も、激しい物言いで事実婚にしろ、婚外子を産めと言われたことは一切忘れられそうにない。
本当は婚約者に気持ちを汲んでもらいたかったが、やっぱり母親のことが大切なんだろう。私との和解をいつかさせるつもりでいるんだと思う。
このままいつか、婚約者と婚約者の母親が会い続けたら、私が悪者で、ひどい人っていう認識が2人の中でできていくんだと思う。
そうしていくうちに、私は婚約者からも嫌われて、仲の悪い夫婦になったりするんだろう。
こんなに大好きな人他にいない。心の底から愛してる。でも多分、これはいつか私が嫌われて憎まれる結末を迎える結婚だと思う。
さみしいな。
苦しいけど、婚約者の母親に歩み寄れなかった自分も悪いんだろう。
本当は私のために怒って欲しかった。事実婚や婚外子なんて考えられないってその場ですぐ、怒鳴ってでも怒って欲しかった。
収入もある。私の名義でマンションも買うだろうし、子どもだって欲しい。
同棲時代の生活費と家賃は全部私が払った。婚約者の借金だって肩代わりした。
食事も掃除も洗濯もした。全部喜んでくれた。愛してるから嬉しかった。
さみしくても、苦しくても、生きていかないといけない。
これでもまだまだ大好きだと思う。婚約者の母親と揉めるまでは本当に心底愛していたし、すごく仲が良かった。
今は少し、疲れている。
母親のことが大事なら、もうそう言って私のことをふってくれればいいのにな。さみしいな。
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【追記】
仕事をしたり、信頼できる友人に相談していたら色々なコメントがついていてびっくりしました。
コメントの全部がそうなんだよね…と納得いくことばかりで、やはり多くの人の話が聞ける増田は助かります。
女です
隠してたつもりはなく、文体もいつもの自分のしゃべり口調で書いたので性別については特段書かずにいました。
借金の理由は色々あって、生活苦やストレスによる散財、仕事の経費です。
ストレスによる散財とは、婚約者の母親が何か気に入らないことがあれば1時間ほど彼を折檻するので、その後に起こります。
彼はフィジカル的には武道もやっていてかなりマッチョなのですが、幼い頃からそういった肉体的・精神的虐待をされていたので逆らえないそうです。
婚約者の父親が自殺したのもあり、婚約者と婚約者母はずっと同居していました。30数年、これが繰り返されていたということです。
また、折檻のあとは彼の母親が泣いて謝って、一緒に死んでくれ、お前がいないと生きていけないと泣き落としに入る最悪の虐待ムーブに入ります。
交際当初は「うちの親はちょっと変なんだ」と言っていたものの、他人である私が婚約者の実家を訪ねてお茶をしていても折檻は始まるので、本当に頭がおかしいんです。
上記の虐待の状態を見て、とりあえず揉めずに穏便に私の家に婚約者を同棲させようと急ぎ動きました。
1年ほど、たまに実家に帰る際は私が同行すること、また虐待が始まったら私も割って入ることを約束に同棲生活が始まりました。
縁を切ると言っても、生きて肉体がある人間とは物理的に縁を切るのは難しいと判断しました。
逆上されても危ないため、穏便にことを済ましている最中です。
同棲生活も問題なく、また私が金銭的に少し余裕があったので借金の肩代わりや、生活費を出していました。
これは恩着せがましい書き方をしてしまいました汗
婚約者をかばうつもりはないですが、実際にトラバコメントの通り「金銭的な献身さは評価されにくい」は感じています。みんなそんなもんなのかな〜
>結論
色々と揉めたのですが、一旦私は婚約者の親とは接触しないことに決めました。
本当は虐待を受ける彼を見ていられなかった、今後もあれが起きたらどうしようと考えただけで心臓が痛いのですが、彼曰く増田ちゃんみたいな女性が割って入る方が怖いから、増田ちゃんは今後接触を避けようという提案でした。
自分がされるのは辛くないか、と聞いたらしんどいけど、これからは365日のほとんど全部を増田ちゃんと過ごせるから平気だと。
年に一回1時間の折檻を受けるくらい、この幸せと比べたら全然平気、30年間毎日これだった時と比べたら余裕だとのこと。
私はその年に一回も耐えられないと思って揉めたのですが、実際に縁を切るには消息を絶ってブラジルにでもいかないといけないと思うと現実的でないと判断しました。
また、彼は仕事柄職場がネットですぐわかるので、苗字で検索すれば一発で居場所はバレます。
とにかく今は彼の母親を怒らせないように、また、接触機会を減らすことに尽力しています。
ここ数日は私のスマホに怒り叫び電話が来たり(三連休で暇だったようです)、彼も私も仕事で疲れている中、改めて彼の母親のことで揉めてしまい、つい増田に書いてしまった次第です。
皆さまのご意見は全て参考になるものばかりで本当に助かりました。
ありがとうございました。
だいたいはお茶出しも事務職の仕事内容のうちに入ってるから仕方ないんだけどな…。
慣れたらべつに何も感じなくなるのかもしれない。ただ今までやった経験のなかでは全然慣れんかった。なんか…お茶出しって…なんか…嫌なんだよな…なんで女がやるのが当たり前みたいな空気になってるのかわからんからとかが理由にあるのかな…。
前勤めてた職場で、「今までお茶出しは女の人に 任せてたけど、これからは男女関係なく手が空いてる人がやろう!」という最高の提案がなされたことがあった。
でもベテラン女性陣の反応はなぜか良くなく、「男性陣にやらせるのは不安だから今後も私達でやろう」という結論に達し、けっきょく状況が変わらなかった。
私ももっと「いや!!慣れておいたらもし女性陣出払ってるときもスムーズに対応できるじゃないですかー!!」とか言えばよかったんだが言えず、マジで悔しくて涙出そうになった。
男の仕事・女の仕事と型にはめる状況がいまだに続いている理由が少しわかった出来事だった…。
それはいったん置いといて、とにかくお茶出しが苦手だ。やることは決まってるようで実は臨機応変が試されまくるところとかも苦手なのかもしれない。気配りがめちゃくちゃ試されるというか。でも雑務とされているのつらい。お茶出し発生のたびに時給10円上げてくれよ…(横暴)。いやでも冬だとお湯沸かしたりしなきゃいけんくてけっこう時間取られるからマジで雑務ではねえよ。いっぱい来たら最悪往復しないといけないし。忙しい時にお茶出しイベント発生したときのあの絶望感なんなんだろうな。
女性上司がマナーに厳しめだとすげえ小うるさく言われることがあるのもつらい。まあちゃんとしたほうがそりゃいいけどよ……最初優しい人にゆるめに教えられて次厳しめの人の前でそれやることになって小うるさく言われるときとか一番つらいかもしれんな。もう、お茶さえ出てて粗相なかったらそれでええやん…と思ってしまう。私が現代っ子だからか?もう、ええよ現代っ子で……。
再投稿更生学校などというものが本当にあるのかと、ここに書き込みをしている増田諸氏には疑う向きもあるが、あるものはある。現にこの自分が在校生としてこの記事の執筆投稿を担当しているのだから疑う余地もない。
最近流行りの、増田投稿者限定のカフェ運営に参加すれば在学期間(刑期?)が3ヶ月短縮される制度が始まったので応募してみたが、心が折れてしまい1週間も続かなかったので、その経緯を説明したかった。
場所は東中野にある何の変哲もない雑居ビルの一室だが、階段まで有名ラーメン店並みに男女の列が続いているので、すぐにそれとわかる。入口ではてなidの記入を求められるという情報があるがそういったことはない。ただし入室時にノートPC(ネットブックの使用が推奨されている)で増田へのログイン状態を示すことが求められているため、右上のid表記でだいたいばれている。
中の空間は意外なほど広々としていて、白い壁に濃いグリーンのリノリウム張りの床になっている。室内にはダイニングテーブルだか机だかよくわからない木製の台が複数置いてあり、周囲に配置された無印良品の木製椅子に座って注文することになっている。
台の上にはメニューが置いてあり、魚定食、ラーメン、お茶の3種類しかない(から注文を取るのは比較的楽ではあった)。魚定食とはいうもののじっさいには魚のフライ定食であって、白身魚のフライにウスターソースをたっぷりかけ、ご飯と味噌汁とともに食べるようになっている。ラーメンは醤油ラーメンのように見えるが、スープはどことなく甘酸っぱく、コーラが入っているらしい。お茶は至って普通の煎茶であって、薄手の湯呑みに入って出てくる。茶菓子は特につかない。
ホール係であった自分にとって特に印象的だったのは、お茶を注文した人の誰もが不機嫌そうで、一口飲んでもその不機嫌さは一向に変わらなかったことだ。理由はわからない。
このカフェでの勤務が続かなかった理由として、激しい便臭に耐えられなかったことがあげられる。魚定食を頼んだ客は例外なく漏らしていた。本人は何くわぬ顔をしていても、ズボンやスカートの隙間から油のようなものが床に垂れて水溜り(油溜まり?)を作っており、それがいたるところで激しい便臭を放っていた。漏らした客の退店後に椅子の座面と床を拭くのは自分を含めたホール係の役割だった。
1ヶ月勤め上げれば早く外に出られるというインセンティブはあったものの肉体的に勤務を続けることができなかった。勤務を終えてシャワーを浴び、寮に戻ってもまだ便臭がしていた。その臭いは幻臭なのか自分の肉体の放つ臭いなのか分からず、夜も眠れなくなり、勤務中止を申し出た。
そういうわけでいまだに自分は再投稿更生学校でこんな投稿を続けている。先にリタイアした同期が同じようなエントリを投稿しているせいで「再投稿は甘え」などと今にも刺されるのではないかと、ビクビクしながら「この内容を登録する」ボタンをこれから押す。
所謂ショットガンマリッジなのだが若くして私を育て上げ、持ち家まであるというのは尊敬に値するだろう。
まあ離婚理由がしょうもないのでプラマイゼロ、むしろマイナスなのだが。
私の職場にいる人、取引先、友人等様々な人が私の周りにいるわけだが、手放しに尊敬できる人、一生尊敬できないな、と思う人など様々な人がいる。
仕事の段取りの良さ、立ち居振る舞い、知識量、身に着けている物、雑談のセンス等から尊敬に値するか判断しているのだが、直属の上司が一生尊敬できないほうの人間なのである。
私より知識もあり、仕事は出来るしそれなりの役職についている、もちろん妻子もある。頭髪は温水洋一よりマシ、といったところか。
尊敬できない理由を私なりに分析したのだが、人間としてのコミュニケーションが壊滅的という結論に落ち着いた。
例えば、私に何か頼むときも、おい、コレやっとけ、ならまだマシな方である。
これで私を動かそうとするのである。
お茶やボールペンくらい自分で用意してほしいし、掃除は共用部なのだからせめて半々でやるのが筋ではないか?九割は私が掃除していると思う。
私だけではなく周囲の人間も、上司の言い方は少しおかしい、といったような意見が出るあたり、部下の私だけではなく他の部署の人にも同じような言葉遣いをしているのであろう。
おい、お茶。って言われたらお茶用意するお前にも問題があるだろwという意見もあるだろう。
しかし事なかれ主義、出来るだけ平和に暮らしたい私はここで愚痴を吐く程度のうっぷん晴らししかできないのである。
私の両親と同じく持ち家もあり、子供を育て上げ、離婚もしていないのに、人間としてのコミュニケーションが壊滅的というだけで尊敬の土俵に上ることすら出来ない。