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2019-07-03

転職会議榎本祥子

数日前に小柳薫が現れた

榎本祥子も引き続き担当している模様

が、今日7/2は連続して小柳

いったい転職会議で何が起こっているんだ

榎本祥子は無事なんだろうか

そして小柳薫とは……

2018-10-14

anond:20181013040456

安室スピンオフの予告炎上回が1話白湯を飲んでいた鶴山のお婆さんの夢だったか

鶴山さんが白湯婆と呼ばれるようになって話自体にも白湯テロ回や悪夢回という蔑称が付けられた

ついでに安室の女間での榎本梓の蔑称白湯になった

2018-04-16

安室透は『テオレマ』である

ゼロ執行人」を観てきた。

思いついたことを書き殴ります

前提

劇場版ネタバレが含まれます。 

・多分な妄想偏見を含みます

・私はコナンマニアというわけではなく、小さい頃TVアニメを観ていたり、思い立ったら新刊を買ったり本誌を読んだり、金ローや年イチの映画を観る程度の知識です。

はじめに~各者の「彼」への認識

我々読者は、公安警察官・降谷零がトリプルフェイスを持つことを知っている。

  1. 警察庁警備局警備企画所属警察官・降谷零(本名および本職)
  2. 黒の組織メンバーバーボン(潜入先におけるコードネーム
  3. 毛利小五郎弟子かつ探偵であり喫茶ポアロ」のウェイター・安室


では、作中のキャラクターは、彼をどう認識しているだろうか。

安室透=降谷零=バーボンと知っている、つまり読者と同じ視点人間は主要人物に限られている。

大多数、つまりモブは、「彼のなりきるキャラクター」にしか知らないのではないのだろうか。

「降谷零」は、幼くは零くん・ゼロと呼ばれ、公安警察として働く生身の人間

バーボン」は、潜入捜査の命を与えられた、降谷零の別の顔。

では「安室透」は?

バーボンと同じく潜入捜査のための身分であるが、一般社会に溶け込んでいるという点で、異質である

任務の一環として」サンドイッチを作り、笑顔を貼り付け、店の前を掃き、コストコらしき店へ行き、そしてJKを魅了してしまう。

そこにいるのは「造られた、空虚存在である

バーボンのほうが、なまじ目的組織内の身分明確化されているために、よっぽど解りやす存在である

安室透」の空虚さへの既視感

彼はある時突然米花町へやってきて居付き、仕事をし交流を持ち、周囲に慕われている。

いつか「安室透」としての彼はいなくなるはずだが、彼を「私立探偵でウエイター安室さん」だと思っている人々は、そんなことは知る由もない。

この状況と似た映画がある。

1968年イタリア映画パゾリーニ監督の『テオレマ』である

ミラノ郊外に住む、工場経営者であるブルジョワ家庭(主人、妻、娘、息子、家政婦)に一人の男が姿を現わし、なぜか男と一家との共同生活が始まる。

そのうち家族全員は男の謎めいた魅力の虜となってゆくが、男が家族の前から立ち去ると、残された家族は奇妙な行動を取り始め、家庭は崩壊してゆく。

テオレマ - Wikipediaより



作中で「男」が何者かは一切語られない。

この物語、まさに「安室透の別の顔を知らぬ者」、米花町の人々の視点である

この視点人物は、梓さんかもしれない。安室透を慕うJKかもしれない。マスターかも知れないし、ピンチを助けてもらっている少年探偵団かも知れない。

周囲の人物に、「素敵でかっこいいお兄さん」として振る舞い、優しく触れて期待させていったあげく、忽然と姿を消すのである

安室透」と「江戸川コナン」の関係

ここまで「安室透」について述べてきたが、彼の空虚さと取り巻く関係は、そのままある少年に当てはまる。

主人公江戸川コナンである

しろ毛利家に深く関わり、数々の困難を共にするうちに断ちがたい絆を得ているという点では、コナンのほうがよっぽど『テオレマ』らしい。

コナンを失った少年探偵団はどうなる?毛利家は?園子は?蘭は?

高木刑事や目暮警部も、耐え難い喪失感に襲われるのではないのではないだろうか。

コナンも造られた存在である。異なるのは、安室透は任務のためであり、コナンは元に戻る方法を探るためであるという点。

目的を持って、仮の身分を演じている。

今後、米花町の残された人々はどうなるのか

私が興味深く感じるのは、いわゆるモブの今後である

そこにポアロウエイトレス安室透の同僚、梓さんを加えてもいい。

まり蚊帳の外」がどう感じるのか、ということである

青山先生は、主要人物の心がうまくまとまっていく様子はきっと描いてくれるだろう。

ただ、数え切れないほどの事件で登場した人々の心情の機微までは描かれないはずである

【参考:コナン事件の数】

2日に一度は殺人事件!?『名探偵コナン』のコナンは、あまりにも事件に遭遇しすぎではないか? | ダ・ヴィンチニュース

「『眠りの小五郎』さんと一緒にいた坊や、どうしているかしら…」「どうやら、行方不明みたいです」

こんな会話が交わされているかもしれない。そして、入れ替わりに新一が戻ってくるわけである

果たして、皆が「コナン」に感じていた魅力を「新一」が埋められるのだろうか。

安室透」に至っては、かけがえのない魅力を持った青年が忽然と消えるわけだからポジションを埋められる人間存在しない。

彼に憧れを抱いていた人間は、永遠に彼の幻影を追い続けるわけである

そこには、崩壊が待っているのかもしれない。

少なくとも、灰原を含め3人が確実にいなくなることが決まっている米花町は、異常な街なのである

おわりに~なぜ「ゼロ執行人」を観て『テオレマ』を思い出したのか~

新一への伝書鳩…という役目もあろうが、新一は声以外登場しない。コナンが頼られている。そして、安室透は自然生活をしながら、「自分恋人」を護る。

新一が元に戻っていれば?安室透がただの公安警察のひとりとして、警備任務につくだけだったら?生まれ得ないシナリオだった。

この映画で描かれた人間模様はすべて嘘の上に成り立っている。

「いつか壊れる日常」だと改めて認識させられた。待っているのは『テオレマ』のような結末ではないかと感じたのだ。

そして、二人のコンビネーション

一般的には、「正義か、真実か。」コナン安室透の対比と対決と共闘が、テーマであり見所とされていたが…。

共通した「造られた存在」を生きるもの。周りを偽る空虚存在。そして周りを虜にする存在

目的が終わればこの姿を捨てるが、その目的は限られた人間しか知らないため、周りを切り捨てるしかない運命

そんなもの共通しているからこそ、分かり合えたものがあったのではないかと考えた。

そんな感情のぶつかり合いが、エピソード緋色真相」での

ウソつき…」

「君に言われたくはないさ…」

セリフに集約されているのではないだろうか。

おわりに

勝手に感じたあむあず(安室透×榎本梓)みについて語って締めくくりたい。

「卵と小麦粉お願いね!」

「梓さんはいいお嫁さんになりますね」



テキパキした手際にそう感じたのかもしれないが、実に唐突な会話である

世辞を言うべき相手でもない。

本音ポロリと出た場面だと解釈すべきであろう。

普段の接し方を見ていても、どちらかの不毛片想い…という感じでもなく、平等に良好な関係を築いているようである

梓さんも、前述のセリフに照れるでもなく、風評被害を恐れて警戒するのみであった。

「降谷零」として、梓さんに好意があるかもしれない。

安室透」によって抑えられているから、あの程度の露見で済んでいるのだ。

「降谷零」は、装わないといけない人間なのだ

そんなふうに感じられた。

若い男女が親しく働いているのだから、そんな関係になる機会もあるかもしれない。

けれども、梓さんが「降谷零」を知る日は来るのだろうか。

「僕の恋人は…この国さ!」と言い切っていた。

【僕】とは、誰のことだったのだろうか。バーボンではなかろう。降谷零として、そのままの意味で言ったのであろうか。

安室透」としては、“恋人”を作るわけにはいかなかったのであろうか。

僕の日本。僕の恋人。どことなく、右翼的ではない。

ひとつひとつを愛せないから、まるごと愛するしかない不器用さと取るのは、曲解になるだろうか。

一人の女をだめにした 一人の男の日暮れ時

日本せまいぞ ラリパッパ タンタラリヤ ラリパッパ

長谷川きよし「心ノ中ノ日本



この歌詞のように、和製『テオレマ』的別れを与え、「安室透」は消えていくのかもしれない。

二人の間にこんなしこりが残るのは、哀しいようで、官能的でもある。






※この散文はフィクションです。オチはありません。随時編集するかもです。

2016-12-15

このマンガがすごい!」が票操作していると思った3つの理由

今年も「このマンガがすごい!2017」が発売された。

ランキングはどうでもよく、どんな人がどんな漫画を読んでいるんだろうっていうことを毎年楽しみに読んでいる。

そこで気になったことがある。男編で、ほとんど同じタイトル投票している人が4人いた。

それがもとで「このマン」は作られたランキングだと確信した。

1:ほとんど同じ作品投票

榎本健(ギャンブルアウトロー書籍編集者

1位 私の少年

2位 中間管理職ネガ

3位 ファイアパンチ

4位 3月のライオン

5位 漫画サ道

桐山ヒデリアニメグッズデザイナー

1位 中間管理職利根川

2位 私の少年

3位 ファイアパンチ

4位 ドリフターズ

5位 兎が二匹

鹿見紘汰(書店POP・立て看板製作

1位 私の少年

2位 うめざわしゅん作品集

3位 善悪の屑

4位 中間管理職ネガ

5位 ダンジョン飯

ホウジョウユタカカウンセラー

1位 中間管理職ネガ

2位 ゴールデンゴール

3位 ファイアパンチ

4位 私の少年

5位 うめざわしゅん作品集

鹿見さんが「ファイアパンチ」に投票しなかっただけで、

のこり全員が「中間管理職ネガワ」「私の少年」「ファイアパンチ」と今年の1位、2位、3位作品投票している。

それ以外の作品も全部10位以内にランクインした作品ばかりだ。事前にランキングを知っていたみたいに。

こんなことってあるのだろうか。

2:まったく無名の4人

このマンガがすごい!」は誰だって投票できるような類のものじゃない。

うえの4人のランキング掲載されているページだって

各界のマンガ好きが選ぶこのマンガがすごい!

と書いてあって、私でも知っているような人ばかりが投票してる。

当然、しらない人もいるけれど、そういう人は検索すればだいたいTwitterなりブログだったりにたどり着くことができた。

上の4人は全員今年初参加(ここ5年分を確認してみた)。名前検索しても出てこないし、失礼だけど肩書を見ても有名な人とは思えない。

実在するのか。

3:4人の点を抜いたらランキングは真っ平らだった

このマンガがすごい!」は採点方法が、きちんと書かれている。

どの作品に何点入ったかもきちんと書いてある。

それに照らし合わせて、今年のランキングから上記4人の点を引いてみたら、1位〜3位はほぼ同点、4位、5位も僅差しかない。

1位から5位がほとんど変わらないランキングって、ランキングとしてどうなんだろう。

それで架空人物でっちあげて票を操作したたんじゃないだろうか。

ランキングもうやめれば

もともとランキングには興味ないし、操作されてても別にいいと思う。

けどカバーにある「本音ランキング」っていう謳い文句は嘘だと思った。

こんな嘘のランキング発表するくらいなら、順位つけずに「みんなのおすすめ」って紹介すればいいのに。

それだけでも私は読みたい。

追記 得点について

疑問に思っている4人の点数を除くと

  1. 中間管理職ネガワ:109→73
  2. 私の少年108→72
  3. ファイアパンチ:88→72
  4. うめざわしゅん作品集成:72→57
  5. ゴールデンゴールド:58→49
  6. ダンジョン飯:54→48
  7. 3月のライオン:51→44
  8. ドリフターズ!:51→44
  9. 兎が2匹:49→42
  10. マンガ サ道:47→41


「接戦の1位、2位と少し離れた3位」という印象だったランキングは「1位〜3位は大差なし」という印象に。

コメントへの返信

白けねえよw

「実力伯仲の名作が同時に三作も出たなんて素晴らしいなあ」と思うよ。

少なくとも架空投票者でっちあげてまで回避するような事態じゃねえ。

「実力泊中の名作」ってより、どの作品もパッとしなかったか底上げっていう感じかも。

「2016」1位の「ダンジョン飯」は270点、「2015」1位の「聲の形」は129点。

それに対して1位が70点っていうのは。

ちなみに去年まで70点台っていうのは5位、6位くらい。

2016-01-27

不倫略奪でドロドロした女は結構消えるよね

山田邦子とか麻木とか山本モナとか細川ふみえとか岡本綾とか荒牧陽子とか榎本とか鈴木早智子とかそう言えば消えたな系は皆不倫略奪

篠原涼子安藤優子樋口可南子みたいに略奪した男の力でさらに成り上がったタイプや、林檎みたいにキャラと才能で許されてる系も居るが

2015-12-24

榎本俊二先生おすすめ漫画ランキング

増田アドベントカレンダーもあと2日。

今日は、僕の敬愛する榎本俊二先生漫画についてランキング形式で書きます

本当はベスト100にしたかったんですが、全部で10コくらいしか作品が無かったのであきらめました。

5位 えの素

榎本先生代表であるえの素。全7巻

エログロ下ネタを煮込んで作ったプリンのような作品

あそこまで気軽に死んだり脱糞したり射精したり去勢したりする漫画はそうそうないだろう。

この順位に甘んじている要因として、ちょっとキャラクター性に頼ってしまっている、と言う点が挙げられる。

葛原さんとかすげぇ良いキャラだと思うんですよ。でもこの漫画萌えかいないじゃないですか

エログロ下ネタをディフォルメして描くことで逆にそれを感じさせない、という絶妙バランスで描かれていたのに、たまにちゃんとエロい、っていうのはよくないと思うんです。

キャラクターを好きになってしまうとこの漫画にもドハマりできると思うんですが、それは榎本先生漫画本質ではないような気がしてしまうんです。

4位 反逆ののろし

デビュー作の短編集。全1巻。

実験作品の集まりであり、一昔前の手塚作品すら思わせる。

特に最後の「風前の灯火ジョニー」は奇跡20世紀最高作品の1つと語られています。(僕の中で)

単調なコマ割り(4x4が並んでいるだけ)。シルエットだけのキャラクター。全てのコマがほぼ同じ構図。

はセリフだけでストーリーが進んでいるのか?というわけではない。

単調なコマ割りだからこそ生まれる単調なリズムによって生まれる「先読み」がゾワゾワとした恐れを生み、シルエットで単調な絵柄だからこそ怖い。

漫画しか表現できない恐怖がそこにある。

この作品は一度読んだだけだとちょっと怖いだけの話に見えますが、あの男がなぜあの行動をとったのか、さらFinの後なにをしていくのかを考えるとさらに恐怖が深まっていくことでしょう。

すごいとおもいました。

3位 火事場の馬鹿IQ

現在連載中の作品IKKIは無くなってしまいましたが、またどこかで連載が続くことを切望しております

今のところ2巻まで。

分かりやす面白い話、ばかばかしい話、意味が分からない話、怖い話、がごちゃごちゃになっています

最近榎本先生精神状態を表しているようで心配になります

怖い話に関しては、榎本先生どうしたの?って思うくらい、社会風刺的でわかりやす怖い話です。(携帯、もあみ

が、個人的には、あまり好きではないです。

他の作者の作品であれば、ふぅん、っていうくらいなんですが、榎本先生がわざわざこんなわかりやすい話を書いちゃうなんて!って思ってしまます

昔の榎本先生だったら、一度話を分解して、全てのパーツをちょっとずつゆがめて、無理やり組み立て直そうとしてぐちゃぐちゃになった状態にしてくれてたと思うんです。

イモ軍団パワーズのような意味が分からない系の話は、カオスストーリーの上に純粋な恐怖がそっと置いてある感じですごくいいです。

ルチンシリーズはただただばかばかしく、合間に読む分にはちょうどいいと思います。少しくらい風刺な要素があってもいいのにね。

と、様々な方向からアプローチを見せてくれる馬鹿IQ

更なる風景を見せてくれることを期待しています

2位 ゴールデンラッキー

初期連載作品4コマ愛蔵版で3巻。

初期は絵も安定しておらず、ちょっととっつきにくいところもありますが、週刊ギャグ4コマ作家が徐々にこなれていきつつ壊れていく様が垣間見え非常に楽しい

後半、キャラクターに頼ってしまっているところもありますが、何とかひねり出しているであろう4コマに底知れないモノを感じさせる。そんな感じです。

あと、最終回のもうどうでもいいや、っていう感じがすごい。でもその中でもルールを徹底していたりと、几帳面さがうかがえる。

どれだけナンセンスに見える作品でも、理詰めで作ってるんだろうなぁ、というのがわかります

1位 ムーたち

面白いとは何か」を考えすぎちゃって、いつのまにか「考えるとは何か」までたどり着き、面白いかどうかわからなくなってしまった系漫画

天才。全2巻。

主人公小学生ムー夫の日常的な疑問に対し、ミノル(父)や身の回りの人と話しながら考えていく、というような平和世界

が、疑問もそれに対する受け答えも常識的ではないが間違っていない、というギリギリを攻めていてスゴイ。

常識にとらわれず、作品の中のキャラクターの考えを理解することが出来れば、その深い世界観に感銘すること間違いなしでしょう。

エログロも無く、女性にも安心してオススメできます

そして、ストーリー面白さもさておき、絵の独特さもかなりのものです。

ミノルが出てくるコマに顕著なんですが、とにかくおかしい。パースがズレているとかそういうレベルではなく。

おそらく、常識無視しつつ、反面論理的である父親、という概念表現しているのでしょうか。

でも、気にならない。

ストーリーが会話メインで進んでいるというのも理由の1つかと思いますが、絵のおかしさがディフォルメのギリギリ許容できる範囲になっているのでしょう。

また、規理野くんが出てくるエピソードでは、ビッグデータとは何かという視点を非常に鋭く描いています

8年以上前の時点でここまでの考察をしているのは本当にすごい。

テーマ哲学的ものが多く、文化とは何か?科学とは?言葉とは?意識とは?1つ1つ、常識を疑っていく。

そんな漫画です。

総括

榎本先生作品は全体的にナンセンスに見えますが、SF思考実験に近いものもあり、組み立てられたものなのか完全なナンセンスなのか、深く考える楽しみがあります

その一番わかりやすモノがムーたち

解のない問いかけに対し、全てが組み立てられた世界が構築され、わかりやすく読み解くことができます

榎本先生作品には実はナンセンスものは1つもなく、全て組み立てられたものなのではないか、とすら想像してしまます

深い。シュルレアリスムにも通じるものがあると思います

特に榎本先生の描く「人間」は、マックス・エルンスト絵画にも非常によく似たものがあります

榎本先生が影響を受けたのか、あるいは偶然合致してしまったのか。

後者だとすると本当に奇跡である可能性があります

というわけで、この冬休みはみんな榎本先生作品シュルレアリスムしましょう。

2015-05-16

純文学だって当時はラノベ扱いだったに決まってるだろ!!!

これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。

http://anond.hatelabo.jp/20150513013343

から今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!

あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。

本気ではないが、半ばそう思っているけれど。

俺はナルシストだ。

そして品がない。

育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちわからんデリカシーも無い。

そんな俺は映画で言えば『アルマゲドン』が大好きだ。

見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリー自爆間際の走馬灯とで3回泣く。

俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわから激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。

こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。

ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。

あとは気分で話題になってるのを読んだりする。

テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。

ラノベSFミステリも気ままに読む。

夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語教科書に載ってるような文豪作品も気が向いたら読んでみたりする。

まあ、ぶっちゃけこの辺は純文学の中でも娯楽小説に近いよね。

ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。

その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。

イリヤの空、UFOの夏』を読むと、

「ぼくは笑わない」

浅羽は、ねじり上げられた襟元の隙間からそう告げた。

榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。

「なぜそう言い切れる」

その説明は難しかった。浅羽は言葉を探して、

「ぼくは、あなたのことが嫌いじゃないから

何度読んでもここで泣く。

これこそが文学だと思う。

さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。

俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。

読書面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。

ギャグ萌え死語)で脳みそ空っぽにできるラノベに限らず。

ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?

重厚哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?

読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。

まさかスタバMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?

世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。

からこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。

で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。

古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。

当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。

から教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。

そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。

俺の思考、心、俺自身構成する言葉の一部とは思えないんだよね。

から俺はライトノベルを読まないといけない。

なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語からだ。

ダイレクト心臓を揺さぶってくるからだ。

俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。

文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。

断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。

全て名作は朽ちていくんだよ。

それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。

自分はこの作品を完全に鑑賞できている、なんて思い上がりだ。

言葉文化も変わる。

作品が発表された当時の空気は、どうやったって感じられない。

俺達には手が届かない。

からどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。

ショパンがその手で響かせていたピアノ音色を、俺達が耳にすることはできないように。

失われてもはや取り戻せない。

情動ロゼッタストーンなんてないからな。

だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。

きっと完全ではないが、味わえる。

だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。

そう信じるに足る何かがある。

眩いだろう。

なんか胸がときめくだろう。

ナルシスティックな気分になるだろう。

何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。

教養のための本になっていくのだろう。

それでいいんだよ。

そしたらまた別の何かが読まれるさ。

そうして俺達は滅びていく。

俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティック情動は、受験生一喜一憂させる国語試験の点数に押しつぶされて消える。

俺達が滅びた後で、意識高い系インテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。

それがちっとむかつくってだけだ。

2015-01-02

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

情報収集

アイディアを生み出すための想像力は「鋭い観察眼と知識」によって培われるものだと西谷は言うが、こうした知識に対する態度は他の多くの作家にも多く見受けられる。例えばクーンツは何かを調べる際、それについての参考書一冊を読んで満足するのではなく、2冊から3冊は確認しなければならないとするし、五代/榊も知識を増やす労を惜しむようでは作家になるのは無理だとする。

知識の広げ方という点では、例えば榎本ネット有用だとして、わからない単語が出てきたら放置せずその場で調べる、新書辞典、専門書を読むことなどを推奨している。またキングテレビ否定し、読書重要だとしている。

重要なのは何かを盲信しないことである五代/榊は単純に何かを鵜呑みにしたり、逆に根拠なく切り捨てることは思考停止であり、これは「極めて危険」だと明確に述べる。クーンツ複数の文献を確認することへの指摘も同じことだろう。

一方、情報収集なぞ必要ないという主張も存在する。水島ラノベを書きたいならラノベだけ読んでいればそれでいいのであり、ラノベに限らず幅広い文献に目を通すべきだという意見作家の見栄に過ぎないと言う。

ラノベ作家を目指すのならばラノベを読んでおくべきだ、という指摘は至極もっともだが、しかラノベ以外の知識は不要だ、というのはいささか乱暴な主張と言わざるを得ない。もちろんそれでラノベを書くことはできるだろう。しかラノベしか知識がないのだとすれば、そこで描かれる内容は他のラノベで既に描かれたものの域を出ない。もちろん、大塚の主張するような抽象化と具体化による工夫は可能だが、そこで具体化するための材料もまたラノベから引っ張ってくるという引き出しの無さは、相当の才能が無い限りすぐに限界を迎えるだろう。

知識という点で、飯田作家オタクであることを求める。しか飯田がいう「オタク」とは流行ラノベを楽しみ、流行アニメを楽しみ、ニコニコ動画流行している動画を楽しむ人のことである

一方で五代/榊は「新しく入ってきてる人達は、オタクと呼べるほど濃くない」とそれをオタクではないと断じる。共に作家が「オタクであることを求めるが、両者の言うもの似て非なるものに思われる。とはいオタクとは何か、オタクの濃さとは何か、という問題に本稿で踏み込むつもりはない。

最後に、知識の無さはワナビ創造する登場人物の幅にも影響することは理解されておくべきだろう。プロアマわずラノベにはよく「天才」が登場する。問題はこの「天才」が知っている知識は作家本人の知識を限界とし、その発想力や考え方もまた作家本人の能力に制約される、という現実である

天才を出したいのならば、作家本人が天才の知識と思考模倣できなければならない。幸い、作中の天才と異なり作家には十分な時間をかけてあらゆる文献を調査する時間的猶予があるのである

おわりに

ワナビの書いたラノベはなぜ面白くないのだろうか。

何度となく推敲され書き上げられたものは珍しくない。にもかかわらず全く面白くないそのラノベ問題点を、例えば登場人物に魅力が無い、物語リアリティがないとあげつらうことは容易である。それが欠点であることは間違いないだろう。しかし仮にそれが解決されれば、つまり偏差値30が50になれば、それは面白いラノベなのか。

五代/榊はワナビを「自分が知らない事は考えたくない、考えたくないところは考えないですましている」と批判するが、ワナビはそもそも「面白さ」について、とりわけ学術的に考えることを避ける傾向があると筆者は思っている。先行研究調査思考の基礎であるが、ネット上で飛び交う様々な「面白さ」についての議論がそれらに言及することは残念ながら稀である

練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。

faridyu

本稿の整理が的を射ているとは限らない。しかし「面白さ」を構成する要素について、先行研究重要性を幾ばくか示すことができたのではないかと考えている。それが本稿をここまで読んだ時間ワナビにとって価値あるものだったかはわからないが、しかしせめて、なにかの気づきに役立つことができればと願っている。

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰4

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

原稿

原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿執筆推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。

さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているもの存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダ偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。

文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダ感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである

はいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。

よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。

水島の「ラノベ文体」と榎本の「ガイド

水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。

具体例として次の例を挙げている。

「すごい美少女だ!」

俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、

――ドカーン

背後で、謎の爆発が!

なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである

何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である

はい学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲーム携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。

読者はバカからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島姿勢はいささか理解に苦しむところである

第一文と冒頭からの3ページ

クーンツ作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。

一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公描写自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るもの描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。

また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。

人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。

しかしながら、これも絶対的忌避されるべきかといえば難しい。

例えば名作と名高い「猫の地球儀」は

あれから七百年と半分が過ぎた。

朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後スカイウォーカーだった。

と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自専門用語を第二文目で出すなど言語道断である

しかし筆者は、上述の水島のドカーンはるか凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。

作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっと妥当であるように思われる。

従って、アクションから入ろうが主人公身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。

情景描写臨場感

頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。

また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果であると主張する。

こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。

止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。

仮に作家自分想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂い付与されているのであれば、臨場感さらに高くなるだろう。

絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法類似点、相違点については十分な調査検討必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。

場面の切り替え

より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校テストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。

これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車ヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである

会話文

クーンツは会話は全体の20~30パーセント必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるバランス必要である

その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツ発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。

ヒックスは会話の機能として、「ストーリー前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。

このようにクーンツヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。

この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本筒井批判するところと言いうるだろう。

人称の効果と神の視点

説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報記述してしまう、という点がよく指摘されるところである

一方で三人称体は登場人物の知りえない情報記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。

このことから水島は、「楽しさ重視のコメディ一人称」が望ましく、「複雑なストーリー三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。

一方で飯田三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。

はい三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。

一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称メリットと、感情移入を容易にする一人称メリットを同時に享受できる極めて強力な技法である

なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロ作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。

他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家登場人物批評したり意見を述べるのは19世紀時代遅れ手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。

端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。

筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論必要であることから本稿では割愛する。

過去の回想/夢

水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリー情報提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。

一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述ある意味でこのフラッシュバック効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。

クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。

推敲

推敲重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。

冲方推敲の要点として、「冒頭とラストインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。

最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディアプロット原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。

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ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

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ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。

はじめに

ラノベ作家になりたいワナビは二種類存在する。

才能のあるワナビと才能の無いワナビである

才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。

これが意味するところは、才能のあるワナビ他人の書いた創作技術本を読んで必死トレースしたりなどしなかった、という非情現実であるノウハウ本を欲するのはいだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビ今日選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。

ラノベ創作技術本は本当に役に立つのだろうか。

スティーブン・キングプロットなど不要だと言う一方でディーンクーンツプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方世界から作らないようでは話にならないと言う。

ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。

しかし、本当に彼らの主張はバラバなのだろうか。

実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。

手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。

もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。

大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。

Hard work beats talent when talent doesn't work hard.

Tim Notke

本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点ラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的努力を実現する上での一助となれば幸いである。

ラノベ定義

本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベル新人賞に向けてワナビ執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的ラノベ定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題このラノベの本質的定義限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。

参考文献

本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。

作家名で適当に並べたに過ぎず、記載の順に意味は無い。

まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。

ラノベの読者

ラノベ作家商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田キャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビ承認欲求を満たすためにあるわけではない。

新城ラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生であるとする。飯田さらラノベの読者はアニメ漫画ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本西谷水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。

ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。

新人賞の下読みの多くは大学生バイトであり(あるいは主婦新人編集者)、選考するのはプロ作家であり、プロ編集者である。いずれにせよ選考過程中高生存在しない。

読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロ作家ワナビでは立場が違う。ワナビラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本現実中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実中高生には圧倒的にウケる20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである

行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。

ラノベ創作の段階に関する整理と比較

最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディアプロット原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。

本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家存在する。

一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。

以下、それぞれの段階についての各論に入る。

アイディア

アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語キーワードフレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである

冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディア連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。

しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。

この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方主題世界、人物、物語文体の5種であるとするし、榎本キャラクター世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体意味を持つものではないが、それぞれが独自用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。

主題

本稿では主題テーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである冲方大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。

主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚作成した主人公像の要素を深化させそこから主題抽出するとしている。榎本プロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。

このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。

繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。

この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。

設定資料集が好きな人存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語設定資料集など誰も目を通してくれはしない。

このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本主題台詞地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツ主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。

世界登場人物

本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報名前性格容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。

一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界である

いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方水島世界が先だとするし、大塚西谷登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。

しかしながら冲方大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。

冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界時代に左右されたもの」と言い、このような世界からこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性要求する。

大塚もまた登場人物個性については「キャラクター所属する「世界」の物の見方価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。

世界登場人物リアリティ

ワナビの「世界」について「リアリティ自分身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校コンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。

冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。

その一方で登場人物については、冲方はそれが主題関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島登場人物プロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初長大キャラ表を作るというワナビありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物存在していない」と断じる。

だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。

登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。

これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャート作成するのが良いとして、さらには性格趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。

ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。

最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2013-09-11

http://anond.hatelabo.jp/20130910143829

元ネタ教えてやんよ。


元ネタ現在放送中のアニメ恋愛ラボ」の第9話「その笑顔が……」における榎本結子(エノ、眉が太い赤毛のツンデレかわいい)の回想シーンです。※ちなみに、「恋愛ラボ」と書いて「“ラブ”ラボ」と読みます

その回想は、幼馴染である水嶋沙依理(サヨ、四角縁メガネ守銭奴、サバサバとした性格で口が悪いのであまりかわいいと言われるキャラではないが個人的には罵られたいしこういうタイプこそ(略))との間にあった、小学生時代にあったある出来事についてです。

回想の内容は、同じ図書委員で仲良くしてるところ、アンケート友達名前を書かされるというところ、エノが先生に「先生、私、嘘をついちゃいけないのに嘘をついてました…」と言いにいくところ、その横でサヨが聞いてるところと、元増田とほぼそのまんまです。

そう、元増田の娘Sちゃん=サヨ、Eちゃん=エノなんです。

ただし、元ネタはエノによる回想なので視点真逆です。


ちなみに、元ネタではその横で聞いていたサヨが「榎本さん面白すぎ」と大笑いして、現在高校生)のサヨがした「私でも滅多に見たことない(byエノ)」という大笑いのシーンとリンクすることになります

エノは回想したあとボソッとこうつぶやくのです。


(今あのアンケートをやったら誰の名前を書くのかしらね


きっと、サヨはもちろんリコ、マキ、スズの名前も書かれるんでしょうね。

( ;∀;) イイハナシダナー


なお、原作漫画は未読なのでわかりませんが、おそらく同様のシーンがあるのではないかと思います。ただし、元増田タイミングから言ってアニメから拾ってきたのでしょう。


恋愛ラボ」第9話はニコニコで9/15の23:00まで配信中!該当シーンは4分30秒過ぎからと、20分55秒過ぎからです。

http://www.nicovideo.jp/watch/1378443899



これは、私のような誰かが元ネタ解説までするのを見越した、巧妙なステマなんだと思います

 
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