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2022-05-11

anond:20220511170323

Q1.徳川は妻と長男信長の命で殺すくらいの従属だったけど北条から人質とかあったの?

信康殺害信長命令だったという説はだいぶ疑問視されてるよね。

いまは家康と信康の対立が原因だったというほうが定説なんじゃないかな。

北条場合、「完全に織田臣下になっていた」というほどではないと思うけど、

関係では織田がだいぶ上の同盟関係であったことは間違いないよね。

織田徳川同盟もいつから対等じゃなくなったか議論のあるところだと思うけど)

Q2.北条織田に臣従したなら、正統後継者豊臣にも臣従したはずだよね?

本能寺の変とき滝川一益を襲撃しちゃったからそこでご破産だよね。

そもそも織田家に臣従していたら豊臣にも臣従したはず」理論おかしくない?

秀吉織田家の後継を自認したことと、織田家に臣従していた大名がそれを認めるかどうかは別の話だよね?

その理屈が通るなら勝家も家康もおとなしく秀吉に従ってたことになるじゃん。

Q3 関八州を押さえた北条織田と組んで、武田に対抗したのでは?

当時の北条関八州を押さえてないよね。

本能寺の変の時点で伊豆相模武蔵下総くらいまでじゃない?

織田北条同盟VS武田上杉同盟という構図ではあったけど、

そこから織田がほぼ独力で武田を滅ぼしちゃって北条は何のおこぼれも貰えず、

さりとて織田文句を言えるわけでもなく我慢するしかない状態だったよね。

やっぱり事実上従属状態で、本能寺がなければそのまま織田家の家臣になってたと思うなあ。

anond:20220511165035

Q1.徳川は妻と長男信長の命で殺すくらいの従属だったけど

北条から人質とかあったの?

Q2.北条織田に臣従したなら、正統後継者豊臣にも臣従したはずだよね?

Q3 関八州を押さえた北条織田と組んで、武田に対抗したのでは?

徳川家康正妻築山殿が、家康命令により殺害。またこれに続いて9月15日には、築山殿と家康の間に生まれ長男松平岡崎)信康も切腹を命じられ自害した。

この事件真相は、信康の正室信長の娘である五徳(徳姫)が、不仲となった夫信康の素行の悪さを父信長に告げ口したとか

2022-05-08

桶狭間のあと信長今川家方向へと進出したらどうなったのか?

まず東の今川領に進もうとした場合に一番はじめにぶつかるのは三河松平家勢力範囲になる。

これは意外に感じるかもしれないが尾張から東に領土拡張する場合史実のように松平家同盟を結んでから遠江へと進出するというのはおかしな話だ。

そんなことをしたら飛び地になるし何より海の物とも山の物ともつかぬ松平家の新たなる当主家康を信頼して三河を素通りして遠江侵略したところで後ろから攻撃される可能性が極めて高い。

から今川領へと侵攻する場合にはまず三河勢力とぶつかることとなる。

その場合、当然松平家今川からの自立を自重して今川傘下として収まる代わりに今川の後詰を得る形となる。

まり今川家が史実ほどには崩壊しないことになるのではないか

今川家が桶狭間のあとに凋落していく原因の一つに三河勢力の離反と攻撃がある。

そのことで武田徳川勢力からの同時進行に苦しめられたのだ。

しかし、三河勢力が離反しなかった場合には比較的安定した勢力を保っていた可能性が高い。

と、すると信長的には全然おいしくないのだ。

さらにその状況でもあえて今川領に進出した場合には三河勢力美濃斎藤家と同盟を結んで織田家挟み撃ちにする可能性が高い。

こうなると北と東とに敵を抱えて美濃三河を手に入れるどころか逆に尾張を維持することだけに汲々としたことであろう。

これでは桶狭間以前より状況が悪くなる。

このように考えると「天下布武」などという大きな構想を考えること以前に東に同盟勢力をつくるというのは理にかなっていることであり同じ同盟を組むのなら三河選択するのはあたりまえでh

2022-05-02

Yesといいえが似てる

パリピ早口で「いいえっス」と答えたらYes区別がつかない。

徳川家初代将軍は秀忠ですか?」と聞かれて早口で「家康」と答えたらYesと答えたことにされるおそれがある。

2022-04-30

衆道男色文化破壊され、男性枕営業できなくなった

台記 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E8%A8%98

台記』(たいき)は、宇治左大臣藤原頼長日記

保延2年(1136年)から久寿2年(1155年)まで19年にわたる。

頼長が稚児や舞人、源義賢武士貴族たちと男色を嗜んでいたことも書かれており、

当時の公家性風俗を知る上で貴重なものとされる。

 

男色大鑑 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%89%B2%E5%A4%A7%E9%91%91

男色大鑑』(なんしょくおおかがみ)は、井原西鶴による浮世草子

1687年(貞享4年)4月に発行。全8巻、各巻5章、計40章。

前半4巻20章は、主に武家社会における衆道を取り上げており、総じて非職業的男色世界である

後半4巻20章は、町人社会に属する職業的歌舞伎若衆を取り上げている。

男色大鑑』では、武家社会町人社会という二つの社会において、

習俗として公認されていた男色総合的に描かれている。

武家社会戦国の余風として男色をたしなみ、しか武士道における義理男色モラルとし、

衆道(若衆道)と称するに至った。

 

黒船アヘン戦争脅迫されて、産業革命帝国主義と一緒にキリスト教倫理を丸飲みするまで、

日本では基本的男色が行われ、「強者男性枕営業をするチャンス」が男性にも与えられていたんですよね。

 

井伊直政徳川家康の19歳年下の小姓で、『甲陽軍鑑』に「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」とありました。

「御座を直す」は、主君の伽(とぎ)のお相手をする隠語なんです。

井伊直政家康の家臣のなかでは、最大の領地をもらいました。出世約束された家柄では決してなかったのに。

 

前田利家織田信長の小姓でした。加賀藩公的史料ひとつである『利家夜話』には、

織田信長が小姓時代前田利家を傍で寝かせていたという内容が記されています

前田利家といえば、加賀百万石ですよね。国持大名石高ランキングで、加賀前田家は102万石と日本一なのです!

(2位薩摩島津家77万石、3位陸奥伊達家63万石、4位肥後細川家54万石、5位筑前黒田家52万石)

井伊直政前田利家がしっかりと出世しているのは日本史を少しでも学べば分かる通りです。

 

豊臣秀吉は筋金入りのドノンケなので小姓に手出しはしなかったようですが、

秀吉はドノンケ!」ってわざわざ言われるくらい、戦国時代男色は当たり前のことだったんですよね。

 

キリスト教繁殖主義なので、繁殖に繋がらない性行為を悪として扱いますし、性行為を楽しむことも悪とみなします。

カトリック正式な性行為は、女性を麻袋に入れて結合部分にだけ穴をあけ、

服をしっかり着た男性が陰茎だけを出し、素早く挿入して射精するという、スピード繁殖です。

家畜の授精みたいでなくてはなりません。「麻袋フェチ」に目覚めて性を楽しんでしまうのも禁止です。

こういう宗教からゲイ100%繁殖に繋がらない性行為を楽しむ連中)の弾圧なんかするんですよね。

 

キリスト教圏で「あいつはゲイだ」という噂を立てられると、男性集団に襲われ撲殺されたりするそうです。

日本ゲイフォビアって所詮は「キモがる」程度なので、撲殺するキリスト教圏とはやっぱり根本的に違います

LGBT運動などもキリスト教圏で起こったのは、撲殺されるほどの弾圧があったからですよ。

とにかくクリスチャン黒船アヘン戦争日本脅迫して来たので、日本西洋化して反・衆道になりました。

そのせいで男性売春お金を稼いだり、男性強者男性枕営業して出世したりという、

男女平等日本の伝統が破壊されてしまったんですよね。

クリスチャンのせいで、貧乏男性が「女性身体を売ることができるから人生イージーだ」などと、

女性嫉妬する社会になってしまったんです。呆れたことだと思いませんか?

2022-04-19

anond:20220418193051

「三大」じゃなくて「三代」なんだよね

徳川家光家康権現様は偉かった」

・ルイ・ボナパルトナポレオン1世は偉かった」

ルパン三世「じいさまは偉かった」(cv山田康雄

2022-03-08

anond:20220308133124

私たちはいから肉食になったのか?日本人の肉食の歴史を徹底解説

https://intojapanwaraku.com/culture/48024/

疲れている時、あるいは気合を入れて勝負に臨みたい時、もちろんなんでもない時にでも「お肉食べたい!!」と思うことはありませんか? 焼き肉から揚げ、ハンバーガー、さまざまなお肉をわたしたちはすぐに食べることができますしかし、こうしてお肉をなんのためらいもなく食べられるようになるまでに、わたしたちご先祖さまたちは葛藤を繰り返してきたのです。

日本人の肉食について『肉食の社会史』(山川出版社)の内容と、著者である上智大学教授中澤克昭先生お話をもとに追ってみました。

うつりかわる肉食への考え方

日本史教科書などで「文明開化」の言葉とともに「牛鍋」を食べる人の絵を教科書などで見て、なんとなく近代明治時代)以降に肉食が始まったと思っている人は圧倒的に多いのではないでしょうか。けれども中澤先生によれば、肉や魚を食べることは、伝統的な食文化だったそうです。ただ、平安時代からは「食べないことが高貴な身分のふるまい」「食べるのはいやしい」と思われるようになったとか。また、家畜労働力提供してくれる大切な存在であり、食べる対象としては見ていなかったようです。

3世紀ごろの日本ヤマト)には、誰かが亡くなった際、喪主は肉食をがまんする習慣があると『魏志倭人伝』に書かれているそうです。これは「物忌み」のひとつとして肉食を慎む「禁欲」だったと考えられています。つまりこの時点では日常における肉食は「禁忌」ではなかったのです。その後、6世紀仏教とともに「殺生」を「罪業」とする考え方が伝来します。喪に服したり何かを祈願したりする時に肉食をガマンする習慣と仏教の殺生罪業観、このふたつが融合して、のちの肉食忌避タブー)につながっていくのです。

中澤克昭著『肉食の社会史』(山川出版社

しかし、肉食忌避が強まるのは中世からで、古代には天皇も肉を食べていました。天皇は各地でとれたものを食すことで統治していることを示していたからで、イノシシシカも食べられていたことが、さまざまな記録や古代遺跡から出土した木簡からわかっています中澤先生によれば、「大地を象徴する生き物を狩ることで土地所有権確認する儀礼でもあった」と考えられているそうです。

貴族メインディッシュはあの鳥

古代には禁欲対象だったお肉も、平安時代になると禁忌まり忌避されるものへとかわっていきました。たとえばイノシシは何世代飼育されるとことで「豚」という家畜になりますが、奈良時代にはヤマトでも豚が飼育されていたそうです。ところが平安時代になると、食用に育てられている動物確認できなくなります。野生のイノシシを食べることは続くので、家畜は食べないほうがよいというメンタリティを持っていたことはまちがいなさそうです。

天神さま(菅原道真)の牛のように、神話伝承世界にも動物は出てきますが、家畜を食べるという物語はまずありません。タブーだったのです。死んだ家畜、いわゆる斃牛馬(へいぎゅうば)はいわば産業廃棄物で、専門の人々によって処理されましたが、その仕事にあたっていた人は捨てずに食べていたと思われます」(中澤先生)。ただ、そのことは公の記録には残っていません。馬刺しも牛の内臓ホルモン)も食べられていたはずですが、身分の高い人には忌避されていたのです。おおっぴらに食べられるようになったのは、近代以降ではないでしょうか。

新鮮な馬肉

では、鶏肉に関してはどうだったのでしょうか。「鶏も『時を知らせる、占いをする』という性質が強いので、おおっぴらには食べられていなかったと思います。卵は食べたはずですが、それもあまり記録にのこっていません」(中澤先生)。闘鶏に使われた軍鶏などは「筋肉質で硬くて、現在の鶏ほど美味しくなかったでしょうね」と先生はいます。「牛も体脂肪が少なく、現在の『霜降り』のような食感とはほど遠かったのでは」とのこと。

なお、近代以前に肉を地方から京都江戸へ運ぶとき塩漬けにするか干し肉にする場合が多かったそうですが、キジの新巻や干し肉存在していたとか。案外さまざまな加工肉があったそうです。……鮭では見たことがありますが、鳥が新巻にされるなんて想像もつきませんでした。また、少し前にグルメ界を席巻していた熟成肉もあったそうです。遠くから生で運ばれた場合、その可能性が高いとか。よく食べられていたのはシカイノシシでしたが、貴族社会宴会ではメインディッシュとして鳥のキジが好まれたそうです。焼くだけでなく、刺身でも食べられたそうですが、味付けは摂関家であれば、ひしお現在味噌醤油の原点と考えられている調味料)や酢などが使われたと考えられています

殺生禁止と生贄とのあいだで揺れた「鷹狩り」

肉食を考えるうえで必ず登場するのが「鷹狩り」です。鷹狩りは、神々へのお供え物の調達手段としても大切で、仏教の殺生禁断の思想が広まってからも続けられました。古代には貴族の間で行われて、鷹狩りのための狩場もつくられ、鷹狩りに用いる鷹の繁殖のために狩猟や入山を禁じた巣山や巣鷹山と呼ばれる山もありました。その後、貴族から武家権力が移ると、キジだけでなく白鳥や雁もよく狩られるようになり、小型の鶴が狩られたこともあったようです。武家食事マナーでは、鷹狩りの獲物は箸ではなく指で食べることになっていました。食材としての価値が高く、食べ方にも特別作法があったようです。

江戸時代になると、徳川家康が好んだ鷹狩りを、代々の将軍が受け継ぎ行っていました。江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐みの令」のころまでは史料確認できますが、その後しばらく姿を消してしまます。復活するのは8代将軍・徳川吉宗のころ。吉宗徳川家康尊敬していたので、家康が好んでいた鷹狩りを復活させたようです。その後、大政奉還が行われ明治新政府が発足した後は、鷹狩りは大名特権ではなくなりました。明治天皇御料場で鷹狩りを行ったようです。在位中の天皇狩猟に出かけたのは、白河天皇が1073年に嵯峨野鷹狩りをして以来のことでした。天皇800年ものあい狩猟をしていなかったわけですが、この800年はそのまま武士時代と重なっているのが興味深いところです。

明治天皇1872年牛肉を食べましたが、近代以降もしばらくは肉食に対する忌避感がありました。しかし、食の欧米化や大規模な多頭養豚経営、乳用種雄の肥育牛の食用への転用などにより、1955(昭和30)年ごろからは急速に肉食が一般化していきます。結果、戦後まれ世代からは肉食があたりまえの世の中になって現代に至ります。食肉生産が進み、ブロイラーが出てきたからこそ「帰りに焼き鳥ちょっと一杯」ができるようになりました。そんな生活高度成長期にようやく成立したもので、まだ現在のような「お肉を食べたい」「お肉を食べよう」の歴史は50年ほどしかないのです。

ジンギスカン用のラム肉

一方で2030年ごろには、世界人口の増加が食肉生産を追い越してタンパク質が足りなくなる「プロテイン危機」が起こるという研究があり、昆虫食研究などが進んでいます。今のようにお肉を食べられる時代は、日本史のなかの、ほんのわずかな期間で終わるのかもしれません。

動物を殺す」肉食に対してはさまざまな意見もありますが、人間の食欲がそれを抑え込んでいるのが今の時代です。お肉はいつでも好きなだけ手に入りますし、食べることもできます。「中世には動物を殺すことやそれを食べることがタブーとされていましたが、実際に食べる人は少なくありませんでした。うしろめたさと食欲との葛藤があって、そこからさまざまな言説が生まれました。現在も肉をめぐってさまざまな問題があります。もう少し葛藤があっても良いのかもしれません」と中澤先生は言います。「お肉が食べたい」という気持ち自由に満たせる今だからこそ、食文化についてちょっとだけ考えてみませんか。

2022-03-06

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

2020年4月27日 01:24

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妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

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徳川家康といえば健康オタクとしても知られていますいくらでも贅沢できる地位にいながら、基本は粗食を中心としていた家康生活。そんな家康不思議な生き物と遭遇しかけたのは、駿府城にいたときのこと。

家康が遭遇しかけた肉人は多力を得られる仙薬?

慶長14年、家康が在城していた駿府城内にて、不思議な生き物発見されました。その姿は子どもほどの大きさで、肉の塊というか肉人ともいえる生き物だったのです。

指のない手で空を指し続ける異様な姿を前にして、家来たちは混乱しました。どうすればいいのかわからず、結局 家康に指示を仰ぐと、「どこか遠くに追いやれ」との命令が。

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家来たちはその肉人を捕まえようとしますが、素早くて捕まえられません。そのため、追いやるようにして山へ追い込みます

後日、この話を聞いた知識人がいうには、「それは中国古書白沢図』に記載されている『封(ほう)』という仙薬だ」とのこと。かなり貴重であり、食せば多力になると語ります。知っている者がいれば家康公に差し上げられたのに、もったいないと口惜しがったそう。

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

徳川家康像(wikipedia

ですが、家康からしたらいくら健康オタクでも、そんな薄気味の悪いものは欲しくなかったのではないでしょうか。このエピソードは、江戸時代随筆「一宵話」に記されています。実際に肉人がいたかどうかは定かではありませんが、なんらかの不可解な現象は起こったと考えられます。■肉人の正体は妖怪?それとも宇宙人

警備の厳しい駿府城に入り込み、家康の家来たちにも捕まえられなかった肉人。この不思議な生き物の正体は、妖怪「ぬっぺふほふ」といわれています江戸時代浮世絵師鳥山石燕が描いた「画図百鬼夜行」にも登場する妖怪です。

妖怪?それとも宇宙人徳川家康が遭遇しかけた「肉人」の正体とは?

鳥山石燕画図百鬼夜行』より(wikipedia

また、幕府公式記録である徳川実記」には、肉人と遭遇した日に雲が発光したと記されているそうです。肉人は空を指していたという一宵話のエピソードと、徳川実記に記された発光する雲をUFOだと考えると、もしかして肉人は宇宙人だったのかもというオカルトな展開も想像してしまます

ただし、浮浪者が紛れ込んだだけの可能性も考えられます。だとしても、警備が万全だった駿府城に入り込んで捕まえられなかったというも不思議な話ですね。

2022-02-28

専制君主晩年おかしくなるというのは歴史証明している

歴代でいうと漢の劉邦、斉の桓公ヒトラースターリン毛沢東秀吉など、枚挙にいとまがない

プーチンさんはそれでもかなり正常を保っていたように見える、スポーツをやっていたからだろう

しか20年というのは専制君主おかしくするのに十分な期間である

家康は50歳で秀忠に将軍職を譲っていたか幕府が300年つづいた

もし終生将軍職とかやってたら同じようにおかしくなっていただろう

2022-02-14

江戸時代サッカーがあったら

家康「マイボマイボ」

家臣「ナイッシュー

2022-02-12

anond:20220212132337

歴史から教訓を得たのが家康公とも言えるのでは?吾妻鏡愛読書だったとかいう話もあるし。

anond:20220212090323

武家の子は祟る、と同じだよ。

子供だ、と捨て置いた頼朝平家はやられたやろ。

から容赦なく勇者の芽は摘んでおかねばならない。

家康とかはそれを徹底したから長らく江戸時代平穏に続いた。

2022-01-08

anond:20220107185925

門松の松と竹からの推測

・松は花粉症原因の一つ

・竹を神聖視する中国日本向け竹製品を作らない

・竹槍を模しており危険敗戦も思わせる

竹取物語家具屋姫が女系でも男系でもなく議論を呼びかねない

松竹寅さん渥美清がもう没してしまった

門松家康から信玄への呪い起源で、自民には武田系甘利がいる

JOC竹田五輪疑惑

竹簡は古いが門松は言うほど古くないので大丈夫です

anond:20220108150704

家康って、名前はどうやら自分でつけた名前みたいだけど、

これって、徳川幕府成立して豊臣家滅ぼした当たりで

おれって、ネーミングセンス抜群にうまかったよなって自画自賛したろうな。

2022-01-03

もし、織田信雄秀吉に命じられた領地替えを受け入れたら

日本の歴史はまったく違ったものになっていたよね。

150万石の大大名織田信雄

100石に3人動員でも4万5千人が動かせる。

東海道に配置され家康の関が原進撃を助けた豊臣恩顧大名も別の領地いかなければならない。

実は豊臣の天下が続いたかもしれない。

でも、佐々成政みたいに統治に失敗して信雄が切腹させられる展開もあったか

家康が治めた後だし、どこかの黒田細川みたいな喧嘩はしない気もするが

上杉も堀相手になんかやってたな。

どうだろうな。

興味深いが架空戦記にするには信雄の魅力が微妙だよなぁ

ちなみに100万石与えたいと言われた石田三成ガチで100万石与えられた架空戦記存在する

2022-01-02

初詣駐車場待ち行列にて

家康公のお膝元の神社なんだけど

駐車場待ちで小一時間ぐらい行列になるのよね

神社のまわりぐるっとなるぐらい。

毎年一車線つぶして警備員もついてお行儀よく待つのだけれど

その行列に、途中の横道から無理矢理つっこんできて

横入りしてくるクルマがいたのですよ。

警備員が注意しても列に無理矢理入り込んで素知らぬ顔して

やっぱりねってぐらいの黒い箱車ね。

周りはあーこのクルマのひとアタマやばいわーって

歩いてる人もクルマで並んでる人もみんな見てるわけ。

そこまでして神社にお参りするって

信心深いんだなぁって思いました。

おわりのぶなが

2021-12-24

anond:20211214112549

信長を討った反織田の首魁が中央に健在であるとき

織田に圧迫されてた緒勢力の動きは全然違うものになると思う

毛利は即将軍お墨付きを発行して秀吉を包囲抹殺にかかるだろうし

そもそも大返ししなかった場合普通に戻ってくるのって無理じゃね?

更に言えば織田遺臣が速やかに明智を討てなかったとき家康は遺臣側につくと決まってるの?

2021-12-14

anond:20211214094854

6/2本能寺の変
6/3光秀が近江出兵
6/4家康岡崎城に帰還
6/5光秀が近江を平定
6/7秀吉姫路城に帰還
6/8光秀が坂本城に帰還
6/9光秀が秀吉迎撃に出陣
6/12秀吉摂津富田まで進出
6/13山崎の戦い
6/14家康尾張熱田まで進出
6/16秀吉近江を平定
6/18勝家が近江長浜まで進出
6/22秀吉美濃尾張出兵
6/25秀吉美濃尾張を平定
6/27清洲会議

山崎の戦いから秀吉近江を平定するまで3日、そこから美濃尾張を平定するまで9日、

というスケジュールを仮に光秀に当てはめたとすると、

6/2に本能寺の変、6/5に近江を平定、6/14に美濃尾張平定、ということになる。

実際には、織田家本領尾張美濃での抵抗は激しいだろうからもっと時間がかかるはず。

家康進出してくるまでに、尾張平定を完了したうえで迎撃態勢を整えるのは難しいだろう。

さらに、その背後には勝家が迫ってきているわけで、光秀は尾張家康と睨み合っているわけにもいかない。

なので周辺の地固めといっても、戦力的に重要美濃尾張はどうやっても確保できず、

光秀は京付近まで下がって家康・勝家と対峙するしかないが、

そうなったとき細川筒井がいきなり明智に味方するとも思えない。

下手すりゃ近江勢まで離反する。

あるいは、近江平定から今度は大坂方面に軍を向けていたとすると、

池田恒興中川清秀摂津諸将は降伏していたかもしれないが、

近江美濃尾張は勝家と家康占領されていたかもしれない。

中国大返しが無いというのが、

秀吉普通の速度で戻ってくる」ということなのか、

秀吉近畿出兵しない」ということなのか、

秀吉が光秀と敵対すらしない」ということなのか分からんので、

光秀が大坂方面にどれだけ兵を割く必要があるのかも分からんが。

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