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2019-04-04

anond:20190404112324

方広寺のあれを書いたのは、豊臣氏と繋がりが深かった文英清韓で、

わざわざ、「家康」「豊臣」という文字を使うようにしたことが判明してるので、ただの言葉遊びではないんだよ。

そもそも、当時は、貴人実名では呼ばず、例えば家康であれば「内府」など、官職で呼ぶのが常識だった時代

名前を分割して書くのは、そいう意図があったとしか考えられない。

2019-03-31

anond:20190331201029

そう

家康も光成も朝鮮人だったか秀吉後継者は全員でつぶせとそういう話になった

2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。実は三河武士あいだでやたらと流行っていて十人いたら七・八人は唐の頭をつけていたと言われており、というのも唐の頭を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり 伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり 児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり 天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり 大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つあり だんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり 成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり 佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり 河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度 飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり 藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

2019-01-24

anond:20190124112808

福岡もこだわってるところは一次仕入れしてるし、

チェーンの焼き鳥屋家康」「信長だって当日朝直接仕入れだよ

鮮度と旬を無視して味を語るなんて、世間が狭いとしか言いようがない。

2019-01-11

anond:20190111020103

適当にググってみた。

日韓関係Point of no returnを超えました。拉致問題北朝鮮に対する、尖閣漁船事件中国に対する日本世論が激変しましたが、同じことが起こっています

次の世論調査が楽しみです。

管理人 2012/08/31 01:44

https://mogiseka.at.webry.info/201208/article_5.html

2018-12-29

anond:20181229083612

秀吉怨霊でござる。帝国とか爆撃機とかなんのことやらサッパリからぬが、駿河国に攻めいったことは分かったでござる。大儀であった。

幼い秀頼の世話を申しつけたのに大坂城を燃やした家康狼藉は許せぬ。

敵味方どちらになるかは知らぬが、いずれ冥界での合戦で見ることもござろう。楽しみにしておりますぞ。

2018-12-18

anond:20181218174650

まあ、歴史面白いでもいいんだけどね。

世界史のほうになってくると君主論とか、貞観政要とかの元となるのは、その時代より前の歴史だ。その時代以前の歴史について教訓になるものを集め、生まれ書物だ。

戦国時代織田信長豊臣秀吉の天下取りと、老後の暴走、それを見ていた家康の行動、教訓になりつつも面白いよ。

歴史政治であり、それは人と人の間の権力物事の実現のドラマだ。面白くもあり、また現代の教訓でもある。それは人の強さ弱さの結果だから

2018-10-17

聚楽第歴史改変

オタク戯言です。

刀剣乱舞イベントおめでとうございますー!楽しみです!

聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。

分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくま妄想ですので批判等はお控えください。


1.聚楽第とは

聚楽第とは豊臣秀吉天正15年(1587年)9月京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市中央図書館所蔵蔵浅野文庫諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。

元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイス聚楽快楽歓喜の集まり意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。

浅野文庫

尊経閣文庫

三井文庫

国立国会図書館文庫

桜井成広所蔵本

聚楽教育会所蔵

三井家所蔵「聚楽第図屏風」

堺市博物館所蔵「聚楽行幸図屏風」

三井文庫所蔵「豊公築所聚楽城之図」

①〜⑤は周囲の大名屋敷名称バラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁役割であったと考える。しかし、秀吉政治に関して大阪城聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第公家としての居城であり、大阪城武家としての居城であると書いている。

聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である

秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである秀次秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山追放高野山人質切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉親族切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。

2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史重要

今回のイベント於いて歴史修正されたのは豊臣秀次生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。

まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである

朝鮮出兵

豊臣秀次切腹事件

それでは順に述べていこう。

朝鮮出兵

朝鮮出兵聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である大陸領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。

(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸出来事のためあくま私的妄想範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵関係ないと思います歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)

秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界理由としては前項で述べた聚楽第歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば

1587年 京都聚楽第完成

1592年 秀次聚楽第を与える

1595年 秀次切腹と共に破却

しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。

この事から聚楽第存在するには秀次生存必要であり、切腹事件が起こらない過去改変が行われていると考えられる。

2018-09-26

anond:20180926100956

まあ、最近関ヶ原家康が勝つのネタバレ扱いされることもあるからねえ。

そこまで行かずとも、『キングダム』なんか史記の年表をネタバレ扱いするやつがいるし。

2018-09-06

今こそ遷都

地震豪雨酷暑台風・・・今年、日本列島は、かつて無いほど立て続けに深刻な自然災害に見舞われている。

この危機的状況を踏まえ、日本国政府は200年ぶりの新天皇への譲位と、それに伴う改元、更には池袋大仏造立と、あらゆる霊力を尽くして災害への対策を進めている様だが、今般、北海道においても大地震が発生し、依然として自然災害の勢いが治まる様子は見られない。

もはや、我が国に残された手段は「遷都しかあるまい。

東京は、常に人口過密状態にあり、いつ何時、自然災害により壊滅し、甚大な被害が生じてもおかしくない状況下にある。

家康公の江戸開府以来、江戸=東京は、幾度となく壊滅しても不死鳥のように蘇った都市ではあるが、我々日本民族はかつての輝きを失いつつあり、次に都市が壊滅した時は、もはや没落するしかいであろう。よって、機運の高まっている今こそ、東京オリンピックを返上して遷都すべきなのだ

さて、遷都先については既に諸説あるが、私は是非「つくば」を推したい。

つくば市は、中心部台地状となっており、大きな河川も無く、水害に見舞われる可能性が非常に少ない。茨城県の地下には、フィリピン海プレート太平洋プレートが潜り込んでおり、比較的小規模な有感地震は多い方であるが、大規模な地震を起こすような活断層は見られず、地震に強い土地である。霊的にも、東に桜川青龍)、西に常磐道白虎)、南に牛久沼朱雀)、北に筑波山玄武)と、四神相応の地であることは言うまでもない。また、公務員宿舎跡や国立研究機関等、官庁街へと転用可能国有地が多く存在する。噂では、かつて東京の過密対策目的として、富士赤城那須筑波への遷都検討され、旧東京教育大学(筑波大学)も無理やり移転させられたが、なんだかんだあって規模が縮小されて研究学園都市となってしまった。その後、民主党政権下での決定によって一部で国有地転売が進められているが、即刻これを停止して、皇居国会議事堂中央官庁等のつくば移転実施すべきである

2018-07-10

バカ家康ムカつくから関東に閉じ込めとこw」

お前らのせいで庶民地獄のような夏に苦しむんだぞ反省しろ

2018-04-24

のび太が怒られるのが辛くて見てられない

佐々成政が情勢を顧みずに秀吉に反抗するのを見るのも辛い、

成政が家康に会えないのにさらさら越えするのが辛い、

成政が統治の難しい肥後に行くのは涙無しでは見れない

2018-03-28

タイムマシンで1600年代初頭へ

徳川家康に、

未来から来ました。徳川幕府は260年続きますが、最終的には島津毛利の倒幕軍によって滅ぼされます

と耳打ちしたい。

家康なら何をするかな。

2018-03-18

anond:20180318153948

なんでそういうことをやった家康天皇にならなかったの?

武家貴族を統べる王の中の王にだってなれたじゃん

2018-01-19

ヒストリア見てるんだけど

人質になった"まつ"って人妻好きの家康にヤられたの?ヤられてないの?

2017-11-20

大河ドラマの主役

どんどんマイナー人物になってるじゃん。

前々から大河日本史重要人物を十数人程度選んで、ローテ組んで使い回せばいいじゃんって思ってるんだよね。

十数年に一回なら「また信長かよ」って感じにはならないと思うし。

もしそうするなら誰を使うかってぱっと浮かんだのが下のリストだけど、ほかは誰がいたっけ。

源義経

平清盛

武田信玄

信長

秀吉

家康

徳川吉宗

竜馬

新撰組

2017-11-16

鳴くのが下手な戦国時代ホトトギスはどの武将を頼るべきか

正直言って信長秀吉家康はどれも可愛がってはくれなさそう。秀吉に鳴かせるテクニックなんてないし、いくら待っても下手なままなら家康もぶちギレる。信長は論外。というか大名クラスはみんな気性が荒そう。

良い候補ひとつは茶をたしなむ武将さんだと思う。でも美に敏感な武将さんが鳴けないホトトギス可愛いと思ってくれるだろうか?それが味わいだとか思ってもらえれば良いのだけど。

一番は何不自由ない御曹司なのに弱い立場も知る武将さんかな。真っ先に思いついたのは秀頼さんだけど最終的に焼かれるしな……。飛べるから逃げるのは簡単だけど後味悪い。やはり氏真さんか。なんだかんだで生き延びるその脇にはいつも鳴けないホトトギスがいたとか、ちょっとありそうじゃない?

anond:20171116125330

朝倉信長・・・かに成績優秀で美形だね、他人に厳しいというか最強キャラではあるか

右代宮秀吉・・・話が面白くて明るい、でも奥さんに一途じゃなかったか

菊池家康・・・優しいとは思えないし、三次元相手だと興味ないだろうね

anond:20171116131049

崇高って言われちゃった。なるほど。

個人的には筆まめで、嫁大好きの伊達政宗さんが好きです。←選択肢の3人じゃないけど

3人の中なら家康。見かけは信長さんですねー。

anond:20171116130659

性的指向としては異性愛者だよ。

衆道婚姻よりも崇高な絆。

あと衆道家康もだね。

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