はてなキーワード: 必然的とは
日本の外為法については既に報道されている通り、重要な社会インフラ等に対する買収で、結果国益を損ねると判断すれば国が差し止めを求めることが出来るというもの。
米国独禁法については、クシュタールが全米で展開するサークルKとセブン&アイが合計シェアの点で反トラスト法にかかるのではないかという恐れ。
前提として、この規模のM&Aともなれば、関係当局との合意形成無しに物事が進むはずもなく、当然クシュタールとしては既に日米双方に対し擦り合わせを行っているとは思う。
Jパワーのような明確なエネルギー・インフラ企業ではないセブン&アイに外為法を適用できる合理的な論拠があるのかについては疑問はある。
米独禁法については適切な規模の店舗統廃合、売却によってこちらはクリアできる可能性が高い。
どの道、セブン&アイとの合意形成と日米政府の合意形成は車の両輪のような認識で相違は無いと思う。
同じ西側諸国である日米間のやり取りとなるため、中国独禁法のような国家の論理によってズルズル引き延ばされる可能性は低い。
どちらかの結果が食い違うような見切り発車を政府が許すはずが無いし、抑々そうなった時点で実現可能性は限りなく低くなるので、敵対的買収に発展する可能性は低いと見てる。
個人的な所感としては、時間はかかるが同盟国同士の擦り合わせによりクリアできなくは無いという感想。
いくらセブン&アイの経営陣がクシュタールの提案に異論を唱えても、経営陣の言う「適切な企業評価」に株価が全く追いついていないのは事実で、その論理だけでクシュタール提案を蹴るのは株主の利益を明確に損ねる行動であり、ある種の背任行為に近い。
それを前提とした落としどころを作るには、必然的にクシュタール提案を上回る「対案」を出さねばいけない。
現時点で具体的な金額やをあえてアナウンスしているのも、「我々の提案はクシュタール案を超える条件です」ということを明示するためのアナウンスメントだと個人的には解釈してる。
何よりも、この絵描いてるのは創業家ではなく、政府の意向も多分に入ってるんじゃないの?と思ってる。
通常、創業家の持つ5,000億円の株券に対するLBOとして8兆円という規模が適切なのか?という議論もあろうが、国策TOBの名の元にそこはおっつけてくるのではないかと。
次に、時期の問題だが、昨日飛ばしニュースのあったNHKの内容を基にするなら、今年度末(勘違いしている人も居るが、年度末は3末の事で12末じゃない)をターゲットにするのは非常に説得力が強い。
セブン&アイは多くの3末決算企業と違い、2末決算なので、遅くとも2末までには配当を出すのか、M&Aを前提とした無配とするのかを決定しないといけない。
同時に、上場廃止を前提とした国内M&Aの場合、TOB開始からクローズまで通常一ヶ月は空けるのが通例なので、3末に買収を終えるのであれば、セブン&アイの決算期である2末までにはTOBを開始する必要がある。
この2点を合算して考えると、仮に3末をターゲットとした創業家によるTOBが実行されるのであれば、2末までには具体的なアナウンスメントを出さないといけない。
通常ターゲットの期日に近づくにつれて株価はTOB期待でジリ高になる。
言い換えれば2末までにアナウンスメントが無い場合、TOB期待は急速にしぼむor失望売りが出ると考えて良いとは思う。
纏めると、クシュタール案に対し超えなければいけないハードルが極端に低い分、実現可能性は高いという印象。
最後に、NHKのリークについてだが、大前提としてNHKが何の事前調整も意味もなく、19時台の「国営TV」であれだけ具体的な内容国策M&Aという重大ニュースを報じるとは到底考えられない。
恐らくだが、あれはクシュタールに対する「これ以上条件上げた叩き合いするなよ?」という牽制球なのではないかと個人的には捉えている。
IR出た後のドカ売りに関しては正直私も良く分からないし、何名かの投資家が指摘しているようにインサイダーチックなフロントランニングである可能性も否定はできない。
反面、先述の通り、既にクシュタールの買収提案ラインには近づいており、実現可能性と時間的価値を割り引いた結果、市場での売却を選んでいる可能性はある。
ネットの言説を見てると、
保守派は 「リベラルはお花畑、全く現実が見えずに批判ばかり」
革新派は 「保守派は愛国を隠れ蓑に人種差別を行う時代錯誤の頑迷」
みたいな感じだけど
自分はリベラルなんだけど、重武装リベラルって立場は成り立たないのかな
何と言われても、男性優位・既存権威層優位の社会だったのは否めないよ
それに対して所謂「ポリコレ」が盛り上がるのも故無いものではないと思う
かといって、地政学的に考えたら日本の立場は、中国やロシアからは狙われるのは必然的な立ち位置
これは海上運輸が決定的に陳腐化するようなブレークスルーが無いと覆らない宿命
だから、中露と「話せばわかる」なんて微塵も思わないのだけどね
ネットの言説では右左でキレイに分けすぎなんだけど、重武装(核戦力を含む)で自立して、西にも東にも是々非々で行けるときがきたらいいなあと思うのですが。
それこそがリベラル的な理想論(≒お花畑)なのかもしれませんが…
マンガやアニメ見てて、「あれ、このキャラ日本人じゃなくね?」って思ったことない?
金髪碧眼、鼻高くて彫り深い顔。おいおい、俺ら日本人が作ったはずの作品だよな?でも見た目はどう見ても欧米系。これ、どの作品でも結構ありがちなんだよな。
たとえばさ、ナルトとか進撃の巨人、BLEACH、ジョジョ、超人気作品だよね。でも、登場人物の見た目を冷静に見ると、これ日本人?ってなること多いよな。ナルトなんて忍者の話なのに金髪で青い目だぞ。進撃の巨人のミカサも「アジア系」設定なのに顔立ち欧米風すぎて笑えるわ。リアル日本人なら黒髪にアジアっぽい顔立ちでも十分カッコいいと思うんだけどさ。
で、気づいたんだけど、これ日本人だけじゃなく、海外の人も同じこと言ってんだよな。「なんで日本のアニメキャラは白人みたいなんだ?」って。それってもう、日本人自身が「白人らしい見た目=美しい」って無意識に思い込んでるんじゃね?
ここで一つ考えてみようぜ。なんで俺ら日本人、こんなに「白人っぽさ」に憧れるんだ?
戦後からずっとアメリカ文化に触れてきたってのがでかいと思う。映画、音楽、ファッション、全部が西洋風だったし、それが「オシャレ」とか「カッコいい」って刷り込まれてきたんだよな。
さらに、マンガやアニメも「欧米でウケること」を狙ってる節がある。結局、欧米市場で売れるためには、「彼らに親しみのある見た目」に寄せた方がウケがいい。だから、キャラデザインも必然的に白人っぽくなっちゃうんだろうな。
でもさ、これって日本人らしさを削ってまでやることか?俺らの文化を発信するはずのマンガやアニメが、結局は欧米の影響を受けた「白人っぽい作品」になっちゃったら、それもう日本の作品って言えるのかな。
俺らが求めてるのって、本当に「白人っぽいキャラ」だけなのかな?
たとえば黒髪で切れ長の目、ちょっと控えめな見た目でも、内面がめっちゃ熱いキャラとか出てきたら、それってすごく共感できると思うんだよな。だって、日本人としてのリアルな感覚に近いからさ。
それに、海外の人も意外とそういうキャラ好きだったりするんだよ。「日本らしいキャラ」に憧れる海外ファンも多いし、むしろそういうキャラを見たいと思ってる人もいるんじゃない?だから、もっと日本独自の美意識を取り入れたデザインが増えてもいいと思うんだよな。
最近は多様性が注目される時代だから、マンガやアニメのキャラクターももっといろんな見た目があっていいと思う。もちろん、白人っぽいキャラがいてもいいけど、そこに日本人らしいキャラや他の文化を反映したキャラが加わると、もっと魅力的になるんじゃないか?
結局のところ、日本のマンガやアニメって、日本人が作ってるからこその「特別さ」があるはずだよな。その特別さを活かして、日本人らしいキャラクターやストーリーをもっと大事にしていけば、世界中のファンも「これが日本の作品だ!」って感動してくれると思うんだよ。
どうだ、俺らもそういう未来を期待しようぜ!
初代ポケモンにおける「マサキ」に該当するカード。初期ポケカの無法を象徴する激ヤバカードである「オーキド博士」を思わせる絵柄が完全に分かってやってる感。
圧倒的に強すぎて絶対全てのデッキに入るカードであるためチュートリアルで2枚(デッキ編成上限)配布され、当然のように全てのデッキに2枚入っている。
一部のプレイヤーが縛っている可能性を考慮しても使用率が190%(9割5分のデッキに2枚入っている計算)なのは間違いないだろう。
ポケモン界のスーパーアイドルへの当然の厚遇。やられると2点取られるEX(3体相手ポケモンを倒せば勝てるうちの2点)ではあるものの、たねポケモンでありながら実質2エネで90ダメージを叩き出す。
1進化ポケモンでさえ一撃で葬れる攻撃力を後攻2ターン目からブンブン振り回すことが出来る。
たねポケモンであることによりとんでもない安定力をほこり、回り始めると相手が進化やエネをつける間もなく倒せてしまうのでこちらがろくにダメージを受ける間もなく試合が終わる。
運を味方につければ驚異的なエネルギー加速を実現できる。試合スピードの早いポケポケにおいては一度暴れ出した相手を止めるのが難しいため序盤に使われると手が付けられない。
終盤で引いてきていきなり大技を打って逆転することあり、コイントスに成功する分には基本的に腐るタイミングがない。
何がヤバイってコイントスの成否があらゆる試合プランに直結するためお互いが勝っても負けても「コイントスの結果だな」としかならないのが凄い。
2エネ50点は通常の1進化ポケモンよりも強力。序盤から一方的に有利を取りつつ戦えるのが強み。
ベンチから毎ターン1エネつけられるサーナイトと組めれば150点を飛ばし続けることが出来るという圧倒的火力が魅力。
HPが高めなため動き出す前に止めることが難しい。
前述したミュウツーEXの相棒。2進化での実質2マナ60は自分で戦うにはだいぶ苦しい。
本体となるカードが必要な上に2進化の遅さもある中々にしんどいカードながら、サーナイト自体の人気の高さもあって採用しているプレイヤーは多い。
そもそもミュウツーEXを本格運用しようとしたらこのカードが相方になるというのもあるが。
HP50のヒトデマンから進化する必要があるためベンチで上手く育てないといけないのが弱点。
進化さえしてしまえば無条件で2エネ90点を叩き出しつつ、ダメージが蓄積したらベンチに逃げ、そしてまたスキを見て再登場して90点打って勝てるという酷すぎるカードに。
前述したカスミとの相性もよく、現環境においてはスターミーEXが最強カードだと言われている。
ポケモンの入れ替えにエネルギーが必要なシステムと極めて相性の良いサポートカード。
如何にしてこれを使うか、如何にこれを凌ぐかがこのゲームにおいては重要となっている。
このカードの存在が結果的ににげる0エネのスターミーEXを後押しする形となっている。
コイントスゲーを極めたコイントスの神。1進化で2エネ160とスターミーEXを遥かに凌駕する破壊力を誇る化け物。
コイントスに失敗し続ければ全く何も残らないまま相手に2本取られる可能性もある滅茶苦茶なカードである。
このゲームのマナシステムは「指定した色のマナがランダムで毎ターン一つ配られる」というものであるため運が悪いと永遠に技が打てないで終わる。
動き出しが遅いものの、決まれば一度に相手を複数体葬り去ることが出来る威力が魅力
フリーザー単というポケカGBのサンダー単を思わせるデッキを作り出したカード。
このゲームは初手に必ずたねポケモンが来るようになっているため、フリーザー単では必ず初手にフリーザーが来る。
カスミとの組み合わせがキレイに決まれば速攻で80ダメージをばら撒き始めることが可能であり、バトルをコイントスが支配する地獄へと変えるポテンシャルを秘める。
改めて強いカードを整理して分かるのはEXカードがひたすら強いということ。
いきなりEXでスタートダッシュを切って相手が進化する間もなく蹂躙する使い方も強いし、後半あと1ポイントでEXを出すことでEXの2ポイントのうち1ポイントを実質的に踏み倒す使い方も強い。
その結果としてフリーザー単のような「EX2枚で戦って相手に1点分損させることを押し付ける」という陰湿な戦い方が流行ってしまう環境が生まれた。
EXはレア度が高いカードのため必然的に高レアなカードが勝利に必須となるわけだが、レアなカードが強いというのはMTGを始め多くのカードゲームが採用している基本的な仕組みなので仕方がない。
一部カードの無法レベルな強さと試合スピードの速さのお陰で、初手の引き運や序盤のコイントスが致命的なまでに試合の流れを決定してしまいマーベルスナップにも負けないスピード感が達成されている。
火力が全体として高く持久戦型のデッキが少ない環境であるのもスピードの理由だろう。
とにかく早くてサクサク遊べる。そしてコイントスで全てが粉砕される。
キッズでも楽しめるパーティー型小ゲームとして中々に悪くないゲームである。
1年間仲良かった友達2人と距離が空き今や全く話しかけてくれない。なのに同じクラスだから必然的に事務会話しなきゃならない時もあるから地獄。向こうはどう思ってんだろ
完全に3人組から2:1に。
1年間は仲良かったと思ってた、友達だと思ってたのは私だけだったのかな。悲しい……
2人のほうにお局がいるからクラスのみんなはそっち側。私は腫れ物扱い。もともと私もクラスの半分くらいを嫌ってたから当然なのかな。
けど勉強したいんだよ。
やりたくてずっとやりたくてやっと入ったんだから。
わざわざ社会人経験してから専門学校入るとかちゃんと覚悟あるに決まってんじゃん。
こんな人間関係で辞めたくないよ
私の方が成績いいからって僻まないでよ。精神疾患持ちだから体調崩しやすいのなんで理解してくれないんだろ。
勉強させてよ。授業受けさせてよ。
授業中の決まり守ってないひとたちがいいのに私はだめなの?私語もしてないし真面目な生徒だよ?
出る杭は打たれるんですか?
神経質で真面目なのって、なんにも得しないじゃん
このクラスになりたくてなったわけじゃないのに
ゆっくり休息したくても出席日数に重きを置いてる専門学校だから、勉強全く出来ない授業ずっと寝てる無遅刻無欠席のほうが重宝されるんだきっと。
たぶん今の私のフェーズは休息な気がするけど
休息すればするだけ出席日数は削られていく。
なんのためにわざわざ4年生の大学じゃなくて3年の専門学校にしたと思ってんだ、留年は嫌だ。留年するくらいなら大学通いたかった。大卒になりたかった。
寝たらちゃんと起きてね。仮眠はもうこりごり
自分の体がわかんないよ。
わかんないわかんないわかんない。
このまま私がダメになったら一生恨みそう。
おやすみ。
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2018-11-08-3
ドナー(子宮提供者)として、今回は親族(母親・姉妹)を想定しているけど、将来的には、トランスジェンダー(FtM)が想定されていること、書かれていない。
若くて健康な子宮の安定的な供給源としては、トランスジェンダー(FtM)しか想定できないと思う。
現在、年間に国内外で700~800くらいの(機能的には)健康な子宮が摘出されているわけで、供給源としては有り余るくらい。
臓器売買は日本では法律で禁止されているので、建前は「いらないので(善意で提供しますから)使ってください」なのだが、世の中、なかなか建前通りにはいかないのが現実で、新しい「ビジネス」の臭いを感じてしまうのは、私の思い過ごしか・・・?
https://junko-mitsuhashi.blog.ss-blog.jp/2022-11-25-6
私は、第3者がドナーになる子宮移植には、倫理的に、はっきり反対の立場だが、今回は、親族の女性がドナーということで、倫理上の問題は回避されたということか?
それでも、いろいろ疑問が残る。
どうも思想的な背景に「子宮の有効利用」みたいな意図があるように思う。
それを進めていくと、必然的に「第3者からの提供の可」になっていくし、その脱法化の結果、「子宮の売買」に至る危険性が見える。
2018年の「第20回GID(性同一性障害)学会」で、菅沼信彦先生(京都大学医学部教授:当時)の子宮移植についての講演を聴いたときに、「(医療資源としての)子宮の有効利用」みたいな発想を感じた。
そもそも、なぜGID学会に子宮移植の話をしにくるのか?ということ。
もっと、はっきり言えば、何を欲しがっているのか?ということ。
それは、その後、岡山大学病院と協力して、FtMの摘出子宮の提供意思についてのアンケート調査が実施されたことから明らか。
「GID特例法」で、子宮摘出手術を性別変更の要件にしておきながら(法律による誘導)、その子宮を「医療資源」として利用しようとする発想は、私は医療倫理に乖(もと)ると考えるので、はっきり反対した。
三橋順子氏は子宮の安定的な供給源になりうるとすればトランス男性だという事実を述べた上で、トランス男性からの子宮移植に否定的である。
もっとも否定の根拠にある戸籍変更要件は今年裁判の判決で緩和されたが、第3者がドナーになる点は残る。
そもそも仮にトランス男性からの子宮移植が認められたとしても、その為に女性をトランス男性にするなんていうのは話の飛躍した陰謀論でしかないし、子宮有りの戸籍変更を支持している相手に対してはなおさら辻褄が合ってない。
https://jp.ign.com/nintendo-switch/77180/opinion/rpg-2
日本のゲームメディアはほとんどがタイアップ記事で、批評的レビューが発信されることはあまりない。だからゲームの出来に異を唱えるレビューがあること自体は歓迎したい。
原作は2桁周回ぐらいしたうえで、このリメイクは素晴らしい出来だった。そういう立場での反論だ。
マスクデータやガイダンスの不十分さはサガシリーズの個性ではない。
昔のゲームはだいたいそんな感じだったのだ。そして不親切な上につまらないゲームも多くあった。
サガシリーズは不親切な中でも抜群に面白い要素があった。だから不親切な部分も含めて、ファンを獲得していった。
面白いゲームにはおいしいトロの部分(トロ嫌いはごめんなさい)がある。トロの部分を探し当てるまで忍耐強く検証を重ねるのは、確かにゲーマー的ではある。しかしそんなゲーマーはごく一部である。
独創的なゲームシステムがあり、音楽があり、シナリオがあり、デザインがあり…様々な要素があってサガシリーズは成り立っている。サガシリーズは一部のゲーマーだけに愛されたのではなく、だから過去作キャラの魅力掘り下げに特化したロマサガリユニバースのようなタイトルも愛されている。
マスクデータ的なものの読み解きを魅力とするなら、サガ以外にも魅力的なゲームはある。説明不十分な部分も、サガシリーズだから許されたというだけであって、その部分を尖らせてもゲームの面白さに直結しない。
たとえば私はアンリミテッドサガ(アンサガ)が好きだ。だが同時に、アンサガは多くのサガファンをふるいにかけてサガシリーズの縮小を決定づけたタイトルだと思っている。アンサガは説明不足のあまり、分厚い攻略本(解体新書)が本来は備え付けで必要な「説明書」だと揶揄されるほどに難解だった。あれはレビュワーのいう“サガらしさ”が詰まったゲームではないだろうか。
私はアンサガ好きだといったが、自分でいちから検証することは(余暇がたくさんあった学生時代ですら)かなり難しく、先人の攻略を見て仕様を把握してはじめて面白さを味わえた。
それはロマサガ2においても同様だ。小学生時代に敵とのエンカウントにうんざりし退却を繰り返した結果、勝てるザコ敵がいなくなり進行を諦める…その後、攻略情報を見てクイックタイムありで七英雄を攻略したあと、クイックタイムなしで挑戦して…と段階を踏んでロマサガ2の魅力に取り憑かれていった。
それは河津秋敏率いるサガチームの挑戦だ。音楽、シナリオ、デザインなどもあるが、ここではゲームシステムに絞る。
ではロマサガ2において挑戦的な部分はどの点にあるか。主には「ひらめき」「フリーシナリオ」「皇帝継承システム」だろう。
このうち、ひらめきとフリーシナリオは他のシリーズにも共通している要素だ。つまりサガらしさから踏み込んで、“ロマサガ2”らしさを求めれば皇帝継承こそが本作の肝だと思う。
もちろん世代引き継ぎだけに限れば他ゲーにも類似システムはある。そこでひらめきやフリーシナリオといった他要素との化学反応により、ロマサガ2の魅力が生まれている。
ロマサガ2は皇帝継承により世代交代で強くなるゲームだ。主人公は次々と変わっていく。それが楽しい。
皇帝継承が発生する条件は例外を除いて「全滅」「皇帝のLPロスト」「年代ジャンプ」に分かれる。
つまり必然的にキャラロストするのだが、ウィザードリィなどと違い、全滅してもロストする要素はほとんどない。当代でひらめいた技を使えなくなることぐらいだ。全滅は悲しいし、面倒もあるが、避けるべきものではなく積極的に行うものだ。なお、年代ジャンプを行うことに成功すれば技や術を引き継ぐことができる。次代に技を引き継ぐことができたときの達成感もまた楽しい。
なのだが、件のレビュワーがソフトリセットがないことに文句を行っていることに驚いた。
レビュワーのいう「何度も挑戦して強敵に打ち勝つのも「サガ」の醍醐味のひとつといえるのだが、本作ではそれをさせる意図を感じない」は誤解である。
リセット・ロードを行うのはプレイヤーの自由だ。しかし、リメイクにおいてソフトリセットを仕様から外した理由は明確だ。なぜなら、全滅時に「バトル直前に戻る」や「最後のセーブポイントに戻る」を入れることもできたはずだから。(実際、皇帝継承が行えないゲーム序盤の仕様はそうなっている)
つまり全滅してもリセットせずに皇帝継承させることに肝がある。
皇帝継承して反省を活かして、陣形やメンバーを変えて「先帝の無念を晴らす」のだ。
まあ、ソフトリセットはレアドロップ狙いに便利なので残されていてもよかったとは思う。しかし、それを残してしまうと「先帝の無念を晴らさない」プレイヤーが多く生まれてしまう。だから仕様から外してよかったのだと思う。
ひらめきについても、レビュワーのいう偶発性は減ったにしても、ひらめいた技を継承するという醍醐味は失われていない。加えて、原作と比べて可視化されるようになったHPや行動順、ひらめきアイコンはオプションで表示オフにできる。
まあ確かに、ボス相手に思わぬタイミングでひらめいた技で勝った! そういう楽しみは確かに薄まったと思う。しかし、ひらめきは戦闘のテンポを悪くするという一面もある。原作では、派生技を完璧に把握しているならともかく、強敵相手に祈りながら通常攻撃をふるゲームになっていた。しかし普通は強敵相手には強力な技を使いたい。このちぐはぐさが戦闘のテンポを悪くする。
本作は技・術の演出・SEもテンポ感を重視してよく作られているように感じた。だから通常攻撃ばかりふるプレイイングはもったいないし、リメイクのゲーム性とは合っていない。常に全力で派生技を視認しながら様々な技を使うプレイイングにおいては、ひらめきアイコンの可視化は全然ありだと感じた。
本作はLPが削れないようにガンガンBPを消費して連携ゲージを溜めるゲームだ。
件のレビューでは回復行動もやり玉に挙げられていたがピンとこなかった。
これは難易度によって変わるからなんとも言えないが、一周目の最高難易度(「オリジナル」難易度)なら少なくとも回復して地道に耐久戦を行うゲームではない。
敵のワンパンでHPが吹き飛ぶことはざらにある。だからLPが削れることは前提で、こちらも高火力行動を押し付けていく。繰り返すが、この高火力の応酬はSFC的なテンポ感を現代風にリファインできていると思う。
また、筆者は育成のための稼ぎが好きではないが、本作では意識的な稼ぎを行わなくてもオリジナル難易度の七英雄までまっすぐ攻略できた。もちろん原作知識があったためでもあるが…。
少なくとも地道な育成を行って、回復しながら耐久戦を行って…そういう攻略でなくてもラスボスを倒せる。攻略の幅があるのもロマサガ2の魅力であることを伝えておきたい。
なお、高難易度が解放されても裏ボス以外の戦闘が作業になりがちだった某大作RPGと比べて、ロマサガ2Rはニ周目以降もしっかり楽しい。
一周目で手に入った最強の装備、アビリティを駆使してなお、歯ごたえのある戦闘が楽しめる点も評価したい。(技・術の周回引き継ぎをなくしたのはナイス判断)
本作はサガシリーズという素晴らしいIPを世に広めるために外部の開発会社がリメイクした作品だ。
SFC版の原作はおよそ120万本?売れているらしい。現代でサガシリーズがこれほど売れるだろうか。もし過去作を買った人が再び本作を手にすれば…
今年の東京ゲームショウで、本作のプロデューサー・田付信一氏は次のようなコメントを残している。
「サガシリーズはかつて4本のミリオンセラーを出すほど大きなタイトルでした。ただ、近年はそうした状況から遠ざかっています。なので、この素晴らしいタイトルをより多くの人たちにプレイしていただきたいと思いリメイクしました」
かつて攻略を諦めたのは私だけではなくプロデューサーも同じだったのだ。本作を実際にプレイして、より多くの人に届けたいプロデューサーの気持ちは確かに伝わった。
当たり前のことだが、ゲームに無尽蔵の理解と愛を捧げるユーザーばかりではないのだ。
サガシリーズの挑戦が、毎回単発で終わり、縮小再生産のスパイラルに陥っていることを私は悲しく感じていた。
ゲーム制作はビジネスだから売れないシリーズタイトルは予算がつかなくなる。予算がつかなくなればクオリティを担保するのが難しくなる。加えて、カジュアル層を惹きつけるリッチな要素(声優、美麗なグラフィック、ボリューム)をつけられないし、プロモーションも行えない。ますます売れない。
近年のサガスカ、サガエメは光るシステムを持ちながら、結局売れなかった。
予算がつけば、挑戦的なシステムをより多くのユーザーに届けることもできる。最近のサガシリーズは売れなさすぎだ。もっと売れろ。
以下は余談。
細かい部分の不満は全くないわけではない。たとえば大人になってプレイしてみると、行く先々で「帝国の支配にくだります」と現地民があっさり国を明け渡すのがややシュールに感じる。
しかし、ゲーム内で数百年と時が経ち…大学で学んでいるらしきサラマンダー族や、アバロンに観光に来ているヤウダ地方の武士を見て、「ああ、アバロンが国際都市になっていく」と感動した。
細かい部分で、オリジナル版では見えなかった部分の解像度が高くなっている。間違いなくロマサガ2好きが作ったリメイク作だ。
システムをかなりの部分で変えているにもかかわらずロマサガ2らしさを感じる、まるで夢のようなリメイクだ。旧作ファンも新規もぜひプレイしてみてもらいたい。
海外には必然的に悪いイメージが届きやすいのかもしれないし、従前の政治における問題がずっと積み上がってきてしまっていたのかもしれないとは思うけど、できれば違ったらよかったなと海の向こうのこちらでは思ってしまう。
台湾有事に何らの対応をしないと名言していたトランプが勝利した以上、おそらくこの四年間に台湾有事が発生することは否定できないだろうと思う。
日本にとっては著しい不利益であることに代わりはないが、アメリカ国民がアメリカの復興こそを目的とすることは当然だろうし、その結果として覇権国家的なイデオロギーの価値を重視しないことも、その余波として他国を見捨てる(本来であれば他の国のことなど留意するのは二の次であるというのはそのとおりだろうし)ことも当然だろう。
ただ、日本に住んでいる以上は不都合だなぁ、と思ってしまうだけで、そこに価値観の相違以上の何か、例えば能力が不足しているだとか、性格に問題があるとかいったそれ以上のことを見出してしまうと、余計に分断が広がってしまうのだろうとも思う。
嫌だなぁ、というだけ。
死にたくはない。
成人済み、それも20代後半以上のオタクははっきり言って精神年齢が低いと言わざるを得ない。私の周りにいるいい歳したオタク達はほぼすべからくそうだし、オタク せ くらいまで打てばサジェストで精神年齢 低い などと出てくる(オタクについてこれといって調べたこともなければ、精神年齢とは全く関係ないことを検索しようとしていたため、このサジェストは恣意的なものではない)。
私ももうすぐ就職する立派な成人済みオタクであるが、自分を含め何故成人済みのオタクは精神年齢が低いのかについて一度真面目に考えてみたい。
オタクと言うと、運動部に入ることも無く、大学でもサークル活動を行わず、社会に出てからも人とあまり関わらないという人がボリュームゾーンなのではなかろうか。(私は一応大学までずっと体育会系の部活動に入っていたためか、この点においてはステレオタイプなオタクより社会に迎合する術を知っているような気がする)
共通の目標に向かって仲間とある程度苦しい鍛錬を積んだり、その過程で仲間のうちの数人とより深い人間関係を築いたりする。そういった精神的鍛錬の機会を逸してきたツケが成人済オタクに回ってきているのではないだろうか。
もちろん文化系の部活動や帰宅部でも勉学に励んでいた人はある程度精神的な鍛錬を積めたかもしれない。しかし高校を卒業してから成人、20代後半になるまでの、これまでと比較して追い立てられるような物事のない期間、恋愛をしたり仕事に打ち込んだりしていた人間と、アニメだけ見て自己研鑽に励まなかった人間との差はじわじわと広がっていく。そもそも我々がアニメを消費している間、一般人が何もせずなんの学びも得ずにいる訳がないのだ。
小学生、あるいは中学生くらいまで、オタクとはむしろ精神的に大人びているという評価を受けがちなものではなかったか。
アニメとは、10代〜20代前半あたりをターゲットに作られるものが大半だ。今はオッサン向けのなろうアニメなんかが増えているが、少なくとも10年ほど前まではそうだったはずである。
やや歳上をターゲットに作られた創作物。もちろんターゲットの年齢層に合った教訓が得られたり、葛藤に寄り添ってくれたりする。背伸びした内容を日夜浴び、それらについて考えを巡らせる。必然的に精神年齢がターゲットとされている層くらいまで引き上げられるはずである。これが前述の大人びているという評価に繋がるのだろう。
しかしアニメの内容は、一定のレベル帯に留まっている。ターゲット層の10代~20代前半にとって高度過ぎる内容ではウケないからだ。
それをターゲット層から外れた高齢者が延々と擦ったところで、新しい学びが得られようはずもない。
もちろん年代を超えて学びを得られる名作も存在するにはするが、そういったコンテンツから年相応の学びを得るためにはある程度実生活を通して精神的に成長しておかなければならない。しかし幼少期に大人びていると持て囃され、哀れな選民思想に浸かってしまったオタクが今更低俗な一般人と同じような生活をして精神的鍛錬を積もうなどと考えられるだろうか?
ここ10年ほどでオタクも随分と市民権を得たものだが、オタクというものは元々爪弾き者の流れ着くシェルターであったように思う。もちろんそうでない人間もアニメを見ていたが、仕事や人間関係など他に打ち込むべきものがありながら、それと両立してアニメに熱意を注ぎ続けられる人間はそう多くない。結果的に、そういった人種はオタクをやめていく。
本人の性質に問題があったのか、オタクという属性故なのかは定かではないが、虐げられ、弱者として生きてきた人間のるつぼとなっているオタクコミュニティ。無職、こどおじ、童貞なんてのはざらだ。そんなのが跋扈しているぬるま湯にいつまでも浸かっていては、精神的に成長できるはずもない。隣を見れば無職なのだから、派遣だろうがフリーターだろうが低収入だろうが焦る必要はないのだ。
まとめると、幼少期に少々背伸びをした創作物を摂取し、大人びていると持て囃されて胡座をかき、実生活を蔑ろにした結果、思春期の成長機会を逃す。普段つるんでいるオタク仲間は高齢者を中心に爪弾き者ばかりなので、その状況に危機感を覚えることもなく、実年齢と精神年齢が乖離していくという二段構えのように思う。
この状況を打開するためには、オタク仲間達をこの世のスタンダードだと思わず、常に世間一般の中で自分が年相応の経験を積めているか、足りないものはないかと問いかける姿勢が大切だ。また、アニメ以外の事象にも目を向け、単純化されていない人間との複雑な関係を築くことも、精神的な円熟のためには必要である。
ほとんど恋愛経験がゼロのまま結婚してもう子どももいるけど、夫とはもうそういう営みができなくなってる事に気づいた。
向こうはもともと淡白な方だし、私のために無理をして行為をしている様子だったので、私が求めなくなった時点でレスになった。もう2年くらいしていない。子どもができたのが奇跡みたいだ。
もう結婚したら夫以外の人とできないじゃん…。そんな当たり前の事に今更気づいてしまった。
妄想する事はあるが、現実には絶対にできない。その辺の倫理観はちゃんとある。
そして妄想にも限りがある。経験がないから必然的に夫との行為を思い返すしかない。
この歳になって、エロ漫画とか動画とか見てみたけど、なんだあれは。気持ち悪い…。
一応、恋愛関係にはならないまでも、男女として仲良くなりかけた人は今まで何人かいた。
あの時は貞操観念がすごく強くて、付き合ってもないのにそういう行為は…ましてや女の方から誘うなんて考えもしなかった。でも…減るもんじゃなし、ヤッておけばよかったなー、と今更になって思う。別に恋愛しなくても、できたなーと思う。
夫ともあんまり恋愛っぽいことしてないけど、できたし。女にも性欲ってあるんだな、と思った。
なんか思い出作りのためにヤッておけばよかったし、頑張ればヤレたな…と思う。これが私が男だったら大分最低な事を言ってると思うけど…相手も最終的にはそのつもりで飯おごったりしてる訳でしょう?なんかそうXに書いてあったし。
いや、女でも最低か…。相手は真面目に付き合う相手を探していたのかもしれないし。
そんな事を考えて日々悶々としてしまう。はやく閉経してしまえばいいのにな。もう子宮を使うこと、多分ないし、生理は面倒臭いし。恋愛感情なんか、しょうもないリビドーなんか消えてしまえと思う。
この日記のタイトルは、少し前にTwitterで話題になった「はてな匿名ダイアリー」から頂いたものである。
https://anond.hatelabo.jp/20241021131553
なぜこの日記が話題になったかというと、内容が「嘘くさい」、「弱者男性を装った女が書いたに違いない」と多くの人が感じたからで、いわゆる炎上に近い形でTwitter上で議論が白熱した。
私も当該日記をよく読んでみたのだが、確かに「女性が書いた」ということもさもありなんといった印象だった。というのも、自分自身も過去は「弱者男性」であったが、色々と経験を積み、今は結婚もできているというステータスで、まさにタイトルの当事者であったからだ。
そこで、(元の日記の真偽はさておき)タイトルの当事者を自覚している筆者が、「弱者男性としての恋愛観」を綴ってみるとどんな感じの文章になるのかやってみた、というのがこの日記の目的である。この日記をたまたま見つけてくださった皆さんも、ちょっとした実験に付き合うつもりで読んでいただけると幸いである。
そもそも「弱者男性」は最近出てきたネットスラングで、色々と定義があるだろうが、ここではめんどくさい話に踏み込まず、弱者男性を単純に「モテない男性」、いわゆる「恋愛市場における弱者」と定義することとする。
自分はその意味で、過去はバリバリの弱者男性であり、ともかくモテなかった。詳しいことは後述するのだが、高校卒業まで女子と話したことはほとんどなく、当然彼女が出来たり、バレンタインチョコをもらったりなんてことは経験したことがなかった。
自分なりにモテなかった理由を分析してみると、至極単純な2つのことに集約される。
①顔が悪い
①に関して、やはり顔が悪いのは大きかったと思う。恋愛において「顔」の良し悪しは世間で言われているよりもずっとずっと重要な要因だと感じる。イケメンに生まれていたら、恋愛における立ち回りも大きく違っていただろう。ただ、このことをうだうだ言っても仕方がないので、次に行くとしよう。
②に関しては自分の家庭内環境が大きかったと思う。自分の家族構成は、父母、自分と弟の4人家族で、家庭内に母親を除くと男しかいない。なので、昔は女子が普段どんなことを考えて生活しているか、どんなことが好きなのか、全くわからなかった(実は今でもよくわかっていない)。これは女子と恋愛していくうえで、大きなハンデだったと感じる。
前述のように、男兄弟で育ち女子が何を考えているか全く分からない自分は、モテるモテない以前に「女友達」というものすら全く作れずに育った。
小学生の頃に自分が好きだったものと言えば、ドラクエ、ガンプラ、カードゲームなどであり(あまり特定すると年がバレそう)、友達になるきっかけとして、「あのゲーム好き?」「君もガンダム好きなの?」みたいなアプローチ法は知っていたが、逆に言うとそれ以外の術を全く知らなかった。よって、必然的に女子とどんな話をすればいいか分からず、全く女子と話さない学校生活をつづけた。
小学校のころまではそれでも特にストレスを感じずに来られていたが、中学に上がるとそうもいかなかった。自分も思春期真っ只中になって女子への関心と性欲が出てきたし、何よりもクラスの中の会話がほぼ恋バナになり、「誰と誰がやった/やらない」という噂が飛び交うようになっていた。
そんな中で自分は相変わらず女子と話す方法が分からずにいたので、どんどん自信がなくなり卑屈になっていった。そのオドオドした態度が女子にも伝わっていたのか、徐々に女子から嫌われているのを感じるようになり、覚えているのは、罰ゲームで女子が「自分と握手する」というのをやっていたことだ(まあこれくらいは弱者男性あるあるだよね)。
さらに、この頃から女子に対するヘイトも強まっていった。上記のようなひどい扱いをされたこともあるのだが、それ以上に、自分が行っていた中学はいわゆる「スクールカースト」が強くあり、「ヤンキーしか女子と話せない空気感」が強くあった。このころ女子と話したことがないので噂の情報しかないのだが、どうやら「クラスの可愛い子がヤンキーと付き合ってひどい目にあったらしい」みたいな情報だけはたくさん入ってきた。そのことから、「女子はヤンキーしか好きにならない」=「女子はバカだ」という考えが自分の中で熟成されていった。
しかし、なんせ思春期真っ只中なので(というか男の生理として)、女子にはめちゃくちゃ関心があったし、性欲も人一倍強かった。よって、「女子は嫌いだけど、女体には(死ぬほど)触れたい」という思春期のベタな感情を抱いて悶々とした日々を送っていた。
そんなこんなで中学生活を過ごしていたが、高校進学のタイミングで希望の共学の高校に落ちて、不本意ながら男子校に通うことになった。
高校では当然学校内に男子しかいないので、中学時代のような自己矛盾からくるストレスは減っていったが、女子と話す経験、恋愛する経験は一向に積まれないまま、18歳を迎えた。
高校生活は特に楽しいこともつらいこともなく、学校に行って帰るだけの生活で、よく言えば非常に穏やかな日々だった。ただ、3年次の受験勉強だけはそこそこ頑張って、何とか第一志望群の大学に合格できた。
自分が行っていた大学はいわゆる私立文系のマンモス大学で、当然可愛い女子もたくさんいた。中学時代の女子ヘイトを経て、高校三年間男子校という監獄に閉じ込められた自分には刺激が強すぎる環境だった。しかし女子と話す経験値が致命的に足りていないので、入学後の3か月くらいは、昔と同じで女子を遠ざけるような生活を送っていた。
転機となったのは、英語のクラスで好きな人ができたことである(思えば初恋だったかもしれない)。その時、男友達はそこそこ出来ていたので、親切にも色んな人が恋愛テクを教えてくれた。どうやらメール(その時にLINEはなかった、また年がバレそう)をこまめにやって、頃合いを見て二人でご飯に誘うのがいい、という今考えれば当たり前の恋愛プロセスもその時はじめて知った。
またその友達が他の女子と自分を繋いでくれて、恋愛相談をするという形で、女友達を何人か作ることができた。この頃には、「女子とどんな話をすればいいか」がなんとなくわかるようになっていた。
ただ、肝心な好きになった子とは全くうまくいかず、それもそのはずで、その子には既に彼氏がいて分かれる気配もなかった。しかし恋愛というものを全く分かっていなかった自分は「彼氏がいても好きなら諦めないのが純愛だろ!」などと痛いことを考えていて、ちょこちょことアプローチを続けていた。
(AKBの歌詞みたいだね。好きって気持ちが大事なんだーって。さすが秋元康は童貞の気持ちをよくわかっている)
ただまあ当然うまくいくわけもなく、早まって告白をし、あえなく振られた。そんな感じで傷心状態が1~2か月続いたが、そのタイミングで同じサークルのある女の子と仲良くなった。
その子は正直言ってあまりタイプではなかったが、傷心を癒してくれたし、何よりなんだか付き合えそうな雰囲気があった。そこでやりたい気持ち半分、癒してほしい気持ち半分でなし崩し的に告白をして付き合うことになった。
後から振り返って思うのは、やはりn=1でも女子と付き合ったことがあるかないかはとても重要で、一人の女性からでもその生態を深く知ることができた。
そこからの話はあまり面白くないので詳細は省くが、人並みに大学生らしい恋愛をした後、別れたりくっついたりして、やがてそれも終わり、その後新しい彼女が出来たりして…といった感じで、徐々に「弱者男性」だった自分は薄まっていった。
ここで、弱者男性だった頃の、下手で、精神的に未熟で、痛くて、という恋愛観を経て、今思うことを綴ってみる。
まず、弱者男性になるきっかけは、ほとんどの場合、先天的なものと家庭環境だとおもう。冒頭にも述べたが、イケメンに生まれて弱者男性になる人は少ないだろう。あとこれも経験則でしかないが、家庭内に女兄弟がいたら弱者男性になる確率はぐっと低くなるだろう。
次に、弱者男性から抜け出す方法は、月並みだが女子と接する「経験」をともかくつむしかない。なので、今自分が弱者男性であると自覚していて、かつそこから抜け出したいと思っている人は、勇気をもって踏み出してみるしかない。当然傷つくことも多いし、自信を無くすかもしれないが、多くの男性がそれを乗り越えて幸せをつかんでいるのだ。こんなことを書くと精神論になって胡散臭いセミナーみたいなので、最後に具体的な方法を2つ示して、弱者男性から抜け出せる確率を少しでも上げられるように考えてみる。だれが読んでいるか分からないが、少しでも参考になれば幸いである。
恋愛において顔が重要なことは何度も述べたが、顔は整形でもしない限り変えることができない。しかし、髪型やファッションは変えることができる。今となっては、自分も他人の恋愛相談に乗ることも多いのだが、モテない人はだいたいダサい髪型とダサいファッションをしている。そういう人はたいてい我が強い。自分のこだわりが強すぎて世間の流行からかけ離れているか、もしくはすごくケチで美容院やファッションに金をかけたくないと思っている(趣味に金をかけすぎで、髪型やファッションに金を回したくない人も含む)。
そして、女子は男が思っているより何倍も外見で様々なことを判断する。男の何倍も髪型やファッションに関する関心が高く、自分が思っているよりかなり細かく髪型やファッションを見られていると思ったほうがいい。こんなことを書くと、「外見で判断する女は嫌だ」なんて反論が聞こえてきそうだが、そんなきれいごとを言ってもしょうがない。流行りの髪型やファッションを雑誌やSNSで学び、カネをかけるべきである。
自分はと言うと、なぜか中学くらいからファッションにだけは関心があり、ファッション誌を読み漁り、誰に見せるわけでもないのに(高校生にしては)そこそこ高い服を買っていた。それもあってか、大学入学後は髪型やファッションに関してダサいと言われることは無かった。このことは弱者男性を抜け出すための大きな要因だったと思う。
これは、弱者男性が恋愛をすると初めに陥りがちなパターンである。つまり、好きになった女子の要望をなんでもかなえてあげたいという思考だ。
「どこ行きたいの?」「何が食べたい?」「次どうする?」。こういったことを逐一聞いていると女子は貴方のことを優しいとは思わず、むしろ「頼りない」=「魅力を感じない」となってしまうらしい。(自分もこういうことを言っていたので気持ちは痛いほどわかる…)
対策としては、デートまでの日時とデートプランはこちらである程度固めて、リードしなければならない。いちいち女子の要望を聞いていてはいけない。迷ったら、お互いの休日を合わせて、映画に行ってちょっとおしゃれなお店(頑張って調べよう)で食事をする、とかで良いと思う。面白味は無いが、女子が貴方を査定するには必要十分なセッティングだ。
いかがだっただろうか?この日記は特に推敲もせずに思いつくままに書きなぐったので、読みにくい部分もあるかもしれない。
自分もまだやっていないのだが、自分の日記と元の日記(https://anond.hatelabo.jp/20241021131553)を読み比べてみて、どのような違いがあるのか考えてみよう。
もしこの辺境の地の日記をたまたま読んでくれた人は、元日記との違いやざっくばらんな感想を教えてもらえれば幸いである。
では。
私は中学生の頃からもう10年ほどいわゆる腐女子でBLが好きだが、その心理をずっと考え続けてきてようやくまとまってきたので整理したい。とはいえまだまだ論理的ではないが正直な感情であることは間違いない。
①女が女として扱われる描写がない。
これは趣味嗜好とは異なるかもしれないが、私は極端に女性性を表現されることが苦手だ。
創作物に限らずとも写真や映像で女性の体つきが誇張されること、女らしい服装、何かしらのちょっとした言動に対する「女の子っぽいね」という謎の評価。
私は性自認は昔も今も女であってそう扱われることに違和感はないが嫌悪感はある。自分以外の女性がどう扱われようと無関係だろと思われるかもしれないが、第三者の女性がそう扱われる=私と「女」という共通点はある=私も同じカテゴリでありそう扱われる存在、ということを認めたくない…という心理のように思う。
よって性描写はなくとも、"女が、男に女として扱われる様子"が描かれる恋愛作品が苦手なのかもしれない。もちろんBLには女があまり出てこないので、必然的にその描写が少ないため読みやすい。
異性間恋愛において男女が平等というイメージがどうしても掴めない。理由は恐らく3つ。
1つ目は私が恋愛未経験の喪女だから。恋愛どころか男友達もいない。それ故に男と対等な関係を築くなんてことが想像もできない。人間経験の浅薄さがただただ悲しい。
2つ目は男に対する引け目というか恐怖感。1つ目の理由とも似ているが、私は容姿が悪いので男には基本的に馬鹿にされ見下されているという被害妄想がある。幸い直接的に言われたことはないが容姿が悪いのは事実なので内心はきっとそう思われているだろう。
そのため無意識的にそこに男女差格差を感じてしまうのではないだろうか。
3つ目は肉体的な問題。これは揺るがないと思う。つまり性行為において女は男に"される側"という受動的な肉体構造をしていること。恋愛に肉体関係が必須かどうかは別として行為の際にはどうしてもその構図を認めざるを得ない。性行為はそういうもんじゃなくて気持ちの面では互いに平等だよと言われてしまえばもう分からない。喪女には追いつけない世界。
よって、男女差のないBLはフェアで受け入れやすいように感じる。
しかし3点目の理由に関係するところで「女役を男に担わせているだけでは?」という指摘がありそうだ。むしろ自分でもそう思う。男だったら受け身にさせてもいいのか?と言われると否定できない。強いて言うのであればBLでは両方が受け攻めになりうる可能性があり、双方の合意の元で受け攻め(性行為における上と下)を決められるという点は平等だ。
まーた女と容姿の話だ。結局のところ私はブスなので可愛い女の子、綺麗な女性を見たくない。女性のアイドルも苦手だ。みんな可愛くて羨ましくなる。言うまでもなくアイドルや1000年に一度の逸材になりたいと思っているわけではない。ただ、普通に生きているだけで男女問わず友人ができたり彼氏ができるような人並みの容姿は欲しかった。
そういった女性に対するコンプレックスが異常に強い。そしてBLには女性が出てこないのでコンプを刺激されなくて済むのだ(何度目の論理だろう)。
そう考えると容姿の良い男に対するコンプレックスは微塵も無いのでやはり私の性自認は女なんだな。
性自認や容姿や男女格差の視点がゴチャゴチャに入り組んで我ながらよく分からないが、私がBL好きな理由は主に上記のような要点でまとめられる。
※逆に言えば、よく言われる「男女ではなく男同士という特別な壁を乗り越えるからこそ萌える」みたいな気持ちになったことはあまりない。
傍から見れば論理は破綻していて偏見も大いに含まれているだろうけどこれが私の正直な感情であり、誰にも共感はされなくとも否定されるものでもないと思いたい。
当時、S誌(シミュレイター)と共に日本のボード版SLG界を牽引していたT誌に掲載されたリプレイ。トラベラー特集の目玉企画。著者はGURPSなど多数の作品を翻訳することになる佐脇洋平。リプレイと聞いて連想する今の型式が普及する契機となった。このときに安田均が「違う型式でいこう」と考えてたら、多分リプレイ文化は成立してないか大分変わってた。
そのS誌に掲載されたローズ・トゥ・ロードのリプレイ。Wikipedia曰く『ゲームの解説記事である以上に「読み物」として書かれた初めてのリプレイ』である。著者はわきあかつぐみ(藤浪智之)。実際の誌面を見ると一目瞭然だが、かなり独特な型式で、これに創刊号(再創刊号)でいきなり15ページも与えた鈴木銀一郎恐るべしである。記事自体の人気は爆発的に高く、反響も大きかったが、先述の通り、型式が独特だったので直接の模倣作はそんなに多くなかったはず(プレイの雰囲気というかノリは割と真似というか汚染されてたので、影響力が小さかったわけではない)。
既述の通り、日本のゲーム界では「このとき安田均が違う決断をしていたら歴史が変わっていた」タイミングがいくつかあるがその中でもかなり上位に入る。翻訳TRPGの本命というべきD&Dを紹介するにあたり、安田均がパートナーとして選んだのが、(専門性の高いボードゲーム誌でなく)大抵の本屋で普通に買えるコンピューターゲーム雑誌&角川書店だったこと、マスターに選んだのが水野良だったこと、結局そのままの単行本化ができなくてD&Dから離脱したこと、それまでの「エルフ耳」とは単に先が尖っているだけだったのに出渕裕の勘違いで笹の葉の如く細長くなったことなど、その影響は極めて大きい。
(以下追記)
元増田のブコメでb:id:f_d_trashboxさんの指摘により思い出した。名前の通りD&Dの入門書だが、リプレイパートが存在しており読み物としても楽しめた。著者は鈴銀とともに初期から日本のボード版SLG界を牽引していた黒田大佐こと黒田幸弘。それまではリプレイ=雑誌掲載記事だったが((厳密に言えばリプレイ載った同人誌も登場しつつあったが雑誌より入手難易度は上))、これは誰でも買える一般書籍として登場したという点で画期と言える((ただし、TRPGとは複数人数で遊ぶものであり、会場を借りる文化が発達してない時代だと個人宅で遊ぶ物で、必然的に自分で持ってない雑誌でもそこで読んだ、という人間は多く(筆者含む)、「雑誌掲載記事」という単語のハードルは現代人が想像するほどには高くなかった))。
リプレイ文化と言うよりも日本のTRPGシーンに与えた影響の大きさで選出。著者は山本弘。元増田は『TRPGリプレイが多数書籍刊行されることにはならなかった可能性があるくらい、歴史上はとても重要な作品』と言っているが、これは過大評価であり、当時すでに「雑誌にリプレイを連載し、そのシステムを販売し、さらにリプレイ本や小説((ロードス島戦記1巻は1988年4月発行))や解説本も売る」が安田均の戦略なのは多少目端の利く人間なら理解していた((どんなに遅くとも、独自システムになったロードス島のリプレイ第3部(コンプティーク1988年9月号~)を見てそう思わない奴はいねーよ、ぐらいの相場観))。
いわゆる「スチャラカ冒険隊」のリプレイは月刊ドラゴンマガジン1988年11月号から連載が始まるが、このパートではそれまではただ退治するものだったはずのモンスターを違う視点で描き、当時の日本中の若者(筆者含む)に多大な影響を与えた。
「初期」とタイトルに入れたので80年代の話だけにしようかと思ったが、影響の大きさ的に触れた方がいいかと思って言及。不幸な出来事。警察庁広域重要事件117号(1988年~1989年)と同様に「オタクは迫害されている」との自己認識を強める契機となった。
アメリカ探偵作家クラブ賞受賞の推理小説。著者はシャーリン・マクラム。訳者は浅羽莢子。D&Dがよく分かる本を探しに行ったら本棚から出てきたので紹介。SF大会で起きた殺人事件を題材とするミステリ。SF大会のオタク的様相が描かれる。クライマックスではTRPGを使って犯人を追い詰めるので、小説形式リプレイにしか見えない謎仕様。今気づいたけど、152ページに出ている架空の書籍タイトルが「美女と野獣――マンチキンの国がとりもった結婚」とかで訳注は原義の「オズの魔法使いの国に登場する小人の国」としか書いてないけど、年代的にはジェフ・オカモトの方にひっかけた可能性が高いと思われる(余談が過ぎる)。
現行のクライマックスシリーズに批判が集まるのは、優勝争いすらしてない3位のチームが、独走した1位のチームを差し置いて日本シリーズへ行っちゃえるから。
商業的なメリットがあることとか頭では分かってても、やっぱり感情では納得できないわけだ。
そこで4リーグ制ですよ。
1リーグあたり3チーム、つまり12球団という総数は変わらず。
それぞれの優勝チームがクライマックスシリーズで対決する形にする。
交流戦とか増やして、実質的に現行の日程とあんまり変わらなくしていいよ。
(というかチーム数が奇数だと必然的に1チーム余るので余った同士を組ませることになる)
朝三暮四的だけど、それで精神的にはだいぶ落ち着くと思うんだよね。
どうよ?
今この瞬間に存在する物質的な空間についてはあくまで3次元だと思う。
でもそこに刻一刻と変化する時間が重なるので、表層的な部分でも4次元だと捉えるべきだと俺は間がている。
そこから更に人間が認識して解釈しようとすると必然的な個体差が発生する。
つまり、俺達が「これこそが俺の認識している世界なんだ」と感じる時、それは5次元のものなんじゃないだろうか?
さらに言えば、今この場で自分が認識している世界はあくまで自分がそう思っているだけで、あとになって振り返れば「あの頃そう思っていた」でしかなくなるんじゃないだろうか?
たとえば、「あの頃はユダヤ人が本当に悪魔だと思っていたが、ヒトラーに騙されていただけだった」といった変化が起きたとしても、当時の自分がどのように「世界」を認識していたのかは覆せないし、未来でどう考えているのかなんて予想までしか出来ないわけだ。
「世界」が5次元だと考えると何が変わるのかと言えば、「世界」の広がりに対しての認識が変わる。
世界があくまで3次元空間に広がっているだけだと思っている人間が「世界は広い」と口にした時、その時考えている広がりは実際の広がりと比べると全くもって全然小さいということだ。
たとえば20年に1度の周期で大きな災害に襲われる地域に住んでいる人でも、その被害を目の辺りにしたことがない人と、実際に被害にあった人では、その災害や地域に対しての認識がまるで異なってくる。
同じく災害にあった人でも偶然軽く済んだ人とそうでない人では全く認識が異なるだろう。
年配の人であれば2回3回と災害にあってそれぞれによって印象が違う人もいることになる。
つまり、同じ地域に済んでいる人間の中であってもそれぞれに認識の違う「世界」が頭の中に広がっているとういことだ。
そんな所にフラっとやってきた旅行者が現地において過去の爪痕や伝聞について情報を集めた所で、彼らと同じ用に「世界」を認識することは出来ない。
だが、「世界」というものは所詮3次元のものだと思っていると、今現在の資料や現場といった2次元・3次元の情報収集だけで十二分に彼らが見てきたものと同じものが頭の中に描けると思ってしまうのだ。
つまる所、世界の広さというものに対して次元が違う勘違いをしていて、致命的なレベルで世界の大きさを認識できてないということなんだな。
こんなのは当たり前のことなんだけど、「世界」の広さを大雑把にしか分かってない人はこの広さを勘違いして痛い目を見たりする。
普遍的なパターンの組み合わせで世界は仮想的にシミュレートしていけば、それなりの学習能力がある人間が50年ぐらい生きれば十分に世界のコピーを脳内に描けるのだと思い上がってたりもする。
そういった人達が「俺は世界を知っているんだ」と口にする時、それは多くの場合は何らかの失敗や不和への秒読みだ。
繰り返しになるが、「世界」というのは3次元空間にのみ広がっているのではなく、時間という広がりも持っているし、それが実際には個々人の頭の中でバラバラに広がっているものなのだ。
それを軽んじて「今俺の眼の前にあるものこそが世界なんだ」と思っていれば、それぞれの人間の頭の中に広がる齟齬や、時間の裏側に隠されてしまった過去の事実を取りこぼしてしまう。
傲慢は人間の持つ最大の罪とされているが、「世界」の広さの取り違えというのはその典型的な例なのかも知れない
SFなんかで「世界中の原子や素粒子が今持っている状態を完全にコピーすれば、記憶も含めて世界を完全に再現できる」という思考実験がある。
確かにこのような考えに基づけば人間の頭の中を流れる電気信号の一つ一つさえも物理的な現象でしなかく、3次元空間に広がる物理現象の一つなのだろう。
そしてそこに時間というスケールを加えれば宇宙の始まりから終わりまでとなり、「世界」は4次元の中で完結してしまう。
まあ、俺もそれは分かってるんだが、分かってるんだが、その場合における物理空間の驚異的なまでの情報量は俺達が普段使う「3次元空間」という言葉で表現するには荷が勝ちすぎるように思ってる。
だから俺はある種の思考実験的なものにより「人間が認識できる程度の物理的空間×それを観測する個々人の認識」という形での「疑似的な4次元」に時間をかけての「擬似的な5次元」を世界の形として考えているわけだ。