はてなキーワード: 総体とは
『私は私だけの世界を生きており、そこに他者は存在しない』(世界と生はひとつである、私は私の世界である、主体が存在しなければまた世界も存在しない)が
受け入れられないってなぜなの・・・?
時間は存在しない(複数の出来事同士の相互作用、世界は物ではなく、実際には出来事の集まりであり、複数の出来事の関係性を、時間のように感じている)事からも
例えばウィトゲンシュタインの下記↓とか『?!』ってならない・・・よね・・?
▼ 追記:
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/kabumatome.doorblog.jp/archives/65995151.html
たぬなか氏による「人権ない」発言。吉野家による「生娘をシャブ漬け」発言。どちらも「字面通り解釈すると一般人にはその対象を非常に貶める言葉に受け止められるが、一定の界隈では違う意味、狭い世界での専門用語たりうる表現」だったかと思う。
人権はゲーム界隈では人が生まれながらに持っている権利ではなく、ゲームを有利にする物を持っていたり必須品があったりという快適やスタートラインに立っている、などといった意味から薄く広く活用されている用語。だという。
シャブ漬けもコンサル用語の側面があり、その業界での夢中にさせると言った意味の悪ふざけがある言い換え表現だろう。この程度の表現は様々なコミュニティに無限に(しかしみんなの意識改革で減らしつつも)存在しているものだろう。
別にシャブ漬けが炎上するほどのものではなかったと言いたいのではなく、シャブ漬けや人権無しがダメだというのなら、肯定的・否定的関係なくその対象と一般とを誤解させる、不快にさせる言葉遣いはダメなんだな。と俺は解釈した。
ところで。
「ヤク」
という言葉からあなたは何を連想するであろうか。自称は憚れるが一般人たる俺には「麻薬・違法薬物」を第一に連想する。
「ヤクの売人」
という言葉からあなたは何を連想するであろうか。俺は「麻薬・違法薬物を売る犯罪者」を第一に連想する。
あなたは今までに何度ヤクルトをヤクと略したことがあるだろうか。申し訳ないが俺はヤクルトを愛飲しているわけではない。しかし飲んだことはある。そんな俺は今までヤクルトをヤクと呼んだことは一度もない。
俺自体はそんな認識である。そんな認識の俺がもう少し考えてみるよ。
株式会社ヤクルト本社が、あるいは日々精一杯働いている従業員やヤクルトレディが「ヤクの売人」と呼ばれて喜ぶだろうか?親しみをこめて呼ばれていると感じるだろうか?
もう一歩。仮に喜んでいたとして、外野から見るとどうだろうか?ヤクルトとヤクを掛けているのは誰にでもわかるだろうが、そこに侮蔑的なニュアンスを一切感じないと言う人はどれぐらいいるだろうか?
ヤクルトを売っているだけでヤクの売人と呼称することと「人権がない」と「生娘をシャブ漬け」にいったいどれほどの差があるというのだろうか。
俺にはこの中のどれかを軽蔑しつつどれかを許容するという態度は取れない。
人や物の名前をイジって遊ぶのは小学生で卒業しなさいってこった。
イジりってイジメとほぼ同質だからね?ほかならぬヤクルトと他人のはてなの皆様ならなおさらね。
お前らヤクルト本社内やヤクルトレディさんの前でヤクの売人さーん!って大声で叫べるんか?
毎度のことながら総体としてのはてな民などと言及するのは、だとかしあれに反応してこれに反応しないのはおかしいなんていう指摘はおかしいだとかを論じるつもりはない。しかし今のところ、ブコメで苦言らしきものは
シャブ漬けは駄目でヤクの売人は良いのか。パターンがつかめんな。
emushi36emushi36 2022/05/14 13:07
その他
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ぐらいだよ。
俺がわからないのはただひとつ。記事本文のメインテーマでは無いにしても、トップブコメに入っているこの表現にほぼなんの反応もないその感性、センサーだよ。
記事を読んで、ブコメ見て、ヤクの売人という表現になんにも感じないのかい?それよりもっと他に書きたいことがあるのかい?
そういえば学生時代にフェミニストによる特別講座を受けた時、講師が「AVの9割はレイプです」などと発言していて、本当かよと思って色々調べてみたら100%デタラメだということが判明して、それ以来フェミニストの言うことなんか一切信用しなくなったという経験がある。
https://twitter.com/hasegaw15328076/status/1524250916886806529
そのフェミニストの言い方にツッコミどころがあったとしても、「そういや日本のAVやエロ動画って、ほとんどが女性が嫌がって恥ずかしがっているものばっかりで、女性の方から迫ってくるやつとか、仲のいい相思相愛のカップルとか、ほとんど見ないよな」というのは普通にわかるし、それを総体として「レイプ」と表現していることも普通にわかるだろ。
Twitter新オーナーのイーロン・マスク氏「昔サヨクだったはずなのにいつの間にかネトウヨになってた」メカニズムを解説
aa_R_waiwai 2022/04/29
自民党が「侮辱」の範囲を明示しないことは批判するのに、自分たちは萌えコンテンツの許す範囲を一切、明文化しようとしないのが、リベラルだ。他人がネトウヨになったのではなく、自分がネトウヨになったのだ。
「国際卓越研究大学」に教職員1700人反対署名 研究者ら「大学の自治壊される」「研究費支給に政治関与の恐れ」:東京新聞 TOKYO Web
aa_R_waiwai 2022/04/29
日本に大学の自治は無い。「自衛官がいるぞ!」と石を投げつけ、大学から追い出した歴史が証明してる。今は違うって? 謝罪がない以上、変わったと見なすのは難しい。それがリベラルの理屈だった筈だ。
これは自分も経験したからわかるんだけど、エンジニアって、技術的にとらえようとするから、
チーム作りや組織作りってことも、技術論で発表したくなってしまう。
しかし重要なのはビジネスの総体であって、チーム作りや技術論はその中での出来事にすぎない。
この人もずいぶん立派なことを書いていて偉いなあと思うけど、
https://logmi.jp/tech/articles/326481
社外の客から見たら、フードデリバリーのアプリ作ってる会社としか見られない。
エンジニアやってると近視眼になりがちなので反省することも多いのだけど、
自分の技術でどんなビジネスに貢献しようとしてるのか、というのはとても重要。
──「富野由悠季の世界」展を拝見して、富野由悠季監督のキャリアをあらためて振り返っていただくと、ご自身でも言及されているように『機動戦士Vガンダム』以降のお仕事はフェーズが変わったのではないかと感じられます。それまでほぼ毎年のようにオリジナルアニメの新作を手掛けていた富野監督が、新作から数年遠ざかり、久々に発表された作品が『ブレンパワード』でした。ガンダムシリーズから新たな路線に踏み出したのは、何がきっかけだったのでしょうか。
富野:『ガンダム』を20年近くやってきて、はっきりと行き詰まりを感じました。行き詰まりを感じた一番の理由が「ニュータイプ論みたいなものを立ち上げておきながら、それをハウツーとして示すことができなかったこと」です。『ガンダム』をやっているうちに冷戦は終わったのだけれども、じゃあ冷戦が終わったからと言って世界中がまとまっていくかというと、まとまってはいかなかった。具体的に言うと、それぞれ主要国家のトップにいる人物たちが、必ずしもニュータイプ志向を持ってる人ではなかったという現実を突き付けられたからです。それで挫折するしかなかったということです。
だからもう『ガンダム』をやっていられないと思った。あと、『ガンダム』は構造だけで見ると、旧来の戦記物に則っているわけだから、戦記物ができる人や好きな人に任せれば良いと思いました。20年くらいやってきて、戦記物はやっぱり体力的に若くなければできないということもあって、年を取ってから戦記物をフォローしていくには、古代史を扱うような歴史的な学識を持つ必要があるということが分かってきた。そこでどうしようかなと考えたときに『ブレンパワード』に行きついたということがあります。
――今、富野監督は「ニュータイプ論のハウツーが確立しなかった」ことに挫折を感じたとおっしゃいました。富野監督は人々の多くをニュータイプにしたかったということなのでしょうか。
富野:いや、多くの人だけではありません。人類そのものがニュータイプにならないと、これ以後一万年という単位で人類は存続しない、人類を存続させるためには人の革新……というよりも、社会の革新をしなければならないんだと考えています。ですから、総体がニュータイプにならなければいけないということです。
――富野監督はガンダムシリーズでニュータイプを新しい感覚を持つ人類として描いています。劇中では、ときには距離や時間を超えてさまざまなことを感知したり、意思疎通をしたりする。具体的にはどんな人間の到来を期待していたのでしょうか。
富野:それについては、実はこの数年で具体的にニュータイプが現われたということが分かりました。
――なんと…! それはどんな人なのでしょうか。
富野:将棋の藤井聡太竜王とか大谷翔平選手です。将棋も野球の世界も勝負事です。何億通りの手がある中で、藤井竜王は勝つ手を選ぶことができる。僕は将棋のことがまったくわからないけれど、「この人がニュータイプなんだ」ということがわかった。それに気づかせてくれたのは先代の竜王であり、永世七冠である羽生善治さんの言葉です。羽生さんは、藤井竜王のことを「自分があまり見たことのない局面でも対応力というか、適応力みたいなものが高い」と評していまする。天才が、新たに現われた天才のことを評価しているんですよ。
大谷選手は大手術を受けた後でも基本的な身体のケアをつづけ、社会人としての基本としての勉強をつづけています。しかも壁を相手に投球練習は毎日つづけている!! 彼のスポーツマンとしての基礎の積み上げこそニュータイプ的と言えます。時代の移り変わりとともに、レベルの違う才能と人物が出てくるんだと感じられる好例です。ほかにも、工学の部分でも蒙が啓かれるような事例を承知しています。それは電動航空機の開発です。まだ決して大型機ではないのだけれど、それがすでに開発されているということは、僕のような世代にとってはもう腰が抜けるような事例でした(2018年7月、JAXA、航空系企業、電機系企業、経産省が航空機電動化コンソーシアムを設立)。工学や電気関係では、そういうことが起きている。そういう開発者たちは30代や40代だろうと思うけれど、彼らのような人たちに続く若い世代は、さらに違うものを作ってくれるでしょう。
――新しい想像力を持った人たちが、新しい時代を切り開く。富野監督が待ち望んでいたのはそういう方々だったんですね。
富野:藤井聡太竜王や大谷選手を見ていると、ギトギトしていないでしょう(笑)。ギトギトした人間が何億人もいたら、地球が潰れていくんです。ニュータイプにならなければ、地球は保全できないという考え方は、つまりそういうことです。おそらく、あらゆるジャンルの新進、若手の世代はこういう人たちがいるだろうと思います。僕がとくに想定しているのは現代のコロナ禍を経た、現在5歳や6歳の子どもたちです。免疫学的にも、彼らの中からニュータイプが出てくるのではないか。そういうふうに期待をしています。
『ブレンパワード』以降は、「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなった
――『ブレンパワード』についてもう少しお聞かせください。『ブレンパワード』の制作前は、ニュータイプにたどり着けなかった挫折感があったということですが、その中で富野監督が『ブレンパワード』にたどり着いたのは、どんなことがきっかけになったのでしょうか。
富野:挫折感から、僕は鬱病を患ってしまって、一年近くほとんど外に出られなかったんです。そこからリハビリをしていく中で、何を考えるかというと「なんで人間は鬱になるのか」ということでした。そこでたどり着いた答えは、健全、つまり普通の生活をしないと鬱になってしまうんだということです。それだけのことだと思ったんです。この健全とは何かというと、自分ひとりだけの問題じゃなくて、親子関係、子どもから両親がどう見えているか、周囲の人間関係も含めてのことです。普通であるということ。そういう当たり前の環境を維持するということ、それが人の暮らしにとって一番大事なんだということがわかった。
そのときに企画していた作品のタイトルが『ブレンパワード』だった。ブレーンという言葉を使うことで、知的な方向に行こうと思っていたんだけど、「いや、そうじゃないんだ」と。知的な回路を形成するためには、当たり前の健全な生活をしていないとやっていけないんだとわかった。じゃあ、その最もシンプルな話、つまり親子の関係を正面切ってやってやる、と思ったわけです。それで主人公たちの家庭環境(主人公の伊佐未勇とクインシィ・イッサーの姉弟は、研究者である父母から顧みられなかった)やジョナサン(・グレーン)みたいなキャラクター(優のライバル。ジョナサンは母のアノーアに屈折した愛情を抱いている)ができあがったんです。だから、東京が水浸しになっている、みたいな話がやりたかったというわけではないんです。
――地球の各地が自然災害で荒廃しているという『ブレンパワード』の世界観は、当時としてもインパクトがあったと思います。
富野:なんでああいう設定がいるのかというと、要は「アニメとしてのだまし絵」なんですよね。その設定があったほうが、アニメっぽく見えるから。あくまで技法論にすぎなくて、別に水浸しになった事件を描くわけではない。そうではなくて、ものすごく簡単に言っちゃうと「ママは僕のことを優しく育ててはくれなかった」という親子関係のことをドンとやっちゃうことが、一番良いことなんですよ。そういうものをアニメとして描く中で、もう少しだけ、リアルなものと接触できる作品を作れないかと思っていたんです。
――人間関係の中でも一番シンプルな「親子関係」に焦点を当てることで、普通のこと・健全なものを模索しようとしていたんですね。
富野:先ほどの質問に基づいて言うと、『ガンダム』は旧来のメカもの、戦記物の体裁に則っている部分があるんだけど、『ブレンパワード』以降は基本、心の問題……つまり「当たり前に暮らすということの重要性を、アニメでもやるべきなんじゃないの?」という思いが大きくなっています。僕が「『ガンダム』の富野」だったことで、ずっとそれができなかった。『ガンダム』の後期では自分でプロダクションを立ち上げて、新たな作品に出資しようと考えたこともあったけれど、僕にはそれをするだけの能力がなかった。実務者になれなかったという自分の能力論もあったうえで、スポンサーに理解してもらえるように、永野護くん(メインデザイン)に手伝ってもらったりして、なんとか『ブレンパワード』をかたちにした、ということです。だから、中途半端なところはあると思いつつ、とにかく『ガンダム』から脱出するための作品でもあったとは言えます。
思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんです
――『ブレンパワード』ではメインデザインのいのまたむつみさん、永野護さん、音楽の菅野よう子さんといったベテランだけでなく、脚本の浅川美也さん、カナン・ギモス役の朴璐美さん、のちの『∀ガンダム』ではデザイナーとしてゲーム業界から安田朗さんといった才能を、アニメ作品に起用しています。その背景には、富野監督にとってはどんな思いがあったのでしょうか。
富野:これは『ガンダム』から教えられたことです。僕がやったことではなくて、当時の録音監督(松浦典良)の采配で古谷徹さん(アムロ・レイ役)と池田秀一さん(シャア・アズナブル役)を呼んでくれた。他の声優さんも、声優専門ではない方が多かったんです。そういう人選を見せられていましたから、それこそ20年30年経てば今度は僕がやらなければいけないことだろうと、当たり前のように思えたわけです。それでやってみたというだけのことです。むしろ思ったよりも、それが成功していないという意味では、本当に人を見る目がない、育てる力がないという自覚をしています。
――富野監督作品参加以後も、みなさん大きな活躍をされています。
富野:結局、上手く行っている人たちっていうのは、もともとそういう才能を持っていたんですよ。全部、彼ら彼女たちの力なんです。僕が彼らに刺激を与えたとか、インプットしたという記憶はあんまりありませんね。人を育てるということは、本当に難しいことです。これはわからないんですが、おそらく触っちゃいけないんです。触らないで、出会ったときの関係で、その人の持っているものを見つけだす。それ以上のことをしては絶対にいけないんです。これは実をいうと、愛の問題にもつながってくるんです。
――愛ですか!!
富野:愛し合っちゃうと、一点しか見えなくなるんです。正しく接することができなくなる。その瞬間にとらわれてしまって、相手が今後どうなっていくのかを考えられなくなる。正しい距離感で、この先を考えて相手と正しく接していくものでしょう。ちゃんと愛を育むことが大事なんです。
――そういった愛のお話は教育論にもつながりそうですが、そういった考えは、富野監督はアニメ制作の中でお気づきになり、考えを深めていかれたのでしょうか。
富野:もちろんです。僕は基本的に絵を描けないし、原画や動画を今もチェックしているのですが、腹が立ちますもん。「なんでアニメーターは画が上手なんだろう」「なんで線が綺麗に描けるんだろう」って。しかも、彼らは平気で何十枚も描いてくるんですよ。
――ははは。
富野:でも、そういう優れた技術を持っている人たちがいるから、僕は作品を発表できるのであって、技術を持っている人たちの総代に立つには、技術論ではなくて、理念を持たなければいけないわけです。そういう思想があったから、ここまでやって来られたんでしょう。
――思想があるから、約50年にわたるキャリアで監督として活躍してこられたとおっしゃるわけですね。
富野:思想や理念があったから、技術者たちを動かすことができた。だから、アニメのことだけを考えていたらダメなんですよ。「マンガ絵が好きだからって、マンガが描けると思うな」という考えにもつながります。この話って、何にでも通用するでしょ? 僕が文化功労者のお礼のコメントの中に「アニメのストーリーテリングは万能である」と書いたけれど、そういうことなんです。あれは良い文章になったなと思っています。僕がアニメの制作を通じて描いてきた思想は、どんなものにも通じる。それがあるから作品に公共的な意味が出るんだと思っています。
結局Wikipedia使ってるじゃんw 辞書は難しかったかw
「一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。」(ブリタニカ国際大百科事典)
https://kotobank.jp/word/%E5%B8%B8%E8%AD%98-79273
社会生活を営むために屋外マスクは必ずすべき という合意形成はどこにも得られてない。(個々人の判断で行なっているが、社会生活を営むためにすべき行動様式として認められてはいない)
<自己>
自己とは、個人が持つ様々な物事に対する捉え方・考え方の総体の事。
(便宜上、「一つの事柄に対する捉え方・考え方」を“部分”と呼ぶ事にする。)
私の持つ“部分”は、過去・現在の人達から受け取ったものとそれらから生み出されたものであるため、
類似する“部分”同士は単一の人に固まり易く、私と同じ“部分”を持つ他者を見つけたならば、
その他者はもっと多くの私と同じ“部分”を持っている可能性が高い。
私の“部分”は世界中の人々の中にある。
私の肉体は私の“部分”が繁栄するのを補助する。
私の肉体が失われるという事は、私の“部分”の繁栄の補助をやめるという事。
私の肉体が死んでも、私の“部分”は生き続ける。
立憲民主の大きな失点として、福山幹事長が尾身先生に対して詰問するような質問をして、専門家と共闘するイメージを出せなかった。
ワクチンの特例承認については、治験をスキップすべきだったかどうかは悩ましい。
ロシアのスプートニクVは、ロシア国民からの信用が低くワクチン接種が進んでいない。
曲がりなりにも日本で国内治験を行ったことは一定の安心感を国民に与えた可能性があるし、実際自民党も治験の実施には同意している。
ただ、振り返ってみると、国内治験でかかった2カ月を短縮できれば、夏のピークはもっと緩やかだったかもしれない。
検査に関しては、隔離をしっかりすること前提で利用価値は高いし、感度はイマイチだが特異度は高いので、この人の文章はミスリーディングだと思う。
ただ、立憲民主党は検査に関して発言するなら隔離をどうするかを、検査結果未確定者に関しては移動や生活を制限することを含めて国民に説明してほしかった。
検査と補償を重視する立憲民主の発言もまた、ミスリーディングと感じた。
上記のように、検査で感染を終息させるには隔離を強固に(それこそ中国のように)行う必要がある。
職場に感染者が出て、ビルごとまとめて2~3日くらい隔離し順次検査を行い、検査結果通知までの間関係者の行動制限を強制するような戦略をとるのならば、そういったことをする旨を説明するべきだろう。
以前の民主党政権で埋蔵金やガソリン値下げ隊といった国民に甘言を弄した議員も、立憲民主党にはまだ残っているので、正直言って信用ならなかった。
五輪開催を3カ月遅らせられれば、少なくとも五輪に医療スタッフを派遣する必要もないので医療現場の負荷は小さかっただろうし、
δ株感染拡大時にロックダウンを含めた手段をとるための法整備が全くできていなかった。
ただ、菅政権の、とにかくワクチンを打つという戦略は間違ってなかったとは思う。
もしあと二か月ワクチン接種が遅れていたら死者の数は今の人数では済まなかっただろう。
総体として立憲民主の主張に沿えば、今よりも死者数が少なかったかどうかについては、懐疑的にならざるを得ない。
よって、今回は立憲民主党を指示しなかった。