はてなキーワード: 志望校とは
いや〜男尊女卑が強いとか言われる九州の田舎の地域だけど女の子は勉強できなくていいってのは聞いたことない。むしろ賢い娘は(もちろん息子もね)どこでも一家の誇り。
教育熱心な家庭なら東大、九大、医学部に入れるために塾に通わせるし、成功すれば親はもう鼻高々だよ。そうでない家庭でも「勉強頑張ったおかげで増田子ちゃんは高卒公務員になれた」って親戚、地域でロールモデルにされるよな。
同じ家庭で男の子は大学で女の子は高卒、強制的に地元てのも聞いたことない。娘自身が九大や熊大が志望校で九大熊大行くケースはよくあるが。
こうなるのは「将来への不安」があるからだけど、女は勉強できなくていいって家庭はつまり、よほどの上級国民で将来のことは気にしなくていいレベルなんじゃない?そりゃ皇室とかに生まれたら将来の心配は一応ないしね。勉強なんしてないで別のことしなさいって言えるかもなあ……
小学生の時に地元で評判の良かった少人数制の個人塾に通ってた。
・まず同じ学年で3人組を作る
・宿題→1人忘れで3人全員、指示棒打ち3回ずつ
・自習室→利き手の反対の腕に手錠。鎖で教室中央に繋ぐ。トイレや離席は休憩時間のみ。
・自習中、授業中の居眠りは居眠りした人だけ指示棒打ち5回
・「はい」か「いいえ」の返事忘れ→返事忘れた人は指示棒打ち5回
結果的に渋幕と筑附に合格した。同じ3人組だった人や他のクラスメイトも市川中や開成、筑駒など志望校に全員合格できた。あの頃は恐怖でどうにかなりそうだったけど、頑張った時はすごい褒めてくれたし、頑張るべき時に頑張らなかった人間の末路話は小学生ながら背筋が凍った。大人になった今ではかなり恩を感じてる。今はもうそういう教育は不可能なんだろうな。
いつのまにか触れあえない体質になっていた
犬猫鳥のいる実家に帰ったとき、呼吸できなくなるくらい鼻腔が閉塞して全身に発疹ができたのがきっかけで検査した
姪の飼ってるハムスターの爪がひっかかっただけでグロいミミズ腫れもできた
うさぎやチンチラの餌となる牧草なんかの稲科植物もだめになった
子供はできないとわかっている
変な言い方かもしれないけどこんなにも動物の里親の条件満たしてるのに飼えないなんて!
数年前同棲していたときは小動物の里親になって目に入れても痛くないほど可愛がり、
長生きしてもらって看取りまで全身全霊を捧げた
お互いの実家で犬猫飼育してて、受診やトリミングなど手伝えることは喜んで手伝った
今回念願の一戸建てを建てて「よし!いまこそ好きなだけ動物と暮らそう」と思ったらコレだよ
犬を外で飼うなんて絶対無理だし、飼ってみて無理なら...なんてクソ無責任なと死んでもしたくないし、爬虫類系は懐いてくれないだろうしアレルギーだってあるかもだし
すごく凹んでる
第一志望校落ちたときやだいすきな祖父がなくなったときより凹んでる
動物と暮らせる人がうらやましい!
動物との暮らしを夢見て在宅で稼げるように努力してきたのにさ。
みんなペットを大切にしてね
彼女いない歴=年齢の30代の男。これまで性体験はオナニー以外皆無だったが先月始めてピンサロに行った。人生で初めてのキス、乳首舐め、クンニ、手コキそしてフェラを体験した。手を使わないゆっくりフェラは視覚的にも気持ちよさ的にも至高だった。女の子がめちゃくちゃ可愛かったのもある。
仕事中にピンサロことを思い出しては勃起するということを繰り返していた。嬢がフェラしてくれてるのを思い出した時、不意にちんぽがビクってなってわずかな快感を感じた。その時思った。
早速準備に取り掛かる。まずオナ禁。毎日朝夜2回のオナニーを絶った。それでいてAVは見ていた。これが本当に苦行だった。受験期には大学で可愛い女の子とセックスする妄想をしながら一日3、4回抜いて結果的に志望校に落ちた俺が何度も自慰の誘惑と戦った。そして6日目にもう限界だとなったため、その日の夜に決行することに。
普段シャワーだけなのだが、その夜は湯船を張り仕事で疲れた身体をリラックスさせた。風呂から上がるとネットも見ず、部屋中にネットで買った「女の子の匂いのするスプレー」を撒いた。女の子の柔軟剤?シャンプー?のような匂いでもうフル勃起。次にちんぽの皮を全開に剥き亀頭が腹を向くように反らせ、そのままの状態で予め買っておいたかなりピチピチのパンツとワンサイズ小さい厚手のスウェットを履いた。パンツの中で勃起しようとするちんぽが押さえつけられるようなポジション。準備は整った。
電気を豆電球にし布団に入る。そしてあの日のことをゆっくりと思い出す。あのピンサロ嬢は可愛かったが、さらに興奮度を高めるべく愛嬌や声はそのままで、顔だけ乃木坂の某アイドルに変換した。丁寧に挨拶、会話、キス、乳首舐め、手コキ、クンニを思い出した。もうちんぽは破裂前のポップコーン。そして「じゃあ行くよ〜。我慢しないでいいからね」という言葉のあとちんぽが口に包まれる場面に入ったところで肛門の締め付けを開始。キュッと肛門を締め五秒、ゆっくりと肛門を緩め、またキュッと締める。これを繰り返した。脳内ではあの温かさと感触が再現されている。肛門を締めるたびにちんぽが必死で起き上がろうとし、それをパンツとスウェットが抑えつける。
5分くらい経ったころ、心臓がバクバクし始めた。「これは!」なんと、小学生の時にいつものオナニーを繰り返してた時に突如感じた、初めての精通の感覚だった。俺は慌てず脳内再生を続けながら肛門の緩急運動を繰り返した。そしてさらに何分か経過した時、、、!
今まで到底味わったことのない電撃みたいな快感が下腹部から全身に伝っていき、それが肉棒で弾け脳内でじんわり温かく広がった。身体が勝手にビクビクと痙攣し、それに合わせてちんぽが大量の精液を吐き出した。しばらく呆然としてしまった。頭の中では某アイドルがニコリとしながらおしぼりに精液を吐き出していた。そのまましばらくぼーっとしその日は寝落ちしてしまった。
翌朝のパンツとスウェットの処理は大変だった。それでもまだ頭の中には幸福感が残っていた。俺は自慰の高みへ登ることができた。
・大学受験前、志望校のことが知りたくて2chで情報を集めたりしていた。その流れで在校生に質問したりしていた。
後日、スレを開くと
息子は受験が心配でこのような場所で皆さんに質問しているようですが、私からも質問よろしいでしょうか?
みたいな書き込みがあった。
その件に関しては問い詰めたりはしてないが、母親から「私はあんたがパソコンで何調べてるか全部知ってる」みたいな、監視をほのめかす言葉を言われたことがある。
・中学生の頃、学校の帰り道にローソンによって友達とアイスを買い食いしてたら、車で通りがかった母親が駐車場にいる俺をみつけて急ハンドルで俺の前に付けたかと思うと、窓を開けて「何買い食いしとんねんはよ帰れ、家帰ったら覚えとけよ」と言われた。
その直後車を発進させたが、俺の足先をタイヤで轢いて行った。
そんなに痛くなかったけどさすがにバックしてきて「バチが当たったんや」と言ってきた。
前の車の後部座席にでかいぬいぐるみがこっち向いて座っていて、それが面白かったので写真を撮ってツイートした。
するとツイートを見た母親が電話してきて「運転中に携帯触るな!」と怒鳴られた。
・転職して鬱になり休職することになったので母親に報告したところ、俺に内緒で会社の社長宛に超やんわりとした文体ではあるが要約すると「うちの息子が鬱になってもとるけどおたくの会社は社員をどういう扱いしてんねん」という内容だった。
手紙の事は社長と俺の上司しか知らず、俺にも伏せられていたため発覚が遅れた。
上司が隠している事に耐えられなくなって、俺に話してくれたことにより知ることとなった。
一生許さないとも言った。
・俺が鬱になった時、俺にあまりにも冷たく突き放されたことがショックで、息子に捨てられたと思ったらしく、精神を病み俺が通っていたのと同じメンクリに母親も行ったらしい。(母親の自白により先日判明)
先日また別件でストーカーまがいのことをしてきたので「怖い」と伝えたら泣いてしまい、翌々日には長文で「もう親子関係も何もかも壊そうと思う」とメンヘラめいた事を言われる。
意味がよくわからかかったけど、母親を辞めたら?俺も息子辞めるから。と言ってみた。
その後必要最低限の連絡だけ(今までもそうだけど)になった。
他にも挙げたらキリがないけど
ちなみに母親とは同居してない。
宿題は溜めるしチャレンジも溜め込むタイプの人間だったが、「ふんわりした期限がある、解説付きの問題集がわざわざ選ばなくても毎月送られてくる」というだけでだいぶメリットだった
①ふんわりした期限がある(小中)
かたや学校の宿題は短い期日までにやらないと怒られる、かたや本屋の問題集は完全フリー、この両方に馴染めない先延ばし癖人間は「毎月○日までにやればセーフ(溜めても翌月に出せばセーフ)」というふんわりした期限に救われていた
何てったって期日の2~3日前にテキスト全部終わらせて、前日に赤ペン先生を解いて送れば金ぴかシール(実質金券)がもらえるのである
2ヶ月分3ヶ月分溜めてても送ったら金ぴかシール授与、つまり「出してえらい」とほめられるに等しい
毎日コツコツやれる人間と比べて、注意されたり叱られたりが多い(けどやればできる)くらいの子の自尊心を満たすチャレンジはある種の救い
(逆に塾のように週何度か決まった時間に勉強するのは無理だっただろう、行ったことないけど)
高校は進学校だったが、苦手な数学がよりにもよって解説冊子を買わせない (答えは載っているが、解説は授業でちゃんと聞けということだと思われる)という教育方針だった
本屋に売っているものではなく、今と違ってフリマアプリで買うという選択肢もあまりなく(今高校生の兄弟にはメルカリルートでプレゼントした)、塾も行っていないのでそちらからの入手ルートもない、授業もワケわからず詰んでいた状況だったので、チャレンジのわかりやすい解説は非常に助かった
あと国語や英語などの非暗記・問題解いていくしかない系の科目も、解説が詳しいのがありがたかった
クソ溜めてたけど
③選ばなくても毎月送られてくる(高校)
「問題集なんて学校や塾でもらうやつがすべて、他は赤本だけで十分」なんてやつもいると思うけど、いざ本屋で問題集を探すともうわけわからん
評判がいいからといって自分に合うとは限らず、学校のレベルとかけ離れていても役に立たない
高校生用チャレンジは志望校(難関国立とか私立とか)に合わせた問題が勝手に送られてくるし、過去問とかもいい感じにチョイスしてくれるので、適当に解いていけばいいのがよかった
赤ペン先生解いてれば苦手克服とかも勝手にまとめといてくれるし、模試の結果を見ても上手く自主学習で生かせないタイプの人間なら、(親の)金でメンターを雇うっていう感覚でやるのはアリなんじゃないかな
あとやっぱり学習ゲームのノウハウがすごいから、ゲーム好きな子供にやらせたらまあ小学生の間はそこそこ楽しみながら勉強習慣付くんじゃないかな? その後はその人次第だけど
https://www.tohsemi.com/10516.html#heading2
最後に、どんな状況にあったとしても君たちには全員に当てはまる勉強する理由があるはずです。それは、ここまで約18年間、大切に育ててくれ、支援してくれた保護者を笑顔にすることです。
前述した「課題を区別する」と矛盾したような話になりますが、志望校合格という結果や、受験勉強を通して成長した姿というものは、保護者にとってかけがえのないものです。あなたの保護者を喜ばせることができるのは、あなたにしかできないことです。私にはできません。どんな偉人にもできません。あなたの保護者の方を一番、幸せな気持ちにできるのはあなたしかいないのです。辛いなと思ったときこそ、周りの人への感謝の気持ちを想い出してください。感謝の気持ちを持ち続けた人こそが辛いときに踏ん張れるのです。
あなたの保護者が辛いときや大変な時でも、あなたのためにご飯を作ってくれ、心配してくれて、励ましてくれたように。辛いときは、「保護者」のために受験勉強を頑張ろう!
私も会社や家族への感謝の気持ちを持ちを忘れず朝から晩まで一生懸命働かせていただいております!!毎日働くことができて幸せです!ありがとうございます!!
2/1、四谷大塚にて毎年(たぶん)開催されている「開成・桜蔭入試同日体験受験」を受けてきた(娘が)。
2/1、小学6年生たちが最高峰の入学試験に挑むその日の午後に5年生(新6年生)が同じ問題に挑む謎の試験。
はっきりいって正気の沙汰ではない。
精鋭の小6生たちが万全の準備をして挑み、それでも涙することがある試験。別に同じ合格ラインを目指すわけではないが、小5生がわざわざ一年前に挑むなんて、なんのメリットがあるのかわからんし控えめに言ってあたおか。増田もこのの試験の存在を知った当初そう思っていた。
それでも結果として小5の娘に桜蔭同日を受けさせることにした経緯やその有用性について、せっかく受けたので、n=1の意見ではあるもののまとめておきたいと思った次第。だって事前にネットで検索してもろくに情報なくて困ったから。誰かのなにかの役に立てば嬉しいし、そうじゃなくても娘がめっちゃ頑張ったから誰かに自慢話を聞いてほしいので記しておく。そうこれは自慢です!
かわいい。3年2月(新小4)四谷大塚入塾。Yにした理由は徒歩で通えるから。入塾時はA4。4年後期にC、5年夏にSに上がり以降S4〜6をうろうろ。直近の組分けは65でS4。志望校判定は67。サピックス1月組分け61。毎日めっちゃ頑張っててえらい。
かわいい。3歳のポメラニアン女子。めっちゃビビリ。かわいい。
かわいい。公立中→県立高校→国立理系院→IT社畜→ほぼ専業主婦。
都内私立中高(界隈の人にはふんどしプリズンとして有名なところ)→国立文系→IT限界社畜
増田が最初にこの試験の存在を知ったときの第一感は、「一年前に既にガッチガチに仕上がってる自信アリアリの猛者たちが腕試し(≒トロフィー)的に受けるいけ好かない試験」であった。なんかもういろいろまじすまん。
しかし、11月にあった6年生に向けてのガイダンス内で新事実(増田にとっての)が判明。日曜日に行われる学校別コースを受講するための選抜試験だったのである。
サピックスのSS、早稲アカのNNと同じようなアレが四谷大塚にもあって、それが学校別。四谷大塚では前期(2月から8月)と後期(9月から1月)があり、前期の学校別は開成コースと桜蔭コースのみ。開成or桜蔭と冠がついてはいるものの、前期は開成or桜蔭に的を絞った問題ではなく応用や難問を広く取り扱い、後期学校別にスムーズにつなげるためのもの、という位置づけらしい。このへん、文書による説明はなく塾の先生に聞いたらこんな感じの説明をされた。また、四谷大塚のホームページには後期学校別の情報はあるものの前期のは見つけられなかった。しかし内部生しか受けられないわけではないようで、試験を受けたらもらえた文書には外部生向けの料金の案内もあった。えっじゃあホームページに載せたらよくない?四谷大塚のショボい広報力なんなの?あとホームページめちゃくちゃ見づらいんだけどもしかしてまだ中の人90年代生きてるの?そんなんだから令和の保護者にウケないんだよ!
ともあれ、2月開講の桜蔭コース(※ただし桜蔭特化ではない)を受講したければこの試験を受けるよりほかない(もしかしたら組分けでの超優秀層はこの限りではないのかもしれないけど増田にはわからない)。
増田娘は基本的に勉強が好き(えらい)だし、特に算数が大好きで、難問に苦戦しているときすごくいい笑顔を浮かべる。ちょっと心配になるぐらい。とはいえものすごくよくできるわけではないのだけれど、とにかく好きなのだ。そういう娘にとって、前期学校別はひどく魅力的にうつったようだ。わかる。増田もうちの娘に合うんじゃね?って思った。先生の誘導にホイホイのせられるちょろい家族である。
ほぼ腹は決まっていたような状態だったが、同日受験の是非については親ふたりで話し合った。中学受験において、最新の過去問を初見ではなくしてしまうデメリットは軽視できない。が、我が家にとって桜蔭はそもそも志望校ではない。実際に受験する可能性は限りなく低い。そして桜蔭の過去問は同校を受けるのでない限り取り組む必要性は低い(と塾の先生に確認済)。最終的には、娘が希望しているのだし試しに受けてみてもいいのでは、との結論になった。
実際に試験を受けた方々の志望校がどこなのか知る由もないが、本命が別の学校であるほうが受けやすい試験というのはなんだかなぁとちょっと思う。
あまりにできなくて自信をなくしてしまうんじゃないか…との懸念もあったものの、娘は基本的にめちゃくちゃ負けず嫌いだし嫌なことも一日寝ればだいたい大丈夫になるメンタル強め女子。そもそも、Cに上がったときもSに上がったときも週テストでこてんぱんにやられているので、太刀打ちできないテストへはある程度免疫があるのだ。なんとかなるだろう。なんともならなかったらミスド山ほど買って忘れさせよう、と思っていた。ちなみに、まるで過去のことのように書いたがSの週テではいまだにやられっぱなしである。だいたいいつも40台前半。これまでの最も楽しい記録は13。後ろから数えてトップ3だったこともある。のびしろしかない。もはや最近は週テストだから(震え声)とフォローすることもない。組分けさえなんとかなりゃええんや。週テストなんか全科目0点でもクラスもコースも落ちんし(暴論)。
2/3昼過ぎ。あのどうしようもなく見づらいホームページからログインしてみると、得点が出ていた。
2/8、所属校舎にて受講可否の通知をもらってきた。結果は合格。受かったー!やったー!と喜ぶ娘。わけもわからずキャンキャン吠えるイッヌ。増田も一緒になってヤッターヤッター騒いでたら確定申告の準備頑張ってたヨッメにうるさいとめちゃくちゃ怒られた。ごめんなさい。
それにしても、わざわざ封書に入れられた【合格】と書かれた紙を取り出す作業はさながら本番のようでちょっとドキドキした。いまや本番がほぼネット発表なのは知ってるけど。
ネットで見た受講許可ラインはこの試験で偏差値55または直前の組分けでSコース+偏差値50とのことだったけど、増田娘が貰ってきた紙には点数のみ書いてあった。4科目の偏差値53相当の点だった。
当日の付き添いは増田が担当させてもらった。来年の本番もこんなふうにして付き添うのかなとドキドキしていたが、娘はさほど時間の余裕がない道中でタピオカを飲ませろと強請ってくる豪胆な女だった。っょぃ。知らない会場(いうて四谷大塚だけど)で難しい学校の試験を受けることに終始ワクワクしているようだった。娘の成長を感じて増田ドッキドキ。
娘を送り出したとき、三年生の二月に三年後に向けて走り出したときには天竺かイスカンダルかと思われた受験本番が一年後に迫ってきているのだと実感できた。あしたの今ごろならぬ来年の今ごろを思い、ちょっとセンチメンタルな気分にもなった。増田もきっと泣いているような気がする。嬉し涙だといいな。そんなことを考えていたので、申し訳ないことに増田は試験中に開催された説明会の内容をほとんど覚えていない。ごめんなさい。だってとてもじゃないけど受講基準クリアするとは思っていなくて…。桜蔭志望でもないし…。
繰り返しになるが、2月から前期桜蔭コースに参加するにはこれを受験するしかない。内容が桜蔭特化ではないので桜蔭志望者にとってマストではない(と思う)が、だからこそ、桜蔭志望ではない子も受講を目指してもいい、というのはもうちょっとアピールしてくれてもいいと思う。ていうか前期講座の情報のなさなんなん?四谷大塚の広報力のなさはわざとなの?ほんとホームページなんとかならん?サピックスのテスト受けて一番ビックリしたのはマイページがスマホ表示に対応してたことだよ!四谷大塚もやってくれよ!日能研も対応するってよ!うらやましい!
四谷大塚もっと広報せーやとさんざん文句を言ったものの、誰でも受けてどうぞの講座じゃないのはわかる。たぶん大多数の子どもにとってこの時期毎週別校舎に通ってこんなことしてる場合じゃない。始まったばかりの新6年のスケジュールに体をなじませる、新出単元がまだ続く理社の予復習、算国の強化、やるべきことは山ほどあるので。往復の時間と体力も行かなければ節約できるものなので、メリットが大きくなるかどうかは子どもによってわかれると思う。ただ、どうせ日曜講座に通うのであれば、学校別講座開催の校舎が自校舎or近隣の場合には受かったら通ってみるのもいいと増田は思う。いい刺激になって好循環を呼ぶかもしれない。ただし逆もまた然りなので、アカンと思ったらすぐ塾の先生に相談&自校舎の日曜講座に戻る選択肢は常に頭に入れておく必要もあると思う。増田はこの点3回ぐらい所属校舎に確認した。無理だと思ったらすぐ戻ってきてどうぞ、とのことだったので安心して送り出している。今のところ増田娘は超たのしそう。
試験をパスしたとしてやっていけるかどうかが不安な場合、そもそも受けるかどうか迷う場合は子をよく知っている所属校舎の先生に相談するのが良いと思う。増田娘は「受けてみて受かったら行けばいいんじゃない」と言われ、増田は「受かったら行って大丈夫ですよたぶん」と言われた。(その心は、対策(過去問とか見て)せずにパスできるならなんとかなるよ、というところだと思う)
他塾生が日曜だけこの講座を取るのは、増田だったらさせないかなーと思う。何度も同じこというけど、桜蔭特化講座ではないので。各々の塾にも日曜なにかしらあるよね?だったらそれ受けたほうがいいと思う。
たぶんこれが最大のデメリットなんじゃないかなーと受ける前は思っていたけれど、今はそうでもないかなという感想。前述のとおり増田娘の第一志望は桜蔭ではないので特にフワっとしている点は否定しないけど、そうでなくてもそれほど大きなデメリットではないと思っている。そもそも、四谷大塚生が使用している予習シリーズには各学校の過去問の改題があちこちに散りばめられている(らしい)。予習シリーズの使用状況に限らずどこかしらに通塾していればそう大差ない状況だろう。また、トップ校の試験は最新入試のトピックとして目にする機会も多い。子ども新聞とか塾配布の雑誌(四谷大塚ならドリームナビ)にもさらっと載ってたりする。まだ出題ホヤホヤ、本当に絶対に初見のまま挑める2/1に受けてしまうこの荒業同日試験はなんだかんだアリでは?というのが今の感想。
また、いざ桜蔭を志望するとなれば各塾桜蔭のための講座が開講されていて、腕によりをかけて桜蔭っぽい問題が作られ桜蔭っぽい採点と解答が研究されている。その気になれば塾のハシゴをして教材を手に入れることもできる。共学人気といわれる昨今ではあるが女子トップはやはり桜蔭というのがまだまだ界隈の共通認識であり、各塾が力を入れて対策をしているのは違いない。そんな信頼がおけるテキストが塾の数だけあるのに、過去問一年分消費したとてそれほどのデメリットだろうか。
とはいえ、増田子の第一志望が桜蔭だったらもっと悩んだと思うからなんともいえん!自分で考えて!
各科目10点超えたら君にとっては満塁ホームランだ、的な言葉をかけたんだけど、イマイチだったなと反省してる。親としてはプレッシャーをかけたくない気持ちとうっかり期待しすぎないよう己に釘を刺すためのものであった。受講許可ライン超えるといいね、ぐらいは言ってもよかったかもしれないと今もなおぐるぐる反省している。声かけ難しいネ。
所属校舎の日曜講座は翌週の取り扱い単元の導入的授業をしている、というテイだけれど、増田娘の所属クラスの先生方みんなドSなのでプリントで課題が出てそれを解いているそう。このプリント、増田娘は木曜にもらって帰ってくる。=火曜までにやって自力で追いついておけ(平日の通塾日は火曜と木曜)。桜蔭コースでは前週までの単元(前日土曜に週テストしてる分)の応用演習がメインで、理社は次週分の予習もしてくれているみたい。だけれどやっぱり火曜までにやらなければならないことは変わらないのでけっこうヘビー。今のところパンクしてるようすはないけど今後も要観察。
25歳。社会人。男。
最近の人生、何をしていても現実を受け入れられず楽しくなくなってしまう。原因を挙げれば限りない。
まず無能である。運動、勉強、コミュニケーション全てできない。全てが平均以下と言っても過言ではない。これまでの人生の節目、ことごとく失敗してきた。
部活では一番練習時間が多かったにも関わらずメンバーに選ばれることはなかった。
受験では、模試では志望校に受かる判定だったが本番で緊張のあまり大失敗。
就活では100社以上面接で落とされた。自信のなさが隠しきれなかった。
さらには人間関係もまともに育めない。前記のように無能で迷惑千万な人生を送ってきたため、人と出来るだけ関わらないことだけが私にできる唯一の社会貢献である。友達もいないしもちろん恋人もできたことがない。
言わずもがな容姿も平均以下。大きい頭、重い一重、ニキビ肌、剛毛、治らない皮膚病。マスクをつけてないと人とまともに会話できない。
青春とか恋愛とかセックスとか、別に高望みしてるわけじゃないのにさ、人並みの幸せっていうの?手に入らないってやっぱり虚しいんだよな。
友達とか趣味とか作るのに挑戦しようと思った時期はあったんだよ。どの知り合いも自分から誘わなくなったらすぐ音信不通。つまりは相手にとっては優先順位がかなり低い存在なんだよね。趣味に関しても、ゲームとかスポーツとかある程度習熟はあるんだけど、無能なのが起因してすぐに壁が来ちゃうんだよね。これ以上は娯楽じゃないレベルの努力が求められるな、ってタイミング。地方大会に勝てばいいのに、オリンピックレベルで練習する人っていないでしょ?
仕事はほぼ定時で帰れる世間的には非常に楽な仕事。だから時間だけは割とある。その余った時間を全て睡眠に注ぎ込む。趣味も友達も恋人もないから、ずっと寝てる。時間も早くすぎるし苦しまずにすむから。
劣等感ではなく、劣等なんだよ。一般人が普通に生きてれば習得できるような能力や経験を100努力して獲得できるかできないかの人生、夢も希望もない。成功体験?自己肯定感?毎日朝起きれて偉い?ご飯食べられて偉い?そんな気休めで何とかなるほど人間単純じゃない。
この手の話をさ、知り合いに相談するわけよ。もう少しマイルドにね。すると大体「完璧主義なんだね」とか「ストイックだね」とか言われがち。すると、やり場のない黒い感情が心に溢れるんだ。平均点を目指していることを完璧主義だなんて言われてもね。
よく言われるような精神的ライフハックで「人生70点でいいと思ったら楽になりました!」みたいなのあるけどさ、"平均的な人間の70点"="無能の10000点"なんだよね。無能の70点なんか迷惑かけ放題で世間は許してくれないんだよ。
結局渦巻くコンプレックスがほどけなくなって、自分の選択とか自我とか欲求とか自分に帰属する全てが気色悪いし恥ずかしい。自分の意思がなくなっちゃった。発達障害とか境界知能とか鬱とか回避性パーソナリティ障害とか思い当たる節ありありだけど、医者に行くのも自分の意思だから行動が抑制される。
小6の時、親が離婚して母子家庭になった。父親とはその前からずっと別居していたから、家庭内に際立った変化は感じなかったけれど、苗字が変わったのがきつかった。同級生から好奇の目を向けられるのがとにかく嫌で、一時期、友達と遊ばなくなった。授業が終わると逃げるように家に帰った。
それで何をしていたかというと、部屋でずっとちんぐり返しをしていた。布団に寝そべり、枕を高くして、毎日、何時間も。
そうこうするうちに、いつのまにか新しい苗字に馴れていた。同級生も僕の苗字のことなんて大して気にしてないことがわかった。僕はまたみんなと遊び始めた。
大学受験に失敗して浪人が決まった時も、ずっとちんぐり返しをやってた。朝から晩まで一日中やってた。起き上がる気力もわかなかった。2週間ぐらいそうして過ごした。そのあとゆっくりと受験勉強を再開して、徐々にペースを上げ、翌年にどうにか志望校に合格することができた。
大学2年の時には手痛い失恋をした。サークルの仲間に彼女を取られたのだ。無理もなかった。そいつの方がかっこよくてスマートでやさしくて羽振りもよくて、ようするに僕の完敗だった。
その年の夏休みはずっと家でちんぐり返しをしていた。サークルにも参加せず、海にも行かず、毎日部屋に篭っていた。その間にどうにか気持ちを立て直し、後期からまたサークルにも参加するようになった。冬には別の彼女ができた。
昨年、会社を辞めた。一族経営の小さな会社だった。社長が引退し、息子が2代目に就任したのだが、僕はこの男と何から何まで合わなかった。営業方針、労務管理、様々な面でぶつかった。それは意見の相違で済むものではなかった。結局は従えない僕が辞めるしかなかった。
僕はしばらくのあいだ放心状態になり、ずっと家でちんぐり返しをしていた。昼夜逆転の生活で、今が何時なのかもわからない。髭も伸び放題。そんな日々がしばらく続いた。僕はちんぐり返しをやりながら思っていた。然るべき時が来たら、僕はまた自然と動き出すだろう。今までだってそうしてきたんだ。布団に寝そべり、ちんぐり返しをやりながら独りで年を越し、正月明けから転職活動を始めた。
ピンチの時、僕はいつもちんぐり返しに助けられてきた。家族でも友達でも恋人でもなく、ちんぐり返し。
暗闇で何時間もちんぐり返しと会話する。一緒に傷の回復を待ち、力を蓄え、また外に出てゆく。
ありがとう、ちんぐり返し。
痴漢に憧れていた時期があった。きっかけはたしかミステリーものの小説にあったほんの一場面の描写。女の子の嫌がる様子に興奮を覚えたのがはじめだった。それからはひたすらネットで痴漢もののAVを見るようになった。最初はそれで満足していた。しかし、次第に物足りなくなった。どのAVでも女の子が喘ぎはじめるからだ。本気で嫌がっていないと冷めてしまう。泣いたりショックで固まってしまったりしたら最高なのに。
高校時代、志望校を都会に限定したのはこの悶々とした気持ちが原因だったのかもしれない。
大学生になって都会に出た。車が主流な田舎に住んでいたから電車は新鮮でAVの中に入り込んだようだった。時には満員電車にも乗るようなこともあってそんな時には決まってドキドキした。
痴漢を初めて経験したのは電車にも慣れてきた大学1年生の秋だった。夕方6時の丸ノ内線は部活終わりの中高生で混み合う。バイト終わりがたまたまその時間帯に重なった。お気に入りのドアの近くを陣取り、スマホ越しに楽しそうに話す学生達を観察する。可愛いな。あの子達は痴漢にあったらどんな顔をするんだろう。
そんなことを考えてぼーっとしているといつの間にか電車の奥に流されていた。茗荷谷駅から池袋駅までは人の出入りがほぼ無い。
電車が動き始める。そこにはある一人の魔が差した男がいた。その男は一人に標的を定めた。
選ばれたのはあの可愛い学生たちではなかった。『私』だった。ショックで固まった。その時の私はまさに昔望んで思い描いていたあの女の子だった。
私は家に帰ってすぐにお気に入りだったスカートを迷わずゴミ箱に突っ込んで、そして思った。
もしかしたら私はあの男だったのかもしれない
って人間、山ほどいるよな。
俺も受験に失敗した。
浪人するほどやる気なかったから、滑り止めの滑り止めに通って、どうでもいいサークルで騒いで、どうでもいい会社に勤めた。
今は都内で平均レベルの収入を得て、まあ平均レベルの暮らしができてると思う。
同級生の多くは田舎に暮らしたままだから、そういう人生よりはマシだったはずだ。
でもさ、俺が「こいつらよりはマシ」と思ってる相手は、俺より幸せだと思う。
学歴なんか関係ない世界で、高卒になるだろう子供をたくさん産み育てながら、ニコニコ暮らしてる。
俺は同じようなコンプレックスを持ってる女と付き合っている。上手くいけば、この夏に結婚する。
たまーに、彼女と「受験戦争なんかやらずに遊んでりゃよかったね」と話すことがある。
俺は見栄で、彼女は親が厳しかったから、そんな選択肢をとることはなかったんだろうが。
俺はどっちでもよかったけど、彼女は子供は産みたくない、これ以上他人のために嫌な思いしたくないというから、確かにそうだなと思った。親も子も一緒だもんな。
俺と彼女、二人でなあなあに働けば、まあ何とかいい暮らしができると思う。
でもさ、たぶん俺も彼女も、一生引きずるんだよね。
入れなかった志望校、どうでもいい校名が書かれた卒業証書、その一枚のせいで。
「結局、自殺なんかじゃ気が済まないよね」
とかなんとかぶちぶち言って。
今日、会社で「学歴が全てじゃないのにね」「加害者も可哀想だよな」なんて話を聞いて、しらけた笑いを漏らしそうになった。表面上、「子どものうちは分からないこともあるもんな」なんて合わせたけどさ。
そんなの、加害者にとって事件を起こそうが起こすまいが、人生は終わりなんだから。
なっがい愚痴です。吐き出せばすっきりするかなって思ったので、ここならいいだろっていう精神で吐き出します。
思えば幼稚園児のころから、帰ってきたら弁当を流しに出せだとか、園服を洗濯かごに入れろだとか、細かい面倒くさいことがこなせない人間だった。そんなに困っていたわけじゃなかったし、みんなこんなもんだろと思って何も考えてはいなかった。
本格的に困り始めたのは、小学校に入ってすぐのころ。宿題は全くこなせない、親へのプリントは出さない。やること全部がちんたらしてて、毎回怒られる。
学校の授業でプリントをやりましょうと言われたら、ぜんぜん終わらない。それで宿題になる。宿題の量が増える。もっとやりたくなくなる。宿題をやらない。明日の宿題になる。ずっと負の連鎖。
提出物が出せないと黒板に名前を貼られる。それで毎回帰りの会になると、名前をひとつづつ先生が読み上げる。先生の機嫌が悪い時は、出せてない人はその場に立たされて、ひたすら詰められる。それが怖くて仕方ない。「いつだすの?」「いつまで待てばいいの?」先生にさんざん言われて、帰りの会が大嫌いだった。
もちろん帰ったら親に怒られる。宿題をやれってずっと言われる。そりゃやらずに遊んでるんだから当たり前だけど。
でも、言ってくれるだけましなもんだったと、今ならいえる。低学年の頃は、何度も親に言われてやっとその日の宿題を終わらせた。たまに忘れていったけど。
そんな人間だったが、テストの点は悪くないし、騒いだりしなかったし、自分でいうのもなんだが割とフレンドリーなタイプだったので、学校での評価は「真面目な子」だった。周りの友達からもそんな感じの扱いだったのがなんとなくわかる。学校には毎日行ってた。
小3、そして小4。なぜか、プリントの問題を解くのが早くなって、優秀な奴扱いになった。結構気持ちよかった。
このころの記憶はあんまりない。なんでかはわからない。ただ、同じクラスの女の子が頭おかしいくらいメンヘラで(それは覚えてる)、母や友達いわくそいつにいじめられてたらしい。自分は全く記憶にない。
記憶ないけど、たぶん宿題はいやいややってた。担任の先生が変わったから、黒板に名前ドンの立たせて詰めまくり拷問はなくなった。それが楽だった。
反抗期はここら辺から小6がピークだった。結構えぐかった。風呂で自分の母親が声出して泣いてるのを見たとき、どうしようもない気持ちになった。それはずっと覚えてるし、たぶんこれからも忘れない。
この反抗期を機に、親が宿題に何も言わなくなった。学校はたぶんまともに行ってた。
最大の問題が起きたのは、小5の夏休み。宿題が終わらなかったのだ。今まで真面目キャラでやってきてた自分にとって、これは一大事。夏休みの宿題を出せないとなれば、まわりからは「お前何やってんの?(笑)」と言われ、「こいつさぼり魔(笑)」と陰でニヤニヤされるに違いない!今までにない危機感を感じた。
さて机を見る。残っているのは、読書感想文と、福祉のポスター。あと、ワークも少し...つまり、ぜんぜん終わらなかったのである。ちなみに、夏休みは何をしていたかというと、ゲーム、それからぼーっとすること。
ゲームが大好きというわけでもないが、簡単に宿題を忘れて遊べるので気に入っていた。
それで、最終的にどう決断したかというと、休んだ。ひたすら布団に引きこもって、親の声を無視した。部屋の惨状を見れば、どうして行きたくないのかくらいだれでもわかるような感じだったと思う。
まあ、その日は何とか休めた。
次の日は、ポスターだけ終わらせて行った。そうやって何とかちまちま先延ばしして、なんとか全部出し切った。
しかし、私の脳はその味を覚えてしまった。宿題ができなければ、休めばいいと。
それからは、宿題が終わらなければひたすら休みまくった。親ももちろんただじゃおかなくて、髪引っ張り回して学校連れてかれたこともあった。でもとにかく休んだ。
たまにどうしても無理だと悟ったら、保健室に逃げ込んだ。お腹が痛いって言ってベッドでゴロンゴロンしてた。
思春期真っ盛りだったからか、メンヘラ化が異常になった。当時好きだった奴がいたんだが、そいつが男女問わず誰かとは話すだけで異常に嫉妬した。(幼稚園のころから生活が苦になるほど嫉妬には悩んでたけど、だれにも相談できないままだった)それを理由に休んだこともあった。親にはお腹が痛いとだけ伝えた。
公立のただの小学校だったので、成績優秀でそのまま卒業した。小学校は割と提出物を出さなくても何とかなる。
あと小学校生活を振り返って、体育がどうしても嫌いだった。というかできなかった。周りからは笑われるし、役立たず係だし、チーム競技はクラスのカースト上位に嫌われてた子と一緒に二人ではぶられてた。別にその子のことは自分は嫌いじゃなかったけど、はぶられてるっていうのが嫌で仕方なかった。最後のほうの体育は、腹痛い作戦で休んでた。
そして中学1年生。
つらかった。何がつらかったかって、部活がつらくて仕方なかった。部活の内容自体は大好きだったけれど、放課後も休みの日もいつもちゃんと集合して、ちゃんとやるってのができなかった。それを見越して、超ゆるゆる運動部に入ったが、それでも全然続かなかった。一日学校で勉強するだけで精一杯なんだよ。部活選びに全力で失敗したと思った。毎週毎回のように休んだ。でも、変なプライドが邪魔して、転部出来なくて、結末を言うと中2の冬に完全幽霊部員化した。
メンヘラ化がいよいよヤバいことになってきた。息ができない。何をしていても苦しくてつらい。それを理由に何度か休んだ。
宿題がいよいよ終わらなくなってきた。学校で終わらせることで何とか解決した。実際、毎日出る宿題は小学校と比べて少なかったから、学校でやっても割と楽勝だった。
困ったのは定期テストだった。全く終わらない。体が動かない。毎回前日近くになって、ワーク開いて答えを映して、それじゃ到底間に合わない。先生に謝って、なんとかやってた。
テストの点は悪くなかったので、成績はまあまあ良かった。
中学2年生の時に、自分の中でつらかったものが爆発した。それから学校に行けなくなった。
メンヘラ化によるストレスが限界点に達した。定期テストで思った通りに勉強できないことで、自分にイライラした。体育の授業も、もう出たくなかった。できないから。
内申点もがた落ちした。テストだけ受けた。下から3番目だった。もう何もやる気が起きなかった。でも行きたい高校もなかったし、それでいいやって思った。
毎日自分に失望し続けた。情けない自分と目が合うのが嫌だった。
周りはつらくても頑張ってる。自分が恥ずかしくて、だれとも目を合わせたくなかった。
でも、休んでたおかげで好きなことがみつかった。これだけ落ちぶれたので、全体はプラスかマイナスかと言えば完全にマイナスだが...
中学3年生、今年は絶対頑張るって思った。春から毎日教室に行った。
内申のためにひたすら頑張った。提出物は相変わらず終わらないので、全力で謝罪して(それをすれば評価がよくなるかどうかは知らないが...)、なるべく全力でやり続けた。
あと、行きたい高校がみつかった。自分にはこの学校しかないと思うくらい、自分の希望にぴったり合った高校。
将来の夢と、自分のやりたいことと、全部かなえてくれるのはここしかないと思った。周りに聞いても、今自分で調べても、ここよりいい学校は見つからない。ここに入れなくて、別の高校で妥協するなら死のうと思うくらい(本当に死ねはしないだろうけど)。
中学3年生の1学期は、自分なりに全力で頑張った。テストの点は見違えるほど回復したし、内申も上がった。
でも、1学期の定期テストが終わって、もう学校には行きたくないと思った。これ以上頑張りたくないと思った。テストが終わった次の授業で、「この授業は2学期の内申に入ります」って言った。その時にぷつんって切れた。いつ休めばいいのかわからない。ずっと苦しいまま。
みんなそうってわかってるつもり。だからこそ、自分だけできないって余計につらい気持ちになる。(もちろん不登校が自分だけなわけではないが)
メンヘラ化も治らなかった。死にたくて苦しいままだった。
中2は休んでた体でいきなり全力出してうまくいくはずもなく、元々体力なかったのもあって、いろいろ限界だった。
2学期、学校に行かなくなった。もう何もかも終わりだと思った。毎日、「今日休んだらもう取り返しがつかない」って思いながら休んだ。
志望校にはまだ行きたいって思ってたけど、自分じゃ入学しても無理だと思った。
でも行きたくて、でもだめでっていう気持ちにはさまれて毎日泣いて、悩んで、死にたいって思って、また悩んだ。
周りの大人は全員、不登校受け入れの、私立を進めてくれる。それが最適解だってわかってるが、どうしても志望校があきらめきれない。そのうち、自分の中で周りの人間は自分の夢を応援してくれないクズだと思うようになった。とんでもないと自分でも思うけど、自分は昔からこういう被害妄想の激しい人間だったから仕方ない。
ここまで全部読んでくださった人がいたのなら、その方にはわかると思うが、もちろんこんな奴がまともに受験勉強できるはずがない。そもそも学校に行っていないので、出席日数と内申の関係で普通の人が行く高校に受かるはずがない。志望校行きたい、でも勉強はしない。勉強が嫌いなわけじゃない。でも、勉強しなきゃって思うと、めちゃくちゃ大きい自分からの自分へのプレッシャーが強くかかって、体が動かない。こんな人間社会に出ても何もできないと思って、本当にもう死にたい。周りがうらやましい。みんなできるのがうらやましい。ならやればいい。でもできない。
それが今。何もできないまま、何も進まないまま、何も決められないまま、今になってずっと過去を後悔し続ける。
言いたいこととりあえずほとんどかけたと思います。書いてたらすっきりしたようなしなかったような気がします。まあ、要は受験のストレスです。
こんなことに時間使ってる間に勉強すればいいって言われるのが目に見えているので、これはここら辺にして今日は勉強します。
もし読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。
そこはベッドタウンであることだけが取り柄のしがない町であった。
しいて特産品を挙げるのならのなら、現代の価値基準で言えば圧倒的な勝ち組家庭がモーレツに嵐を呼びがちな国民的アニメぐらいである。
私はそんな都心に近いことだけが拠り所のそこで、そのアニメの主人公たちからは1回りぐらい下の家庭に産まれた。
十二分な中流であった。
私を産んだ時に既に母は40を超えていて、父はそこから更に2歳ほど年を取っていた。
両親の性格は今で言えば大人の発達障害、その血をかけあわせて出産適齢期を過ぎた母体から世界に飛び出した私は、当然のように見えざる発達障害を抱えていた。
物心ついた頃、テレビで見た自閉症特集で「自分はこれをギリギリ回避しただけなのだ」と子供心に嫌というほど感じたものだ。
発達障害からくる情緒不安定、また生まれつきの運動音痴とリズム感の無さが幼少期の私を苦しめた。
せめて産まれたのが3月でなければ……。
持って産まれた才能と産まれた時期によって本能レベルの優劣を植え付けられた幼稚園時代、思い出せる記憶はおゆうぎ会で失敗した結果泣き出して最後には小便を漏らしたことだけだ。
他の記憶はどうでもいいものと辛いものしかないので忘れてしまったが、一番辛い記憶は忘れきることが出来ていない。
小学校に上がってからは、持ち前のコミュニケーション不全と癇癪持ちにより友人を作りかけては次々に失っていった。
ただ、両親が共働きの鍵っ子で、ゲームや玩具だけは持っていたため、それを目当てに厚かましい連中によく家を遊び場にされていたことを覚えている。
私にとって人と一緒に遊ぶことは食い物にされることだった。
結局彼らとの間に友情が芽生えることもなく、クラスで班分けがあると決まって彼らは本当の友人たちと群れあい、私は余り物のグループにいた。
同じグループにいる者たちは、今思えば全員が発達障害だったのだろう。
その顔つきは目がつり上がってこそいないが、うっすら自閉の色に染まっている。
スポーツは苦手だった。
ゲームも自分で遊んでも家をたまり場にしている連中よりうまく出来ないことにイライラしがちだった。
それで暗記が好きな子供だと勘違いされたのか、学校の教師は私に自信をつけさせようとよく電車や動物の名前を答えさせようとしたが、私は物についた名前に興味はなかった。
科学や論理に基づいてどういう事が起きているのかが好きだったのだ。
その理由は結局の所、生まれつき物覚えが悪い自分でも、名前を覚えなくても概念だったら分かるし、テストで出るときも穴埋めの周りにヒントが沢山あるので昔の偉人の名前なんかよりはずっと覚えやすいと感じたからだろう。
私の中にただ一つ人より出来ると感じられるものがいつの間にか産まれていた。
そんな私を見て、両親は中学受験を勧めた。
勉強が好きだと思ったのだろう。
新しい環境で、勉強の好きな同級生と一緒になれば、自閉症じみた我が子にもちゃんとした友達が出来ると信じた両親は、私を塾に通わせることにした。
塾に通うことの条件として私は大嫌いだったスイミングスクールと習字教室を辞めることを提案した。
取引は成立した。
それから私は受験勉強をそれなりに頑張り、それなりに手を抜き、結局暗記が得意でないことで躓き、志望校から2段階落ちる滑り止めの私立に入学した。
中学受験の勉強どころか学校の授業さえ本当に真面目にやっていれば受かれるような学校だったが、親戚や両親は私を賢いと褒めてくれた。
私だけが、自分がいかに努力しておらず、そもそも勉強自体も苦手なのかを思い知らされていた。
そして、同じく受験勉強をする塾の同級生を見ているうちに、自分が得意げにしていた「記憶力が足りない代わりとしての理解力」というも、実際は大したことがないことを嫌というほど分かっていた。
我が子を無事私立へと送り出したと胸を撫で下ろす両親とは裏腹に、私は自分という人間の程度を思い知らされた烙印としてその学校の制服へと袖を通した。