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はてなキーワード: 商業主義とは

2024-07-21

推し活、そろそろ限界

オタクにとってね

ソシャゲと同じで、ビジネス側が「どうやったら搾り取れるか」の研究完了しつつあると思う

これはもう終わりの始まり、あとはずっと苦しいだけになる

出費は多く、得るものは少ない

 

困るのは推される人(≠ビジネス側)で

今後は「あまりお金を使いすぎないでね」という人が増えると思う

っていうかもう増えてる

既に十分稼いでいる個人にとって、一番いいのは維持でありファン幸福なんだけど

企業無限に吸おうとするから、ここで軋轢がでる

 

これは今は小さな歪みだけど、やがて個人商業主義的すぎるシステムに嫌気が差す

特にもう金銭面で上がった人ほどそうなる

 

次の5年ではこれが起こると思う、ただ推しファン絶対数は増えるからビジネス側は気づかない

よくある話

2024-07-15

商業主義承認欲求、がっつり組み合ってどこまで行くのか。

最近後者が廃れてきてるから煽り入ってきてるかな。

2024-07-09

anond:20240709185304

全体主義論理野蛮人にとってはってだけの話だよね

それに従う義理はないよね

だいたい今じゃ代理戦争じゃなくて商業主義的な祭典っていってる人も多いよね

2024-07-05

anond:20240705175650

なんでゴミ押し付けられる視点なんだよ

お前にとって自費出版本のイメージはそうなのかもしれないが、仮に世の中がゴミ本だらけになったとしても、読み手側もそれを選別するために賢くなるバランシングが働くだろ

そのバランシングを担ってるのが現在では出版業者という商業主義だが、本を情報技術管理できるようになった現代以降は、商業主義によるお節介がなくとも自分自分に合うものを選別していく情報リテラシー各自が備えた方がスマートだろう

本の本質は情報、そしてその情報を扱うリテラシーセンスを金儲けの会社に委ねてるほうが異常だと思わんか?

2024-06-16

anond:20240616222735

だって別に当人たちを守るためにやってんじゃねえもの

商業主義クレームポリコレに屈して表現制限されることがまずいの

オカマバンドの命運なんか問題にしてねーわ

2024-06-15

anond:20240615052659

セスコロンブスという曲とそのタイアップ、そのMVで、中身はスカスカ見てくれだけで真意なんてものは無いので伝わりようがないというJPOPを、そんなのどうでもいいから売れりゃあええねんの商業主義を、誰かの評価に丸乗りしてくるくるくるくる立ち位置を変える大衆批判した。

みたいな事をやっているわけなんか?

やってねえだろしらんけど。

2024-06-13

anond:20240613134443

俺達の歌ってる事柄は全て戯言方便だ。歴史的事実ですら、時代によって解釈は移り変わり、それによって大衆お気持ちによる是と非すらひっくり返る。

軽々しく人の言葉自分を重ねて教化されるな、歌やその他表現物に感化されるな、己の真実は己で見つけろ。

という主張を商業主義の中で作った大勢の人が気兼ねなくいいねをつけれそう的な耳に心地よい言葉で作った歌詞にあのPVを組み合わせる事で表現した怪作と俺は受け取った。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(後半)


(前半からの続きです。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093126


現代アートの不満


もっとも、現代アートは手放しで褒められるものでもないでしょう。多くの批判者が火のないところに煙を立てているとは言えないと思います作品の出来が悪いものも混じっていることは否めません。


大方の批判にもかかわらず、私は今回のトリエンナーレではそのような「的外れ」感のある作品ほとんどないか、かなり少なかったと感じています。これもキュレーションのよさでしょう。


思い返せば2020年トリエンナーレにあった「エビSEXをさせる方法を考える」という一連の展示はひどかった。テーマはとてもよかったのですが、日本(だったと思います)のクリエイターたちの作品はふざけているとしか言いようのないものでした。その課題は、「エコスフィア」(エビ水草の入っている閉じた水槽)の中でエビ酸素を吸って二酸化炭素を出し、水草二酸化炭素を吸って酸素を出す。この循環のバランスはうまく保たれているが、一つ問題があって、エビ生殖をしなくなる。そこでエビ生殖をさせる方法を考える、というものでした。多くの作品エビセクシーな格好をさせるとか、エビ秘宝館のようなものを作るとか、そういうものだったと記憶していますしかし、クリエイターたちはこの「エコスフィア」が地球生態系比喩であると気づかなかったのでしょうか? だとしたら愚かに過ぎるとしか言えません。それとも、気づいていてこのような作品を作ったのでしょうか? だとしたら二倍悪い。エビとは「私たち」に外ならないのだから、つまりクリエイターたちは女がセクシーな格好をして男を誘えばよいと言いたいのでしょうか? それはあまりにも「男尊女卑」に終始していると言わざるをえません。そこには問題意識が欠如しています。「教授課題テーマはよかったが、学生たちのレポートがだめだったという感じだ。」私は友人とそう語りあったことを覚えています


2020年といえば壁にブレインストーミングのように年号出来事を書いてゆく展示もありました。そこには作家メモも展示してあり、『荘子』の「胡蝶の夢」の故事引用してありましたが、「與」を「興」と書き誤っていたことを覚えています自分のことは棚に上げつつ、非本質的でささいな事をあげつらうようですが、「どうかわからないことで見栄をはらないでほしい」と思われてなりませんでした。


現代芸術作家たちの一部が「見栄をはろう」としていることは薄々感じられます人文学哲学歴史学経済学などに議論の蓄積がありとっくに通過してきた知見について、芸術家たちが何周も遅れて的外れなことを言っている光景は、あまりみっともいいものではありません。なぜそのようなことになっているかといえば、芸術家が「作品」だけではなく、その「意味」で評価されるようになっているからでしょうか。


かつて芸術家は貴族の注文にこたえて絵を描いていたそうです。今の作家自由作品を作れるはずなのに、ただ社会要請にこたえて作品を作ろうとして、中身のないステートメントを打ち出しているのは、痛々しくさえあります


しかし、これは決して「アーティストはよけいなことを考えるな」と言いたいわけではなく、むしろその逆で「もっと学問をしてほしい」ということです。しかもそれは「芸術家」としての意識以前に、「市民」として当たり前にもつべき意識であると思うのです。芸術家は作品だけで力のある面白い作品を作って、そしてそれとは別に最低限、当たり前に市民として的外れでない発言もしてほしいのです。


作品」と「意味


トリエンナーレと同時開催の展覧会Bank ART Life7「UrbanNesting: 再び都市に棲む」に足を運ぶと、新高島駅地下1階の会場の入口には巨大な土のダンゴがありました。これはかなり面白かったのですが、説明を見ると福島の土で作ったとありました。もちろん福島原発事故はまだ収束したと言えませんし、提示された問題は深刻です。しかし、その場では私も友人も何となく興が醒めてしまったのです。それはなぜでしょう? 何となく、「作品面白さにテーマが負けている」と感じました。私も「キラキラ」なアートを好む一員であり、私の中で「無意味」のもつ破壊的な力に「意味」が負けてしまったのかもしれません。あるいはその逆で、テーマの重さのために、作品が軽く見えてしまったのかもしれません。いずれにしても、私は作品のよい受け手になることができませんでした。


しか問題受け手だけにあるのではないと思います。「作品」と「意味」のバランスは難しいことであり、作り手の側でもうまく調整しなければならないものです。先程述べた通り、今回の展覧会にはピンボケ作品が少ないと感じました。しかし、今回の出品作のうち、どれくらいが「意味」(言葉による解説)なしに「作品」だけの魅力で勝負できるものだったかは疑問も残ります


今回の展示にあったBゼミの試みはよかった。「意味のないものを作る」とか「新しい楽器を作る」とか、芸術意味から解き放つような試みは今でも頼もしく思われます。どうもいまのアートは、意味付与された瞬間に弱くなってしまうような気がしています作品意味との関係性については、まだまだ考える余地がありそうに思います


私の身近に YOASOBI のアニソンが好きでないという人がいます。「アニソンというのはアニメ解釈であり、アニメへの讃歌であり、しかアニメ本編とはズレているか面白い。YOASOBI の歌はアニメストーリーをそのまま歌っている。だから面白くない」と言うのです。何となくわかる気もします。偉そうに勝手なことを言うならば、現代芸術世界にあるモノをそのまま出すのでなく、世界アートの形で表現するとどうなるのか、「意味」に傾きすぎず「作品」の力で見せてほしいと思います


しかし、芸術に「意味」をこめるなというつもりではありません。批判者の中には、芸術家は被災地創作で消費するのではなく、実際に活動をすることで被災地に貢献すべきだというような意見を言う人があったような気がします。もちろんそのような活動はしないよりもしたほうがよいのですが、それはあくまで「市民」としてのはたらきであって、「芸術家」としてのはたらきではないでしょう。芸術家には芸術家にできることがあり、それは創作であるということを否定するつもりはありません。しかし、だからこそ「作品」と「意味」にはもっとよい関係があるのではないかと思います。その答えが何かということは、残念ながら即座に提示できないので、偉そうに勝手なことを言うだけになってしまうのですが……。


批判いたことのついでに言えば、今回のトリエンナーレ批判する意見の中には、電気を使ったインスタレーション環境問題を訴える作品を同じ空間に並べることの違和感を語る人がいたように記憶しています。その違和感理解できますが、それとは別に芸術資本関係という問題も感じました。入り口の協賛企業の一覧を見たとき、たいへん違和感がありました。資本主義への警鐘をならす作品(全てではないにしろ)が、大資本資金で展示できるとは! 大企業はそのようなお金を出すほうがよいと思いますけれど、その一方で企業がそれを「みかじめ料」として批判されなくなるべきではもちろんないでしょう。作品意味もつときには、その作品のおかれる「場」までもが、自らの意味暴露するようになるのかもしれない。初っ端からそんなことを考えさせられるなかなか面白い「展示」でした。


むすび


咎め立てばかりしてしまったようですが、最後によかったところをいくつか述べたいと思います。友人は、今回のキュレーター解説文(紹介文)がよかったと言っていました。友人によると今や「この作品はこう見るべきだ、ここが素晴らしいのだと天から決めつけて、自分に酔ったような解説」を見ることも多いなかで、今回の解説文は「キュレーター自身作品をどう見るか、真摯に考えて書かれていたので好感が持てる」というのです。また、「キュレーションにも工夫が多かったような気がする。例えば商業主義マルボロ広告の下にインドの貧しい生活を描いた版画を配置するなど、『対比』を意識したものがいくつかあったように感じた」とも言っていました。キュレーターの仕掛けた「作品」と「意味」の関係性のバランス果たして十分達成されたかどうか、それはよくわかりませんが、キュレーター真剣構成しており、私たちに問いかけるものがあったのは確かだと思います


要するに、初めに述べた通り「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということです。言いたいことはこれに尽きます


魅力のある作品も少なくありませんでした。友人は勅使河原蒼風ファンになり、富山妙子画集を買いました。私は土肥美穂の buttaiが気に入りました。同時開催のBankART Life7では、みなとみらい駅の腕木信号オブジェや、Bank ART Stationにあった送風機で立ち上がる足などの機械仕掛け作品が好きでした。


つらつらと思いつくまま書くうちに、思いがけなく長文になってしまいました。次回のトリエンナーレにも期待しつつ、このあたりで終わりにします。


2024-06-02

婚約指輪って何?

結婚指輪と違うの?

商業主義のせいで次々と謎の風習が出来上がっていくな。

2024-05-16

anond:20230511122505

比較韓国コンテンツ楽しんでる人だけど、これはちょっとわかる

k-pop とかもろにそれを感じるなぁ、良くも悪くもエンタメが全体的に商業主義っていうか、あんまり社会に余裕がないんだろうね。

そんなんだからノワールもの映画はやたらリアリティがあって傑作多い(ただ逆にいうと“そういう”部分のコンテンツ以外は微妙)

2024-05-14

OpenAIはプレゼンが上手いな

Geminiのグダグダを見てたからってのもあるんだろうが、ライブデモや、恣意的ピックしてるとはいえネットから要望拾ってライブデモに組み込むとか、「ベストケースの動画切り貼りとは違うよ」というのをキチンと示してた。

初めからフリーユーザーにもばら撒くってのは競争の激化を肌で感じていることの表れだろうが、有償ユーザーのわかりやすメリットが一つ減るのはどの程度将来の業績に影響するのか興味深い。

新しいモデルから色々試してもらってフィードバックを沢山得ることを優先してるのかな?

アルトマン解任騒動の要因にもなった「商業主義に依りすぎ」の揺り戻しも多少あるのかな?

今回のライブデモの内容は、マルチモーダル総合的な完成度って意味ではGPT-4oの表層をなでただけみたいな感じだから実力はこれからいろんな人が試して確認していくことになるんだろうから現時点での評価は難しい。

ただ、プレゼンは上手かった。

なんとなくAI界隈の変な熱狂は落ち着いてきた感はあるけど、着実に業界が進展していくように感じられる発表だったな。

2024-05-03

anond:20240501171145

商業主義のいいカモにされる庶民たちというわけですなぁ

2024-05-02

"チー牛男性叩き"の何が問題なのか?

おい、文章なげーんだよチー牛!と言われる前にポイントを書く。

曖昧概念社会的弱者を生み出し、強者弱者を叩く弱いものイジメの構図が平然とまかり通っていること

ルッキズムに基づいた弱者イメージ商業主義において利用されやすく、チー牛顔に限らず今後も資本家による弱者イメージの流布・それを利用したビジネスが展開され経済的搾取を招きやす

以下、チー牛男性(概念)のことをチー牛と省略して書く。

一. 弱いものイジメの構図

チー牛に限らず、大衆にとって"叩いて良い対象"となったもの相手人間だろうと平然と"リンチ"のような誹謗中傷が行われてきた。

例えば不倫が発覚した芸能人詐欺を働いていた実業家など。

しかしチー牛はそれらとは大きく異なる。チー牛男性というあの一枚絵に象徴されただけの曖昧概念であり、一個人や団体ではない。

では概念を叩いているのか?それは違う。叩きたい人がチー牛男性という概念引用し、社会的弱者として扱い叩く。ここにチー牛叩きの問題本質がある。

真の問題はチー牛という概念でも、ルッキズム至上主義でもなく、社会的弱者を誰でも簡単に作り出すことができ、レッテル貼りによるリンチが平然と横行している点だ。

そしてもはやチー牛という概念を使ったリンチネットに留まらず、現実社会においても表出しつつある。

やがては子供学校社会にも影響するだろう。子供コミュニケーション能力成熟していないし、キャッチーワードに引かれやすいのでチー牛が合言葉のようにイジメキーワードになっても何ら不思議ではない。

ここまで書けばもう理解していただけるだろう。「なぜイジメダメなのか」を一から説明しなくとも、曖昧概念によるレッテル貼りで誰かを叩くというのは誰でも被害者になり得るし、加害者が許されて良い理屈はないことは自明である芸能人叩きでも、学校会社イジメでも自殺という最悪な結末によって事が収まる事があるように、チー牛叩きから人が死ぬこともあり得るのだ。


二. チー牛叩きは、ビジネスに利用されやす

全く別の観点での問題がある。ルッキズムに基いた社会イメージというものは「簡単に作り出せてしまう」ということである

ファッションが分かりやすいだろう、「今年のトレンドは〇〇」のように多くのメディア企業によって簡単イメージというのは作り出せてしまう。

恐らく直近数年以内に、「脱チー牛」を促すための邪悪広告メンズサロンか、美容院か、美容外科か、出てくるだろう。

恐怖心や劣等感を煽る広告効果がある。

ではその流れが終わったらどうなるか?

チー牛効果商売が繁盛すると分かれば次の弱者イメージを作り出し、それをネタにまたビジネスをすれば良い。美容系でなくとも、一時期バリバリ財布がネタにされたように何かを貶す風潮さえできればそれがお金になるのだ。そうして企業による不安を食い物にした経済的搾取を受けるのは一般人である


どちらの問題もチー牛男性叩きに限った話ではなく、過去似たような社会潮流はあるだろう。

この文章で伝えたいのは「強者側に回りたい人間私利私欲に加担してはならない」ということだ。あなた安易に加担してしまうことで被害を受ける人が生まれるし、あなた被害を受けない保証はない。ちょっと叩きたい、馬鹿にしたい人がいたとしても、その小さな悪意の集合体が呼び起こす邪悪について、今一度立ち止まって考えて欲しいものだ。

2024-04-27

推し」に嫌悪感

 「推し」という言葉が広く使われるようになり、最近では日常会話やメディアでも耳にすることが多くなりました。しかし、この「推し」という言葉は、単なるファン意味する言葉として使われるだけでなく、商業主義的な意味合いも強く、個人的には非常に嫌悪感を覚えます

 「推し」という言葉一般に広まったきっかけは、言うまでもなくAKB48成功でしょう。AKB48は、特定メンバー熱狂的なファンがつき、そのメンバーを「推す」という文化を生み出しました。CD複数枚購入することで投票権を獲得し、好きなメンバー応援する、いわゆる「AKB商法」が話題となりました。この商法は、ファン熱量商業的な利益に結びつける非常に巧妙な戦略です。メンバーを「推す」という行為は、いわばファン感情を操り、商業的な利益を追求する手段として利用されているに過ぎません。

 「推し」という言葉が持つ商業主義的な側面は、アイドル業界だけでなく、アニメゲームなど、様々なエンターテインメント業界にも波及していますキャラクター声優を「推す」という行為は、熱狂的なファンを生み出し、グッズや関連商品販売促進に繋がります企業側は、ファン感情煽り商業的な利益を追求する手段として「推し」という言葉を利用しているのです。

 「推し」という言葉が持つ、ファンを操るような商業主義的な文脈は好ましくありません。本来ファン自分の好きな対象純粋に楽しみ、応援するべき存在です。熱狂的なファン文化は、時に行き過ぎた行動や、商業的な戦略に踊らされる危険性もはらんでいます

 エンターテインメント業界は、ファン感情尊重し、商業的な利益のみを追求しない健全方向性へと進むべきです。ファンは、自分の好きな対象純粋に楽しみ、応援する姿勢を忘れず、商業的な戦略に振り回されることなく、冷静な視点を持つことも大切でしょう。商業的な利益のためにファン感情が利用されることなく、健全エンターテインメント業界形成されることを願ってやみません。

2024-04-26

自分よりも頭の悪い弱者男性相手をしてる女性Vtuber気持ち悪い

最近訳あってニートになり、特に趣味ができる環境じゃないのでYoutube時間を浪費してる。

切り抜き、Shorts等様々な方法Vtuberが流れてくるが、どれもこれもが女性との関わりのない社会的成功してない男性(所謂弱者男性)の劣情や射幸心を煽るような内容ばかりでうんざりする。

Vの全員がキモいわけじゃないけど、中でも許せないのはホロライブだ。

アラサー迎えた女が画面の向こうで萌え声を出しながら延々と青春話を繰り返し、エロい話で弱者男性の劣情を煽る。

そして優しい言葉視聴者を囲い込む。

ビジネス的に作られた商業主義世界観は「推し」という言葉で綺麗に書き換えられ、ホロライブワールド(優しい世界)を形成してゆく。

なんでこんなアンチみたいな文章を書いてるのかというと、こうでもしないと気が狂いそうだからだ。

だってあん事業として大成功しているコンテンツ自分だって好きにならない訳が無い。

Vtuberが他の「推し活」と違って悪質なのはリアルアイドルと違い、中の人が作る嘘で出来た虚像優しい言葉弱者男性の全てを奪っていきそうな点なんだ。

2024-04-11

anond:20240410225514

本なんてその程度の扱いでいいものだし、本に限らずあらゆる産業商品サービスはそのように扱われて然るべき。

それが商業というもので、そうした方がビジネスパイが広がり、商材も洗練されていくから

抜きん出たものさらに目立たせることで、より多くの人に認知され、共有され、その分野の裾野が広がる。言い換えればバズらせることができる。

それくらいのことをしないと、世の中にはあらゆる商業分野や消費的娯楽があふれているわけだから認知してさえもらえない。

例えば今ゲーム業界では、市場規模を成すセールスの8割はサービス運営のものから来るようになった。

それはなぜかというと、運営ゲームの多くは基本無料形態をとっており、「手に取る」ハードルが限りなく低くなったからだ。

それくらい、みんなが知っている、みんながやっている状況を作ることは大事だ。

ハードルが下がることで、消費者にとっても、常に手軽に「相見積もり」ができるような状況になっており、都合がよい。

どんなに優れた作品も、触れてもらえなければ意味がない。

から無料で触れてもらって、良し悪しはその後で判断してもらうという態度こそ、消費者センスや知性を信用する誠実な売り方だ。

音楽映像などの分野もサブスクの隆盛によって、「見てもらう」のにかかる費用にわかに低廉化している。

そうした音楽映像コンテンツを導入口にして、イベント等のファン商売へと誘導することで利益をあげている。

翻って、書籍分野の売り方を見てみると、電書という選択肢が増えたくらいで、ビジネスモデルは変化していない。

売れている本をより売るために目立たせるくらいでは、正直言って生ぬるすぎる。

手に取るハードルを低くできない以上、「絶対に外さない」ように一極集中させるのは理にかなっているだろう。

本当に書籍文化未来を願うなら、考えることは真逆であるべきだ。

「隠れた良書」とされがちな性質を帯びた作品というのは、もともとその分野にどっぷり浸かっている人が、商業的なアシストがなくとも自分で探し出していける。

逆にそういう発掘の楽しみが残っていた方が、商業に食い荒らされない方が、良いとさえ言えるだろう。

ゲーム業界で言い換えるなら、SteamインディーPC・PS5などの買い切りの大作タイトルにはもっと優れた作品がある、それは事実だが、それを声高に叫んだとしても、そういう古い「あり方」が主流に返り咲くことはないのだ。

しろ現実には、基本無料ゲーム開発のために資金人材が集まりビジネス面では主戦場と化しているのがここ十数年の流れだ。

コアで偏狭ゲームファンはそれを直視できずにいて、運営ゲームガチャシステムなどを古い認識のまま嫌い続ける。

もちろん中身を重視するなんたらアワードのような世界では、AAAタイトルマニア評価され続けるだろう。

だがAAAタイトルを触れるのはゲーム消費者全体を俯瞰してみると、本当にマニアだけになっている。それは悪いことではない。

ゲームという「あり方」が柔軟に広がって裾野を広げた結果、おじいちゃんでもポケGOを楽しんでいたりする世界を一概にダメとは言えないだろう。

それと同じように考えれば、商業主義を嫌い、「隠れた良書」のようなものアピールすることがいかにズレているか分かるだろう。

伸びているものさらに伸ばして多くの人を巻き込み、素晴らしい方向へ成長させる圧力生産者側へかけていくことが、誰も想像できないような膨らみ方をした未来文化を作るわけだ。

モバイルゲームでは、開発費が高騰して、競争が激しいのに失敗リスクが大きくなっていることから技術力や繊細な運営センスがない会社は早々に撤退余儀なくされ、淘汰が激しくなっている。

この中を生き残って成功していく会社は、従来のゲーマー評価するAAAタイトル部分的に超えた品質のものを作れる能力を持ちつつある。こうやって想像を超えた進歩をしていく世界面白いだろう。

本で例えるなら、なろう系ラノベをくだらないと言って一掃しようとするのではなく、なろう系をさらに洗練・発展させて世代を超えたジャンルへと育てていこう、あるいはそういうものが見たい、という考え方をすべきだ。

本屋大賞とかどうでもいい

目にすら入らない

自分で調べるのが基本、あとはセンスの合う誰かが面白いと言ったものしか読まない

今日初めてアンチファンが居ると知ったぐらいのどうでもよさ

まあ"本屋"の大賞なら、商業主義に染まるのもさもありなん

なお件の増田は読んでいない

2024-04-06

よさこいソーラン祭りは、1992年スタートした祭りで、6月の本祭のほか、学校教育観光、さまざまなイベントでも披露されています。

規模

よさこいソーラン祭りは、1991年北海道大学に通う学生の思いつきがきっかけで始まりました。第1回は参加10チーム1,000人、観客動員20万人で始まり現在では約270チーム27,000人の参加者する利権となっています

参加費

参加費は、企業チームが最大35万円、一般チームが最大25万円です。また、商業演舞には12月から権利使用料徴収されています。

協賛金

2023年の協賛金は計約600万円。

しか2024年度締め切りを1カ月後に控えた2月末時点で協賛金は150万円ほどにとどまる。

SNSの発達により、イベント地元で不評なこととまた運営傲慢であることが知れ渡りイメージダウンを嫌う企業が増えている

交通規制

よさこいソーランまつりは公道占有して実施される。

祭り間中は3日間にわたりで開催会場周辺の交通規制実施される。

  1. 大通り周辺:大通り駅前通り石山通間とその周辺
  2. 一番街:南1条通り西2丁目・西3丁目
  3. FUNKY!すすきの会場:駅前通りの南5条~南7条間とその周辺
  4. 新琴似会場:新琴似通の新琴似3番通~西5丁目・樽川通道間とその周辺
  5. 平岸会場:平岸通の白石中の島通~米里行啓通間とその周辺

公道使用料

よさこいソーランまつりは公道占拠するために道路使用許可を得て開催しており、警察官1500人を動員するなど財政を圧迫しているが、道路使用料などは支払っていない。

地元の盛り上がり

マスコミでは好意的に取り上げられることが多いが、地元では冷え切った視線を送るものが多い。

  1. 参加者がヤカラが多く、暴走族イベントと変わらない。
  2. うるさい。
  3. 交通規制のせいで市民生活がめちゃくちゃになる。
  4. 参加費、観覧席料、グッズ販売、協賛金収入放映権料などの露骨商業主義で多額な資金が動くが地元にはまったく還元されない。「地元に金が落ちる」と言われていたが実際は売上が落ちる店舗も。
  5. よそ者が始めた胡散臭いイベント
  6. 単純に踊りが気持ち悪い。

2024-03-23

anond:20240323215057

宇崎ちゃんやたわわを排除するために共産党に近い弁護士国連なんとかが出張ってきたのは十分政治的じゃないですかね

そもそも性を利用した商業主義が悪い事のように言ってるのも理解できないし

anond:20240323214332

例えば、表現不自由展なんて、誰がどう見ても政治的な主張でしかありえないし、

宇崎ちゃんやたわわが何の政治的主張を持たない単なる商業主義しかないことなんて馬鹿でも分かる。

全部の表現を隅々まで見渡せば、どっちかの判断が難しいケースや、どっちの要素も含むものもあるだろうが、

そう言う例外をあげて、明らかに性を使った商業主義に対してまで、

一律で「表現の自由は無制限であるべき」ってのは無理筋なのよ。

2024-03-20

anond:20240320173704

結婚相談所という蠱毒に自ら飛び込んでパートナーを見つけられないのは、性淘汰というより知能による淘汰のように感じられる。

商業主義犠牲者

2024-03-09

鳥嶋編集長の「鳥山明はワシが育てた」的な話は話半分で聞いておきたい。

鳥山明はあれだけ売れたのに目立つことが嫌いな謙虚な人だったから、いい人なんだと思う。

から編集を憎んでいてもデフォルメして描く程度にとどめたのではないかと思ってる。

まり、表に出てこない編集への憎悪なんかはもっとあったんだと思ってる。

一方で、商業主義の強い戦略鳥山明に好きなようには書かせなかったものの、世界的な読者を得るほどの人気に繋げたのもその編集プロデュース力であり、鳥山明が好きなようにもし書いてたら、メビウス大友克洋的な知名度に止まってただろうとも思う。

芸術ってのは難しいな

2024-02-28

anond:20240228150924

チアプとか婚活とか商業主義がお嫌いなら普段人間関係相手探せばいいのに、そっちだって理由つけて嫌がるんだもんなあ

2024-02-23

どこにも送るつもりのない絵描きお気持ち長文マロ

吐き出し

某所に質問として送ろうと思ったけどあんまりにもお気持ちすぎて送るのやめたやつ

●●さんこんにちは

私は今、友人へとてもつもなく嫉妬していて悲しみでいっぱいです

友人はとてもかわいいデフォルメ調の絵を描く新進気鋭のイラストレーターで、もともと人と関わるのも上手で、今沢山の人に囲まれ愛されています

一方私は、デッサン力は友人に劣らずと言う自負がありますが、可愛い絵を描くのが苦手で、人と関わるのが苦手で、友人とは正反対です

友達と呼べる人は今、友人しかいません

本当はかっこいい絵が描きたいけど、友人のような可愛い絵が描ければ私も誰かに愛してもらえるのではと言う思いがあり、(そのことを伝えたわけではないですが)彼女可愛い絵の指導もしてもらっています

でも一向に評価は増えず、あ、やっぱり私じゃダメなんだと心が折れて寝込むことばかりです

絵のことを相談できる人が友人しかおらず、しかし、こんなことは言うことができず、苦しいです

商業主義で行くならもっと可愛く描けるべき、個性は捨てるべき、3Dでも素材でも何でも使うこととよく言われていますが、最近、その意見に素直に賛同できていない自分に気付きました

私もいずれは友人のような多くの人から愛されるイラストレーターになりたいと思っています

でもこのままでいいのでしょうか

意見賛同できない友人から指導を受け続けるべきなのか分からなくなってきました

しかすると私は友人と少し距離を置くべきなのでしょうか?

●●さんのご意見をお聞きしたいです

よろしくお願いいたしま

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