はてなキーワード: 踏み込むとは
長いし荒ぶってるからタイトルと最終行にだけ言及するけど、ぶっちゃけこういう会話は「普通」の範疇だな
仲のいい友達に対してはもうちょっと不躾だけど、踏み込んでほしそうなところまでは踏み込むし触れてほしくなさそうなところは回避する(「この件触れても平気?」みたいにダイレクトに様子をうかがう回数は増える)
まあ世の中にはそういうの苦手な人もたくさんいるし、ぶっちゃけ男性は会話ベタ多いし、アプリなんて有象無象が集うところで当然のように求める元増田はちょっと男性に期待しすぎ、理想高すぎかなと思う
だからコミュ障って揶揄されるんだぞってちょっと思ってしまっている
女性は〜っていうけど生まれつきそういう動物なわけじゃなくて、色んな人と会話する中で努力して学習して日々研鑽してるから今多少楽にできてるだけだぞ
社会的?文化的?に女性の方がそういう圧が強いからそういうことできる女性が多いってだけで、男性が生物学的にできないたぐいのものじゃない(個人単位での脳の特性でできないことはあるかも)
おもろーい
https://www.nira.or.jp/paper/article/2022/wp04.html
今回の調査では、財政赤字について心配ないと考えているのか、それとも危機的水準だと考えているのか、その理由と共にたずねた。またこの議題に関する専門家の論考を読み、その論考のうちどの論点を参考に、人々の考えがどのように変化するかを検証した。
調査の結果、政府債務に対し危機意識を持っている人は少なくないが、それは反対の立場の意見を読むことにより揺らぎやすいものであることが分かった。また財政赤字に対する考え方により、専門家の論考のうち参考とする論点が異なっており、財政赤字を心配していない人は財政赤字を楽観視する論点を、危機的と感じている人は財政規律を重視する論点を選んでいる。
最も多くの人が選んだのが、「国債残高を無限に増やせるわけではなく、財政の持続性は確保しなくてはいけない。」と「現在の国の財政状況は、税収と公共サービスへの支出が、全然つり合っていない状態だ。これ以上は将来へのつけ回しに頼れない。」の2つであり、ともに財政規律を重視する論点である。
逆に参考になったとした人が最も少なかったのが、「日本の通貨である円は日本銀行が作っているので、政府の資金が不足したら、日銀がお金を刷ればよい。」と「日本の国債残高はほかの国よりも大きいが、それを今すぐ減らすべきだとは言い切れない。」の2つで、ともに財政赤字を楽観視する意見である。
また、政治・政府への不信が強いことが両者に共通している点は興味深い。
財政赤字は心配ないと考える人は、政府が国民に負担を求めていることに疑問を感じている一方で、財政赤字は危機的水準と考える人は政府が無駄遣いをしていると考えており、不信の要因はそれぞれに異なってはいるが、ともに政府の言動を信じていない。
日本において政府への信頼が国際的に見ても低いことは知られているが、本調査でも、国の政治への信頼はかなり低いという結果が出ている。
MMTに対する強い不信感
財政規律を重視する岩本教授の意見に賛同する意見が目立つ一方で、主な批判対象となったのが井上智洋・駒澤大准教授が示した「インフレにならない限り、財政赤字がどれだけ膨れ上がっても問題ない」という現代貨幣理論(MMT)だ。
多くの参加者が財政規律についてよく知らないというグループだったため、理論的な批判は出てこなかった。しかし、「赤字が膨れ上がっても問題ない」という主張に違和感を持つ人が続出した。
「お金を刷ればいいというのは、できればうれしいが、こんなに簡単には行かないのが世の中」(30代男性)という心理的な拒否感を訴える声のほか、「財政の規律を乱してしまう」(50代男性)と放漫財政への懸念、また、「コロナでダメージを受けている。これまでインフレがなかったにしても今後はどうだろう」と新型コロナウイルスによる国の状況悪化を指摘する声もあった。
また、みずほリサーチ&テクノロジーズの門間一夫氏の「個人や企業が持っている資産の額は、政府の借金の額を上回る」というコメントに対しても、「個人や企業の資産は国のものではない」などと指摘する批判的な意見が複数出た。
ほぼ全員に共通した「無駄をカットする」というのは財政規律の問題というより、政治の前提だ。
財政規律を守るべきである、と考えるのであれば、現状を鑑みて、大幅な支出カットや増税の議論は不可欠なはずだが、その論点を司会(古田)から提示をしても、そこに踏み込む議論はほとんどなかった。
それでも、岩本教授の財政規律論に支持が集まったのはなぜか。3人の意見を引用する。
自民党を支持してきたという40代男性はこう述べた。「本当を言うと、ちょっといいときには増税する、悪いときにはちょっと減税するぐらいのバランスを取ってやってくれたらなと今までは思っていたんです。そうしたら、ずっと失敗をしてきたじゃないですか。
アベノミクスにすごい期待をして、結果、賃金だけが上がらない。ですから、やっぱり最後の意見は消極的にC(財政規律)なんです」
また、30代女性はMMTや個人や企業の資産は国債残高を超えているなどの専門家コメントに対して、「赤字があっても大丈夫という考え方と思う」と感想を述べた上で、こう指摘した。
「理解ができていなくて、えたいの知れない不安がある。だから多少のサービスの制限とかがあっても、やっぱりC(岩本教授の財政規律論)に寄せられてしまう。多分、分かりやすいからなのかなと思うんです」。
その上でこう付け加えている。「増税や自分が使っているサービスがなくなることになると、社会一般的には反対運動が起こると思うので、そう簡単には実現は難しいと思いました」
より率直に、諦めに近い境地を語ったのは「現状維持」と述べた40代男性だ。
「諦めたらあかんのじゃけれども、もうわれわれの世代ではきっと変わらない」とグループインタビューの終盤に吐露した。
行政サービスカットや増税に結びつく財政規律論に支持が集まったのは、この3人が口にした政治への失望や不安が背景にあるのではないだろうか。
他者に踏み込まない優しさと勇気を出して一歩踏み込む優しさというのは別種のもので、どちらも大切なもの。どちらが優れているというものでもない。
と思うのだけれど、ネットのありがちな非モテ叩きみたいなのを見ると、前者の類はただの自分本意な臆病さで、人との密接な関わり合いでは後者こそが大事なんだ。みたいな事が言われている。
こういう社不適評論をシェアして芯を捉えた「禁止カード」だー刺さったわーと卑下してキャッキャするのが流行りのようだが、私は的外れだなと思っている。
まあお説教された通りのような人もいるのだろうけど、そもそもの話として二者択一でないものをそうであるように語っている点が。
ストレートに言えば根本的に非社交的なタイプの人間は、他者への敬意として適度な距離感を重んじるが故にそうあるのではないかと思う。それを嫌われたくないだけの裏返しだ、と一義的に結論づけるのは単なる露悪的な邪推ではなかろうか。インターネットでクソリプを送り散らかすような類の非社交的な子供はこの話から捨て置く。
基本的なスタンスとして適度な距離感を持ち合わせた上、そこで初めて他者に踏み込む勇気があると思う。でなければ、それはともすれば自他の区別が未熟で無神経な人間になりかねない。
差し出がましい真似をして、遠回しにでも苦言を呈されたら「良かれと思ってこうしてあげたのに!」と逆ギレするタイプとはそういうことだ。
個人主義(これを利己主義と読み替える人にはこの文章の意図は一切伝わっていないと思います)が絶対の価値とは言わないけれど、少なくとも今の社会では一定程度支持され基盤となっている価値なので。
まあ一歩踏み込む事だって重要な事なので、どちらも大事な態度。なのだけど、世の中両方のバランス感覚を適度に養ってきた人ばかりでもない。
程度の差はあれ、ドライか無神経かのどちらかに偏りがち。その上でドライな方がマシじゃね、という私の素朴の感覚を個人主義なんか持ち出して理を持たせてみたという訳だ。
や、人は社会の中で生きるんだからサ、そのヌクモリティに囲まれるのがリアリティってもんでサ。慎重にばっかりなっても仕方ないし、もっと他人に踏み込んでいかないと。失敗しながら人間関係を覚えないとサ、みたいな事言う人もいるんだろうけど。
どちらが然るべき態度かと言い争えば水掛け論にしか
ならないし、みんな愛し合って生きようねという事です。まあ皆さんが信じる愛や誠実さの形が異なるので戦争が起きるんですけど。
最初から分かっていたことのはずなのだが、若者はむしろ自民党支持であった。18歳選挙権によってむしろ左翼は不利になってしまった、
若者層で与党支持が多いのは、18歳選挙権実施前から各種のサーベイで分かっていたこと。その調査結果があったからこそ、与党も18歳引き下げの実施に踏み切ったんだよ。与野党問わず、そのことを事前に理解していなかった既存政党関係者はいないはず。
日本の左翼は、若者は自分たちの陣営だと勘違いしていた。アメリカでは若者の民主党支持層が厚いから、自分たちは「弱者」の味方だから。
日本の左翼があれこれ理由をつけて、選挙権年齢の引き下げを達成した? 「日本の左翼」にそんな力があるわけがない。冷静になれ。当時の経緯を振り返ろう。選挙権年齢の18歳への引下げは、議会では、与党(自公)主導に、野党の一部(民主維新)が相乗りした共同提出法案。行政では、当時の官邸が特に強力なパイプを持っていた文科省(清和会)と総務省(菅グループ)の旗振り。野党勢はこの流れに対して後手に回っていた。2000年から選挙権年齢引き下げを求めてきたNPO法人Rightsの高橋亮平は、以下のように述懐している。
18歳選挙権実現にあたり、本気で踏み込んだのは、2つの政権しかない。1つが第1次安倍政権であり、2つ目が第2次安倍政権である。
ここのところの自民党の対応を見ていて思うのは、「まさかここまで踏み込むとは……」ということと、「選挙のためにはここまでやるが自民党なのか……」というのが率直な感想である。
この流れを作ったのは、自民青年局と日本若者協議会(JYC:官民の有識者会議に若者代表としてやたら声がかかる室橋祐貴氏が代表やってる団体)との深い連携関係。JYCは基本的に超党派の方針で各党とまんべんなく付き合っているが、自民・公明のことは明らかに「物事を変えることができるパートナー」とみなしており、他野党より格段に深い関係を築いている。
公明党の際にも紹介したが、各党の若者政策の転換の背景には、若者の声を政党公約に反映させようという「日本若者協議会」(http://youthconference.jp)による取り組みがあった。
今回の自民党青年局政策提言の中にも、日本若者協議会が提案した政策から、
などが入った。
日本若者協議会は、昨年12月に「日本版ユース・パーラメント(自民党編)」(http://live.nicovideo.jp/watch/lv244173560?)を実施して以来、自民党青年局と政策協議を続け、2月25日には、こうした政策反映の中間報告をもらっていた。
今回の谷垣幹事長の発言では、被選挙権年齢引き下げだけでなく、供託金引き下げについても党内で調整が進んできていることが明らかになった。
https://news.yahoo.co.jp/byline/takahashiryohei/20160330-00055994
自民党という政党は、常に「選挙で勝つこと」を軸に自党の持続可能性を考え実行できるDNAを持つ。地方の利益再分配重視型の政党から都市型政党に脱皮したときもそうだったし、本来は野党の支持基盤だった連合と急速な関係改善を図っているのもそうだし、いまの高齢者支持重視の政党から若者世代重視の政党へのシフトもそう。「既存支持層が弱体化していくときに、どう票数を補完していくか」ということについては、極めて真摯かつ計画的に物事を進める。そのひとつの結果が、選挙権の18歳引き下げ。自民党青年局とJYCが連携した時点で、ほぼ勝負はついていた。
というわけで、元増田の「選挙権の18歳引き下げ」が左翼・野党側の悲願だった、という認識自体がそもそも事実と違う。
あと、元増田は、たかまつななの政治的スタンスを左翼/右翼という軸に回収するところに無理がある。そもそもが「自宅に部屋が10室」「外食といえばフランス料理のフルコースしか知らなかった」「芸人になるまでラーメン屋やコンビニに入ったことがなかった」的な持ちネタがウリの、典型的なエスタブリッシュメント階層、いいとこのお嬢さん(東大名誉教授・東京ガス社長だった高松豊吉の曾孫)である。彼女自身の政治的主張も、右派・左派という軸では整理しにくいものが多い。彼女は昔からの持論として「平和」を重視する一方で、その平和の実現方法については、ウクライナ取材の折に、以下のように現地の声を紹介しつつ、既存の平和教育を批判してもいる。
「日本だっていつ攻められるかわからないのだから、備えるべきだ」「他国との同盟や外交努力をすべき」「食糧供給などを見直すべき」「政府に泣きつく前に、自分たちの領土を守るという強いコミュニティを持つことだ」「今こそ台湾を支援することが大事ではないか」「北方領土を取り返したほうがいい」
(略)
私たちが受けてきた平和教育とは、まずは太平洋戦争時に、「日本が戦争を始めてしまった」ことへの反省があり、次にどうすれば戦争をしない国になるか、であった。しかし、時が経ち、それは「アメリカの戦争へ巻き込まれないこと」に変わり、現在は、「他国から攻められないこと」に変遷していった。
日本は台湾有事がもし起きてしまったら、巻き込まれ、最悪の場合、攻められる可能性だって予測される。だからこそ、ウクライナの人々の「自国を守るための後悔」には耳を傾けるべきではないだろうか。
https://shueisha.online/culture/109026?page=4
なお選挙啓発に関して、民間で彼女を積極的に登用している団体のひとつが、青年会議所(JC)である。
衆議院選挙では、全国で公開討論会が実施されるといいなと思います。私自身も、公開討論会の司会などは積極的に引き受けますので、ご連絡ください。JCという地域をよくしようという社長さんたちの集まりが主催することがおおいのですが、地方紙やメディアがもっと主体的にできるといいですよね。
https://note.com/takamatsunana/n/ne8700998fe6e
「地域をよくしようという社長さんたちの集まり」というまとめ方には諸方面から異論ありそうだが、まあよしとしよう。
ついでにいうと、元増田は、たかまつななの政治的立場の変遷についての時系列的理解もおかしい。たかまつななが株式会社笑下村塾を設立したのは18歳選挙権の導入「後」である。
3年前、18歳選挙権が導入された時に、「笑いの力で若者たちに政治への関心を持ってほしい!」「芸人100人を教育の現場に派遣したい!」とお笑いジャーナリストの「たかまつなな」が株式会社 笑下村塾を設立。現在、全国の高校や企業で主権者教育やSDGsの出張授業を行っています。
という経緯。instagramなどのSNSでは、2015年以前は18歳選挙権についての発信は全くといっていいほどしていなかった。2016年を境に、彼女は主権者教育・若者教育という分野にフロンティアを見出し、積極的にこの方面を開拓していった。そしてこの過程で、「世代間の対立」という軸を立てたうえで自分が「若者」側に立つ(反「シルバー民主主義」)というスタンスを明確化していった。つまり先に触れたRightsやJYCなどに比べれば、最後発に属しており、しかも現在はかなり偏った立ち位置に到った、特異なアクティビストなのである。
まとめよう。
①選挙権年齢の18歳引き下げは、与党主導で進められ立法化された施策
②たかまつななは、もともと一般的な意味での「左翼」「左派陣営」には属していない、特異な立場
③たかまつななは、選挙権年齢の18歳引き下げ「後」に主権者教育・若者啓発に取り組みだした後発組
おわかりいただけただろうか。
https://anond.hatelabo.jp/20230405183906
という反論コメントがあったので、こちらも https://anond.hatelabo.jp/20230405210928 を書いた。元増田は、なぜたかまつななは叩かれるかというストーリーを面白おかしく語ろうとする中で、「日本の左翼」がすごい政策的影響力を持っていて、あれやこれやと理由をつけて、与党の自公に選挙権の18歳引き下げを飲ませたのだ、という奇妙な歴史観に陥っている(そうではないことを示すために、実際の経緯を上に書いた)。
さらに、元増田がそもそものトピックとしていたたかまつななは、背景的にも主張的にも一般的な意味での左派とは言いがたく、また選挙権の18歳引き下げの「後」に主権者教育の分野に関わるようになった後発組である。にも関わらず元増田は、彼女が「以前からずっとこの問題に関わっていた」「左翼」だという、彼の最初の書き込みの見立てを破綻させる致命的な勘違いをしていた点については、何ら反論も弁解もしていない。0点です。
シンエヴァを観ていて、ケンスケの優しさとは適度に距離を置くことで、トウジのそれは助けを求める声を待たずして大丈夫か、と気にかける事だ、と思った。それは「お前冷たすぎひん?」「いや今は放っといてやれよ」みたいな台詞で端的に表されていた。
二人共、そのそれぞれの優しさは14歳の頃から既に持ち合わせていたんだと思う。基本的なスタンスは変わらないけれど、昔はともすればドライ、ともすれば無神経に見える、バランスを欠いたものだったのではないかと感じる。
では大人になって何が変わったかと言えば、自分の信じる優しさとは別種の態度をも取り入れた事ではないかと、特にケンスケについてそう思った。
彼の成長は、適度な距離感を重んじる人間がともすれば押し付けがましさを嫌って躊躇してしまうような「頼ってくれよ」という言葉を言えるようになった事だと思う。
センシティブな状況で、それでも一歩踏み込んで友人を気に掛ける勇気を手に入れたという事だ。
私もケンスケと同じ類の、人間関係において誠実さとは適切な距離感を置くことに尽きると確信しているタイプだ。世間の人間からはドライと言うような態度も特段非難されるようなものだとは思わない。頼まれてもいない余計なお世話をする前に、まず他人の問題を無闇に決め打ちしない距離感を覚えてくれ、とでも言いたくなる人間を多く見てきたから。自己責任論をグイグイと他人に押し当てるのは如何なものかと思うが。
ただ、時には機を見極めて一歩踏み込むべき場面もあるんだろうと思った。
(語弊を恐れずに言えば)前時代的な密接な関わり合いと、無闇に他者に立ち入らない個人主義は、どちらが優れているというものでもない。それぞれに安心と独立、煩わしさと孤独がある。要はバランスの問題だ。
中庸は大事だ。これぐらいの立ち位置で良いだろう、という所に居座り続けて安心感を得るよりも、常にバランスを考え続けられる人間でありたい。
まあシンジくんが立ち直ったのは彼らの優しさや人との関わりもさる事ながら、決定打はキーパーソン周りの関係だった気がしなくもないが……
ジェンダーニュートラルの風潮に乗って様々なジェンダー語が言い換えられている。
中でも男性配偶者を意味する「旦那」「亭主」「主人」はもう絶滅種と言っていい。
アナウンサーは、インタビューで婦人に「旦那様はどんなお仕事を?」とは訊かない。
今やNHKのアナウンサーでも「夫さんはどんなお仕事を?」と訊く。
今日は東日本大震災のあった日なので、震災関連の報道が多かった。
老齢のご婦人がインタビューに答えて「津波で亡くなった主人の遺志を継いでいきたい」というようなことを語った。
当事者が自分自身の配偶者を主人と呼ぶことすらNHKは許さないのだ。
この老婦人にとって夫は主人と呼ぶべき人物だったのであろうし、この世代の人々にとって「人前で自身の男性配偶者を呼ぶ場合は自分がへりくだる」というのは当たり前の価値観である。
たとえ家庭内ではカカア天下であったとしても、ともあれ人前では、自分は夫を立てる身だというポーズをとることが彼らには自然であるはずだ。
世の中が家父長制を否定しつつあるという風潮と、ある一個人が家父長制を受け入れているかどうかは、まったく別次元の話である。
耳の聞こえない人がこの報道を見たとき、「ああ、このご婦人は主人とは呼ばず夫と呼んだ」と思うだろう。
夫という言葉には、主人という言葉に込められていた思慕や崇敬の念が抜け落ちている。
主人と呼んだか夫と呼んだかで、在りし日の夫婦の関係性のニュアンスの受け取られ方が変わってきてしまうはずだ。
主人って呼んだのに。
世の趨勢に合わせてNHKが言い換えを進めるのは別にかまわないと思う。それを迎合とは思わない。
二馬力なのに世帯収入が手取りで年300万とか400万とかゴロゴロなわけで
そんなやつらに「産め~~~~~いwwwwwwwww」と強要したらどうなるかわかるか?
トップバリュの黄色が贅沢品扱いになる地獄、わかるか? 地元の謎スーパーの謎PBだの謎産地食材を買い時には廃棄物を漁り電気は基本消し懐中電灯でしのぐときもあるしろうそく立てて火事起こすときだってある煮炊きはガス代を使うから躊躇して食中毒を起こし風呂は基本水風呂でそれも無理なら濡れタオルその結果臭いといじめられる子供爆誕デスクトップパソコンなんてあるわけもないし通信料が払えないから激安プランにして月の上旬でギガ切れて全部終わり
そんな環境に自ら踏み込むアホおるか??? 児童手当とかしょっぱすぎんだわ 焼け石に水というか焼け石に霧吹きなんだわ
というか育児・学費・奨学金以前に出産費用が払えませ~んでつまずくんだわ
だったらよ~とりあえず人口だけ確保するんだったら健康な男から採った精液をシリンジに入れて健康な女の子宮に注入するアレとかソレとかで妊娠だけしてもらって産むだけ産んでもらって
あとはもうサヨナラ! 一生会いません! 連絡は親→←子どちらからも絶対できません!! 戸籍にも載りません!!
国の建てたでっけえ施設でまとめて育てます!!! 出産費用も国持ち!! 育てる途中のカリキュラムは就職と労働に繋がる訓練と国益を優先!!! 学問とかいう贅沢は自力で子供を育てられる夫婦の特権ね!!!
もうこれしかないわけよ
エイゼンシュタイン:教科書枠 モンタージュの人 戦艦ポチョムキンは展覧会の絵のプロムナードを何回繰り返すねんと思った
ヒッチコック:教科書枠 技術的に色々斬新だったらしいが、その後洗練されたフォロワーの現れた今観ても……感は否めない 鳥は割と面白かった
キューブリック:一点透視図法の人 映像に生活感がなくてなんか観てて不安になる 半ば教科書枠のようだけど、普通に面白い
ゴダール︰「ヌーベルバーグ」の人らしいが、ヌーベルバーグが何なのかを知らん
スピルバーグ:エンタメ映画の大天才 かと思えばシンドラーのリストなんかも撮れちゃうのが凄い
ルーカス:スターウォーズ 𝗕𝗜𝗚 𝗟𝗢𝗩𝗘 SWとインディジョーンズの小道具についてのムック本読んだけど、ディテールへのこだわりが病的だと思う
ティムバートン:空想家って感じがする それを映像に起こせるのが凄い 悪趣味とおふざけにセンスがあるけど、それはそれとしてビッグフィッシュみたいなのも撮れちゃうのも凄い
スコセッシ:デ・パルマとごっちゃになる ダメ人間を描くのが上手い気がする
デ・パルマ:アクションで印象的な画を撮るのが上手い気がする miの宙吊りとか水槽ガム爆弾とか
イーストウッド:監督もやるらしいけど観たことないな、と思って調べたらハドソン川の奇跡も撮ってたの知らなかった 手広いな たけしみたいだ
コッポラ:ゴッドファーザーと地獄の黙示録しか観てないから、なんか長い映画の印象 ロッキーのエイドリアンは妹らしい モンタージュが好きらしい
リドリースコット:ブレードランナーとエイリアンの人 怪しい漢字と酸性雨のサイバーパンクの父らしい
ジェームズキャメロン:タイタニックの印象が強いけど、エイリアン2めっちゃ面白かった SFと続き物の2作目に強いらしい
フィンチャー:どんでん返しに定評があるイメージ どんでん返してから更にもう一歩踏み込むのが良い
ノーラン:小難しいけど、エヴァみたいに難解というより単に(意識的な)説明不足なだけでは……と思う でも面白い
タランティーノ:忍殺読んで欲しい 読んで映画化して欲しい 香港ズームがかっこいい
コーエン兄弟:ノー・カントリーめっちゃ良かった なんかドライな感じ
サム・ライミ:完全にスパイダーマンの人という認識 元々ホラーの人らしい
ジョーダン・ピール:黒人差別×ホラー 毎回動物が意味深に出てくる
アリアスター:怖すぎ
やたら被害者ぶりたがる人、そして被害者ぶったあとは自分こそが正義の味方なのだと過剰に暴力的な言動に務める人、これらがかなり目につくように思う。
目につくというのは一部が悪目立ちしているだけであり実際に暴れまわっているのはそこまでは多くはないのだろうが、目立つほどの行動に移していないだけで内心としてそういう傾向がありそうな人はかなりの数であるように感じる。
統計はない。
私の体感だ。
私のインターネットやリアルにおける周囲環境、人間環境が低品質であると言うだけなのかも知れない。
だが、そういった人間がそれなりの割合でいる空間というのが存在しているのは確かだ。
ハッキリ言うが、そういう人は得てして頭が悪い。
ある分野においては思考力や記憶力が優れていることもあるが、その分野以外に対しては極端に間抜け、ハッキリ言えば地頭が終わっているほどに「被害者になる≒正しい人間に近づく」という妄想の中で暮らしている傾向が強いように思う。
そもそもそういった考えがどこから産まれるのかを考えていくと、どうも世の中にある物語や歴史書の多くが「こっちの勢力は正しいですよ。何故なら『被害者』だからです」という文脈を多用しすぎていることにあるようだ。
思えば子供の見るような番組、プリキュアやアンパンマンでさえ、ヒーローの正しさを保証する最大の要素は「被害者の側についている」ということにある。
正当性の主張に対して「被害者であること」を利用するのは戦争や宗教対立のプロパガンダでも多数使われてきた歴史があり「我々は被害を受けている。だから相手に暴力を振るうのだ」から始まって、やり返された結果に対して「正当な怒りに不当な暴力が帰ってきた。やはり奴らは野蛮であり滅ぼすしか無いのだ」を繋げていくのはもはやテンプレートとさえ言って良いだろう。
だがそれらの「プロパガンダが用いられた」ことだけが歴史的事実であり、「そのプロパガンダは正しかった」ということは、たとえ勝者が掲げていたものであったとしても保証なんてされはしない。
頭の悪い人はどうもその辺まで踏み込むことが出来ないようなのだ。
「テレビや歴史の中における勝利者、正しい者達が「我々は被害者。故に正義」と語っているのだから、それは正しいはずじゃないか」と本気で思いこんでいるのである。
そしてその思い込みと自己愛が混ざりあうと「自分は正しい(と思い込みたい)。だから自分が被害者(の側であると思い込みたい)であることを必死にアピールしないと。被害者ぶれるチャンスはないだろうか?私はもっと正しい(と思いこんでいる)人間になりたい」と考えながらいつも被害者ぶる理由を探している怪物が誕生する。
この話を聞いているうちに諸君の頭の中にも多くの怪物が思い浮かんだのではないだろうか?
彼らがなんであんなにも積極的に被害者ぶりたがり、目にも入れたくないと言いながらケチをつけられる相手を必死に探し求めていたのは、それこそが彼らにとっての「正しい人間になろうとする努力」だったのである。
彼らは頭が悪いだけで、いやむしろ頭が悪いからこそ、根は社会道徳に対して従順で真面目なのだろう。
幼少期に受けた教育のままに必死に正しい人間になろうとして、それを褒めてもらいたくて仕方がないのだ。
だからいつも「正しくなるため」に被害者ぶれる理由を探し求めているし、それを見つけてまた一つ被害者になれたぞとアピールして誰かに「凄いね。君は被害者なんだ。つまり正しい人なんだね。エライよ」と言ってもらおうとしているのである。
一手目は星か小目に打てばいい
地を取りたいなら小目
勢力や厚みに回りたいなら星
空き隅があれば隅に打とう
これも星か小目だ
自分か相手が小目に打ってたら隅を締まるか相手の小目に掛かろう
相手が星なら三々に入るか掛かろう
受けると簡明、挟むと難しくなる
挟んだ対面の隅に自分の味方の石があるならハサミが開きを兼ねていて一石二鳥の手だ
挟まれたら飛ぶかツケるか隅で収まることを考えよう
飛びは戦い
ツケは整形
隅で収まるのはお互いの石を安定させて他へ転戦するための手だ
隅を打ち切ったらお互いの弱い石を探そう
自分の弱い石があれば安定を図り
相手の弱い石があれば攻めて得する事を考える
弱い石とは眼のない石、生きの確定していない石などだ
立場の弱い石は攻められ安定するまで逃げ続ける事になる
この応酬で攻めてる側は自分の陣地となるような軌跡を描いて攻めるのが理想で、その軌跡が地となる
逃げている側はほとんどに地に貢献しないような手を打たされるため弱い石があると負債となる
強い石には近づかないようにしよう
近づいても何もいい事はない
これは味方側から見ても同じで、強い石の周りに打ってさらに強固にする手は働きに乏しいので近くに打たないようにしよう
資産1億円の富豪が100万手に入れても大した事はないが資産1万円の貧者が100万円を手にしたら100倍の利益を上げたことになる理屈だ
ちなみに最強のジャイアンとは既に生きが確定してる石の一団だ
「生きてる石の近くは小さい」と覚えよう
チェーン店の出店の戦略のように序盤は空き地に店を出店する事が大きい手となる
AとBは見合いなので、相手に空き地Aを打たれたら空き地Bに、Bに打たれたらAに打って相手に付き合わないことも大事だ
囲碁は相手に与えればそれに相応するものを自分も得られるゲームだ
地を取れば厚みを作られ、厚みを取れば相手は地を得る
自分の石が生きるのが難しい、生きる手を打つことで相手の利益が上回ると判断したら石を捨てる事を考えよう
上手く捨てれれば捨てた損よりも得る得の方が多くなる
石を捨てる事の効能として、石を捨て相手の内側に石があると相手は上手く身動きが取れなくなり、外からの締め付けが効く
締め付ける事で相手が石を取ってる間に自分の石は外側に持ってくる事ができ壁ができる
この壁は攻めに使ってもいいし、そのまま地にしてもいい
囲碁にはコウという形がある
コウに持ち込めばコウに負ける側が二手連打できるのでフリカワリにより利得を図れる
コウに勝つ側と負けて二手連打する側のどちらの利得が大きいか考える事が大切だ
軽く打つとはトカゲの尻尾切りができるように石同士を離して打つ事だ
くっつけて打つと取られる時に丸ごと取られる事になり負担が大きくなる
軽く打つ事でトカゲの尻尾となる石を囮にしつつ、軽やかに脱出して相手の地を軽減させる事ができる
単独で生きがないと思ったら相手の石を切断して攻め合いに持ち込むか、攻め取りにさせる事を考えよう
攻め合いはどっちが先に相手の石を取れるかという競争だ、ダメ(石に隣接した空転)を詰め合い手数の多い方が勝つ
攻め取りは、こちらが取られることは確定しているものの、それを取り囲んでいる相手の外側の石も生きていないため、その石を取るために自分の陣地に石を打つ必要がある状況だ
これによって相手の陣地はかなり削減される
また前述のように攻め取りにさせるために相手の石を外側から締め付ける事ができるので
攻め取りは強力な捨て石術となり得る
お互いの弱い石や死活に関わるような戦いがなくなったらヨセと呼ばれる最終段階だ
自分の陣地を少しでも広げ、相手の陣地を減らすような手を目指す
細かいところを上げればもっとあるが大体囲碁の作戦、考え方とはこんな感じだ
不得貪勝 貪れば勝を得ず(貪って勝とうとしてはいけない)
入界宜緩 界に入りてはよろしく緩なるべし(敵の勢力圏では緩やかにすべし)
攻彼顧我 彼を攻めるには我を顧みよ(攻める時には自分を顧みよ)
棄子争先 子を棄て先を争え(石を捨てて先手を取れ)
捨小就大 小を捨てて大に就く(小を捨て大を取れ)
逢危須棄 危うきに逢えばすべからく棄つべし(危険になれば捨てるべし)
慎勿軽速 慎みて軽速なるなかれ(足早になりすぎるのは慎め)
動須相応 動かばすべからく相応ずべし(敵の動きに応じるべし)
彼強自保 彼強ければ自ら保て(敵が強ければ自らを安全にすべし)
囲碁の十段戦挑戦者決定戦が稀にみるすさまじい戦いだったので語りたい。
許家元十段(25)への挑戦者を決める十段戦挑戦者決定戦は囲碁界の覇者・本因坊文裕(井山裕太)(33)と静かに燃える若獅子・芝野虎丸名人(23)の戦いとなった。
(許家元十段と虎丸名人は令和三羽烏と呼ばれる三強のうちの一人である。もう一人は一力遼棋聖(25)(河北新報の御曹司であり記者))
この碁がすさまじかったので碁がわからない人にもこの碁の凄まじさを伝えたい。
棋譜:https://igo-kifu.com/kifu/97893
通常自分が劣勢と思っている側は相手の地へ深く踏み込むのだが、黒番の文裕は踏み込まず、この手で足りてますよという、ヨセ勝負の淡々とした手を打った。(ヨセとは陣地の境界を定める終盤のフェイズのことである。)
これは普段、全面戦争を辞さない最強手を打ち続ける文裕の棋風らしくない手で、形勢判断を間違えているのか、文裕らしくないという事がチャットで囁かれていた。
しかし、その後形勢が接近、逆転し細かいヨセ勝負となり文裕の形勢判断にぬかりはなかったと手のひらが返った。
見どころは上辺の黒地へ白がハネ出しと呼ばれる、相手の地を削減するために相手の地のラインを少しはみ出す手を打ったところからの応酬だ。
この手には伏線があり、右上で白がハサミツケを打ったところから戦いは始まっていた。
https://youtu.be/zzJ-8YiNCl8?t=24444
ハサミツケとは相手の石を挟むように、相手の陣地側へ踏み込んで打つ手のことである。
この手はこの近くに、なにかこの手と連携した手段がある時に打たれる手で、何もなければ黒に遮られると相手の陣地へ持ち込みになって損してしまうだけの手になるリスクのある手だ。
黒は白に手段があると読めば損しないために相手を味方の地点へ繋がらせてあげるのだが、形勢が接近している時にはそういう手は相手に一方的に得をさせてしまうため、打ちたくない。
この時点でAI上での形勢は0.5目差、つまり半目勝負であり、一切の妥協もできる状況ではなかった。黒は最強に頑張って下がった。(相手の味方への連絡を遮った)
つまり黒は上辺に白からの手はない、上辺に何かイチャモンをつけてこられてもギリギリ耐えていると読んだのだ。
素人目には逆に黒だらけの上辺は白から手になるような筋はないと見えて、ラッキーと即下がるが
相手は虎丸名人であり、相当な読みの上で打たれたハサミツケを妨害する下がりの手は相当慎重に先の先まで読んだ上でないと打てない手だ。
そして、いよいよ決戦の時間、前述した上辺のハネ出しが来た。
https://youtu.be/zzJ-8YiNCl8?t=24869
白はここではハネ出さずに、あるいはハネ出した後にすぐ繋いでお互い温厚に行くルートでも勝てる見込みがあった。
しかし、ハネ出した後に下がり、もしこれで手にならなければそのまま相手へ石をプレゼントしてしまう状態になる妥協なしのハイリスクハイリターンな手を選んだ。
先程の右上のハサミツケからのコンビネーションで、相手の腹中に味方の白石が居る"味"を見てこのハネ出しを手にしようという狙いだ。
黒も白の言い分を通して相手と自分がお互いに接続するという安全な手を選べるが、形勢が悪いので黒も、白を分断するという危険な賭けを断行するしかない。
こうしてお互いに手になれば勝てる、ならなければつぶれて即負けるかもしれないという超ハイリスクなルートへ突入した。
ここから長手順のお互い一歩間違えたら即負けというギリギリの綱渡りの攻防が始まった。
素人目には白が手にする手段はないと思われたが、白は難解な手順を尽くしてなんとかお互いの石の生死をかけた二段コウと呼ばれる形に持ち込むことに成功する。
上辺のハネ出しから二段コウになるまで実に40手ほども一手間違えれば攻め合い負けて即ツブレというギリギリの応酬が行われた。
この二段コウまで見越して右上のハサミツケから上辺のハネ出しを打ったのならとてつもなく恐ろしい読み筋だ。
https://youtu.be/zzJ-8YiNCl8?t=26984
白に二段コウにはされたが、並の打ち手ならここまでの白の応酬でとっくに黒地が崩壊していた。
黒番・本因坊文裕はなんとか持ちこたえて自分側の有利な二段コウで耐えしのいだとも言える。
この時点で黒の評価値は90%以上となっていた。AIはこの二段コウを黒有利と判断していた。
コウというのはお互いの石を永遠に取り合える形で、千日手にならないように石を取られた側が一度別の場所へ打たなければならない。
そして相手が受けてくれて自分の手番になればコウを取り返せる。
これをコウダテと言うが、このコウダテの手は自分がコウに勝つために相手が受けざるを得ない場所へ打つ必要がある。
受けざるを得ない地点というのは、相手がコウダテを無視してコウを連打で解消した場合に、自分がコウダテの地点を連打したほうが地が大きくなる地点だ。(お互いに連打部分で得た陣地の差し引き計算)
このコウダテとなりうる地点のことをコウ材と呼び、このコウの材料の数によってコウの勝敗が決まる。(コウ材の単位は1コウ、2コウ)
コウは、コウに負けた側はコウダテの地点を二手連打することになるので、お互い2手連打し「振り替わり」と呼ばれる壮大な地形の変化が起こる。
このフリカワリの妙、ダイナミックさも囲碁の面白さであり魅力だ。
そしてこのコウが二つ連なっていて1回のコウの解消では解消しきれないのが二段コウだ。
この碁は二段コウの見本となるようなものすごい駆け引きを見せてくれた。
この碁は碁形的に黒にコウ材が多く、黒が勝つものと思われていた。
(黒には相手の白石を抜いた部分があり、石を抜くと相手からの利きが少なくコウに強い形となる)
しかし二段コウの複雑さが状況を覆した。
さきほどの説明の通り、通常のコウならコウに勝つためにはコウダテを打つし、コウダテは2手連打した場合を想定した時に相手より上回る地点へ打てばいい。
二段コウでは二段目のコウを取っている側は、相手にコウを取られてももう一段分コウで踏ん張る猶予があるので、
「あえて」コウの1つは譲って、「あえて」コウダテを打たずに、相手からのコウ材となる部分に先着して手厚くガードしてコウ材の数を減らすという手が打たれたのだ。
また通常2手連打分を想定するコウダテも、二段コウなら3手まで連打できる場所もコウ材となった。(右下270手目)
通常は打たれない緊急手段である、損なコウダテとなる損コウと呼ばれる手も、コウ部分に勝つことが大きいために打たれた。
この複雑な攻防の読みを頭の中だけで行うのはどうやらトッププロでも難しいらしく、この駆け引きによって白は黒番・本因坊文裕のミスを誘い逆転した。
文裕は右辺のコウダテで下側から放り込んでいれば2つのコウ材になった部分を、右側から放り込んでしまったためにコウ材を1つ減らし、コウ材の数が逆転し、形勢も逆転となった。
白の虎丸名人が自ら作った二段コウを見事に活用した形となった。
https://youtu.be/zzJ-8YiNCl8?t=28776
このコウ争いの真っ最中にコウ材の数を変化させる攻防は普通のコウ争いでは中々見られず、二段コウならではの難解で非常に見応えのある戦いだった。
囲碁歴20年で囲碁の奥深さを十分知っているつもりだったが、ここに来て囲碁のさらなる奥深い一面を知ることとなった。
正直、囲碁がわからない人に図説もなしの文章だけですべて伝えられたとは思っていない。この駄文だけでわかったら天才だ
しかしながらこの千変万化の攻防、千変万化の駆け引きの尋常ならざる面白さはもっと多くの人にぜひ知ってもらいたい。
囲碁の変化の奥深さ、神秘性、面白さを改めて知った一戦だった。
いま囲碁を始めるならここらへんがオススメだ。囲碁をある程度覚えたあとに改めて今回紹介した一戦をぜひハイライトから見てほしい