はてなキーワード: 創造とは
経験的にはウニャウニャよくわからんこと言ってる会社は受託やコンサルだと思うんだけど
今まで一番分からなかったのはSpeee(だっけ?)
さっきVISITSって会社をWantedlyで見かけたんだけど
組み込まれる日も近くなっています。同時に、AIは私たちの仕事の多くを自動化し、
人間はより付加価値の高い「創造的な仕事」に時間を使う事になります。
ところが、そのようなAI共存時代に最も重要な「創造性」を定量化する手法は、
私たちは、ideagramという独自の合意形成アルゴリズム(特許取得済)を開発し、
世界で初めて成功しました。この技術を活用すれば、「創造性」だけでなく、
「センス」や「スキル」、「人脈」といった本来価値があるはずにも関わらず
ブロックチェーン技術と組み合わせ、価値移転が可能になります。
現在アナログに集積されている世の中の資産をデジタル化、分散化し、
価値移転可能にすることで、私たちは「社会価値創造の最大化」のための
新たな資産の組み合わせ最適化問題を解き明かすことが可能になり、
同時に、私たちはこれまで不可能だと思われていた「イノベーション創発」という領域を
>弊社のコンサルタントが、導入から運用まで丁寧にサポートいたします。
>Wikipediaが、オンライン上に過去の事実をまとめた「『知識』の共有プラットフォーム」を構築したのに対し、私たちは未来の創造的アイデアを提示する「『知恵』の共有プラットフォーム」を構築します。
>具体的には、DODA内に蓄積された求人、求職者のビッグデータを弊社が解析し、求職者のキャリアの将来可能性を多次元空間でマッピング、人材紹介エージェントの業務の多くをAIで自動化する取組を進めています。
>現在は、その中でもコアになる合意形成アルゴリズムの研究を中心に行っており、今後はこのような世界観を共有できる企業との協業、共同開発も積極的に推進し、世界中のUXのアップデートを共創により実現していきます。
若干わかってきた
AI系目指してる人は、まずその会社が何やってるか読み解くスキルも必要になるのかね
それこそAIで読み取ってくれw
心のある人間はその人の考え次第で転がり落ちる事も踏みとどまる事も出来る。
「心」が唯一、この世界の物理現象に抗うことが出来る存在であって、
世界の物理法則に対してあまりにもか弱くて小さな抗いしか出来なかった。
でも何万年も何億年も進化を続けるにつれて、その抗う力は大きくなっていって、
ついには海を埋め立てたり、山を削ったり、月に辿り着いたりするほどに、人類はとんでもなく物理現象に抗うようになった。
「心=世界に抗う力」をより大きくしていくことが、生物の進化なんだろうと。
それを繰り返していって、
そして遥か遠い未来には、宇宙の物理法則全てに抗うようになって、
心が宇宙にとって変わる。
心=宇宙になった時点でその心はもう自然現象であって心ではなく、次に心と呼べる物が産まれるのはその宇宙の内側なのか。
もしそうだとしたら、今俺が居るこの宇宙は元々別の何か猛烈に進化を遂げた生物の心なのか。
いやそもそもこの地球で産まれた最初の生物、代謝して自分をコピーするなんて存在はどうして産まれた?
結局俺は心の正体に答えを見いだせない。
昔からPCが得意だったので、プログラミングを学んで自分で好きなソフトウェアを作りたいと思っていたけど、作りたいものが無いということに気付いて挫折した。
社会人になってクソつまらない事務方をやっていて、プログラミング(創造)したいなーって欲が出てきたけど、やはり作りたいものが無い。
というか、どっちかと言ったら自分が何かを作るんじゃなくて、人が作ったものをより良くする方が向いてるんじゃないかと思った。
仕事をしていても、他人の仕事、既存の仕事に対するアイデアはたくさん出てくるし、
宇野氏のアンチが過去ログを引き合いに出して宇野氏を叩いてるが、
いやいや、宇野氏の善良な市民時代って十年以上も前やん。古い証文にもほどがある。
宇野氏は00年代末期から10年代前半にかけて、けいおんやAKBを好きになって変節したんだよ。
人は変わるんだよ。アンチは人が変わることや成長することを許さない人達ですか?
宇野氏の芸は、学識や教養を以ってオタクを類型化し、その正体を看破する知的な芸であり、
カジサックのように特定個人の外見や仕草を笑うようないじめ芸ではないし、
はあちゅうの童貞いじりのようなクリエイティビティの欠片もない素人芸でもない。
前回(https://anond.hatelabo.jp/20190122051523)の続きです。
さまざまな理由から、化粧が出来ない、してくれる協力者もいないという人達に私は会ってきました。
病気や怪我を治療中の人、あるいは治らない障害を抱えている人が居ました。症状が出ないように薬を飲んでいて、副作用がひどいと教えてくれた人も居ます。
発達障害からの注意欠陥、嗅覚・触覚過敏、どれほど頑張っても自分では時間管理ができない人、神経麻痺で手が震えてしまう人、不安障害や、醜形恐怖のために鏡で自分の顔が見られない人も居ました。先天性もあれば事故による後天性もあります。
一見しただけではわからない、介助者もいない軽度の人ほど、偏見に晒されてつらい感情を秘めていました。「就活の時期はとても苦しかった」と胸の内を話してくれた人もいました。
それらは対話しなければわかりません。
生きるだけで精一杯の彼女達を外見で判断することは、とても残酷なことだと思いました。
初対面の人へ否応なしに恐怖を抱く人もいます。彼女達はあまりにも傷ついてるのです。だけど彼女達も同じものが好きな人なら、親身になって耳を傾けてくれるなら、素直に明るく話せる『普通の』人達でした。
彼女あるいは彼らが、趣味を楽しむことを、ドレスコードもないイベントへ素顔と普段着で行くことを、そのために外出することを、誰が止めて良いでしょうか。
作中では、腐女子の一人のバイセクシャル発言を、言い訳と切って捨てるページもありました。
腐女子仲間の交流という非日常でならカミングアウト出来る人達もいるのです。クエスチョニング(自分の性的嗜好がわからない人)も居ます。
女性の体で生まれた性自認が男性のトランスジェンダーであれば、彼もまた女性らしい化粧をひどく嫌がるでしょう。
男性の体で性自認が女性の人は、きれいな化粧をしたい彼女自身の願望を世間から嘲笑われて、ひどく悔しがることでしょう。
私自身が、長い間クエスチョニングの状態で、もしかしたら今もそうかもしれません。「雌雄何方でもない究極生命になりたい」などと本気で考えた頃もあります。そうしたキャラクターに憧れたことも。それを中二病や黒歴史と切って捨てる気はありません。
その頃に考えた数々の想像は、今の作品作りに役立っています。何がどう人生に関係するのかはわからないですし、簡単に嘲笑の材料にしてはいけません。
そして、結婚して子供をもつ腐女子の人達はカーストの上位に位置すると作品内ではほのめかされていました。
独身の私には、既婚者のまま交友関係を続けてくれる腐女子が幾人かいますが、本人達の多くは決してそんなことを思っていません。
切り詰められた趣味の時間を一生懸命やりくりしています。子供たちが幼く、預けられる人が居なければ、イベントに出ることもできません。離婚を経験している人も居ます。子供を産めない体の人も居ます。彼女達の苦悩を「自虐に見せかけた自慢」などと断定することはできません。
外見に気を使えない分、時間が限られている分、彼女達は会場で迷惑をかけないよう礼儀正しくいようと努力しています。
作家さんに送る差し入れを考えたり、相手が不快にならないような感想の手紙を丁寧に考えてくれます。他人の悪意に敏感で、日々変化する対人マナーを注意深く観察しています。
賢明な彼あるいは彼女達は、自分がなにか悪いことをしたら、自分を容易く卑下すれば、自分と同じ属性の誰かが心無い偏見を向けられると知っているのです。
自分を奮い立たせなければ、読みたい本を手に入れられないのです。彼女達にとってもイベント会場はまさしく「戦場」なのです。
主人公自身が我慢して「普通」を演じてるからといって、どうして不特定多数にもそれを押し付けて、勝手に審査してしまうのでしょうか。
腐女子として知り合ったのに、そこでしかできない話があるのに、なぜ、妹や会社の同僚にもできる彼氏の「恋バナ」を主人公はその中でしたいのでしょうか?
誰しもに欠落があります。いくら擬態を頑張っても、つつけば粗が見えることを知っています。
見下す主人公よりも、その嘲笑われた「誰か」に共感して悲しみ、怒るのです。これは腐女子も一般人も変わりありません。
ここまでくれば主人公の『欠落』は明確に見えてきます。恋愛パートナーの有無や、化粧や顔の出来などとは関係のないものです。
物語としては、この欠落を彼女が尊敬する『神』の作品で、あるいは腐女子の友人達との交流で埋める方向に少しでも向くと思わせられれば、得る物はあったであろうに、エッセイ漫画として面白くなるであろうに、無視したまま化粧と服装だけに固執し、自分以外の他人を嘲笑し苛つきだけ表現して、何処かで見たような「あるある」ネタとしても使い古された、見慣れたエピソードで彩られた孤独な「自分語り」に、なぜ終始してしまうのでしょう?
主人公が妹との会話で傷つくシーンがありますが、それもどこか核心からずれています。
描こうと思えばいくらでも描けて、周り込めばそれだけ「面白い」題材になるはずのこの欠落を、なぜ無視して、このように雑に扱ってしまったのでしょう。
であれば、必要なのは時間です。自分と他人を見つめなければ、表面的な出来事と自分の内面を掘るだけでページが終わってしまいます。
であれば、そのような『制限』を外すべきだったのです。悪意を放り投げてしまうより、収拾可能になるまで、試し読みの範囲に伏線を詰めて描くべきだったのです。
そのほうがずっと「面白く」「続きが気になって」読んでもらえるはずです。
その柔軟さと判断力が編集者に無かったとなれば、漫画を面白くできなかったのは作者だけの責任には留まりません。
私はそう考えます。
ツイッターの機能として、登録者の興味のある事柄から、自発的に検索しなくても、プロモーションやフォロワーのいいねがTLに流れることがあります。
日夜ツイッターではプロ・アマチュアを問わず真の意味で赤裸々な「漫画」が、作り手の欲望と善意によって公開されております。
読み手は気軽にそれらを楽しむことができます。なんの警戒心もなく、それを読めるのです。
つまりツイッターを利用している未成年の、思春期の「腐女子」あるいは「腐男子」達も、この「腐女子カースト」という作品を目にした可能性が高いと言うことです。
腐女子は皆が皆、18禁作品をたしなむ訳ではありません。未成年で、好奇心と不安を抱えたまま腐女子の世界に飛び込んだばかりの人達、現実世界では未来ある学生達がそこにいるのです。
悪意に慣れていない少年少女も当然います。もっと幼くて、ただ漫画というだけで熱心に読む子も居ます。今は内容がわからなくても必ず影響は残ります。『顔芸』と呼ばれる大ゴマをつかって笑わせることは、どんな幼い子供にも通用します。
子供達に対し、自由な想像の世界に生きる存在であったはずの腐女子達の中に「カースト」が存在するなどと言い含め、ある嗜好を持つだけで現実では最下層の証明になるのだという差別意識を植え付けて、その子たちの無意識に色眼鏡を与え、自尊心を摘み取ってしまっていいのでしょうか。
自分もどうしようもない存在だから笑って許して欲しい、などと言う虫のいいお願いを「いい大人」が子供へ果たしてできるでしょうか?
それとも子供達も自分と同じ目に遭いつらい人生を歩めと言うのでしょうか?
あの時から今もなお続く炎上は、腐女子ひいてはオタク達の怒りでありながら、撒かれた毒を浄化しようという一心不乱の活動でもあるのです。
それが見えない露悪的な人達はこの騒動を冷笑しています。私はそれを、昔の自分のように恥じています。
これについては個人の快不快に留まる問題ではありません。会社ではなく、一個人があのような悪意を撒いたとしても、彼らは同じように行動するでしょう。
わずかな露悪的な読者層を取り入れるために社会倫理を無視して行動したのであれば、そうした会社に集まるのは、いっそう露悪的で短命な漫画ばかりとなってしまうでしょう。
このような感想になってしまいましたが、改めて、私は自由な創造性というものを尊重したい側です。
同時に面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由もまた有ってほしいと思います。
商業作品においてもアマチュアであってもそれはかわりません。ただひとつ願うのは、描き手と読み手、企業と購入者、互いが互いに優しい形でそれが実現することです。
今回の騒動を見ていた時に同レーベルの「こじらせブスの処方箋~見た目を気にして病気になりました~」という醜形恐怖を描くエッセイ作品と作者が気になり、こちらは購入しました。
内容は「腐女子カースト」よりも読めました。やりようによっては幾らでも面白くなる題材だと思いました。たった一冊の本では描き切れないはずなのに、始まりから消化不良のまま、読み終わってしまいました。なぜ充分に生かせず、彼女は次々と過激なタイトルの新連載に移ってしまったのでしょうか。彼女が無料公開している作品を見ていましたが、やはりどこか無理におどけている様な、抑圧されているような、物足りなさを感じてしまいました。
他の主力作品もヘテロの恋愛や性事情を題材にしたものや実録系が多いようです。WEB雑誌系のスポンサーが出会い系や美容系で占められていることと関係しているのでしょうか。それらへ興味が向くように迎合した作品作りをすることも、おそらく企業戦略としては正しいのでしょう。
自尊心の低い女性や、夢を求めて来た外国人や、年齢や身体のどうしようもない特徴で偏見に晒された、「世間とちょっとずれた」弱い立場の人々を集めて「見下す対象」を作り抑圧することが、今のレーベルでの狙いなのでしょうか?
そうではないとする証拠が、今回の騒動の中にあったでしょうか?
今連載されている作品達に、作家達に、充分に示せているでしょうか。
善悪を私が断じることはできません。ユーザーが文句をいう事は出来ますが、断罪するわけではありません。
誰かの表現を止めることはできません。
一度出した表現は別の表現で塗り替えることしかできないのです。
多くの人にとって良くなければ、出資するほどではないと思われれば、自然と読者は離れていき、伝統はそこで終わるだけです。
今回の感想を書く上で、障害者や、性的マイノリティについて書かなければならなくなりました。
それらを教えてくれた人々は、私の大事な読者達です。
私はかつて、仕事をやめたのと同時に、しばらく普通でいることを休もうと思いたちました。世間や周りに合わせようと無理をするのをやめて、家に籠りました。趣味で漫画を描くうちに、私は作品を通じてツイッターで人と繋がりました。
読者のフォロワーの一人が、家庭の事で「爆発」し鍵垢で叫んでいた所に遭遇しました。私はその言葉を丁寧に読みました。
私が知り得る知識を総動員して、望んだ人生が歩めない悲しみを、それを他人から非難される恐怖と怒りを一生懸命想像しました。私は彼女の問題提起を注意深く見定めようとしました。
リプライではなく空リプで、一緒になって怒り、一緒に笑い飛ばしました。それは一時のSNS上のやりとりでしかないし、実際に顔を合わせる間柄ではないですが、今でも彼女との交友は続いています。
私と彼女は、対等な互いの読者として、信頼する友人として存在しているのです。
彼女の理解を諦めて無視したなら、きっとこうはなりませんでした。
信頼関係の構築に大事なのは性格ではありません。ただ己を一度引っ込めて、わからないなら真摯に聴き、調べ、深く考えた上で言葉を使うことが大事だと私は気付きました。彼女が暴れすぎて収拾がつかなくなるほど傷つかないように、考えて行動することでした。
それは自分の作品を作る時と同じでした。二次創作で『推し』を見つめて、彼あるいは彼女がどう行動するか考える時と同じでした。
彼女達の苦悩の間に、それでも己自身を肯定する言葉があると、パートナーや子供を心から愛している気配を見つけられると、私は安心できました。
他人の心の傷を全て想像出来るわけではありません。自分の心の傷に触れられることがあれば、動揺してひどい言葉を投げかけることもありました。ブロックされることもありました。しかしそれは、多くの人がそうなのです。ぶつかり合うことも距離を置くことも恐れてはいけません。本当に知りたいと思うなら、何度でも内省し正しい目で観察すべきなのです。
彼や彼女達が教えてくれた人生のエピソードを、私はそのまま作品に描く気にはなれません。自分自身の人生すらも。
作品には力があります。祈りにも呪いにもなり得ます。他人も自分も幸せにさせられるし、同時に破滅させられます。それほど重く、他人が口出ししてはいけない価値観が誰しもにあるのです。
一度発表したものは簡単に無かったことになりません。丁寧に積み重ねた善意よりも、悪意の一撃の方が取り返しがつかないこともあるのです。
それから私は、世間からちょっとずれた自分の感性を、注意深く噛み砕いて、善か悪かも断定しないように、フィクションに載せて描き続けました。自分が好きな作品がどうして好きなのか、どう世間と噛み合わないのか、深く深く悩み、考えました。それを読んだ人達の中に、共感して会いに来てくれた人が何人も居ました。ゆっくり時間をかけてですが、心からの対話をすることが出来ました。
世間からちょっとずれた人々にも悲しみがあります。楽しみがあります。それを見下して、ただの自虐的な見世物にして終わってはいけません。
漫画を描いている人々、漫画をマネジメントする人々、今まさに伸び悩んでいる方に、今一度向き合って頂きたいのです。
説教ではありません。私自身がまさに悩んでいたから、これからも悩み続けるだろうからこそ、一緒に考えてほしいという願いです。
ただ楽しいから、ただ涙が止まらないから書くというだけでも充分良いのです。書き上げてから、少しだけ手を止めて、考えてほしいのです。一時の利益のために道を見失わないために。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
ハンドルネームもペンネームも、いくらでも変えられる世界です。それは責任を放棄することと一緒ではありません。
今回は匿名での投稿ですが、私は私の思ったことをできるかぎり真摯に見つめ、影響を考え、投稿に至りました。それが少しでも伝われば幸いです。
その時には、互いに今より優しくなれていると良いなあと、願っております。
終
追記:
これを書いている間に、『COMIC維新りあら』公式ツイッターからお詫び文が出ました。
配信停止までやる必要はなかったかと思いましたが、仕方のない判断かもしれません。
また一冊の本が燃やされたと感じました。
BLではないですが、好きな作品のファンアート(二次創作)も描きます。
友人には腐女子の方も、そうでない女オタクの方も居ます。腐男子も男オタクも居ます。どちらの性別にも属さない方も。即売会にもほそぼそとスペース参加しております。
今回において「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~(COMIC維新りあら)」という漫画作品に脅迫的な批判をするつもりはありません。法律や条例に抵触するかどうかを語りはしません。ただ少し倫理的に問うことは一つ二つあります。
また、各配信サイトで無料試し読みで設定された話数が、出版責任者が「つかみ」と判断した範囲とみなし、その中で感じた所感だけにとどめることを事前に断っておきます。
匿名の場所にこうして文書を上げるのも、私自身の「顔」や「作品」や交友関係などのプライベートを見たがる人達に対する、防衛だと了承していただければ幸いです。いかなる名品名作であっても、つつけば必ず「粗」が見つかり賛否がわかれる物だと私は考えております。私は自分の作品を愛していますが、悪意をいちいち気にしてしまう繊細さも自覚しておりますし、大事な友人達に迷惑はかけられません。
なのでこの文書は、ある漫画書きの、ごく個人的な感想として見て頂ければと思います。
誰にでもわかるようにと書いた結果長くなってしまいましたが、よろしければお付き合いください。
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同時に読者は面白くないと思ったものを面白くない、酷いと思えるものを酷い、ノットフォーミー(自分向けではない)な作品はそうだと言える自由も有ってほしいと思います。彼らの感想もまた創造性を持つ表現行為だからです。
そして作品が流行することによって起こる「意見の封殺」と文化の断絶は、人々の自由に害を与え、文化を停滞させるものであるため、避けるべきだと思っています。
この文章は、それが起こってほしくないがために出す私の意見なのです。
以下の諸々の前提について、あなたが再確認する必要がないと思ったなら3.まで飛ばしてください。
今やWEBでの作品公開は、電子化された過去の名作や現代の人気作と同じ土俵で戦うことになるため、無料公開しても「時間と電池がもったいない」と思われては不利です。戦略的に失敗に陥りやすいです。時事ネタについても個人の公開速度には叶いません。
ただただ露悪的な本はただただ露悪的で、熱心ではない、無駄なお金を出したくないライト層だけに消費されて消えていきます。私自身がそれを好んで読み、染まっていた時期が長らくあったために、それらの寿命が如何に短いのかをよく知っております。
外側に居ても内側に居ても不明瞭です。
その文化の多様さや精神性、変容の歴史を、長く迫害を受け分化してきた巨大宗教のようなものだと今の私は捉えております。
そうした点と、物語を見る目が肥えていることも含めて、漫画で描くには「気を付けるべき題材」であると考えています。
今回の作品「腐女子カースト」にはエッセイというジャンルが振り当てられています。
もしも仮にあなたが「作品ジャンルが実録エッセイなら、ヤマ・オチ・意味のない物語でも成立するのだ」と考えているのであれば、それは読者への甘え、ひいては全てのエッセイ作家への侮辱となることでしょう。
そのように考えて行動した時のリスクを、自身のために想像しなくてはいけません。
エッセイとは自らを省みる内観であり、自らの魅力でもって読者を個人的生活に惹き込むものです。『私小説』『ドキュメンタリー』『ノンフィクション』に連なる伝統的なジャンルです。
そこに登場人物を増やすのであれば、名前を出さない通りすがりの人であっても、存在しない架空人物であっても、最大限に配慮しなければなりません。
エッセイ漫画は「画力が伴わずとも描ける」としばしば思われていますが、それ以外の部分での構成力と魅力を問われるものなのです。
エッセイだからと言って、醜い本音を受け入れてもらえると思ってはいけません。空費させてはいけません。
エッセイだからこそ『第一話』の初対面で『印象良く』見えるように、深く考えなければ、思った通りに読んでもらえないのです。
それは化粧にも似ています。化粧に作法手順があるように、漫画の第一話にも作法があるのです。
現実とずれた部分、主人公の欠落した部分、作者個人の主観があるなら、それもまた、納得を得て面白くするために、最初のフックの時点で、注意深く描写するべきなのです。
共感できる相手だけを狙って描くのも間違いではありませんが、共感できない者でも楽しめる工夫、そして+αで得る物が無ければ、買って読むまでもない孤独な見世物的な内容になってしまいます。結果的に長続きはしません。
誰もが作品をアップロードできる現代では、心の底からの叫びを見つめ続けた尖った『自主制作作品』が作者本人の手によってすぐに届けられるのです。それと競争することを考えても、エッセイはますます難しいジャンルになっています。
足すべき部分は足し、引くべき部分は引かなければなりません。本当に面白い漫画はたったの1コマでも、読者を満足させるのです。
技巧や経験とは必ずしも正比例しません。作家が描くべき時に描いた時に輝くのです。
面白くないと感じながら、面白くないと言われながら描くのはとてもつらいことです。それは作家がするべき我慢ではありません。感覚が麻痺してしまいます。
最初から捨てるつもりの名義だったとしても、それを描いたという傷は全人類が記憶喪失でもしないかぎり一生描いた本人に残ります。
本当に面白い作品で、届くべき人の所に届けば、口コミで売れていくという強みが電子書籍にはあります。
そのためには、読者の目を甘く見てはいけませんし、読者の声を額面通りに受け取らないように注意すべきです。
作品と作家が自由であるためには、正しい戦略を立てなければ、生き残ることは難しいのです。
作品内の第一話、即売会イベントへ向かう電車内で、ノーメイクの女性二人連れに主人公が心の中でツッコむシーンがあります。
この時の主人公の思慮の浅さは、エッセイ漫画としても致命的ではないでしょうか。
表情や服装から即売会という目的地を同じにしていると確信しているからこそ、ノーメイクの女性を「同志だ」と確信して、その気を抜いた姿と能天気な様子に、イベントへ向けて気合いを入れて来た主人公は憤慨しているのかもしれません。
しかし、続くコマはただただ妄想の中で、相手が言いそうな言葉を言い訳だと否定し、持論を展開するだけで、相手のことを考えていません。
取材力・想像力ともに範囲が充分でありません。狭いのです。自分の中で完結してしまっています。
たとえば化粧を禁止されている、お小遣いもギリギリの学生かも知れない。
遠征で電車や高速バスが遅延して時間がなかったのかもしれない。
身バレの可能性があり、恥を忍んで素顔に近い顔で来たのかもしれない。
経済的に苦しくて、自分に合う化粧品やファッションに出会えずにいるかもしれない。
家庭事情も経済事情もさまざまです。また、障害を持つ場合もあります。
化粧をしない理由はそれぞれです。
それぞれが努力によって対策可能だったとしても、皆がそれを完璧にこなせる訳ではありません。
私が考え過ぎで、素顔で出歩くことに特に理由がない人もいるでしょう。普段から化粧をする必要がない仕事に就いているのかもしれない。それを「ろくでもない仕事」だと考えることは職業差別です。
もしかしたら彼女達は「ノーメイクで行く」という行動と、互いの美醜を互いにイジらないという暗黙の了解によって、目に見えない友情を確かめあっているのかもしれません。私はそれを尊いと感じます。決して馬鹿にはできません。その感情に、外見も性別も関係ありません。
素顔で出歩く女性を、腐女子というだけで見下してしまうのであれば、もしも、彼女達が会場前の駅に降りず、手前で降りたなら、あるいは過ぎ去ったならどう感じたでしょうか?
腐女子について話すためにここまで考えなければならない理由がわかるでしょうか?
「格好がバラバラな集団がいたら高確率で腐女子」という有名なネット上の言説があります。これはオタバレの指摘でありながら、腐女子文化を捉えることができる好ましい例なのです。
化粧やお洒落そのものが大好きで趣味とする女性は居ます。それと同じくらい、化粧とお洒落をしない、できない女性は決して珍しくありません。この二者は普段の生活では交わらない存在です。それでありながら、ただ「腐女子」「オタク」「アマチュア作家」であるというだけで、同じものが好きというだけで、SNSや作品を通して同志となり話し合えるのです。
本当に「腐女子カースト」は存在するのでしょうか。色眼鏡をずらして、少し観察すればわかることです。実際に腐女子の集まりを見て、外見の美しい人にそうでない人が付き従ってるように見えましたか?
なぜ、かような形で消化してしまったのでしょうか? なんのフォローもなく、嘲笑して終わってしまったのでしょうか?
私は想像力が狭いまま物を作り続ける人間に対して「そのままでは続けられないよ」と教える以上のことはできません。
想像力を鍛えるには『違う価値観』と対話しインプットしなくてはなりません。他人との会話でもいいです。怖いなら文学でも好きな漫画でも、アニメ、ドラマ、映画、音楽。なんでもいいです。時間がある時に良質だと思う作品に、幾度も視点を変えて触れてみてください。でなければ、他人を知ることが出来ず、それゆえに自分を正しく見つめることも出来ず、自分だけの世界に閉じこもってしまいます。
インプットをしないまま作品を描けば、描くほどに、ただ自らが傷つき続けることになるからです。
また作者は最低限の身嗜みを礼儀と捉えているようですが、その最低限ラインも上記の理由で人それぞれだと想像できなければなりません。好みの服装もそれぞれ、地域文化、仕事もそれぞれです。
主人公が綺麗でかわいいと感じた『神』の多くも、自分や買いに来た人の姿を気にしていません。コスプレイヤーだって、キャラに入っていない時の自分の姿は出来れば注目されたくないのです。懸命に作って共感を求めた作品ではなく、日常の延長で作った「最低限の礼儀」の姿を褒められても、彼女達は嬉しくありません。そこがそういう場だからです。
腐女子やオタクが「恥ずかしい趣味だ」という感覚も最近では少なくなってきています。
オタク向けのイベントに行くなら、張り切ってグッズを身に纏って「オタクの姿」をすべきだと判断する人もきっといるでしょう。それもやはりその人なりの身嗜みなのです。
またイベント外なら、服装の奇抜さだけでオタクかどうかを判断する材料にはなりません。ゴスや原宿系等、日ごろから周りに迎合しない、自分自身を出したお洒落を好む人々が存在します。似合うか似合わないか他人の判断基準で彼らは服を選びません。オタク文化と重なる部分も多いですが、その文化をオタクと一括りにするのは、私は違うと思っています。
そもそも即売会は『交流』のためのものです。街の本屋さんとは違います。売り手と買い手の信頼で構成された、本来は技術の見本市なのです。この辺りは運営委員会のガイドラインなどにも書いてある範囲でしょう。
会場において相手の姿を気にする時間はありません。イベント会場はまさしく「戦場」なのです。時には顔すらも覚えておりません(これまで自分のスペースに来てくれてる方、すみません)人気壁サークルでなくとも、友人に頼んで売り子を立てる作家さんも居られます。
時間が限られているのに、車の試乗会で車を見に来たのに、同時にディーラーの外見をいちいち品定めしてチェックしますか?
自社のために技術を持つ小さな会社と契約したあとで、社長のブログに自慢が書いてあっただけで「そういえばあの社長不細工だったな、嫁さんも不細工だろう」などと、いちいち思うのですか?
それらを書いた冊子を、彼らの職種を冠したタイトルで売ったらどうなるでしょうか。
まさにそれこそ、礼儀を欠いた行動ではないでしょうか。
表現の自由の下であっても、不快になった当事者には怒る権利があります。
ここまでの説明によって第一話のあの一連の流れが如何に的の外れた低俗な「笑い」であるか、理解できたでしょうか。
ありとあらゆる多様な価値基準を無視して、己が良しとするものだけに迎合する。そこを頂点に据えて妄想の中でカーストを構成する。
腐女子を冠して発表するには、あまりにも浅く、無防備なのです。
そして、何分の一か、ほんの一部だけ、この作品の主人公のように他人を品定めしてしまう人間も、腐女子は間口が広いがゆえに存在しているのです。
主人公と同じ悪意を秘めた女性達は、この作品を読めば共感するでしょう。
ひっそりと楽しんでいた人もいたのかもしれません。
しかし、この「腐女子カースト~底辺同士のマウント合戦~」はつい最近、無料公開分がツイッターに投稿されました。現在はアカウントごと消滅しております。
広範囲の誰もが評論できる場所に出してしまえば、本を共有してしまえば、彼女達の罪悪感を無理矢理抉り出すだけの結果になってしまいます。
安易な形で発表し、コントロール不可能な批判を浴びたことによって、彼女達は愛想笑いを続けて、怒れる友人と一緒になって作品を叩かなければいけません。作中で一般人に擬態する主人公のように、怒れる腐女子としてその社会の中で信頼を維持しなければなりません。腐女子という世界の中にカーストが存在しなくても、社会は存在しています。愚痴垢や捨て垢で陰口を叩いて共感しあうのとは全く違います。
そうして作品を叩くうちに作者を、版元を本当に憎悪していくか、あるいは交友関係を切って何もかも忘れてしまうというような極端な行動しか取れなくなります。
作品は、発表の仕方まで気を使わなくてはいけません。これもまた貴重な顧客を失う『失敗』なのです。
この主人公のように、見た印象だけで人を判断して遠ざけて来た記憶が、私にもあります。作家デビューした相手に嫉妬したこともありました。自分と交わらない人間の人生を、いかに踏みにじってきたのか。それを考えるたびに私は後悔と反省を繰り返しています。
はてな民にとって、すでに常識となった「睡運瞑菜」。言葉の通り、これは四つの生活習慣の総称である。
宣教師の際立った存在感のおかげでネタとして消費されがちであるが、これらが現代の厳しいストレス社会を生き抜くために極めて効果的であることに疑いの余地はない。
一方で、これら全てを実践することが容易ではないこともまた事実である。
ここでは、私がいかにして「睡運瞑菜」を実践してきたのかについて話したい。
私個人は比較的ロングスリーパーであり、経験的には、少なくとも8時間の睡眠が確保できなければ明らかに仕事の能率が低下する。過去に1日6時間睡眠を続けた時期もあるが、金曜日には体力を消耗しきってしまい、まともに仕事ができない状況になってしまっていた。
また、長年にわたる学生生活 (入学から博士を取るまでに9年) での不摂生の結果、午前中には強烈な眠気が襲い、夕方から目が冴えてくるという体質になってしまっていた。
職場は裁量労働制で残業代が出ないこともあって、夜中までだらだらと職場に残って仕事をするのが日課になってしまっていた。
以前は、裁量労働制であるにも関わらず、上司に気を遣って定時出勤を厳守していた。
上司は早い時間に出勤する生活習慣を取っているが、私までそれに合わせる必要はないと思うことにした。
その結果、朝ゆっくり寝て昼前に出勤し、夜は遅めの時間に帰るというペースを確立した。
上司は内心では快く思っていないようだが、それによって不当な扱いを受けるということはなかった。
どの道、以前の働き方では午前中の能率が低すぎたから、寝ていたほうがマシなはずだ。
仕事はデスクワークであるため、普通に家と職場を往復しているだけでは十分な運動時間を確保することは難しい。
出不精な私にとって、ジム通いを続けることもハードルが高い。ジムでの運動が嫌いなわけではない。まともな人には理解できないかもしれないが、受付の人とほんの一言や二言やり取りするのを想像するだけでも、心の中に忌避感が充満するのだ。
新たにスポーツを始めるのも難しい。昔、嫌々やっていた部活なんて思い出したくもない。
そもそも、私の特性上、他人と関わりを持たねばならない習慣は中々続かない。完全に個人でできるスポーツというのも限られている。
そういうわけで編み出したのが「通勤の中で運動時間を確保する」という手法である。
基本理念は非常に単純だ。
雨の日も風の日も、とにかくこの二つをひたすら厳守して生活する。これにより、毎日およそ10kmを歩くスタミナ、加えて、階段を上っても息切れしないほどの心肺機能を手に入れることができた。
また、明らかに睡眠の質も向上し、以前よりも精神が安定し始めるなど、多様な効果が得られたように思う。
「睡運瞑菜」の中でも、何をすれば良いのかが一番分かりにくいのが瞑想ではないかと思う。
瞑想を行う目的は、はっきりとしている。現代人はとにかく脳 (心と頭脳) を使いすぎているのだ。
暮らしのこと、仕事のこと、たくさんの心配事でいつも頭が埋め尽くされて脳が疲れ切っている。
心配事から気をそらすために、スマートフォンを握りしめ、さらに過剰な情報を疲れた脳にぶち込んでいる。
こんなことをしていては、脳が「壊れて」しまうのも時間の問題だろう。
目に見えて「壊れる」という状態にまでならなくても、いつでも頭の中はネガティブな思考が充満していて、まともな幸福感が得られなくなっている人は多いのではないだろうか。
とにかく、脳が疲れているのだから、休ませないといけない。
脳を休ませるにはどうすれば良いのか。様々な手段があるだろうが、私はマインドフルネス
という概念に着目した。
Wikipedia の記述にある通り、マインドフルネスとは「今現在において起こっている経験に注意を向ける」ことである。
これは特に、ネガティブな思考を何度も頭の中で繰り返してしまう「反すう」や,頭からこびりついて離れない「心配」を減らす効果がある。
私個人は非常に心配性であるし、幼い頃から、過去の嫌なことをひたすら「反すう」する癖がある。
学生時代、研究の成果を学会で発表すると周囲から褒めてもらえることが多かった。その日はすごく気分が高揚して、自己肯定感が急上昇したように錯覚する。しかし、次の日の朝に目が覚めると、胸の中には既にネガティブな感情が渦巻き始めて、一週間もすれば朝の目覚めが最悪になる。
ポジティブな経験をすると、ほんの一瞬だけ気分が良くなるが、その後、楽しい気分は指数関数的に減衰する、というのが経験則だ。とにかく、「睡運瞑菜」を始める前は、メンタルがいつもズタズタになっている状態だった。
脳というのは非常に創造性の高い代物になっていて、放っておくと、蓄えられた膨大な記憶や刺激をもとに、極めて雑多で有害な情報を次から次へと生成して人の精神を蝕んでしまう。
そこで、1日にほんの10分程度でも、過去の嫌なことや将来の心配をすべてシャットアウトし、無理やり今現在という限られた対象に注目させる時間を取る。
PCをつけっぱなしにしていると、どうしてもメモリにはゴミが溜まっていく。そうすると思わぬ不具合が出始める。
こういう事態を避けるために、再起動 (リブート) が大事であることはもはや常識ではないかと思う。
経験上、睡眠だけでは不十分だ。睡眠中、脳はここぞとばかりに創造性を発揮する。夢の世界に浸るのは愉快かもしれないが、それだけでは脳はゴミにまみれたままだ。
1日たった10分で良いのだ。難しい話ではあるまい。
私のように家事の苦手な人種にとって、最大とも言える難関だったのがこれである。
長年、コンビニ弁当やスーパーの惣菜に依存しきった食生活を送っていて、お世辞にも栄養バランスが良いとは言えない状態だった。
そもそも、手軽に購入できる食事は、栄養価が炭水化物や脂質に偏重していることが多く、十分な量の野菜を摂ることは難しい。
昔、自炊をしていたこともあるが、あれは学生時代に時間が有り余っていたからできたことだ。私のように手先の不器用な人間は、野菜を切るだけで1時間以上かかるのだ。食後の洗い物も苦痛だし、やはり不器用なので時間がかかる。
私のスキルでは、仕事をしながら自炊をするなんて不可能に近い。
そこで、どうしたのか。
相手は5歳年上の家庭的な女性。健康と栄養に詳しい医療系専門職。
(信じがたいことに) 家事が大好きで、私とは比べ物にならないスピードで家事をこなしていく。
職場に不満もあったようで、結婚と同時に退職。今は専業主婦をやってくれている。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/0000041824.html
……完全に他力本願であるが、こうやって「睡運瞑菜」を実践する環境が整ったわけだ。
あ、ちなみに瞑想の項で私自身の実践方法を書き忘れましたが、毎日、妻と無言でハグする (甘える) 時間をとって、マインドフルネスしてます。
めっっっっちゃくちゃよかった~~~~~~~~~~…そうかっ……そうだったのかっ……!!!!!!
アクセサリーも食器も魔導アーマーも文房具もメーベルもお菓子もある…だが、そのうちの一つは“今”消える~~~~~~~~~!!!
たまらぬえ~~~~これこの地に満ちる生命全て手作りなんですか……子供でも知っているおとぎ話だ!!??…それは真か?すげ~~~~~~~~~~
伝説のモチーフをシルバーアクセにする発想力……ば…化物……め!!!!!!て、て、天才~~~~~~~~!!!――つけあがるなよ小僧!????
浅知恵を練って、『彼女』の描いた夢に起こして、神のパズルを仕入れて、永久の時を創造<クリエイト>して、イチからマテリアライズして、ファイナライズさせたの!!!!1…その情報、本当だろうな???こ、こ、行動力の騎士王ケシェン~~~~~~~~~~~!!!!??????
しかも!!!!???みて!─!どうだすごいだろう!暗闇に沈めぇ!?????この低防御力な作り!!!!!!!絶妙な魔力属性!!!!!!!心地よい聖域に生まれし獄炎(ほのお)手触り!っ!!!!!!『真理に到達』された仕上がりッッッ!!!!!!!・・・・・・・福音に満ちている、ガーオの王子を呼んでくれ(目の前にいる…しかし、その裏では、かつて自分を裏切った兄が、暗躍していたのだ…)
とあなたの心に語りかける流れをどのサー・クルシ(サー・クルシって預言書にも書かれているのか?)たとえこの手を汚してでもやってしまう。(クソ”招かれざる者”)
自分が手先爆裂低クリティカル率下等な人間だから、ハンドメイド品を錬金術って云うのが…それは誰も知らない御伽話……神。
その戦いが終わった後ハンドメイドのマーケット(ハンケ……だと?)に申し込んで、神界<アトラクタフィールド>、世界が光へと導かれるまできて、セツァイェ・インして、永遠の虚無に立って手売りを封印している闇の力するのがさらに神。
趣味で『錬金術』活動してるオタクだけど、もともと即売会の邪気が好きだからめちゃくちゃ楽しかった~~~~~~~
同人誌即売会よりサークル三千世界の主さんが営業してくれる人が幾星霜、作品のコンセプトなどという製作過程の譚とか、同人誌で言うと神々の教えみたいなことが創造神…預言書にはそうあるから直接聞ける!!!!すげ~~~~~~~~~~
みんなファンドゥメインドゥ好きなんだな~~~~~~~~~って破壊と創造の世界してしまった。自分も萌えが高じてアカシック・レコード創成したりするから、同質の好きエネルギーを知覚<カン>じて神々しくフォームチェンジした。営業が消極的な創られし物でも、等価交換したあとすごく丁寧にお礼言って……ど・ろ・ぼ・う? 俺を呼ぶならトレジャーハンターと言ってくれたりする。
資本主義社会において、何かにお金を償うことはその力を肯定破滅へ導くコンテンツが含まれると思ってるので、上記のような真実に耐えきれず精神崩壊とか作品にめちゃくちゃアニマ同調率を感じてることとかが、サークル主の野郎に冥府の神が、その手に掛けた者を思い流す涙程度でも伝わってたら許可するなー
戦友に誘われて初回プレイ行ったけど、それでも僕は…!存分に味わってよかった~~~声かけてくれて蜜果サンキュー好敵手~~~おとめのキッス
オタクのノリで購入後の感想を”供給者”大皇帝に送ろうとして、ハンドメイド界隈ってェ神の言葉送り合う文化あんのか?とコシり、闇に葬られし煉獄の黙示録にしました。ハンドメイド界隈で預言リヴァースするのってどうなんですかね?
あと、クレカクェッサイを導入してる旅団さんが多いのもファイナルファンタジーという文化の違い感じた。手元の血の代償なくなっても買えてしまうの、普通にやばい。服を着た物欲になって…畢竟、その一つ事への拘りが炯眼を曇らせた。
なんだか最近趣味と呼べるものが、風俗に行くことになってきた。昔は本を読んだり、何かを創ったりそういうものを楽しめていた気がする。思春期より今のほうが性欲に流されている気がする、どうして。
お金を知的なことや創造的な趣味に向けられたら、人生はもっと豊かになるだろうに、ついつい刹那的な快楽に流れてしまう。
さて、風俗に行ったらここにメモを残しておくことにしている。戒めだ。
今回は3連休の旅行のついでに、地方の風俗でマッサージを受けてきた。もちろん、性的なやつ。
これまでマッサージ系は受けたことがなかったので、どんな感じかと思って試してみた。しかしながら結局ソープなんかと同じくらいの値段を払うことになり、そんなに大したものかと思うはめになった。受け身な男性にぴったりとかなんとか、そんな広告に反応した。
風俗のお姉様を選ぶときには、ネット上の情報から最大限用心深く絞り込んでいく。第一に髪型はストレートで黒髪がいい。第二に身長は低くて貧乳がいい。第三に女性は責め系がいい。そんなふうに条件をつけていくと、当然そんなお姉様は存在しない。どれかを妥協しなければならない。妥協し、決断を迫られるこの瞬間が一番嫌いだ。限られた予算で新しいPCを買うときのような気持ち。泣く泣くグラボのランクを落としたり、ケースは再利用しようかと悩んでみたり。嫌いだけれど楽しいからやめられない。
今回のお姉さんは条件は全部忘れて、限られた情報の中で一番写真から容姿が推定できそうなのを選ぶことにした。
会ってみれば、推定40歳くらいの美熟女であった。あえて例えるなら熟女と化した新田美波で、もう少し現実的には庶民的な加藤綾子という感じ。たぶん、客観的には綺麗なのだろうが、結局緊張していてうまく理解できなかった。茶髪でまとめられた髪質は歳相応で、ホテルの証明に照らされてほうれい線やら目のシワをみつけては、最近熟女モノAVもイケるようになった自分が誇らしく感じられた。身体はよる年波に全力で対抗するがごとく、引き締まっていた。胸はもめる程度であり、腰はくびれていた、その下に据えられた尻は大きすぎない程度にどっしりしていた。しかし、上からの強いライトが作る細かな陰影が、肉の質感を強調させ、もう若くないのだと教えてくれた。なるほど、このデティールに気づけるのはAV鑑賞では得られない恩恵だった。
地方の風俗店は情報が少ない気がする。みんなそんなに容姿にこだわりなくご指名してるんか?
お姉さんはプロフェッショナルであった。淡々と仕事を進めつつ、気遣いして話しかけたりしながら作業を進めた。ベットに横たわると身体のウラ面からマッサージが始まり、全身優しく揉んでくれた。ああきもちい。裏返されたらもうマッサージは終わり。乳首を舐めなめされた。ヌメッとした舌が乳首を絡めとっている。いま乳首が凄く敏感なのだと気付かされる。睾丸をわさわさする、それはとてつもなく気持ちいい。でも最後には射精へと収斂してしまう。お姉さんは自分でアレをしごいてみろといい、私が手を動かすと、「いつもこんな感じでオナニーしてるんだ」と耳元で囁いてくれて興奮した。耳元で囁かれて、最旬的には射精した。
なんか耳舐められながら射精することがノルマみたいになってる。前回のお姉さんと今回のお姉様は年齢的にはいい勝負かもしれない。前回のお姉さんはウエストはだらしない感じでそれがそれで興奮要素だったし、おっぱい揉んだらシリコン感を感じてしまうサプライズがあった。そして即即でぼくの犯されたい願望をほんのチョットだけ叶えてくれた。そういう意味では、今回は美熟女が淡々とお相手頂いたということになる。よろこんでいいはず、もっとよろこんでいいはずなのに、何かが足りない気がする。なぜ?いやいやコレ以上な何もないよ
マッサージは少し身体が楽になった気がする。全身をくまなく触られるのは気持ちいいけど、払ったお金を考えると割に合わない。広告にウソはなかったわけで過度な期待をしていた自分を攻めている。
お姉さんは努めて丁寧に接してくれたのだろう。いつも通り何を話したら良いのか分からなかったのは自分の責任だ。毎度のことながら、お姉さんにはありがとうの気持ちしかない。
何が嬉しいかって、これからはマッサージものAVを見て実体験と重ね合わせて興奮できるんだよ!
あーやっぱ