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はてなキーワード: 冬休みとは

2023-05-23

anond:20230522003705

昨日書いたこれ読み返してて思い出したのが、2008年って相対性理論ブレイクした年なんですよね…。

鮮やかなオレンジ色の西日を浴びながらお姉さんと勉強してたときも、泣きっぱなしだったコミケ帰りの車内のラジオでもLOVEずっきゅんが流れてたし、冬休みオフ会カラオケで私が歌ったのも地獄先生だったし。

聴けばすぐに各々の思春期の頃に呼び戻してくれるようなあの甘ったるいメロディと、私のちょっと歪んだ甘々な青春が同時代クロスしていたと考えるとやっぱりエモいなあ…。

2008年のあの頃、ラジオ普通にボカロが流れてて曲が流れるたびにDJの皆さんが一生懸命ボカロとはなにかを解説してて、雑誌やら友達経由で色々知識を得ていた私は「ほうほう、大人のくせになかなかわかってるじゃないか、すげー浅いけどw」みたいなノリで聞いてたのを思い出して耳がカッと熱くなるような思いですが、翌年末頃にけいおんが密かに流行りだして、私が高校進学したときに二期が始まって、その頃にはうちの学校にもけいおん部作ろ!って声が全国とは言わないけどかなりの広範囲で広がって、うちの高校軽音楽器部っていうのが出来て。

自惚れた私は澪ちゃんに似てるからって自分で言って、まあ髪型とタッパだけ似てるかなって他の子にも言われましたけど、うちに結構いいベースあるからってアリアプロSB-R60ブラックフィニッシュを持ち出してベース担当になったのは思い出したら懐かしくてウルッときましたけど、あのベース音量がやたら小さくて現代ロック音楽には不向きだとだけ言っときます。あと卒アルライブ写真で集中しすぎて変顔してる私の写真クラス中どころか実家でも笑いのネタになって今でも思い出すと耳が熱くなる思いなんですけどあのとき軽音部は本当に楽しかったな…。DTMとかQY-100で曲作ってくれるピアノ得意な後輩も入ってきてバックトラックに合わせながら演奏合わせられるようになって、卒業とき芸祭はお姉さんに教えてもらったギタリストバケットヘッドさんのbinge and grabとかnight of the slunk、sooth sayerとか部員の皆に聴かせて私こんなんやりたんやけど!って言ったら歌無いのやばくね?って拒否されて、結局私の第二候補のtommy heavenlyのim your davilとそれのパクリみたいなオリ曲になったり。まあどっちも名曲ですけどね!!!

ボカロ曲も考えたけど誰もあんなん歌えないし諦めましたよ、もう!

私が一番好きなクローバークラブなら自分でもベース弾けて歌えた(当時)けどあの曲マイナーやし!

あと1/6の夢旅人候補に上がったけど兵庫県民は基本水曜どうでしょう知らんねんて!

ただロシアリアルミクちゃんがこないだローリンガール完璧に歌っててまじビビったし、あの子高校の頃に軽音部組みたかった…。wowakaさんの曲全部すき…。

高校の頃はあんまり絵描かなくてこんなことばっかしてたけど音楽スキル身につけられて有意義じゃんと思ったけどさっきベース引っ張り出してちょっと弾いてみたらもう全然指動かなくて笑っちゃった!!スラップとかぜったい無理!

やっぱり何事も毎日練習♪ですね。

んでベース弦死んでるから変えようかなって検索して買おうとしたらとんでもなく値上がりしてて倒れそうになりましたよ。4弦で3500円ってどゆこと???

2023-05-22

魔法のiらんどとかフォレストページとか携帯イラストサイトの思い出

時折、ふと思い立ってPC画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作アナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。

私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像ソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。

もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。

そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春記憶を今、絶妙嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。

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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。

そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…

5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。

さすがに身長の高さゆえか男子女子わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから別に親は悪くないんですけど。

そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリ日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。

当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトリンクランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品一目惚れし、その方のサイト掲示板初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。

コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼け少女油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。

もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。

しばらく固まった。どう返信していいかからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルジャンプしてガッツーズしましたよ。

そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。

春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに費用がね…。

そして中学最初夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。

隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作現場だった。部屋中に飾られた素描水彩画、見たこともない大きなカルトンイーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD

やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。

ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。

うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメ漫画とかミギーイラストとか、他にもボナールとかセザンヌかいろんな画家画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。

ただね、この人近いんすよ、距離が…。

ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。

で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。

そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!

その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルチェックインしました。

そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居紅葉、月夜と和服女性モチーフに厚塗りリアルタッチ作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症ゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。

結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。

そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首タッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。

俺は限界だと思った。お前首絞めて殺すぞこの悪霊め。

帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察通報すればいいとか言い出しやがって。

で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。

その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトアクセス私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。

そしてサイト掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。

大阪カラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。

そして図々しくも来年夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。

でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中セクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。

SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくそ理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのとき快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私は来年東京就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたか感触ギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。

でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッ彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。

その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。

その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterpixiv活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。

2023-05-04

嘘のドラえもん

子供のころ、ゴールデンウィークとか夏休みとか冬休みとか、長い休みの時期になると『嘘のドラえもん』がよくテレビで流れてた。

嘘のドラえもん子供自分がみても明らかに藤子F不二雄の絵ではなく、もちろんAでもなかった。

自分はこの嘘のドラえもんが好きでビデオに録画して何度も観ていたのだけど、あるとき親がそれを知ってビデオを全部捨ててしまった。

長期休みになると嘘のドラえもんも思い出してまた観たくなる。

2023-03-26

障害児持ちの親御さんは健常の子にもちゃん心のケアをしてあげて

「殺してしまう…」「気がつくと妹の上に馬乗りに…」両親のきょうだい差別に苦しんだ20代長女が出した解決策と母に現れた「救い」

https://gendai.media/articles/-/108080?imp=0

関東在住の露木実湖さん(20代・未婚)は、2歳下に重度知的障害自閉症を持つ次女、9歳下に三女がいる3人姉妹。両親は、露木さんが上の妹から受けた被害を訴えても、「お前が悪い」と露木さんを怒る。そのため露木さんは、「上の妹を“えこひいき”している」と、両親に憤りを感じていた。

やがて露木さんが小学校に上がると、学校では一部の男子からいじめられ、母親相談しても「気にするな」と一言。やがて下の妹が生まれると、母親は幼い下の妹にかかりきりで露木さんに目もくれない。さら父親からは、虐待とも思える仕打ちを受け続ける。

2016年3月、露木さんが高校卒業するお祝いに、家族東京ディズニーランドへ出かけた。もちろん旅行は上の妹も一緒。楽しみにしていた露木さんだったが、旅行中、上の妹が手がつけられなくなるほど喚いて暴れ、他人の目が気になってしまい、心から楽しむことができなかった。

2018年12月年末年始特別支援学校冬休みに入るため、上の妹も家にいた。夜になると、露木さんはリビング家族テレビを見ていた。そんな大晦日事件は起こった。

ちょうど露木さんが楽しみにしていた番組が始まったタイミングで、上の妹が甲高い叫び声を上げながら暴れ出したのだ。当時、露木さんは20歳大学の実習についていけなくなったため中退し、通信制大学入学して就職活動を行っていた。

そんな中、楽しみにしていたテレビ番組を観ることを上の妹に妨害され、その瞬間、頭の中でプツンと何かが切れた感じがした。気が付くと上の妹に馬乗りになり、上の妹の口を必死で塞いでいた。

もちろん、露木さんの上の妹に対する悩みや、学校いじめられているとき気持ちに、少しも耳を傾けようとしなかったのは、親として間違いだったのは確かだ。しかし、露木さんの就職先がなかなか決まらなかったとき母親がただ温かく見守ったのは、子どもの頃の露木さんに対する自分の接し方に問題があったことを認め、申し訳なく思い、露木さんと和解したいと考えていた現れのように感じる。

一方で、父親の露木さんに対する扱い方には目に余るものがある。叱るとき感情に任せて怒鳴るのではなく、子どもに分かるように叱る理由を伝えなければ、躾ではなくただの虐待だ。気分で子どもを扱ってきたために、露木さんは父親と一緒では安心して生活することができなくなってしまった。

露木さんは現在、上の妹を強く嫌悪している。その理由は、両親の子どもへの接し方に問題があったためにほかならないだろう。子どもの頃も、大人になってからも、きょうだい児を苦悩させている理由の多くは、その両親に原因があると思うのだが、どうだろうか。

きょうだい児は本当は障害児の一番の味方になってくれるはずの存在なのに、親の接し方が悪ければ逆に障害児を嫌悪するという本末転倒な結果になってしまう。

そうなったらやっぱり親が悪い。

きょうだい児に対しても、親としての責務をしっかり果たして欲しい。

2023-03-21

正社員よりもバイトのほうが理不尽だったなぁ

4月から正社員として働く学生がソワソワしている時期だね

僕も学生という身分が無くなって自分で働かなきゃならない責任感や、もしブラック企業だったらどうしようとか思って今時期は落ち着かなかった。

でも、結局正社員として働いたほうが、学生バイトもしなければならない時期からしたらだいぶ楽だったね。

もちろん人によっては酷いブラック企業に入ってしまったとかあるので一概には言えないが、

正社員としていくつかの企業経験していたんだが

学生時代に何個かバイトしていた時とくらべると、バイトのほうが酷い待遇だったなあと思う。

バイト学業を掛け持ちしなくていい

実家が太ければそういうことないけど、生活費を稼ぐために学校行ってないときバイトしなければならない人もいるし、バイトをしていないとき学業をしなければならない。

この掛け持ち生活はしなくていいのは良かった。

勉強してもお金になるしな!

僕は実家大学から近かったが、家は出てシェアハウスみたいに暮らしていた(実家を出てみたかたから)

あと、親は18超えたら学費以外何もしねぇって方針だったので、運転免許とか教科書代とか定期代とかは自分で頑張らなくちゃならなかった。

ひどい扱いは少ない

バイトは替えがいるからとおもっているのか、大体どこも酷かったぜ。

ファミレス

ここは結局面接でバイト落ちちゃったんだけど、いまだに燃えるような怒りを持っているんだよ。

面接に行ったときに、愛想よく笑顔面接を受けようと心掛けたわけだ。

ファミレスの客席で面接がはじまったんだが、バイトの人一人を同席しての面接らしいんだが、そのバイトの人がすげぇ不愛想で挨拶も返さない感じで

志望動機とか聞かれたから、「今までファストフードとかの経験があり、お客様と接する仕事はとくいなのでー」みたいな話をしたら、店長が遮ってきて「で、正月働ける?」って聞いてきて

僕は「正月実家に帰りますので、ですが冬休みギリギリまで働けますし、GWでも」みたいなことを言っている途中で「いや、正月働けない人はいらないから。はい終わり」って席を立った数分で終わったんだけど

店長が去り際に、「で、あん学生でしょ。ヘラヘラした受け答えでやってけるとおもってんの?そんなんでどこでも働けないからね」って言われて…

今までこの笑顔ファストフードバイトでも結構評判良かったのに、今までの経験をひっくり返されたことと、高圧的に一方的不合格言われたのにそんな最後捨て台詞言いやがって…っていう思いで

その日は家に帰ってマジ泣きした。鬼殺し飲んでマジ泣きした。

別の飲食店

ここはバイト受かったんだけど、ここは本店で合同で研修をやる制度で、そのあと、近隣の店舗見習いとしてホール仕事をした。

で、最終的に近隣の店舗のうちどこかで人が足りないところに配置されるので、そこの店の店長から連絡が来るので待っててって言われて

かれこれ10年以上たつけど未だに連絡がこない。

正直、すごい店長たちが高圧的で、このままやめたいとも思ったので、良いんだけど、

フェードアウトってどうなの

電話しようかと悩んだけど、「お前は使えないからどこでもいらないわ」とか言われたらもう立ち直れないと思ってあえて電話しなかった。

なお、レンタルビデオ店ですぐにバイトが決まったので大学卒業までそこでお世話になることになった。

レンタルビデオ店

レンタルビデオ店環境も人も良かった。売り場設計とかまかされたけど時給と拘束時間を考えれば、普通に今の仕事のほうが楽だわって思う。

ファストフード

高校から大学入ってちょっとまでやってたファストフード

世代いるか学校みたいな感じで楽しいというのがあったが、今思えば酷い。

人が足りないとき、7時から9時まで 12から14時まで 17から19時まで みたいに細切れに長い休憩を挟まれて、長時間労働を実現させられてたよ。

あるとき大学生のバイト母親がガンの手術があるので病院に行くことになったから、シフトに入れないということになったとき。手術終わったら来てっていう社員ね。人の心ないんかって思った。

別の話では、年上のバイトの人たちが、フリーターとして働いているんだけど、昔は別の会社正社員で働いていたと聞いた。

でも、店長が「やめないで…日曜だけでも来て…」っていってズルズルやってたら結局仕事に身が入らなくてフリーターになったっていってて、それが4人くらいいて。こわって思った。

他にも、僕の携帯をこっそりカバンから取り出して盗み見する大学生とかいたり、社員バイト女の子不倫をして閉店後の深夜の店舗SEXしたとか自慢していて、「こいつらやべぇな」って思ってきてやめた。

大体どこもこんな感じだった

友人の塾講師バイトは、給料不払いだった。

別の友人のファミレスは、ファミレス店舗撤退したらバイトは全員解雇だった。

そんなのに比べたら正社員本当に守られているし、なにより常識人のほうが多いか

2023-03-17

満員電車も恋しかったりする

数ヵ月前まで満員電車に揺られて通勤していた。ピークの時間絶対乗れないので敢えて30分早く家を出て通勤していた。そこから遅めの冬休みで今は山に囲まれているところに滞在してささやかながらのバイトをしている。通勤時間たったの5分。回りを見渡しても山しかない。ビルなんかない。この景色がすごく恋しかったはずなのに、もういいやとなっている自分がいる。

社会歯車として人間関係はクソだけど満員電車はつらいけど楽しい仕事で働いている自分が好きだったみたいだ。

復職まであと1ヶ月。

もう既に戻りたい。

きっと戻ったらまたこの山が恋しくなるんだろうけどね

2023-03-13

母さんがガンで死んだ(追記

から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟からなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。

ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。

医者から一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。

「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」

とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。

「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。

翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子

溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。

その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療検討しようということに。

母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。

程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。

実家家族帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。

副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。

「癌の専門医先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。

その道の専門医先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。

それでも、「やっぱり経験値が高い専門医先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。

細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」

とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。

あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。

ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。

改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。

これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してから状態改善しなかった。

母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。

この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。

妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャタイミングだった。

死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー東京結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。

12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。

ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。

足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。

そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。

母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。

急遽、仕事休み実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。

少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。

妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。

「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。

その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。

泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。

訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。

そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。

最後看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。

看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取り役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。

一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。

翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。

覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。

おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分祖父自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。

納棺ときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子ども写真を納めた。

短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで

葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。

夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。

翌日も葬儀火葬バタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。

母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。

それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。

その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。

母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。

当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。

そういえば、ウィッグ友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。

ウィッグ販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。

思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。

癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。

母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。

追記

たくさんの方に、暖かな言葉いただき、恐縮しておりますありがとうございました。

私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。

野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。

母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転ドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています

経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族介護+訪問看護体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場環境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかたこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。

なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード年金手帳マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係ほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います

長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。

2023-02-11

中学の時に勉強ができるようになりたかった

勉強ができる優等生になりたかった

教科書の内容に興味がなかったから、成績は悪かった

興味はなかったけど、定期的に読んでみたりした

でも全然からなかった

宿題は後からできるようになったけれど、それでも理解には至らなかった

大学生になってやっと勉強ができるようになった

教科書の内容を理解できるようになった

それでも一時間程度だ

予習や復習するにも大学の授業で精一杯

今は冬休み勉強して落とした単位を取るための勉強をしてる

多分一生優等生にはなれない

2023-02-10

小4の頃のたぶん冬休みに、習字で「初日の出」みたいな4文字を書く宿題があったのよ。

それでみんな普通に半紙を4分割で「初日の出」を書いてきたんだけど、何故か自分は縦に一直線で4文字書いちゃったのね。

全員分の習字教室の後ろに掲示されて、自分のだけ異様に浮いてて恥ずかしかったのを覚えてる。

やっぱり自分ちょっとおかしいところあるのかな?

一応この後の中学学力テストで学年一位も取ったことあるし頭は悪くないと思うんだけど。

2023-02-01

滝沢ガレソと中学高校時代同級生だったのでエピソードとか書いていく

滝沢ガレソこと滝沢ガレンこと滝ガレと中高と同級生だった

といっても同じクラスになったことはないんで、そこまで詳しくはないけど

ガレが通ってたのは名古屋にある某医学部受験に強い中高一貫私立校学校名は漢字文字

高2の夏にストパーかけるまで天パが酷くて常に髪型がボサボサだった。あだ名鳥の巣

電車通学だった滝ガレヤンキーに絡まれて髪の毛にガムくっ付けられたことがある

童貞卒業は高1の冬休み相手は同じクラスあられちゃん

高3のとき付き合った彼女と初めてアナルセックスしたら、相手が痛がって途中で抜いたんだけど、チンポに未消化のワカメがついてたらしい

気まずい雰囲気になったんだけど、彼女を笑わせるためにチンポについたワカメを食ったらドン引きされて即振られたらしい

当時から面白いやつだったよ

滝沢ガレソと中学高校時代同級生だったのでエピソードとか書いていく

滝沢ガレソこと滝沢ガレンこと滝ガレと中高と同級生だった

といっても同じクラスになったことはないんで、そこまで詳しくはないけど

ガレが通ってたのは名古屋にある某医学部受験に強い中高一貫私立校学校名は漢字文字

高2の夏にストパーかけるまで天パが酷くて常に髪型がボサボサだった。あだ名鳥の巣

電車通学だった滝ガレヤンキーに絡まれて髪の毛にガムくっ付けられたことがある

童貞卒業は高1の冬休み相手は同じクラスあられちゃん

高3のとき付き合った彼女と初めてアナルセックスしたら、相手が痛がって途中で抜いたんだけど、チンポに未消化のワカメがついてたらしい

気まずい雰囲気になったんだけど、彼女を笑わせるためにチンポについたワカメを食ったらドン引きされて即振られた

当時から面白いやつだったよ

2023-01-25

休暇が欲しいので予告している説

予告がほとんどなかった時代夏休み冬休み明けによく自決するというニュースが流れていたが、ここ最近はそれをせずに休暇を手に入れるために予告をしているのではないかという説がある

今日みたいな最恐寒波場合、むしろ休暇じゃないと危険なのに行かせようとしている時に有効だと考える人間も存在するかもしれない

こういう考えの人間を生み出した責任はあの冗談宗教にもあり、既にユーモアレベルを逸脱していると思われる

このためまずは少なくとも元凶(がんきょう)をどうにかしなければ止まらない状況にあるのは間違いないだろう

2023-01-07

anond:20230107162836

生活保護受給者医療費負担ないぞ。くだらねーこと言ってないでさっさと冬休み宿題片付けろガキ

2023-01-03

高校サッカー選手権高校野球ほど盛り上がらない理由

1.冬の開催である

これが結構諸悪の根源。まず寒い。今年は温暖なほうだが、1桁気温の中で観戦し続けるのは結構気力と体力を使う。他にもいろんな弊害を招いているが後述する。

2.分散開催であり、あっという間に終わってしま

冬休み間中に決勝まで進めるための策ではあるが、大会開催日数が7日しかない(今年は12/28,29,31,1/2,1/4,1/7,1/9)。そのため「積み上げ感」がない。

また野球のように同じ会場で毎日4試合も出来るわけではないため、会場をバラバラにせざるを得ない。その結果、会場に聖地感が薄い。

夏の甲子園甲子園京セラドームほっともっと神戸花園公園皇子山、わかさスタジアム分散開催していたらどうなっていたか。今のような会場のプレミア感はないはずだ。

3.その後のキャリアに繋がらない

1.の弊害の1つ。決勝戦が終わるころにはJリーグの各クラブの編成はだいたい終わってしまう。大学サッカーも推薦入学者は決まっている。そのため高校サッカー選手権活躍してもその後のキャリアに繋がらない。以前はわずかに高校サッカー選手権活躍評価されてプロ入りする事例もあったが近年は聞かない。頑張るのはだいたい選手権最後引退する選手である

4.進路が決まっている人は「怪我しないこと」を目標にしがち

逆に、選手権の前にプロ入りや大学進学が決まっている人は、そちらのステージの方で頭角を出すことが優先度が高くなるため、選手権は「怪我しなければ良い」となりがち。

古くは、韮崎高校時代中田英寿がそうだった。選手権の時点でベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)への入団が決まっていたため、選手権では手を抜いていた。そしてさっさと敗退した。

他にも当時オランダ行きが決まっていた宮市亮ジュビロ行きが決まっていた小川航基、セレッソ行きが決まっていた西川潤など、選手権で8割の力にとどめたプレーに終始し、その結果チームが早期敗退した事例は数えきれない。

全力を出して「大迫半端ないって状態になるほうがレアなのだ

まとめ:高校サッカー選手権を秋開催にしてはどうか

諸悪の根源の大半が「冬開催」なので、時期を秋にするのはどうだろう。

夏開催はあまり現実的ではない。サッカー場合炎天下だとパフォーマンスが落ちるし、何より熱中症リスクがある。

日程をどうするんだと言う問題があるが、平日夕方と土日を活用して、1か月くらいの大会にしてみてはどうだろうか。

そうすれば積み上げ感も出てくる。

追記

なぜ3日経ってからブクマが増えるのか。いくつかのコメントに反応する。

単純に天然芝グラウンドが耐えられないため。1日2試合限界だし、それを何日も続けることも難しい。土のグラウンドが良しとされる野球との違いはここにある。サッカー場の稼働率を上げられなかったり、たまに大きなスタジアムコンサートするとサッカーファン文句言う理由もこれ。

一昔前は確かにそうで「プリンスリーグにも入れないチームが日本一になってしまう」とも揶揄された。

しかし近年は高校サッカー側がかなり盛り返している。来年度の高円宮杯プレミアリーグ高体連チームの数がクラブユースチーム数より多くなったのが象徴的。むしろクラブユースは指導者コロコロ変わって質も良くない(監督経験のないクラブOB経験を積ませるような)ケースが多いとかの問題もあり空洞化してきている。明確にクラブユース側が優位なのはJクラブユース3チームがプレミアに居て、高体連チームは全て県リーグ以下という神奈川県くらいしかない。

俺も2022年のまとめ書きたかったけど最近のしか思い出せない

ぼっち・ざ・ろっく面白かった」

「デスストもらえて嬉しかった」

ぐらいまでしか思い出せんね。

3ヶ月以上前になると3年ぐらい前の記憶勘違いしてる気がして不安になってくる。

たとえばシン・エヴァとか全然前なのに「今年じゃね?」って気がしてくるし、シンウルトラマンを「去年じゃね?」って言われるとそうだった気がしてくる。

無理だー。

皆どうやって2022年まとめとかやってるんだろう。

やっぱそもそもの2022年事態を「最後にまとめるぞ」ってつもりで過ごしたのかな?

ブログとかやってたら振り返って一気にまとめるのとかも楽なのかな。

でもブログなんて週に1度更新してたら50件にもなるけど、いくら冬休みからって見返すか?

やっぱ最初からこそこそ「2022年俺の考えるアレのランキング」みたいなのを作ってたのかな?

トリコのフルコースみたいだね

2023-01-02

待ちに待っていた正月休みが終わってしまう。

結局何も進められなかった。

とある工場ゲームにどっぷりはまってしまった。

具体的には12/28の夜に買って、現時点のプレイ時間が43.9時間

年末年始連休中、一日平均10時間プレイしていたことになる。

ほとんどゲームに費やしていたんだな。

普段はできない大掃除とか資格勉強とかを考えていたのに。

まあ、遊んでいるときはわくわくしたし、

冬休み全体を通して、コロナインフルにかからなかっただけよかったと思う。

めぐりあい宇宙シャアモビルスーツ

冒頭でシャアザンジバルで追跡して、ホワイトベースをドレンのキャメル艦隊とで挟み撃ちにしようとするじゃん?

結局、キャメル艦隊シャアが到着する前にホワイトベースに瞬殺されてしまってその作戦成功しないんだけど、あのときシャアがもしも間に合って出撃するとしたら、そのときMSは何だんだっんだろうか?

という疑問を正月になったらなぜか思い出す。

昔はよく冬休みガンダムとかテレビでやってた、とかそういうのが影響してるのかなあ?

2022-12-31

【再掲(追記あり)】酒粕で作った偽物の甘酒を飲まされた思い出

失敗したな、と思う。

過去に書いてバズらなかった増田宣伝に失敗した。

まず『酒粕で作った偽物の甘酒を飲まされた思い出』というタイトル釣り増田投稿した。

投稿時の内容は以下のとおりである

正月が近くなると思いだす。

酒粕で作った偽物の甘酒を飲まされたことを思いだす。

子供の頃の冬休み祖母の家で飲まされた。

祖母の作った甘酒灰色に濁っていてアルコールショウガ匂いがしていて、見た目でも匂いでも変だった。

「何このへんなの」と言ったら周りにいた大人たちに笑われて、とにかく飲むように言われた。

飲んでみたら甘酒なのに甘くなくてまずかった。

「まずい」と言ったら「増田ちゃんまだ子供だから味がわからないんだね」とますます馬鹿にされた。

隣にいた母は「ふだん甘酒を飲まないから…」と嘘を付いた。

冬になると母は甘酒を作ってくれて、真っ白で甘い甘酒が好きだったのに、母は嘘を付いてその場を取りつくろったのがショックだった。

おそらくだが、あの時呑んだ甘酒酒粕を湯に溶いて作った偽物の甘酒だったと思う。

ショウガ酒粕の腐った匂いごまかすために入れてたのだろう。

漬物を付けるのに使うぬか床を飲ませるなんてひどい祖母だったし、祖母奇行を止めないその家族も狂ってた。

幸いにも祖母半年後に死んで、祖母一家との付き合いもなくなった。

酒粕を人に飲ませたバチが当たったのか、もしくは酒粕の常飲で健康を害したのが死因だと思う。

これは成功した。

半日もせずにブクマ10を超えて注目エントリ入りしたからだ。

[B! 増田] 【追記】酒粕で作った偽物の甘酒を飲まされた思い出

ブクマ数を増やしたいのならそのまま放置すればよかったが、そうしなかった。

あくまでも目的は、釣り投稿を利用して過去に書いた増田宣伝することだったからだ。

上述の雑な釣り投稿には全く思い入れがなかったので、投稿した増田追記して宣伝することに躊躇は無かった。

以前にも私は似た手法宣伝成功したことがある。

それは、『本物の果実酒が飲みたい』( anond:20221116225250 )という増田である

投稿して数日はトラバブクマも0だったが、『胸を揉みイチモツを触らせたのに挿入しない彼氏』( anond:20221124235952 )で宣伝することで100ブクマを達成した。

同じ手法踏襲することで、過去投稿して反応のなかった増田もバズらせられると考えた。

しかし、宣伝方法がまずかった。

宣伝のために元投稿の内容は全て削除して、過去に書いた増田を紹介する文面に変更した。

変更後の内容は現在も変えていないし今後も変えるつもりもないので、以下のリンクから読んでほしい。

『【追記酒粕で作った偽物の甘酒を飲まされた思い出』( anond:20221229104924

私が失敗したと思うことを以下に列挙する。


「手洗い・うがい」という言葉が嫌いだanond:20221214221620
ヘルスで生本番ってあり?anond:20221217151704
五円玉が好きだanond:20221221222649

宣伝たかったのは上述の3つの増田だが、ここまで悪印象が付いてしまったらもうバズることはないだろう。

これなら再投稿をした方がまだましだっただろうと考える人もいるだろう。

しかしながら、増田において再投稿をするのは無駄であると私は考えているので再投稿はしない。

増田を様々な方法で――リアルタイムだったり、時系列を追ったり、タグ検索したり――読む人のリソース無駄に消耗させたくないからだ。

それどころか、私は再投稿が嫌いなので[再投稿は甘え]カテゴリーで再投稿を指摘しているくらいだ。

増田の利用は失敗したと思っている。

投稿一時的とはいえ全て削除してしまたことには反省している。

投稿された増田が削除されて読めなくなるのは自分が嫌いなことなのに、宣伝に躍起になり自分がしてしまたことに後悔している。

この失敗や後悔を私の中だけで完結させるのももったいないと考えたので、ここに投稿する。

私が増田をする理由は、自身思想を伝播させるためである

無名な私がBlogTwitterなどをやったとて、バズって自身思想を伝播させることは困難なので、増田投稿は今後も続けるだろう。

正月だるい

正月もキビキビ動いて部屋の片付けなどしたいのだが、何か雰囲気的に、こたつ入ってみかんでも食べてテレビ見てなくてはいけないような気分になってしまう。

その理由はよくわからない(寒さと普段の疲れのせいなのか?)が、とりあえず、そういうわけなので、昔から正月が嫌いだ。

そういや昔は特に、親戚回りが苦痛だった(お年玉は親に、こちから出した分の相殺として回収されていた)。

同じくらいの親戚と遊ぶのも、友達が居ない自分には、気を使うだけでつらかった。

他人の家は当然ながら、私の部屋が無い。トイレの回数と時間が増えた。

あと正月は、食事時間が長くなるのも嫌だった。

おせちのうんちく(黒豆は云々とか)を聞いたり、親の前で今年の抱負言わさせられたりの苦痛

それに正月は、父親が長く家に居るので、部屋に戻りたいのに、トランプしたりして遊ばないといけないのも嫌だった。

そうか、その頃から、「正月はみんなで集まって、正月らしいことをしたりダラダラしたりしないといけない」みたいな習慣が刷り込まれたのだ。

それが嫌で、冬休みに入るのさえ嫌いだった(夏休みは長期に学校から離れられるし、父親も平日は居ないのでよかった)。

そして今は、実家に帰って正月を過ごす身となったが、それにしても、正月苦痛だ。

今は、年々と複雑度を増す実家の物を片付けたくイライラする中に、結婚の話をされてなおイライラ

未だに、おせちだとか餅だとか、何の感想もないのに、親の作った料理評価を求められ。

そばとかすき焼きとかも要らない。大晦日たって、24時を待たずに早く部屋で寝たい。

初売りも買いたいものは無い。それでも親に、テレビ特番ばかりでつまらんと連れて行かれる。

他人の買い物は苦痛だ。食い物や服など興味が無い上に、人混みでは耳がキンキンする。

それに比べ、コロナ禍で実家に帰らず過ごした正月は、資格勉強が進み、コンテンツ計画的に消化できて満足度の高い回だった。

正月だけでも実家に帰らないと親に告げて、これを何回か繰り返したい気分になったくらいだ。

しかし、正月はやはり重要イベントであり、夏休み帰省を忙しくて休みが取れぬとサボれても、正月帰省しないとは言い難い。

本当に、実家で過ごす正月だるい年末出勤のある職場なら、喜んでその任を受けたいくらいに。

こうして、スマホ無駄増田を描きながら何の意味もないテレビ特番を見るくらいなら、実家にあるものを全て片付けたい。

もしくは部屋でこもって、持ってきた文庫本でも読みたい。

上記は私の場合の一例だが、私にとって正月は、無駄に人々の連結を強化して、無駄にダラダラを押し付けてこようとするイメージがある。

その私が勝手に抱く圧迫感が私には駄目で、正月なんて大嫌いだと毎年のように思っている。

来年抱負は、私の持つそういう「正月観」の打開とでもしたいところだが、今夜にでもカバン持って実家を飛び出さなきゃ叶わないだろな。

良いお年を正月部分をスポイルした形で迎えたいと思う今日このごろ。

2022-12-30

うおおおーー!!!

この冬休みの間!!!!!!私のこと!!!!少しでも!!!!ほんのちょっとでもいいか!!!!!!考えてくれ!!ますように!!!!!

2022-12-29

冬休みに入ってから3日間で10回オナニーしてる

ちょっと異常だ。

普段の土日でも2日合わせて2回程度なのに。

仕事のためにエネルギーを残すという成約によってどれほど自生してきたのかが分かる。

凄いな俺

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