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はてなキーワード: 世界の中心で愛を叫ぶとは

2019-03-25

既視感

存在を知った当初から既視感を覚えていた3つの作品がある。


悪ノ召使

四月は君の嘘

世界の中心で愛を叫ぶ


どれも元ネタというか、よく似た話があるはずなんだが、未だに思い出せない。

それとも、タイトルから想像できる内容だった、自分想像の域を出なかったか既視感があったのか?

もう何年もずーーーっとモヤモヤしてる。

2018-07-22

世界の中心で愛を叫ぶ死ぬ

イケメン美女美少女しか結婚しない。そして生まれてくる子供も当然イケてる

 

ブスやブサメンはなかなか一緒にならないから当然数は減っていく

 

いずれ世の中はイケメンべっぴんさんだけの世界になるだろう

 

危険だ。イケメンしか感染しないウイルスが発現したらどうなる?人類は滅んでしま

 

から恋愛などという危険思想を廃止国民背番号マッチングアプリ活用して

配偶者を決定してしまえばいい。ガチャだ。好きだろ?

 

これで現代日本が抱えるありとあらゆる問題解決するよかったな!

2018-06-19

恋愛映画っておもしろいの?

失恋した足で今なら泣けるんじゃないか人生初の恋愛映画挑戦してみた。

世界の中心で愛を叫ぶ と 君に読む物語

いやー、死ぬほどつまらなかった。

これ、ありきたりじゃない?

唯一、君に読む物語キスシーンは凄い良かった。

とりま恋愛映画おすすめ教えてください!

2016-09-15

長嶋有「愛のようだ」感想

長嶋有の「愛のようだ」を読んだ。

感想を言う相手も書く場所もないので、ここに書くことにする。



作中で言及されている通り、登場人物が"ちゃんと疲れる"ロードムービーだった。

その手口は「水曜どうでしょう」に似ている。

どこで読んだか忘れたが「水曜どうでしょう」の面白さを分析した文章で、

「あれは出演者の"疲れて何をやっても面白い状態"に視聴者を巻き込むことで成立している」

的なものを読んだことがあるが、それを思い出した。


水曜どうでしょう」ばりの徒労と混乱とハイテンションを経て、"疲れているか面白い"、ではなく、"疲れているから感じ入る"。

作中一番の盛り上がり。第四話のラスト、「愛のようだ」という詩的(俳句的)でストレートで派手なタイトル言葉を、

語り手の友人がそのまま呟くという凄い場面。

ここは語り手も読者も、道中で疲れているからこそ、「愛のようだ」と、感じ入るのだ。



ところで、この作品の帯には

"大切なものを失う悲しみを、まっすぐに描いた感動作。"

"最初最後の「泣ける」恋愛小説"

という、なかなか凄いコピーが載っていたが、なるほど作者の「感動的な恋愛小説をちゃんと書こう」という気概を感じる作品だった。


まり主人公(=語り手)に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話なのだ

世界の中心で愛を叫ぶ」であり「ノルウェイの森なのだ

こうやって書くと何だか馬鹿にしているような感じになってしまうが、

何と言うか、本当に「主人公好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」をちゃんと書いているのだ。


作家が「主人公好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」を書くことが

どれほど恥ずかしい(照れ臭いことなのかわからないが、

その恥ずかしさから逃げることなく、と同時に読者が引いてしまわないよう配慮して、

手続きを踏んで、抑制の効いた方法で、その「悲しさ」がきちんと書かれていた。

とてもかっこいいと思う。


前述の友人が「愛のようだ」と呟く場面は、とても感動的でポジティブで素敵な場面だった。

が、そこで語り手はあくま第三者で、言ってみれば読者と似たような立ち位置だった。

友人が愛のようであることに気付く場面に(第三者的に)立ち会ったその余韻が残るエピローグで、

死んでしまった好きな人から最後メッセージを受け取る。

それは、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」を彷彿とさせるような、チャーミングで切ないメッセージなのだが、

そこで語り手に訪れる悲しさは、とことん「当事者になれなかった悲しさ」なんだと思う。



それと、この小説を語る上で外せないのが、全編通して大量に登場する固有名詞だ。

漫画アニメテレビCM映画、J-POP(歌謡曲? その辺の区分けがよくわからない)といった

サブカルチャーポップカルチャー(この辺の適切な総称もよくわからない)から引用べらぼうに多い。

作者は、以前からエッセイ小説内の固有名詞の使い方について論じたりしているし、

というか、そんな前情報がなくても一目見て明らかなくらい大量の固有名詞意図的意識的に使っている。


これが、例えばキン肉マンを知っている人に「ほら、キン肉マンだよ」とサービスするための符牒じゃないことは明らかで、

じゃあ何のための引用なのかと言ったら、キン肉マン自体を書きたいわけではなくて、

「会話の中ですぐに"そういうの"を引用する人(達)」を書きたかったんだと思う。(当たり前か)


世の中やら自分やらを見て把握して語るときに、ごく自然漫画登場人物ポップス歌詞

重ね合わせがちな人が(特にある世代以下には)たくさんいる。

それは、ふざけているわけでも遊んでいるわけでもなくて、その方が断然実感があるからだ。


フィーバー状態伊勢神宮に願掛けに行く、っていうふざけたような言い方なんかも、

切実な思いを実感のこもった正直な言葉で表した美しい祈りの言葉なのだ

長嶋有が描くそういう言語感覚は、読んでいて楽しいし、時にとてもぐっとくる。



最後に、この小説長嶋有にしては珍しくとてもマッチョ小説だったと思う。

「この人のこと女だと思ってたわ」作家で上位にくる長嶋有だが、

「愛のようだ」に関しては、知らない人が読んでも男の人が書いた小説だと思うんじゃなかろうか。

2015-05-16

純文学だって当時はラノベ扱いだったに決まってるだろ!!!

これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。

http://anond.hatelabo.jp/20150513013343

から今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!

あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。

本気ではないが、半ばそう思っているけれど。

俺はナルシストだ。

そして品がない。

育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちわからんデリカシーも無い。

そんな俺は映画で言えば『アルマゲドン』が大好きだ。

見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリー自爆間際の走馬灯とで3回泣く。

俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわから激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。

こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。

ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。

あとは気分で話題になってるのを読んだりする。

テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。

ラノベSFミステリも気ままに読む。

夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語教科書に載ってるような文豪作品も気が向いたら読んでみたりする。

まあ、ぶっちゃけこの辺は純文学の中でも娯楽小説に近いよね。

ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。

その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。

イリヤの空、UFOの夏』を読むと、

「ぼくは笑わない」

浅羽は、ねじり上げられた襟元の隙間からそう告げた。

榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。

「なぜそう言い切れる」

その説明は難しかった。浅羽は言葉を探して、

「ぼくは、あなたのことが嫌いじゃないから

何度読んでもここで泣く。

これこそが文学だと思う。

さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。

俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。

読書面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。

ギャグ萌え死語)で脳みそ空っぽにできるラノベに限らず。

ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?

重厚哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?

読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。

まさかスタバMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?

世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。

からこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。

で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。

古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。

当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。

から教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。

そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。

俺の思考、心、俺自身構成する言葉の一部とは思えないんだよね。

から俺はライトノベルを読まないといけない。

なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語からだ。

ダイレクト心臓を揺さぶってくるからだ。

俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。

文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。

断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。

全て名作は朽ちていくんだよ。

それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。

自分はこの作品を完全に鑑賞できている、なんて思い上がりだ。

言葉文化も変わる。

作品が発表された当時の空気は、どうやったって感じられない。

俺達には手が届かない。

からどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。

ショパンがその手で響かせていたピアノ音色を、俺達が耳にすることはできないように。

失われてもはや取り戻せない。

情動ロゼッタストーンなんてないからな。

だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。

きっと完全ではないが、味わえる。

だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。

そう信じるに足る何かがある。

眩いだろう。

なんか胸がときめくだろう。

ナルシスティックな気分になるだろう。

何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。

教養のための本になっていくのだろう。

それでいいんだよ。

そしたらまた別の何かが読まれるさ。

そうして俺達は滅びていく。

俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティック情動は、受験生一喜一憂させる国語試験の点数に押しつぶされて消える。

俺達が滅びた後で、意識高い系インテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。

それがちっとむかつくってだけだ。

2011-09-24

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http://2cups1day.wordpress.com/2011/09/24/%E6%89%8B%E6%8A%9C%E3%81%8D%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/

飲食店アルバイトをしていると、たまに「ああ、このお客さんは俺のことを人間だとは意識せずに、店員だとしか思ってないな」と感じる瞬間がある。

別にそれで何かあるわけではなく、ちょっと不快な思いをして、こっちも店員とお客さんという型に合わせたコミュニケーションスイッチが入るだけ。これはよくあること。

ただ、最近そういったお客さんが「店員さんに横暴な態度をとる人が信じられない。」と言っているのを耳にした。

理由を聞きたくてうずうずしたのは言うまでもない。

理由を聞けば、きっと「店員さん可哀想じゃん、店員さんも人間だよ、そもそも人としてどうなの」的な言葉が返ってくるんだろうなあと思う。

彼に理由は聞いていないので想像になるけど、もしそういう考えなのだったら、それは非常に手抜きしたコミュニケーションではないか

まり、店員と客という間でも根本自分あなたという考えがあれば、「生中」じゃなくて「生中下さい」、「どうも」じゃなくて「ありがとうございます」って言うんじゃないの。普段からそういう話し方の人じゃない限り。それをしないってことは無意識のうちに店員と客っていう型に合わせてコミュニケーションしてればいいやと思っているのでしょう。

「店員に横暴な態度とるのは良くない」という言葉自分は相手を人間として捉えていますよというポーズであって、その根本は、その言葉自体がコミュニケーションの型に含まれているか、あるいは、自分が嫌われたくない、よく思われたいという感情を「店員さんが可哀想」という相手の為ですよという言葉に置き換えているかのどちらか。

余談だけど、大学生飲食店で「ごちそうさま」をいう割合は80%以上。

そのうち80%が学生バイトに対しても丁寧に「ごちそうさまでした」「ありがとうございました」という。残りは「どーもー」「ごちそうさま」など。

対してコンビニレジで「ありがとうございます」という割合は40%。レジに人がいない時に「お願いします」など言わないで無言で待つという人が70%以上。(数字は全部適当自分感覚)

お礼を言う言わないは今回の趣旨ではないが、居酒屋では「ごちそうさま」を言うけどコンビニでは「ありがとうございます」を言わない理由は何なのでしょう。

別に挨拶はしっかりとか、敬語で話そうとか、僕に優しくしてとか言っているわけではない。

例え、そうですかと「生中お願いします」とか言われても今までのコミュニケーションの型が置き換わるだけで何も変わっていない。

大事なのは意識の問題。

生まれつきなのか、環境なのか、自然にそういう意識を持てる人がいる。自分の周りにもたくさんいて、とても羨ましく感じる時がある。

というのも、僕自身がずっと手抜きしてきたと思うし、今でも「やばい、手抜きしてる」と気づく瞬間がある。自分の行動がちゃんと説明できない時がある。

何が心配かというと、自分がそんな手抜きのコミュニケーションにどっぷりつかってしまって、何かの基準なしには生きていけなくなること。

友達からこうする。彼女にはこうする。先生学生コミュニケーションはこうで、親と子供だとこう、みたいに、自分と相手のコミュニケーションのはずなのに誰かが定義した友達彼氏、先輩、後輩、彼女、親etcの枠組みに合わせなきゃコミュニケーションが取れないのは不幸なことだと思う。

よく言う、自分役割が与えられていて、その役割を演じるっていうやつ。

世界の中心で愛を叫ぶ」を読んで一通り感動した後に、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」を読んではっとする感覚

あの感覚を忘れないようにしたいと思う。

自分の軸足を自分の内側に置くことは大事だよ」「自分ものさしではかりなさい」などよく言われてきたけど、最近になって本当に大事なことなんだと感じることが多い。

以上、居酒屋バイトしているときぼんやり考えていたことを、ぼんやりまとめました。

(あらためて読むと、すげーひねくれてるなあ(笑))

 
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