はてなキーワード: 世界の中心で愛を叫ぶとは
そんなん当たり前ちゃうの。
社会学の研究で「強力効果論」というのがあって、悪い内容の本は読者を悪い行動に走らせるわけ。
そうなる前に誰かが止めないと。
https://twitter.com/dankanemitsu/status/1455696455004405761
2019年、カナダのオンタリオ州南部にある教育委員会が学校図書室から「原住民やマイノリティに対して差別的な表現」等が問題とされた図書4700冊を処分。30冊ほどを「浄化の儀式」として焚書。その灰を植えた樹木の肥料とした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/船橋市西図書館蔵書破棄事件
船橋市西図書館蔵書破棄事件(ふなばししにしとしょかんぞうしょはきじけん)は、船橋市西図書館の女性司書だったA(実名非公開)が、西部邁や新しい歴史教科書をつくる会会員らの著書計107冊を、自らの政治思想によって独断で除籍・廃棄した事件[1]。
Aが執筆した童話絵本『ぬい針だんなとまち針おくさん』を、船橋市立図書館が35冊も購入し所蔵していたことが明らかになっている[21]。これはベストセラーである『世界の中心で愛を叫ぶ』(23冊)や『負け犬の遠吠え』(16冊)よりも多かった[注釈 2]。またAが翻訳した『メリーゴーランドがやってきた』も32冊が所蔵されていた[注釈 3][注釈 4]。
この事件の調査中にも、服部公一著作の「作曲入門」という本が寄贈された当日に除籍されたり[注釈 5]、女性に人気がある『刺繍の入門実用書』が購入の1週間後に除籍されるなど、不審な処置が次々と明るみにされた[22]。図書館長は『刺繍の入門実用書』については、掲載されている刺繍のデザインの1つにヌードをイメージしたものがあり担当者[注釈 6]が気にくわなかったのだろうと述べた[22]。
世界の中心で愛を叫ぶで綾瀬はるかのおっぱいを見たら恋愛のなんたるかを1秒で理解できるで
長嶋有の「愛のようだ」を読んだ。
作中で言及されている通り、登場人物が"ちゃんと疲れる"ロードムービーだった。
その手口は「水曜どうでしょう」に似ている。
どこで読んだか忘れたが「水曜どうでしょう」の面白さを分析した文章で、
「あれは出演者の"疲れて何をやっても面白い状態"に視聴者を巻き込むことで成立している」
的なものを読んだことがあるが、それを思い出した。
「水曜どうでしょう」ばりの徒労と混乱とハイテンションを経て、"疲れているから面白い"、ではなく、"疲れているから感じ入る"。
作中一番の盛り上がり。第四話のラスト、「愛のようだ」という詩的(俳句的)でストレートで派手なタイトルの言葉を、
語り手の友人がそのまま呟くという凄い場面。
ここは語り手も読者も、道中で疲れているからこそ、「愛のようだ」と、感じ入るのだ。
ところで、この作品の帯には
という、なかなか凄いコピーが載っていたが、なるほど作者の「感動的な恋愛小説をちゃんと書こう」という気概を感じる作品だった。
つまり、主人公(=語り手)に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話なのだ。
「世界の中心で愛を叫ぶ」であり「ノルウェイの森」なのだ。
こうやって書くと何だか馬鹿にしているような感じになってしまうが、
何と言うか、本当に「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」をちゃんと書いているのだ。
作家が「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」を書くことが
その恥ずかしさから逃げることなく、と同時に読者が引いてしまわないよう配慮して、
手続きを踏んで、抑制の効いた方法で、その「悲しさ」がきちんと書かれていた。
とてもかっこいいと思う。
前述の友人が「愛のようだ」と呟く場面は、とても感動的でポジティブで素敵な場面だった。
が、そこで語り手はあくまで第三者で、言ってみれば読者と似たような立ち位置だった。
友人が愛のようであることに気付く場面に(第三者的に)立ち会ったその余韻が残るエピローグで、
それは、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」を彷彿とさせるような、チャーミングで切ないメッセージなのだが、
そこで語り手に訪れる悲しさは、とことん「当事者になれなかった悲しさ」なんだと思う。
それと、この小説を語る上で外せないのが、全編通して大量に登場する固有名詞だ。
漫画、アニメ、テレビCM、映画、J-POP(歌謡曲? その辺の区分けがよくわからない)といった
サブカルチャー、ポップカルチャー(この辺の適切な総称もよくわからない)からの引用がべらぼうに多い。
作者は、以前からエッセイで小説内の固有名詞の使い方について論じたりしているし、
というか、そんな前情報がなくても一目見て明らかなくらい大量の固有名詞を意図的、意識的に使っている。
これが、例えばキン肉マンを知っている人に「ほら、キン肉マンだよ」とサービスするための符牒じゃないことは明らかで、
じゃあ何のための引用なのかと言ったら、キン肉マン自体を書きたいわけではなくて、
「会話の中ですぐに"そういうの"を引用する人(達)」を書きたかったんだと思う。(当たり前か)
世の中やら自分やらを見て把握して語るときに、ごく自然と漫画の登場人物やポップスの歌詞と
それは、ふざけているわけでも遊んでいるわけでもなくて、その方が断然実感があるからだ。
フィーバー状態の伊勢神宮に願掛けに行く、っていうふざけたような言い方なんかも、
切実な思いを実感のこもった正直な言葉で表した美しい祈りの言葉なのだ。
長嶋有が描くそういう言語感覚は、読んでいて楽しいし、時にとてもぐっとくる。
最後に、この小説は長嶋有にしては珍しくとてもマッチョな小説だったと思う。
「この人のこと女だと思ってたわ」作家で上位にくる長嶋有だが、
「愛のようだ」に関しては、知らない人が読んでも男の人が書いた小説だと思うんじゃなかろうか。
これを書いた増田だが、ただ殴り書いただけなのにちょっと反響があってしまって責任を感じている。
http://anond.hatelabo.jp/20150513013343
だから今回はちゃんと俺の言いたいことが伝わるようにまとめてみたよ!
あ、タイトルは注目を集めるためにつけただけで、本気でそう思っているわけではなので悪しからず。
本気ではないが、半ばそう思っているけれど。
俺はナルシストだ。
そして品がない。
育ちも悪いしコミュ障だし、人の気持ちもわからんしデリカシーも無い。
見る度に、チックが別れた女房と息子に会いに行くシーンと、インデペンデンス号が墜落するシーンと、ハリーの自爆間際の走馬灯とで3回泣く。
俺の読書体験を要約すると、『スレイヤーズ』にハマって呪文詠唱覚えたり『星の王子さま』に感動したり『それから』を読んで代助のガキっぽさに読んでるこっちが真っ赤になったり『キノの旅』を読んで1巻目のプロローグとエピローグ暗記したり『猫の地球儀』に号泣したり『世界の中心で愛を叫ぶ』に号泣した後で本屋に平積みされてる『ジョン・レノンにだまさされるな』をワクワクしながら手にとって20ページほど読んでそっと棚に戻したり『いちご同盟』に号泣したり『バトルロワイヤル』に号泣したり『殺×愛-きるらぶ-』に号泣したり『天使の卵』に号泣したり『アルジャーノンに花束を』に号泣したり『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでわけもわからず激怒したり『ゼロの使い魔』読んでルイズに恋に落ちたり『フルメタル・パニック!』に号泣したり『とらドラ!』に号泣したり『永遠の0』に号泣したり『生贄のジレンマ』に号泣したり、まあだいたい号泣している。
こうして振り返ってみると読んでる本に脈絡ないなと思う。
ふらっと本屋で20ページぐらい立ち読みして、面白いなと思った本を買って読むからだろう。
あとは気分で話題になってるのを読んだりする。
テレビで『風立ちぬ』やったらしいから原作読んでみようか、とか。
夏目漱石とか太宰治とか川端康成とか谷崎潤一郎とか、国語の教科書に載ってるような文豪の作品も気が向いたら読んでみたりする。
ゲーテとかシェイクスピアとかカフカとかも、読んでみたことはある。
その中で、この人の書いたものは全部読まなきゃダメだ!って思わせてくれたのは秋山瑞人だけなんだよな。
『イリヤの空、UFOの夏』を読むと、
「ぼくは笑わない」
榎本の瞳の中に、どこか臆病な光が滲む。
「なぜそう言い切れる」
何度読んでもここで泣く。
これこそが文学だと思う。
さて、自己紹介もすんだところで俺の陳腐なブンガクロンの話でもしようか。
俺がむかっ腹が立って仕方がないのは「読書を教養を蓄えるための苦行と考えている人間」これに尽きる。
読書は面白いからするのであって、苦しむためにするわけじゃない。
ミステリが好きな奴は犯人探しにうんうん頭を悩ませるのが好きなんだろ?
重厚な哲学書みたいなのが好きな奴は、難しい話を読むのが好きだから読んでるんだろ?
読書が好きな奴にとっちゃ、当たり前だよな。
まさか、スタバでMac広げるノリで、ファッション感覚で分かりもしない純文学読んでる奴なんていないよな?
世の中には少しはそんな奴いるんだろうけど、こんな所でまで文学にあーだこーだ言う物好きの中には居ないだろう。
だからこの文章を読んでる人は、俺の嫌いな人間じゃないはずなんだ。
で、なんで読書が苦行と結びつくかと言うと、いわゆる「タメになる名作」って奴が歴史の洗礼を受けて生き残った、古い小説になることが多いからだ。
古い小説には、現代に生きてる人間にとって見慣れない表現が多く使われている。
当時の人にとって「ぐいぐい読ませる美しい名文」の集まりが、読書経験の少ない人には、まるでお経かなんかみたいに見えてしまっているわけだ。
だから「教養の無い人間にとっての、教養のための読書」は苦行になる。
そして、少し本を読んでるってくらいの俺にとっても、やっぱり明治の文豪の書いた文章は、血の通ったものには見えないんだ。
俺の思考、心、俺自身を構成する言葉の一部とは思えないんだよね。
なぜならライトノベルは、俺の心を作っている言葉、そのもので書かれた物語だからだ。
俺の体の中にある思考や心を、本という形で取り出した物だからだ。
文学かじってるような奴らは、『不朽の名作』なんて小っ恥ずかしい妄想を本気で信じてやがる。
断言してやるが、そんなもんはこの世に1作品足りとも存在していない。
全て名作は朽ちていくんだよ。
それは、作品に込められたメッセージが古くなるのではなくて、俺達が読めなくなるんだよ。
俺達には手が届かない。
だからどんな名作だって、その名作の本当の味を味わうことはできないんだ。
ショパンがその手で響かせていたピアノの音色を、俺達が耳にすることはできないように。
失われてもはや取り戻せない。
だけど、俺達はその片鱗だけでも、味わうことができる。
きっと完全ではないが、味わえる。
だって、人の心には百年でも千年でも、最も深い所に変化はないからだ。
そう信じるに足る何かがある。
眩いだろう。
なんか胸がときめくだろう。
ナルシスティックな気分になるだろう。
何十年かしたら、今読まれているラノベは苦労なしに読めない物語になっていくのだろう。
教養のための本になっていくのだろう。
それでいいんだよ。
そしたらまた別の何かが読まれるさ。
そうして俺達は滅びていく。
俺達の感動は、俺達の号泣は、俺達のナルシスティックな情動は、受験生を一喜一憂させる国語の試験の点数に押しつぶされて消える。
俺達が滅びた後で、意識高い系のインテリ気取りが20世紀末から21世紀初頭にかけての文学として、読み解くのに苦労するものとして、ラノベを語るのだろう。
それがちっとむかつくってだけだ。
この記事どう思いますか?
飲食店でアルバイトをしていると、たまに「ああ、このお客さんは俺のことを人間だとは意識せずに、店員だとしか思ってないな」と感じる瞬間がある。
別にそれで何かあるわけではなく、ちょっと不快な思いをして、こっちも店員とお客さんという型に合わせたコミュニケーションのスイッチが入るだけ。これはよくあること。
ただ、最近そういったお客さんが「店員さんに横暴な態度をとる人が信じられない。」と言っているのを耳にした。
理由を聞きたくてうずうずしたのは言うまでもない。
理由を聞けば、きっと「店員さん可哀想じゃん、店員さんも人間だよ、そもそも人としてどうなの」的な言葉が返ってくるんだろうなあと思う。
彼に理由は聞いていないので想像になるけど、もしそういう考えなのだったら、それは非常に手抜きしたコミュニケーションではないか。
つまり、店員と客という間でも根本に自分とあなたという考えがあれば、「生中」じゃなくて「生中下さい」、「どうも」じゃなくて「ありがとうございます」って言うんじゃないの。普段からそういう話し方の人じゃない限り。それをしないってことは無意識のうちに店員と客っていう型に合わせてコミュニケーションしてればいいやと思っているのでしょう。
「店員に横暴な態度とるのは良くない」という言葉は自分は相手を人間として捉えていますよというポーズであって、その根本は、その言葉自体がコミュニケーションの型に含まれているか、あるいは、自分が嫌われたくない、よく思われたいという感情を「店員さんが可哀想」という相手の為ですよという言葉に置き換えているかのどちらか。
余談だけど、大学生が飲食店で「ごちそうさま」をいう割合は80%以上。
そのうち80%が学生バイトに対しても丁寧に「ごちそうさまでした」「ありがとうございました」という。残りは「どーもー」「ごちそうさま」など。
対してコンビニのレジで「ありがとうございます」という割合は40%。レジに人がいない時に「お願いします」など言わないで無言で待つという人が70%以上。(数字は全部適当。自分の感覚)
お礼を言う言わないは今回の趣旨ではないが、居酒屋では「ごちそうさま」を言うけどコンビニでは「ありがとうございます」を言わない理由は何なのでしょう。
別に挨拶はしっかりとか、敬語で話そうとか、僕に優しくしてとか言っているわけではない。
例え、そうですかと「生中お願いします」とか言われても今までのコミュニケーションの型が置き換わるだけで何も変わっていない。
生まれつきなのか、環境なのか、自然にそういう意識を持てる人がいる。自分の周りにもたくさんいて、とても羨ましく感じる時がある。
というのも、僕自身がずっと手抜きしてきたと思うし、今でも「やばい、手抜きしてる」と気づく瞬間がある。自分の行動がちゃんと説明できない時がある。
何が心配かというと、自分がそんな手抜きのコミュニケーションにどっぷりつかってしまって、何かの基準なしには生きていけなくなること。
友達だからこうする。彼女にはこうする。先生と学生のコミュニケーションはこうで、親と子供だとこう、みたいに、自分と相手のコミュニケーションのはずなのに誰かが定義した友達、彼氏、先輩、後輩、彼女、親etcの枠組みに合わせなきゃコミュニケーションが取れないのは不幸なことだと思う。
よく言う、自分に役割が与えられていて、その役割を演じるっていうやつ。
「世界の中心で愛を叫ぶ」を読んで一通り感動した後に、舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる」を読んではっとする感覚。
あの感覚を忘れないようにしたいと思う。
「自分の軸足を自分の内側に置くことは大事だよ」「自分のものさしではかりなさい」などよく言われてきたけど、最近になって本当に大事なことなんだと感じることが多い。
以上、居酒屋のバイトしているときにぼんやり考えていたことを、ぼんやりまとめました。
(あらためて読むと、すげーひねくれてるなあ(笑))
それを言い始めると「世界の中心で愛を叫ぶ」とか…。