はてなキーワード: 邪魔とは
アサシンクリードは、理不尽な支配に反発して権力者を暗殺する「アサシン教団」と、時の権力者を操り社会を裏から支配する「テンプル騎士団」の、古代から続く戦いを描いたゲームである。「混沌・悪」VS「秩序・悪」という感じである。
アレクサンダー大王も、始皇帝も、カエサルも、チンギス・ハンも、永楽帝も、チェーザレ・ボルジアも、実はテンプル騎士団の一員だったし、実はアサシンに暗殺されていたんだよ!という世界観である。ちなみに過去の作品ではフランシスコ・ザビエルがテンプル騎士団とされているので、今回(シャドウズ)もイエズス会はテンプル騎士団の手先だったりするのだろう。
アサクリのもう一つの軸が「イス」と呼ばれる超古代文明人の存在である。彼らは人類を創造した神のごとき存在であり、実際にギリシャ神話や北欧神話に登場する神々の正体は「イス」である。彼らが遺した強力なオーパーツを巡って、アサシン教団とテンプル騎士団が争奪戦を繰り広げていく、というのが一つのパターンである。
また、この「イス」の遺した技術に基づいて、現代では「アニムス」と呼ばれるバーチャルリアリティマシンが開発されており、それを使って過去の様々な時代のアサシンの記憶を追体験している、という基本設定がある。つまり、実は主人公は、アサシンの活躍を仮想的に体験しているだけの現代人なのである。アサクリには「現代パート」もあるのだが、これは完全な続き物になっていて、シリーズを追いかけていないと意味がわからないので、なかなか評判が悪い。初心者は現代パートなんかすっ飛ばしても問題ないぞ。
というわけで、リアリティのある歴史ドラマかと思ったら急に濃度の高いオカルト伝奇SF要素をぶちこんできて暴走しはじめるのがアサシンクリードの魅力である。詳しくは年表を見よう!
アサシン クリードシリーズにおける年表 - Wikipedia
アサシンクリードの特徴といえば何と言っても「オープンワールド」と「パルクール」だろう。「どこでも登れる」「どこまでも行ける」というオープンワールドアクションの本家本元とも言えるシリーズなのである。窓のフチや壁のヘリなどを掴んで、するすると登り、飛び上がり、軽やかに街を駆け巡る。何にも邪魔されることなく思いどおりに移動できる楽しさがそこにはある。
そのオープンワールドで何をやるのかと言えば「ステルスアクション」である。敵の拠点に侵入し、見つからないように探索し、標的を殺して脱出するのである。
まずは侵入するまえに敵拠点の構造を入念に調査する。どこに敵が配置されているかを確認し、それらの移動パターンを観察して、どういうルートで侵入するかを考える。サッと壁を登って開いている窓から侵入しよう。いやいや屋根伝いに高所から標的を探すのもいい。手薄な裏口の敵をこっそり暗殺するのはどうか。もちろん正面から殴り込んで敵を全員ぶっ殺しても構わない。
つまり、オープンワールドとしての移動の自由度がそのまま、プレイヤーが取れる侵入ルートの自由度に転化しているのが、アサクリの醍醐味なのである。「たった一本しかない正解のルートを見つけ出す」のではない。「数多く用意されたルートの中から一本を選び出す」のが楽しいのである。
さらに、この「街を自由に駆け巡る」「敵の拠点に侵入する」といった要素から生まれたのが、アサクリの「歴史考証」の部分である。
そうしたゲームシステムでは「街並みをどう作るか」「建築物をどう作るか」がとても重要になってくる。なにせ「プレイヤーが侵入する建物だけ作ればいい」「プレイヤーが移動するルートの周りだけ作ればいい」というわけにはいかない。広大な街を作り上げて、そこにいくつも拠点を建て、大勢のNPCを配置して、そしてプレイヤーが隅々まで移動できるようにしなければならない。それがゲームの面白さに直結していくのだから。
そこでアサクリは「歴史上の街を再現する」という方法を選んだ。完全にオリジナルの街を一から作るよりも、見本を用意したほうがある意味では作りやすかろうし、その副産物としてプレイヤーの没入感と知的好奇心を得ることもできた。建物や文化風俗の再現度は高く評価されており、アサクリの売りの一つになっている。
もちろん史料の調査には限界があるし、ゲーム的な都合が優先されることも多い。過去のシリーズでも「この年代にこのアイテムはまだない」「この街にこんな建物があるのはおかしい」といったようなツッコミが入っている。前々作『ヴァルハラ』などは特に批判が多かったというので、地域や年代によってまた作りやすさが変わってくるのかもしれない。
とはいえ、アサクリがわざわざ歴史考証のチームを設置し、多くの史料を確認し、専門家の監修も受けているのは事実であって、ただのゲームとしては相当に頑張っているのは間違いない。プレイヤーとしては、決して完璧ではないということは頭に入れつつも、巨額の予算によって作られた「自由に走り回れる歴史的景観」を楽しみたいところである。
とりあえず現時点でオススメするなら前作『アサシンクリード ミラージュ』だろう。元は前々作『ヴァルハラ』のスピンオフとして制作されていたということもあり、『ヴァルハラ』の前日譚のようなストーリーになっていて、ボリュームも控えめである。ゲームシステムとしても原点回帰を目指したシンプルな作りで「これぞアサシンクリード」という作品になっている。
『ミラージュ』をクリアしたなら、続けて『ヴァルハラ』をやるのもいい。前述したとおりストーリー的に繋がりがあるし、『ヴァルハラ』はシリーズのなかではかなり変わっていて、「アサクリらしくない」作品でもある。主人公がアサシンではなくヴァイキングなので、ステルスよりも正面切っての戦いのほうが得意だったりするし、各地の勢力とひとつひとつ同盟を結んでいったり、自分たちの拠点を開発して発展させていったりするような、戦略的な側面が強い。
このあたり、近年のアサクリは「従来通りのステルスアクション」と「他のゲームのようなバトルアクション」のあいだを揺れ動いていて、『シャドウズ』ではついに「ステルス」担当の奈緒江と「バトル」担当の弥助のダブル主人公になったという経緯がある。
アサクリシリーズは、オープンワールドにおけるスタンダードを生み出した、現代ゲームの頂点のひとつと言っても過言ではない名作である。プレイしないまま死ぬのはもったいない。いまのうちに『ミラージュ』『ヴァルハラ』をプレイしながら、日本が舞台となる『シャドウズ』の発売を楽しみに待とうではないか。
これが僕の原動力なので、僕の邪魔をするものにはこう思わずにいられない。
汚い言葉で自分を守ろうとしている俺も死ね。俺の事を殴ったりしてきて今では平気で親ヅラしてくるお前も死ね。とりあえず俺の気持ちを分かったつもりになって正しそうな御託を並べてくるお前も死ね。俺の進みたい道を否定してくるお前も死ね。一回油断させて俺の気持ちを知りたがっておいて、その後で俺を見捨てようとしたお前も死ね。俺より恵まれた環境にいるのに俺より勉強が出来ないお前も死ね。こうやって自意識の中では「俺」という一人称を使っているのに、文章を書く時だけイキがって「僕」なんて呼んだりしているキモい俺も死ね。俺は浪人したら死ぬつもりなのに、死にたくないのに、そんな俺の前で平気で実家の太さを理由に浪人を視野に入れるお前も死ね。俺より努力してないのに俺の結果を羨むお前も死ね。俺より努力してないのに俺より結果を出しているお前も死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
ここ数年で自分の中の女性蔑視がとめどなく深まっていくのを感じる
自分の中の良心が性差別なんてするなと言っている けど止まらない
過去を振り返っても尊敬できる女がいない 男はたくさんいるのに
高校でも女はみんな成績悪かった 大学だと女がしょうもないことで騒ぎ立てて団体の運営を邪魔された
職場にいた女の先輩は頭は良かったが、徹頭徹尾利己的な奴だった
今日も、女児暴行の犯人に対して懲役六年の判決を下した裁判官が感情的に叩かれているのを見た
検察の休憩が7年で、ほぼ満額回答だと言うのに
視界に入れたくなさすぎて、日傘めっちゃ斜めに差すことで隠して存在を消してた
つーかバス停の並ぶ方向違うし、何故か歩道のど真ん中でバス待ってるからデカい身体がクソ邪魔だし
轢かれたかったんか?
なんで生きてんだ?
サイドを蹴って、けのびをする、そのときストリームラインを意識してください
自分を奇麗な流線型の船とか弾丸みたいなものだと思ってください
自分は30、40歳までカナヅチでしたが、本を読んでは市民プールに行くの繰り返しで試行錯誤しました
けのびができたら、今度はそれにバタ足を加えてみてもいいでしょう
正しいバタ足、ドルフィンキックをマスターするのは難しく、自分のも怪しいですが、バタ足で推進力は上がります
しかし、息継ぎができない
ここでバタ足にクロールの腕の動きをプラスしても良いのですが、敢えてバタ足をせずに、腕だけでどれだけ推進するかを試すのもありだと思っています
バタ足と一緒にしてしまうと、足と腕の連動に気がとられがちになります
ここは敢えて、足はけのびのまままっすぐに、腕だけクロールして、左右どちらに顔を回した方が息継ぎしやすいか、などを試していきましょう
話の最初に戻りますが、クロールにバタ足は必須ではありませんし、ほとんどけのびの状態で、ときどきクロール、ときどきバタ足というよりキックで推進する、
みたいな省エネルギーでいかに進むか?を重視した方がいいと思っています
大切なのは、けのびのフォームがちゃんとしていれば、バタ足しなくても尻が下がるということはそうありません
クロールの腕だけでもかなり快適に進むはずです、それを実感してほしい
水泳の授業というと、子供の頃にプールサイドに座ってバシャバシャバタ足をするようなイメージがありますが、水泳ってガムシャラにやるものじゃないと思っています
市民プールとか、どこでもいいですが、とにかく自分より上手い人を観察してください
ドルフィンキックがちゃんとできてる、非常に美しい平泳ぎをする人は、そんなに足をわさわさ動かしてはいません
スーッと伸びるように、一回のキックで高速に水中を滑るように推進しています
上手い人はみんな力をうまく抜いています
バチャバチャバタ足をしがちなのは、そもそも水が怖いから、という人もいます
海や川と違って、プールは足が付くのですから、足がつるとかしないかぎり、必死になる必要はありません
息が切れそうになったら、腕を使って息継ぎをする
息継ぎの方法も、クロールのようにやってもいいし、平泳ぎのようにやってもいいです
速度が落ちてきたら、バタ足してもいいですが、数発のキックでどこまで進めるか試してみる
そうやってダラダラ泳いでみる
あと、注意点はダラダラ泳いでいいコースとか、自由に泳いでいい場所があるので、そういう場所を選びましょう
とにかく、泳げない人が最初にやるべきなのはバタ足ではありません
流体力学の風洞実験のように、けのびで水の流れを体感することです
平泳ぎはまたちょっと違いますが、クロールはけのびにバタ足と腕を付ければほぼ完成でしょう
と偉そうに書いてきましたが、自分はバタフライが完全にできません
事故る大分前に、市民プールでバタフライが上手い人による講習があったのですが、あのとき受けておけば良かったと激しく後悔しています
事故が切っ掛けで自転車にも乗れないし、遠くの市民プールには行けないので、高いけど有料のジムかなぁ
もしくは、本数が滅茶苦茶少ないバス使うかなぁ…😟
国民の多くが左派中道への回帰を立憲に求めているのはわかるし、それを裏切って共産党に近づいた蓮舫が都知事選で惨敗したのは当然だと思う。
でも今の蓮舫は衆院選どころかあんな負け方したせいで立憲に出戻り出来るのかもわからない状況じゃん?
オマケに選挙後はこれまでの野党共闘への不満をここぞとばかりにぶつけられて立憲の議員からも苦言を呈され、ヨシヨシしてくれるのは共産党界隈の活動家しかいないとなればもう左サーの姫として生きていくしか道はないでしょ。
(実際に交代するかはともかくとして)政権交代が可能な強い野党を育てていくためには空洞化している左派中道をなんとかしなければいけないのは間違いないが、立憲への不満は立憲にぶつけていくべきであって既に立憲を離れて左サーの旗印やるしかなさそうな蓮舫はもうほっといてやれよ。
死ね。歩道を広がって歩いて、自転車に乗った俺が横を通る時に舌打ちをしてくる奴は死ね。道路の信号のない部分を走って渡ろうとする奴は死ね。電車を待つ列で割り込んでくる奴は死ね。ルールを守れない奴は死ね。ルールを守らない奴は死ね。気遣いができない奴は死ね。
いつだってルールを守って生きていくように、人に気遣いをするように、躾けられてきた。
たとえその結果自分に多少不利な結果となったとしても、それが最善の選択なのだと言われて育てられた。
だからこそ、ルールを守らない人が理解できなかった。ルールとは形を帯びた気遣いそのものだというのが僕の持論だ(だからこそ僕はルールを守る人を助けられる職業に就きたいと思っている、おせっかいなので)。
だが、例えば知らない人の目の前を通る時にほんの少しお辞儀をするだとか、交通ルールを守らないとか、自分が当たり前のように行ってきたことを当たり前のように行えない人を見るたびにストレスが溜まり、自分が取っている行動の意味がわからなくなり、自分が今まで生きてきた上で大事にしていた価値観が否定されていくような気がして立っていられないような気持ちになる。
僕は本当に信頼関係があると思っている友人以外の前であまり汚い言葉を使わないようにしている。優しい言い回しを心がけ、できるだけ、できるだけ嫌な思いをさせないようにしているつもりだ。これは僕と、僕の親なりの「気遣い」だ。
情けない話だが、こんなことがあった。
彼女に僕の顔がそこまでタイプじゃないと言われた。もっとあっさりした顔の方が好きだと言われた。例えとして、共通の知り合いの顔を挙げられてそう言われた。
僕は彼女の前で一度だって他の魅力的な女性について触れた事はない。僕の目の前にいる人がどれだけ大切か、という事だけを本人に伝えてきたつもりだった。
家に帰ってから泣いた。
元々僕は自分の顔があまり好きではなかった。僕の嫌いな親と似た顔(少年時代の父の写真は僕そっくりなのだ)をしていたし、中学生の頃布団からほとんど動けなかった時の不摂生が祟って肌荒れを起こしているからだ。ただ、悔しい事に昔の父はかなり良い見た目をしていたので、それだけが救いだと思っていた。しかし、僕のそれは届いて欲しい人には届いていないものであったと知り、悔しくて苦しくて泣いた。
それと同時に、僕が今まで行ってきた気遣いという行動の意味が分からなくなった。
僕は誰のために優しくあろうと心がけて、その行動は誰に変化を与えられているのだろう?
僕の行動は僕の心を削っているだけであって、それ以外に大した意味はないのではないか?
そう思うと、自分やその親しい人以外の周りの物事への関心が一気に変わったような気がした。
列を守れない奴の事なんてもうどうでもいい。
どうでもいい。僕の方へ必要以上に関わってこなければ。ただ、死ね。邪魔だから。
僕は僕の裁量の中で大切にしたい人にだけそういう態度を見せ、そうでない人には特に何もしない。心の中で中指を立て続ける。
いや、選挙で持ち上げてた人達見ても漫画家ゲームクリエイターアニメ監督、地下アイドルとかオタク業界と関わりの深い生姜社長とオタク関連多かったよ。
そもそも暇空が有名になったのも、温泉むすめに文句言われたムカつくからデマふっかけて女性支援活動を邪魔して攻撃しよ!!って行動がオタクの気持ちとマッチしたからだし。
ガキが薬でもやってんのか感じで「ウヘヘェ」と俺のルートの真正面に広がって邪魔になる。
「前見てー」
とだけ。
お前のガキが人の迷惑になってんだから、こっちに向かってすみませんの会釈くらいしろや。
ガキもこっち見ながらニヘラニヘラしてるだけで盛大にイラッとした。
まぁよかった探しをすると、日本の伝統的な企業よりも、割と設計がしっかりしてたりなことが多かったりする
人がいつかない前提でちゃんとドキュメント残して設計してるから、
やりたいことやり切ったり、できる見込みねーなってたら、別の会社行っちゃう(政治で技術を邪魔しない)からでしょうね
良いんだか悪いんだかですけど
よその家にお邪魔するときは手土産を持たせるし、うちに呼んでほしくもないのであまりよその家にもお邪魔させてない。
多分、家の容積と構造の変化もこれをもたらしていると思う。
祖父母宅は屋根裏部屋も蔵もあって、収納スペースが大量にあったので、母屋の見えるところに収納をする必要はなかった。
自分が育った家は子供部屋が玄関から通じる廊下に直通していて、リビングにいる家の人に声をかけることはあっても中にまでは入らなかった。
今の自分の家は所謂リビングイン階段構造なのでリビングを通らないとどこにも行けない。
お姉ちゃんがお風呂に入っている間に弟の友達が遊びに来てリビングで遊び始めると風呂から出られなくなるあれ。
収納も少ないので、とにかくいつも家がごみごみしているから、誰かが来るとなると大掃除が必要。よって、あまり人に中まで入ってほしくない。
近所づきあいはそれなりにあり、子供も近所の大人と顔見知りだけれど、別にお互いに家の中にまで入らない。
子供のころは友達の家に行ったり、自分の家に今でいう放置子な子供が入り浸ったり、親の友達の家に泊まったりしてたけれど、誰かがいうような学びは特に感じなかったな。