はてなキーワード: ギャップとは
と、こう書くと過激に聞こえるかもしれませんが、今の私は、確信を持ってこれを言えるようになりました。昔の私は、まるで迷路の中でキャリアパスというゴールを探し求める鼠のように、必死に進むことしかできなかったんです。
大学生の頃、未来は明るく見えていました。周りが言う「立派なキャリア」「安定した生活」が手に入れば、幸せがやってくると信じていたのです。でも、社会に出た瞬間、私はその幻想がいかに儚いものかを痛感しました。理想と現実のギャップに苦しみ、職場の過剰な期待と要求に押し潰されそうになり、次第に自分が自分じゃなくなっていくのがわかりました。そこから鬱病が始まったんです。
この病気は私の世界を変えました。生きている実感がなくなり、ただ「何とか耐えている」だけの毎日が続きました。生きることが苦しくて、死をちらつかせることさえあったのです。通院を続け、薬を飲み、無気力な日々に追い打ちをかけるように、社会は「キャリアを築け」「もっと努力しろ」「もっと頑張れ」と命じてきます。それに従わなければ、何も価値がない、存在する意味がないとさえ思わされていたのです。
けれども、どこかで「違和感」に気づき始めました。なぜ、誰もが同じゴールを目指して、同じように苦しんでいるのか。私たちの生きる意味や価値が、どうして収入や地位で決まるのか。この疑問は頭から離れず、心の中で次第に大きくなりました。
仏教に興味を持つようになったのもこの頃です。仏教では、「今の自分が本当の自分ではない」と教えてくれます。私たちが抱える苦しみの多くが、社会や周囲から押し付けられた「こうあるべきだ」という幻想から来ているというのです。目から鱗でした。
特に「無常」と「無我」という考え方に救われた気がしました。すべては移ろいゆくものであり、私たち自身もまた、固定された存在ではない。自分が「成功しなければならない」「立派なキャリアを積まなければならない」という固定観念から少しずつ解放されるようになったんです。
私がたどり着いたのは「メメント・モリ(Memento Mori)」、つまり「死を忘れるな」という言葉です。人生はいつか終わるものであり、私たちはその終わりを見据えて、今この瞬間をどう生きるかを考えるべきだという視点です。
多くの人は「キャリア」や「将来の安定」に執着し、必死で未来を確保しようとしています。でも、「今この瞬間」が本当に大切だと気づいた私は、そこに人生の意味があるように感じ始めたのです。死ぬことを恐れず、むしろ「いつでも終わらせることができる」覚悟を持つことで、私の中で生きることへのプレッシャーが軽くなりました。
「今すぐ死んだって構わない」というのは、決して自暴自棄の気持ちではありません。むしろ、今ここにいる自分を自由にし、どんな時でも自然体で生きる覚悟を持てたという意味です。
こうした考えに至った今、私は社会と一線を引きながら、自分に正直でいることができています。もちろん、社会の一員として働かなければ生活はできませんが、だからといって自分をすべて犠牲にする必要もないのです。「無理にキャリアを追わなくてもいい」「成果を出さなくてもいい」と言い聞かせ、自分らしい生き方を探すことで、自然と心の負担が軽くなりました。
いわゆる「普通の労働者」である私が、キャリアを追うことをやめて、ただ「ここにある今」を大事にして生きる。それは社会から見れば「やる気がない」ように見えるかもしれませんが、実はその方が、私にとって本当の意味で生きることなのです。
こうして振り返ってみると、鬱病と向き合い、苦しみ抜いた時期があったからこそ、今の私がいるのだと思います。「キャリアパスなんてクソくらえ」と言い切れるようになったのは、社会や他人の価値観に自分を縛られず、自分にとっての「意味」を探す勇気を持てたからです。
もしも、今を生きることに苦しんでいる人がいるなら、少しでも「メメント・モリ」を思い出してほしいと思います。未来ばかりを追わず、今の自分に正直でいること。いつかすべてが終わることを忘れず、押し付けられた生存の重荷を少しでも降ろせるように、生きていくのも一つの選択です。
Xでなんで夫婦別姓反対するのかよく分からない、という投稿がバズってた。
自分は断固反対という程の立場でもないが、思う所は色々あるのでちょっと並べてみようと思う。感情的になるほどの思い入れがあるわけではないので、そういう意味では読みやすくしたつもりである。
実際困った立場の人が居るのも事実で、こういう所が解消されて何らかの形に落ち着いてくれればと思う。
選択的だからいいだろ!という声が多い。が、これについては全く信じられない。
例えば、結婚にするにあたって夫と妻どちらを取るかは自由なはずである。が、事実上殆どの家庭は夫の姓を名乗る選択をしている。年の差婚は両者合意で結婚したはずなのにロリコンだ何だと叩かれている。夫を立てる妻、みたいな家庭観も叩かれている。
個々の話に色々な意見は有ると思うが、この世の中には選択的にもかかわらず何故か許容されない選択がある。
断言するが、選択的夫婦別姓のある世界において、夫婦別姓を選択しなかった夫妻が「家父長制」だの「無理やり苗字を変えさせられた」と叩かれる場面がある。別姓を選択するべきだという主張が圧力となるのは避けられない。逆に、なるべく同姓を選ぶべきだという主張も圧として残り続ける可能性がある。
それでもなお価値は有るんだ、それは乗り越えるべきものなんだと言うならそれも一つの意見だが、「選択的なんだから別にいいだろ」という主張を行う者に関しては不信感が大きい。
個人名の約1/2を占める部分に関わり家庭観を変えうる法律は、結婚しない人にも、同姓を選ぶ人にも多大に影響を与える。
それがある未来で選択する重みや、夫婦同姓を願うの立場の人がいることを視野に入れてほしいと願う。
苗字が違うくらいで俺たちの絆は変わらないんだというのは殊勝な心掛けである。
しかし、それに不安を感じる人に対して投げかけられる言葉はいただけない。
実際、「同姓家庭における苗字に相当するものの消失」は、家庭単位で思考する機会を消失させるだろう。
海外では云々と言っても、海外には海外の文化や歴史があった上に成り立っているものである。複合姓、創姓と様々なものを紆余曲折して今に落ち着いていたり、日本以上に改姓が困難な中で不満を抱えつつ妥協していたり、いろいろな事情があるはずである。輸入したいならそれを補うものの考え方も含めてするべきで、いきなり「海外ではこうなのだ」と制度だけを叩きつけても軋轢を生むばかりである。
この話題で何かと言われがちな子供の苗字問題、世帯を呼称する名称は、選択的夫婦別姓がどういう形になろうと一方に決めなければならないことだから埒外として今回は置いておくことにする。初期に見られた「夫婦で立場の偏りをつけたくないから」みたいな動機は淘汰されたと信じている。
その上で、夫婦別姓を行いたい理由は「個人で名乗る名前を変えたくない」「手続きが煩雑」あたりだろう。
「名乗る名前を変えたくない」についてはこれまで通称使用という対応が取られてきた。
経団連なんかはこの状況を良く思っておらず、選択的夫婦別姓を提言するが、自分は通称で問題が発生する状況の方が問題なのではないかと思う。
「キャリアが分断する」、「通称名とパスポートと名前がずれる事務的ミス」そんな例が挙げられるが、そういった事務的手続きの問題のために法律側を操作する疑念がある。
夫婦別姓にしたらしたで「家庭の中に別姓の人が少数いることによって生じる事務的なミス」「別姓の親が迎えに来た子供の扱いに伴う(ry」「別姓結婚状態と未婚の同棲状態の区別がつかないことによって(ry」等別姓世界でも問題は起こるだろう。
「手続きが煩雑」に関しては結婚に伴って籍の移動はどのみち発生するし、場合によっては住所変更等様々な手続きが苗字とは関係なく発生する。
懸念を感じる人は、別姓を法律として取り込む方が問題が起こると考えている人が多いように思う。
同姓におけるトラブルもマイナンバー制度なりORCIDなり社員番号なり、システム面での対応を頑張るだけで解消するところは多いのではないか。法制するにしても、別姓などと大掛かりにせずそれにおいて足りない箇所を補う程度のものでよいのではないか。
そもそも結婚における改姓と言う「瞬間」の煩雑さがあるならば、別姓という「状態」に伴う煩雑さもあるはずである。推進を考えるならこの辺りの議論は為されるべきである。
経団連をはじめ、選択的夫婦別姓推進のいくらかは「通称使用廃止」を願った上での主張である。
つまり、選択的夫婦別姓がある世界においては、(無論一定のフォローはあるだろうが)「苗字を変えて通称する」という選択は難しくなるだろうと考えられる。
とはいえ旧姓を使っていた人が「夫の姓を名乗ります」と言うことは難しいだろう。
このあたりの世代ギャップをどうフォローしていくかも視野に入れるべきと思う。
しかし、「流石に『選択的だから大丈夫』とは思えないし推進派はもっと言葉を尽くすべきだ」「そこまで大掛かりなことをするにはデメリットの方が大きいのではないか」「別姓と言う大目標のために困っている人の時間を浪費するべきでは無い」あたりの思いが強い。
暇つぶしに見るXでは、よく弱者男性と売春婦が争っている。働きながら、あるいは働かずに子どもと向き合った。それが正しかったかどうかは、何十年か経ってみないと分からない。以下は、平成初期に弱者男性に育てられた私の事例である。
私の父親は、いわゆる「弱者男性」と呼ばれる部類の人だった。特定の職に就くことはなく、収入も安定していなかったが、何かに対して強く反抗するわけでもなく、静かに自分の人生を受け入れていた。しかし、その生き様は、周囲からは「頼りない」や「社会のはみ出し者」という視線で見られることも多かった。そんな彼が私をどう育て、私はどのように成長してきたのか、その実体験を通して「弱者男性に育てられた子供」の実像に迫ってみたいと思う。
父の教育方針は、決して画一的なものではなかった。むしろ、他の家庭の親と比べてもかなり自由度が高かったと思う。学校の成績や将来の進路についても、父は何も言わなかったし、毎日の生活でも無理にあれこれと教えられることはなかった。勉強をするのも、何かを身につけるのも、すべて私自身の選択に委ねられていた。
しかし、父が何もしなかったかというと、そうではなかった。彼は私と向き合い、ただ「一人の人間」として存在してくれていた。時には、悩みを聞いてくれ、愚痴を言っても無理に解決策を示すわけではなく、「そうか」と静かに頷くだけだった。それが子ども心にとってどれだけ大きな支えだったかは、年を重ねるごとに感じるようになった。
子供時代、友人の家庭を見ては、父と他の親たちの違いに複雑な感情を抱いたこともあった。多くの家庭では、親が積極的に関わり、進学や将来の方向性についても熱心に指導していたが、私にはそれがなかった。友人から「お前の父さんは何してるの?」と聞かれると、答えに困った記憶がある。特に、弱者男性の特徴として「自分が何者であるか」を誇示しないため、父の職業や社会的な立場についても話す機会がなかった。
しかし、今考えてみると、社会が求める「父親像」に囚われず、自由な生き方を貫く父の姿は、自分にとって一つの理想像だったのかもしれない。彼の生き方からは、「社会の枠組みに縛られる必要はない」というメッセージが無意識のうちに伝わってきていたのだと思う。私自身が将来の進路を決める際、父の姿勢を思い出して自分の選択を尊重することができたのも、彼のおかげだろう。
弱者男性に育てられた子供は「かわいそう」と言われることがあるかもしれない。しかし、果たしてそれは本当だろうか。弱者男性の親に育てられたからといって、子どもが必ずしも苦しむわけではない。むしろ、周囲の偏見や社会的なプレッシャーにさらされる中で、自分の価値観を形成し、他者と異なる視点を持つ強さが育まれることもある。
父は私に対して「強くあれ」とは言わなかったが、弱くてもいいと教えてくれた。日々の生活の中で少しずつ身についたこの価値観は、私が社会に出てからも貴重な指針となり、自分の居場所を見つけるための礎となっている。
今振り返ってみると、父がくれた自由さや、独自の視点は私にとってかけがえのないものだと感じる。彼の育児方針は、決して一般的ではなかったかもしれないが、その自由さの中で私は自分らしさを発見することができた。
弱者男性の親に育てられたことが、必ずしも「かわいそう」という一面的な評価に収まるものではないことを伝えたいと思う。彼らの中には、表面に見えにくい形で子どもたちを支え、人生に豊かさをもたらしてくれる存在もいるのだ。社会の「普通」から少し外れた彼らだからこそ、伝えられるものがあると感じる。それは他の親では決して教えられない、大切な人生の一部である。
ファクトフルネスの正しいタイトルは「ハッピーになるために事実を選り好みせよ」である。
ハンス・ロスリングが「ファクトフルネス」を出し、主に世界の人口について書かれており、ビル・ゲイツが米国の大学卒業生にこの本を無料で配布している。
マスメディアはネガティブなニュースを報道しすぎる傾向があると、おそらく多くの人が思ったことがあるだろう。
この本の長所は、前世紀に起こった人間の状況の改善について思い出させてくれることである。
この本は世界についての13の質問と、読者が選択できる答えで始まる。
その後に、「ギャップ本能」や「ネガティブ本能」など、さまざまな「本能」を中心に構成された11の章が続く。
ロスリングチームによると、これらの本能は誤解を引き起こす。世界は先進国と発展途上国に分けられる(「ギャップ」がある)とか、「物事は悪化している」(「ネガティブ」)などである。
13の質問は各章で再び登場し、グラフは世論調査で間違った答えを選んだ人々の(高い)割合を示している。
13 の質問のうち、11 は人口問題と人々の生活状況に関するもので、2 つは環境状況に関するものである。
したがって、最初から強い人間中心主義の考え方が明らかである。
すべての人間が依存している環境 (たとえば、食料や淡水) は、ほとんど考慮されていない。
環境に関する質問のうち、1 つは「気温は 100 年以内に暖かくなる」というもの。
もう 1 つの質問、トラ、ジャイアント パンダ、クロサイに関する質問の正解は、1996 年よりも今日の方が絶滅の危機に瀕していないというもの。これは誤解を招く質問である。なぜなら、これらは数千の絶滅危惧種のうちの 3 つにすぎないからである。
この問題は後のセクションで取り上げられ「人類は地球上の自然資源を略奪してきた。自然の生息地は破壊され、多くの動物が絶滅するまで狩猟されてきた。これは明らかだ」と書いている。
これは正しいが、その後に「今日レッドリストや世界自然保護基金(WWF)を調べれば、一部の地域個体群や一部の亜種の減少にもかかわらず、トラ、ジャイアントパンダ、クロサイの野生個体群全体が過去数年で増加していることがわかる」と続く。
ここで話は終わる。ロスリングチームは良いことを強調したいが、特別な注意と保護を受けているこれらの3種の哺乳類を強調するのは非常に誤解を招く。
ネイチャー誌に最近掲載された研究では、レッドリストに掲載されている8,700種以上の情報を集めた。
この研究では、過剰採取(野生種を繁殖や再生で補えない速度で採取すること)と農業(食料、飼料、繊維、燃料作物の生産、畜産、養殖、樹木の栽培)が「大きな殺し屋」であると結論づけている。
種の絶滅は起きているが、多くの植物、菌類、昆虫については特に測定が難しい。
同様に深刻な懸念は、耐性遺伝子プールや将来の種分化の原料となる種内の個体群が絶滅することだ。
PNAS誌に掲載された研究では、1900年から2015年までの177種の哺乳類の個体群絶滅をマッピングした。
いずれも生息域の 30% 以上を失い、種の 40% 以上が深刻な個体数の減少 (生息域の 80% 以上の縮小) を経験した。
もっと総合的に見れば、野生の自然はここ数十年で大きく劣化しており、今後も同様の状況が続くと予測されていることは明らか。
野生の自然を保護することに関心のある人は、過去 1 世紀に起こったことや、これからの 1 世紀に起こりそうなことについて喜ぶべきではない。
この本には「16 の良いことが増えている」という見出しがある。ここにあるグラフの 1 つは理解不能で、「監視対象種: 絶滅危惧種としてリストされている種」というラベルが付けられており、1959 年の 34 種から 2017 年の 87,967 種に増加している (良いこと!?) と表示されている。
別のグラフでは、保護地域が 1900 年の総陸地面積の 0.03% から 2016 年の 15% に増加している。これもまた、非常に誤解を招く。
まず、保護地域は主に生産性の低い土地(山、砂漠、または高山/北極圏の土地)であり、他の生態系は十分に代表されていない。
さらに重要なのは、1900年から2016年の間に、世界中で自然および半自然生態系の広大な地域が人間の集中的な利用のために転換された。
たとえば、スウェーデン北部の半自然北方林の広大な地域は、1950年から2012年の間に、急速に拡大した林道網と皆伐により、生産林に転換された。
2012年までに、数パーセントが正式に保護されていたが、全体として、スウェーデンの半自然林は大幅に減少した。
この同じパターンは、過去1世紀にわたって世界の多くの国、そして世界全体で繰り返された。
正式に保護されている地域は拡大しているにもかかわらず、野生の自然および半自然の土地の総面積は減少している。この本の追加グラフでこれを説明するべきであっただろう。
環境の運命に対する同様の無視は、他の種と同様、将来を左右されるが、ロスリング チームの長編映画「パニックに陥るな」にも見られる。
たとえば、アフリカの川が映し出されているが、この川は灌漑にのみ使用されているはずであり、このような大河川の他の価値 (生態系サービス、他の種の生息地、釣り、レクリエーションなど) については何も触れられていない。
人類に関して言えば、医学の進歩、教育、技術によって極度の貧困が減り、多くの国で寿命が延びたことは事実。
これらの成果は大いに強調されているが、ホモサピエンスがすでにすべての生態系を支配していることを考えると(直接的または間接的に、たとえば気候変動を通じて)、現在の人口過剰と将来にも関係しているに違いない。
国連の人口予測では、2100年までに38億人増えると予測されている(中位推計、2017年予測)。
人口が増えると、温室効果ガス、気候変動、持続不可能な経済成長(本書ではほとんど扱われていない)、食料と淡水に対する需要のさらなる増加、汚染と毒素の増加、野生生物の個体数の継続的な減少などが生じる。
「ファクトフルネス」は、イランにおけるかつての成功した家族計画プログラムを描写しており、これは良いことだが、ロスリング チームは、より明るい未来のために世界の出生率を低下させる必要があることを強調していない。
このトピックに関する「肯定的な事実の質問」では、チームは次のように質問できたはずだ。
「2100 年に 2018 年と同じ世界人口にするには、女性 1 人あたり何人の赤ちゃんを減らす必要があるか」。
考えられる回答: 平均して、女性 1 人あたり a) 1.5 人、b) 1 人、または c) 0.5 人減る。正解: たった 0.5 人! これは、よく提示される国連のグラフ「低変量」予測で確認できる。
ロスリング研究チームは、出生率低下における女性と男性の教育の役割を強調している。
これは結構だが、異なる国で、異なるレベルの授業で何が教えられているのだろうか。
性や避妊に関する教育の内容について、本当に何を知っているのだろうか。
宗教は教育の1つの要因だが、研究チームは出生率の決定におけるその役割を軽視している。
彼らは「イスラム教徒の女性は平均3.1人の子供を産む。キリスト教徒の女性は2.7人。世界の主要宗教の出生率に大きな違いはない」と結論付けている。
しかし、ここでの平均差は0.4人の赤ちゃんだ。上記の0.5人の赤ちゃんの影響と比べてほしい。
小さな数字でも長期的には大きな違いを生む可能性があり、研究チームはこれを「運命本能」(「ゆっくりとした変化でも変化は起こる」)で強調している。
エリック・カウフマンが著書で述べているように、宗教は人口増加を促進できる。
追加すべき関連する質問は、「1970 年から 2010 年の間に、世界の人口のうち宗教に属する人の割合はどのように変化しましたか?」だ。
考えられる回答は、a) 88% から 81% に減少、b) 変化なし、c) 81% から 88% に増加です。正解は c) である。
ロスリング チームが、人口メディア センターの素晴らしい活動について言及していないのは驚きである。
この組織は、インターネットや強力なラジオやテレビ番組を通じて、貧しい国の人々に家族計画や避妊に関する知識を広める活動を行っている。
この本には参考文献が多数掲載されているが、その大部分はウェブページの情報源と政府機関の報告書である。
チームは事実を確認したと述べている(より適切な言葉は「データ」、科学者が使う中立的な言葉である)。
最良の知識源は多くの科学雑誌に掲載された学術論文であるが、「Factfulness」には人口に関する2つの重要な論文(Nature 2016とScience 2017に掲載)への言及がない。
そこで著者らは、1990年代半ば以降家族計画の役割が残念ながら縮小していること、これが将来の食糧不安や絶滅危惧種の運命にどのような意味を持つのか、そして何をしなければならないのかを説明している。
ロスリング チームは批判的思考が必要であると指摘しているが、人口増加と環境に関しては、依然として「状況は良くなっている」という本の主なメッセージになっている。
人口増加を抑制し、国際援助を増やすための新たな行動の必要性についての力強い適切なメッセージが欠けている。
対照的に、サイエンス誌に掲載された優れた記事では、温暖化する世界で人口増加を遅らせる方法を説明している。
「ファクトフルネス」ではなく、その記事を米国の学生に無料で配布すべきだっただろう。
紙が減れば、温室効果ガスも減る。
私は、高学歴の人のほとんどは、世界についてかなり現実的な見方をしていると想定している。
仮説は、世界についてあまりに強い肯定的 (偏った) メッセージを彼らに伝えると、状況を改善する行動を起こす人が減るということだ。
飢餓に関するメディアの否定的な報道が、何百万人もの人々を慈善団体に寄付に導いたことを思い出してほしい。
何百万人もの人々が、人口増加の悪影響と家族計画プログラムの改善効果について明確でバランスの取れた情報を得ることができれば、彼らの多くはおそらく、国際家族計画財団、人口メディアセンター、その他の進歩的な組織を経済的に支援するだろう。
さすがに結婚してはなかったがすごく似た話で女側からの相談?愚痴?を聞いたことがある、言ってることが結婚前後で違うというのはおそらくその一回のセックス、しかもEDで完遂せずというのが引き金になってトラウマ発動してるパターンかも
非モテで恋愛経験が少なく過去の彼氏もセックスが下手でおそらくそっちも数回で拒否してる、下手なセックスが辛いのに何度も求められたことがトラウマみたいになってしまってる
新しく彼氏が出来てこの人とならできるかもと内心怖がりながらもセックスして失敗して、またダメだ無理だと逃げてる
自分がセックスが下手とは思いたくないし医療職で中途半端な知識はあるしプライドもあるからドライに振る舞ってるだけなのでは
おそらく少女漫画やBLの男性やセックス像と現実の男性やセックスの間のギャップを埋められないままでいる
端的に言えば拗らせてるのでどうしようもないが、セックスの失敗≒女としての価値が下がる≒プライドが傷付くのを一番恐れてると思うのでちゃんと勃起障害の治療したいとか言ってみるのはどうか、例え厳密には勃起障害でなくとも
自分が少女漫画を読まないのでよくわからないがそういうのを読んで増田側からギャップを埋めてみたり、相手は医療職なのだから勃起障害の患者として悩み苦しんでいるフリをしてみるのはどうだろう?不可能に近いだろうけど離婚前にやれるだけやってみてもいいかもしれない
B:「お、どんな相談?」
A:「最近さ、増田で相談するとさ、結構ぶっ飛んだ回答が返ってくるじゃん?」
B:「ああ、あるな!『仕事辞めたいんです』って相談したら『じゃあ地球出ろ』みたいな。」
A:「そう!極論かデマか、ちょっと突き放す感じか…まあ、なんか半分くらいそんな感じなのよ。」
B:「それが増田の魅力でもあるけどな。」
A:「でもさ、そんな増田でも唯一親身になってくれる相談があってさ。」
B:「なにそれ、ちょっと怖いけど。」
A:「『うんちが堅いんです』って相談。」
A:「そうなんだよ。『食物繊維をちゃんと摂ってますか?』『水分不足じゃないですか?』みたいな、すごい具体的に丁寧にアドバイスしてくれるんだよ。」
B:「めっちゃ健康的じゃん!なんかその瞬間だけ増田が優しい世界になってるね。」
A:「ほんとそれ!『人生やり直したい』には『知らんがな』とか言うのに、『うんちが堅い』には『大丈夫、きっと改善できるよ』って優しくなるの。」
B:「ギャップがすごいな!それ、もはや新しいサービス名作れるレベルじゃない?」
A:「『腸のための増田』とか?」
B:「『うんち悩み24時』とかさ!」
A:「それなら窓口のオペレーター増田、すごい頑張るだろうな。」
B:「『こちら、うんち悩み相談室です。今日はどんなお悩みでしょうか?』」
A:「『ちょっと便秘気味で…』『それは大変ですね、さっそく一緒に改善策を考えましょう!』みたいな感じで。」
B:「めちゃくちゃ優しいやん!『いやー、仕事も恋愛もうまくいかないです…』には『まあ、そのうち良いこともあるよ。』くらいで流すのに。」
A:「なのに『うんちが堅い』には『食事内容を具体的にお聞きしてもいいですか?』って超真剣!」
A:「相談内容に応じてのメリハリがすごすぎるよね。次回から他の相談でも腸の話題混ぜたら、もしかしたら親身に聞いてくれるかもしれない。」
B:「『最近仕事が辛くて…あとちょっと便秘気味で…』って?」
A:「そう!そしたら『便秘ですか?それは大変ですね、詳しく聞かせてください。え、仕事の話?…それは、うん、まず便秘治そう!』って。」
パゾリーニ監督の問題作。終始グロテスクで暴力的、性的描写もエグい。見た後にトラウマを抱えるかも…
体の一部を繋げられるという衝撃的な内容。ホラーとしてもグロさとしても、もう耐えられん…って人が続出。
デヴィッド・リンチのカルト作品。意味がわからないけど、なんか気持ち悪い…って感覚にさせられる映画。夢に出てきそう。
フランスのエクストリームホラー。ショッキングな暴力描写が多く、耐えきれん人にはマジでキツい。
ラース・フォン・トリアー監督の作品で、心理的にも視覚的にもかなりヘビー。見た後に重たい気分になるのは間違いない。
(もうちょっと有名どころなら)
キューブリック監督の名作やけど、暴力シーンが強烈すぎて一時期は上映禁止にされた国もあったんや。内容もかなり過激でショッキング。
幸せそうな家族が、突然の訪問者に理不尽に襲われるというストーリー。理不尽さが逆に怖くて、気持ちが重くなる映画
ドラッグ依存のリアルさを描いた映画。見終わった後、なんとも言えん虚無感に襲われることで有名。
こっちはサスペンスの名作としても有名だけど、衝撃的すぎて「もう見たくない…」ってなる人も多い。
明るい映像と裏腹に内容がめちゃくちゃ不気味でグロテスク。夏の日差しの下でこんな恐ろしいことが…っていうギャップが忘れられない
他にあったら教えてね!
高校時代までボコスカ殴られ脅されの人生で文字通り潰れてたのに、
生活費稼ぎながらでぇがくまで行って(学費は奨学金*子どもが大学に行った肩書が欲しいために奨学金承諾してくれた)、
でぇがくで色んな友達出来たけど初めて自分の家庭環境がカスであることが分かってギャップで潰れ家でウォン!ウォン!泣いて、
就活したら取柄は生命力と自活してきたことしかなく、あまりにも面接向きじゃない経験ばかりの状態で面接に挑み落ち、
結局休学して3年卒業遅らせたけど、休学期間にパッションで乗り切り運よく良いバイト先に入れてもらえて
開発した商品が以外にも好評で長達から褒められ(バイト価格でいい様に使われたけど普通に開発は勉強になった)、
その経験と生命力を取柄に再度就活に臨んだらやりたい業界で結構良い会社入れた!!!!当時の面接官、俺の経験を茶化さず、でも笑って聞いてくれてありがとう!!!
精神科やらカウンセリングなんて根本解決ではない!結局自分がどう決めて進むかや!!となかばやけくそで人生走ってたら運がいい結果になった!
あまりにも運が良い!!!やけくそで進んだ道が間違いだったら終わるのに!!!でも間違いでも正解にするためにきっとまた走るんだろうな!!
反骨精神というかハングリーな性質を持って生まれてきたことが本当に運が良かった
今後人生どうなんのかな~生きてるのか死んでるのか予想付かね~
フィローワインうめ~
【要約】
道路工事現場で、ガードマンが横断歩道を渡る自分に無理に停止を促したため、法律に反する行為であると指摘し謝罪を求めたが、現場責任者や市の担当者からも誠意ある対応は得られなかった。現場で工事看板がなく、許可証の掲示もされていないなどの問題があり、警察にも確認を求めたが、対応は煩雑で効果がなかった。その後、市の担当者に改善を求めたが、結局大きな変化は見られなかった。この横断歩道は自分の息子が通る場所で、将来の事故が心配だが、社会の現状に対して無力感を感じている。それでも、歩行者の安全を無視しない姿勢を持ち続けているが、70代の母親に「無駄で幼稚な行動」と言われたことで怒りを覚え、自分の信念と現実とのギャップに苛立ちを感じている。
【批評】
この話、歩行者の安全とか社会の問題についての不満がめっちゃ強く出てるんやけど、いくつか気になる点があるわ。
まず、ガードマンに対して正論をぶつけてるんはええねんけど、ちょっと威圧的すぎるんちゃうかな。相手も反発してくるやろし、話が進まん原因になってる気がするわ。もうちょい冷静に、相手の立場も考えながら話し合う方が建設的やったんちゃうかと思うねん。
あと、警察とか市の担当者に相談して問題を解決しようとしたのはええんやけど、もっと早い段階でしっかり対応を頼んでたら、もうちょいスムーズに事が進んだんちゃう?なんか、途中で無駄に時間と労力使ってる感があって、そこももったいないわ。
自分の息子が通る道やから、そら安全に気ぃつかうのは分かるけど、「強引に渡って車に急ブレーキ踏ませる」ってのは、いくら啓蒙活動や言うても危ないやん。他にもできる方法、考えてみてもええんちゃう?
そして、70過ぎのお母ちゃんに「そんな幼稚なことして」って言われたんが一番ムカついたらしいけど、大人の行動ってのは、ただ諦めるんやなくて、もっと冷静に解決方法を見つけて動くことも含まれてると思うねん。感情的になって突っ走るんやなくて、ちょっと落ち着いて話し合う方が、結果的にいい方向に行ったかもしれんなぁ。
全体的には、社会に対する問題提起としては共感できる部分もあるけど、感情が先走ってるせいで、逆に解決が遠のいてる面が目立つな。
私はトランスジェンダーで、「性自認って結局何?」とよく聞かれるから、私の理解する限りで書いてみる。と言っても、専門家でも何でもない当事者の一人が本を読んだりして考えたことなので、正確性は保証できない。
まず「性自認」はgender identityの訳語だ。identityは「自己同一性」と訳したり「アイデンティティ」とカタカナで書いたりするが、高校現代文のキーワードとしてお馴染みだからよく知られてる言葉だと思う。もともとはエリクソンという心理学者が提唱した概念。エリクソンは難しくてちゃんと読めてないけど、解説とかを見ると、要は安定して持続的な「自分はこういう存在だ」という意識のことらしい。
アイデンティティの確立は青年期の課題だとエリクソンは考えていた。思春期に自分は何者なのかという課題に向き合い、それを乗り越えるなかで自分のアイデンティティを確立していく。それがうまくいかないと同一性拡散という自分が何者なのかわからない崩壊状態になり、様々な精神的な疾患を生じさせる。
このアイデンティティだが、単に個人の内で完結するものではなく、社会との相互交流の中で、社会に自分自身を位置付けるようにして形成される面も大きい。それは例えば、自分自身を特定の言語と結び付けるとか、特定の国と結び付けるとかして、「自分はこの国の人間だ」というアイデンティティを形成する場合などに起きる。性別もこの関連で扱われる。
この社会には主に二つの性別グループがあって、良し悪しはともかくとしてそれぞれ違う扱いを受け、違う行動傾向を育んでいる。思春期の体の変化に気持ちが追いつかず、いきなり「男」や「女」を期待されて苦痛を覚えた人は多いと思うけれど、そうした人はアイデンティティの確立が始まる時期にまさに自分と性別グループの結び付けという課題の解決に困難を覚えていたのだろう。でも多くの人は思春期を過ごす中で遅かれ早かれ少しずつこの課題を乗り越え、安定した仕方で自分と特定の性別グループを関連付け、その性別の人間としてのアイデンティティを確立する。
gender identityというのはこの話だ。多くの人は青年期にアイデンティティを確立する過程の一部として、葛藤を乗り越えながら自分と特定の性別とを結び付ける自己理解を発現させ、それで心理を安定させる。
性別に関してややこしいのは、こうした青年期の課題としてのアイデンティティの確立とは別に、子供の頃に決められ、周りからの識別に使われるラベルとしても性別が機能している点だ。だから、gender identityの確立は単にアイデンティティを安定させるだけでなく、すでに与えられているラベルに即したアイデンティティ形成を期待されるという面もある。多くの人は多少の葛藤はあれど、これらをいずれも遂行していく。こうして人はシスジェンダーに育っていく。シスジェンダーの中にも葛藤が他の人より長引いたり強かったりする人もいて、そうした人は性別違和に似た感覚を覚えたことのあるシスジェンダーになるのだろう。
けれど、ごく稀に何らかの理由でそれがどうしてもできない人がいる。つまり、性別に関してあらかじめ与えられたラベルに従おうとするといつまで経ってもアイデンティティが拡散し続け、心理的な症状を生じさせる人だ。言い換えると、性別違和を感じる人だ。そうした人の中には、周りから期待される性別と異なる性別に自己を結び付けて初めてアイデンティティが安定する人もいる。ただ、その場合でもそのままでは周囲がそのアイデンティティを承認してくれず、社会と摩擦が生じ続けるし、自分のアイデンティティもその都度疑われて安定しづらくなる。だから、摩擦が生じないように見た目を自分と結びついている性別の人間として周囲に承認されやすいものに変えていくことがある。これがトランスジェンダーだ。
中には、どちらの性別グループとも安定した結び付きを形成できない人もいる。そうした人たちの中には、ノンバイナリーという新しいグループの一員として自己を理解したらアイデンティティが安定する人もいる。
一人の当事者に過ぎない非専門家の素人意見だけど、性自認というのはこういうものだと私は考えている。
この考え方だと、反トランスの右派がトランスを攻撃する中で持ち出してくる「トランスエイジも認めないとならないのか」という議論の馬鹿らしさも見て取れる。特定の年齢や年代であることというのは常に流動的で、青年期における安定したアイデンティティ確立の課題には関わりようがなく、例えば18歳としてのアイデンティティを葛藤を乗り越えて獲得するなどといったことはなされない。なので、そもそもアイデンティティには年齢という要素は入っておらず、それゆえ割り当てられた年齢と年齢自認のギャップなどというものは生じない。性自認を単なる自称に貶めるためのレトリックに過ぎない。
トランスレイスも反トランスのレトリックで頻繁に持ち出されるけど、こちらについては人種アイデンティティのことに詳しくないからよくわからない。ただ、人種が養子とかでなければ多くの場合で親から子へと引き継がれるがゆえに、その家庭の人間としてアイデンティティを形成することとその家庭の人間にはない人種の持ち主としてアイデンティティを形成することが矛盾し、安定したアイデンティティに向かわないとかはあるかもしれない。そうすると、性別の場合と違ってトランスが、不可能かはわからないけどかなり困難になるだろう。
俺は地元が荒れまくっていて、何人か友達も死んでるし、俺自身も弱者男性に巻き込まれたことがある被害者だ。
だから、最近の弱者男性団の話を見ていて、「頭が悪いから弱者男性になる」とか「能力がないから弱者男性になる」といった思考が広まりすぎていることに疑問を感じる。
いいか、今問題になっているのは、「何も悪くないのに弱者男性になってしまう」ことだ。倫理意識が高かろうが、頭が良かろうが関係ない。
お前が言っているのは「詐欺は騙される方が悪い」みたいな極論だが、何も悪くなくても弱者男性に巻き込まれることはある。
普通の人たちが仕事をしている時間に、「どうやって弱者男性として生き延びるか」を考えている人間がいるという現実を知れ。
加害者にも被害者にもなる可能性があることを忘れてはいけない。
「何言ってんだ?」と思うかもしれないが、これは事実だ。
犯罪界隈にいたことがあるなら、「弱者男性団には入るな」というのが常識だ。
不良界隈でも、「これは実刑までいく」とか「これは割に合わない」と判断するものだ。
お前や俺みたいな普通に生きている人間が弱者男性団に巻き込まれることが多いんだ。
●どうやって弱者男性団になるのか
SNSやバイトサイトで、普通のバイトのように見える募集に引っかかることが多い。
そして、現場に行った瞬間に免許証やスマホを奪われ、逃げることが難しくなる。
●じゃあなぜ今こんなに弱者男性団が増えているのか
要因は3つだ。
①技術の普及、②犯罪のファンタジー化、③ノウハウの高度化だ。
アプリやSNSで簡単に人を集め、情報を共有することで、犯罪が身近なものになった。
そして、不良が減りすぎて、犯罪が現実から遠くなりすぎた結果、弱者男性になることが軽く考えられている。
女性は結婚や社会的支援によって比較的安定した生活を送りやすいが、男性はその選択肢が限られている。
このギャップが、弱者男性が社会から弾き出され、犯罪に手を染める原因にもなっている。
犯罪を避けるためには、犯罪界隈の知識やノウハウを持つことが必要だ。
お前も弱者男性になるし、俺も弱者男性になるし、お前も被害者になるし、俺も被害者になる。
そういう意識を持って生きていくべきだ。
よくカップ焼きそばを一緒に食べようと誘われていた。誘ってもらえるのは嬉しかったし、よく半分コした。
あれ多分東リベの影響だったんだなって今更気づいたわ。ハマってるんだってことしか知らされてなくて、カップ焼きそばの誘いと関係あると思ってなかった。あと近所にペヤング売ってなくて毎回UFOだったし。
女子校だった。大して賢いとも馬鹿とも言えない中高一貫。でも高3になったら学年の10割が大学受験をする。まぁ大学は行くもんよねって世界だった。ボリュームゾーンがMARCHくらいのノリ。
それから、ガチモンのお嬢様も学年に2,3人いる学校だった。そして察するに先輩はガチモンのご家庭。
あの漫画に影響受けてやることが後輩と焼きそば食べることなんだ。健全だな、と思うと同時に、お嬢様の限界を見た気がした。
不良とか喧嘩とか、そういうとこに行かないのかそうか。
今更元ネタを知った身としては、場地さんとのギャップになんかじわじわ来てしまう。
でも憧れたんだろうな。憧れって仕方ないもんな。当時の先輩の歳を超えた今では、ちょっと可愛く思える。
私あと半年ちょいで二十歳なんで、また今度飲みに行きましょ。
親しい他人との会話でも未だにどんなコミュニケーションが最適なのかわからないことがある。
(「コミュニケーションに正解はない」という話はここではしない)
とくに「相手の意見」と「自分の意見」が異なるとき、しかも相手の意見が事実に反するときのコミュニケーションの正解がわからん。
例えば彼女が「東京の治安が前より悪くなってて怖いよね」と言ったとき、インターネットに入り浸って賢くなった人間なら当然のごとく
「東京の犯罪発生件数は戦後から下がり続けていて今が最も治安の良い時代なんだよ。あの足立区ですら・・」と早口でまくし立てるんだろうけど
ギリギリ社会性を持った動物である俺は「ふんふん。そうなんだ。どんなところが?」とその先の話を促すことはできるんだけど
ひととおり彼女に喋ってもらったあとで「なんか東京の治安は改善してるって見たことあるよー」みたいな中途半端な言葉を口に出してしまって
大した問題ではないんだがどのようにこれを改善できるのか(キモってならないのか)客観的な意見があれば教えて頂きたい。
これを書く前に自分なりに考えてみたところ、おれは「事実」に興味があってコミュニケーションの中でそれを明らかにしたいという傾向がある。
前述の会話では彼女が「東京の治安が前より悪くなっている」と言ったのでそこにフォーカスしてしまい事実を明らかにするために会話をしたが
彼女含む多くの人にとってそこはどうでもよくて話題の主軸は「怖い」の部分なんだろうと理解した。
どちらが正しいとかではないんだが、このあたりのギャップを埋める方法やどのように意識をすればいいのかみたいなところも気になる。
主観の話と言われればそれまでだけど、自分の中でストンと納得できたという話。
徒歩で街なかを歩いているといつも疑問だったのが、女性って絶対に道を譲らないのね。
例えば曲がり角。
こっちが直線で、女性が曲がり角からでてくる時、このまま行くとぶつかるよなってタイミングでも女性は普通に曲がり角から出てくる。
交通ルールでいうと基本的に直進優先なので、遠慮の塊にならないように優先側として先に行くようにって考えてるんだけど、女性の場合そのルールが通用しない。
それでいて歩くのが遅かったり、夜道だったりするとちらちら後ろ振り向いたりして、いや、だったら最初から後ろに行けよみたいなことがめちゃくちゃたくさんある。
例えば横断歩道。
車道ギリギリで待ってると危ないから車道から1人分くらいスペースを開けて待つんだけど、その隙間に入ってくるのも女性。
急いでるなら仕方ないかなって思ってると、スマホみてて青になったのにも気づかなかったりする。で、やっぱり歩くと遅い。
例えばすれ違いざま。
道路の右側だろうと左側だろうと、すれ違うときに絶対に自分が車道側には出ない。
別に意地悪してるわけじゃないけど、自分が車道とは反対側に寄ろうとすると、それこそ壁にくっつくんじゃないかってくらいの勢いで、意地でも車道側には出ようとしないんだよね。
これ、自分の場合だけじゃなくて、相手が子どものときもだいたいそう。
子どもは素直だから邪魔にならないように車道側に避けるんだけど、いや、普通守られるべきは子どもだろうって。
だったら女性同士はどうなるんだよって観察してたら、何やらよくわからない謎のルールですれ違っている様子。
結構なパターンを観察してたけど、結局わからなかった。でも、車道側歩く側は相手を睨んでることが多いので、閾値の差かもしれない。
で、これって、自転車に置き換えても同じで、交通ルールよりも何よりも、まずは自分が優先されることが前提になってる。
歩行者がいるから停止線で待ってると、当たり前に無視して追い抜いて行くし、その後こちら側が圧倒的な速度差で追い抜いても、次の信号待ちで当たり前に追い抜く。
もちろん優先道路っていう概念もないので、脇道からも自分が先だって勢いで出てくるし、こっちの直進を止めてでも右左折してきたりする。
もうそれは、ルールを知らないじゃなくて、「自分が優先」っていう考えでしか動いてないとしか思えない。
じゃあ男はどうなんだって話になると思うんだけど、少なくとも自分の界隈だと、男同士でそれをやるともう殴られても文句を言えないっていうくらいダメなことなのよ。
何かの記事で男性は侍マインドなんて言ってたけど、その部分はあながち的外れでもないなって思った。
男性同士の場合、「理不尽なことをしてしまったら反撃されても文句は言えない」っていう暗黙のルールがあって、それがあるから理不尽にならないようにルールとは何かを学ぶ習慣がある。
だから前に書いたみたいなことをしたら、それはもう喧嘩を売っているのと同じだから。
馬鹿みたいだって思うかもしれないけど、「俺はルールを破る。なぜならお前は俺よりも下だからだ。」っていう意味になるのよ。男性同士だと。
そうしたらもう悔しいけどそれを受け入れるか、実力で違うと証明するしかない。
でも誰もそんなことしたくないから、まずはお互いルールを守りましょう。間違ってしまったら素直に認めましょうっていうルールがしっかりと根づいてる。
同時に「女子供には優しくしろ」っていう暗黙のルールがあるので、女子供がルールを破ってもすぐに攻撃したりはしない。
どうもこの組み合わせが良くなくて、公共の場で女性の身勝手を許容するという良くない状況を作っているような気がする。
ただ、やっぱり会釈の一つもなくさも当然でしょって顔してる女にまで優しくしてやる道理はないので、舌打ちが出たりはするよね。
もちろん全員じゃなくて、優しくしない男もいるし暴力振るう男もいるし全部が全部とは言わないけど、体感だけで言うと、歩行中のルールを守ってない比率は男性2に対して女性8くらいの割合で違う。
で、この話をすると必ず「男だって譲らない」って話になるんだけど、それには2つの疑問があって、
・いや、その前にあなた譲ってる?
についての意見を聞かせて頂きたい。
なぜって、いままで不満を書いてきたけど、それでもやっぱり自分は譲るのよ。
それが男の矜持だなんて大げさなことではなくて、その方が正しいって教わってきたからそうするだけくらいの話。
女性にはやっぱりそれがないなって思う。
街なかにいたムカつく男の話を聞くことはあっても、だから自分は気をつけようっていう話を聞いたことがない。
むしろ自分がルールを守らないのは、男性にひどい目にあったからだみたいな開き直りすらある。
うーん。
やっぱりその思考では、簡単に人の命を奪ってしまいかねない車の運転は無理だよ。
で、話が戻ると、女性は自分が女性であることを自覚した上で、あえて自分が優先の行動を取る人が一定数いるよね。でも、車に乗ってしまうとひと目見て女性だということがわからないから、そのままのメンタルでハンドルを握ってしまうと、男性ドライバー側から男性と同じ秩序を求められるので詰むよねという話。
生物学的に女性が運転を苦手だなんてのは間違いで、女性優遇された環境に慣れすぎで車の運転ではそのギャップを埋められてないだけなんじゃないかな。
もちろん女性にも運転が上手い人はいて、要するに運転がうまい=秩序を正しく理解しているっていうことだと思う。
女性だとわかると周りの運転が強引になるっていう人もいるかも知れない。
それでもキビキビ運転している車をあえて煽ったりなんてしないし、それはやっぱり運転がとろいんだと思う。
とろい車がいて、運転席見たらやっぱり女性だったという認知バイアスは否定しない。
とろい車を煽っていいなんてルールはないけど、それでもそこに男女の差はなくて、安全を守るためにシビアな秩序の運用が求められる世界では、乱す側が悪であるという評価はどうしても切り離せないのだと思う。
そういう意味で、普段から訓練できてないことを車に乗ったらいきなりできるかって言われるとできるわけなくて、まずは日常生活から交通ルールをしっかりと意識した行動を取るのがいいんじゃないかな。
カルピス軍団の「かるぴすぎつね」が共産党から出馬予定の八鎌健太(やかまケンタ)ではないかと噂されている
八鎌はcolabo支持でありたまにカルピス軍団とも絡みがあった
カルピス軍団は「フェミに金もらって活動してんだろ」などと暇アノンに言われることがあり、「はい、お賃金はどんぐりです」などとどんぐりネタで内輪でよくキャッキャしていた
八鎌はそのどんぐりネタに乗っかって、カルピスの一人が最新のiPhoneを買った際に「カルピス軍団の給料なら余裕ですよね👍」と返信
ただのどんぐりネタにすぎないのだが、暇空らが「カルピス軍団が共産党に金を渡されて活動してる証拠」と騒ぎ、八鎌が注目を浴びる
その結果、1995年7月26日生まれという共通プロフィールを持つ八鎌とかるぴすぎつねは同一人物ではないかという説が生まれた
意外にも(?)その説を唱えたのは暇アノンではなく、カルピス軍団仲間かつ実名を出している木野寿紀であった
垣鍔が少し掘れば身元バレバレとはいえ、「カルピス」という匿名アカウントで方々へ誹謗中傷していたのを揶揄して発生したのがカルピス軍団である
「かるぴすぎつねは垣鍔を散々批判していたのに、お前同じことやってんのかよ、しかも出馬を控えた身で」……と木野は突っ込みたくなったのだろう
カルピス軍団は烏合の衆で極フェミからまんまん連呼まで色々あるのでガチ喧嘩したり、あるいは暇空を釣るために「喧嘩ごっこ」をしたりする
勝手に身元バラしたことで木野はかるぴすぎつねにブロックされたというが、ガチで揉めてるのか、選挙直前に八鎌の知名度を高めるための「フリ」なのか
カルピス軍団にしばき隊の人である木野がいるというだけで「ガチ感」が出てしまい、それが嫌でカル活をやめたという人もいるのだが、共産党から出馬する人が潜んでいたとしたらますますガチ感が高まる
暇空に開示された「文鳥」というカルピスは一般人確定しているので、総員がガチではないと思われるが
裏垢身バレは垣鍔のように表向きの言動とのギャップが大きすぎると身を滅ぼすが、かるぴすぎつねは人権人権人権なキャラだったので、共産党支持者ががっかりする内容ではなさそうなのが救いか
まあ八鎌=かるぴすぎつねが確定したわけではないが
垣鍔=カルピスは名前を呼び合っていたことや暇空の弁護士に立候補するリプで本人確定しているが、誕生日はかぶることもあるし、何らかの目的で真似して表示することもありえる、よくわからん
タイトルの通りあんスタでプデュをやったら誰が選ばれるのか考えてみた
条件
・9人組
・9pick→6pick→2pick→1pick
・◯◯の息子だの◯◯財閥だのの設定はひとまず無視=権力票とかはありません
※以前知恵袋に似たようなことを書きました 内容が同じところもあれば変更したところもあります
※裏設定ですが1ユニットから最大2人までにしています(knightsで5枠とかだとつまんないので)
朔間零
巴日和
月永レオ
天城燐音
天城一彩
漣ジュン
朱桜司
HiMERU
高峯翠
守沢千秋
風早巽
仁兎なずな
以下順番に考察
こいつどうやったら倒せる?
スキル申し分なし、美形、炎上しなさそうな性格、カリスマ性 ほぼ全て完璧に近い
9pick時点でも強いのは間違いないがそれよりも1pickが鬼強そう 朔間零推しは救済票とか絶対しないイメージ
ただこの人が1位(=センター)だとデビューグループのコンセプトが狭まりそう できれば2位か3位でデビューして美味しいキリングパートを貰ってほしい
まあデビューすると思う
明るい性格とパフォーマンス、ダンス強者、そこそこ高身長、前世持ち(元fine)というあたりシグナルソングセンターっぽい
高音もいけるしコンセプト消化能力もあるので1位デビューでセンターを勝ち取ってもらいたいけど、確定枠5人の中ではちょっぴり1pickは弱そう 漣ジュンに救済票とかしそう
プデュオタクは自主制作曲に強い憧れを持っているので(偏見)、作曲家の月永レオを手放す選択肢はなさそう 番組側も推しそう
初期退場or確定デビューで迷った
あんスタは炎上芸人が多すぎるので誰をこのポジションにするか迷ったけど、「炎上で注目を集めつつパフォーマンスで人気獲得」というムーブを意図的にやれそうなのが天城燐音だったので確定とした
ただし前述のとおり作戦がハマらなければ初期退場もありうる
燐音と違ってこちらは堅実に人気を集めそう
ド新人だけど成長が早い、ツーブロにピアスの遊んでそうな見た目なのに真面目で純情天然キャラ あたりプデュオタクに刺さりそう 「確実にスキルが伸びるひよこ枠」はみんな大好きなやつである
燐音との兄弟ケミも人気が出そうだけど、人気が出そう故に1pickで票割れしそうなのが心配
ーーー↑まで確定枠ーーー
確定枠にするか迷った
MVを見るとダンス歌ラップ全部できるようなので、初回からぐんぐん順位をあげてデビューしそう
クラス分けではあんまり分量をもらえなさそうなので、序盤のグループバトルでどれだけアピールできるかが重要だと思う 第一回順位発表式を乗り越えられるかが正念場になりそう
スキルやビジュも申し分無いんだけど何よりポジションと性格が美味しい
最年少ながらKnightsの現王様、確かな実力があり、しっかり者だけど案外子供っぽい一面もある←あまりにもプデュオタに受けそうなマンネ枠すぎる
ただしKnightsは激戦区なので、(候補には上げなかったけど)瀬名泉・鳴上嵐・朔間凛月が枠をぶんどる可能性はある
こういう都会的で上品な大人っぽいキャラ、意外とあんスタにいないかつ視聴者ウケがよさそう
HiMERUという芸名と「HiMERUは〜〜なのです」という構文はネタ的に面白いけど、ネタキャラから脱却するためにコンセプトバトルではきっちり本人のイメージに合う曲を勝ち取りたい
ーーー↑まで高確率枠ーーー
知恵袋では入れてなかったけど枠その2
日プ女子の村上璃杏がTikTokでバズってデビューしたことを踏まえ、そういやバズ枠がいないな〜と思って候補に入れた
パフォーマンススゲー!的なバズり方は望めない(他がすごすぎるので……)が、高身長イケメンという特性を生かして顔でバズってほしい
私の中で「顔スキル実力的には絶対デビューなのに1pick弱そう三人衆」なのでまとめて考察
1pick投票ではオタクに(この人は私が絶対デビューさせなきゃ……!!!)と思わせないと勝利を掴めないけど、この三人は全ての要素がAランクの優等生なのでオタクの執着心を煽らなさそう
この中では膝の怪我や元トップソロアイドルの経歴うんぬんで風早巽が強そうだが、オブリガードから考察するとこの中で一番オーディションに向いてなさそうなのも風早巽である センターやメインポジションを簡単に他の人に譲ってしまいそう
逆にいうと濃いオタクさえついてしまえば勝ち確の三人 全ては番組次第
プデュorプラネットはちっちゃ可愛い系男子に異様に厳しい番組だけど、ちっちゃ可愛い枠の希望の星として候補に入れてみた YouTubeのソロカメラが良かったので。
ちっちゃ可愛い枠ではあるが中身は面倒見のいいお兄ちゃんなので、どこかのバトルでリーダーを務められたらかなりアツい
あんスタキャラ内で見てもビジュアル・スキルともに上位、旧ヴァルやナイトキラーズみたいなパフォもできるあたりコンセプトの幅も意外と広い
ただし既に書いた通りプデュプラネットはちっちゃ可愛い男子に対して本当に厳しい 仁兎なずなほどの人材ならやっとギリ勝てるチャンスあるかも……(?)というレベルである
Copilot
それはかなり悩ましい状況ですね。自分が大切にしているものが実際には偽物だったりすると、その人の感情や信頼感にも影響が出る可能性があります。でも、この話をどう進めるかは慎重に考えた方が良さそうです。彼女の気持ちを傷つけずに、正しい情報を伝える方法を見つけることが大切かもしれません。
例えば、ジュエリーを一緒に見に行く機会を利用して、品質や正規品の大切さについて自然に話すのも一つの方法です。彼女がもっと知識を持つことができれば、将来的にはもっと良い選択ができるかもしれません。
でも、その前に彼女がどのように感じるかを理解し、彼女の立場に立って考えてみることが大事だと思います。どう思いますか?
この文章を書いた人は真実の出来事ではなくなんらかの意図を持って創作されたフィクションであると仮定し、その場合の書いた人の精神性は推測できますか?
フィクションとしてこの文章を考察するなら、書いた人の精神性についていくつか推測することができます。
まず、この文章の内容からは、ブランド品やその真贋に対する強い関心が読み取れます。これは、書いた人が社会的なステータスや他人の評価に対して敏感である可能性を示唆しています。また、他者の無知や価値観に対する批判的な視点も見受けられます。これは、書いた人が自分の価値観や知識に対して強い自負心を持っている一方で、他者の見識の欠如を許容しにくい性格である可能性を示唆しています。
さらに、文章全体にわたるフラストレーションや不満の表現から、書いた人が現状に対して強い不満や不安を感じていることも考えられます。これは、書いた人が自分の価値観や期待と現実との間に大きなギャップを感じていることを示しているかもしれません。
結局のところ、書いた人の精神性は非常に複雑で、多くの要因が絡み合っていると思われます。具体的には、自分と他者の評価に対する敏感さ、知識や価値観に対する強い自負心、そして現状に対する不満や不安などが感じられます。
大体努力という言葉が嫌いな人は自分に必要な努力を定義できていないことが多い
努力というのは人生の問題解決においてどのタイミングで発生するかと言うと、
1.目標を設定する(〇〇大学に来年合格したい→〇〇大学の模試判定Aランクを冬までに取る)
2.目標に対して自分に足りないもの=理想と現実のギャップを明確にする(模試判定が夏時点でCランク)
3.目標を達成するまでのプロセスを細分化してどこのプロセスがギャップを発生させているか=問題があるか分析する(英語の点数が低い、勉強時間が短い)
4.取り組むべき問題を決める(余裕があるなら複数個やればいい)
5.問題が何故発生するのかなぜなぜを最低5回繰り返して真因を特定する(英語の文法を理解していない、部活の後片付けに時間がかかる)
6.真因に対して対策を決める(文法ドリルを冬までに2周する、部活の後片付けを改善して一日あたり30分勉強時間を増やす)
つまり、努力とはある目標を達成する際に問題となっていることの要因に対して対策を実行する際に行うことで、それを定義するには目標とそれを達成するときの障害となっている問題とその問題を引き起こしている原因を定義しないといけないのだが、それができていないことが多い
努力が嫌いと言っている人は努力が嫌いなのではなく、目標がなかったり、目標があってもそれを達成する方法や課題が曖昧だったりすることが多い
なので、努力が嫌いという言葉で思考停止せず、努力にこだわる前に自分の目標を明確にしてそこに至るまでの課題を明らかにすることで何をやるべきか具体化することが大事
ってワートリ最新話に書いてた