はてなキーワード: 絵コンテとは
あれだね、大学の頃からすでにもうおかしなレベルのものつくっててビックリしてしまいました。
例の庵野監督が素顔でウルトラマンの役を演じている作品とかって
たしかにこんなものつくってたら大学に行く暇なんてなくなるな、と納得。
それを読むと、そのコンテを全く再現できていなかったりもして
なるほど、こういうところがプロの仕事では無いとも言えるのだな、と思った。
ああこれCGがない時代に描いたエフェクトなんだよね?って信じられない思いがする圧巻のものばかりだった。
ただ疑問を感じたのは、これほどのものが描けるのにどうして人間は下手、というと言葉が過ぎるかもしれないけど
あと今更ながらアニメとか映画、って色んな人が参加して出来上がっているプロダクトワークなんだな、って実感できた。
もともとの庵野監督のイメージがあって、それがどんどんと膨らんでいって完成度を増していく過程を一部垣間見える部分があって興奮しました。
でも沖浦啓之が世に出てきただけよかったよね
機動警察パトレイバー 2 the Movie(1993年)原画、作画監督補佐
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(1995年)キャラクターデザイン、作画監督、レイアウト、原画
人狼 JIN-ROH(2000年)監督、キャラクターデザイン、レイアウトチェック
これは事実だと思うんだよ。
でも、これを否定する人って結構いるんだよね。懐古厨とか、すぐ言ってくる性格の悪い人が
。
まー今のように動画配信なんかないので狭い世界と言われればそうなんだけど、だけど作品に対しての情熱は昔のほうが大きいし熱かったと思うよ。
それだけに盛り上がっていたんだよ。
この作画はもっと細かく描いていきたいな、ここでこの演出は胸が熱くなるだろう。
みたいな感じで、作る楽しみと作る気力が充実していたのが昔だと思う。
なら、今のアニメはそういうのがないのか?って言われると無いんじゃなくて、情熱を持って取り組んでいる人が少ないって言ったほうが正解かなって。
面白い作品は現代も変わらず多いし、TVでの放送も昔とちがって鮮明でキレイに映るし表現も豊かになっているから見どころは多くなったと感じる。
だけど、単なる『仕事』という考えで作っている感がある作品っぽく感じられるのもある。
とりあえず間に合わないからDVDで修正しても良いや、作画崩壊してるけど放送しちゃおうみたいな感。
それはもう情熱なんか持ってられない、『作業』という言葉で工場のコンベアを流しているような感じ。
昔もあったけどね、作画が間に合わなくて絵コンテだけでアテレコしてるのは。
なんか情熱がなくなってきてて、苦しい作業を繰り返しているみたいな状況になっているのが今のアニメ業界に思えるんだよね。
賃金も安いでしょ。
あれもいけないんだ。もっとアニメーターには賃金を出してあげるべきなんだよね。
モチベーションが上がらないのに情熱を持てって言われても、それは本当一部の苦行を苦行すら感じない情熱家だけだものね。
それが出来たのは昔だからなんだよなって。
そりゃ同じように作れるかって言うと作れるわけはないよね。それは仕方ない。
まあ、最初と最後だけ読めばいい話になってるけど、昔のアニメ業界は狭い世界だったかもしれないけど、
一枚一枚細かな所まで手で作り上げてる作画なんかホントすごいって思うもの。
タコピーが何だったのかという点の説明が無さすぎたので作者がタコピー(マッチポンプメサコン野郎)に思えてしまった
勝手に手出しして勝手に自己犠牲して勝手に解決して勝手に「ありがとう、バイバイ(笑泣)」って何なん?
メンヘラを救おうとしたら死ぬ覚悟での対話がが必要ってことが言いたかった…?
のであればわからんでもないけど…うーん
毒親持ちに介入する「お節介さ」(これは作者が家庭問題をモチーフとして表現に用いることを含む)に対しての自己批判が無いというか
いやそれが原罪?詳しくないけど原罪って死ねば解決すんの?救われてはないの?
確かに死で報いは受けてはいたんだけど、結局タコピーの行いは肯定されていた(友達できました&親の悪口言いつつも何とか生きられています、は割と穏当に落ち着いていたハッピー性の表現だと思う)のが納得行くような行かないような微妙な気持ち
結局タコピーは天国に行けたのか地獄に落ちたのかって描写がされなかったのがモヤっている
(天国地獄というのは概念としての話。罪というからにはどちらかに行くのがケジメでは?
(例えばハッピー星で今回の件を怒られるとか怒られないとかそういう描写)
喩えとして出すのが適切かは分からないけど
クジラックス作品のロリコンは逮捕されたり裁判されたりはする(ことも多い)(≒地獄描写がある)じゃないですか
何かそういうアレです
ハッピー星人=他人を救おうとする存在=そもそもエゴだよね=原罪 ってことかなぁ
タイトルがそういう意味ならわからんでもない(けどそれを読み取れと言うならちょっとでもいいから解説欲しかったな)
わざわざ言うのは野暮、自発的に気づかないと意味ないってことならそれもわからんでもないけども
上記に関連するけれども、タイムリープとハッピー星の存在の背景とか、結局タコピー何者だったん?とか
ハッピー星人の生態?とか、タコピーがハッピー星人の中でどういう特性があるのかとか
宇宙人がいることとか超常現象が起きることは全然ファンタジーでいいんだけど、ファンタジーなりの理屈(SF的な)が欲しかった
商業的に思想出せなかったなら同人誌で補足が欲しいまである…(何となくだけど作者あんまりそこに興味無さそうな気がするし、仮に作者がやりたくても契約関係で出来無さそうな気がする)
尺の問題と言われればまぁ…納得だけど個人的にはそこが一番見たかった
「しずかちゃん」という名前といいハッピー道具といい、ドラえもんリスペクトとおもわれる要素があったのでなおさらSF描写期待してしまっていた……
時系列解説するような多少メタ視点キャラが作中に出てきて欲しかった…
(無理に作中に出てこなくても、単行本とかに後出しで解説補足されたりしたらそれでもいいけど、これもイメージだけど作者があんまり作品外で語るの好きそうなタイプには思えないので)
東くんは兄と仲良く喧嘩できてて友達とゲームできてて、しずかちゃんとまりなちゃんは親の悪口言いながら何とか生きてるみたいな落とし所は別に悪くはないし、よかったと思う
ただもうちょいモンスター映画みたいなラスト(最後にニョロっとリアルなタコの触手がフレームインするみたいなやつ)の方が個人的な好みではあったんだよな…
B級でもいい、コズミックホラー要素が欲しかった(タコモチーフだし)
そうじゃなきゃせめて虐待描くならば描くなりに、教師とか警察とか児童相談所とかの大人&社会要素が欲しかった…
※この辺は某方の「虐待描写のリアリティ」noteが詳しいです
話題性がTwitter露悪好きサブカルお気持ち論壇的にウケたんだろうなぁということは分かる
狙ってなかったバズりだったのだとすれば、今後の書籍の売上次第ではWeb漫画マーケティングの成功例として参考にはされそうだなと思った
タコピーが作品名でもありキャラ名でもあり固有名詞であり、なおかつ表記揺れしづらいのはSNSにおけるWeb漫画のトレンド入り的な意味で大事な要素だよなぁ…狙ってやってたなら凄すぎる、担当者優秀だ
今(更新日の明け方)見たらおすすめトップに公式の更新告知ツイート表示されてたし、Twitterのプロモーションも出してるし、こないだのYouTubeの単行本CMといい少なくとも現時点でSNS宣伝費にそこそこお金出してるのは間違いない
商業作品としてはちゃんと売ること・完結させることがなによりも優先されるべきだと個人的には思うし、説明不足に感じた点はあったにせよリアルタイムで追えて楽しかった
更新頻度とか連載期間とか…或いは打ち切りとかも…紙のジャンプがアンケートで諸々決まってるみたいにPV数とかTwitterトレンド入り具合とかに左右はされてるんだろうけど
この辺の采配や裏の仕組みが分からないから実際尺不足だったのかどうかとかはよく分からん
バズった→上下巻で書籍化決定(それが一番売れるという判断があった?)→構成に影響
みたいな事情がありそうな無さそうな…
上記の補完コミの映画化されるなら凄く見たい、作者は絵コンテだけ監修してもろて、監督と脚本はベテランの別の人がいいです(誰と言えるまで詳しい訳ではないが、例えば新房昭之ででっかいスクリーンでドアップでシャフ度になるしずかちゃんとかオタクは見たくない?私は見たい)
とにかく丁寧なアニメ映画として見たい感はめちゃくちゃある
見開きページとか表情のアップとか
とにかく絵面での演出が過多に思えるくらい盛り盛りなので動画映えしそうだな〜という感じ
実際作者も映画好きという情報は何かで見たし、好きかつ得意なことなんだろうなぁ
アニメ映画化したら観に行きたい(実写映画化したらそれはそれで一周回って見たい。そして邦キチで取り上げられて欲しい)
CM動画は良かった(聴覚情報としてきゅうべぇ感強いタコピーボイスにはテンションが上がった)
(忠実な原作再現動画が見たい訳ではなく、説明不足に感じた点に関して別の人の解釈や補完が入った再編集版が見たいという意味で)(あと仮にタイミング悪くて何かの事件とかと被ると放送に影響しそうでそれも何かヤダ)
→わかる。
→わかる。
どこがどう期待外れだったか、何を期待していたのか長文で言語化してくれ〜今後出てくるであろうオタクの長文にめっちゃ期待している
→わからんでもない。
確かに着地点に意義はないんだけど
説明不足感がね…
→気持はわからんでもない。
男女カプ好きにはきつかったかもねぇ…
→おちつけ。
期待外れって言ってる人の期待ポイントなんだったか確認してから言ってくれ…会話が大事だっピってタコピー言ってたじゃないか…
→なんかちょっとわかる。
けど単行本上下巻出たら、サクッとKindleか何かで買って読んでも別に損はしないんじゃないかなと思いました
少なくとも商業漫画として1000円ちょいの価値は間違いなくあると思うので…
絵が好みじゃないなら無理して履修しなくてもいいとは思う(良くも悪くも漫画という媒体にしては詰め込まれている情報量が多すぎる感はある)(だからこそ個人的には動画で見たい)
SNSに溢れる感想で食傷気味になるのはわからんでもないが、最近の「親ガチャ」論とか毒親のトレンド(?)ありきでの作品なのであんまり何年も寝かせすぎず、2022年中くらいに履修しておくのが良いのではないでしょうか
(或いはメディアミックスの続報が出て更に嫌になる前に……)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1845067
作画ってもともとは「アニメの真髄は作画にあり」っていう派閥の用語だったの。アニメ制作にはざっくり
っていう工程がある。アニメの持つ快楽の源泉は「動き」にあって、その「動き」を決定づけるのは「作画=原画+動画」という工程にある、って思想ね。
物理現象の美しさを、人物の芝居と感情を、二次元を三次元として表現する奇跡を、カメラワークの妙を生み出すのは作画マンなんだ。
この芸術に取り憑かれた人間が映像研の水崎であり、作画スレの住人である。
だが作画という言葉は「作画崩壊」というトレンドと共に、本来の意味から変わった形で普及した。
一般的に作画は上記工程の「完成」の部分を指す言葉になった。そして静止画としてのクオリティを示す言葉になってしまった。
アニメからワンカットワンフレームを切り抜いて、その画面の華やかさや造形のクオリティを指して「良い作画だね!」なんて言ってるのを見るとムズムズしてしまう。その画面、全然動いてないじゃないか、ってさ。
もちろん静止画=イラストとしての完成度は作画のクオリティをも左右する。だが本来の本質は「動き」なんだ。どんなに素晴らしい絵でもそれが「アニメーション」していなければ価値は低い。それが作画クラスタの価値観。
フランク・フラゼッタのFire and IceとかHeavy Metalのメビウスのもそうだよね
実写を元にアニメ作ると何がいいって、
昔は合成とか特撮技術が金と手間がかかったりショボかったから、
実写をわざと絵に落とし込んで絵の特殊効果と合成するとフィットするし比較的安価になるんだよね
京アニはそういう目的ではなくて、顔はいわゆる日本のアニメのオタク受けする顔なので、
京アニとかリミテッドの枠を越えて?というか、動きがヌルヌルするほど、
お面被ってる人が踊ってるように観えることがあった
祭りの夜店で売ってるみたいなお面を被ってる感じ
どれだけ視聴者を騙せるか、ということでもある
騙せる騙せないに年齢層の違いもあるだろうし、
最近の3DCGを混ぜるのも、どれだけ違和感を生まないかが根にあるのは変わらん気がする
でも、ファーストガンダムの最初のザクとかムサイのシーンとかもそうだけど、
縦とか横にゆっくりスライドさせることで奥行きを出すとか、迫ってきている感を出すとか、
背景動画だろうが、コルドバ回頭だろうが、難なくこなせるようになって、
今までのアニメの記号みたいなものが違和感がありすぎて耐えられなくなることもある
そういえば、奥行きのある道を垂直に描いて、車両とかはゆっくり縦移動するやつは、
宮崎駿だったか、あれはあれで騙せるというか、道にアップダウンがあるなら尚更かもしれないけど、
画面の上下に垂直に道路を描くのはやっぱり当時でも違和感があったというか、
道路や地面だけ真上から見た状態で、当然パースもクソもないわけで、
でも、違和感はともかく、真面目に描いたらコストが半端ないというか、
庵野氏も言ってたと思うけど、従来のアニメは二次元の制約が半端ないので、
ずっと従来のアニメに慣れて麻痺してしまっていると、コンテだって自然と二次元ベースで考えてしまう
奥にスクロールするより、何でも横にスクロールさせたくなってしまうとか、
そういう癖を排除するためにも、絵コンテ描かないでプリビズになったんだろうなぁと思ったり…
そういえば、最近になってプリビズなんて騒いでるけど、
ジュラシック・パークのときにすでにOpenInventorとかでやってなかったっけ…
というか、もうInventorないのか…、はぁ…
男の友人がルパン映画のカリオストロの城で号泣したらしい。何度か見たことがあるそうなのだが、この前また見たら、号泣してしまったとのこと。
いや、ちょっと位泣くのは分かるけどさ、号泣ってあるか?どこで泣くんだ?って聞いたら、もう初めのオープニングの主題歌から泣いてたらしい。ああ、たしかにあれは名曲だと思うが、号泣するか?なんでも、クラリスの思いが歌に込められてて、夕焼けのシーンと相まって我慢できなくなったらしい。どんだけ感情移入してんだよ。
次に泣いたのが、夜にルパンが幽閉されたクラリスを助けに行くシーン。ルパンが、泥棒の私に盗まれてやって下さいと言いだして、もうたまらず涙が溢れたらしい。テーブルに涙が溜まって、嗚咽してしまうから、一旦動画を止めて、しばらく泣き続けたとのこと。どんだけクラリスになりきってんだ。確かに、ルパンはクラリスを助けに来たのに、それを盗まれてやってほしいという言い方にするのとか、すごいと思うし、クラリスも無理やり結婚されそうになってるところを、どう考えても忍び込めない城のてっぺんまで助けに来てくれて、そりゃあ嬉しかっただろうさ。分かるよ、分かるけど、お前男だろ?なんでクラリス側の視点で泣くんだよ。
でその後クラリスがそんなの無理だって言うと、ルパンが手品で花と国旗を出して、二人で笑い合う。その時のクラリスが口を開けて笑う笑顔がたまらなくいいんだって。その笑顔でまた涙が溢れて、一旦落ち着いたあと、スマホでそのクラリスの顔を写真で撮ったらしい。どんだけクラリス好きなんだ。あとで現像して写真立てに飾るって言ってた。アホか。
そのあと伯爵らが来て、ルパンが落とし穴に落とされる。クラリスは嘆き悲しむが、指輪から「聞いちゃった聞いちゃった~」とルパンの声。その時のクラリスの驚く顔!ここが素晴らしい、と友人は力説し、俺にそのシーンをスマホで見せてくる。確かに鬼気迫る表情だ。そのセリフを話してる間、ルパンは平気ってわけじゃなく、落とし穴の途中で止まってクラリスを元気づけるためにわざと明るく話してる。そういうのも良いって言うんだ。それは分かる。頑張ってる姿を見せない、男の美学だよな。でもルパン側で泣くんじゃなくて、その後残った花を持って祈ってるクラリスで泣けるんだって。お前は乙女か。
それで次はどこで泣いたんだって言うと、ルパンがもう一度クラリスを助けに来たんだけど、ルパンが撃たれてしまうシーン。撃たれたルパンをクラリスを身をもってかばう。伯爵と駆け引きだってする。それだけでも泣けるらしいんだが、特に、執事の機関銃に向かって行くシーンがいいって言ってた。普通、銃の軌道を反らせる場合、撃っている執事に向かっていくものだが、クラリスは機関銃そのものに向かっていった。危ないから普通は銃には向かっていかないんだよ、でもそれほどルパンを守ろうとしている、その必死さがもう無理って友人は言ってた。
最後の時計塔の戦いでは、伯爵がルパンを指から出る弾で撃つ時、クラリスが伯爵を止めるんだけど、ただ止めるんじゃなくて、伯爵を道連れにして湖に落ちようとする。この必死さがもうたまらなくて、泣いてしまったらしい。友人は自己犠牲が刺さるタイプなんだろうな。
映画では最後湖が干上がるけど、俺も涙で干上がってしまったと言ってた。何うまいこと言ってんだ。
じゃああれか、最後のシーン、銭形のセリフはやっぱり泣いたのかって聞いたら、あれはわざとらしすぎて泣けなかったって。なんだそれ。サイコパスか。
ただ、「クラリスはとんでもないものを盗んでいきました。俺の心です」とは言ってた。パクんな。
で、最後に聞いてきたのがこれ。映画は購入したんだけど、その画像をスマホで撮って、それを現像して部屋に飾るのは違法かどうかって聞かれた。まあ、動画購入してるんだし、自分で楽しむ範囲だったらまあギリセーフだろうと答えておいた。ただ、そのお前の行為は別の意味でアウトだぞ。
ああいうの難しいというか、面倒くさいよなぁ、と思ったり
雑想ノートみたいなのちまちま描いて、
緻密な設定は後で役立つこともあるので、案外バカにできない
それより、大人になってみると面倒くさいというのが先に立つ気がする
士郎正宗の殺陣とか、エロ一枚絵描きになる前は、空間認識力はスゴいと思う
読者が気にしない領域まで、損得で考えれば無駄になってしまうんだけど、
いちいち考えてるのが偉いというか、
よく考えられたカンフー映画の格闘シーンを漫画なり絵コンテなり動画で描く感じ
主に面倒くさいから
イマジナリーラインぐらいは考えるけど
あと、絵コンテだと簡単に描けてしまう、というのがあると思ってて、
例えば、「ここでコルドバが180度回頭するやろ」
今はCGがあるから楽だけど、下請けイジメにしか思えないところもある気がする
というか、あれって佐藤元さんなんだっけ
今になって観てみると、CGにはない歪みというか、
なんか生き物っぽく、クジラとかそんな感じに思えてきて、
CGのような硬さを感じないのが逆に新鮮に思えたり
(ゲームは無理だけど
シンエヴァみたいに、プリビズとか元に手で描けば、
頭悩ませる必要もないし、寧ろ楽な気もするんだよなぁ
まあ、労力が格段に増えるだろうけど
手描きの良さってのも再考したい気がする
↓
↓
摩砂雪とか貞本がいなくなったばかりではなく、
『男の戦い』や『最後のシ者』など旧作で重要な話は 薩川昭夫 脚本、SF要素は磯だがそれらもいなくなった
▼供養の設定資料
もう20年以上前の某アニメで作った脚本回の設定。地下施設の詳細が決まってなかったのでセントラルドグマとか名称や細部を私が設定していった。他にも中盤は私が作ったセリフや展開が結構使用されているが結局全部ノーギャラ。
https://twitter.com/isomitsuo/status/823830687400636416?s=21
Aパート→絵コンテなし、さらに作られては壊されめちゃくちゃに
Cパート→時間とスタッフ足りなかったからブラッシュアップしきれなかった
Dパート→とりあえず締め切りに間に合うように作った
anond:20210817104620 anond:20210817083054 anond:20210817032145
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。
ファーストガンダムのカイ・シデンとミハルのエピソード(大西洋、血に染めて)について、富野由悠季と安彦良和が自分たちで作った絵コンテで泣いてたっていう「ちょっといい話」エピソードがあるけど、子供向けアニメの時代的水準を考慮するにしても、キャラの成長というか肉付けのために不幸な女の子を犠牲にした作劇って感じがして、どうにも白けるんだよなあ。そのあとZ(フォウ)とかZZ(プル)とかどんどん安易かつ露骨になってって。
富野も安彦良和もそれなりに自覚はあるだろうけど、受け手はむしろ「アニメで戦争は悲しいということを学んだ!」とか本気(なのか?)で言ってたりして、で、それを富野や安彦良和は「いやそういうことではなくて」と思いつつも、結局そういう客層にスポンサードされているという構図。