はてなキーワード: 犠牲とは
人権的には、表現の自由と生存権や身体を害されず生活する権利ならば、人の死や苦しむ人を犠牲にする損益と、ただの娯楽を楽しむ利益は、前者の方が優先するんじゃないかね
今年も昇進できず、同期はおろかどんどん後輩にも追い抜かされている。
上を目指す意欲はあるので、何を改善したら何を成し遂げたら昇進できるのかは上司にも事あるごとに聞いて取り入れているつもりだが、期末の評価は一向に上がらない。
評価されないなら転職、と思っても大したスキルもなく年齢的にも希望もなく、そもそも他社に踏み出す勇気も持てない。
新婚生活のプライベートも犠牲にして仕事や技術力習得に力を入れてきたと思っているだけに余計にショックで、最近は仕事も家庭も全く上手くいかないスパイラルに陥っている。
多分、自分のプライドが不必要に高かったり単純に周りが優秀なだけなのかもしれないが、システムエンジニアとしてスキルもキャリアも諦めきれていない。
よくある悩みなのかもしれないが、こんな自分はこの先どうしたらよいのだろうか。
ホモソーシャル「俺のオカズのために女は犠牲になれ!俺の一発の射精と支配欲の満足のために女が困ってる?女が困るわけないだろう、だって俺らがエロを楽しむことで女はチヤホヤ(性犯罪・セクハラ)されてお金(女を貧乏にして風俗に堕とさせないと!)もらえてるんだからさ!」
フェミニストの方がまともです
池袋の上級国民による自動車事故、知床の観光船、キャンプ場で行方不明になって死亡が確認された女の子。みんな愛されていて、家族が悲痛のどん底で悲しんでいる。
ワイだったら家族はみんな亡くなってるし、友人も妻彼女いないKKOなのに、愛されている人たちが犠牲になってしまうなあとか考える
なぜなのか考えたけど、ワイ友達も妻彼女もいないから池袋におでかけとかしないし、観光船にも乗らないしキャンプにも行かないんだよな。コロナでリモートワークだから通勤すらしていない。貧民だけど鉄筋コンクリの団地だから一応地震で圧死とかはないだろうし(家族も友達も女もいないから家具とか全然ない)結果的に低リスクな生活してるんだろうな
AVとエロ漫画で散々認知を歪ませて夢とファンタジーを広げ続けてきた人たちが、
実際セックスになって、女から痛いとか下手とか言われると死ぬほど落ち込んでEDになるようなメンタルで何らかの方法で女に虐待を耐えて演技することを強制してる率は相当高い
そりゃ、男性の射精のために女性を犠牲にしたがる人よりも、ちゃんと女性を思いやって女性のために動いてくれた上で射精させてくれたら嬉しいなと言ってる人間の方がいいよね。浮気するよね。当たり前
こんなの説明しても染みついたAVエロ漫画女性蔑視ファンタジーの認知の歪みは人間そう簡単に治らない。変わらない。ただただ面倒臭いことになるだけなので直接説明してくれと言うのもナンセンス。
”日本から出て行け”とか”新聞を見るな”と文句を言ったお前たち
それを”逆ギレ”て言うんだよ!!!!
お前らの言ってることはトランプやネオナチと全く変わりないんだよ!!
そのようなヤツらこそ”リトル・トランプ”でありトランプやアベを当選させて
弱者の権利を奪い傷つけることを心からの悦びとしてるサディストでありナチスや大政翼賛会の末裔
恥を知れ!!日本人!!!!
日本人であれば・日本に生まれたならば・女性や他国や多民族を犠牲にし差別し虐待してまでも
日本・日本人の利益を守らねばならないのか??日本人以外が目を背け眉をひそめる悪癖を肯定しなければならないのか??
私たちは違うね!!
私たちやその仲間たちは”日本人”である前に”人間”なんだヨっ!!
でも、セクハラがあったり漫画やアニメで苦痛を感じる人は沢山います。
平和を捨て去り、憎しみで友愛を潰し、自由を弾圧するこの国は人間の住む国ではありません。
だからこそ私たちはこの国をすべからく作り変えて人間の住む国にするのです。
それが私たちの”ゴール”
>「界隈の平和が犠牲になるから我慢するけど」→その我慢を辞めた。ってことは界隈の平和より優先したいことがあったし、めちゃくちゃになるの正確にわかってたってことだよね。
↑
この流れを見てわかった上で、無関係の同カプ者のイニシャルまで晒して長文お気持ち投下してる増田はマジで何なの?
界隈の平和が犠牲がってKに言うなら、増田だって我慢して黙ってればいいだろ。
単なるトレパク冤罪だけの問題だと考えてた人達だってまだいたのに、増田のせいで界隈の闇とかイジメって見方が強まったんだよ。
要するに増田は界隈の平和よりもK叩きを優先したってことだよね。
本当に浅い。そしてウルトラマンをぜんぜん知らない人間の感想。
・Mなんとか星雲からやって来た正義の宇宙人で、怪獣と戦ってくれている。
・日本の怪獣対策室(地球防衛隊?)みたいな組織に在籍している隊員がウルトラマンに変身する。
・必殺技はスペシウム光線と八つ裂き光輪(うろおぼえ)なんかギザギザの輪っかが飛ぶやつ。
・3分経つと戦えなくなるので、それを知らせてくれるカラータイマーが胸についている。
・ジュワッ! と言う。
・兄弟がいっぱいいる。父と母もいる。タロウもいる。(でもウルトラマンの性別が男性なのかはちょっとよくわからない)
・最初のロゴがくるくる回るやつ → ”懐かしのアニメ”みたいな番組でウルトラマンのOPとして見たことある気がする。
・「怪獣が以前のものと似ていてパーツ挿げ替えみたい」……的な発言 → 怪獣のスーツを使いまわしていた的な話を聞いたことがあるのでそれかも。
・Y軸固定でビュンビュン回転するウルトラマン → 人形っぽいのでそういう特撮の撮影技法があったのかも。
・手が痛い素振りを見せるウルトラマン → 妙に人間っぽい仕草なので、原作でそういうシーンがあったのかな?
・顔のアップが妙に近い → 意識してそういう撮り方をいているのはわかる。
・戦闘シーンがもっさりしている → 特撮の戦闘シーンを意識しているんだと思う。中に人間が入ってる感をわざと残しているのかも。
・カラーターマーが無い → そのかわり3分というリミットは提示されないが、活動時間が短い旨とその理由は語られていたので納得できたし違和感はなかった。
・なんで緑になるの? → エネルギー不足なのか、カラータイマーが無い代わりなのか?
・原作(昔のウルトラマン)の音楽がたくさん使われていたこと。 → 当たり前ですがぜんぜん気づきませんでした……が、違和感みたいなものも無かったです。
・庵野監督の名前がいろんなところにあって(ありすぎて)笑ってしまった。色々な意味でこだわりを感じた。
・変身モーションをした神永の下からウルトラマンの巨大な手のひらが現れ、ぎゅっと握りこぶしに包まれてウルトラマンが登場するところ。めちゃくちゃかっこいい。
・車の座席の隣から怪獣の手がにゅっと出てくるところ。びっくりして声が出そうになった。なんかほかにもドッキリシーンがけっこうあった気がする。
映画を観終わってTwitterで感想を漁るまで、そんな可能性には思い至らなかった。
そもそもウルトラマンは外来生物(宇宙人)という認識なので男女の機微があるとは思えないし。
個人的には浅見が神永に対して「(コーヒー入れないなんて)気が利かない」というめちゃくちゃ古風なパワハラムーブをしている方がよほど気になったかも。
めちゃくちゃ面白かった。地球を愛し、人類のために身を粉にして戦ってくれるウルトラマン最高。好き。かっこいい。劇場で泣いた。
人間めちゃくちゃ脆弱だし情弱だし、移り気で強欲で未熟だけど、それでもそんな人類に希望を見出してくれるウルトラマンマジ天使だし、そういうウルトラマンに胸を張って愛してもらえる人類でありたいと思った。
ウルトラマンが人類をこんなにも愛してくれるようになった原因(要因)の部分があんまり描かれてないところ。
たぶん融合した神永さんがめちゃくちゃ良い人だったからなんだと思う(子供助けてくれてるし)んだけど、禍威獣特対室の面々との絡みがあんまり無いのも相まって、自己を犠牲にしてまで人類を愛してくれた理由がちょっと薄いように思えた。
でも監督的にわざと省いたのかもしれないとは思う。
・斎藤工さんの表情があまり動かない感じが宇宙人っぽくて良かったし、そんななかでも要所要所で内に秘めた心を映す正義の瞳を感じ取れた気がした。
・それに対してめちゃくちゃ表情豊かなのに、その表情に見合った感情を一切感じさせない山本耕史さんの怪演が凄かった。
・観終わってから「そういえばジュワッ!」て言ってなかったかも? と思った。
・高層ビルにぶつかるウルトラマンを見ると、意外とサイズが小さい気がした。昔はあんまり高い建物無かったからかも。
・宇宙人さんにはもうちょっと「鍵」とか「ドア」とかの存在を尊重してほしい。
・グッズが大人の男性向けなのか、わりと普段遣いできそうで品が良いと思った(でも売り切れてた……)
・シンゴジのときも思ったけど、怪獣が出ても会社に行くし、学校にも通う日本人。でも実際そんなもんなのかもしれない……と昨今の世界情勢も踏まえ感慨深かった。
・ウルトラマンファンのひとだともっと小ネタが拾えて面白いんだと思う。なにか「これを観とくと良い!」という作品があったら教えてほしい。
・また観に行きます!
自カプがネガティブな文脈で界隈外にまで取り沙汰されてしまい、
好きな作家が去ることを惜しむな悲しむななんて言わないし、誰にも言う権利はない。
ただ、A氏・Z氏が去る結果となった責任が少なからずK氏にあるかのような印象操作、
人格や評判などの本件に無関係の主観的要素を証拠なく書き立てて被害者の心証を悪化させ、責任の所在をスライドさせようとする行為、
さらには他の同カプ作家たちの撤退や萎え表明までもK氏のせいであるかのように引き合いに出すイニシャルトーク。
さすがに卑怯だし無理がある。だーれも騙されないよ。
あなたは「なにもしてない」無関係の巻き込まれた同カプ者を自称し、
「界隈の平和」を犠牲にしたとしてK氏ばかりを糾弾しているが、
そもそもK氏への「悪夢のような嫌がらせ」があった時点で、あなたの大好きな「界隈の平和」はすでに失われていたのでは?
先に「界隈の平和」を壊してK氏に殴りかかった加害者たちをさしおいて、
「溜めて溜めてカウンター」しただけのK氏ばかりを執拗に非難するのはなぜですか?
1人きりだったはずなのに、味方が増えたのがそんなに嫌でしたか?
「私の方がずっとKを見てたし聴いてたし知ってるのに」って悔しいんですか〜?
悔しすぎて、大事な大事な「界隈の評判」を犠牲にお気持ちダイアリーしちゃうんですか〜?
まさかとは思いますが、あなたの言う「界隈の平和」って、K氏だけは含まれないんですか? なんでですか? 好きになれないからですか? 赤ちゃんですか?
そういうとこだよ。
それなりに真面目に生きてきた、と思う
融通が効かない性格と言えるかもしれない
小中高と「将来のために、将来楽に暮らせるように、今努力しよう」と頑張ってきた
だけど、志望した学部には入れなかった
それでも、堅実に生きていこうと大学に進学した
大学にはさまざまな人がいた
みんなすごく楽しそうに生きていた
そんな人たちと関わっていくうちに、私はふと気づいてしまった
「将来のために将来のためにって、いつまで努力しなきゃならないの?」って
やりたいことも遊びたい気持ちも抑えて努力してきたけど、結局夢は破れてしまったし
「将来のために」といって今を犠牲にすることに、どれだけの価値があるのか、私には分からなくなってしまった
極め付けはクラスメイトの死だった
私が大学に入ってしばらくした後、高校のクラスメイトが亡くなった
私よりも真面目で能力があって、周りからの人望がある可愛い女の子だった
なんかそれで、どうでも良くなってしまった
報われる確証なんてないのに
今やりたいことを我慢してまで「将来のために」と頑張ることが出来なくなった
社会人になった今は、ほどほどに生きてる
無理のない範囲で、ほどほどに
多分、子供の頃の私が見たら、めちゃくちゃ怒ると思う
「こんなのになるために頑張ってるんじゃない!」って
子どもを育てるって、自分のリソースを犠牲にすることに他ならないからなぁ。子どもがいなかったらできた仕事、遊び、自分だけの時間、パートナーとの時間。そういう自分の楽しみや時間の価値が高まってきた時代の中で、子どもがいるから得られる幸せの相対的な低下、みたいなことだろうか。
Q.E.D全巻無料告知不足の件が話題になっているな(増田は金田一読み終わったあとトップページに戻ったらバナーに流れているのを見つけたので「コーラの人が出てくるまで読むぞ!」と読んでいたら半分を過ぎた所まで進んだのでそのまま惰性で読みました。一番好きな事件は「質問してるんじゃない。欲しい答えを待っているだけだ」の人が何から何までしょうもなかった回です)。
増田は全巻無料のことを「サイトの宣伝のためにお抱えの作品を犠牲にする行為」だと誤解していたことにこの顛末を聞いて今更ながらに気づいた。
無料で読まれても多少の印税は広告掲載費を経由して入るのだろうけど、作者的にはやはり漫画を買ってほしいんじゃないかと考えていたからだ。
ぶっちゃけ無料になったからって興味のない人はすぐに読むのをやめるだろうし、逆に興味のある人はその機会に一気に読んで買わなくなってしまうものだと考えていた。
それは結果的に潜在的な購買層を捨て去って長期スパンで見た売上を減らす行為であり、作者からするとノーサンキューなのではと。
だが実際には告知をちゃんとしなかった編集者(WEB担当者?)に作者が怒りちらしている。
これを見るに全巻無料イベントは作者にとってもメリットが大きいということらしい。
そうなると増田の考え方がそもそも間違っていたということになるのだろう。
予想としては
・全巻無料で読んでも単行本(電子書籍データ)を購入する読者が結構多い
・全巻無料企画中に読みきれなくて続きを買う読者もある程度いる(どうせまた2年もしたら全巻無料になるだろうからそのときに続きから読もうとは考えない)
・無料掲載による広告収入の取り分は出版社だけが得をするような割合ではなく作者にとっても十分な旨味がある
・とにかく名前を知ってもらうことや実際に手にとってもらうことのメリットが大きい
・無料でなければ読まない層は最初から潜在購買層には入らないことを作者も理解している
辺りだろうか?
これらの仮説を証明する素晴らしい手段を思いついたのだが、部屋の電球が切れそうなのでここまでで証明を終わる。
Q.E.D(照明終了)
最初の100万円さえ貯まれば、あとはお金が貯まるとよく言われている。自分は、かなり昔に「そんなことあるのか?」と思っていた。
100万円を貯めるのに結構な時間がかかるのなら、そのあと200万円を貯めるのは同じぐらい時間かかるのではないか?と思っていた。
重要な観点がある。最初の100万円を貯める前というのは「人生でまだ1度も100万円を貯めたことがない」という状態でもある。貯め方・ノウハウがわからないし、その感覚もわかりにくい。
ここでは、いま100万円ない人、100万円たまったばかりの人に対して、その感覚を伝えていこうと思う。
100万円もあると、ほとんどのものは買えてしまう。ちょっといい外食も全然行けるし、世界一周旅行もギリギリできるかどうかの値段だ。それこそゲームソフトで考えれば月3本を10年連続で買えてしまう。
生活に必要なもので大きな買い物というと、ドラム式洗濯機などで、高いものだと30万円ぐらいのものがある。また、高性能のPCが40万円ぐらいになっていたりする。または中古車などだろうか。一括で買えてしまうのだ。
「手元に100万円ある」という状態は、こうしたものや生活必需品が「今すぐは必要ない」という状態でもある。生活がある程度安定しているのだ。「買えるけど買わない」という状態である。
100万円に到達する前はそうではないことが多い。たとえば引っ越しの際にいろいろとお金がかかったり、よくわからないが「生活に必要だと思われるもの」の出費によってどこかに消えていく。
100万円以前のときは、要は生活に関する出費が多いのである。そのためいろいろと増減してしまう。増えたと思ったら減り、一向に増える気配がない。「このままのペースだと、全然たまらなさそう」だと思ってしまう。
実際、仮に月3万円を貯蓄に回しても、100万円貯まるのは3年後だ。ということは1000万円貯まるなどというのは遠い未来すぎて想像もつかないように見える。
しかし実際はそうではない。100万円貯まった状態で生活レベルを上げなければ支出が自然と減るのである。また、年数が経っていることで昇給したりもして、貯まるペースは加速している。
100万円貯めるのは大変である。大変だったからこそ「大変な思いをして貯めたものを、むざむざしょうもないことに使いたくない。良いことに使いたい」という心理も働く。
100万円があると、転職にも目を向けやすくなる。数ヶ月無職になっても一応どうにかなるという心の安定剤となる。人生における自分の選択肢が増える。
貯蓄が100万円という数字はただの数字ではなく、そこまで困窮していないことの証でもある。「100万円あったらほしいもの」が現実化しているのだ。
生活が安定し、こうした気持ちが相まって、お金が貯まりやすくなる。それに、1度攻略してしまったのだ。成功体験もある。100万円を貯めた人というのは、どういう方法であれ「100万円の貯め方を知っていて、経験して、達成した」という人である。
だから次の100万円は容易になる。今度はなにせ生活が既に安定した状態からスタートしている。生活にゆとりがあるのだ。
すると不思議なことが起こる。たとえば、最初の100万円は3年かかったのに、次の100万、つまり合計200万円は、出費が減って、今度は1年ちょっとで貯まってしまうとか、そういう感じだ。
こうなるとおもしろい。
貯蓄が100万円なかったころは「1000万円なんて30年後だよ」と思っていたのが、2年後に「長くてあと8年」というふうになっている。考え方が全然違ってくる。こうしてどんどん貯まっていくのだ。笑いが止まらないほど貯まっていく。
貯めるとか投資するとか、結局将来の自分の利益のために、今の自分がお金を使うということでもある。死んでしまえば元も子もないが、なかなか現代日本でそうかんたんに死ぬことはない。
人によっては現在の自分を「どのぐらい犠牲にしてもいいのか」で割合も変わってくるだろう。だから月々の「貯めるという行動」の金額は人の価値観によって異なってくると思う。ゼロ以下なら刹那的・現在至上的である。
お金を貯めるという先を見た使い方を、「先見の明がある」と言ってもいいかもしれない。
今回の騒動で批判派は口々に、議論に混乱をもたらす、と言っているが。
議論をスムーズに終わらせたいのなら、必要なのは事前の根回しだ。
熱心な水面下のロビー活動を通じて密かに賛同者を集めることで、自分たちの要求が通りやすくなる。
名声を得たオピニオンリーダーはフォロワーの期待を受け、彼らの信じる主義主張を先導する。
配下の信者はリーダーを後押しして力となる。代わりにリーダーは彼らを背負う重圧を負う。有形無形の守るべきものを囲う。
リーダーは自分と党派のイメージに気を配らなくてはいけない。対人論法の犠牲にならないように潔白に振る舞うのだ。
ここでは誠実さが信頼の土台になる。その先にあるのが、党派の勝利だ。
まったく逆を行うとどうなるか。
二つの仮面を着け外ししながら、クルクルと主張を変える。恥をかき棄てて、人々にどう思われるかなど気にせずに、軽薄短小に振る舞う。マッチポンプをフル稼働させて界隈をアジテートする。議論のエネルギーを供給し続ける。
論者は、頼られなくなるだろう。代わりに、論の内容が重要視されるようになる。誰についてるか、味方が何人かなどが説得力にならないから、主張の本質で勝負するしかなくなる。
正反対の二つの視点から物事を見ることで、片方からでは見えなかった何かが浮かび上がってくる。相手の話の妥当な部分を受け入れ、自分の説の弱い部分にアッサリ見切りをつける。そうして議論は深まるだろう。
激しい論戦の末に生き残った理屈は、人間にも時代性にも独立になる。あらゆる視座をくぐり抜けてきた理屈は、高い説明可能性を備える。老人にも子どもにも説明できるものになっているはずだ。
検証可能性が唯一、正しさを支える。