はてなキーワード: ダイレクトとは
Youtubeに無限の子供向け動画がアップされるようになってからというもの、
この手の移動時の苦しみは劇的に改善したと思う
誰でも子供向け動画を作れる参入障壁の低さにより生み出される無限の無内容の動画が、
子供の本能が欲するものにダイレクトに響くコンテンツへと遺伝的アルゴリズムで急速に進化し、
理性ある大人には絶対に作り出せない異様なコンテンツ群をほぼ無尽蔵に生み出している
本能をがっちり掴まれれば2歳ぐらいの子供を2時間黙らせるぐらいのことはわけない
マジでこの10年での子育て環境の最大の変化はYoutubeと言っても過言ではない
どうでもいいとは思うが2年くらい前の
追記ここまで
(タイトルの通りでひたすらにきたない話です)
家を出る時には既にうっすら嫌な予感がしていたが
暑さのせいではない汗がダラダラ流れて目に入り
もう無理だ耐えられないと思って途中のコンビニに自転車を停めた時点で
なんか尻があったかい…いやだ…とは感じていた
でも間に合わなかった
パンツ脱いだらべっとりついてた
やらかした…なんか逆に冷静になって
なるべく急いで強く強く手を洗って
でも何にも頭に入ってこなかった
今ノーパンで働いてんだ…ってことで頭いっぱいだった
特級呪物になったパンツは自転車のカゴに見えないように色々した上で置いといたから
勤務中誰にもそこにうんこパンツがあったことには気付いていないと信じたい
コンビニのレジの人にこいつうんこくせえな…って思われていなかったことも願いたい
ハイター漬けにして何重にもくるんで捨てた
もう二度とこんな思いはしたくない
なんか思い出しそうでしばらくカレーも食べたくない
ごめんカレーに罪はないのに
主人公がクリエイターの作品で間々見るやつね(なんか小説に多い気がする)。
その手の作品で言う「物語の力」って「現実の人間への影響力」なんだよね。
人生が変わったとか心が救われたとかね。
そういうのを見るたびに思うんだけど、そんなに人を救いたいならもっと現実へのダイレクトな影響力のある活動に精を出せばいいんじゃねえの?
お前の作品を買わせるよりもっと広範にたくさんの人を救える仕事や活動がいくらでもあるでしょ。お前の作品じゃお前の作品を面白いと言ってくれる中でも物凄く感受性が強くて都合のいいお客さんしか救えないじゃん。そんなことしてる場合じゃないよ。
もちろん、結果的に生身の人間による働きかけよりフィクションを介する形を取ったことで救われるケースもあるかもしれないけど、人を助けたいならそんな虫のいいレアケースを当てにするより先にやることがあるでしょ。
物語の力を信じてると宣う作品が現実への影響力を競ってんの、そんな土俵で競ったら宗教でもない限り現実に勝てるわけないんだよ。
(そして、その手の作品で「物語の力」を発揮する劇中劇がたいていノンフィクションや私小説に近いくらい作中主要キャラの人生を反映してるのも、結局現実の方が強いって話に見えちゃうし、物語を貧しくしてるとしか思えないんだわ)
物語の力を信じるっていうなら現実に影響しましたなんて権威を求めず、物語の中でしかあり得ないようなことを掘り下げていってくれた方が物語の力を信じてる度あるけどな。
それに触れた現実の人間が何かしら影響を受けるかもしれないけど、そんなのは誇ることじゃないでしょ物語の力を信じてるならさ。
いやね、
これが快調かどうだか分からないんだけれど、
とにかく朝のお腹の空き具合がいい感じなのよ。
夜食べるの少なくナッツとかだけにしているなんか意識高くない?って思わせちゃいそうな感じで
つーか魚食べてるじゃん!って思うけど
今鯖の水煮の缶詰が美味しく安くて99円と言うビックリこの世の中の世相から考えると
いい鯖缶だったのよ。
私鯖缶好きだけど
どちらかというとこの水煮の方が
鯖の味を舌にダイレクトに感じる鯖みがこちらの方が好みなのよね。
そんで私凄いことを発見したんだけど
鯖美ちゃんとか鯵子ちゃんとかいたらいたでいるかもしれないけど、
今までそう言った魚編の鮎以外の人って見たことないわ。
いやもしかし鱈、
でも鮎はわりと人名にいそうな気がするわ。
そのぐらい鯖缶の水煮が私青魚の臭さ感じる人は感じるらしいけれど
私は平気ね。
朝早く行くお魚屋さんだと、
切り身にされる前の鯖とかまるまるのまま売っててそのままさばく前のを下さい!っていったら売ってくれるので、
このままかってどうするの?って不思議そうな顔されるけれど
前にもこの鯖の話は256回ぐらいここでしているかも知れないけれど、
一時期圧力鍋を買って鯖の水煮に私も挑戦してハマっていたときがあって
それに使う鯖、
そう!
さばく前の鯖を調達してこなくちゃいけないのよ。
そんで買ってきた鯖を捌くわけだけれど、
鯖をさばくたびに出刃包丁刃渡りの短いやつでも全然良いので欲しいなぁってつどづど思うのよ。
まるで刃が立たないというか。
張り切ってなんか買ってもたぶん鯖さばく用での用途しか無いと思うので
手入れが逆に大変なのかも知れないわ。
とはいえ、
鯖を捌くと行っても頭を落してハラワタを取り除いて筒切りにするぐらいだから
簡単なのよ。
だから一時期は大量生産を圧力鍋で量産していてストックしていたけど、
保存してても食べなくて持て余しちゃいがち。
作るのが楽しいのよね。
そんな最近の生活をしていたらすっかり鯖のことを忘れちゃってたわ。
また鯖買ってこようかなーって思った
今日この頃よ。
うふふ。
何がジューシーなのかしら?と思ったらトマトが挟まっていてフレッシュさと彩りを添えていたわ。
果物も買ってきていない気がするので、
グレープフルーツ1玉ぐらいとか
あとカッツスイカがあればまたスイカウォーラーの季節でもあるわね。
蒸し暑くって参っちゃうわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
AF1にクッション性を感じた事がない。なんならエアマックスでもない。
エアバッグの生み出すフカフカ感に期待していざ初めて履いた時、思ってたんと違う!ってなった。
あまりにも納得がいかなくて、中身の構造をネットで調べた。おれは風船的な状態のバッグが丸々入ってんのをイメージしてたけど、なんかエア機構の内部に支柱みたいなのが生えてる。
ほな空気をしっかり味わえんやないか。柱がある限り沈みこまねーだろと思った。実際はどうなんだか知らんけど。
耐久性やら何やらで必要ではあるんだろうけど、そんな無粋な事をせんともっとダイレクトに空気を味わわせてくれよって思った。
おれは思い込みが激しい。今までは抱いていた構造イメージが辛うじて幻覚めいたフカフカ感を脳内で生み出していたけど、それすら無くなってますます履き心地がカチカチに思えてきた。あとシンプルに体重が軽すぎるのもあるかもしれない。
なんならまだadidasのローテクとかの方がインソールもあって履き心地よく感じる。
ただインソールで履き心地を語るのもなんか邪道に思える。それでいいなら、じゃあもう靴本体なんか何だってええやんって話になってくる気がする。ソールの機構で勝負して欲しい。その点ウルトラブーストとかは好感が持てる。
ローテク文脈に食い込んでか90は割と見るけど、他はあんまり見ないな。ヴェイパーとか720とか5年前くらいに流行った気がするけど最近売ってない。あの辺ならまだクッション性を感じられたかもしれない。あれはあれでなんかちょっとした拍子にパンクしそうで、見てるだけで不安になったりもした。あの頃はポンプブーストも流行ったし、ミズノが筋子みたいなやつを出したりもして面白かった。
またハイテクブーム来て欲しい。おれはあんま履かんけど、見てる分には楽しい。adidasのローテク好きなのに、最近は逆張り心を抑えながらじゃないと履けなくて嫌だし……
クリエイターと自由と責任、というテーマについて色々考えたことをつらつらと書いてみる。長文。
俺は大学在学中から、もうずっと長いこと個人でゲームを作っている者だ。仕事をしつつ余暇でゲームを作り、すでに何作も公開している。大して売れてはいないので、あまり偉そうなことを言える立場ではない。
これまでしてきた仕事は、ゲームとはまったく関係がない。俺がゲーム業界に入らなかったのは、そこに入っても俺が作りたいものを作れないことを知っていたからだ。会社という組織は、自分の作りたいものを自由に作れる場所ではない。
俺には明確に作りたいものがあって、それは個人でも作れるものだったので、ゲーム業界に入る意味が俺にはなかったのだ。
本業の方では、いくつかの組織を渡り歩き、それなりに人を束ねる立場になってきて、組織の仕組みというものがある程度分かって来たところだ。
日本の企業は……いやもう少し主語を小さくしようか、俺が見てきた組織は、末端の従業員の裁量はとにかく小さく、何をするにも上司の承認を通さなければならない。個人が自由に創造性を発揮できる機会などはほとんどない。
そういう体制をディスりたいわけではなくて、それによるメリットもある。
上司の承認を取ることで、自分の行動で何か問題が起きても、その責任を上司に転嫁することができる。そして上司はさらに上司の承認を取ることで、その責任を転嫁する。
そのように組織の中で責任を広く薄めることで、特定の個人の責任を回避する。これは責任を曖昧にして、組織が社員を保護するための仕組みだ。
しかし普通の会社はそれでよくても、自由な創造性が必要な分野では、そういう体制はすこぶる相性が悪い。
クリエイターが創造性を最大限発揮するには、何よりも自由が必要だ。その点で、うまくやっていると思うのは漫画業界だ。
俺は、日本の漫画が成功している要因の一つは、漫画家が組織に属さず、組織から自由であるおかげだと思っている。もし漫画家がサラリーマンだったなら、漫画の内容をまず企画書にまとめて稟議にかけたり、1コマ修正するにも上司の承認を通したりといった世界になるだろう。
編集者がそれに近いことをしているのかもしれないが、漫画家本人はしていないはずだ。もし漫画家本人がそんなことをさせられたら、稟議を通りやすいテクニック、組織の中での立ち回りばかりが優先されることになり、自由な創造性からかけ離れてしまう。
出版社は漫画家にある程度自由な裁量を与え、漫画家が創造性を最大限発揮できる体制を整えている。しかしそのためには、漫画家を組織の外に置く必要があるのだろう。
漫画家のような存在は、組織にとっては異端者であり、組織の中に組み込むことができない。漫画家がいなければ事業が成り立たないにも関わらず、その主役を組織の中に置くことができない。この辺に、日本の組織運営の難しさがある気がする。
しかし自由の代償として、漫画が売れなかった場合、漫画家は収入の大幅減、連載打ち切りといった形で、その責任をダイレクトに負わされることになる。
サラリーマンであれば、たとえ大きな失敗をしても降格程度が済むことが多く、日本ではいきなりクビになることは少ない。サラリーマンは自由を制限される代わりに、ここでも保護されている。
サラリーマンであってもかなり上の役職であれば大きな裁量が与えられるが、その代わりに大きな責任も取らされる。結局、自由が欲しいなら責任を負う必要があるのだ。
ゲームの話から少し逸れたが、ゲーム業界においても80年代頃のゲーム会社は自由が気風が強かったのではないかと思う。いわばゲーム業界そのものが異端だった頃の方が、ゲーム業界は元気があった。新しいものを作るのは、いつだって異端者だったのだ。
俺はゲーム業界にいたことはないのでこれは想像なのだが、当時から残っている大手には、事業の規模が大きくなるにつれて社会の責任が大きくなり、多様なメンバーが集まり、大企業病に冒され、だんだん普通の会社になっていったところが多いのではないか。
任天堂なんかは今でも元気があるが、他に元気のある日本のゲーム企業は少ない。クリエイターが自由にものを作れない環境から創造性は生まれない。
ともあれ、いまゲームを作るなら昔から存在するゲーム企業ではなくインディーズで作るのが一番だと思う。それがもっとも自由な創造性を発揮できる環境だ。
俺なんかは、別の仕事をやりながら余暇でゲームを作るという、いわば美味しいとこ取りでやっている。しかしそういうやり方では、所詮大したものは作れないとも思っている。本業でゲームを作っている人には、やはり及ばない。
それは創作に掛けられる時間の長さという意味でもそうだが、それ以上に、本業でゲームを作っている人は覚悟が違う。
これが売れなければ倒産する、失業する、借金を背負う、そういうプレッシャーを負うからこそ作れるものがある。自由と責任は表裏一体だが、大きな責任はクリエイターを追い込み、本気にさせる。それで潰れる人も多いが、それを乗り越えて初めて達成できるものがある。
俺にそこまでのことはできないので、それができる人は素直に尊敬するし、感服する。俺は、彼らと同じ土俵には上がらず、慎ましく自分の作りたいものを作っていようと思う。