はてなキーワード: プラットフォームとは
実際はニコニコ出身の実況者がまだプラットフォームを変えて活躍しているように、ひとつのジャンルという形で落ち着くんだろうけど
声優ブームを終わらせたのがVtuberであるように、Vtuberに変わる新たなオタクの流行りが出てきたらブームは終わるんだろうな
それはAIキャラとかかな?とも思うけど、オタクはやっぱり生きた反応をする人間が好きなので(台本型Vtuberが流行らなかった理由)、また声優アイドルに戻っていったりするんだろうか?
なんとなく、メインターゲットの学生や若者が生活に忙しくなって、推し文化自体が縮小していくような気もする
あと、今はネトフリとかあるし、良質なドラマや映画や漫画へのアクセスが良い(し良質な作品も多い)から、そういうストーリー系コンテンツを消費する方にも時間が取られていきそう
最初は日記を書くつもりだったのですが、ジェンダー問題を扱った内容になってしまったので、苦手な方は読まないことをおすすめします。また、日本語からの翻訳なので、変な文章があるかもしれません。
Twitchで新しいストリーマーを探そうと思って、今配信している方を適当に検索してみたところ、今は女性ストリーマーがかなり多いようです。
キャラクターの絵が綺麗で(英語圏ではVチューバーという概念が通じるのかな?)、声も綺麗/可愛いので、フォロワーが多いのかなと思ったのですが、100~200人程度でした。
…誤解しないでください。配信プラットフォームで100人のフォロワーがいるのは素晴らしいことです。普通に生活していたら100人の興味を引くことはできませんよね?でも、私よりもフォロワーが少ないことに驚きました。女性ストリーマーは比較的簡単に有名になれると思っていました。
私は男性ですが、可愛いものが好きで、自分のキャラクターの可愛いファンアートが見たいので、ペルソナを女性キャラクターにしています。ただ、文章や動画の一人称は中性的な感じになっています(私の国では、キャラクターが機械のような声で解説や説明をする動画が一般的で、私は比較的高い声を使っています。聞き取りやすいです)。冗談でボイスチェンジャーを使ってリアルな女性の声にしたことがあるので、視聴者の中には私の性別を誤解する人もいると思います。また、隠したり明かしたりはしていません。聞かれたら答えますし、他の人のチャンネルの配信にも普通に話して参加していますが、それだけです。基本的に、わざわざ公表するのは変ですよね?
でも、自分が男性だとバレた瞬間に、みんなに嫌われてしまうのではないかと怖いです。最初から男だと明かしたり、男性的なアバターを使っていたら、今ほど有名にはならなかったのかなと思います。
なので、最近は男性であることにコンプレックスを抱えて生きています(誤解しないでください、コンプレックスがあっても私の性自認は男性です。生物学的に今から女性になることは不可能なので、それは諦めて、自分のメンタリティが好きです)。結局、男性と女性で条件が同じなら、女性は誰からも好かれるのではないかと思いました。でも、女性であることが必ずしも有名になりやすいわけではないのなら…では、何が正解なのでしょうか?もうわかりません。
appleのプラットフォームではVRポルノがネイティブがサポートされていないもののWEB上のVRポルノなら、一応視聴ができる。
違法アップロードされているコンテンツっぽいのでリンクは貼らないけど。meta quest3でDMMアプリを入れてVRポルノを見ていたけど、もっさり感もありとにかく映像の品質が悪い。カメラ機材の都合で映像が歪んでいるのだ。初めてVRを体験したときはそれで十分だったかもしれないけど、今じゃ満足ができん。
VRコンテンツの品質向上に期待する。もしかして、Apple Vision Proのビデオ録画機能でポルノを製造した方が品質が良い可能性までもある。マジで生きている間にVR頑張って欲しい。
今の漫画業界は、異世界・転生・なろう・ロマファン・男女対立スカッとものしか描かせてくれない。
自分は漫画家だ。駆け出しじゃない。けど、今の漫画業界じゃ、描きたいものなんて描かせてくれない。自分たち漫画家は、もうただの漫画製造機に成り下がっちまった。
業界は変わってしまった。売れた漫画の二番煎じばかりが量産され、出版社や電子書籍プラットフォームが求めているのは、売れているジャンルをただなぞるだけの漫画家だけだ。
「いやいや、実力が足りないだけだろ?」なんて思う人もいるだろう。でも実際は、もう上で挙げたジャンル以外の企画は問答無用で却下されるんだ。
生活がかかっている漫画家は、仕方なく求められたものを描くしかない。そしてまた、似たような作品が次から次へと増えていく。
Xで作家募集のポストを見てみろ。どれもこれも、求めているジャンルは同じだろう?でも、読者は本当にそれを望んでいるのか?もう、飽き飽きしているんじゃないのか?
UnityもUnrealEngineも本格開発するなら大差はないんですけどね。
どのみちカスタマイズしないといけないというだけで、より短縮できるエンジンを選択しただけの内容ですよ。
が評価ポイントになりますが、ゲームによって不必要なものは削除したり先鋭化したりしますが、大元の開発者(UnityやEpic Games)との連携が不可欠になってしまいます。
大体の場合は海外はレスポンス非常に悪いので、自社でやれるなら自社でやったほうがカスタマイズしやすいし、何なら最新の描画処理なんていらない、ってなるんです。
もちろんUnity最高HDRPいいよね、とかはちょっと……となりますが、エンジンの性質を知ってる人であれば別にUnityだろうとUnrealEngineだろうと大差ないです。
スタンダードの状態での品質はもちろん大型タイトル作るならUnityは論外ですが、小規模〜中規模で制作するならUEだとBP管理がクソ面倒なので、Unityの方が良いです。
共産主義は、進化と変革の原動力を、変革の担い手である「主体」に求めすぎているのだろうと思うね。
連帯、戦線、同志、団結これらの共産臭のするターミノロジーは、その時代時代で、変革の担い手と目された人々へ向けられる。
古典的な資本主義の確立した時代に「労働者」という概念を再構成したのが、たぶん最初かな。
日本共産党の歴史をふりかえると、労働問題においても農民組合闘争においても、被差別部落問題にしても、変革の担い手を自分たちに取り込むことに知らず知らずのうちに夢中になっていた。その力ずくなやり方への反発へも少なくなく、運動からの離脱、分派を促進していた。
結果として共産党は思想の核である「労働者階級」すら満足に取り込めず、高度経済成長期が終わると、次第に、連帯のターゲットを主婦とか消費者とか言い始めた。そうした社会階層に媚びを売るために、自らの綱領をあいまいにしてブレた主張を繰り返しては運動の広がりが得られず、連帯の同志候補として次のターゲットを探してきた。
あげくの果てには性的少数者、LGBTQを守る(田村氏)とか言い出して今日に至っている。
他方で、資本主義社会の進歩史観は共産主義のそれとは趣が異なる。
根っこには、社会ダーウィニズム的な、進歩への信頼というか期待がある点では、帝国主義も共産主義も同根。
ただ、その実現が「強いもの」による自然淘汰によってなされると考えるか、闘争によってなされるかの違い。
「強い者」が先験的に理解されてしまうと、「弱い者」を排除してしまえばよい(優生学など)という発想になるし、差別の絶えない社会となる。帝国主義やナチズムは典型。
一方、一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考えると自由主義社会となる。理念ではなく、利害で集う社会はこの考え方から支持される。
先日、福岡支部のどなたかを除籍した日本共産党が今もって理解していないことの一つは、日本国憲法がもつ表現の自由の考え方だ。
実は、憲法第21条の源泉は、「一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考える」自由主義の考え方を基礎としている。
これは、表現の自由をめぐる憲法判例のうち「思想の自由市場」という考えから、典拠をどんどんさかのぼってゆくと理解できる。
そうすると、20世紀初頭の連邦最高裁ホームズ裁判官の考えにつきあたり、そのホームズからパースプラグマティズムに行きつく。
そしてさらにさらにさかのぼると、唯一正しい真理を押し付けてきたカトリックの猛威を振るヨーロッパ、お互い不寛容なプロテスタント同士の修羅場のヨーロッパから逃れてきた巡礼始祖たちの考え方に行きつく。お互いに自分が正しいと言い切れないなかでどういう社会を構築するかを模索したところからアメリカ合衆国は始まっているので、表現の自由というのは、国の成り立ちを土台で支える重要な考え方だということがわかる。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
同志の団結を迫りまくるという意味では、根性論とか暴力で一定の方向に人々の顔をむかせ社会変革をしようという路線になりがちなのが共産主義。
多様性を重視するあまり、どんなに社会が乱れようが差別が根深かろうが、偏見による暴力を許容してでも自由に奉じるのが自由主義。
日本共産党は、何かにつけ、ひとの横っ面を自分たちと同じ方向へ向かせたがるが、それは自分たちが嫌われて終わるだけというのは、これまでの歴史が証明している。
日本共産党は、自らの綱領に一言も書いていない、表現の自由の意味を社会のプラットフォームの視点から今一度振り返るべきだと思う。