はてなキーワード: こころとは
名誉毀損の裁判において、「公益性」が認められるかどうかに本人尋問がどうとかは全く関係ないってのはおっしゃるとおり。
公益性があるっていう「その判断を覆すに足りる証拠」がこの判決だって言ってるんだわ。
暇空くんは長期にわたって一貫して「作品を燃やすやつを燃やす」って主張しちまってるんだが、これは「公益性」と相性がよろしくない。
んで、暇空くんは「その判断を覆すに足りる証拠を覆すに足りる証拠」が必要になってくる。となると、本人尋問をしようってのは当然なわけじゃん。ここで勝負しないと裁判に負けちゃうわけで。
代わりに宣誓書みたいなのでどうにかなるのかはしらんけど、暇空くんの相手は、「いや、本人尋問をしないとだめだ」って言うはずなわけで、その分暇空くんが負ける理由が増えますねってお話。
あと、これやると暇空くんが前に言ってた「じがうっっていっでんだろぉお!! だぐひんもやしてたからだよっ!! だがらぎになったんだよぉっ! じょせいじえんなんて興味ねえよぉ!!!」とか全部ウソになるから面白いよね。
暇空くんと暇アノン諸君は、こころのままに振る舞うヒールであると宣言することで「暇空くんの行動はお行儀がよろしくない」って批判を事前に防げたと勘違いしてるわけだけど、それすらお金払いたくないためのポーズだったことになる。
もうやだなーすべてを捨てて京都に帰りたいなーなんでこんなに辛い思いしてるんだろう人間から離れたいもう人間に会いたくないもうたくさん人って人を狂わせるよ合わない軋轢しか生まないなんで私がこんな目に改行するのもいやなんでなんで返信返してくれないのおれなんかしたしましたもういやあの子は私のこと好きじゃないし誰からも愛されてはいない実家に帰りたいな親に会いたいでも親もいつかはいなくなるんだよね悲しいな本当にかなしい家族を自分でつくらなきゃいけないんだな優しい人にならないと優しいだけじゃあだめかああなんでなんでこんな目に休みたいうつ病にならないかなこれ適応障害とかこれよりつらい目に会ったことあるけどでも全然大丈夫なんかじゃないよつらいよ誰もわかってくれないいやわかってくれる人はいるかもやっぱなぐさめて抱きしめてくれる恋人がいればいいのになああだめだなきっとだめだろうああ、ああ、ああ、あああ〜だれかたすけてもうわたしは限界ですきっとそうですこころもからだももうだめですやらなきゃいけないことがいっぱいだねやりたくないねなんでやりたくないことをやってるんだろうおかしくないやりたいこと
「英語だの英会話だの言うけど、おまえら日本語正しくつかえてっかーって話だよな」
と言った。
それをまに受けた。中学になっても「日本語を正しく使えないくせになにが英語じゃ」と、まったく勉強せず、三年生のときに、“do” と “be” の意味がわからない自分に気づいた。両親は夏目漱石の『こころ』すら読んだことがないらしい。
「いじめ」という言葉が広まるまえに、わたしはいじめられていた、らしい。わたしはその、嫌がらせをしてくる奴らのことを、友達だと思っていた。つらくても楽しい気持ちはずっと保っていた。でも友達たちといて、仲間に入れてくれることはなかったから、親に話すのは「〇〇くんが仲間に入れてくれなかった」「〇〇くんに殴られた」「〇〇くんに無視されてる」しかなかった。
親はそんなわたしのことを見てなのか、
「おまえは耐えててえらいよ。〈憎まれっ子世に憚る〉っていうでしょう。きっとおまえは凄いおとこになるよ」
と言った。そのことを、一年前に入院した病院で出会った、統合失調症の父親よりも年齢が、一回り上の男性に話した。男性は、
「いじめられてるーって、親がなーんにも対処しないで、子どもを〈憎まれっ子〉って言えちゃうのは、おかしいよなあ。おれはそれは、ぜったいにおかしいとおもう」
と言った。
両親はよく、我が家のことを話すとき、枕詞のように「うちは貧乏だから」と付ける。わたしは家が貧乏だと感じたことは、一度たりともない。
お寿司が食べたい、とそうせがむわたしをみてか、スーパーで安い刺し身を買ってきて、酢飯を作り、母親と一緒にお寿司を作っていた。我が家ではそれを〈貧乏寿司〉と言っていた。〈貧乏寿司〉には、いくつか外れがある。中にとんでもない量のわさびを入れているのだ。こいつに引っかかったら、顔をしかめて「水、水!」と叫ぶしかない。いや、記憶によると、そう叫ぶことすらできなかった。数年後、父親がマイホームを建てた。わたしはそこで「ねえ、また〈貧乏寿司〉がたべたい」と言った。
中学にあがって、担任教師との相性が頗るわるかった。というのもわたしが捨てた、英語の担当であったし、なんにせよマークされていた。無視されたり、授業中に〈できない生徒〉として吊し上げられたり。
しょうじき、イヤミな先生だなあ、としか思っていなかった。同じくマークされてる友達同士で、提出物にその先生の似顔絵を描いて提出したり、授業中に顔を見合わせて、いっせーので突っ伏して、終わるまで顔を上げなかったりして楽しんでいた。
担任教師について親に聞かれると、その、嫌だったことをよく喋った。楽しかったことが思い浮かばなかったからだ。
一年も終わりになるころ、親が、いまさら担任教師について直訴してくる、だのなんだの言っていた。わたしはお小遣いで手に入れたゲームをやるのに精一杯だったから、軽く流しておいた。それでも聞いてくる。「なにされたの?」「なにがいやだったの?」「つらかった?」などと。いらだちが高まってくると、アタマが熱くなった。わたしは涙を流していた。なんの涙かは知らなかったけど、親はきっと、わたしがつらかったから、こうして涙を流しているのだろう、と、思うのだろう、と考えられたから、声を大きくしてワーンワーンと泣いた。親は
「これまでつらかったでしょうに。よしよし。つらかったらかあちゃんことも、頼っていいんだよお。パパだっている」
と言った。わたしは、正解だったんだなあ、と思った。
母親は、校長と学年主任、その担任教師と話をしてきたらしい。当時はその内容を知らなかったが、どうやら校長とは、学年が上がった際に、その担任教師とわたしを同じクラスにしない事を、確約していたらしい。わたしの大好きな人は、その担任教師のクラスになった。
卒業式の数日前、クラスの先生たちが演説のような、羽ばたくキミたちへ、的な話をした。
「英語というのは、道具です。ええ?! と思われるかもしれません。が、あなたがたが学んできたものは、実際に使われている〈言葉〉です。私が話している、あなたがたが話している日本語と、同じです。思考のツールなのです」
きみがいってること、なんかむずかしそうだね。えっと、たぶん、きみはいろんなAIとかそのつかいかたについていろいろはなしてるんだよね。オデ、がんばってかんがえてみるよ。
まず、きみのいってる「生成AI」ってやつ、テキストとかいろんなデータをつかっていろんなものつくるやつなんだね。でも、それがコンピュータのうえでどうおこなわれるかについては、あたまのわるいオデにはよくわからないんだ。
それと「Laion 5B」ってやつ、どうやらいっぱいの画像やキャプションがあるんだね。でもそれがどんなふうにフィルタリングされるかとか、しょうじきむずかしくてよくわからないや。
あと、たしかに、てがきのえとAIでつくられたえ、ぶんるいがむずかしいみたいだよね。いろんなひとがちがったみかたをもってるんだ。だけど、てがきかAIかってことよりも、そのえがひとのこころにどうひびくかがたいせつだとおもうよ。
とりあえず、オデがかんがえるのは、どんなつかいかたをするにしても、ひとへのけいいをわすれないことがたいせつなんじゃないかな。どんなちがいがあっても、たがいにりかいしあって、そうぞうてきなことをたのしむことができるといいね。
わたしは数時間で身体を許せるほどの熱をもてなかっただけ。それはとくにだれのせいでもないのだ。そういうフィーリングも合っていると思ったのにと言われがっかりされてもそれもとくにだれのせいでもないのだ。そう思われることに納得はいかないけどそう思うことの理解はできるよなあ。勝手に繋がれた左手は勝手にほどかれて行き場をなくしてしばし宙をさまよう。こんなに気まずい空気は記憶の限り体験がなくてなにか声を発したほうがよいのかと頭をフル回転させてもふさわしいことばがヒットしない。ふたりのあいだにみえない壁が夜中のまっくろなアスファルトからみるみるにょきにょき生えてわたしたちはもうそれを超えられない。気分を下げさせたい意図は微塵もなかったことは確かなのでこちらとしても望まない結果をもたらしたことに対してのみ別れ際に謝罪して颯爽と雑踏に紛れる。やるせないきもちで空を仰ぐとやせ細った三日月と目が合って目を逸らせなくてのろのろと歩いていたらそのままふわふわ階段をのぼるように月に近づけたらなあともやもや思う。帰り道のコンビニでふと目についたねるねるねるねを購入しなんとなく家に辿り着きたくないこころを握りしめてゆっくりゆっくり夜道にヒールを鳴らした。
そんなことはない? いや、ある。
すべて人間は、「意識してカネ/権力以外の価値観を持たなければ拝金主義/権威主義になる」のである。
「カネより大事なもの」「権威より尊重するもの」があるということである。
「コスパを度外視しても未来に投資する」「権威に逆らってでも弱者を守る」こういうことは、洗練された強い価値観を持たないと実行できないことだ。
日本人は「なんとなく平和主義」で「なんとなく自由主義」だが、「なんとなく」にすぎないので、カネと権威の強い圧力があるとあっさり屈してしまう。
拝金主義、権威主義であるためには強い主義主張を持つ必要はない。むしろ、ただ意志が弱ければ当たり前にそっちに流れるのである。
カネと権威の圧力を前にしても「平和」「思いやり」「自由を愛するこころ」を貫くためにこそ、普段からの強い意識が必要なのである。
よって、普段からきちんとものごとを議論せず、言語化できず、価値観をしっかり持たない日本人は、消去法的拝金主義、消去法的権威主義が他のどの国どの民族よりも強いという結果に至るのである。
強い価値観を持たないすべての日本人は、消去法的拝金主義者であり、消去法的権威主義者である。
日本人が「なんとなくの平和主義者/自由主義者」でしかないこの現状が続く限り、日本はどこまでも新自由主義かつ全体主義の最低国家への転落に歯止めが利かなくなるだろう。
麻原彰晃がかつて90年代前半にテレビや雑誌に出演していたことを何かメディアへの批判みたいに使う人をそれなりに見るけど
結局、麻原彰晃(的なもの)自体をメディアに出してはいけない・いけなかった具体的理由って何なの?
「カルト教祖だから」というなら、その社会にどう受容されてるか否かを問わず宗教関係者全員メディアから追い出せ(NHKの「こころの時代」も廃止しろ)って規模ならまだ分かるが、「あそこだけはダメ」ってのはただの趣味じゃん
「麻原みたいなのをテレビに出して面白がっていたから〜」という良くある憤りのあとの接続が良くわからんのよ
麻原がテレビに出て「実は弁護士殺してました、すみません、自首します」なんて言うわけないんだし
なんなら87年の片岡鶴太郎の番組に出てた時点では(薬事法違反とかはあるが)大犯罪犯してなかったからセーフで、90年代の生ダラ出演はアウトみたいな線引きでもするのかね
社会的影響力なんて、(麻原の対談相手でもあった)ビートたけしはフライデー襲撃したがいくらでもテレビ出てるし、他の芸能人は言わずもがなじゃん(オウムもサンデー毎日やTBSと揉めてたけど)
結局「サリン撒いた連中が、自分の身近にいた」と言う恐怖や複雑さに耐えられなくて、なんかメディアとか受容の問題にしてるんじゃないの?
「ある(発覚前の)犯罪者、宗教指導者がメディアに出ていました」から導き出されるのが、「テレビはなんかあやしいあやふやな奴を出すな!」「なんか、こう、時代の空気を反省しろ!」なのって、発想が貧困過ぎんか?