はてなキーワード: 各論とは
リニアの延期で静岡県が槍玉に上がっているが、現在の制度上国と地方は対等で、国策などの都合で引き倒されないための地方自治でもある。数多の利害関係者がおり、総論賛成各論反対があり、その中で粘り強く、泥臭く、着地点を探っていくのが肝要であり、それを国策だから押し通すのを是とすると地方自治は損なわれる。
私たちの住む地域の向かいたい所と国策の向かう所が一致するとは限らない。全国的な世論と一部地域の世論が一致するとも限らない。自分の意見が多数派というのは偶然の産物である。たまたま多数派にいることをもって、少数派の地域を軽んじるのは、その矛先が自分たちの地域に向く可能性を考えていない点で楽観的であり、多数派に安住できるという傲慢である。
いち開業地域に住む人間としては、リニアには乗ってみたいし、静岡県知事の軽率な言論には眉をひそめる。経済効果的な面でも関連ビジネス的な意味でも歯がゆい思いをして恨み言を吐きたい人がいるのもわかる。しかし、だからといってこの泥臭くて面倒臭いプロセスを軽んじる言説は、民主主義の学校たる地方自治を自ら打ち捨てるようで如何なものかと思う。
芦原妃名子さんの件もそうだし、性被害のセカンドレイプとかもそうだが、被害者が声を上げたことで問題が大きくなり、加害者側を擁護する声が大きくなることで破綻を引き起こすことがある。
被害者が責任を感じることはないし、被害をきちんと告白することは、社会全体を住みやすくしていくことに必要なことだから、あなたに問題があるわけじゃ無い。
この原則を忘れないようにしてくれ。
と言う加害者に対して、関係者に連絡を盗って了承を得た上で告発した件は全く問題が無い。
にもかかわら被害者側類と騒ぐ方が悪いと言うような連中がいた。そしてその連中は被害者が自ら死を選ぶと言う最悪の事態に接しても「この期に及んで日本テレビや脚本家を叩くのか」と言った言動をしている。
味方のような面をして、被害者を利用すんな。
今回の事件。日本国の経済規模を考えれば与党の最大派閥で動く金が2桁小さいことを、むしろ問題にすべきだと思う。たかだか数億円(それも下の方の数字)で、国の政治が動いてどうするの?企業のテレビCMだって、ちょっとよく見る企業は年間数十億円は使っている。GAFAのような大手外資企業が日本で法務部門やロビイングに使っているだろう金額よりも小さな金額を日本の与党が四苦八苦集めているような状態でどうやって日本を守れるのか?こんなのでいちいち政権潰していたら、日本は滅びますよ。みんな何がしたいの?
https://twitter.com/gweoipfsd/status/1734098963878629860
うーん、各論は賛成だが総論としては反対かな。確かに数千万、1000万のレベルで国の与党が意思決定を捻じ曲げるなら問題だが、
今回の1件を理由に政権が変わっても日本が滅ぶとは思えない。そもそも政治資金収支報告書に記載していれば何の問題もなかった(道義的な問題はさておき)
※これは毎日XことTwitterを見ている人間が観測範囲から見えることだけで考えた戯言です
Xは今日も燃えている。その原因の多くは思想的な対立かと思うが、その内容は以前よりかなり複雑化しているように思う。
以前の思想対立の主流は「ネトウヨvsパヨク」であり、匿名掲示板時代からある古式ゆかしい対立である。特に安倍元首相在任時はこれが顕著であった。
今回はこの思想対立をベースにどのように思想が分裂していったかを考えたい(なお、この文章ではあえて思想対立のベースを「ネトウヨ」「パヨク」と記載する)。
基本的に二項対立だった論争は、2020年から旗色が変わってくる。その原因はもちろん新型コロナウィルス感染症、Covid-19である。
ここで生まれたのがみなさんご存知「自粛派vs反自粛派」「ワクチンvs反ワクチン」の対立だ。
この時点では(現在も)多くの者が前者の立場を取ったため、あまり思想ごとの偏りは多くなかった。せいぜい政府の対策の遅さを非難するべく「パヨク」側が前者に立っていたのが目立つぐらいだろうか。
しかし発生が中国・武漢であったとされている点、政府がアメリカ製のワクチンを推進したという点から「ネトウヨ」「パヨク」の一部が「反自粛」「反ワクチン」に移ったことは抑えておきたい。
さて、その前後で起こっていた思想対立といえば「ツイフェミvsアンチフェミ」である。
これは比較的単純で、ツイフェミ陣営は「パヨク」、アンチフェミ陣営は「ネトウヨ」が主であった。というのも、当時のTwitterで湧き上がる論争は概ね「宇崎ちゃん献血コラボ」「温泉むすめ」「ラブライブ!サンシャインのJAコラボ」等に対するツイフェミからの批判が嚆矢となることが多かったので、「左派の表現規制vs右派の表現の自由戦士」という文脈で語られることがほとんどだったためである(そもそも表現規制は右派のお家芸だったのだが…そこら辺は割愛)。
しかしここで一つの変化が生まれる。それがトランスジェンダーを巡る問題である。
人権の尊重を是とする「パヨク」およびそれに準ずる「ツイフェミ」にとって、トランスジェンダーおよびLGBは当然尊重すべき存在であり、欧米各国の動きを見ても当然と考えられていた。
しかし、「ツイフェミ」と呼ばれる女性の一部が「フェミニズム」を掲げている理由は主流左派のそれとは異なっていた。それは男性から性的に客体化される恐怖や怒り、男性嫌悪が行動の原理となっていたという点である。
この視点から考えるに、彼女らにとって身体男性がトイレや銭湯に入ってくるというのは全く受け入れられない。結果的にトランスの排除に向けて「ツイフェミ」は分裂する。いわゆる「TERF」の誕生である。
ここで興味深いのが「TERF」と「ネトウヨ」の合流である。戸籍制度の護持を標榜する「ネトウヨ」にとって同性婚は蟻の一穴となりかねないものとなっており、必然的にLGBTに対しても反対的な立場を取るものがほとんどだった。これが、「TERF」と「ネトウヨ」を結びつけるに至った。本来は対立する思想が各論反対によって一致するというのは興味深い。
(もっとも、ラディカルフェミニストの思想は本質的にかなり保守的であるため、合流は当然という見方もある)
ここまででもお腹いっぱいであるが、今最も新しい思想対立を最後に紹介する。
それが「ウクライナ・ロシア戦争」と「イスラエル・ハマス紛争(パレスチナ-ガザ地区)」の思想対立である。
日本国の立場としては前者は「ウクライナ寄り」後者は「中立」であると筆者は考えている。
しかし「ネトウヨ」と「パヨク」はここでさらなる分裂を迎えることになる。
まず「パヨク」の方は比較的シンプルで、基本的には「ウクライナ寄りの中立」「パレスチナ寄り」となっている。
憲法9条を基にした戦争反対という考えがベースにあり、被害がより深刻な陣営に寄り添うという思想からは当然のことのように思われる。しかし注意したいのが「パヨク」は基本的に「反米」であるという点である。なので米国が支援するイスラエルと戦闘状態にあるパレスチナ(ガザ地区)については積極的に支持できる一方、同様に米国が支援するウクライナは消極的な支持となっている。その証左にウクライナの抗戦を諫め降伏を促す言論は基本的に「パヨク」から出てきている。これが高じた一部の「パヨク」は明確にロシア側の立場を取るものも少なくない数観測できる。
まず「ウクライナ・ロシア戦争」においては基本的に「ウクライナ寄り」の者がほとんどかと思う。というのも、ネトウヨのほとんどは政府見解と一致した親米保守であり、反中・反東側陣営という点から見てもウクライナ支持がほとんどかと考えられる。
だが「イスラエル・ハマス紛争」においてはかなり微妙である。先ほど述べた通り「ネトウヨ」は基本的に政府見解と一致した思想に軸足を置いているため、かなり中立となっている現在の日本の立場には拠り所がない。
もちろん親米保守の立場からイスラエル支持、パレスチナ批判を展開する「ネトウヨ」もいるが、どちらかというとドイツのイスラエル決死支援を嘲笑うぐらいで特に支持を明確にしていない場合も多いように思う。
しかし「ネトウヨ」が親米保守であるというのはあくまで原則論である。中には極右として自民党すら切り捨てる勢力も存在する。それが「参政党」「日本保守党」の支持勢力である。思想の違いは存在するが、共通するのは強烈なラディカル右派であるという点である。
どちらも政府自民党の不満へのカウンターとして存在しており、前者は「政府のコロナ対応」後者は「トランスジェンダー法案の可決」を機に勢力を伸ばした。
当然の如く反「パヨク」や反中反韓ではあるが、日本第一主義の観点から反米(というか反戦勝国)的視点も持ち合わせており、その観点から「ウクライナ・ロシア戦争」においてロシア側を支持する者も多い。
そしてえてして反ワクチンの思想も兼ね備えているケースが散見される。
さて、ざっくりまとめただけでもこのような分類になったが、実際にはもっと多くの対立が存在している(インボイス推進vs反インボイス、AIvs反AI etc…)
ワンイシューでの思想対立が難しい現状において、統率の取れた反対運動というのは以前よりも減少しているのかもしれない。しかし、それに反比例するように炎上自体の回数は増えているように思う。
自分は医師なので当事者で、以下、ポジショントークの要素があることは否めない。
「医療費が嵩んで国が転覆しそうだから診療報酬を下げます。」これは、仕方ないかなと思う。自分だってもうこれ以上社会保険料おさめたくないし。
ただその理由として挙げられてることは本当に実態としてそうなのか?開業医儲けすぎっていう印象をつくって、憎悪を煽ることで世論誘導を楽にしたいっていうある意味「雑な仕事」なんじゃないの?と強く思う。
そして、まんまと煽られているようにみえる、いわゆる「現役世代」のSNS投稿がそこそこ増えましたね。まぁ煽られてしまうのは仕方ない。官僚は優秀ですね。
どうも30-40代くらいの現役世代は、実感としてもっている社会保険料の負担のきつさ(きついですよね…)と、このタイミングで財務省の出してきたちょうどいいテンプレート(「開業医儲けすぎ!」)と、コロナで溜まった医師への反感(偉そうにご高説をのたまう医師がたしかに目立っていたように思うのでこれは同業ながら残念だった)から、このビッグウェーブに乗っているような印象をうける。
特に40代前後の氷河期世代で、厳しい20代30代を才覚と運で生き残ってきた方々は、そもそも高齢者医療や福祉の手厚さに思うところがあり(憎むべき世代間格差として)、かつ、年代的に自分自身は病院の世話になることはかなり少なく、その親世代もまだ本格的な介護が必要な状況になっていない人も多いだろうから、直接にも間接にも社会保険制度の恩恵を実感していない、できていないんだよね。だからこそ舌鋒鋭くなる。
高齢者の医療に使う金はもったいないというのは総論としてはそのとおりだなと思えるけど、各論ではとても難しい。誰かに言われて決めることでは本来はないんだよね。
では、あなたの親はどうする?30年40年後のあなた自身はどうする?ということを、具体的に考えることが、「現役世代」のこの問題への正しい向き合い方だと思うよ。
某サイトで児童ポルノ問題になってるのはAI生成そのものではなく、それをエサにモノホン販売に誘導する輩がいることと認識している。AI生成そのものがアウトというわけではないはずだ。
AI生成による写実的な非実在青少年の絵が児童ポルノであるとは言えない。
一方で写実的なAIが描く人物とは非実在なのか?ここはなかなか難しい。そもそも人物のデータがあるから人が生成されるわけだが、描かれた人は合成された何かであり実在はしないはずだ。だが元となった人物がいないことを示すのも難しい。元データをかっさらっても、AIアルゴリズムを解析してもおそらく無理だ。ディープラーニング等のビッグデータ解析は結果はわかるが過程はわからないからだ。
主観的にこれに似てる!とは言えるかもしれない。しかしそれではこれがクロかシロかは各論だろう。裁判所判断になる。少なくともAI生成ツールとして使った場合、その利用者は実在するとある人物を作ろうとしたと言えるか?写真を取る、イラストを描く、と比較しても行為として微妙だろう。
過去の世界の事例から見ると、非実在青少年のポルノ絵は有罪になったケースがいくつかある。大筋としては、それが存在しうる、という判決だ。
日本で争われたケースとしては、被告は絵であるとしたが、判決としては実在する少女がいることが理由で有罪となったものがある。ここでもあくまで、実在することが争点だった。絵が写実的で写真と見間違うものかどうかは論点ではなかったはず。
論点を間違ってはいけない。AIが写真と同じクオリティの絵を生成するから児童ポルノとなるわけではない。存在する、つまり被害者がいるかどうかがシロクロの分かれ目である。
これを写実的かどうかで議論すると間違ったことが起こる。例えば、出力を調整して写真ではないことを明らかにすればセーフになるのか、等。つまり、明らかに被害者がいるが一次ソースの写真でなくAI加工したイラストだった場合は?それはアウトだろう。
何かこうだという結論があるわけではないが、まあ、言えることとしては、AI絵によってアウトセーフの判断が難しくなった世の中だ。だが現状でAI絵による非実在青少年はクロとは言えない、たとえあってもケースバイケースである。
この状況でAI絵を起点に非実在青少年の規制が進むのはまずいし、逆に、リアルでないイラストによる加害が見逃されても問題である。印象でAI規制議論や非実在青少年イラスト規制議論が加熱することだけは避けておきたいところだ。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
疑問:
1.「八つ当たり欲を捨ててほしい」の節で、元記事の表現は八つ当たり欲に基づくものだと主張しているが、その根拠が示されていない。
2.「差別的言辞の発し手について」の節で「言ってるのが男性だった場合八つ当たり以上に気持ち悪い動機が潜んでいると思いませんか?」と主張しているが、その根拠が示されていない。
3.「差別から距離を取った方がいい理由」の節では、元記事全体の目的が前節を根拠にアピールのためだと主張しているが、前節の根拠が示されていないために、この節の根拠も不足している。
こうした、無根拠に主張の根拠を悪意を持って推察する行為は「邪推」である。邪推を元にした主張に正当性はない。例えば、私はあなたの主張をいくらでも邪推することができ、結果として「あなたの本当の主張」をいくらでも考えることができるが、そんなことをお互いに繰り返してもまともな議論にはならない。
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私は今回の元記事について、このような表現を使ったことは良いことではないと考えたが、次の理由により一定の正当性があると判断した。
1.元記事が指摘する問題によって、現時点でソロでキャンプができない女性が存在することが十分考えられる。
2.上記の問題は時間的制約を持つ問題である(今日始めてキャンプをしようとした女性が、危険性を元に諦めるといったことは毎日発生しうる)
3.上記の問題は侮蔑的表現よりももっと具体的な性差別的問題であり、優先度の高い問題でもある。
4.侮蔑的表現を使うことで、道徳的には間違っているにせよ短期的には効果を発することが期待できる。
5.元記事のような表現は明らかに使う必要がない、という客観的な根拠が考えられない。十分に機能を代替する、侮蔑的でない表現が私には思いつかず、また誰もその表現を提案していないことから、そのような表現は誰にでも思いつくものではないことが明らかである。
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各論として「侮蔑的表現は避けよ」という主張は同意するが、それに例外はない、ということはありえない。特に時間的制約がある条件ならばなおさらである。この場合、元記事の表現を根拠に主張そのものを止めろ、というような主張については、それは論点のすり替えであると考える。
別に政治学が専門でもない、よくわからん人文系アカデミアおじさんに何期待してるの?
なんではてな民って毎回毎回この手のしょーもない専門性皆無人文系おじさんの戯言をわざわざ読みに行って
自分と意見が一致するときは「○○でもたまにはまともなこと言う」
自分と意見が異なるときは「いやおかしい、具体的にはこれこれがおかしくて云々」
いや、毎回出鱈目言ってるだけじゃんそいつら
でもそれはいちいち取り上げるほうがアホであって
無根拠に出鱈目言うおじさんなんてこの地球上に何万人いるんだって話だろ
それを勝手にお前らに都合のいい時だけ利用し、都合の悪い時は各論で反論するという意味わからんことを延々やってるほうがよっぽど頭おかしいよ
リベラルって一言でいう自称もどうかと思うが、とにかく社会的な構造から見ていく、差別を許さない、そういう意見に共感して今までやってきた。
労働環境や非正規雇用問題などもっと各論に立ち入ってほしいと思うこともあったけど、総論として扱われる反原発とかにもなるべく理解を示してきたつもりだった。
今、世間では坂本龍一が亡くなって氏の芸術や経歴についていろいろ語られている。その裏の全く関係ないところで、私のリベラルに対する期待が、折れた。
https://twitter.com/kawai_kanyu/status/1642718374965968896
私もuber配達員をやっている。非正規だけでは稼げず一年半ぐらい前から。もう1500配達くらいになる。uber配達員にはさまざまな背景がある。uber配達員をやるネトウヨ もいるだろう。だがこの言い草はなんだろうか。まるでuberで働くことが何かの罰や、レッテルに値するような言動。「これはネトウヨ に対する批判であってuberは関係ない、些細な巻き添え」みたいな擁護がありそうだが、そんなものには思えない。
この2、3年、ツイッター 上のリベラルの言動に疑問を持つことが増えていた。それは別に理想と現実のすれ違いとかそんなものではない。明らかに、リベラル側も社会の底辺や地方の人間に露骨な偏見を抱いていて、それを隠そうともしなくなってきていたのだと思う。そんな言動が、目に余ってきていた。
この手の人たちをなんと名づけるべきだろうか。
「冷笑左翼・リベラル」?いや、曲がってもこんな人々を左翼やリベラルと呼ぶべきではないだろう。共産党や社民党の大会でこんなことを言う人がいればそれこそ除名されるだろう。
しかしこの手の人々が、堂々とリベラルとして振る舞っていて、身内で誰も批判しない。芸能人の失態にはすごく早く反応する人々も。
一体なんなのだろうか。なぜこんな発言が「いよッ、言ってやりました!」みたいに広まるのだろうか。石原慎太郎辺りの「ガツンと言ってやった」系差別発言(そして「あの人はああいうひとだから」と擁護される)とどう違うのか。
私はこれからも自分なりに社会に向き合っていくし、少なくとも社会問題を個人や世代やある業界の素質に結びつけるようなことはしないように心がけたい。
だが、もうツイッターで見られるような、底辺と周縁と縁の下の力持ちを無視した、瞬間風速ありきの、リベラルには関わりたくない。
「その程度で離れるなら、その程度の思想だった」と言いたいなら言えば良い。その程度の人がそこら中にいて、新しいことを始めるだろう。