はてなキーワード: 風立ちぬとは
圧倒的に「この世界の片隅に」の勝ちであった。
「この世界の片隅に」の圧倒的な戦争描写、生活描写のリアリティに震えた。
妄想といっても、宮崎駿の戦車や巨大な爆撃機の妄想のことではない。
そちらはナウシカやラピュタのようなものより遥かに現実寄りになり、
自分を主人公に見立て、しかも「ラノベ主人公」だった。宮崎駿のオナニーだった。
なんというか、観ていて恥ずかしかった。
他人の中二病ノートを読み上げられても共感性羞恥心を感じるような、
正直、ごめん、観ていて「痛い」と思ってしまった。
素晴らしい作画や音声に魅せられているから裏打ちされているのであって、
そうでなかったら、自分以外でも「痛い」と思ってしまうのではないだろうか。
というか、ストーリーがずっと空回っている気がした。
「この世界の片隅に」は少なくとも右手を失うという転機がある。
しかも絵を描くのが好きな主人公が描けなくなるという絶望がある。
私も事故で右腕を怪我してしまい、絵を描くのが好きであったが、
描けないことはないのだが、痛いこともあって描かなくなってしまった。
そんなこともあって、「この世界の片隅に」の浦野すずには余計に共感してしまった。
「風立ちぬ」はなんというか、話の強弱がないように感じた。
しかも、ずっとエリート無双を見せられているような感じさえあった。
ラノベの主人公はみんなエリートだと芥川賞の市川沙央も述べていた気がするが、
本当に「風立ちぬ」は宮崎駿による堀越二郎=堀辰雄=宮崎駿を主人公としたラノベであり、
余り調べないで書くが、堀越二郎や堀辰雄の史実にあまり基づいていない、
どちらかと言えば断片をヒントとして作り上げたパッチワークであり、
試写で泣いたと宮崎駿は言っていたらしいが、正直キモいとさえ思ってしまった。
申し訳ないが、「痛い」「キモい」というのが正直な感想だった。
例えば、何らかの苦難を乗り越えて零戦にたどり着く物語とかだったら、
もしくは小説「風立ちぬ」としてやった方が良かったのかもしれない。
現実であるように見えるだけの異世界で無双するような話に思えてならなかった。
主人公の俺、堀越二郎=堀辰雄=宮崎駿、強ぇえ!を見せられている気がした。
堀越二郎の顔のアップとか、絵と合わせて観てしまうと駄目だった。
あと、これも比べるのはおかしいが、
「この世界の片隅に」の方が圧倒的に上であった。
あと、個人的には宇宙戦艦ヤマトのような取り上げ方も好ましくないと思っていて、
一発ボカチン食らっただけで撃沈したのに何で神格化されとるんだ?
「この世界の片隅に」で子供が空母があまりないようなことを言っていたが、そのとおりだと思う。
どれだけドッグファイトというかアクロバティックな戦闘機ができるか、
それは「風立ちぬ」の設計者の会議でも語られていたとおりであり、
機銃を載せなければ軽くなる、そうはいかないから徹底的に軽量化する、
その結果、敵の銃撃に簡単に貫通するような機体になり、敗因につながった。
その分だけ空母を増やし、こまめに燃料補給をすることで補っていた。
もっと大きな戦略や戦術の視点を見誤っていたのが敗因のひとつに思う。
優れた飛行機を作ろうとすることが、逆にある意味では敗因にもなってしまったのは皮肉だ。
「風立ちぬ」は戦争を美化したような作品でないことは明らかだ。
ただ、「風立ちぬ」で描かれる世界は戦争前とは言え「軽い」と思わざるをえない。
エリートや金持ちにとってはそうだったんだろうな、軽井沢の別荘とか、
みたいにどうしても思えてならない。
これが小説「風立ちぬ」寄りだったら、そう思わなかったかもしれないが、
「この世界の片隅に」でスイカを盗み食いしていた子供の立場でなかったのは明らかだ。
考えてみれば、「生きねば。」というコピーも、どちらの作品に合っているかといえば、
これも圧倒的に「この世界の片隅に」の方であった。
右手を失い、孤児を養子として、この世界の片隅で出会い、この世界の片隅で生きていく。
あの時代の大衆寄りの世界を描いたのは「この世界の片隅に」の方であった。
それもあってストーリーが薄くなっている気がした。
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
正直宮﨑駿というアニメーターのお遊び以前に、今まで日本国内に刺激を与えた数々のジブリ産アニメ映画そのものが見たかった。
宮崎駿のアニメは日本に限らず、世界中ほとんどの人は一度も鑑賞もしくジブリというスタジオの名を聞いたことがある。
この時代の人間が持っている心象風景、時代精神は宮崎駿を語らずにいられない。現代のロックソングは、ビートルズという背景があるから発展して来たのと同じだ。
というか、宮崎駿作るのがアニメだけではなく、幼少期の「見る」冒険である。幼い頃に、みんなはもものけの壮大な自然に神秘を感じ、千と千尋のトンネルから冒険心を育つ。ラピュタで男女の純愛に目覚め、トトロで友愛を知った。
ジブリの映画が存在しているだけで、確実に世界はある程度優しさが増えた。
ところが、君生きはなんだろうか?
君たちはどう生きるかという思想の強いタイトルを挙げながら、ただただ今までの作品の二番煎じのように、主人公は自由意志がなく、ひたすら母を求める。その母への愛情ははっきり言って共感しにくい、特に若い世代に関しては、エディプスコンプレックス的な描写あるいは哲学思想は、陳腐以外他ならない。
宮﨑駿の独りよがり、彼だけにしかわからないエディプスコンプレックス、徹底的なエゴイズムだったことは明白であり、宮﨑駿という人間へさほど関心を持たない人々にとっては、どうでもいい話。どうでもいい映画なのだ。
それでもこの映画を深いとか、教養が要るとかと漠然と代弁してくれるものがいるが、こいつらは夢から目覚めたくない人たちである。
この作品は深淵であり、洞察しようと近いたら何もない闇に堕ちてしまう。宮﨑駿が長年に渡り、隠して来たニヒリズムそのものの固まり。
エヴァの卒業式みたいなスッキリした気分にはなれず、捨てきれずに残った元カノのメモリアル的な存在だった。風立ちぬで終止符を打ってくれるとダンディではあるが、君生きで〆るのが、無敵の人の無差別テロかストーカーの未練ダラダラみたいで気持ち悪い。
一昨日映画見に行ったのに、未だにこの不快さが取り除けない、あと褒める人がいることを見てさらに陰鬱な気分になってしまう。
とりあえず最後の最後に無差別テロをやってしまう宮﨑駿は、所詮人間だった。
追伸
どっかで見たよ~な要素がぶち込まれまくってひたすら車輪の再発名をしている感じ
あんたそれ以外描けないの?いや描けないであろうことはわかるんだけどさ
風立ちぬはいいよ?初めて(その年にして初めて!)「俺は結局はお坊ちゃんなんだよ」って言ったからね
でも二度も三度もやることじゃないでしょ
良くも悪くも心が動かされたのは序盤の風立ちぬ+トトロ再利用したような絵面に突っ込みいれているあたりと
終盤に入って爺さんから積み木の話聞かされて以降くらいだった
あっそっすよね
ペリカンさんも大変っすよね
たしかNHKドキュメンタリーの「終わらない人 宮崎駿」のなかだったと思うけど
鈴木敏夫がポニョについて「あまり好きじゃない」と語るくだりがあった
全編昔やったことだらけじゃないの
だってほぼ全てのひとが思ってるだろうけど
しかもその石の破壊も主人公じゃなくてインコがぶった切っちゃうし
いや、いろいろ読解の余地はあるよ
外界の住人である主人公ではなくて世界の住民自身の(誤った)行動によって世界が崩壊するとか
崩壊ではあるけどインコたちは外に出れてるわけで自らを束縛するものを自分たち自身の手で否定できてるとか
でもね、些末なのよ
味のないガムも楽しもうと思えば楽しめますみたいなものであってそれ以上じゃない
インコの王様の動きは「おっ!」と思わせるものがあってここで最後に主人公と大立ち回りを繰り広げてくれるのか!?と思ったら
剣でテーブルごと積み木ぶった切るだけ
マジか~
まぁ説明不足なのとか見てると宮崎駿が体力的に持たなかったってことなんかな
それならもう仕方がないや
でも「敢えて」描かなかったとかならエンタメ映画つくるのやめちまえよと思う
通俗エンタメにも作法があるはずで、ここでアクションをいれる!みたいのあるでしょ
昨今のジャンル映画がジャンルの型を否定するがあまりジャンルそのものを否定するのを見てると脱力する
そんなに枠組みを否定したいならそのジャンルでやんなきゃいいじゃんね
通俗エンタメならちゃんと観客をスカッとさわやかな気分にさせてくれ
いや個別にそういう作品もあるってんならまだ納得できるかもだが
ただまぁ時が経てば言及する奴は熱狂的なファンに限定されていくし
否定的なファンの感情も摩滅していくから結果的に味のある作品って社会的評価になるのかもね
宮さんお疲れさまでした
いやーあれはよかった
基本ネタバレなしでふんわりと書く。
公開と同時に見に行って色んな人にどうだった?と感想を聞かれたけど、人に感想を伝えるのが難しい映画だ。
そう自分が思うというってことは、自分はこの映画好きなんだなと確信している。
駄作だと思うものはたやすく説明できるのだけど、好きな作品を人に語るのはいつだって難しい。
強いて言えばタイトルは損してると思う。個人的な思い入れはあったと思うし骨格なのかもしれないが内容と照らし合わせると合ってはいないと思う。
やはり宮崎駿は言葉を尽くすタイプではなく、体感させることで感じ取ってほしい人なのだと思った。根っこはやはりアニメーターだ。
宮崎駿作品には分かりやすいエンタメ部分と対で、不気味で謎めいた少し怖い感じのする要素というのが必ず入っていた。
言ってしまえば「生と死」であり、どちらが欠ければどちらも成立しないものであって、それは宮崎作品の根底に常に流れているものと自分は解釈している。
今作はその「不気味で謎めいた少し怖い感じのする要素」に遠慮がなくなっていて割りと初っ端から前回で「死」という概念が前面に押し出されていく。
物語が中盤に向かうにつれ、これはいよいよ恐ろしい内容になってしまうのか?と内心少しワクワクしながら展開を見守った。
しかしそこはエンタメ鬼宮崎駿、ありとあらゆるセルフオマージュとも呼べそうなモチーフやキャラと、アート寄りなイメージとがカオスに混在した世界でゴリ押ししてくる。
後半に至ってはもはや人間キャラの感情面が唐突に感じてしまうくらいビジュアルイメージに圧倒されるものがあった。
これまでの作品に比べると、特に直近だとぽにょなんかと比べるとアニメーションの質、作画魂みたいなものはちょっと劣ってる気はした。
そのかわりアートが素晴らしくて、偶然なのか狙いなのかよくわからないんだけどギリギリのバランスで成立してるような稀有なものを見た気がする。
個人的には、宮崎駿作品は正直ストーリー部分の謎とかはあまり気にしてない。
ストーリーとしてなんらかのテーマを語らせるタイプのピークは自分はもののけ姫だと思っていて、それ以降はより抽象的な概念が強くなっていってると思ってる。
宮崎駿本人もなにかのドキュメンタリーで「このシーンがすごくてだからこの映画が好き、そういうもんなんですよ」と言っていて「そんなもん説明セリフで言わせる事じゃないんだよ」という思いはあるんだと思う。
今作もセリフは変に説明的なところは全然なかった。簡潔に会話の流れでしか説明しないというは踏襲されている。というか今作はそれが更に加速されてるので大人が見てても「今のどういう意味?」となる場面はけっこう多かった。
正直説明不足なのは間違いない。エンタメ作品としてそれはどうなのかというとどうなんだろうという事もある。
しかし自分は「風立ちぬ」が宮崎駿の最後の作品ではなく「君たちはどう生きるか」が最後の作品だというなら納得できる。
監督本人のコメント「なんだかよくわからないものを作ってしまった」これに尽きる。(これよく言うけど)こちらとしても「なんだかよくわからないものを見てしまった」という気持ちだ。
そしてこのなんだかよくわからないものを見たという感覚に浸っていたいという気分にさせてくれた。
ってことでいいんじゃないか?
駿が庵野好きなのは風立ちぬ周辺から一般人でもそれとなくわかってると思う。
んで今度はさらに、ちゅうか最後に庵野みたいな作品も作りたくなったんじゃね。
庵野なんかさーエヴァから始まってリブートまで、ゴジラはよかったけどウルトラマンもライダーもすっげー駄作じゃん。
一般人が見たらぽかーんでつまらない作品。でもオタクどもがうぞうぞ集まってアレがコーでコレがアーでオリジナルのあれが~当時のあれが~ってめっちゃ勝手にワイワイしてつまらない自己満足の視聴者にわからせるつもりが無い作品のいいとこ探しをそれこそ一生一所懸命にやってくれんの。そしてそのためにはわかんね~って言う見下せる一般視聴者が必要なのね。
対して駿はわかられすぎ。一般人にわかる作品を出してヒットして徹底的にわかられてやんの。
千と千尋もハウルももののけもみんなエモさを感じてテーマを感じて子供から大人までわかるわかるしてんの。
それこそ振るわなかった過去作品までさかのぼってわかるわかるされてんだよ。駿丸裸。
その成功には鈴木御大の手腕が大なところもあるだろうけど、駿本人はわかられすぎて不満もあったんじゃね。
ミステリアスさとか俗人とかけ離れた理解されないセンスとかさ~。もしかしたら駿は欲しかったのかもしれない。もうちょっとわかられたくなかったのかもしれない。
駿は鈴木とわれわれ凡百な人々によって俗物に引き摺り下ろされたんだよ。一般人にウケる大ヒットメーカー。世界の駿。
世界にウケる監督としての評価はあるけど誰も寄せ付けない天才のさらに天才、誰が彼の作品を100%わかるのか?という軸には行かなかった。
庵野はそっち方面に居て、ここ最近でさらに先鋭化していってる。
庵野が好きな駿もそっちに行こうとしたのでは。娯楽ヒットメーカーに飽きて、遺作だし好きにやろうって部分も大きいだろうけども。
そもそもそういう庵野化の兆しはポニョであった。あったよね?歌のヒットを除けば過去作品ほどわかるわかるされてなかった。一般人にはこれって…?て観想もままあった。
君たちはどう生きるかではついに抑えていたいろいろな何がしかのタガが外れて駿が好きに作った作品になったわけだ。
あとはわかるな?
よくわからない、あまり面白くなかったといった観想を一部のしたり顔「わかるマン」が叩いて回って俺はわかるぞと崇高な考察をあげつらう。一般人はいやでもつまらんし駄作だ。っていって反論はわからないから駄作ってやれやれ…と高みから見下す。いつものアレ。
駿、あんた大成功だよ。今頃大爆笑してるよ。俺は庵野のような作品を作れたんだって。いやいや作ろうとして作れるのはやっぱ天才だよ。駿すごい。
駿の庵野化には作品だけではダメでそれを見た視聴者がちゃんと庵野作品のような反応をしないとダメだった。そしてはてなだけを見てもそれは成功してる。俺が、俺たちが駿の生きたい方向に駿を押し上げられたんだ。
今まで俺たちは駿にとってシンに嬉しい視聴者じゃなかったかもしれない。でも遺作としてこうやって最後にわからない駄作と論じる視聴者になることで駿が喜ぶ視聴者になれたんだ。おめでとう。おめっとさん。
君たちはどう生きるかでも戦中を舞台にしてるのに日本の罪に触れず嫌儲で猛批判に晒されてるけど
韓国系評論家、宮崎駿の「風立ちぬ」を痛烈批判=「非常に不道徳」「真の目的を覆い隠している」―米国
https://www.recordchina.co.jp/b80372-s0-c10-d0052.html
宮崎駿作品を見た欧米人「なんで戦時中が舞台なのに、日本の戦争犯罪が描かれてないの?自分が戦争犯罪の加担者だと認めたくないの? [257926174]
賞レースの行方よりも目を引いたのは、ボストン映画評論家協会の投票会場での劇的な一幕だった。Inkoo Kang氏は、会場で以下のような声明を読み上げた。
「宮崎駿監督の『風立ちぬ』は、日本の戦後の歴史に対する態度をよく表している。戦争の恐ろしさは認めているが、このような恐ろしい結果を引き起こした戦争の中で、自分がどのような役割を演じたかについては認めていない。私に言わせれば、この映画は非常に不道徳である。なぜなら、飛行機が製造された真の目的を覆い隠しており、しかも、これらの飛行機が中国や韓国の労働者によって製造されたという事実にまったく触れていないからだ」
同氏はこのような声明を読み上げた理由について、「多くの米国の映画評論家たちが、これほどにも明らかな『風立ちぬ』の道徳的盲点を十分に考慮していないため」と説明。「この映画は単に無害な理想主義者の映画だとすべきではなく、日本の戦後の主流文化の文脈の中で評価しなければならない。戦後の日本は、一貫して戦争犯罪についての反省を拒絶し、極端な状況の下では戦争犯罪自体をも認めないこともある」とした。
君たちはどう生きるか、あれはエヴァQで世界を戻そうと躍起になって破滅したシンジ君と同じように壊れた庵野に「世界なんて作り直さなくて良いんだ!ただそうなってしまった世界でよく生きれば良いんだ!」と伝えるためだけに作った作品でしょ
風立ちぬで庵野使ったのもQ作ってメンタルになった庵野のケアのためとか言われてるし、もう宮崎駿はポニョ以降は庵野のためにしか仕事してない
で、そのメンタルケアが功を奏したのか、シンエヴァも結局君たちはどう生きるかと同じような、世界の肯定とそこでよく生きることをシンジは選んだし
普通に風立ちぬメンタルケア成功したんだから君たちはどう生きるか作る必要なかったでしょ
なんで俺たちはまたシンエヴァ観ないといけなくなったんだよって気分
ポニョを見た時、「もう宮崎駿は見ないぞ」と誓ったのに、風立ちぬは見てしまった。
あの後悔があるから、今回は踏み留まっている。
もうガッカリしたくないんだよ。
負けないぞ😤
ここで書かれてる疑問はぜーんぶぜーんぶ「見てる側の理解力が低いから分からなかった」だよ。
目ん玉かっぽじってよーく見ろよ。
→宮崎駿のアニメーターとしてのルーツの一つとして兵器に対しての憧れがある。風立ちぬ見てるなら分かるよな?あーそもそも主人公が宮崎駿のメタファーであるって話をそもそもいちいちやらないと駄目なの?マジで?
・いいとこの子供
→自分が掴んだ成功は単に天運に恵まれていただけの部分があるって話を、生まれつきの金持ちって設定で表現してる。
→ジブリにおいて宮崎駿が置かれている立場のメタファーだよ。なんか持ち上げられて隅っこに押し込められてますっていう。
→ずーっと言ってるじゃん。「僕はマザコンだから母さんを探してます。どっちの母さんもマザコンの心をくすぐって尊いので、僕はどっちも探してます」って。あそこまで露骨にやられて分からんのか?ジブリの主人公がマザコンなわけないだろって勝手な思い込みをしてない?まあこの辺はマザコンというのが「幼少期から刷り込まれた謎の憧れ→アニメーターとしての執念」みたいなメタファー構造であるんかも知れぬし、単にマジでパヤオがマザコンでロリコンなのかもだが。
・後妻による拒否
→危ないからこっち来んな!でしかないのでは?一見拒絶に見えるものが実際には愛情だったという物語を描こうとした理由については深く掘り下げんよ流石に俺は。
・弓矢を作る話
→長い時間を掛けてアニメーターとしての牙を研いできたって話だよ結局は。ナウシカの段階で40越えとるしな。
・ヴィランの不在
→インコこそがどう見ても悪役だろ。塔の中で勝手に権力構造を作り出して、その塔の支配者である宮崎駿に対して脅しをかけようとしてくる不届き者だよ。アレこそパヤオにとっての最大のヴィランであり、今まさに直面している最大の敵。老い・後継者問題・内政に立ち向かうのが大叔父パート宮崎駿の物語だからな。
→セオリーを守らなきゃ駄目だよってことに対して過剰に気にかけて縮こまるなって話なんじゃねえかな。愛情を持って丁寧に扱う分には触っても大丈夫。雑に扱って蹴っ飛ばすなら災いが起きてたかも知れないけどって話。自分の経験としてそういうのがあるんだと思う。インコ共聞いてるか?ルールの実態を捉えず形だけ守ることに固執するのが王国を守ることちゃうんやぞ?って話だよ。宮崎駿目線で見たら、インコ共はマジでここちゃんと聞いてないと感じてるんだと思う。ぶっちゃけこの映画の核の一つじゃねココ?見落とすなよ。
→それがババアこけしやインコの話につながるんすよ。その絶望がこの映画を宮崎駿に作らせた。アオサギとの騙し合いみたいな協力関係だけが物語を完成へと導くんだよ。インコ王国との対立構造じゃ塔は滅びに向かうばかりさ。って話がしたいんだろうな。だからなんだってんだよまともな映画見せろバーカバーカって気持ちはわかる。でもそれ言う前にもっとちゃんと見てやれよ。死にかけのジジイの遺言だぞ?
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
公開数ヶ月前になってタイ人に関するなんやかやの報道でどうでもいい悪印象を与えてくれた鈴木Pでしたが、「宣伝を全くしない」という前代未聞のプロモーション戦略のおかげで、「宮崎駿の新作を全く前情報のない状態で見る」という稀有な経験を与えてくれたことに感謝します。
これは実に小学生の頃「両親に連れられて『火垂るの墓』を見に行ったら突然なんか知らないアニメ始まった」以来の驚愕の経験であり、その後のジブリアニメが国民的アニメとなっていき毎回公開前に怒涛のプロモーションが行われていった経緯と、その時に見た「となりのトトロ」が私の生涯において不動のベストアニメであることを考えると、奇跡のような経験であるといえます。
ただ、正直あまり期待はしていませんでした。というより期待しないように努めていました。私のジブリへの信頼感のピークは「もののけ姫」とコミック版「ナウシカ」であり、今ではアカデミー賞に相応しい最高のアニメであると評価している「千と千尋」も終わった直後は頭の中「???」でしたし、ハウルでは「??????」、ポニョでは「????????????」となっていきました。
ゲド戦記とアリエッティは私の生涯のワーストアニメベスト1&2です。
「風立ちぬ」「かぐや姫の物語」も、「?」は浮かばなかったものの「ピークを過ぎた老境の作家の遺作としては十分以上の出来だろう」というような妥協した評価に落ち着きました。
この作品が制作発表された時にまず思ったことは「本当に完成するのか?」という心配でしたが、鈴木Pの斬新なプロモーション戦略により完成するまでその心配を思い出すこともありませんでした。ポスターが発表されてからもほぼ忘れていたのですが、「プロモーションをしない」という鈴木Pの方針が話題になってから俄に気になり始め、上記トトロ以来の経験をする決意をしたというわけです。
私と同じ体験をしたい人は絶対にこの連休中に観に行くでしょう。連休中に観に行く予定の人はこの先を読まないでください。
行かなかった人はその後普通にどのような作品だったか、情報を目にすることになるでしょうし、少々のネタバレを食らったところで気にもしないでしょうから、ここから私の感想を書いていきます。ストーリーの核心をネタバレするつもりはありませんが前提となる設定などは普通にバラしていきます。
◆面白い?
「カリオストロ」「ラピュタ」のような痛快冒険活劇ではありません。「ナウシカ」のような設定をしっかり作り込んだ異世界ファンタジーでもありません。しかし、見ている最中「最高傑作」という言葉が何度も浮かんだのは確かです。「トトロ」や「千と千尋」を上回るか?と言われると、難解で観念的すぎる部分はありますが、明らかに上回っている部分もあるので、評価を決めるにはまだ何度も見る必要があります。というかすぐにでももう一度見たいです。
◆この作品を見るべきか否か?
文字通り宮崎駿の集大成なので、ジブリ映画で育った人間なら見に行かないという選択肢はありえないでしょう。ハウル以降は見なくてもいいと思いますがこの作品を見ずに日本のアニメのことを語ることは不可能です。というか、確実に「トトロ」や「魔女宅」などと同じように日本人のDNAに深く刻まれる作品になるでしょう。
◆良かった点
・文字通り集大成なので過去の宮崎アニメの要素が全て入っている
風立ちぬ→トトロ→千と千尋→ハウル→ポニョ→コナン→カリオストロ→ラピュタ
と怒涛のようにどこかで見たような風景、展開が続きます。二番煎じではありません。
本人にしかできないセルフオマージュであり、過去作を踏まえた上で、それが国民的記憶として共有されているからこそできる唯一無二の表現です。
そして、あらゆる影響を生み出してきたオリジネイターにしかできない圧倒的イマジネーションがあります。
主人公のモデルは少年時代の宮崎駿自身であり、半分自伝的な物語になっているが故に、少女を主人公とした「千と千尋」などより真に迫ってくる情感があります。
何より宮崎駿がインタビューで度々口にしていた母親に関する憧憬が、作品として昇華されているところが素晴らしいです。
コンテを描きながら公開日を決め、締切に追われながら作られた過去の作品は、若い頃は力技で最後まで渾身の力で作りきっていましたが、近年の作品においては終盤明らかに息切れが感じられました。今回は明らかに時間をかけてストーリーが練り込まれており、「ハウル」や「ポニョ」で顕著だった「えっこれで終わり????」という感覚は一切ありません。
「既存のストーリー構成の枠にはまらない」という手法は「千と千尋」の方法論を踏襲しているので唐突な展開の連続に難解さを感じる人もいると思いますが、終わってみれば一本筋の通ったストーリーになっており、深く考察する価値がありそうです。
「千と千尋」で確立した「ゆきて帰りし物語」のフォーマットを発展させ、導入はよりゆっくりと自然に、異世界に入ってからはよりぶっ飛んだ展開の連続で飽きさせません。結末も「これしかない」という納得感のあるものになっています。
・泣ける
「火垂るの墓」以外のジブリ映画で泣いたことはあまりないですが、様々な要因からくる深い感動で終盤は涙が止まりませんでした。米津玄師の主題歌がその感動に拍車をかけてきます。ズルいと思うぐらい良いです。
◆悪かった点
・なんか説教くさそう
説教くさそうなのはタイトルだけです。少年時代の宮崎駿が「君たちはどう生きるか」を読んで感銘を受けた、という以上のことは原作との関連は読み取れませんでした。原作を読み返し、何度も見て考察したい点です。
ちなみに「君たちはどう生きるか」の小説は未読、過去のジブリは金ローで流し見(ハウル・ぽにょ・風立ちは映画館で観た)、宮崎駿の生い立ちも知らんしインタビュー等全く見てない。
他の人の考察も見ていない。この考察が正しいかどうかは分からない。
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→主人公=宮崎アニメを見て育ってきた(もしくはこれから見る)この映画の観客である我々だと思う。
なので主人公の原風景や心内風景と我々が宮崎アニメで見覚えのある風景を重ねることで主人公=我々を強調する意味がある。
■謎展開
そのたび
→アオサギは主人公が感じている自分の中の嫌いな部分。だから主人公は出会ってすぐ敵対したし、主人公を心理世界に誘った。
自分に誘われて冒険してるんだから主体的と言える。キリコもヒミも自分が作り出した像なので主体的と言えるのではなかろうか。
→「父が好きな人」というのが正に動機を説明していて、主人公は自分の中にある夏子への複雑な気持ちと対峙するために夏子を助けに行く。
複雑な自分の心境に触れることには痛みが伴うので禁忌となっている。
→夏子は主人公を守るためにわざと厳しく接して追い出そうとしている。
厳しくされた事によって主人公は夏子を夏子母さんだと認められるようになり、心の禁忌領域が晴れて夏子も救われた。
→異世界に来たくて来たわけじゃないって劇中で言ってた気がする(記憶曖昧)。呼ばれたんだと思う。
→映画の演出のことは全く分からんが、着替えシーンによってリアリティ出すことで、その後火事の中に飛び込んでいく視界が歪んでるシーンの非現実感が増している気がする(小並感)。
アオサギが主人公自身であることから弓矢にも意味があると思われるがその辺はまだ言語化できてない。
■ヴィランの不在
→アオサギは主人公自身なので主人公を心内世界に誘うし主人公の助けにもなるし主人公と和解する。
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
→これは根拠のない妄想だが、ばあや人形を触って倒れちゃうと、現実世界のばあやになんか悪影響でも出るんじゃないだろうか。知らんけど。
さっき主人公=我々と書いたが、大叔父は宮崎駿を表していると思う。
彼はこれまでの自身の監督作品を通して我々に「積み木」を伝えたかったようだ。
たぶん、「(ジブリ作品を通して)観客それぞれが自分にとって価値ある大事なものを見つけてそれを自分で組み立てろ。」と言いたいんだろう。
即ち「君たちはどう生きるか」と言っている。
インコは何を表しているのか。物語の力を信じないリアリストなのかな?とは思うが、禁忌を口実にヒミを使って何を取引しようとしていたか分からない。なんか大叔父と会話してたかもしれんけど忘れた。
全く何の比喩なのか分からない。インコとペリカンが分かってないということは映画の中の結構な部分が分かってないことになりそうだ。悲しい。
分からない
そんなこんなでまだ分かってないことが多い。記憶から抜け落ちてるとこもありそう。このあと他の人の考察読んで分かったことがあったら追記するかも。
まさか40代にもなって何にも実績ないのにパヤオを批判してるアホはいないよな?
37歳 未来少年コナン
38歳 カリオストロの城
43歳 風の谷のナウシカ
45歳 天空の城ラピュタ
47歳 となりのトトロ
48歳 魔女の宅急便
51歳 紅の豚
56歳 もののけ姫
60歳 千と千尋の神隠し
63歳 ハウルの動く城
67歳 崖の上のポニョ
72歳 風立ちぬ
82歳 君たちはどう生きるか
どうだろ、なんかなんでも監督と周辺環境に結びつける読み解き方もどうかと思うけど。(もちろん作り手の心理として、環境や感情に影響を受けることは否定できないが。)
ヒッチコックの「鳥」も、なぜ鳥が襲ってくるのか?自然や鳥自身の人間への復讐なのか、疫病や闘争のメタファー?とか色々な見方はできても答えはない。
君たちはどう生きるかでは、強いて映画内から関連性を探すなら、主人公の父親は飛行機を作っている。もちろん戦争用、戦闘機用の飛行機。そして冒頭の火事は、たぶん空襲によるものだよね?こういうところから、鳥=飛行機=戦争・災いのメタファーと読んだ方が、作品読み解きとしては素直ではなかろうか。(思い返すと、風の谷のガンシップ、ラピュタのゴリアテ、紅の豚の飛行機の地獄、ハウルの悪魔のような羽根、風立ちぬの戦闘機……飛行は戦闘であり、あの世への接続なのかね)
いや~面白かった!
ネタバレはなるべく回避してたが、昨夜ははてブのタイトルでキャストバレ食らい、増田にも感想が出てきたのでSNSは避けるようにしてた。
とうじ5時に起きたが、飯食ったあと寝てしまい、起きたら10時。歳取ったせいか睡眠をコントロールできない。徹夜なんてもうできんな。
客席はかなり埋まっていて、年配の方も多い。
斜め前の席の長身爺の頭が画面に被っているうえ、メトロノームのごとく揺れるねが気になってしょうがない。尻の下に本を敷くが、その分椅子が沈むので意味がないように思う。
予告編のゴジラ、くれしんなども面白そうなのが揃っていてよい。
原作(漫画の)は貰って読んだが、面白くなかったのですぐ売ってしまった。そういう意味では不安もあったが、風立ちぬも堀辰雄そのままじゃなかったし、ファンタジーと言う話も聞いてたのである程度は楽観していた。
妊娠でうん?なったが、ヤったのか父!亡妻の妹孕ませるのは業が深いすぎる…
車で登校は悪手だろ父。案の定喧嘩になるが、いじめって感じでもなく、こっちも手を出してるから不快な感じはあんまり…
やりやがった!マヒトさんもしかしてやべーやつなのでは…免罪しなかったのは偉いが
寄付じゃねーよ糞親父!
音立ててキスすんな!
ちょくちょく母親の死のトラウマ描写があるが、ファンタジーではないっぽい…いやファンタジーだこれ!
水の波紋とか、草むらに入ったら意外と深いみたいな、こういう細かいこだわりがなんか嬉しい。
ワイはインテリなので、暗い森見たときグスタフマーラーの死の森じゃん!ヒトラーが好きだったやつ!って分かったけど、後で調べたら全然違った。石が浮いてるやつも元ネタあると思うけどわからん…マグリットではないと思う
奴隷が回すやつじゃん!
夏子さんのあれ、すずめの親子喧嘩思い出した
血を継いだ者にしか引き継げないってアレじゃん!なんか自虐ネタみたいな面白さがあった
パッパが塔に突撃するとこすき
現実に戻ったら焼死するとこ、ママンのエキセントリックさが全面に出ちゃってるけど、戻らないとマヒトも生まれないんだよな…
ママンが過去に行方不明になって戻ってきてたのも含めて、すずめの後ろ戸っぽさがある
夏子にもウンコつけるのにこだわりを感じる
エンドロール、青で手書きなのがいい。米津っぽいなと思ったら食いしん坊だった。
インコ大王、ポッと出の悪役とおもっら交渉でも紳士的だし、部下帰らせて自分が突撃するし
積木でちょっと株下げるけどちゃっかり生き残ってるし
で、パンフ買おうとしたらまだ発売してないらしい
そこまで徹底しなくても、とは思うけど、そこまで拘らないとこうはできんやな