はてなキーワード: 商業とは
バンド名は伏せるが、思った事をつづらせて頂く。
そして最近若い子のファンも新たに獲得しているあの有名バンドだ。
増田ですまん。
もしここで
・そんな事を読んだ私とファンと彼らが傷つく
・老甲斐〇ね
という思いを若干でもしたなら今すぐにこのウィンドウを閉じて欲しい。
見ないのも権利だ。
上記のように「彼らはエゴサしまくっているからバレたら傷つく」
・ファンから見ればコロナ禍での動きがなかったのが良いとも思えたが、
他のバンドは音楽を守る為に無料配信したりインスタライブをやったり、
色々していた。彼らは何もしなかった。
いや、影で曲を作っていたのはわかる。
けれどもファンに知るすべはなかった。それが歌を作る彼なりの美学的なものなのかもしれない
自分も一ミリも見なかった。人は変わっていくものだから仕方のないことだ。
・ファンクラブをつくらない主義なのは理解したし、それが好きだった。
だが席代の爆値上げ。仕方ないのかもしれないが、そういう区別・差別をしない人なのだと思っていた。
何故なら「音楽が全ての人に届くように」という意志のもと、近くの席とか遠くの席とか分け隔てなくやってくれていたと思っていたから。
自分の意思を通さないんだなあと、今回の席料の変化で改めて思った。
マスコットキャラクターがいるのだが、そのキャラを玩具にして絵をかいたりモノをつくったりするのはギリセーフとして、
・さらに完全に模造品を作り、ばらまいている。
オリジナルのイラストだったりであれば問題ないとは思うが、それも運営にファン層の遊び心を許されている範囲。
ロゴをそのままコピペしたりしたグッズを友達以外に配布するのは駄目。
ただ、そういう「めんどくさいことはわかんないし自分がたのしいからいい」という人がすごく多い。
・ファンは離れたり、入れ替わったり、新しくついたり、色々いる。
それはどのアーティストでも同じこと。
ファン内の謎のルールがあったり、世間一般から見れば異様だったり、もっと言えば宗教じみていたりする。
蜜六と〇〇交換しませんか?なんて平気で連絡がくる世界。最低。
・一方で80%はまともなファン。問題はのこり20%くらいの人たち。
・心に傷を抱えた人が多く、優しく、繊細で、脆い。
だからこそ、感情的な人が多い。感情的なのは良いが、匿名で人を攻撃する攻撃性の高さは圧巻。
こういう方はこういう事を、ターゲットを探しながら永遠に繰り返すのだろう。
80%はまともなファンだ。
・上記に書いた通り、ファン思いに感じさせているのはすごく上手なのだが
・・・・・・いうのは野暮なのでやめておこう、(と思ったら何か動きをしてたらしい)
(インスタとかやってませんでしたっけ…まああの人達らに向いてないんでしょうね……)
・グッズ。もういうことない。
・いい意味でもわるい意味でも、商業バンドなんだな、という感想を最後に感じた。
何かアプリを出したらしい。内容知らないけど。チラっとなんか見えた気がしたけど。
課金制あるんですかそうですか。
アプリ作るのに金かかるのもアップデートやら申請やら莫大な費用かかるのはわかるよ。
あのキャラは「お母さんが100点をくれた時」に描いてくれた子だったような。
みんながぬいぐるみをぶらさげて歩く光景すら違和感があったのに、
もうそれでいいんだと思った。
・ファンクラブは作らない宣言は何だったんだろう。(ぼんやり)(FCじゃないって言ってる人がいるからいいのか)
・ある一人がやらかしたのだが、ファンもほぼ受け入れているし、
メンバー仲良く(見えるよね、そりゃファンからしたらね)音楽をやっていることに、
この一件で、私はメンバーを受け入れられなくなった。
・彼が神だ、聖人だ、と言われているのはわかる。
じゃああとのメンバーは?と思う。メリットと言えば仲良しバンドだと言えることであろう。
それだけで充分に人気を保てるし、バンド名で安心するだろうし。
それでも非常に感謝している。
勇気も元気も楽しい想いでも素晴らしい友人も離れてもそばにいてくれる友達もいる。
今ももちろんいる。いまの色々な事の糧になっている。
矛盾しているように感じるかもしれないが、本当にありがとう。と思っている。
ファン層はがらりと変わり、昔から風物詩だったグッズ交換会やら何やら色々あったみたいだが、そこはもはやよく知らないので割愛する。
もちろん昔のグッズを身に着けているひともいるが、20代前半くらいの人の姿も目立つ。
楽しそうで羨ましかった。
自分も楽しんでいる中の一人だった。
さいたま新都心駅を降りた時、ピアノの演奏をしている人がいて、
「なんの曲だっけ」と思いつつ素通りしたが、上手だった。
けやき広場は久々だ。
彼らで言えば〇年ぶりか。
コロナ禍もすっかり終わり?なのかアルコールも売っていてあの頃と変わらない新緑の広場。
あの空間でいろんな友達と待ち合わせしてあったりしたなあ、と思い出す。
綺麗な想い出は綺麗なままだ。
今でも仲良くしてくれている子とあったのもあそこだ。
人は変わる。
彼らも変わる。
想いも変わるし、ルールも変わる。
知らないうちにいろいろ変わっている。
この数年間のうちに誰かを亡くしたり、誰かが結婚したり、誰かに子が生まれたり、沢山あっただろう。
アーティスト歴の長い彼らは「普遍性」を求められる一方で「変わらなければいけない」こともたくさんあるだろう。
全て理解した上で、自分はその「普遍性」をとても高潔なものだと感じていたことに気付き、
「普遍性」って良いようで悪いし、悪いようで良いし、一見宗教じみでるし、本人たちも大変だろうし、
大変じゃないように意識しないようにしているのかもしれないし、運営がうまいことやってるんだろうし、
でも、ず-っと、仲良しでやっていかなければいけないのって大変だろうなあと思った。
もう大人だから大丈夫だろうけど、20代の時とか凄かったよね。
まあそんなふうに人は変わっていくものなのだ。それは、忘れないで欲しい。
今でいえば推し活だったのだろう、色々なこと。
今では全くやる気にならない。
ちなみに誰の意見も読んでいないし、これを投稿したところで、コメントを見るも見ないも決めていない。
冷めたことをわざわざ記事にする必要はないのではないかという批判は来るだろうことはわかっている。
だが、そういう風な思いをしたり、或いは他の理由で去っていった人が、
自分の知っている限りで物凄く沢山いる。
そして、その人たちは別のところで音楽を楽しんでいる。
色々思うことはあった。
はっきり言って、マナーは悪かった。
「〇〇しないでください」と言ってることをするのは、小学生でも理解できるだろう。
あとは個人的な意見ではあるが、少なくとも、弦の響きが消える瞬間まで拍手しないか、
ただ、最後に独特のソロフレーズがある曲の一瞬終わりだと思わせる空白の時間に拍手するのは
そういう細かいところを気にするのも良くないんだろうし、自分が間違っている可能性もあるのだが、
でも。せめて曲を大事に聞いて欲しい。曲を大事に聞かせて欲しい。
ああ、いや、違うか。
彼は「自由に楽しんで」と言っていたので、あっているのか。
自分は重要なソロフレーズの直前に拍手されるのは違和感を感じるが、彼らがいいならもういいか。
ライブの詳細は伏せる。
今更ネタバレも何もないが。
彼に最後に言われた。
「また絶対会おうな」
曲にもたくさん言われた。
でもな。
タオルすら持ってなかったのは失敗だった。
凄く好きだった。
xx年間、大好きだった。
〇にたいと思った日に、いつも支えてくれた。
怖い時に隣にいれくれた音楽がたくさんあった。
言われた言葉も暗記している。
こんなに大好きだったのに、彼がしたかったらしい「約束」がもはや
本当に本当に真っすぐ綺麗な純粋なものなのかどうか信じられなくなっていたし、
もうこんな気持ちに変わった自分は来る必要性はないのだと改めて感じた。
好きだった音をまた聞く機会があるのかないのか、と言ったら
現時点ではないと言い切れるが、
大地震がおこるかもしれない。
噴火がおきるかもしれない。
誰かがなくなるかもしれない。
その時にまたあの音が、自分を幸せにしてくれたり、強くしてくれたり、弱くしてくれたり、
自由奔放にさせてくれたり、色々な経験を積ませてくれたり、友達を全国に作らせてくれたりした、
あの優しい音と歌詞が頭の中に聞こえてくるのかもしれない。
もっと言いたいことは沢山ある。
おひとりおひとりと対面で話して、あの時何故。と言いたい人もいる。
あれは何を思って。
彼らの音楽の何を聞いて、何を思って、そうなったんだ?と言いたい人もいる。
さよなら。
ずっと、ありがとう。
いつもあれこれ言われるのは
「萌え絵」ではない
認識を誤らせる真似するな
ほとんど
変な主張を言い出すのか
閉じた所でやってくれれば見えやしないのに
文句を言われるだけ
「オタク」呼ばわりされてる人も
たくさん批判してるのに
みんな「フェミ」扱いするな
そういや本当に「オタク」なら
連中は「オタク」じゃないのかな
鈍感になってるのかな
元々は男性向け18禁漫画向けによく使われる性的描写、お色気描写が
Twitter他で何の制限も付けずに流れてくる現状が異常だってのに
全然わかってない
この増田も
いわゆる「表現の自由戦士」と言われる連中ばかりで全く酷い内容
この関連についてはどうしてこうなのか
商業漫画で小学生も買えるマガジンあたりの性的描写がそもそもキツめ
例えばTwitterで流したら批難される段階って
わからないのか
俺は安易に間違ってるとは言いづらいんだ
それは任天堂がいつだったか、コアなゲーマーに背を向けて一般ファミリー向けに注力した件で感じたことだ
現在の顧客ではなく、ゲームをやるかわからない潜在客を取りに行ったんだ
あのとき任天堂をバカにしたんだが、結果今の時代はライト層をどれだけ取り込めるかという時代になった
当然その時の客より潜在客の方が多かったので任天堂は成功したんだと思う
多様性の件も同じで
これをもっと女性や非オタクや色んな人種・多様な性の人に売っていくためには多様性を避けては通れないんだと思う
もちろん下手にやったり過剰にやりすぎると炎上するんだが、目立たないところではうまく動いてるんだと思う
結局やり方の問題なんだが
たぶん話をややこしくしてるのは活動家なんだよね
https://anond.hatelabo.jp/20201118232352
彼女とは十代の頃とても仲良くしていたが、喧嘩してそれから連絡を取っていなかった。
彼女が同人作家を経て商業作家としてデビューしたのは知っていたけれど作品は読まなかった。
趣味にも合わなかったしどうでもよかった。
しかし、ある時、漫画喫茶で気まぐれに彼女の短編集を手に取った。パラパラとめくると、十代の頃と変わらずポエミーな作風の漫画が数作あり、その中に、若い頃の彼女が主人公の作品があった。
その友人という設定で、若い頃の私、をモデルにしたであろうキャラが描かれていた。
(正しく言えば、若い頃の私と、他の彼女の友人をミックスしたキャラクターであった)
そして、主人公はその人物に対して「私は希望していた漫画家になれたよ」と勝利宣言をする。
彼女はそれなりに人気作家である。ここまで描けば作者が誰か分かる人もいるかもしれない。
こんなことをどこかで言っても頭のおかしいファンとしか思われないだろう。(批判しようと苦情を言おうと京アニ事件の犯人のような妄想癖のある人物とあしらわれるのが関の山だ)
でも、もしこのことを本人に言ったらかならず狼狽えるのは分かっている。あの作品を描いたのは絶対に確信犯だからだ。
でも私はなんの連絡もせずにいる。腹は立つし人を殺して金を稼いでいるのだから非道な行いだと思う。でも蒸し返して、やりあうのが面倒くさい。
ただ偶然これを読んだ人に、こういう真実もあることを知ってほしくなった。
追記です。
ひっそりとアクションを起こしてみました。
結果はご報告します。
結果次第で動くか考えてみたいので、
※ここで書くことが不利に働くかも気になってます。
裁判で勝ちたいとか慰謝料が欲しいという希望はないです。ただ、作中内であってもフィクションであっても、実在の人物をモデルに殺人のような行為をするのはどういうことなのか、それを商業で売り物にするのはどういうことなのか本人に少しでも考えてもらえればと思います。
今のところ返事はありません。
ただ、いつも開放していたTwitterのDMを非公開にしていました。彼女なりに何か思うところはあったのでしょう。
私にも今の生活があるし、過去の話とどちらを大事にしたいかと言えば今の生活です。(ちなみに彼女との関係は私の中で終焉していました。あの作品を読むまでは)
しばらく様子見はしますが、
「クズの本懐」などで知られる横槍メンゴの短編集「一生好きってゆったじゃん」が、本日2月28日に発売された。本作にはグランドジャンプめちゃ、週刊ヤングジャンプ、ヤングジャンプラブ(いずれも集英社)、ビッグコミックスペリオール、週刊ビッグコミックスピリッツ(どちらも小学館)で発表された計7編のオムニバスを収録。本当に好きな人を手に入れられなかった女の結婚式を描く「鋼の心」、あるマンガ家のほろ苦い青春時代を切り取った「Neo Dutch Wife」、同級生に憧れ続けた女の姿を綴る「一本花」などが収められた。
ヤンジャンで100円で買えるらしいがhttps://ynjn.jp/app/title/784 100円出したくない
こういう話題になると必ず「日本はスペシャリストを教育しろ」みたいな話になるけど、それって端的に嘘だからね。
忘れたの? もうおじさんだから教育を受けていたころのことなんてはるか昔か。
日本は高校で工業科、商業科、普通科に分かれて専門教育するじゃん。
普通科でも高校入ったらさっさと文系か理系かに分かれてそれしかやらせないよ?
そもそも日本史か世界史かを選択にさせている時点でぜんぜんジェネラリスト偏重じゃないんよ。
どっちかでいいっていうめちゃくちゃ割り切った教育をしているんよ。
めちゃくちゃ細かく分かれているし、ほかの学部の授業なんて受けられないよ?
きみらがどの学部を選んだかは知らないけど、専門教育を受けているわけよ。
あと高校生の三割は専門学校に行って専門教育を受けているからね。
ちなみにアメリカの大学は日本よりもすごいよ。大学で専門を選択させないからね?
4年間はすべてリベラル教育よ。日本よりもはるかにジェネラリスト思考なわけ。
あーはいはい、きみらの反論は目に見えているよ。企業のローテーション人事のこと言いたいんでしょ。
ローテーション人事やっている会社なんてごく一部の大企業だけだっつーの。
そもそもきみらがそういう会社に入っているかどうかも怪しいんだけど(笑)。
大多数の企業は営業で入ったらずっと営業、経理で入ったらずっと経理なんよ。
というか、大企業ですら今はローテーション人事なんて辞めてるところがほとんどだっつーの。
というか、きみらがスペシャリストになろうとしてないよね?
これだけの環境が用意されていながら大学をなんとなく卒業して、大学院にも行かないんだよね。
英語の勉強もしないし、業務外で本も読まないし、リモートワークでYouTube見ながら仕事したいんだよね。
「2019年に突如、米米CLUBに沼った二次元オタクが米米のライブに行くまでの話」というTwitterマンガがある。
内容は商業BLの服装の参考にするために米米CLUBを見ているうちにドはまりしたというよくある推し紹介ものなのだが、
問題はとあるライブ限定曲をご丁寧に歌詞まで書いて紹介しているところだ。
著作権に口うるさく言いたいのではない。その曲というのが傍目に見てもアカンとわかるぐらいホモを馬鹿にした曲なのだ。
正直、LGBTが注目されている今、いつ炎上してしまってもおかしくない。
米米CLUBも歴史あるグループだから、作曲しているうちに時代のセーフラインが移り変わることもある。
今の基準で考えるとアウトな曲を演じてしまったことは責めるに値しない。
そもそも本人たちもこの曲の危険性をわかっていたからこそ当時からライブ限定にしていたのだろう。
だからこそファンを名乗りながら彼らの配慮を踏みにじったスターダスト東雲にドン引きするし、許せない。
という愚痴。
色覚検査異常なし・人より色の見分け能力が高い藝大卒で高いColor Edge使ってるんで「任せろ」って見てきたけど言うほど緑じゃなかった
他の絵も全く緑ではない
彩度が低いことを緑と表現しているにしても、肌の彩度を抑えるのはここんとこの流行りだし、その観点からいえば彩度はやや高い方
自分が塗るならこの色は選ばない(もっと色相を赤に寄せて彩度落として明度あげる)けど、商業のクライアントでもない限り文句言われるほどとは思わない
顔周りの髪や服が彩度・濃度高めの色相が赤寄りだから、肌がそこより彩度が低く色相が黄寄りであるために
だとしても他の、色相が赤寄りの肌の絵まで緑に見えているのが謎だが…
企業Vtuberの仕事って色含めガチガチに指定されてるんで、もし色覚異常があるのが明らかな人なら頼まれない(面倒だしコスト食うから)
ネームバリューある人なら別だが
強いて言うなら件の絵は2020年とちょっと古くて、本人も2009年からツイッターやってる人なんで
昔は流行色だった黄み寄り肌にする癖が残ってるって線もある
色の手癖みたいなもん(色の流行をキャッチアップできていないとそういうことが起きる)
最近の「クリエイターと作品は別」という風潮に違和感を覚えているのでぶち撒ける。作品だけじゃなくてクリエイターも守らなきゃならんだろ、と。
Aはサークルでも頭一つ、いや二つも三つも抜きん出ていたが、ツイッターでもPIXIVでもどんどんフォロワー数は増えていった。
だからAが就活をせず、イラストレーターとして食べると宣言した時は誰も心配や反対なんてせず、むしろ当然だと思った。
卒業後もTwitterで常時繋がってたが、同人誌即売会がリアルの同窓会になり、会うたびにAの絵の上達や仕事を讃えた。
夏になっても毎年恒例の新刊案内も出さず、もちろん当日スペースに行っても誰も座っていない。
失踪したのだ。
でも、俺はこの時大して心配していなかった。
おおかたAのことだからどこかの企業から声がかかって商業作品に関わっているだけだろうと思った。
そういう話をAに会った時に聞いていたからだ。
でもその年の冬、翌年の夏も、Aは申し込みすらしなかったようでどこにも見つけられなかった。
さすがにこの頃には心配になったが、俺にも仕事があるからプライベートでAを探すなんてことはしなかった。
ある日、元サークル仲間のBとfpsをしていた時、突然Aのことを思い出して「そういえばAって今なにしてるの」とVCで聞いてみた。すると、Bは
「…………は?」
詳しく聞いてみると
・来なかった夏の直前に飲食店に強盗に入った(新刊の印刷代を稼ぐためじゃないかとBは言っていた)
・Aは実刑になった
・今も刑務所にいる
・どこの刑務所かは知らない
ということだった。
ここ数年漫画家とかイラストレーターが逮捕されるたびにAを思い出して胸が締めつけられる。
Aは捕まらなかったら今頃何かのゲームを任され人気のイラストレーターになっていたのは間違いない。
きっと何万、何十万人の人に感動を与えて救っていただろうと思う。
そんな才能を刑務所に送ることが本当に社会の利益になるのだろうか。
昔の文豪や芸術家には今だったら捕まってるようなエピソードが多くある。
それでも彼らは捕まらなかったからこそ、歴史に残る作品を送り出し、今なお世界中の人々を感動させ続けている。
創作の無限の可能性に賭けることこそクリエイターを尊敬し文化を守る社会ではないのか。
昨今、クリエイターが不祥事を起こすたびに仕事を下したり自粛させたりするキャンセルカルチャーが問題になっている。
無論、不祥事がどのようなものであれ、キャンセルは単なる文化破壊であり、絶対に許してはならない。作品には何の罪もない。
キャンセルを推進してる連中の取り締まりは国家の安全保障上何よりも喫緊の課題であると思う。
しかし、俺はクリエイター側に立つ人間がクリエイターを背中から撃っていることを憂慮している。
彼らはいう。「作品に罪はない。でも犯罪は犯罪だから罰されないといけない」と。
このような意見は作品を産み出しているのはクリエイターであるという至極当然のことを理解していない。
当たり前だが、逮捕されたり刑務所に入れられたりすれば物理的に創作が邪魔される。
そして、クリエイターの側に賭けることこそ、クリエイターを尊重するということではないのだろうか。
それは、つねにおもいがけない可能性に対して開かれた態度であり、慣習的な物事の結びつきを超えてあらゆる未来を否定せず、支配と被支配の天地すらもあいまいに塗りかえる。そうした状態に政治性を求めるのならば、こういいかえてもいい。NTRとは革命である、と。
NTRの宿る瞳は風景を革命する。たとえば、あなたは都会とも田舎ともいいづらい、郊外の住宅地に住んでいて、そこにしゃれたパン屋さんが建っているとする。味はそこそこで、町のなかでさえ注目度は低い。あなたはその店へ日常的に通い、品揃えと定休日を完璧に把握し、なんとなれば五回に一回は店主が声をかけて二言三言挨拶をかわす。ちゅうくらいな好ましさがある。
ある休日、幸福な遅起きをしたあなたはその店に向かう。しかし閉まっている。開店時間は過ぎているし、定休日でもないのに。店の扉に張り紙がしてある。「Aデパート地下街新春スイーツフェア出店のため、誠に勝手ながら、〇日~×日はお休みさせていただきます」。
世界がすうっと冷えて遠のいていく。
そのデパートは毎日百万人が乗り降りするような規模の駅の前にそびえている。
そこに行くと、よく見知ったパンが知らない装いで売られており、おそらくあなたが手をふったとしても、他人のふりで無視されてしまう。三百円の買い物ごとにスタンプを捺してもらっているあなたのカードも、存在しないものとされるだろう。
もうあのひとかみごとに皮が崩れ散るクロワッサンも、あの固くなった餅のような生地のベーコンピタも、もうその手には届かない。あの店は二度ともどってこないではないか。そんな感覚にあなたは襲われる。
開期が終わると、パン屋はもどってくる。以前の顔のまま、あなたのとなりに、なにひとつ変わっていないかのように。
だが、変わってしまったのだ。なにかが決定的に以前とは違うのだ。
営業再開初日の朝一番にあなたはその店を訪れる。柔和な顔立ちの店長が、変わらぬ笑顔で「焼きたてですよ」といいながら、あんパンを棚にならべる。あなたは礼儀正しく待ったあと、ひとつをトングでつかみ、瓶入りの牛乳といっしょにレジに出す。
あなたが知っているかはわからないが、あんパンはパンのなかでもっとも官能的なパンだ。NTRを体現している。それはおはぎと逆の極にある存在だ。おはぎで餅米を包んでいたオラオラ系のあんこが、西洋の象徴であるパンと出会ったとたん、しずしずと包まれるに甘んじている。 あなたはあんことパンを咀嚼しながら、自分が今、寝取っていると同時に寝取られているような、ふしぎな感覚を味わう。それこそがNTRの奥義だ。シナイ山でモーセはふたつの神の名を与えられた。ひとつはYHMH。もうひとつはNTR。発音できないことはそれ自体神聖さの証だった。
能動と受動ーー寝取りも寝取られもNTRというひとつの言葉に封じられている。わたしたちはそうした矛盾を孕んだ言葉を何の違和感ももたずに使っている。どちらでもあり、どちらもない状態こそが自然なのだ。そうした状態を自然にすることで、わたしたちは今ある景色を転覆できる。
NTRという言葉の両義性に想いを馳せるとき、わたしは菅井の顔を思い出す。
九十年代の善き日々に、わたしはフリーランスでいわゆるNTRビデオレターのディレクターをやっていて、彼はそのプロデューサーのようなポジションで助監督的な雑用からポストプロダクションまでを一手に引き受けていた。
あの時代を知らない子どもたちには、NTRビデオレターをヤラセだと思っているものも多いと聞く。たしかにそうした側面があったのは否定できない。特に大手の制作会社がAVのついでに量産しているようなものは、最初から商業的な流通を折り込んで、俳優を雇って制作されていた。
だが、わたしのいた現場はみな本物で真剣だった。寝取るほうには寝取るものの矜持があり、寝取られるほうには寝取られるものの葛藤があり、そしてかれらを撮るわれわれはそうした昏い機微、愛の真理といってもいい、そのさざなみのような感情を、一コマも撮り逃すまいという気概があった。誰もが真剣に傷つけあっていた。
独立系の低予算のチームである。撮ってくれと頼むのも、大手に発注できないような貧乏な若者ばかりだ。ビデオレターを撮って、送りつけたい。その情熱が何よりの対価だった。
菅井もそんな情熱しか財産を持たない若者のひとりだった。彼と出会ったのは大学のあるサークルの飲み会のことだ。三次会だったか四次会だったかを先輩の家に転がり込んでおっぱじめ、みなひとしくへべれけになったノリで、先輩が「おもしろいものがある」とVHSテープを取り出した。
それは当時話題になっていたNTRビデオレターで、メーセッジを収録している最中に寝取られる女性(四十代の主婦という触れ込みだった)が感極まって泣き出し、泣くのはよくあることだったが、その上にすさまじい量のゲロをぶちまけて寝取り役も撮影スタッフも大騒ぎ、という内容だった。要はネタビデオである。皆視聴済みの有名作で、先輩もそのことをわかっていたはずだけれど、みな初めて観る体で盛り上がった。
そして、例のゲロの場面が来ると、みんなで爆笑した。わたしも笑った。下に見る笑いだった。そうした笑いを仲間内で共有することが結束である、と信じていた。
だが、菅井はそうでなかった。
それまで部屋の片隅でちびちびキリンなどをやっていたのがいきなり、「笑うな!」と叫んだときは、おどけた反語的表現なのかなと思っていたが、先輩にくってかかるに及んで本気だとわかった。
押し倒された先輩の顔に浮かんでいたのは暴力を振るわれた怒りではなく、驚きと困惑だった。わたしたちも止めるでもなく、ただひたすら唖然としていた。先輩もわたしたちも、NTRビデオレターに対して真剣になる人間がこの世に存在するなどとは思わなかったのだ。 菅井は酔っ払いすぎだとして家に帰され、後日、酒の席のことと暴行は不問にされた。菅井はサークルで、なんとなくアンタッチャブルな存在になった。
サークルの他の人間たちとは逆に、わたしは菅井に興味を抱いた。
当時のわたしはNTRビデオレターの大半をヤラセだと考えていた。そうした作り物にたいして、あそこまで入れ込める人間がいるというのは不思議というより驚異だった。
菅井はふだんから近づきがたいオーラを発している類いの一匹狼だったが、こちらから話しかけると意外に愛想良く応じてくれた。
彼のNTRビデオレターについて該博な知識を持っていた。その歴史からジャンル、ゲームチェンジャーとなった名作の存在、業界構造まで、事細かに、しかも大変おもしろく教えてくれた。良い教師だった。
あるとき、彼の部屋でふたりだけで宅飲みをしていたとき、わたしは彼に訊ねた。「どうしてNTRビデオレターにそんなに興味を抱いているのか?」
菅井は、酒気に染まった赤ら顔しばらくゆらゆらさせたのち、立ち上がり、押し入れからひとつのVHSテープを取り出した。
部屋の明かりを消し、無言のままビデオデッキにそのテープを挿入する。あまり上等とはいえない画質に、ベッドに座った二人の裸の男女が浮かび上がる。男のほうは下腹が出ていて、若いようにも中年のようにも見える。女のほうは透き通った印象の美人だった。
男のほうがピースをしながら口上を述べる。さしてオリジナリティのない、平坦なセリフだった。菅井はその口上にかぶせるように、ぼつぼつと、VHSテープの来歴を語りはじめた。
ビデオに映っている女のほうは菅井の伯母であるという。知的でやさしくて、幼心に憧れの存在だった。伯母夫婦には子どもこそいなかったものの、傍目から見れば、仲睦まじく、理想の夫婦といった趣に見えた。夫婦で菅井をかわいがってくれ、週末にはよく遊びに連れて行ってもらったそうだ。
その伯母が急な病で若くして亡くなった。菅井が高校生のころだ。意気消沈する伯父を励ますために、菅井は伯父の家をたびたび訪問して話し相手になったやった。
しかし、伯父は一方的に話す菅井に黙って相づちを打つだけだった。菅井が三人で出かけた思い出を語らおうと、アルバムの場所を聞くと、伯父は「焼いた」といった。そこで菅井は初めて、家の中から在りし日の伯母の写真という写真が消失しているのに気づいた。
菅井はそのことを問い詰めようとしたが、伯父の返答は要領を得ず、ついには泣き出してしまった。
菅井は長らく伯母について伯父の前で触れずにいた。だが、大学進学が決まって伯父の家に挨拶へ行った日、めずらしく伯父が上機嫌で出迎えてくれた。自分から菅井にいろいろ話しかけてきた。流れで伯母の話題にもおよび、ひさしぶりに伯母の思い出について深く二人で語り合った。良い時間だった、と菅井はいう。
微笑みながらも目頭を熱くしていた伯父は、ふと思いついたように席を立って、どこかからかVHSテープを持ち出してきた。なにそれは、と菅井が訊ねると、伯母の映っている唯一のビデオだという。
そして、菅井と伯父はそれを観た。ふたりとも、ひとことも喋らなかった。
伯父の訃報を聞いたのは、菅井が大学の下宿へ引っ越した直後だった。自殺だった。
わたしたちの観ているビデオレターは山場にさしかかっていた。VHSと自らの由来を語り終えた、菅井の横顔はブラウン管の青い光にぼうっと照らされ、かそけく浮かび上がっている。画面を凝視している。そこにあるのが歓びなのか、哀しみなのか、あるいはまた別のなにかなのか、推し量ることはできない。
人は他人に暴力を振るわずには生きていけないんだなーっていうことを、昨今の「推し」文化の中に強く感じる
ポリコレ的なムードで暴力がタブー視された結果、「倫理的」に生きる義務を負った現代人たちは、「推し」 - インスタントかつ誰も傷つけない(ように見せかけられた)他者消費 - でもってなんとか溜飲を下げてる。神を持たない多くの日本人にとってそれは特に顕著で、いや海外の状況とかは知らないけど、顔の幼いアイドルがエンタメ商業を席巻してるこの状況は明らかに奇特だと思う。秋元康はじめ日本の幼いアイドルなんかは、分かりやすく性的消費の様相を呈しているけど、ジャニーズなんかは消費の方向(女性→男性)も相まって、消費者に罪悪感を与えないようその暴力性が隠蔽されてきた。で、その皺寄せが内部に来てるんだろうなーと思う。
「推し」文化的な態度は、他者の多面性を否定し、都合のいい一面だけを抽出して消費する。誰も傷つけたくなくて、人と向き合うのは大変だから、用意された人形で事を済ます。グロテスクじゃない程度に笑ったり泣いたりしてほしい。それを遠くから眺めて、金銭によってうっすら繋がっていたい。生の実感、の商品化。(その商品価値がブーストして距離感にバグが生じた結果が、ホス狂い、地下ドル、みたいなことになるんだろうなーと思う)
お笑いのファンダムみたいなのも同じ感じに見える。M1の舞台裏映像とか、きつい。てかお笑いはまた別の方向で暴力装置が過ぎる。俺の目には、どこまでいってもすごく全体主義的に感じる。
まぁ、現代における消費者としてのそういう態度はすごく利口で社会的だなーとは思う。社会的であることって、結局、みんなで同じものを殴れるかってことなんじゃないですか?いま殴ってもいいものを、いま流行ってるやり方で。別にどうでもいいんだけど、俺は殴る相手は自分で決めたい 誰のことも殴れずに引きこもって怯えてる人と、ビクビクしながら殴り合いたい
こういうのとか
https://twitter.com/wawa_awayama/status/1625809068249194496
>ずっと今の生活が続けばいいのにと思っていた矢先、幼なじみにキスされて、? 田舎の不器用モテ男子×天然クール系の青春もだもだ幼なじみBL(1/10) #漫画が読めるハッシュタグ #創作BL #商業BL https://t.co/ynZL226p3k
それこそ老人会がよく言う「Airが好きだろ」だとか「東鳩のマルチで泣く」っていうネタが出るけど、現代の人にわかるよう説明するならどの作品に切り替わるんだよ
まさかYU-NOだとかもっと古い作品を出すわけないだろうな?
想定される案
こんな風になった日本なんか無くなっちゃえばいいと思っているんだから、今地震がいっぱい起こってるんでしょ?
諦めナ
こんにち、インターネットにつながる端末を所持している者は常にネタバレのリスクに晒されている。
話題の新作などネットの海には断片的な情報が漂い、発信者個々人にその気はなくとも、知って/知らされてしまうことが多々ある。
私はアンサイクロペディアを許さない。
私は基本的に映画・漫画・小説、事前情報を極力断つようにしている。
シン・ゴジラ シンウルトラマン シン仮面ライダー すべて回避に成功してきた。結果、すべてドハマリして周回した。
失敗もある。
グリッドマンユニバースは映画の公開自体を忘れ、公開前日に気づいた。なんとか初日の公開に駆けつけた結果、5ユニバースした。
プライベートの問題もある。生後間もない子どもを抱え、昼夜問わずの授乳に体が悲鳴を上げている。
10年前よりたるんだ体、シワの増えた顔。
濁流の如きトレンドの流れに追いつこうとするのは20億の針に等しく無謀だ。
正直に言おう。バズれアリスも発売日の後に気づいた。
出版業界では初動の売上が続巻に大きく影響することは知っていた。
迂闊!何たる失態!
慌てて書店で買い求め(Amazonで買うよりもリアル店舗で購入したほうが出版社的側には覚えがめでたいらしい)、先程読了した。
先生のツイートをたどるとリツイートキャンペーンを開催していることに気づいた。まだ間に合う。
普段はネットの大海を深く静かに潜航している私だが、以前から追っていた作者となれば話は別だ。
以下、感想
例えば「帰ってきたウルトラマン」 最終回、伊吹隊長の「ウルトラマンを援護しろ!」というセリフに燃えた。
例えば「劇場版仮面ライダーW FOREVER AtoZ/運命のガイアメモリ」 住民の声援と風の力を受けてパワーアップしたWの姿にイオンシネマで嗚咽した。
例えば「ドラゴンボール」 元気玉の力を集めるにはMr.サタンの助力無くしては成功しなかったところに鳥山明の漫画力の真髄を見た。
女の子が一人で頑張る姿を見る/読むだけで泣けるのは齢を重ねたせいか。
配信者と視聴者の関係が宗教と信者に形容されることはままあるが、それを商業作品のエンタメとして成立させた富士先生の手腕と着眼点の鋭さに敬服する。
最後にいちばん重要なことだが、昔から知っている作者の方が今も活動を続けているのを見ると、嬉しくなる。
続刊期待してます!
skebはおいておいて、pixiv、Fanbox、Cienと、立て続けに追い出されたわけである。
まあ、素行が悪すぎたのは間違いない。
#東方 宇宙の死を見た不老不死【前編】 - ALISONのマンガ - pixiv
不死者の苦悩を宇宙スケールで描いた良作。最終的には宇宙の終わりまで見据えた三体終盤のようなスケールのSFに変わる。商業作品に決して引けを取らない出来。必見。
イラストを納品する時にお互いにメリットがあると合意が取れた時にイラストレーターの名前が出る。実際、自分の名前が出ていない仕事もめちゃくちゃいっぱいある。そういったイラストレーターの名前が出ない仕事に関してはたぶん、何割かはAIイラストに持っていかれるんじゃないかと考えている。つまるところ「望むような絵が納品されれば書き手は誰でもいい」ということだろうから。
名前が出るような仕事は俺の名前にも価値があるということなのでそこは当面は大丈夫じゃないかなと。
なんとなく「AIイラストレーターを使ったら企業の信頼が落ちるから使われない」みたいな主張をしている人をちょこちょこ見かけるけど、申し訳ないけど外から見て「この仕事はAIイラストレーターだな」とわかることはほとんどないと思う。
もちろん俺の目から見て「この絵違和感あるしAIじゃねーかな」と思うことはあるけど、でも別に振り向き絵の腰の関節がおかしいとか指がふにゃふにゃとかそんな絵を描く普通のイラストレーターも普通にいるし。名前が出てない以上、AIイラストに対して何らかの表示をしなければならないという法律でもできない限り魔女裁判にしかならないんじゃないかという気もする。もう7年くらいやってる俺のTwitterにも「今回の絵、これまでと感じが違いますけどAI使いましたか?」とか言ってくる奴いるしな。
今回のキャラデザは〇〇さんにお願いしました!みたいなデカい仕事がAIイラストレーターに成り代わるまでは相当かかると思うし、もしかしたらAIイラストレーターがそこまでの市民権をえることはないかもしれない。
でも、そういう超絶トップ層がする仕事だけがイラストレーターの仕事じゃないというか、むしろもっと名前も出ないような仕事のほうがメインなんだよね。そういう仕事は単価も安い。でもAIならその単価よりももっと安い価格で請け負うことが出来るはず。そういう仕事は徐々にAIイラストに取って代わられていくと思う。ちょっとした挿絵がいらすとやに取って代わられたみたいに。
いらすとやは完全にいらすとやの仕事だからみんな「いらすとや使いやがって~~」ってできるけど、AIイラストの仕事は将来的にはもっと人間が描いたイラストに近づいていくだろうからきっとわからない。