はてなキーワード: うろ覚えとは
問題の子供を家に置いて夜に仕事に向かうシーン。男も女も仕事を優先する事がカッコいいという思想を感じる。実際に働きながら子育てした人ではなくて想像の働きながら子育てを描いている感じで違和感バリバリ。
うろ覚えだがどっかのインタビューで、当時のジブリは(初期からのスタッフが歳食って子供を持つ年齢になっていたため)
子持ちの女性が多数働いていて彼女らの姿を参考にして描いた、と言ってたと思う。
今の感覚からしたら「つまり子供放置しないと仕事こなせないようなやべーブラック職場だったんじゃね?」となるが、
当時はそれが女性が活躍出来る最先端の女性の理想の職場扱いだった。
実際ポニョ評として「ワーママの理想を描いてる」と言う言説は割とあったし、それに同調してポニョは理想だ憧れだとと言っているワーママも割と見た。
そういう時代だったんだよ。
それが子に対するネグレクトだ虐待だ、仕事しかしないのはワーカーホリックであり社畜であり侮蔑すべき生き方だ、とされて
20代半ばに購入した米国株が、いつの間にか保有後10年を過ぎていたので、成績を見てみる。 結果的にバイアンドフォーゲット。フォーゲットしてる間におっさんになっちゃった。
面倒なので配当は考慮せず、単純に当時の円換算での購入額とドル換算での購入額を、現在の価格と比較してどれくらい変動があったかを示す。100%なら2倍になったって感じ。
当時の感覚として、IEEE1394(FireWire)のコントローラーはTI製が優秀で、好印象な企業だった。アナログ半導体シェアが大きかった。(とはいえアナログ半導体なるものが何なのかはわかっていなかった)
ドル換算では100ドルが81ドルになったようなものなので残念な結果だが、円換算では100円が131円になってるわけなので、完全に円安に救われているパターン。
当時すでにThinkPadなどのコンピューター部門は手放した後で、正直なにで儲けている会社かよく分かってなかったが、単純にThinkPadやPower、Cellを生み出した企業であるという点で好きな企業だったのと、ダウの構成銘柄だったのですぐに価値がなくなるようなことは無いだろうという考え。
自分が買った後しばらくしてバフェットさんが買った時は思わずニヤリとしたが、その後割とすぐ手放しちゃいましたね。。
10年超保有している銘柄でのベスト、ワーストは上記2銘柄であるが、その後購入した全銘柄含めてのベスト、ワーストも上記2銘柄であった。
他の銘柄の成績ははだいたい2つの間に位置していると思っていただければ。
TI もIBMも、結局何故伸びて何故伸びなかったのか、わからん。いまだにローソク足チャートの見方も分からんし、〇日平均線とか言われてもよく分からん。
これは銘柄選定というよりは投資対象についてだが、大原則。10万円の現物株を買ったとして、最悪の場合それが0円になるが、それ以上の支払いを求められることはない。というのは安心感がある。
すでにETFはあったと思うが、当時いまいち理解できなかったので手を出さず、個別株にした。
「IBMはなにで儲けている会社かよく分かってなかった」って書いてんじゃねーかこの野郎。と思ったあなたは正しい。そう、単純に好きな会社。という点で手を出した。正しくは好きな商品を作っていた会社。か。
売却益狙いをする気は無かったので、それなりに配当を出している会社を選んでいる。
買っておけばよかった株の筆頭はAppleであるが、あの頃Appleは配当出してなかったような記憶。故に候補外だった。
10年前の新興企業ってどこだったっけ。。。ってのはあるが、自分の中では10年前のアマゾンはまだギリギリ新興企業枠。長期保有による配当益狙いだったので、利益をガンガン投資に回しますスタイルの企業=配当が無いところは最初から選考外だった。
購入前にはアニュアルレポートを見て各地域ごとの売り上げ割合をみたりはした。
バイアンドフォーゲットとはいえ、一応ほぼ毎日円建て、ドル建てでいくらになっているのか値動きはチェックしていた。
ニュースに連動して株価が上がったり下がったりするのは面白かったし、銘柄や地合いによっては一晩で3~5%動くこともあったので、大きな値動きに対する耐性みたいなのはそこそこついた。とはいえ一気に半分くらいの価値になったら狼狽えるだろうな。
当時は米国株買いにくかった。ネット証券では特定口座での外国株取扱いがなかったので、わざわざ大手証券会社の口座を作ったが、そうなるとネット取引が出来なかったのでいちいち電話注文してたなぁ。今はネット証券でも特定口座扱いが出来てとても良い時代になりましたね。
正確な研修名はうろ覚えだけど、まあもうそろそろ新人じゃないわねみたいな時期の社員を対象にした研修。
女性2人、男性2人のグループに、講師がひとりついた。参加者はみんな会社も業界もバラバラだが、年齢は近い感じ(に見える)。
「部署の上司があなたの後輩にハラスメントをしていることに気づいたとき、あなたはどうしますか?戦いますか?静観しますか?」
その場ではあまり気にしてなかったのだけど、さっき「おばちゃんになってくると若い子が可愛くて仕方ないよね(意訳)」的なエントリを見て、このときに女性2人が「戦う」と答えた根拠はこの感情もあるかなと思った。少なくとも私はこの感情があって「戦う」と答えた。私のかわいい後輩をいじめるやつは偉い人であろうと許さないぜ、の気持ちだった(ちなみに今まさに後輩を上司のセクハラから守りたくてバチバチしてる。こんな有言実行いらんのや…)
例のエントリは40代女性って…みたいなかんじだったけど、私達は20代後半なので「若い子が可愛くて仕方ない」みたいな感情の芽生えってもっと早いんじゃなかろうか?と思った。
https://anond.hatelabo.jp/20220401000918
つづきだよ。
正解だね。早めに当ててる人がいてびっくりしたね。電力事業単体だとどうかは知らないけど、燃料売ってる側のこの二社は業績が上向いてるね。ちょっと意地悪だったかもしれないね。
id:wakwak_koba 東電が発電所を新設したがらない理由がよく分かった。電気が余ると損をして、むしろ足りない方がスポット価格が高騰して儲かるんだね。つまり電力自由化とは東電救済だったわけだ(ほんと役人は頭がいいなぁ
id:takanq 電力会社がJEPXに意図的に売電を絞っているのでは? という指摘があるのよね。"「新電力」の自業自得なのか?卸価格“超”高騰で露見した「いまだに未成熟」日本電力市場の課題"https://www.businessinsider.jp/post-229526
id:mangakoji 電力会社は、発電量を絞ると儲かる、危ないシステムなんだな。こりゃ日本で電気自動車インフラが進むわけないわ。
旧一電も業界もわざと発電を絞ってるわけじゃないんだよね。発電量=発電所の収入だけど、再エネ発電所が増えれば火力発電所の稼働量は減るよね。コスト回収がどんどん大変になるから火力発電所の廃止インセンティブが高まるね。でも最低限の余力は残しておかないと大規模停電起きちゃうかもしれないから高コストの発電所はある程度残しておかないといけないね。ただでさえ3.11以降は原発も止まっちゃったから供給力の余剰は最近減ってるよね。
太陽光発電なんかも最近増えてるけど、天候に発電量が左右されるのでどうしても発電量が不安定になっちゃうね。緊急時に発電所動かせって言われてもどたばたしちゃうよね。LNGは高いから発電コスト上がるね。最近は石炭火力はCO2排出量高いから嫌われてるね。
あと、一番大事なのは、電気は「余っても駄目」なんだよね。発電量は周波数に影響を与えるので、足りなければ周波数の50/60Hzを下回るし、余ると上回る。周波数の変動を放置したら色々大変なことになるから(日本全国で家電が故障するね)、電力系統は需要が供給を大幅に上回ると安全のために電力供給自体を遮断するよね。これがブラックアウト、大規模停電という現象で、直近だと北海道全体で停電したやつだね。
なので、電気が余ると損をするから絞ってるんじゃなくて、そもそも余って良いような仕組みじゃないんだね。発電側は発電側で大変なんだよね。
安定供給の点ではその通りだけど、脱炭素や原発の文脈だと「旧一電に現状改善のインセンティブは少ないので自由化は必要」という回答はありえると思うね。ここは人によって主張が違うところだね。私は関係者なのでどうしてもポジショントークになるから私自身の意見は控えるけど、一理あると思ったよ。
id:gimonfu_usr 自由化にともなうコスト引下圧が原発施設安全維持の余力を削ったのですよ。自然を舐めてた「甘え」はあったろうが方向が違う
因果関係としてはたしかにそうかもね(特別高圧や高圧は3.11前に小売自由化が進んでいたよ)。ただ、それは「お金に困ったから強盗殺人やっていいのか」って話に近くて、コストを理由に原発の安全維持を疎かにするのは一線越えちゃってるんじゃないかな。
断言はできないけど「高騰時に停電」は多分無理じゃないかな。供給は送配電事業者がおこなうので、新電力に特定の供給地点の供給を止めるよう指示できる仕組みにはなってないね(追記:「今の契約」では。技術的に不可能ではないかもしれないけど、旧一電側の協力が必須)。色んな人に突っ込まれたはてな電力と増田電力の話はその辺のことを言いたかったんだけど、わかりづらかったね、ごめんね。あと、そこはインフラとしてやっちゃ駄目でしょう、という議論はあるよね。
「消費者への売価に転嫁する」これはいい視点だね。これをやったのが市場連動型プランで、21年の高騰時に月の支払いが数倍とか十数倍になってめちゃくちゃ揉めたやつだね。あれで新電力が炎上したのでその方向はリスクが高いということになり、選択肢は実質なくなったと言っても過言ではないね。あと、そもそも高騰時に価格上がるなら規模の経済で旧一電にはほぼ確実に負けるね。
id:cinefuk リスクヘッジさえ担えないならば、単なる転売屋でしかない
だからこのブコメはクリティカルな批判だと思うね。自由市場で旧一電から客奪って戦ってんのは新電力なんだから、価格設定で新電力が文句を言うのは筋違いではあるね。
id:lifefucker さや取りビジネスだと思うけどなんの付加価値あんの?
シンプルなのは価格だね。新電力は送配電でフリーライドできるので(託送料金は払うけど)、一般的に旧一電より安いね。
それ以外だと、他のサービスと同じ会社にして支払い一本化とか(東ガスとかのガス会社系、auでんきやソフトバンクでんき)、別業種の付帯サービスとか(楽天ポイントがたまる楽天でんき)はあるね。Looopでんきは自社のソーラーパネルや蓄電池とペアで使うと割引が適用されたりもするね。
id:pwatermark そこで「発電もやる」ことでリスクを抑えるみたいな考え方もあるわけだ 民間発電の市場が活発化することで、クリーンエネルギーや脱炭素、場合によっては原子力とか、発電の選択肢が増える まあ絵に描いた餅だけどね
いい話題を振ってくれて嬉しいね。電力系統からの電力供給を前提にするからこういう話になるのであって、経産省は「再エネを中心とした小~中規模の地域発電所をもっとたくさん作って、エネルギーを地産地消しよう」っていう分散型エネルギー構想を最近打ち出してるよ。「マイクログリッド」でググってみると面白いかもね。
https://www.meti.go.jp/shingikai/energy_environment/energy_resource/pdf/015_s01_00.pdf
id:sin20xx 日本は根本が間違ってたんだよ。そもそも太陽光などの発電した電力を高く買う意味はなくて、その電力をむしろ安めに買って、さらに余剰分も全部買ってしまって、それにより揚水式発電等を動かすバランスが必要だった
FITの話だね。再エネを10年間固定で買い取るよって制度なんだけど、最初の買取価格は48円/kWhだったんだよね。後々太陽光発電は価格下げていったけど、山林切り拓いてのメガソーラー乱立を招いたんだよね。制度設計の失敗だね。
id:tohshindainokawaisa 新電力の中の人ならインバランスを悪用してた過去を語って欲しいんだが。こんなの完全にポジショントーク。最近でも一送の持ち出しで最終保障供給させたり賦課金を払わずに破産申請とか、これで被害者面は虫酸が走る
インバランス制度は厳密に言うと「調達が足りなかったら請求するし、調達しすぎたらその分お金返すよ」って仕組みだね。一般的にインバランス料金は市場価格より高いね。でも、このインバランス料金は事前に予測できちゃうと「インバランス料金が高い(安い)ときにわざと調達を多め(少なめ)にする」ことが理屈上ではできちゃうんだね。この人が言ってるのは多分このことだね。それはよくないよねってことで、事前予測がしにくいように制度が見なおされたんだよ。
最終保障供給は多分このニュースのことを言ってるんだね。これはよくないね。
https://project.nikkeibp.co.jp/energy/atcl/19/feature/00001/00074/
id:dreamzico 長いよ。オタクはなぜいつも話が長いんだ。その漫画くさいオタク口調・文体をやめて、内容的にももっと短く簡潔な文章となるよう推敲してくれ。1/10くらいの文字数で説明できるだろ。
素に戻るが、身バレ避けるため普段やらない書き方してるので読みにくいのはわざと。そこは正直すまん。
id:watasinoid ×「東電をなんとかせげんといかん」 ○「東電をどげんかせんといかん」
id:gnta 「東電をなんとかせげんといかん」ではなく「東電をどげんとせんといかん」と言いたかったんだろう
id:good2nd 誤「なんとかせげんといかん!」→正「どげんかせんといかん」/「せげん」てなんとも不思議な響き。品詞分解できないからかな
id:hazardprofile とにかく "なんとかせげんといかん!" が気になってしょうがない
id:MacRocco “なんとかせげんといかん”は多分「どけんがせんといかん」をうろ覚えで使った結果出てきたそれっぽい言葉だと予想
id:kaputte はてなの親分怖すぎて泣く / だれも「なんとかせげんといかん」気になってないのもこわい
id:pechiyon “東電をなんとかせげんといかん!”どげんかせんといかんorなんとかせんといかん では
小学校にコンピューター室ができて、コンピューターの授業を道徳とか生活とかの空き時間にやりはじめた辺りの頃だったと思う。
民法のテレビ番組で、パソコン導入に付いて行けず徐々に窓際に追いやられていく中高年の嘆きを取り上げた再現ドラマをやっていた。
パソコンに強い若手社員に少しでも追いつくためにパソコン教室に入ったおじさんが、若い女性講師の講座を受けに行く。
これがマウスで、これがキーボードで、これがモニターで、では電源をつけてみましょう、というように、パソコンの周辺機器の説明から始めていた講師に対して突然おじさんが立ち上がって怒鳴る。
ここまではうろ覚えだったけど、おじさんのこの言葉だけは間違いなく覚えてる、と思う。
「俺たちは!こんなことをやるためにここに来てるんじゃない!」
その再現ドラマを見てから20年以上経った今日、何か新しいことでも始めてみたいな、そうだ絵でも描いてみようか、「絵 描きたい 初心者」で調べてみようか。
とにかく描いてみましょう、下手でも描いてみましょう、描いてみましょう、描いてみましょう。
いやそんなんじゃねえんだよ。そんなの聞くために調べてんじゃないのこっちは。
それを声に出して言った時に、おじさんの赤ら顔の怒鳴り声をふと思い出して、境遇も状況も違っているとはいえ、こうしてお門違いの文句を垂れるようになってしまったことが悲しくなった。
何かある度に、「アメリカでは、日本で常識とされている~~がダメです!」みたいに言われるじゃん。
しかも大体、単に「へえ、アメリカではそうなんだね」じゃなくて「だから日本は遅れている!」みたいな言い方になるじゃん。
例えば家庭教育だと
「アメリカでは、子どもが×歳になったら親は子供と同じお風呂に入りません!」→「子どもと風呂に入る日本の文化は児童虐待!」
「アメリカでは、子どもから親が少し目を離しただけで捕まる!」→「日本もそうしよう!留守番やお使いは禁止!」
みたいな。
あとは
「アメリカでは、何でも裁判で解決する!」みたいな雑語りも、昔はやたらそれが良いことかの様に押されていたけど、
最近ではそれが富裕層に著しく優位な形でしかないことや、「刑務所社会」化を進めていることが分かってきた。
「へえ、アメリカではそうなんだね」で良いじゃん。多くの日本人にとっては子どもとお風呂に入るのが団らんの象徴です(話を繋げるなら「アメリカではどうですか?」)、で良いじゃん。
自分の文化は自分で考えるべきだ。仮に海外の文化を取り込むとしても、それは何十年と言うスパンで考えるべきことで、テレビの「ここがへんだよ日本人」とかSNSの多少のバズりとか「ポリコレ」とかで急変させるものじゃないんだよ。
蒸気機関車便利だねとかキリスト教進んでるねみたいなことを数年で急激に取り入れる様な明治維新の経験も意識されてるのかも知れないが、あれは例外的な物だし、当時の人々も非常に困惑してて「和魂洋才」とか実学偏重の教育問題とかに発展したわけだよな。
というかその「アメリカでは」「〇〇では」って何なの。どこの州のどういう集団のどの階層を差してるの。多分、一握りのWASPの第一印象だよな。絶対黒人とかヒスパニックの文化なんか参照してないだろ。
言ってる奴自体、生活の100%をそのどこかの「アメリカ」ナイズしてるわけでも無いしな。
じゃあ「アメリカでもやってるからハーグ条約にちゃんと従いましょう」っていうと、アメリカのMeTooを日本に取り入れようとしてる人たちは反対するだろうし。
東南アジアに日本企業が続々進出してた時にも、東南アジアの人々は多少労働環境などの影響は受けただろうけど、何でも「日本流」にしなかったし、今でも何でも「中国流」にしてないだろ。
逆に、アメリカのルイジアナ州で、ハロウィーンの季節に日本人留学生が間違った家に遊びに行ってしまい「フリーズ!」と「プリーズ!」を聞き間違えて乗込んじゃって射殺されたって事件あったけど(うろ覚え)、その場合は大方仕方ないと思うよ。
(あとこの場合は留学生の遺族はアメリカのその州の裁判に則って争って、賠償金を得た。これは郷に従った正当性のあるやり方。)
雑に羅列すれば、日本には日本のそれぞれのポリコレがあるし、中国には中国のそれぞれのフェミニズムがあるし、韓国には韓国のそれぞれのエコロジーがあるし、ブラジルにはブラジルのそれぞれの家族があるし、エチオピアにはエチオピアのそれぞれの宗教がある。
それをアメリカ・西洋一色にする必要はない。(もちろん日本も、日本一色にすることを求めない。)
自分の身の回りの文化をしっかりと考えていない人間が、他国の文化についても語れる訳ないだろ。それも数年の留学とか、SNSの雑なブームとかで。そっからだよ。
こちら側が横断歩道を歩いているところへ、車がこちらを認識せず突っ込んできたのを手で静止した。手は車に接触して、目の前で車は止まった。すごく怖かった。素早く動けるような状況ではなかったし、また車が動いたら、こっちは跳ねられる。運転手の人は若くて、窓から顔を出して心配してくれたけど、こちらとしてはこの状況でどうしたらよいか分からずショックが大きくて何も言えず、出来なかった。
そこへその状況を見ていた二人組のマダムが『あなた、それは交通事故よ、警察へ電話しなさい』と何度か言ってくれた。
こちらとしては交通事故ほど大げさではない(怪我もなかったと思ってた)と思ったが、マダムがいうには車が気づかず突っ込んできて接触したんだから、交通事故であると。
たしかにこのまま何事もなく去った場合、興奮から冷めて手首が痛くなったりしたらそれはそれで何も出来ないと判断して警察を呼ぶことにした。
警察が実況見分をして、当時の車の静止した場所や、こちらが車のどこに手が接触したのかも発覚した。(当時はドラレコはそこまで流行ってなかった)そこまで分かるのだと初めて実況見分を目の当たりにして驚いた。結局書類送検にはなったのかはうろ覚えだが、何かこちらに症状が出た場合は連絡が取れるように相手の運転手の連絡先は聞いておいた。運転手は終始誠実に対応してくれた。
マダム達は一緒に見分に立ち会ってくれて、時折客観的な立場でコメントしてくれて、終わったところで街に消えていった。マダムがいなかったら、本当に不安でどうしたらよいか分からなかったと思う。
怒りだの憎悪だの以前に、「曲解で犯罪予告扱いされて通報されたとき」にどうすりゃいいのかなって思った。
いや、ここ最近?数年?詳しくは知らんが、まぁ近頃のネットは別の意味でピリピリしている。
昔のアングラじみてて、犯罪予告も脅迫もまかり通ってた世紀末な空間だったネット(勝手なイメージです、大昔の2chって完全ノーログサイトで誰も投稿者がわからなかったらしいし)も十分アレだが。
今のネットは過敏すぎるのだ。やれポリコレかパリコレか知らんが、「人を傷つける言葉を使わないようにしましょう。取り繕って、わからない言葉で遠回しに言いましょう。」ってのが流布されてるような気がする。気がするだけだが。
バカがTwitterやティックトックで犯罪自慢したらすぐ燃やされ通報され社会的に殺されるようになった事はいい事だが、それが行き過ぎて「言葉に犯罪性を感じさせたら通報アンド逮捕」みたいになってる。
ほら、いっとき問題になったよね、温泉の萌え擬人化みたいな企画に対して「企画に参加してる人たちの温泉に猛毒流し込まれなきゃいいですね」って脅し。アレね。当然通報されただろうし、言ったやつはヤバいと思ったのか消して逃げた。
でもさ、この文章は確かに悪意を込めた皮肉混じりの脅迫だろうけど、「怖い人たちに襲われる可能性がありますよ」と注意喚起してるようにも見える。まぁ注意喚起に見せかけた脅しだけどね。
逆に言うとそれって、ちょっと過激な表現使った注意喚起も、誰かに「それって犯罪予告ですよね?通報しますね。はいあなた犯罪者。」ってされるわけじゃないかなって。
それどころか、重箱の隅をつつくように人の言葉尻をとらえて「それ犯罪予告ですよね。通報。」ってやるのも出てくると思う。
というかもうきっといるし、被害受けてるのもいる。
そう考えるとさ、何気ない言葉を脅しって取られた時点で、愉快犯や自分を嫌う人間からしたら、「こいつを犯罪者にできるきっかけを手に入れたぞ!」って事なのかなって。
タコピーの原罪という漫画について、賛否が分かれているけど、自分も最初はあまり好きではなかった。
なので漫画として完璧!みたいに絶賛する記事が出始めたときはえ、そうなの?と思ったりした。
ただ悲惨なだけでウケてると思っていた。
最終話目前まで読んだ今でも、自分にはあまりしっくりきていない。
でも確かに何かのメッセージ性をもって描かれているのはわかる気がする。
ふと思ったのだが、この漫画を絶賛する人というのは、これを読んで「自分の物語だ」と思える人なのではないか。
物語を通して、人は自分の読みたい物語を読む的なことを村上春樹が言ってたような気がする(うろ覚え)
タコピーの原罪も、たぶんメタファーだらけで、自分はそれを拾えて読めていないのかもと思った。
そして努力しても読み取れる自信もない。
https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2022/02/23/132151
実際、すでにSNSでいくらでも似たようなことは起きていて、それを「ブログ上でやる」というのが、この記事の唯一の新しさだといえる。が、そこがおもしろい。
ブログというものがなんであるか、なんて話になるとややこしいことになるわけだけど、少なくともこの方の場合は「そのときどきに考えたことをまとまった文章で表現して公開する」ということでわりと一貫している。こうしてできあがったものは、いってみれば壮大な自己紹介みたいなものだ。それがだれでも見れる状態で公開されているというのは、実はすごいことなんじゃないだろうか。
もちろんツイッターだって眺めていれば「だいたいこんな人」というのは理解できるわけだけど、ある程度の長文となると、そこに刻印された人間の質量がでかい。特に書くことに真剣に向き合っている人はそうだと思う。考えてみれば、動画やSNSよりもはるかにごまかしの効かないメディアなのではないだろうか。まあ読むほうにもそれなりの文章読みとしての訓練は要求されるけど。
雑にいえば、ブログなんて文章による個人メディアである。新しいことってだいたいなんでもそうだけど、こうやって実際にやってる現場を見ると「なぜいままで、だれもブログを婚活に利用してこなかったのか」と不思議になるほど相性がよい。そうか、この手があったか、という感じだ。まあ前提条件としてブログを継続することじたいが大変とか、そもそも読まれるかどうか問題もあるわけですけど。一部の人しか選べない方法ではあるよね。それでもおもしろいと思う。
人類における家族って、基本的には、強制的再生産装置でありつづけてきたと思ってる。けど、いまそれが崩壊しつつある。本能なんて言葉にうかつに頼るのは好きじゃないが、どうやら人間は、一人で過ごすよりも、だれかと一緒にいたほうが快適ないきものらしい、というのが最近の印象である。だから、人類はそれでもなにか、新しい、線としての同居形態を生み出すんだと思う。これは希望とかいうよりも「そうでしかあれない」という絶望のほうが個人的にはやや強い。
別にこのブログの記事がそうだというわけではない。これは試みの一つに過ぎない。たぶんこの瞬間もどこかで人目につかないかたちで発生してる無数の試みのうちのひとつだ。仮にこれがうまくいったとしても、フタ開けてみたらふつうの夫婦になってて、単にきっかけが変わってただけってことになるのかもしれない。それはだれにも(たぶん本人にも)わからない。
あくまで他人事として見るのなら、こうした新しい試みはその結果を見届けたい。次になにが来るのか。どうやって人間は幸福を求めるのか。新しいかたちはあるのか。
だいぶ昔に読んだのでうろ覚えなんだけど、綿の国星というマンガで「お父さんもっと子猫じゃらじゃら出して。新しい方式で」というような一文があった。おそらく死ぬまで一人で生きるんだろうなと思ってた当時の自分は、その文章に、希望と絶望と諦念が入り混じったような震えを感じた。たぶんそのとき以来だと思う。子供をつくるつくらないはさておき、自分が育ってきたゴミみたいな崩壊家庭ではなく、なにか新しいかたちがありうるんじゃないかと考えるようになったのは。
繰り返すが、このブログの記事が正解だという話ではない。どうやら一人でいるよりもだれかと一緒にいるほうが幸福になりやすいらしい、人間といういきものが、新しい方式で幸福を求めること。そこに最大の関心がある。思考実験ではなく、現実にこうやって行動に移した人がいる。そこに敬意を表する。
前に「老夫婦が長年経営して学生に安く食わせてるとんかつ屋(例)は地域経済を破壊する!」みたいな記事があったけど(うろ覚え)