はてなキーワード: 快楽主義とは
〉でも自分の子供が女を当てがえとか言ってる気色悪いチー牛に育つなら
自分の子供が気色悪いチー牛に育つと思っているなら、まずは自分を改めるべきだろう。
それこそが快楽主義なのだが、俺の言及した通りの人物が反応してくれて嬉しくなるな。
〉チー牛育てたい人なんかいないのに
〉なんで嘘つくの?
自分の子供か必ずチー牛になるという前提を話していないし、話していない前提で嘘をついたと言われても困るが?
余程容姿や知能、コミュニケーション能力に自信がないのだろう、可哀想に。
また彼は人生に対する快楽主義的な姿勢が持つ欺瞞性を理解していた。
先の戦争以降、西洋思想のほとんど全て、特に「進歩的」思想は皆、人類は安楽、身の安全、苦痛の回避以上のことを望んではいないと暗に仮定していた。
こうした人生観においては、例えば愛国心や軍事的な美徳といったものが存在する余地はない。
兵隊の人形で遊ぶ我が子を見た社会主義者は普通、不安に駆られるものだがブリキの兵隊の代わりを思いつくことは決してできない。
どうしたわけかブリキの平和主義者ではその代わりにはならないのだ。
自らの喜びなき精神によって並外れて強くそれを感じ取るヒトラーは、
人類が欲するのは安楽と安全、短い労働、衛生状態、避妊、一般化して言えば常識に適ったもの、
それだけでないことを知っているのだ。
少なくともときおりは闘争と自己犠牲、そして言うまでもなく太鼓と旗、忠誠を誇示するための行進を人類は求める。
経済理論としてはともかく、ファシズムとナチズムはどのような快楽主義的人生観よりも心理学的にずっと堅固なものである。
書評 アドルフ・ヒトラー著「我が闘争」 ジョージ・オーウェル
https://open-shelf.appspot.com/ReviewOfMeinKampfByAdolfHitler/chapter1.html
オレはミニシアター系映画とかややマイナーなポストロックとかのお前の言うサブカル分野好きだけど、たぶん当時サブカル界隈がアニメやオタクを叩きまくってたからだよ。
オレは昔からブヒアニメも見るけど、サブカル界隈では怖くて言えなかったよ。
ちなみにお前は知らなそうだけど、いまやサブカルと言ったらアニメとかオタク文化のことを指す人が多いからな。
00年代くらいまで存在した旧サブカルは、今はもうサブカルとは言わないから。
旧サブカルはそれだけ衰退したってこと。
まあ、マイナーだからサブカルなのに高尚さを出したいのか頻繁に周りのイケてないと判断した奴や物を叩いて差別化しようとしてたから、まあそりゃあ衰退して当然なんだけどな。要は排他的ってこと。
一方でアニオタ文化は快楽主義だからこそ排他的ではなくて、どんどん周囲を取り込んでいって、いまや日本を代表するコンテンツになったと思ってる。
警戒されたくないなら、最初に旧サブカルもアニメもメジャー系もなんでも見るけど特に旧サブカルが好きで、というように話せばいいだけ。
つーか、コミュ力低そうな女やな!
ひどく恋愛に向いていないなと思う。そもそも人に興味がない。刹那主義で快楽主義。いまが楽しければそれでいい。例えば、ナンパされて一夜限りの恋愛をしても私は次の日にはその人の名前も顔も忘れられる。体の隅々までお互いに見合って、キスを交わしていたとしても。メッセージアプリにいろんな友人や会社の人たち、公式なんかの通知がくれば、あっという間に彼らと交わした履歴は下に行く。そうすると顔も名前も気持ちのよかったあの一瞬ですら、どこか遠くに去って行く。女性は感情が伴わないセックスはできないとどこかのWEB記事で読んだけれど、全くもってそんなことはない。女性だって、愛情がなくてもできるものだ。誰かと特別親密にならなくたって、キスもセックスもできる。いわゆる「生理的」に受け付けない人以外は、風呂に入って歯を磨いてさえくれれば、なんだっていい。今が楽しけばいい。妊娠や病気に気をつけて、ちゃんとしていればいい。時たま欲を感じたら、人肌が恋しくなったら、通知が下に行ってしまった適当な人を見繕って連絡する。今はまだ、若くて体にハリがあって、世の中の慎ましい女性たちに比べて自分がそういうことを楽しめる人間だから、彼らは私の誘いに乗ってくれる。そうして、一夜限りの「恋愛」を私は楽しむのだ。顔も名前も忘れた人。だけど、どういう風に抱くのかは覚えている。何をすれば喜ぶのかも覚えている。互いに欲をぶつけ合って、それで楽しめればいいじゃないか。私がどこの誰で、意外とつまらない人間だってことを、あなたは知らなくていいのだ。互いの心を見せなくたって、人の欲はうっすらとすけて見える。恋愛、よりも性欲の方が私にはわかりやすくてラクでしょう?
同世代は結婚し始めた。子供ができた人もいる。正しい人と正しい方法で愛し合って、正しく生きている人を見る一方で、SNSでは配偶者の愚痴であふれている。モラハラ夫、セックスレス、最悪な義実家、不倫した嫁……教えてほしい。正しい「愛」をもって正しい「家庭」をもったあなたたちは世間一般でみたら「正しい」はずなのに、どうしてそんなに不幸そうに見えるのか。愛情の果てにあるものが結婚だとしたら、なんでそんなことになってしまったのか。恋愛をして、結婚したら、幸せになれるんじゃなかったのかな。なんて、こんな風に言ってしまえる自分は、可愛げもないクソビッチなんだろうし、そもそも恋愛に向いていない。
最近ファンレ界隈が騒がしいらしいのでファンレ書くの大好きオタクがいつもファンレ書くとき気をつけていることを列挙しようと思う。
ファンレは作者のファンサなのでみんな勘違いせず楽しくウキウキファンレター書こうな!
いち
ファンレターってなによ?ってこれに尽きるよね。
そもそもファンレターってこっちが出したくて出してるものなので「書いてあげなきゃ!」とか思うくらいなら書かなくていいと思ってるまである。
だってファンレターって紙ならかさばるし量あったら読むのに時間も体力も使うし作者は絶対読まなきゃいけないものでもないんだよ。でも喜んで読んでくれるんだよ。好きなもの作ってくれる人に作ってくれてありがとうって伝えられて、それを喜んでこちらこそありがとうとか言ってくれるんだよ?ファンサだろ。
「ファンレターくれって言ってるじゃん」と思う人もいるんだろうか。まぁ大事なのは間違いないと思うよファンレのあるなしで人気具合が決まるとかあるみたいな話も聞くし。
でも正直書籍とか歌なら販売数のが重要じゃねとも思わんか。どんなに熱烈なファンレ届いたとしても一冊しか売れてなかったら打ち切りでしょ。
「書いてあげなきゃ」思考で書くと絶対に自己顕示欲が滲むと言うか、「このファンレターで作者に爪痕残してやろう」みたいな気持ちが入っちゃうんだよね。それいらないから。作者は作品の感想が聞きたいのであってファンレ執筆者の自己顕示欲には用がないから。中古で買いましたとか図書館で読みましたとかのこと書いちゃう例のアレも自己顕示欲の発露だよ。作者の精神に影響を与えようとするな。心に残ろうとするな。大体本が売れた売れなかったは作者の収入につながる超センシティブな話題なんだから気安く触れるもんでもねえ。
本当にめちゃめちゃ好きで堪らなくて言わないと爆発するという気持ちを込めるのがファンレターやぞ。
に
「結局引用が1番最強」
本なら「2巻の◯ページの☓☓ってセリフが刺さりました」音楽なら「△△って歌詞が心に響きました」「Aメロの頭のギターテク最強すぎて震えました」絵なら「髪の先の線のしゅぱって感じがめっちゃ好きです」などなど、引用ってめっちゃ簡単に好きなところをダイレクトに伝えられてとても良いです。
めちゃめちゃ好きなのは本当でファンレターも出したいけど何を書いて良いのかわからないし語彙力もないって悩む人いるじゃん。引用が最強やぞ。
読書感想文では引用を差し控えろって言われがちだけどファンレターにおいては作者側も読者にはここが刺さるんだな〜って分かって嬉しいんじゃないかな。どこがどう好きってのを言えたらより良いファンレになると思うけど言えなくても引用してあれば少なくとも好きって言ってもらえる場所はわかるし。とにかく好きです!だけより伝わりやすい。語彙は正直なくて良い。と思ってる。文章のプロじゃないんだから語彙力なんかあるわけねぇだろ。あったら良いかもだけど「あなたの作品は梅雨の朝の貴重な晴れ間に水の冷たさを残した空気を吸い込むときのような気持ちになります」とか書かれても嬉しいけど具体的にどんな気持ちで……?ってなりかねん。平易な言葉ってのは伝わりやすいという利点がある。「好きです!」は「好きです!」以上の意味にならないからダイレクトに好きが伝わるぞい。
さん
「赤の他人に書いてるってことを忘れない」
作者って友達じゃないんだよね。いや同人とかで友達の作者にファンレ送ることもあるかもだけど(その場合は友達に許される距離感で好きにしてくれ)商業販売されてる作品とか舞台に立ってる役者とかYouTuberとか画家とかバンドとかまぁなんか色々あると思うけど大体は会ったこともない人だったり顔も知らなかったりすることのが多いわけじゃん。
「身内ヅラ」「タメ口」「アドバイス」が書き始めにハマりやすい三大危険思想だと思います。
身内ヅラってのは例えば好きな俳優さんとかアイドルとかバンドマンに「☓☓のママとしては〜」とか「お兄ちゃんは心配です」みたいなこと言っちゃったりするやつ。普通にこわい。誰だお前!みたいな奴から突然身内ヅラのファンレ届いたら引くだろ。後方腕組彼氏面はやってるだけならおもろいけど彼氏面で話しかけたら不審者やぞ。過度なイジりとかも控えよう。過度っていうかイジるな。そういうキャラだったとしてもイジらないほうが絶対平和。
笑ってくれる神のような御心の持ち主も稀にいるかもだけど何度もいうがファンレはファンサなので推しに1グラムの心理的重りも乗せないように気をつけようね。君から送られるのが1グラムだとしてもそれが何百何万の数になったら推しは潰れちゃうよ。
タメ口についてはこれ言う必要あるか?初対面でタメ口は相当思想強いぞ。敬語っていうのはあなたを他者として尊重する意思がありますという1番分かりやすい表現だから悪いこと言わないから使っとけ。あの人はノリ軽いしそんなん負担にならないもん!と思ったとしても使っとけ。推しが「敬語のファンレ受け取らねえから」って言ってたら使うな。そんぐらいのレベルの話です。
アドバイス。これが1番良くない。「△△の書き方はもっと♡♡にした方が良くなると思いました」「□□のときの言い方はもっと優しくしたほうが良いと思います」みたいなやつ。
良いか!!!アドバイスを!!!!するな!!!!アドバイス全部うるせえ!!!!!!!同業者でもしねえ!!!!!素人は黙っとれ!!!!!!!!!!
えー、アドバイスについて恨みがあるのでうるさくなりますが推しにアドバイス送って良いことはひとつもありません。アドバイスというのは無用なものです。そんなもん書くくらいならおすすめのラーメンのトッピング書くほうがよっぽどマシです。世に出ている作品は商業だろうが同人だろうが人の手と目を通って世に出ています。自分が読んですぐ思いつくようなこと作者も周りも一回は口に出してます。それを捨てて出来たのが作品です。どうしても気になる、ここの展開は絶対この方が良い!と思うなら自分で創作しようね。
誤字脱字報告とかも作者さんが「してね」って言ってないならファンレには書かないでください。十中八九萎えます。配信者の言動とかもそうだぞ。「もっとこうしたら〜」みたいなのは他人に言うことじゃないです。推しがアドバイスが欲しいと思うときは周囲の適切な人に相談しています。お前には聞いてねえです。夜露死苦。
よん
「じゃあ何書けば良いんだよの話する」
・好きなシーンの引用
・書けるならそれをより具体的に何故好きか
・もらった喜びや感動など
を書くのが1番分かりやすいです。
引用はさっき言ったやつ。具体的に何故好きかって言うのは、じゃあそのシーンを好きな理由ですね。
みんなカチカチ山って知ってる?知ってる前提で話すね。カチカチ山を例にしてファンレ文を2個作ったので読んでみて欲しいんだけど
例1
・兎がおじいさんのためにめちゃめちゃ頑張っててえらいと思いました。
↓
例2
・兎がおじいさんのために、憎いたぬきに友人のように話しかけたり、辛子味噌や泥舟の製作など一切手を抜かず復讐への手間を惜しまない姿勢に感動しました。
例2のがわかりやすくね?
これが具体的に書くの話ね。でも前者が悪いわけでは全くない。例1の方がパッション伝わることもあるので、例2の方がより良いわけでもないんだけど、具体的なシーンの伝わりやすさは2の方だと思うんだよね。
他にも作った。これはさらに何故好きなのかの説明を深堀りした例ね。
例3
・復讐劇としての完成度の高さと、主人公であるうさぎとたぬきのキャラが対照的で良かったです。
↓
例4
・おばあさんの慈悲の心を踏みにじった非道な行い、それを反省もせず人の誠意を足蹴にするたぬきの圧倒的な残虐性が、その後のうさぎの強い復讐心に対する説得力に繋がっていて作品の構成力に感動しました。たぬきの刹那主義・快楽主義な性格と、恩を重んじて誠意を大切にするうさぎの性格とが、対照的な二人のキャラクターを引き立てあっていて、ストーリーに深みを感じます。
めっちゃ書くこと多くなった。何を書いたら良いか?ってつまりこれを書くとめちゃめちゃ伝わりやすいよね。
これはカチカチ山ベースで書いたからこうだけど音楽でも配信でも演劇でも漫画でも同じことができます。
この書き方は「何故」を主軸にすることが多いです。
何故このストーリー展開なのか。何故このキャラはこんな動きをしたのか。何故私はこのシーンがこんなに好きなのか。そこを掘り下げると作者に伝えたい大好きなポイントや、それを具体的にどうやって自分が感じ取ったのかの言語化が出来るようになります。
でもめっちゃ練習がいるのと、私は声に出して「何故こうなんだろう」「どうしてこう書いたんだろう」と疑問文口に出してた。あと感想文上手い人の文章めちゃめちゃ読んだ。論文とかも読んだし書いた。そこまでやる必要はないと思うので、そんな手法もあるんだな〜くらいに見といてもらえると良いと思いました。
もらった喜びや感動についてはもう言葉のまま。
あなたのおかげで辛かった日も乗り越えられました。
そういうことを素直にそのまま書く。これが作者にとって嬉しいことなのかは正直わからん。拙者ファンレ書くの大好きオタクなだけでファンレもらうことねーもん。でもファンレを送るのってこれを言うためだよねって気もしている。
あなたのおかげでこんなに私は幸せですって伝えるものがファンレターなんじゃないでしょうか。技術のこととか書くなよ!ってこととかの話もしたけど、これが書いてあればファンレターはそれで良いんじゃないかな。
でも技術が生まれたら人間みんなそれにこぞって群がるという「歴史」があるじゃん?
歴史から学んでできることなんて人間の愚かさを知ることくらいで、人間の愚かさそれ自体は変わりようがない
歴史を単にで「知ってる」だけじゃそこから何か役立つ発想を抽出できないし、ちゃんと自分の身で豊富な経験をしていろんな人のことを知って現実性のある判断ができることが大事だよ
現状に不満を持っていてもそれに逆行して原始共産制に戻ることなんてできないなんてわかりきってるはず
そして学者が啓蒙なんて幾らし続けてもきりがないしほとんどの人間は自分で経験を積んでいって自然と気づくしかない
どんなに崇高な理念に共感できてもニヒリズムへ、快楽主義へ、権威主義へ、商業主義へ簡単に堕落してしまえるのが人間というもの
ちなみに俺はヴィーガンでもなければベジタリアンですらなく、肉は美味いから食うだけの快楽主義者、さらに美味いなら別に犬でも猫でも食うつもりでいるから、お前らよりも過激派肉食主義者だろう
けど、ヴィーガン否定に植物を持ち出すのが、論理的に破綻してるのは分かる
植物も同じ生き物だろとか、植物には植物なりの苦痛があるだろうとか、そんなもん科学者でもきっちり明暗つけて説明出来ていない
けど、お前らが食ってる牛や豚には明確に意識があるし苦痛があるし、そんな事ぐらいは分かってるはずだ
だから、動物虐待が否定されるように、動物にも苦痛があるから大切にすべきだって思って尊重したいなら、本来明らかにそれがある動物からは手を引くべきなんだよ
それが出来ないなら、お前らも俺と同じで動物の苦痛とか関係なく食いたいから食ってるだけ、動物の苦痛を考慮すべきと思ってない快楽主義者なんだ
言ってる意味分かる?
ということに最近気づいた
当たり前やんと思う人もいると思うが聞いてくれ
高校までずっとガリ勉で、心機一転大学では体育会の部活に入ってみたんですが
第一印象はみんな明るいなーと思っていて
その明るさは多分将来の不安とか考えられないし刹那主義で快楽主義なんだろうと思ってたのだが
アイツらの奥底に根付いているのは底なしのネガティブ思考だということに最近気づいた
みんなで居る時は普通に楽しく明るくしているんだが
仲良くなるとびっくりするくらい露骨に将来の不安をこぼしたりするし
ものすごいネガティブな言葉がめちゃくちゃひょいひょい出てくる時がある
本当に、いつものキャラからは考えられんくらい自然にそういう言葉が出てくる
体育会の陽キャと呼ばれる人達は、恐らく元々の性格のルーツは超ネガティブなんですよ
ネガティブな思考にほとんど脳が侵されているからこそ一つきらりと光るポジティブな言葉をすぐ目に入るし覚えておける。
そして逆に、ネット上でネガティブ思考を垂れ流している奴らほど実は根はポジティブなのではないかと思う
かつてポジティブに世界は素晴らしいと信じている人ほどネガティブ思考に陥りやすいし、
その通りだ。苦しめることによってはじめて行使される。服従だけでは十分でない。相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意思に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ。そろそろ分かってきただろう。われわれの作り出そうとしている世界がどのようなものか?それは過去の改革家たちが夢想した愚かしい快楽主義的なユートピアの対極に位置するものだ。恐怖と裏切りと拷問の世界、人を踏みつけにし、人に踏みつけにされる世界、純化が進むにつれて、残酷なことが減るのではなく増えていく世界なのだ。われわれの世界における進歩は苦痛に向かう進歩を意味する。昔の文明は愛と正義を基礎にしていると主張した。われわれの文明の基盤は憎悪にある。われわれの世界には恐怖、怒り、勝利感、自己卑下以外の感情は存在しなくなる。他のものはすべてわれわれが破壊する――何もかも破壊するのだ。革命前からの生き残りと言うべき思考習慣はすでに打ち壊されつつある。これまでわれわれは親子間、個人間、男女間の絆を断ち切ってきた。今では誰も妻や子や友人を信用できなくなっている。しかし将来は、妻や友人といったもの自体が存在しなくなるだろう。子どもたちは生まれたとたんに、めんどりから卵が取り上げられるように、母親から引き離されることになる。性本能は根絶され、生殖行為は配給カードが更新されるのと同じで、年一回行われる形式的な手続きになるだろう。オルガスムも存在させない。すでにわれわれの神経学者はその研究を進めている。党に対する忠誠の他に忠誠はなく、党に対する愛の他に愛はなく、敵を打ちのめしたときの勝ち誇った笑いの他に笑いはなくなるだろう。芸術も文学も科学もなくなる。われわれが万能になったとき、もはや科学は必要ではなくなるのだ。美と醜の区別もなくなるだろう。日日の暮らしの面白さも喜びもなくなる。数々の競い合う快楽も破壊される。だが常に――この点を忘れてはいかんよ、ウィンストン――人を酔わせる権力の快感だけは常に存在する。ますます増大し、ますます鋭くなってね。ぞくぞくする勝利の快感。無力な敵を踏みにじる感興はこれから先ずっと、どんなときにも消えることがない。未来を思い描きたいのなら、人の顔をブーツが踏みつけるところを想像するがいい――永遠にそれが続くのだ
今日、35歳になった。
予定より5年も長生きしている。
27ぐらいになったらニートになって、そのあと創作活動に打ち込み、失敗したらそこで死ぬ予定だった。
27にニートになる所までは予定通りだったが、創作活動は3ヶ月ぐらいで行き詰まって気付いたらずっとゲームをしていた。
どうせならゲームやりまくって死ぬかと思っていたが、更に3ヶ月ぐらいでゲーム三昧にも飽きた。
年齢的にまだまだ準第二新卒ぐらいの立ち位置で就活が出来たので就活をし、結局ニート半年・就活生半年で社会人に戻っていた。
そこからダラダラ生きながらどこかで「でも予定だと死んでたし、また金溜まったらニートに戻って死ぬか」と思って暮らしていた。
そこから7年働いて、まあ2年ぐらいならまたニート出来るぐらいの金は溜まっている。
どうでもいい。
消費活動への熱意もない。
生きるのも死ぬのもどうでもいい。
あれほどあった「とにかく必死に生きていることに意味を見出したい。無理なら死のう」という気持ちは、生きることの苦しみに対価を求めての事だったんだろう。
正直今いる会社もそこまで良いものでもなく、昭和パワハラオヤジに育てられた4年目ぐらいの若造が昭和パワハラの真似事を後輩にしているのを見るたびに「このサル山に付き合っていくのは本当にしんどい」とげんなりしてしまう。
でも死ぬほど辛いわけでもない。
風俗・酒・ラーメン・パチンコぐらいしか楽しみがないと言う昭和オヤジたちの価値観も何となく分かってくる。
ああいった快楽装置(快楽主義に対してのツッコミに出てくる直接ドーパミンをドーパドーパさせる謎のマシーン)じみたものに脳と人生を委ねてしまうのは想像性がない代わりにある種の確実性と楽ちんさがあるんだろうね。
でもそういったものに頼り切ろうと割り切れるほどは人生が終わってないからSEKIROとかやったりして俺はまだ大丈夫だって言い聞かせているが実際には五十歩百歩な自覚はある。
こんな状態でも生きられるし別に社会人やっているのも最近は特に苦痛もない。
仕事で怒られが発生してもどうせお互いに社会人演じてるだけだと分かってきているから「(コイツの演技つまんねーな……和ドラかよ……)」と心の奥で突っ込んでればいいだけだと理解ってしまっているわけで。
あとはクソみたいな人生をダラダラ過ごして40~90のどっかで癌が見つかって死ぬだけだ。
どうせこんな人生を絞り出しても人を魅せるような物語やデザインが垂れてくる見込みはないんだし、本当にもうただただダラダラグダグダすりゃいいだけなんだなあ。
ふぇ~~~~~つまんね~~~~~~~気持ち的にはクッソらくちんだけど~~~~悟り開いちまったか~~~~~。
もう