はてなキーワード: 一般社会とは
○ご飯
朝:なし。昼:ミートソースカルボナーラ。生ハムとルッコラのピザ。サラダ。ヨーグルト。夜:トマト。素麺。ポッキー。
○調子
○浅倉秋成の六人の嘘つきな大学生
就活で選ばれる側の学生が選ぶ側に立つことになった奇異なグループディスカッションで起こった事件を描く第一部と、それから数年後当時を振りかえる第二部からなる青春小説。
パズラーの文脈でミステリ以外のジャンルを描こうとしていて、序盤に登場するフェアという言葉を何度も使うキャラがいることからも、所謂「フェアプレイ」の概念を主に置いている。
しかし、この作品がミステリ一辺倒ではなく青春小説の面も持っているが故に、ここでいう「フェアプレイ」は作者から読者へ向けたミステリ的な意味だけではない。
一般社会における人間関係においてのフェアな精神とはなんなのか? それを問うようなお話だった。
はてなブックマークやTwitterである側面を見て断罪するインターネットのジジババ共へ向けたわかりやすい教科書でもあり、就活という奇祭に向かわなければならない若者へのエールでもあった。
就職活動中のグループディスカッションをクローズドサークルに見立ててフーダニットするという構造自体が入り口百点。
伏線の狙撃手とかいう異名が際立つ、もはや恒例になったラストの方で今までの伏線文章をピックアップしながら真の意味を解説するくだりは、マジでこの変なあだ名が無ければ楽しめる。(伏線の狙撃手て……
テーマであるフェアを巡るやり取りも、就活に苦しめられてきた自分の過去を思い返して感情移入できた。
ただ、こんだけ無茶なシチュエーション自体へのサゲがないことだけは少し不満足かも。
イジメ加害者への復讐のために殺人を決意して部屋に忍びこむもすでに相手は死んでいた。
そんな冒頭から始まる、タイトル通り殺人犯VS殺人鬼のサスペンス。
クローズドサークルなのでフーダニットものかと思いきや、まさかのサプライズ。
叙述トリックの可能性は疑いなら読んでいたものの、まさかこんな方向からのサプライズが来るとは予想外だった。
たまたま同じ日に読んだ上で紹介した浅倉秋成の六人の嘘つきな大学生が、いたって真面目な社会派なホワイダニットを綺麗に描いていたもんだから、尚のことこの作品のホワイダニットには脱帽してしまった。
古い批判を蒸し返すけど「本格ミステリは人を書けていない」と評するのはあまりにも簡単。
それだけに、いやはやまさかの衝撃だった。
キャラが事件にとってのコマでしかないという批判をこれほどまでに朗らかに明るく肯定する作風は、あの当時の妙な熱を思い出させてくれた気もする。
理解のある彼くんと幸せな結婚をし、この度妊娠しました!元気な赤ちゃんを産みたいです♡
~fin~
そうして俺が産まれたってワケ。マジで苦労したから、第二の俺が生まれるのを阻止したい。
健全社会から忌避されるような異性と結婚する奴なんて精神が健全でも容姿が終わってるんだわ。うちの場合は父親がそう。
お陰で目は小さいわ、鼻はとんでもないわ、肌質はニキビ肌だわ……。1パーツが終わってるだけならパパッと整形すりゃいいんだが、骨格レベルになるとウン百万飛ぶんだわ。もう諦めた。
あ、ニキビはスキンケアでなんとかなると思ってないか?遺伝性だとそんなことないぞ。
母親の病状でしばしばメンタルが崩壊するんだが、その看病を誰がするって子供なんだわ。
当時の理解のある彼くんは働けない母親と子を養うべく一馬力でせっせこ働いてるからケア要員は必然的に…ね。
自分の記憶だと6歳ぐらいから“都合の良い子供”としてケアの言葉をかけてたぞ。ちょいちょいぐらいならいいが、受験や部活の大事な時にメンタルぶっ壊されてたから正直たまったもんじゃなかったわ。
明日テストがあるってのに自○しようとするんじゃない、しかも何回目だ?止めはするけどさ。
精神疾患の家族を持つ人間なら一度は聞いたことがあるだろう、“精神疾患は遺伝する”という俗説。
遺伝子云々の要素のみというよりは性格的な遺伝子×病識の有無×非一般的な家庭環境という合わせ技により、一般健全家庭の子供よりも発病しやすいというだけなんだろうが、俺もいつかふとしたきっかけで”そっちサイド”に落ちるかもしれないと思って常にヒヤヒヤしている。
生きづらそうなのは家を出るまでこの目で散々見てきたから正直なりたくねえよ。
とまあこんな具合に一般社会でカースト低下層に陥りやすい人間が量産されるだけだから良心があるなら正直産まないでくれと自分は思ってる。
あと、慣れない子育てで発狂しても誰も責任は取ってくれず、実家からは送り返されるし、理解のある彼くんはただのモラハラ野郎に成り下がる可能性だってあるんだからな。(そんで病状が悪化する)
金の力で解決できる自信があるやつならまだ救いはあるかもしれんが……。
この文章は、セクハラ行為を批判し、根絶するために記しています。2022/05/30表現を一部修正しました。
昨今の日本の実写映画業界では、監督・プロデューサー・男優たちによる性的加害行為・物理的暴力行為・ハラスメント等が露見・報道されることが続いていますが、そんな中で新たな動きがありました。映画評論家である町山智浩が、自身の行なった『とされる』セクハラ行為について、Twitter上で『反省』または『謝罪』らしきものを表明したのです。
態々『とされる』・『反省』・『謝罪』と二重カギ括弧で囲んで書いたのには、もちろん理由が有ります。町山智浩は、件のセクハラ行為について「話を盛っていた。現実で行為に及んだわけではない」と釈明しているからです。
仮に百歩ゆずって「現実に行なった行為ではない」という釈明内容が本当であったとしても、町山智浩が後輩男性の元・配偶者(現在は既に離婚成立済み)の肉体的な特徴を公然とあげつらったこと、しかも、自分(町山智浩)は彼女の身体を触った経験があるという内容を、笑いながら面白おかしく語ったことは事実です。そして、その町山智浩の語った行為そのものが、紛れもなくセクハラ行為です。
一般企業・地方自治体・教育機関などの職場においてセクハラ防止・根絶の研修を受けた経験が有る人ならば、私の言うことを容易に理解できるでしょう。あなたの会社で上司が「経理の○○君の奥さんがいい身体をしていて、○○君が触っていい』と言うから、オレは触らせてもらった」などと笑いながら話している場面を想像してみて下さい。如何に気持ち悪いか実感できるでしょう。こんな言動は、言っている内容が想像上のことであったとしても、セクハラ行為以外の何ものでもありません。後輩の配偶者に対して性的欲望を向けていることを、堂々と公言する気持ち悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
ちなみに言っておきますが、問題の町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューが行われたのは、2011年のことです。昭和の話、20世紀の話ではありません。町山智浩のインタビューと同じ頃には既に「セクハラ行為は良くないことだ。止めるべき」という研修を受けていたという人も少なくなかったでしょう(私個人の体験で言えば、そのような研修を受けていました)。
セクハラ自慢話についての町山智浩の言い訳を読んだ時、私は「小山田圭吾が『雑誌QuickJapan上でイジメについて面白おかしく語ったのは、盛っていた。あれは事実ではない』と言い訳したのと瓜二つだな」と強く思いました。小山田圭吾と彼のファンや関係者も、東京五輪という機会によって国際社会にイジメ自慢話が知れ渡り、サブカル系業界人という威光が通用しない場で批判に曝されて初めて、謝罪を述べたのです。
町山智浩も同じです。木下ほうか、榊英雄、園子温etc.のニュースの影響で、マニアックな映画ファン・信者ではない人々も、日本の実写映画業界のスキャンダル関連情報に注目するようになり、このため町山智浩のセクハラ自慢話のインタビューも多くの一般人が知るところとなりました。そういった一般人にはサブカル系業界人としての威光も通用しないので、町山智浩は仕方なく形式的に『反省』や『謝罪』を述べたのに過ぎません。『映画秘宝』の読者やサブカルウォッチャー等にしか情報を知られていなかった状態が続いていたとしたら、これまでと同様に批判の声など無視していたであろうことは想像に難くありません。
支持者集団の内部にいる時には、自分が他人にした悪い行いを鼻高々に自慢していたのが、集団外部の一般社会にまで知れ渡ると、急に自慢を止めて「語ったことは事実ではない。誤解を招いた」と釈明して取り繕おうとする行動様式は、自民党や維新の会などの政治家たちの専売特許かと思っていましたが、町山智浩らサブカル系業界人たちも見倣っているようですね。
それにしても、町山智浩のTwitter上で述べた『反省と謝罪』を読んで、ほとほと呆れたのは「『後輩男性』たちには謝罪しました」と書いていたことです。謝罪ならば、町山智浩が「性的欲望を向けた相手」である「セクハラの被害者となった女性」が先に来るべきでしょう。この期に及んでも町山智浩は、ホモソーシャル的で男尊女卑的なサブカル系ムラ社会の序列を優先して、セクハラ行為の被害者を軽視するつもりなのでしょうか。救いようのない愚かさです。
なお、園子温のスキャンダルが表面化した途端に町山智浩は「自分(町山智浩)は、2006年以降、園子温とは会っていない」と、2006年以降も交流が有ったのにも関わらず、いけしゃあしゃあと嘘をつきました。そんな嘘つきの町山智浩が「セクハラ行為は実行していません」と言い訳したとしても、どれほどの人が信用するでしょうか。
たぶん、次に町山智浩は「自分が批判されるのは当然だが、話を持ち出されると被害者が傷つくので、これ以上、同じ話を持ち出すのは止めろ」と、加害者であるにも関わらず「自分(町山智浩)は被害者の心情に寄り添っている」とアピールする作戦をとるのではないでしょうか。
今回は以上です。2022/05/30表現を一部修正しました。
町山智浩の虚言インタビュー及びそれに基づいて誤った人物評価を記した箇所を含む、既に問題が有ると判明している記事については、はてな社に削除依頼を申請していましたが、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をはてな社からいただきました。はてな社にもご迷惑をお掛けして、誠に申し訳ありませんでした。
憲法的にはプライバシー権、思想の自由を侵害しており不法に当たるので損害賠償を請求できるはず。
請求額は睡眠妨害が拷問に当たるとの判断があるので、このような症状が証明できれば決して安いとは言えない。
さらに、思考盗聴送信が人体に与える不快感およびそれに伴う一般国民の危機意識から非常に特別な裁判となり重い罪にならざるを得ない。
思考盗聴自体を対象とした刑罰条文はない、特別法には似たような物もあるが思考盗聴を仮定していないので実務家・学者レベルで刑罰条文に該当するか議論になりそう。
犯罪後に刑罰条文ができても処罰することはできない(遡及効の禁止)が韓国など民主主義の発展が遅れている国はこの遡及効という国際的原則を無視する事もある。
今すぐにできる対策はない。
現状で最良なのは、被害者で大規模な集団を構成し、政治や司法への圧力を与え、被害の実態とその危険性をマスコミなどを通じて一般社会に認知させ、
被害者への支援体制の確保、処罰法の制定、正確な関連知識・技術の収集、政治的権力・経済的権力の取得等を目指し、行動するのが最善。
なぜそうなるか、順を追って説明する。
これは誰もが想像つくだろう。今回なぜか厚労省から通達が出たが、そのうち他の省庁も同調してくるようになり、最終的に総務省も同調する。
「ガイドライン」なのに法律と同等の扱いをするのはどうなのかという声も一部で出るが、黙殺されるだろう。
病死の場合や事故死の場合は大々的に、詳細に報じされるが、自殺の場合は小さく「○○日に亡くなった」とだけ報道されるようになる。死因についても伏せられる。病死や事故死の場合は追悼番組も出てくるが、自殺の場合はそれすらも無くなる。ここまではガイドラインの狙った通りになるだろう。
ここからは想定外になると思われる事象。死因が伏せられた著名人に対して、「真実を追及する」という題目で死因を追いかけるメディアが出てくる。メジャー放送局や大手新聞社はそういうことをやるわけにはいかないので、バイラルメディアやタブロイド紙の出番になる。Youtuberもそれに乗っかってくる。
その結果、そっとしておいて欲しい遺族がどこの馬の骨と分からない連中から追いかけられるようになる。今はメジャー放送局や大手新聞社の記者という「どこの馬の骨なのか一応わかる連中」に追いかけられている分だけまだマシなのだが(抗議を受け付けてくれる場所があると言う意味で)、その要素すら消えてしまう。
STEP3の結果もたらされる事象としては、「そもそも亡くなったこと」が伏せられるということが考えられる。出演中の番組や舞台がある場合はその人が突然消えることになるので、表向きは「体調不良で当面休養のため降板」というプレスリリースが行われるだろうが、本人が死んでいるのでいろいろ不自然なものとなる。そしてSTEP3と同様バイラルメディアなどに追いかけられ、実は自殺していた・・・という報道が相次ぐようになる。
そしてこういう事象に繋がる。もはや本末転倒である。芸能界でNGワード化したのだから一般社会でもNGワード化してしまい、「休養」「休暇」などの言葉がつかえなくなってしまう。
そして、このような本末転倒なことが起きている根本原因は何だと言う声が日本全国から上がるようになり、元をたどれば自殺報道ガイドラインのせいということに(当然だが)なり、このガイドラインが撤廃される。
暗器使いさんに関しては、
性暴力を受けた男性被害者たちの苦悩「なかなか一般社会では認知されない」 - ライブドアニュース
https://news.livedoor.com/article/detail/13970596/
とか
プロ小説家「今度いじめをテーマにした小説を出版します。ストーリーもキャラも私のオリジナルですが、貴方の話をモデルに書いたので、原稿を読んで了承を頂きたい」 - Togetter
https://togetter.com/li/865648
などを読むと、今回のことについてもどこか同情してしまうんだよな。
一方、とうふさんも、つらい境遇に置かれているし。
今回の件は、(お二人には申し訳ないレッテル貼りだが)弱者と弱者が行き違っただけであり、周囲がああだこうだ言うのは、二人をいじめていたやつらと同類なのかな、と。
「発言や差別意識は現実に人を傷つけ殺すことだってある」という観点がすっぽり抜け落ちてる。反社会的な行為がフィクションにとどまって他へ害を吐き散らさない段階なら目こぼしもされているだろうが、現実へ影響を及ぼし始めたらそんな猶予は一発で吹っ飛ぶ。ヤク決めて飛ぼうぜって歌うロッカーは顰蹙を買う程度で済んだとしても、彼が実際に麻薬をファンに売りさばいたら当然逮捕されるし、なんなら界隈のアーティスト全員に疑いの目が向けられる。快楽殺人者を描いた映画がもてはやされても見ない人は見ないで終わりかもしれないが、模倣犯が一人出ればそのジャンルの映画見に行く人はみんなそういう目線で見られるのを覚悟することになるしだいいちスポンサーがもう金を出さなくなる。別にそれらは「社会的に許容されてる」ってわけじゃない。実害がないならほっとく、実害があるなら取り締まる。そんな程度のさじ加減で、単にスルーされてるってことだよ。そして、「誰もが見られる動画サイトで、他者を傷つけるのでよくないとされる言動を広めてる」のは、すでに社会における明白な加害行為であり、ストップがかかるのは当たり前のことだ。
つまりこれは、”自分らが社会的弱者であることに安住して一般社会ではとうてい許容されない行為を面白がっていたら、その結果コミュニティ全体が危機に晒され、本来無害であったものまで延焼する”…という、例のあのよくある歴史が、いまゲームコミュニティに訪れてるってことなんだよ。そういう状況で「あれぐらい許せ」なんて発言が界隈から出たら、それがどういう結果をもたらすか想像できないか? 「なるほど、あれぐらい許さなくちゃな」ってなると思う? 反対だよ。ホント馬鹿だな。
ちなみに猥褻な文書・図画・電磁的記録に係る記録媒体は刑法175条で頒布や陳列を禁じられてるわけですが、ここでいう猥褻とは
いたずらに性欲を興奮又は刺激させ、かつ、普通人の正常な性的な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの(最判昭26・5・10)
一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」(略)かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである(最大判昭32・3・13)
ですよ。
既に法に書かれた内容ですら、突き詰めれば何かを言っているようで何も言っていないに等しい、結局裁判官がそう思えばそうなんだぞってだけのラインなのに「規制に然るべき理由とそのライン」を一体誰が明確に引けるというのだろうか
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と近かったり同一人物だったりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分は世界中で力があり、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性十分の時は応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
これって別に男女の話じゃなくて、権力者からやりたくないことを強要されるとなかなか断れませんよって話であって、一般社会ではかなり淘汰された権力者によるハラスメントが芸能業界ではまだ全然生きてるって問題なのに、男女論として捉えるのはよくないよ。男性性被害者に対する風当たりの強さって完全にそれに起因してるよね。
結局、男から女への被害ばかりが取り沙汰されるのは、現時点で男のほうが女より権力を持ってるパターンが多いからでしょ。権力は人を腐らせがちだから、社会的に強い立場の女が増えたら女だって同じようなことやると思う、というか、現在進行形でやってる女や被害にあってる男も絶対いるのに、あまり告発する事例が出てこないのは、世間に増田みたいな思い込みがあるからだと思うんだけど。
3年前くらいから在宅勤務のお供にVtuber見るようになった。
事務所としての印象なのでタレントそれぞれは違うとかいうのは大いにあると思うし、所詮私の感想です。
VTuber界隈のお作法?のようなRPだの魂だの数字だのに言及するのは忌避感ある人いるだろうけど、そこ含めて楽しむ系なのでご容赦。
・少数精鋭。登録者/同接/スパチャ額が全体として抜けてる感。
・Vtuberで(事務所として)儲かる手法をしているんだろうなと思う。
・タレントのどうのこうのより一部ファンのスパチャやらコメントが目立つ。
・スパチャ額がすごい。ただ少額を多くの人からというよりコアなファン層が一人で2桁3桁万というような構成でドルオタがこっちに来たのかなという印象がある。
・アイドル売りに対して処女信仰の人たちが集まり、それらが組み合わさった結果として男性と関わらないムーブしてるタレントが多くて大変そう。
・中の人たちもゲーマーというよりニコ生/ニコ動/ツイキャス/声優/アイドルとかみたいだから、横のつながりが女性同士のいざこざ多そうで大変そうだなーと。(結局自分がスポットライト浴びたい人多そう)
・ぺこーらがぺこーら構文をもって外部コラボしまくっていったらストリーマー界隈全て持っていきそう。
・活動内容もアイドル売りしてる人もいれば、ゲーマーもいれば、おじさんもいる。
・すげー配信時間の人もいれば数年間活動してない人もいるし、どっちもそういうもんだよなってファンの中でも受け入れられてる感。
・にじさんじを体現してるのが委員長というのはとても理解できる。
・個人個人で目立つタレントはいるけど、774=ねるちゃんってなる。ASMR聞く人は別の印象だろうけど。
・FPSゲーマーの女性の集まり。運営会社がPUBGの大会(スクリム)の運営とかしてるから、そっち方面からスカウトしたんだろうな。
・ネットでファンがつくような経験者がVtuberになったというより、ゲームが上手い女性がVtuberになった感。オタクに理解のあるゲーマー女子。
・普通に揉めたエピソードの経緯や仲直りしたこととか笑いながら話してて仲良さそう。一方で本気のいざこざ起きたらスパッといきそう。
・結局なずちゃんがいるからまとまってるんだろうなみたいな印象。なずNEWS待ってます。
・対談コラボ面白いけど、テンプレ感があって犬山たまきの視聴者に対してコラボ相手のことを紹介している感。もっと台本抜きでやってほしいな。
・前はやばかった
色んな理由で卒業なり契約解除なりあったりするけど、一般社会だと仕事辞める人が一定数いるからVTuberだから目立つだけなんだろうなと思いつつ、そのあともネットで活動して動向がわかるのがもうネットで生きていくんだなって感じでおもろい。