社会に普及して、多くの人がその消費を習慣にしているようなもの、特に依存性の高いもの。そういうのを突然全面禁止にすると製造・販売・使用は地下に潜るだけ。製造・販売は反社会組織の資金源になるからよろしくない。
教育や負のブランディングで徐々に使用者を減らしていくのが上手い方法なのだろう。タバコに関しては結構効果が出てきていると思う。
じゃあ麻薬中毒者の国に行けばいいじゃん
先輩が死んだらしい。
らしい、というのは人伝てで聞いた話だから。けれどその人が誤った情報を出すとは思えなかった。
学校の内部の人からの情報だったから誤った情報を流すとは考えにくいので、確実なのだろう。
まず先輩について話をしよう。高校が同じの1つ上の先輩だ。性別は男で、とても家庭に恵まれているんだという印象があった。
先輩と私は高校が同じだけの、ほとんど交友のない知人程度の関係だった。他の人と印象が違う点がいくつかあるくらい。
その一つとして、高校の入学式で在校生代表を務めていたことがある。とてもかっこよかった。何より、黒髪の眼鏡で誠実そうな雰囲気で、率直に言ってしまえば顔がドタイプだった。結局、先輩はそれからちゃらちゃらした人とつるむようになって、髪を染めたことで失恋のような結果で終わった。
また、私と大学の進学先が被ったのだ。さすがに学科は被らなかったのだが、我が母校で進学したのは私と先輩の2人のみらしいので親近感に似た感情を抱いたし、少なからず話せるかなと期待していた。校内で同じボランティアに参加していたので、シフトが被ったら話してみよう、なんて考えていた矢先の出来事だった。
信じられなかった。たぶん19か、20だったんだと思う。誕生日も知らなかったからわからないけど。
学内アルバイトの当日に病気で、と聞いた。そのアルバイトには私も参加していた。寝坊した日だ。
入学したての時食堂で見かけたことがある。なんでその時に話しかけることができなかったのだろう。そういえば一度半径30m以内まで近付いたことがある。なんでその時に話しかけることができなかったのだろう――と悔やみ続ける。
しかし、結局私と先輩は知人程度の関係だったのだ。そう、私は知人の死にずっと胸を痛めている。
身近な人の死を体験したことがなかったからなのかもしれない。耐性がなかったからなのか、好きだった人の死だったからなのか、それはわからないけれどそのおかげですごく苦しい思いをしている。
そして私は、知人の死をきっかけに私は彼より頑張ろうだとか、ちゃんと生きようだとか、最低なことに「これを誰かに話したらどんな顔をするのだろう」なんて考えてしまったことすらあったことも悔い続ける。現在進行形で、そうだ。
そのたびに「死にたい」と、呟く。そして「彼が生きたかった人生を無駄にするのか」と考え、また死にたくなる。本当に、糞みたいな人生だ。
なぜ先輩のことをこんなに考えているのかわからない。だって、もう関心なんてなかったから。もしかしたらなかった、は嘘かも知れないけど知人以上の感情を抱くことはなかったのだ。
それなのに、先輩に話したかったことが溢れるのはなぜだろう。先輩に、なんでいるのって笑われたりしたかった、なんて思うのはなぜだろう。
もっと、話したいことがあったのになんで死んじゃったんだろう。
今日、高校の友達と会った。久しぶりに昔話に花が咲いて、すごく楽しかったのだけど、先輩のことを話に出された。
「Twitterでも見ないけど元気?」
全然元気じゃないけど言える雰囲気じゃない。死にたい。上手くはぐらかせたかな、ごまかせたかな。
あと、それでSNSを探したりエゴサしたりしてるのも屑の極みだ。本当に、先輩が生きればよかったのに。
そしてそういう嘘をついたことにすら、悲しみを覚える。死にたい。
結局、4年間も無責任な感情を先輩に押し付けている。半分あこがれだった、つくりものの恋も先輩の髪色のせいにした。そして勇気を出せず話しかけられなかったことを先輩が死んだせいにして、勝手に悲しんでいるのだ。
自惚れにもほどがある。私がしているのは、感情の押し付けで彼にとっては迷惑以外の何物でもない。もちろん、彼の親族にもだ。
それがわかっているのになお、こんな感情は胸の内から生まれてきて、その度に死にたくなるのだ。こんな汚い人間ならばいっそ私の方が先に死ねばよかったのに、なんて思う。それも失礼なのに。そして、その汚れを見ることすら失礼なのに。
こんな形で文字にするのも間違っているけど、こんな形でしかこの気持ちを解消できないのだ。こんな痛みを解消しようとするのも間違っているのかもしれない。そしてきっと私は明日もこう言うのだろう。
「先輩、なんで死んじゃったんですか。」と。
1歳になってからなんとなく意思疎通ができるようになってきて、まだ言葉は話せないけれど行動も面白くて見ていて飽きない。
0歳代の時はギャン泣きしても対処法がよくわからず無理やりおっぱいで黙らせたりしていて、四六時中一緒にいることに少しうんざりしていた気もする。
たまに息子を夫に預けて、一人で出かけると解放された気になって楽しかった。
久しぶりの一人行動で少しは楽しめるかと思ったらそうでもない。
ずっと寂しかった。一人で電車に乗っても、電車を見てキャッキャと喜ぶ息子はとなりにいないのだ。
息子の様子が気になって、用事が終わったら寄り道もせず家に帰ってしまった。
家に帰ると息子が満面の笑みで出迎えてくれ、心底幸せな気持ちになった。
基本ワンオペ育児なので大変、辛いといったことを思いがちだったので、いざ息子がいないとこんなに恋しくなるなんて思わなかったな。
AdobeとOfficeが安くなったからサブスクリプションすごい!となっているけど、Mathematicaや流体シミュレーション、光学シミュレーションなどのソフトは高いまま。
研究室で使っていなければ知る機会もないし。
えっ、醤油入れスペースついた蓋あるよね?
わざわざ「醤油入れにどうぞ」みたいな事書いてるパック寿司もあるのにものぐさ扱いになるのか。
あとプラスチック皿のほうに醤油入れるスペースあるパック寿司も見たことあるよ。
許せない派の人って自宅じゃないところで食べる時どうしてるんだろう。
称賛に支えられてない人は弱いよね、辛い
浦赤🙄 (@N0_3so_yuruyuru)さんをチェックしよう https://twitter.com/N0_3so_yuruyuru?s=09
こっちの方が親切なのでは
西欧的ではあるけどな。最上段に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」があり、中長期的な政策の合理性があり、最後に短期的経済合理性があり、資源分配は短期ほど多く、権限は長期ほど強い、という階層構造的な考え方が背景にあるから。
日本ではどうしてもこういった長期的な合理性と短期的な合理性は完全に一致せずしかも優越関係がある、階層構造があるという考え方は受け入れられにくいな。すべてが同じ階層、同じスコープの中で大小関係による闘争があるとした方がウケがいい。キリスト教の布教が全く響かないというのもこの辺りだろうから、受け入れられるようにしてしまっては沽券に関わるのかもしれないが。
先日、一番上の姉が切迫流産をした。
母親に、「お姉ちゃん、妊娠したって」と告げられた日の、翌日の事だった。
姉は四月に結婚して、私は結婚式に参加した。幸せそうに笑う姉に、この先不幸が待っているとは、何だかとてもじゃないが考えられなかった。
私にはもう一人姉がいる。その姉も結婚していて、「子供が欲しい」と常に言っていた。しかし、彼女は中々妊娠できず、一か月前とうとう犬を飼い始めた。母と私は「子供を諦めたのと違うか」と二人して言い合った。
身内の妊娠とだけ聞いて、そんな根拠はどこにも無いのに、私は『何も起こらず、どこまで行っても平穏で、心配事のひとつもない』、そんな当たり前の妊娠を勝手に想像してしまっていた。そんな事はある筈なにのに、ニュースでは出産のトラブルを報道している日も多いのに、何故か「身内」というだけで何も起こらないと錯覚してしまう。
何事も無かったかのように笑う姉が、酷く痛々しい。