はてなキーワード: 劇場版とは
童夢もそうだけど、神作画がなければ、何も成り立たないんじゃないかと思う
酷い絵でもデスノートならストーリーと、その恐怖みたいなものはまだ伝わると思うんだけど、
大友のあの手の漫画って、正直、なんか中身が感じられないんだよね、空洞
あー、まあ、そんなこといったらエヴァもそうだし、ツインピークスもそうだし、
謎があるように見せてるだけで、本当は謎なんてない、伏線の回収もしないし、論理的な考察も成り立たない、
世の中に、エヴァの考察本が出たのを、庵野氏はアホだなぁみたいに思ってたようなこと言ってたし、
中身はない、重要ではないのかもしれない、それを覆すというか、逆手に取るぐらいの神作画とか、演出があって、
これは凄い伏線だ!と視聴者に思わせておきながら、それをまったく回収しないまま、
自己啓発セミナーオチに持って行った旧エヴァが、正直自分は好きだし、
アラフィフになてってしまった今にならなおさら、庵野氏が現実に帰れみたいな嫌がらせの実写映像混ぜたのも分かる気がしてる
自分はそんなにエヴァに夢中になった方ではないと思うけど、大学にはたしかに夢中になってる奴らがいっぱいいた気がする
作品を鑑賞しながら、あ!あれは~のパロディだ!オマージュだ!と語り合って悦に入るみたいな、そういうもんでしょ?
エヴァだって、あー、ブルークリスマスだね、岡本喜八だね、とか言いながら見るものであって、どうせ謎なんてない、
下手したら最後に宇宙戦艦ヤマトが登場して、超強引な解決をして大団円とか、そういう人たちでしょ、あの人たちは…😟
そんな風に斜に構えてリアルタイム視聴していたら、まさかの自己啓発セミナーで下宿でつい大爆笑してしまって、
ただ、世の中的にはエヴァは一般人にもブームになってきていて、多分、そういう人たちなんだろう、があのラストに怒ったらしくて、
怒ったからなのか、最初からの計画なんだろうけど、旧劇場版ができて、現実に帰れ!って、そりゃそうだろ!って思った側だけど、
でも、アラフィフになっても夢みたいなこと考えてたりする自分も同様だったんだな、現実に帰らなきゃな、って思いました
あれ?何の話してたんだっけ…😟
もう一つの可能性に対しての解釈多様性みたいなのが薄いんですよね。
漫画の世界においては「あの1枚の漫画によって世界は分岐した」というのが本当に確かな説得力っていうか、マジでそれぐらいの力があったんだと信じさせる何かがあったんだけど、映画だといまいち伝わってこない。
そもそもあの漫画はどこから来たのかについての解釈の余地というか、「インターステラー的な何かが起きた可能性」というのを感じさせるだけのパワーみたいなのがイマイチ薄いんだよね。
あの状況における作品世界自体で起きていることは「もう一つの世界が存在した可能性についての想像」なのは事実なんだろうけど、それが観客席からだと「本当にあったかもしれないもう一つの世界」として等価の存在として映る所がルックバックの醸し出す凄みの秘密だと思うんだよね。
「どこまでも都合が良いような世界、でもそれがもしかしたら本当にありえたのかも知れない」って事がより強い悲しみを生むけど、同時にそれが「いま自分たちが生きている世界はこっちなんだから前を向かなければ」という気持ちのトリガーになるっていうか。
元ネタであるワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドなんてまさにそういう映画だったと思うわけよね。
なんつうか「こういう空想の中で自分たちを慰めることも出来る。創作活動を続けるってのはそういうことなんだ。創作活動最高と言え」みたいなパワーがあるわけですよ。
そこがイマイチ足りてないっつうかさ、もっと深く踏み込めば、あの事件に対してどう向き合うかって話だった訳じゃないですか。
まあ映画版はそのへんについて「パクりやがってよぉ!」の言葉を入れてくれているので敬意は凄い感じるわけなんですけど。
それでもやっぱ足りないっていうか、根本的な構造としての「漫画の世界における漫画の力」と「映画の世界における漫画の力」だとやっぱエネルギー量に致命的なまでの差があるなと。
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドという映画が「映画の中で映されたハリウッドという土地の持つエネルギー」によってあの荒唐無稽さすらある並行世界を描いたことの再現は出来てないなと。
こんだけ頑張ってもらえるんだからタツキ先生も喜んでますよって感じましたよ。
でもやっぱちょっとだけ足りないんですよね。
観客の頭の中で「並行世界への扉」を開くだけのパワーが足りてなかった感じなんすよ。
なんつうんですかね、繰り返しになるんですけどワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドという映画の中においては、あの映画の中で起きたことこそが事実だったわけじゃないですか。
「俺達の住んでいる地球の事実」と「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドの事実」はそれぞれ存在できていて、どっちが上か下かっていうのとは違ったと思うんですよ。
その等価性があったからこそ、「でも俺達の地球で起きている事実が俺達の生きる現実でしか無いんだよね」という読後感みたいのに繋がるっていうか。
ルックバックという作品のキモってどうしようもなくそのワンポイントに集約されていると思うんですよね。
筆下ろししてあげよっか?
と持ちかけて
「おかしい あの年代でセックスに興味がないはずないんだけど」
と訝しむんですよね。
ディスコミュニケーションがテーマのひとつでもあるんでそういう展開になるんですが。
ただそういうところから考えると
性加害的な側面はあるという見方も
ただ言えるのは、昔の作品を
評価するというのは
今を評価するのと
同じ行為なんだと思うんですよね。
わかりやすくいうと
みたいな
種類としては同じだと言えます。
あと蛇足ですが文学作品とかで、現代では相応しくない語句が使われているが
原文のまま表記する
ということが慣用的に行われているのは
そういうことですよね。
なんでかっていったら
「今」
というのは常に変化するもので
まず音量がおかしい、くっそ小さい
劇場版作品をビデオ化した時にこうなってる作品は過去に何個かあったけど令和の時代ですらこういうのが見逃されてるって正直どうなのか
で、内容はそもそも読み切り漫画の劇場版って事で尺も1時間ぐらいしかない上に
漫画家を目指した女とその相棒との馴れ初めと別れぐらいしか内容が無いから次の展開が予想可能だし
どうしても感動させたいのか過剰なぐらいBGMが鳴り響くシーンが多くて正直アレだったけど
絵はちゃんと綺麗だし全くつまらんという事も無く普通な感じだった
あそこまで世間で持ち上げられていた様に思えた作品の映像化にしては
そのときに比べたらはてなもだいぶ変わった、と思うが思い出語りはまた別の機会にしようかね。
今日は誕生日だから、まいばすけっとで気になっていた惣菜をたくさん買ってみた。
いつもは納豆かキムチ、もしくは冷凍うどんで済ませる俺にとっては、このうえない贅沢だ。
それを飲みながら、今を書いている。
そうだな、10年か。
10年前は日本オワタといいつつドル円90円だかそこそこで、不景気とかいいつつも輸入は安定していたよな。
トマト缶は88円だったし、サバ缶も88円。ツナも100円だったか。家計応援でそのあたりのレシピが良く出ていたのを記憶している。
鮭もサンマも安かったな。お察しのとおり、増田は魚介類が好きな人間なので、最近の値上がりのあおりをモロに受けている
最近は、そうだな、
街のラーメン屋のラーメンを食べるとスープが塩っぱくて辛くなってきた
休みの日は趣味の研究(自由研究みたいなもので立派なものじゃない)でセコセコ時間を潰しているが、
平日はほぼ、起きて、仕事して、酒を飲んで、寝ての繰り返し。
まどマギが続いているのは生きる活力だ。
劇場版を楽しみにしている。
まだ創作を楽しむ心があることにほっとする
こうして穏やかに暮らして、穏やかに死ねたらいいと、最近はよく思う
それが一番の贅沢なことは知っているが、本当にそう思うよ。
この年になると、ちょいちょい友人が他界する。
ある友人はアフリカで仕事中に倒木に巻き込まれて死んでしまった。
他の友人は、働きすぎて心筋梗塞で、20代であの世にいっていまった。
高校のクラスメートで一番明るく振る舞っていたアイツは自ら高いところから飛び降りた。
結婚したんだと笑っていたアイツは、膵臓がんが見つかってからあっという間だった。
あー、俺は今年も生きちまったよ。
俺史上なら
アイドル防衛隊ハミングバード 始めてイベントに行った
魔法のスターマジカルエミ 自分でできるようになった方が楽しいと気づき魔法を手放すエンド
劇場版機動警察パトレイバー 暴走シミュレーションのシーンカッコいい
デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム オメガモン誕生シーンは泣ける
Goプリンセスプリキュア 作画ってのの面白さを知る
ファイブスター物語 声優を追うきっかけ 川村万梨阿「エアドーリーが見えます」→「わかりました」の差がすごい
宇宙よりも遠い場所 泣ける
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選 https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
上記に触発されて書く。
膨大な量があり、どれがどれに影響を与えたかも把握が難しいので色々補足反論、コメントしてくれると嬉しい。
2002年に九里史生(川原礫)氏により、氏のホームページ「Word Gear」にて発表された。2009年に電撃文庫から書籍化。
先行の類似設定の作品にウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』、岡嶋二人『クラインの壺』、高畑恭一郎『クリス・クロス』がある。
また映画では『マトリックス』、同時期にゲームでは『.hack』などが発表されたが、
いわゆるVRMMOというジャンルがWeb小説界で隆盛したのは間違いなくこの作品の影響が大きい。
2013年発表。以降の悪役令嬢(転生)ものに多大な影響を及ぼした。
恐ろしい更新速度と内容の面白さで「小説家になろう」のランキングを駆け上がった。
そして突然の更新停止で読者を地獄に叩き落した。今も叩き落とし続けている。
当時は男性向けが幅を利かせていた「小説家になろう」の中で、女性向けが人気を獲れることを証明した作品でもある。
少し脱線した語りになるのだが、Web小説は既存の小説媒体と比べて「文字数制限がない」のが大きな特徴だと思う。
SF小説家フィリップ・K・ディックが「短編、中編、長編といったメディアの制約がそのまま物語の制約となってしまっている」というようなことを書いていたと記憶している。
Web小説にはそれがない。なので、キリのいいところで盛り上げたり終えたりする必要がない。
この謙虚・堅実はそのWeb小説の特徴をいかんなく発揮した物語だと感じた。
2005年に魔法のiランドで発表。以降書籍化、漫画化、映画化、ドラマ化と立て続けにされ大きなムーブメントを起こした。
その口語的な等身大の文体には賛否両論があったが、多くの当時の若者の心をつかんだ。
(それにしても、あの頃僕らは魔法のiランドでクソみたいなホームページをたくさん作っていた)
劇場版エヴァ(EoE)の衝撃的な終わりにおかしくなった若者たちは、その情熱を二次創作に注ぎ、いくつもの名作・怪作を生んだ──
エヴァFF(ファンフィクション)の代表として2nd Ringをチョイスさせていただいた。
LAS(ラブラブ・アスカ・シンジ)かLRS(ラブラブ・レイ・シンジ)かでいうと、LRSの王道逆行モノである。
特に転生・逆行・ヘイト(ザマァ)・最強もの的な要素は二次創作からの流れが大きいことが指摘される。
ただ二次創作は広く、深い。To Heart、TYPE-MOON作品などエヴァ以外に盛り上がった作品は多いし、夢小説やBL二次小説までいったらもうお手上げである。
2chのSSが書籍化、漫画化、アニメ化するなんて信じられない。
でもまおゆうはそれをやった。
SSとはショートストーリーの略で、2chにおいてはニュー速VIPなどの板で盛んに制作された物語の形式である。
キャラ「〇〇〇」
当時は2chまとめサイトが多くあり、まおゆうもまとめサイトに乗り人気を博した。
後にゴブリンスレイヤーなどのAA(アスキーアート=文字で絵を表現する形式)スレの書籍化にもつながる影響を残した。
電車男などを入れるかも迷ったが、小説ではないのでランクインしませんでした。
元々のデザインはシンプルでカッコよくて、「かわいくて強い」って感じがしっかり出てたのに、最近のリメイクって、どうにもやり過ぎ感が否めないんだよなぁ
なんであんなに胸とかお尻が強調されてるんだろうね
原作のハニーはスタイルが良いけど、そんなに無理してボリュームを強調する必要はなかったはず
なんか無駄に肉感的で、そのせいで逆にダサく見えちゃうっていうか
元のシンプルなスタイルの方が全然良かったのに、今のデザインはどこか「古臭いセクシーさ」に感じてしまうんだよな
確かにプラモデル化とかを意識してるのかもしれないけど、それがむしろ野暮ったく見えるっていうか、なんか「どこ目指してるんだ…」って思っちゃう
無理にクールさを出そうとして、逆に原作の良さを殺しちゃってる感じがするんだよなぁ
なんなら、一昔前のパチンコのキューティーハニーとかも、謎のヘアバンドとか無駄に露出を増やしたデザインで、あれも結局「こんなにダサくするなら、元のままでよくない?」って思ったよ
劇場版もそうだけど、舞台版のデザインには思わず「えっ…」ってなったわ
昭和末期か平成初期のファンタジー風っていうか、やたらとゴテゴテした肩当てと肘当てとか、謎の金色ヘアバンドとか、胸の謎ハートとか、もう本当にどこかチグハグな感じ
色選びとか素材感も安っぽくて、正直きついものがあるよね
元のハニーのデザインがシンプルで洗練されてたからこそ、今のデザインを見ると「なんでこんなにゴテゴテしちゃったんだろう…」って思うよ
高峰ナダレさんのキューティーハニーリメイクイラストが公開されたが、くっそでかい尻とでかい胸、太い太腿、すごいハイレグ、多分プラモ化前提のロボロボしい衣装と、謎のヒモが太ももにむっちり食い込むデザイン、肌色面積がぐっと上がって正直原作と比べて肉感がブヨブヨでクソダサい。
元のデザインどんなだったかなと画像検索すると様々なリメイクが出てきたがどれもくっそダサい。
元のデザインはいいのに何でここまでダサくなるのだろう。不思議すぎる。
CRキューティーハニー、一昔前アニメのメカ風衣装と露出と謎のヘアバンド、クールにしようとする意気込みは感じるが、ここまでダサくするなら元のデザインのままで良くない?おっさん客もそのほうが喜ぶよ多分。
舞台キューティーハニー、ダサすぎてヒュッてなった。何その昭和末期か平成初期ファンタジー風の2枚肩当てと肘当て、謎の金色ヘアバンド、胸のでかい謎ハート。色選択や素材感も安くてエグい。