はてなキーワード: 演繹とは
https://peri.umass.edu/images/WP322.pdf
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0022199615000690
それこそがまさにcrowding outなのですが
エネルギー保存の法則はデカルトやライプニッツが17世紀に提唱して、20世紀のアインシュタインに至るまで300年の時間をかけて「法則」になりました。
その間多くの科学者が実験研究を行いデータに基づき築きあげた物です。
・そもそも民間銀行はプールしている現金を貸し出してるわけではなく預金通貨を信用創造して貸し出してるので貸出自体には資金が必要がないため資金が逼迫して金利が上昇するわけがない。
・民間銀行が国債を購入した場合、予算が消化されると最終的には民間銀行の講座に購入分の金額が返ってくる上に中央銀行は民間銀行に資金を供給可能なので資金の不足は人為的に解消可能。
よってクラウディングアウトが発生しないという主張は、循環論法に見えます。
私の見解としてはMMTの主張する「crowding outは発生しない」という理論は納得ができないです。
「crowding outは発生しない」を証明するなら「crowding outは発生する」と主張する先行研究へ反証を挙げるのが科学です。
データを基にした先行研究に対して正面からデータで挑戦するのではなく、「人間は最後の審判で甦る、なぜなら神は存在するからだ」と反証不可能な前提に基づいて反論するのは科学ではありません。
クルーグマンが言うように「MMT論者は理論を検証できない状態を意図的に作り出している」のではないかと思えます。
>Krugman described MMT devotees as engaging in "calvinball" – a game from the comic strip Calvin and Hobbes in which the players change the rules at whim.
ググっても債務残高と経済成長率の関係性のものしか出てこないんやけど。
データに基づきとか言ってるが経済みたいな複雑系を扱う分野で因果関係の推定するのってかなり難易度高そうやけどその研究はどうなんかな。
まああとエネルギー保存則が破られないように原理的にありえないことは演繹的に否定可能だよ、永久機関を否定するのにデータを取る必要はない。
万年筆マネーの信用創造の説明に関しては金融機関では常識レベルのことという話がチラチラ記事に出てくるがまあそんなこと言っても仕方ないか
次の国会質疑のページの信用創造で検索して安藤議員と藤田参考人(日本銀行企画局審議役)とのやり取り読めばいいんじゃない?
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000220020191023002.htm
なのでクラウディングアウトは発生しない。
Reinhart and Rogoff(2010)、Herdon Ash and Pollin(2013)、Eberhardt and Presbitero (2015)等では1960年から2012年のデータに基づきクラウディングアウトが発生することを示しています。
実際に観測された数値に基づいた研究であり、事実を帰納的にまとめたものです。
一方MMTでは理論が先にあって、理論から演繹的に主張が生まれているように見えます。
昔は本を読めば知識が増えるし賢くなると思っていたが一回読んでノートにまとめたくらいだと使わない知識は普通に忘却していくので
想像するより遥かに効果が弱い、という結論に達した。なのでその人が実際に実践する可能性が高い知識が書かれている本を読むことを薦める。
ただ一般化されたメタ的な知識は覚える内容が比較的少ない上に応用が聞くし思考の型に出来るので具体的な知識系に比べると効果的であるように思う。
学習それ自体のやり方やエネルギー保存則や相対論といった普遍的な科学知識、目的達成のためには何を重視すべきかといった合理的思考法とかPDCAサイクルとかの失敗から学ぶ方法とか、
原理的に無限に創造出来るものはそれ自体が不足して困ることはない、といような論理的思考とか。あと科学的とはそもそもどういうことか、とかより学問的なら疫学とかの統計分野。
軍事だったら総力戦や持久戦、包囲戦、斬首作戦とかの概念を知ってるだけでもウクライナ侵攻の行方を理解する上で役に立つし、ルトワックの戦略の逆説的論理とかは単純で説得力があって応用性も高い。
超限戦とかも有名だけどあれは戦争には兵器といったハード的なもの以外にも文化やら法律やら宣伝やら何でも使えるというような話だったので、あの分厚い本を一冊読まなくてもいいように思う。
まああとは無意識に関する本は一冊ぐらい読んでおいたら人間や自身の捉え方が変わるので何か役に立つかもしれない
(まあ自由意志が存在しないっぽいこととか世界が量子以上のマクロな領域では物理的な法則に従って動いていることを考えれば宇宙誕生以来世界は演繹されつづけてるだけで生物は自身も含めて観測しているだけで演繹結果に干渉出来るわけでないことくらい想像つくだろうけど)、。
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/front-row.jp/_ct/17640083
大半は「女性にとってそのくらい男性って怖いものなんですよ」っていう意見。
そこにちらほらと「そうは言っても、完全に安全にはならんのと違う?」っていう意見が混じって不興を買っている。
この両者は対立する概念でもなんでもない。角度が違うだけで見ているものは同じだ。両立しうる。
後者は「前よりは安全な世界かもしれないけど、それを理想郷のように捉えるのは楽観的すぎませんか」という話をしているに過ぎない。
「男性が24時間消えたら世の中はどうなるかという仮定」を純粋に思考実験と捉え、結果をまじめに演繹・分析し、メリットがある一方でデメリットもあるかもよと摘示しているだけだ。
しかし多くの女性はそれを「男の側の見苦しい抗弁」と捉えた。全肯定以外は否定とみなすこうしたメンタリティ、男の目からはとても見慣れたものである。
男性が24時間消えたら男性から女性への脅威はたしかに消えるだろう。それは間違いない。
だがその脅威は、大半の男性にとっては本来無関係なものだ。自分は関与していないのだから。
体格差も、犯罪率も、ただ男性として生まれ善人として生きているだけの自分にはどうしようもない。「そこにいるだけで怖い」と言われているようなものだ。どうしろと言うのだ。
さて、男はなぜこういう提言に苛立ちを覚えるのだろう?
ブクマの記事は実は提言ではない。女の人はみんなこう言ってます、というだけだ。これが女の人の気持ち。「だから男性はああしなさいこうしなさい」とは書かれていない。しかし男はそこに「お前らがどうにかしろ」という圧力を感じてしまうのだ。そういう生き物なのだ。
「夜道が怖い女性の気持ちをわかれ」とだけ言われて男に何ができる?
女性同士なら、「男がいなきゃ夜道も安心なのにね~!」「そうだね~!」で共感が生まれ、共通の感情を確認し合うことで心の中で何かが解決するのかもしれない。知らんけど。
だが男は違う。男は女から「男がいる世界は夜道が怖い」と言われたら、その課題を解決する責務を負わされ何らかのアクションを暗に求められていると受け取る。
何とかしろと言われていると受け取る。今もなお夜道が怖いのは、女性の立場をわかっていながら無為無策であるお前たち男全員のせいだと言われているように感じる。どうしろと言うのだ。
つまり男に対して「わかってください」と言えば、文字通りの意味ではなく、「何かのアクションをしてください」と受け取る男が多いのだ。
夜道が怖いことなんて本質的に「わかってやる」ことくらいしかできない。逆に、大半の善良な男に何ができる?
たとえば、自分が子供のできなかった四十過ぎの夫婦だとして、もし赤の他人から少子化問題についてくどくど文句を言われたどう思う? 知らんがな、それを俺たちに言うな、と思うだろう。責任の一端はあるかもしれないが自分にはどうしようもない。
こんな男の気持ち、わかってもらえるかな?
彼女がスペインからの帰国子女のため、スペイン語を話せる。チャンスだと思い、自分も暇つぶしにスペイン語を勉強し始めた。
英語の時は文法や単語→英文を作るという演繹的なやり方だったため、
この方法のメリットは、手っ取り早くコミュニケーションができるということだ。音声ベースで学習できるため、早く喋れるようになる。
そして赤子の成長を追体験することで、文法や前置詞の必要性が体感でき、文法がすんなり学習できるようになる。
このやり方をすることで「身の回りにあるものの(生理現象も含む)単語」「『疑問文』と『wantのような願望を表す文章』は頻出」ということを学んだ。
確かに、赤子は最初「うんちcaca」「おしっこpipi」とか「水agua」とか覚えるもんな。「これなに?」とかいったなになに攻撃も、赤子の特徴だ。
「キエロ ベベール アグア」みたいに日常的に使えることを学ぶので定着率もいい。
「ケ エス ○○」みたいに疑問形を使えば答えてくれるが、答える際は平常文なのでそこで単語や平常文の言い方を学べる。
勉強している感も無いのでストレスにならない。そして帰納的に法則を見つけるのが楽しい。
同時にネイティブのスペイン語の会話を聞いたりして、今はとにかく知ってる単語が聞き取れるかどうかで頑張っている。これでリスニングも上がるといいな。
仮に何かを真実だと信じているとして(例えば日中動いているのは太陽ではなく地球だと信じているとして)、
その根拠が示せないなら、何も知らないのと同じことじゃないのか。
「誤った根拠と、正しい推論技法から、偽の命題を演繹し、それを信じている」人よりも、「根拠または推論技法を知らないがゆえに、自分で証明できない"真なる命題"を信じている」方が狂っているだろう。
「偽の命題から、誤った帰結を、演繹する人」よりも、「正しい根拠と、"誤った演繹"から、真なる命題を導き、信じている」方がよっぽど狂ってるといえるだろう。
フェイクを信じている人が狂っているのではなく、論理的正当化を示せない信念を信じる人の方が狂っているだろう。(たとえその信念が真なる命題であっても)
微分積分とは、帰納と演繹に置き換えることができるのかもしれない。
つまり、データから法則を出す営みと、法則からデータを出す営みである。
グラフ上にプロットされたデータをいちいち t=1の時x=2, t=2の時x=4 …などと列挙していてはキリがないので、
この式はデータだったのだ。
ようやく「微分せよ」という表現が何を言わんとしているのか分かった気がする。
そうすれば、勉学で躓くこともなく、周囲の学生たちに劣等感を抱くこともなく、
自分が将来なりたい目標を考えたうえで進路を選択できたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
勉学で挫折し、不登校に陥り、モラトリアム延長で名前を書ければ入れる専門学校に進み、
その専門学校すら不登校に陥り、主体性を喪失したなし崩しの人生を転がるに任せ、
論理とはそもそも何か。前提A1,...,Anから結論Bを導出するルールのこと。このルールのことを演繹と言う。
議論において知りたいのは、「前提から何が導き出されるか」であって「ルールミスを指摘して勝つこと」ではない。
確かに討論ではそのような側面も存在するだろう。しかし討論にそもそも価値があるかと考えてほしい。
共通の目的に対して価値のある情報を導出したいのである。そのときに、ルールミスの指摘で勝って、どこが生産的なのか。論破という言葉は精神年齢が小学生の人間しか使わない(皮肉)。
しかし議論する人物の前提が相反するもので、一方の前提を加味するともう一方の前提を取り入れられなくなる、といったケースがあるだろう。
こういうケースでは、とりあえず論理的に結論だけ導き出し、現実世界への適合性、つまり現実のデータとの合致性などを検証できるようにしたほうが良い。