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2019-01-14

anond:20190114180149

中学からやり直したらどうかな

大人のための数学をやりなおすのはサイトがあるから

そこで紹介されてる参考書を使ってみなよ

https://prokatsu.com/math_books/

放送大学とか他の通信制大学もそうだけど、

授業で使ってるテキストだけじゃ理解が進まないか

副読本みたいなのは必要だよ

2019-01-13

anond:20190113212458

第一志望が地底で、そこまで高い目標じゃなかったから全く緊張しなかったな

この時期はほぼ暗記した参考書とか読んで気を落ち着かせてたと思う

2019-01-06

anond:20190106125853

五体満足に産んでもらって有難いと思え。

お父さんの時代には参考書なんて(自分用に?)買ってもらえなかった!買ってやってるだろ!

長男次男兄貴のおさがりが自分までで、四男からは新調されてた悔しい。

<御幼少期の恨みつらみタイム(なんで祖父母にいわなかったのかなー父よ?)>


延々と、勉強に関するグッズとか学校お金がいるとき話しただけでこんな感じでしたよ。

こんなの友達に話したら可哀想扱いだよね。平気な振りがどんどんうまくなる。

2019-01-05

東大入ってみて、なぜ鉄緑会が圧倒的に強いか分かったか

鉄緑会のことを何も知らないで書く。なので、完全に的外れかもしれない。

結論から言うと、

東大先生の授業レベルが、そのまま受験バックグラウンドになっているから、現役東大生が集まった塾ではその知識バックグラウンド集合知となるから

だと思われる。

  

具体的に言うと、例えば物理電気問題

あれって、大学レベルだと、フーリエとかラプラスとか使ったり、等価回路使ったりする。

抵抗だけでなく、ジーメンスとか言うの使ったり、

閉鎖回路をグラフ理論から最小の手順で解いたり。

で、実際過去問でそういえばそんなものテーマになって高校生用にアレンジされてる感の問題があった。

その知識があると、問題理解が違う。

この知識があって、そう言う感じの問題が出れば、圧倒的に有利だ。しかも周りは解けない。

「新作問題だ!東大はすごい!」とかよく言うけど。

そもそも東大日本大学生の標準的教科書を書いてる先生と書いて、それをパクって全国の大学が授業してるわけで。

その根本的な「東大生の学問理解レベル」を作成してる東大先生脳味噌は、東大生に反映されていて。それで問題を解析してるわけだ。

  

全国の塾で、東大の授業、レベルを知っている人がどれだけいるか

もちろん、最先端まで知ってる塾講師はいるだろうが、「東大生のレベル」を色々な分野含めて知ってるとなると、鉄緑しか無理だと思う。

  

自分場合物理数学生物ではこの手の感覚や、誰先生の授業が元ネタだろうなとかまでわかる。

おそらく、社会化学英語国語もそう言う感じじゃないかと思う。

  

そう言う理解の元でやってるからそら強いわ。

だって普通受験生は、ラグランジュとか二回微分の解析とか知ら無いで、そこから発想された問題は捨てるか大量のハンデで解くしかない。

一方で、鉄緑会は、そう言うのを織り込み済みの中で教育されていて、問題への対応力が違うわけだもん。

一般受験参考書の著者も、研究として1分野を知っていても、「現役の東大集合知」となると敵わないから、あくまでこれまでの参考書アレンジしかできないと思う。

一般受験生が、過去問などから、「東大テイスト」を知ろうと必死になるよりも、さらアドバンテージ持ってるし、それをベース計画された問題演習やってるわけじゃん。

そら敵わないわ。

京大受験の思い出

anond:20190102063518

なんか盛り上がってるので参加させてくれ。

[基本スペック]

ややADHD気味で人の話に集中できない。図形脳で言語スキル特に会話)が弱い。

親は両方中卒で無口、兄貴不登校引きこもり、弟は知恵遅れ気味。親に何かを教わったという経験があまりなく、親の無口が自分にも遺伝している。

家は全く裕福ではなく、父親過去名鉄会社で工員勤務。俺が小さい頃に仕事中の事故で片足を失ったがそれでも家族を養うために働き続けてくれた。

[中学校]

大阪西成に近い、低階層クラスの家庭が沢山あるエリア。なのでヤンキーが沢山いる地域だった。周りの奴らと比べて頭の出来が良いかも?という自信はあったが、ある時進研模試を受けて自分偏差値が55程度であることを知る。しかしその当時は偏差値意味もよく知らず、周りは皆偏差値45ばかりの中55とってる俺は輝いて見えたし、学年一番の偏差値60の奴が天才に見えた。

勉強はあまりしなかったが図鑑などを読むのは大好きだったし特に数学が好きで他のやつが解けない難しい問題を解けるという自信があった。

周りの友達にはあまり行儀の良い子はおらず、いつも誰かの家に集まって夜中までワイワイゲームしたり、夜の公園に集まって時には朝まで駄弁ったり、楽しかったがあまり真面目に勉強はしなかった。授業中はほぼ教科書落書きパラパラ漫画を書いていた。

授業中騒ぐようなことはなかったが、もともとADHD気味で人の話を聞けないのと、夜まで遊んでいたり早朝新聞配達バイトをしたりしていたので先生からの覚えは悪かった。受験の時に「お前は内申点いか公立いけんぞ」と言われた。金のない親には非常に申し訳ないことをした。

[高校]

結果偏差値55くらいの私立高校に行くことになった。

高校に入って最初の構内統一試験みたいなものがあり、そこで自分は大して頭が良くないらしいということに気づいた。周りの友達と話をしていても、なんか自分の考え浅いし遅いな、と感じることが増えてきて、それまで自分はそこそこ頭いいと思っていたのが叩き潰されて結構なショックを受けた。この時に感じた自分は凡人以下であるという自己認識はその後の人生に大きな影響を与えた。それと同時に英語国語は負けてもいいが数学だけは負けては行けないというプライドに火がついた。

高校偏差値は高くなかったが担任教師偏執的に関関同立に執着しており、お前たちは人生に勝つために勉強しなければいけないという脅迫まがいのプレッシャー毎日のようにかけてきた。もともと中高一貫の進学組は大学受験マインドが高く、関関同立目指して頑張るぞ、という空気があったので自分だんだん感化されて勉強するようになっていった。

担任教師人間性としてはそびえ立つクソだったが奴がいなければ今の自分はなかっただろうな。

だんだん勉強が楽しくなり、受験マニア友達ができたこともあり、書店参考書を眺めるという日課ができてきた。

当時家に金が無いことはわかっていたので小遣いはもらっておらず、どこかに遊びに行くとか美味しいものを食べるとかできる状態ではなかった。思い返せば高校の間友達プールに行くとか遊園地に遊びに行くとかそういう経験は一度もなかったな。

しか書店にある沢山の参考書を買いたい欲が日に日に強まってきた。そこで、小遣いはもらってはいなかったが毎日昼飯代として500円支給されていたので週の半分くらいは昼飯を食わずお金を貯めることで月5,000円くらい貯めてこれで参考書を買ったり駿台夏期講習に申し込んだりできる仕組みを開発した。

参考書の数が増え真面目に勉強をするようになり、やはり自分数学能力は人より優れているという自信を再度取り戻すようになった。数学は本当に楽しくて熱中した。そのうち数学先生から大学への数学」の存在を紹介されて毎月購読するようになった。

と同時にやはり自分の頭の回転は良くないので自分が将来何かを成し遂げたいのであればただ一つのことに時間を集中しなければ他人には勝てないという確信を持つようになった。

から毎日往復二時間に通学時間の間はずっと参考書を読むようになった。Z会速読英単語など、最初は全く意味を取れなかったが何度も何度も読みまくることで次第に英語が読めるようになってきた。

高校3年になった頃にはもう勉強が非常に楽しくて生活の中心になっていた。特に大学への数学では毎月巻末に難問が出されて解答を編集部に送ると添削してくれるのだけどそれに本当に熱中していた。この問題は本当に難しく、自分の頭では数時間考えた程度では全く解けず、数日、時には数週間同じ問題をひたすら考え続けるという生活を送っていた。夜寝る前まで布団の上で考えて、眠りながら考えて、朝起きたら布団から出ずにまた考え始めるということをしていた。今考えると頭の使い方が稚拙というか同じところをぐるぐる周ってる感じだったのだけど、そうやって何日も考えると解答が思いつく瞬間が必ず訪れるのでそのカタルシスに当時は本当にハマっていた。毎月添削結果が送られて来るたびに模範解答のエレガントさと、自分の地をのたうち回るような回りくどい議論の差を見せつけられやはり自分は凡人であるということをつきつけられた。点数はいつも150満点中145程度で一度も満点を取ることが出きなかったのは悔いが残る。自分過去の思い出とかにはあまり執着がなく、京大博士卒業証書も使いみち無いのでゴミに出したのを友人に止められたくらいだがこの添削結果だけは今も大切に保管している。

自分記憶力が異常に弱く国語歴史は非常に苦手だったのだけど、物理化学も覚えることが多くて困っていた。しか駿台の著名な先生山本義隆氏と石川正明氏)の書いた書籍を読み、覚える物理化学から考える物理化学へとパラダイムシフトを起こすことができた。ただ暗記するのではなく、なぜその式が成立するのか、なぜそのような化学反応が起きるのかというより深いところを理解できるようになった。同時に物事を深く認識するということが自分性格に非常にマッチし、そして自分はそのために人の10倍の時間を捧げることができるということが自分の強みである確信するようになった。この強みは40になった今でも活躍している。

この頃は駿台河合塾模試でも上の方に乗ることが多く、志望学科の中では上から2番目を取れるくらいにはなった。そうなると今度は予備校の方からただで授業を受けませんか、というお誘いが来るようになる。これは合格者一覧の名前を稼ぐマーケティングである。その中でも駿台数学特別講義という非公開の授業にお誘い頂いた。数学がよくできる学生を数十人集めて難問の講義を行うというもので、これもなかなか楽しかった。周りは皆灘とか東大寺の中に偏差値55の学校が混ざっているのはむず痒い感じではあったが、すぐに自分はやはり彼らとはレベルが違うということがわかる(毎回試験があって採点される)。一人明らかな天才がいて、その人は今有名な数学者になっている。

後のことは上記の事の結果でしか無いので端折るがセンターは確か国語社会が6割くらいしか取れず志望学科はC判定、というのが送られてきて先生が「気を落とすなよ」慰めてくれたが自分としては全く想定通りの結果であり過去模試の結果からこの差は二次で覆すことができるという強い自信が会った。

家の経済的事情から滑り止めを受けるということはできず、前記京大後期阪大のみを申し込んだ。これについては先生から怒られた。本当は阪大の後期にも申し込みたくなかった。

試験数学は色々ケアレスミスをしてしまったが大筋では正しい解答ができ、物理化学はどちらも1問しか間違えなかったので合格確信した。

しか合格した当時自分中二病を引きずっていたので一緒にいた親に笑顔特に見せず「合格した」とだけ言った。これは人生の最も大きな後悔の一つ。

大学に入った当時は研究者になることを夢見ていたが大学に入ってからは本当の天才を目の当たりにし、また博士課程卒業間際になり研究というコミュニティコミュ症では構造的に海外リア充に勝てないということに気づき断念、IT企業就職して今はスタートアップをしている。

anond:20190105203030

本棚置かなかったら参考書とかどうするんだよ

anond:20190105152713

あと中高三年間まるっと復習系の参考書系もおすすめ最近参考書漫画とかイラストとかたくさん使っててめちゃくそ理解やす

2019-01-03

喫茶店で、

ランチパックカロリーメイトを持ち込み、

電源プラグを2つ占領し、

スマホソシャゲーをプレイしながら

PCブライアンヒカル動画を見つつ

参考書を脇に置いている

受験生(浪人生?)がいた

彼は、間違いなく受験に失敗する

間違いなくだ

2019-01-02

京大までの受験の思い出

https://anond.hatelabo.jp/20190102063518

読んだらわたしも書きたくなったので書く。もう10年以上前の話ではある。

元増田と違い中学受験私立とは無縁で、片田舎公立中学公立高校卒業して京大入学した。

中学時代

勉強なんてほとんどしてなかったけど、テストでは常に学年トップで完全にお山の大将だった。

一方で家庭環境的にいろいろあった時期でもあり、また自分自身もいろいろ拗らしてた時期でもあったので、私立組やいわゆる英才教育を受けている人たちへの異常なコンプレックスがあった。塾なんかに頼るやつは元々馬鹿私立高に通って高いお金さないと勉強できないやつに勉強する意味はない、などと誰彼構わず吹聴していた。今思っても最悪の性格だった。

将来の展望なんてこれっぽっちも見えてなかった。大卒大人は周りに全然いなかったし、もちろん官僚なんて言葉も知らない。そんな中、ある日法事だかお盆だか正月だかで叔父に当たる人と久しぶりに会った。聞くと某地方総合大学工学部卒業し、自動車メーカで開発をしているとのこと。元々機械は好きだったので、その仕事をすごくかっこいいと思った。そしてそれ以上に、その人の身なりや車(といっても今で言うアルファードみたいな上位国産車)、余裕、羽振りの良さなど、あらゆるところに今まで自分の周りになかった、ハイクラスな何かを感じ、衝撃を受けた。今思えば(叔父には悪いが)お金持ちのモデルとしてはずいぶん控えめではあるが、それでもこの衝撃は大きかった。自分の目の前に一つの道が示されたような気がした。

そんな自分に両親はとても優しかった。自分選択意見をいつも全力で肯定し続けてくれた。今思えば自分可能性を広げるための最大限の配慮をしてくれていたのだろう。

高校入学受験勉強まで】

結局地元で2番目ぐらいの公立高校に行った。理由はいろいろあるが、自転車で通えるというのは大きかった。自宅から公共交通機関アクセスが最悪だったかである

この高校は一応進学校とは銘打っているものの、毎年東大ゼロ京大が1人いるかいないか旧帝大に数人、といった感じだった。相変わらず高校でもお山の大将だったが、高校は全国模試があるので自動的に全国の高校生と比較される。片田舎の小さなさなサル山で大将を気取っていた少年はここで初めて現実を知る。

1年生の夏、家族京都旅行に行った。古い街並みと近代的な景観が融合するこの街を、わたしはすぐに好きになった。さらに、この旅行の行程には京都大学観光が組み込まれていた。今思えば、両親がわたしのやる気を引き出すために連れて行ってくれたのかもしれない。ともあれ、権威シンボルである時計台自由象徴する立て看板鴨川百万遍の街並み、どれもが自分の心を強く打った。

ここに入ろう。自分にはその資質がある。

本気でそう思った。

そこから勉強を始めた。あんなに嫌いだった塾にも結局行った。恥を忍んで塾に行きたいと親に言ったときも、やはり親は快諾してくれた。塾は大手予備校講師OB地方でやっている個人塾だった。英語数学を教えてもらっていたが、ここの先生方には現在に至るまでお世話になっている。勉強だけでなく、自分の見識を大いに広めてくれた恩人であり、今でも頭が上がらない。

受験勉強受験まで】

高2の終わりぐらいまでは漫然と過ごした。学校の授業は地方国立MARCH関関同立といったところをターゲットにした内容であり、物足りなく思うことは頻繁にあった。しか学校の授業でつまずいているようでは京大もクソもない、という信条があったため、まずは学校の授業で習った部分は確実に押さえることを一番に考えた。

高3になると全国模試ランキング浪人生が入るので、順位や判定が一気に下がって焦った。先生方は「最初は下がるけと徐々に追いついてくる」と言っていたが、秋になっても成績は伸びずにただただ焦った。自分の立てたスケジュール通りにまったく勉強が進捗していないこともあり、更に焦った。焦りすぎてメンタル不安定になり、何度も勉強中に発狂した。振り回したシャーペンは何本も折れた。親には意味不明な理由八つ当たりを繰り返した。親はすべて受け止めてくれた。

高3の大晦日の夜、いつもどおり家の机で勉強していたのだが、うっかりそのまま寝てしまい、気づいたら新年を迎えていた。あまりの不甲斐なさに一人で泣いたのをよく覚えている。

受験勉強はチーム戦、という言葉がある。上でも書いたとおり、自分のいた高校は難関校の受験生が少ない。しかし逆にその分、似たような境遇の我々には妙に強い結束感があった。別に机を並べて一緒に勉強したりするわけではないが、模試の結果や参考書の話、志望校の話などをとりとめもなく話せる人が周りにいるというのはとても心強かった。模試の判定を見て落ち込んでいるとき不安でやる気を失いかけているとき鼓舞してくれたのは彼らであった。結果は人それぞれだったが、今でも年に一度は集まる良き友人たちだ。

試験

京大工学部センター試験の点数配分が恐ろしく低いので、気軽に受けた。特に数学足切りラインを除くと全く評価されないのでろくに対策もせず、1A2Bともに85点程度だった。ただ周りの友人が満点を連発していたので妙な焦りだけがまれた。

私立早稲田慶応を受けた。どちらも全く行きたいと思っていなかったが、練習だと思って受けた。初めての一人東京だったので異常に浮かれた。慶応試験前日、下見ついでに少し街を散策したが、これがよくなかった。壮大に風邪を引いた。熱で全く頭が回らず、とうとう英語試験の途中で医務室に運ばれた。医務室でひたすら泣いた。

京大2次試験の当日、出発前にわたしは親を呼び、これまで支えてくれたことへの感謝を伝えた。いろんな人に支えられてここまで来た。特に親の気苦労とサポートは計り知れない。そのことをどうしても当日伝たかった。わたしも親も泣いてわけがわからんことになった。

当日は自分でも驚くほど冷静に試験に取り組めた。数学試験試験官に手紙を書いているような気持ちで答案を作成した。結果的に完答できた問題はなかったのだけれども。


ところで、新年を迎えたこから自分の中のルールとして「前期試験不合格連想させるようなことは一切口に出さないし、心にも思わない」というものを設定した。「浪人したら…」「後期試験対策は…」といったことを考えることも禁止した。発言自由はおろか思想の自由まで侵害するという、今思えばドン引きするルールだ。バックアップを想定することは合理的であるが、その発想自体が心を弱くする、という根性論だった。今の自分根性論が大嫌いだけど、ともかくその時はそれが最善だと思っていた。自分なりに必死だったんだろう。

合格発表掲示開始時間には10分ほど遅れて到着した。すでに合否の熱狂から段落しているところで到着した形だった。手足が震えていた。すがるような気持ち掲示板を見た。番号があったので、また泣いてしまった。声を上げて泣いた。今までずっと無理をしてきて、辛かったんだということをその時理解した。その様子を見たアメフト部の人たちに囲まれて、胴上げされた。

【その後】

入ってから色々あったがここでは割愛する。卒業してからは某メーカで開発職をやっている。結局件の叔父と同じような道を選んだことになる。しんどいこともたくさんあるが、機械が好きなのでなんだかんだ向いていると思っている。


【さいごに】

一番お世話になった参考書の一つにチャート式があるが、この巻頭に記載されている「汗をかけ」という文章わたし世界で一番好きだ。短い詩なのでぜひ全文読んでほしい。

http://www.chart.co.jp/corp/00epitome/01what/asewokake/asewokake.html

「確実な道」を行く者は、「近道」を行く者よりも、汗をかかなくてはならないだろう。だが、その汗は、絶対無駄はらなない。君が、将来“かっこいい大人”“素敵な大人”になれるかどうか――それは、10代の時どれだけ「汗」をかいたかで決まるから

恋でもいい。グラウンドの上でもいい。

そして、エンピツを握ってでもいい。

フィールドは何であれ、思い切り「汗」をかく人であってほしい。


元増田にもあったが、受験はその構造上どうしても他者との競争の構図ができがちだ。しか自分自身の弱いところや意地悪なところや卑怯なところと徹底的に見つめ合い、自分の力で一歩一歩進むことに最大の意義がある。

すべての人に受験勉強というプロセス必要とは思わない。ただ、受験勉強を通して得られるものは決して少なくなく、ただの公式知識暗記ゲームにとどまらない、自分にとって大切なことを教わる大変よい機会だった。大学ではすっかり落ちこぼれ学生だったが、多種多様の人たちに出会い自分の見識を常に広げ続けさせてくれた京都大学には本当に感謝している。

センター試験まであと少し、全国の受験生に幸多からんことを。

東大受験の思い出(文系おっさん篇)

https://anond.hatelabo.jp/20190102063518

触発されるところがありました。増田にも、コメントにも。

家庭環境など

百姓家の倅です。3人兄弟長男比較的小さいころから「下がつかえているかあなたオール公立で。それだけの頭はあげたでしょう」と母親からいわれて育ちました。母方の母方は庄屋(糀屋)、母方の父方は漢学者家系です。父方はよく知りません。父親東京教育大の出、全共闘火炎瓶を作って安田講堂に攻め入ったことを生涯の語り種にしていました。いまはアルツハイマーで息子たちの見分けがつきません。発話も失われて久しい。

その倅たる僕はプロテスタント幼稚園に騙されて入り、地方二期校の教育学部の附属小学校に騙されて入り、そのまま持ち上がって附属中学校へ、高校東大合格者を年に15人から20人くらい出すいわゆる県立トップ校です。中学校男子90人のうち35番くらいまでにいればトップ校に入れた。塾には行かせてもらえなかった。習字水泳英会話歯医者、これはよく通わせてもらいました。中学は共学でウェイウェイしていました。藤井郁弥の影響でテクノカットに前髪が顎下までありました。高校男子校です。圧倒的な絶望です。キルケゴールに耽溺しました。

どこで勉強をしたか(中学まで)

田舎から街中まで通うのにバスで片道45分かかります。退屈なので寝るか教科書を聞くか路線図や料金表を覚えるか(後に)音楽を聞くしかありません。小1から、時折(4割程度)の自転車通学を挟んで、半分以上はバス通学です。小6までは学期の始まり教科書を配られると最初の1週間で読んで覚えてしまます

教科書本体よりも便覧や資料集が好きでした。面白かった。地図帳も、資料集も、地勢統計も。中学に入っても英会話は通わされていたので楽ちんです。中間/期末/学力試験の前1週間くらいにざっと教科書見直して500点満点で425点。リスニングは、携帯プレイヤーはなかったので、ウォークマン英会話学校の教材やNHK英会話を入れて、まあ適当に。中3で県のスピーチ大会に出させられ(て、落ち)る、そんな感じです。

部活はやりませんでした。お金時間もないし、水泳通ってたし、弟のバスケットと体操に両親は夢中になっていました。素行不良のため内申点が足りなくて合唱団に入れられました。

どこで勉強たか(高校)

うちの高校合格すると「入学式までの30日間の重要性」とかいって英数国の宿題が課されます。それと直近の大学受験結果を分析した資料ざっと見て、学年360人、2年次から文系150人理系210人の、まあ自分文系だろうから文系30番くらいにいれば、努力で入れるといわれていた東北大、東京外大に入れるかなという目算がつきました。東北大はかっこいいし、外大女性比率が高い(放っておいてもモテそう)。まあでも、適当です。それで入学式直後のテストで、学年で50番くらいに入った(いちおう、ビビって用意はしていました)。

でも生活の基本パターンは大きくは変わりません。教科書は行き帰りのバスでだいたい読んで、物理科学不要なので捨てる。家に帰ったら数学問題演習(4STEP)、英語古文単語を。同じころ僕を溺愛してくれた婆さんが脳梗塞から前後不覚に陥り、街中の病院に入ることになった。学校帰りに爺さんと待ち合わせをして立ち寄る。病院は暇ですからお茶を入れて飲んで、英単語を覚えるくらいしかやることがない。たまにノートを開いて、数学は先取り。ざっと、次の単元に目を通して(授業中に指されるのが不安から…)。そうそう、効果のあった教材は「パターン演習」でした。今はもうないのかな。「現代文 例の方法」もよかった。古文は聖文社の薄い本意識の高い友だちから、いろんな情報が入るようになってくる。それを病院に立ち寄る前に市内の書店でチェックして、合いそうなものを買います

大学受験意識する

東大意識したのは高校2年の11月です。恩師(英語先生)に、冗談で「おれ東大無理ですよね。ははは」みたいに話したら「お、ようやくやる気になったか」なんてその気にさせられて。帰りに本屋ペンギンか何かの洋書を買って、1日2ページ、英文解釈和訳です。朝持っていくと、帰りまでに真っ赤に添削してくれる。古文や、数学先生も噂を聞いて「おお、あのあいつが」みたいに様子を覗き込んでくる。ひとり、ふたりノートを見てくれる先生が増えました。でも、だれも僕がまさか東大に入るとは級友たちは思っていなかったと思います

受験戦略

受験戦略は至ってシンプルです。後期には絶対の自信がありました。読書感想文論文も出せば県予選までには行った。英語も出来ました。社会世界史日本史現代社会、どれでも満点近くとれました。参考書は「世界史Q&A」「日本史Q&A」です。資料集を見てビジュアルで頭を刺激して(例、ザビエル。毛の話ではない)大掴みし、後はひたすら反復練習です。高3初夏の時点の大手模試で文3後期はB+くらいの判定でした。前期はさすがに無理です。

ただ、「やるだけやった」ことは自分言い訳を残したくなかった。病院で婆さんが「うちの孫はいい子で」「末は大臣から」って、看護婦さんや主治医に言いふらしたらしい(後に爺さんの仕業だと判明するのですが)。それで先生方が「東大を受けるって聞きました」「がんばってね」って声をかけて下さいます。病状のことも聞きました。当たり前ですが、下り坂です。いっときは、医学部を目指そうかとも思った。でも入って出て研修医になるまで7(6+1)年です。婆さん、間に合いそうになかった。爺さんも肝硬変になって、爺さんに「どこがいい?」って聞いたら「そりゃ天下の一高がいいさ」というから「わかった」と返事をしました。

再び受験戦略の話

本戦略は4つです。

1. センターは満点をとる。二次は天下の俊英が集まってくる。勝てるわけがない。センターなら勝てる。1:4(800→110):440の圧縮傾斜とはいえ、110点とって無駄にはならない。田舎凡才がまず考えるべきは足切り回避です。足切り回避したら「二次で逆転」なんて赤本成功譚を鵜呑みにせず、センターで1点でも多くの上乗せをと考えました。

2. 後期は受かろう。英国世界史満点を目指す。論文素面でいけるはずだ。

3. もし現役で東大がだめだったら地方公立医学部に切り替えよう。そのために、生物をメインで、化学も少しはやっておこう。

4. 問題は、前期で東大を受けるか、A日程で外大を受けるかでした。こう考えました。A日程で外大に受かる(東大後期の足切りにあわなければ後は外大用の英語対策です。外大二次英語東大二次よりもやや歯ごたえがあって格好の対策になります)、そして後期で東大文3に受かる。これがベストシナリオだ。そのとき東大に行くだろう。だとしたら、A日程は無駄ではないか?

教科別の話
現代文

岩波講談社現代新書、などを、手当たり次第に読んで咀嚼しました。また、Z会添削(これだけは母親に頼んだ)を受け、「模範解答をできるだけ歯切れのいい単位自分言葉に分解して、とことん納得するまで書き換える」を行いました。添削はあまりしませんでした。毎月送られてくる薄い模範解答の本がありがたかった。小説は、ごめんなさい、蓄積があったので(うちは1950年代60年代70年代文庫季刊誌文学全集が堆くあるような家でした。数少ない父親の正の遺産です。片っ端から読んでいました)、あとは「例の方法」で、受験とはこういうものかと調整する程度。

古文

品詞分解と2,000語レベル単語暗唱です。高2の11月からセンターまで400日。1日50語。予習(N-1日)、当日(N日)、復習(N+1日)のサイクルで、ということは150語/日ペースで頭を通す計算になります。「あさきゆめみし」を読みました。明治書院(?)の作品解説集をバスの行き帰りに読みました。

漢文

ごめんなさい! 爺さん漢学者の家柄なもの(笑)。「蒙求」「戦国策」とか。「戦国策」はよかった。いまでも、なるなら刺客です。司馬遷ありがとう!

英語

単語は5,000語レベル単語集を1冊日割りで。効果的だったのは、ある単語を覚えた/引いたとき辞書の同じ見開きページに載っている重要単語はぜんぶその機に覚えてしまうやり方です。

文法桐原発音アクセント英会話教室からもらった対策本。英字新聞は読みませんでした。代わりに、前にも記した高校先生から受ける日々の添削

日本史世界史

「Q&A」です。「一問一答」ではなくQ&A。

数学

苦手にしていました。系(?)の拡張、みたいな感覚になかなか付いていけなかった。虚数単位とかです。仕方ない、というので「4STEP」を繰り返し、センター200点満点を180点とることに集中。二次は、大問4のうち、かき集めて1つ、配点で80点中15点とれれば合格には御の字。15点ならセンターの延長でとれます文系微積が苦ではなかったのが本番でも生きました。

理科生物

高校の授業です。これだけは、参考書の目利きが自分にない。熱心な先生でしたので、出されたご飯は残さず食べるの精神です。

受験結果
センター試験

国語:190点

英語:192

世界史:98点

数学:180点

生物:92

合計:752点

(あれ? 756点だった気が。)足切り回避です。よかったですね。

二次試験の結果

国88/120

英104/120

世界史40/60

日本史35/60

数学25/80

292/440点

自己採点です)250点あれば十分、220点でも年によっては受かるといわれていました。勝因は英語です。よかったですね。

合格発表の日

これでも、自分には無理という思い込みがありますから赤門をくぐってまず後期合格者の掲示板のほうを見にいきました。前期は絶対に無理、でも、後期の足切りには確実に通っている。「国語古文漢文選択肢に引っかかったのが痛かったなあ。あれがなければ前期だって」と頭を抱えていました。

そんなことを思いながら後期(追記:足切りクリア)の掲示板の前まで来ると、自分の番号がない!

「さすが東大は違う。おれはもうだめだ」と、代ゼミに向かい踵を返そうとしたとき、同行していた父母が「せっかくだから前期のほうも見てみよう。どんな人が受かるのか顔を見てみたいじゃない」「予備校それからでいい」というわけです。

ありました

ありました。

公衆電話実家にかけると、すでに電報が届いていて、いまかいまかと祖父母電話を待ち構えていました。祖母許可を得て病院から戻ってきていました。もう、東大に受かることの社会的な意味合いは、わからなかったろうと思います。でも、みんなが喜んでいるからといって、赤飯を炊く準備に、これから近くで豆を買ってくると電話口でいうわけです。「そんなのはいから」「とにかくそのまま家でお日さまに当たっていて」と僕がいうと「ご親切さま。うちのは、ほんとにいい孫でね」と僕にいう。僕は思わず「おばあちゃん、よかったね」って。

結びに代えて
英語だけは

言い古されたことですが、東大学歴というのは、かなり費用対効果のいいLadder of Success(成功の階梯)です。その中でも、ひとつたつを添えて、本記事を締めたいと思います

それは、文法的な意味での英語力の最初ピークは、大学受験直後ということです。その勢いを駆って、TOEICなり、英検なり、お受けになれば、さしたる苦もなくCertificateを取れるのではということ。僕自身大学年の初夏(だったか)に準1級、以来、TOEICが(維持のための努力だけで)だいたい945点くらいをかれこれ25年、続けています

1年くらいは

間もなくセンター試験です。もし、2019年のセンター二次に間に合わなくてもと思う現役生がいたら、1年くらい、大きな気持ちで構えていいのではないでしょうか。長い人生、1年くらい、駒場の3年目や、離婚や、放浪放蕩や、悪所通いでたちどころにトントンになってしまます

受験生のみなさんのご武運を、ねこちゃんたちと共に心よりお祈りします。長文、失礼いたしました。

2018-12-30

推し絵描きジャンル引退した

今年は得るものも多かったが、失うものも多かった。

インターネットをやっていると、絵柄がこの上なく好みな絵描きに偶然出会うことがある。好きな絵柄の絵描きは沢山いて、リストを作ったりして日々いいね飛ばしたりRTしたりしている。そのリストの中には画集を出すような有名な人もいれば、フォロワーのとても少ない無名な人もいる。色遣いだったり線の質感だったり、それぞれに個性がある。その中で、この絵描きはなぜこの色を選んだのかとか、画面の作り方とか、表情の描き分けとか、そういう「よさ」を探して少しでも自分のものにしようとする。そして何より、ひとの絵を見るのはとても楽しい行為だ。そんなだから、部屋の本棚は休学以降一冊も増えない専攻分野の参考書の何倍もの画集同人誌で溢れかえっている。

今年の8月頃だろうか、数年前のアニメに突然ハマって2次創作を漁っていたら、TLにその絵描きは現れた。サッと適当に描いたような、それでいて的確な線。なんでその色を選べるのかわからない美しい色遣い。キャラの心情をうまく魅せる表情の描き方。こういう「好き」を言葉表現するのが苦手なのだが、その絵描きに一瞬で虜にされた。早く同人誌を出してくれ、と思ったら何と来年オンリーイベントに出るらしい。PCの前でガッツポーズをした。

その絵描き(以下Aと書く)のTwitterフォロワー数は加速度的に増えていった。それも嬉しかった。これからもたくさんAの〇〇絵を見られるのだと確信たからだ。しかし、フォロワーが5000人を越えた頃、どうにも不穏なツイートがなされるようになった。どうやら、お題箱などでひどく叩かれているらしい。やれ「フォロワーを増やすために〇〇(ジャンル名)を描いている」とか、「〇〇描くのをやめろ」とか、そういう類のコメントが数多く届いているらしかった。

そして10月頃、Aは筆を折ってしまった。「もう〇〇は描きません。すみませんでした」と、引退を明言した。

Aは、もともと別のジャンルで細々と活動していたらしく、自分と同じ頃に〇〇にハマって活動範囲を広げたらしかった。結構話数の多いアニメで、完走するのにも時間がかかる。Aはアニメを見進めながら絵を描いていたようだ。自分と同じ時期に同じアニメにハマる人を見ると嬉しくなるタイプの厄介なオタクなので、それもまたAという絵描きを推す理由の一つになっていた(我ながらキモい)。一方的仲間意識だ。Aの「△△ちゃんすき……」というツイートを見て「それだ!!!!👈」とか言っていた。好きな絵描きが好きなジャンルの絵を描いてくれる、こんなに嬉しいことはない。なかったのだ。

なあ、「すみませんでした」て何やねん。なんも悪いことしてへんやん。

突然現れた推し絵描きは、その人気に嫉妬したアンチ理不尽に叩かれ、たった2ヶ月でジャンル引退してしまった。

「新しく好きなジャンルができたか活動のメインを移した」とかならよかった。それでもジャンルを好きなままでいてくれるなら、嬉しいことだからだ。

でも、今回の場合はどうだろう。Aは「このジャンルってこんなに厳しいんですか、傍から見たら温かい人たちでいっぱいだと思ってたのに」とツイートしていた。あれだけ「好き」が伝わってくる絵だ。本当に〇〇が好きなんだ。それは見ていたらわかる。イナゴにはこんなに愛に溢れた絵は描けねえよ。

「気にしないで!などの励ましのコメントはるかに多く頂いていて、それはとても嬉しいけれど、それでも辛いものは辛いんだ」とAは言った。その数日後に、最後投稿があり、更新はぱたりと止んだ。

100の賞賛を受けても、1の批判で折れてしまう。そういう人も少なからずいるんだ。それなのに、嫉妬か何かわからないが、理不尽悪口捨て垢で投げつけて筆を折らせるような、悪意の塊のような人間がこの世界はいるらしい。本当にクソだ。何なんだマジで

Tweetdeckの左から3列目、更新の止まったカラムを見るたびに、ただただやりきれない思いでいっぱいになる。

2018-12-18

anond:20181218172819

出来のいい参考書とか、腕利きの有名塾講師の授業とか、見てみるといいよ。

年号の話なんかほとんどしないから。

2018-12-15

天才とか才能とか言われるのが辛い

仕事の成績がいいのか知らんけど仕事ノウハウを教えてくださいって頼まれることが増えて、なぜか話が発展して大学でも非常勤程度で教える立場になった。

懇親会で会う人会う人に「増田さんの才能は素晴らしい」「僕は増田さんみたいな天才じゃないですから」みたいなことを言われるのが誠に辛い。

参考書でも何でもさ、小口が擦り切れて真っ黒になって凹むくらい、何百回も読み返さないと頭になんて入らない雑魚記憶力なんだ。

本の小口三日月みたいに擦り切れるまで毎日毎日何か月もその本だけを読み続ける。

そのうち単語トリガーとして働いて記憶が呼び覚まされるようになる。

街中で歴史上の人物名前を見ただけでどういう人物であったのか、そういう記憶が呼び覚まされるレベルまで兎に角読む。

そして絶対にノートは作らず、必要情報は全て本に書き込む。

こんなの言葉を変えれば習慣化しているだけで特別な才能でもなんでもないんだ。

頼むから天才などと呼ばないでくれ。

心に刺さる。

2018-12-11

anond:20181211114939

いや、普通に考えろよ。

10コピーと、300ページの参考書をまとめるのどっちが時間からず苦じゃないか

したことをしてないのに見返り求める奴

そういえば思い出した。

同期に資料コピー10部お願いした。1ページのを10部。

仕事中に申し訳ないんだけど、コピーお願いできないかな」と。

「おう、いいぞ」と二つ返事でOKしてくれた。3分もかからない作業だったと思う。

別日に、「この間俺がやってやったんだから資料まとめてくれよ」と

300ページある参考書を出してきた。

仕方なくやったが、今後あいつには頼みごとは一切しない。

見返りを求める人については別に良いんだが……、

自分したことより大きい見返りを求めるって、相当ヤバい奴だわ。

同じ部署の先輩に聞いたら、同期は少し嫌われているらしい。

大丈夫か……。

久々に読んだ入門系の技術書レベルの低さに驚愕した話

新しい技術勉強しようとして入門系の技術書を買ったら

変数からして怪しい

日本語そもそもなっていない

冗長説明を何度もする

・すべての方法説明だけして、ベストプラクティス説明しない

・画面キャプチャ多すぎ

説明の順番がおかし

などあって、中身のレベルの低さにイライラしながら参考書を読んでいる。

一応その分野の技術書の中では最も売れていて評価が高いものなのにこの内容は。。。と思った。

これなら素直に英語公式サイトチュートリアルを読む方が絶対効率的だと思う。

こんな状態から日本エンジニアレベルが低いんだと感じた。

PS. 最初から英語ドキュメント読めばいいやん・・というツッコミはなしです。

2018-12-08

anond:20181208150016

教科書レベル知識が知りたいなら、大きな書店医学書コーナーに行けば、

医者の卵と現役医師のための参考書いくらでもある。

医師免許が無くても買えるよ。

そこで概要はつかめるけど、最後は実際に現物を観てみたくなるんじゃないかな?

2018-12-04

平成時代学校が教えている日本語を習っている者はいない

 腐っててキモいから頭のいい多くの子供は特に公立学校の脳ミソの腐った教師から

日本語教育を受けるのを拒否しているし、まともな日本若者は、警察が共有している

言語インストールしてないから、警察を見たら、悪い人としか思案していないし、

まして警察官を言葉で説き伏せられるなどという前提自体がないし、日本語をインストール

している若者がいない以上、説き伏せ方など知るわけもないのであるから現代の多くの

若者は、警官を見たらただの暴力団しか認知しないし、共有言語がないから冷静な話

にもならない。ゆえに多くの刑事事件が闇に葬られているし、裁判所刑事部で救済されてる

ような被害者は、平成時代に間違って学校についてきて先生から腐った日本語を習ってしまった

バカだらけであり、まかり間違っても、予備校参考書で新鮮な日本語を学び、別世界で生きている

脳ミソの生きている若者は、現状では、警察には近寄りもしないから、裁判所にいることもありえない。

増田プログラマー養成講座 その23 SQLを巡る物語

前回は、データベース設計について学びました。

今回は、その他のデータベース話題について見てみましょう。

 

 

リレーショナル・データベース理論

問合型言語SQLは、「関係代数」という計算モデルを基に作られたプログラミング言語

一度「関係代数」について学んでおくと、RDBの使い方について、理解が深まる。

↑このスライド作者さんは他にもDB関係資料作成されてるので見ておくといいかも?

 

 

SQL以外の問合型言語

SQL以外にも「SPARQL」、「TMQL」(Topic Maps Query Language)等、いろいろな問合型言語がある。

実際に使う機会は少ないかもしれないが、「問い合わせ」で処理するという発想は参考になるかも?

 

Datalog

Datalogは「Prolog」(論理言語)を源流にもつ宣言的なデータベース問合せ言語。DatalogはSQLと同等の表現力を持つ。

Datalogは様々なプログラミング言語で利用できる。

 

トピックマップ

トピックマップ」は、本の索引もっと機能にしたような仕組みで、RDBとは違う形でデータを蓄積/検索できる。

 

 

RDB以外のデータベース

SQLを使わないデータベースもある。

 

NoSQL

NoSQL一般に "Not only SQL" と解釈される)とは、関係データベース管理システム (RDBMS) 以外のデータベース管理システムを指すおおまかな分類語である

関係モデルではないデータストアの特徴として、固定されたスキーマに縛られないこと、関係モデルの結合操作を利用しないこと(場合によっては単にそのような機能が欠落しているだけ)、水平スケーラビティが確保しやすい事が多いこと、トランザクションを利用できないものが多いことなどが挙げられる。

学術的な世界では、この種のデータベースのことを構造ストレージ (structured storage) と呼ぶことが多い。

 

NoSQLデータベースは、関係データベースのような汎用性は欠くものの、その制約された条件下ではRDBMSより高いパフォーマンスを持つ。

そのためビッグデータソリューションでしばしば活用される。

NoSQLデータベース管理システム有用な場面は、関係モデル必要としないデータを扱う時や、大量のデータを扱う時である

 

有名な実装として、GoogleBigTableアマゾンAmazon DynamoDBなどがある。オープンソース実装も数多く存在し、例えばMongoDBRedisApache HBase、HyperTable, Apache Cassandraなどがある。

 

 

SQLRDBに慣れたら、NoSQLも調べてみよう!

 

 

その他、データベース関係話題

DB運用管理で学んでおきたい話題を列挙してみよう。

 

 

SQL開発物語

問合型言語学習最後に、SQLを巡る物語も見てみよう。(SQL学習ドラマチックで楽しいものにしたいねw)

 

 

RDB活用すれば、大量のデータを処理して、多くの仕事効率化できる。(金持ちへの扉が開かれる。)

暇があったら、SQL物語登場人物も見ておこう。

 

エドガーフランク・コッド(Edgar Frank "Ted" Codd, 1923年8月23日 - 2003年4月18日)は、イングランドまれ計算機科学者

関係データベース理論的基盤であるデータベース管理関係モデル発明した。

 

1960年代から1970年代、コッドはデータ配置に関する理論を構築し、1970年 "A Relational Model of Data for Large Shared Data Banks" (大規模共有データバンクのデータ関係モデル)という論文を発表した(IBM内ではその1年前に公表している)。

しかし、IBMライバルがそれを実装し始めるまで彼の提案を実行に移そうとせず、コッドは失望した。

当初、IBMはIMS/DB収益を守るため、関係モデル実装することを拒んだ。

コッドはIBM顧客自身モデル実装した場合可能性を提示し、顧客からIBM圧力をかけさせた。

そこでIBM関係モデル実装を開発する System R プロジェクトを Future Systems プロジェクトに含める形で立ち上げたが、その開発チームとコッドは分離され、しかもコッドの理論精通した者はチーム内にいなかった。

結果として彼らはコッドの Alpha 言語を使わずリレーショナルでないSEQUEL言語を開発した。

 

ラリーエリソンSEQUEL 完成前に発表された論文に基づいて Oracle を完成させ、先に発売している。

IBMは、SQL/DS を発売した。

幹部技術音痴だと、部下の名案も却下してしまうんですね?

 

ローレンス・ジョセフ・エリソン(Lawrence Joseph Ellison、1944年8月17日 - )は、データベースソフトをはじめとする大手ビジネスソフトウェア企業オラクルコーポレーションの共同設立者であり、元CEO会長CTOである

2014年現在総資産は500億ドルで、世界で5番目の富豪である

 

ニューヨーク出身アシュケナジムユダヤ人母親フローレンススペルマン(Florence Spellman)は出産当時未婚の19歳で、生後9ヶ月のラリーシカゴに住む叔母リリアンエリソンとその夫である義理叔父ルイスエリソン養子として引き取ってもらった。ラリーは実の母の名も知らず育ったが、48歳の時に初めて対面した。

 

高校時代秀才だが、無愛想な生徒だった。イリノイ大学アーバナシャンペーン校に二年生まで通っていたが、リリアンの死後まもなく退学。カリフォルニア州北部で夏を過ごした後、シカゴ大学で学ぶために実家に戻ったものの三ヶ月でまたも退学し、カリフォルニア移住。この頃、コンピュータに触れ始めている。

 

1970年代エリソンはアンペックスで働いた。彼の関わったプロジェクトのひとつCIA向けデータベース開発があり、彼はそれに「オラクル (Oracle)」と名づけた。

エリソンエドガー・F・コッドのリレーショナルデータベースシステムに関する論文 A Relational Model of Data for Large Shared Data Banks に触発され、1977年自己資金1400ドルオラクル設立した。

彼はIBMのSystem Rデータベースがコッドの理論に基づいたものであると聞き、Oracleもこれと互換性のある製品にしたかったのだが、IBMエラーコード秘密にすることによって互換製品が出てくるのを防いでいた。

オラクル最初製品Oracle 2であり、Oracle 1は存在しない。このリリース番号は、それ以前のバージョンバグが全て解決されていることを暗示しようとして付けられた。

 

1997年8月ラリーエリソン親友スティーブ・ジョブズアップルに戻った後、同社の取締役就任した。2002年9月20日取締役会に出席する時間が充分に取れないことを理由アップル取締役を辞任した。

この人、キャラクター的にはあまりきじゃないけど、行動力はすごいね

コッド博士論文を見て自分RDBを作っちゃった!

Oracleバージョンを「2」から始めて、改良されているように見せかける。~ちょっと詐欺っぽいけど、商売うまい?w

 

 

 

SQLデータベース活用して、素敵なアプリWebサービスを開発してください。

では、これでいったん、増田プログラマー養成講座を終了します。

御清聴いただき、どうもありがとうございました。

 


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2018-12-02

anond:20181202014938

まず、努力にいい努力と悪い努力があるってことを知ってほしい。

受験勉強に例えると闇雲に複数参考書を虫食いで解くのが悪い努力、一冊を完璧に仕上げてから余裕があったら次へ行くのがいい努力

努力にはやり方がある。効率よく効果的に努力しなきゃいい成果は得られない。

なのに失敗する人は変なところに変な力を入れて努力する。それは単なる労力だ。

anond:20181202010259

Twitterで元記事が流れてきて、自分も同じような境遇だったかちょっと書きたくなった。

自分も両親がヤンキーで(父親高卒的屋の元締め、母親は中卒で水商売してた。)、教育に金を掛けるなんて発想は全くなかった。

父親アル中DV気味だし、母親はひたすら週刊誌を読んでるだけの人だから文化的に良い影響を受け継ぐこともできなかった。(というかそもそも無いし)

まれた所は港湾労働者が集まる町で団地も多くて、小学校運動会とかあれば金髪父兄がひたすら飲酒しながら怒号をあげて応援しているような地域だった。

大卒なんてもちろん近所にいなかったから、自分高校を出たら働くんだと幼い頃から思っていた。

でも中学校の時にすごく教え方の上手い数学先生出会って、その人のおかげで勉強が楽しくなった。

どうせ家に帰っても地獄だし、ずっと図書館参考書漁りながら勉強してた。

そのおかげか高校県内で一番の進学校に進むことができたんだけど、友達はだいたい工業高校私立の誰でも入れる高校に行ったから新しく友達を作らないといけなかった。

から入学してから色々な人に話しかけてたんだけど、みんなが当たり前のようにする話についていけなくてびっくりした。

習い事ピアノをするとか、海外旅行に行くとか、ほんとにそんな人いるんだって初めて知った。

その時に増田みたいに自分の生まれをすごい惨めに感じた。

でも、よく考えると目の前にいる恵まれた子たちも祖先の誰かが頑張って身を立てたから今があるんだなって思って、自分がその祖先になった気持ちで頑張ろうと思った。

そうやって惨めな気持ちがありつつもとりあえず頑張ることにしたおかげで、なんとかゴリラが現総長をしている大学に入ることができた。(当時はカレー好きの人が総長だった)

大学ではもっと上流の人たちがうじゃうじゃいて惨めな気持ちは加速したけど、色々と頑張ったおかげで学生生活楽しいものにすることができた。

今は最近退職話題会社の主要子会社研究所研究してる。

未だに実家に帰るたびにキツい家だなとは思うけど、努力したおかげでなんとか楽しい人生にはできた。

自分も「努力すれば解決する」価値観は無かったけど、とりあえずやってみたらどうにかなったし、やっぱり今までの諸々を赦した上で自分が何かを始めるしかないんだと思う。

今までの環境を赦すには本当に辛いものがあると思うけど、理想を持って信じて行動できるのが人間のいいところだよ。

多分ドリルとかの文物よりもランニングとかそういう身体的なものから入った方が話のネタにもできるし周囲と関わりやすいしオススメ

本当に応援してる。より良い人生を歩めますように!

2018-12-01

anond:20181201174317

食費 30000円

衣料 20000円。

本 買わない。参考書を稀に

携帯 月額7000円

日用雑貨 10000円

習い事代 やんないのでなし

2018-11-26

お金がないけど弁護士になりたい

24パート主婦、今更こんな夢抱くようになるなんて思ってもなかった。

予備試験受けて司法試験受けて弁護士になりたい。

恥ずかしくって誰にもまだ言ってない。だってさな子供プリキュアになりたいって言うのと同じじゃん?

たぶん無理だろうけど、分かってるけどチャレンジしたいんだよ、だって子供もいるけど私まだ若いじゃん、頑張ったらワンチャンあるかもって思いたいじゃん

お金もないのに何言ってんだって感じだけどさ、参考書すら買うのケチってる状態なのに

だけどメルカリ格安で譲ってもらった刑法入門書はとても面白くて、やっぱりチャレンジしたいなって思った。

ほんのちょっと(たぶん60時間くらい?)勉強しただけで受けた行政書士試験自己採点によると受かってるっぽくてさ、やっぱわたしセンスあるかもなんて思って

いや、全然レベル違うって分かってるんだよ、でもなんか可能ゼロじゃないかもって

なんで学生時代法学の楽しさに気づかんかったのか、はぁ悔しい

2018-11-24

資格参考書と比べると、中高生教科書ってなんてカラフルにつくってあるんだろう

2018-11-20

この前の初耳学

『子の学力母親から遺伝し、衝動攻撃性は父親から遺伝する』という研究結果が紹介されていて、昔のことを色々思い出してしまった。誰にも言えないのでここに吐かせてもらう。

うちの父は母に暴力をふるっていた。食器ガンガン投げて、朝台所に行くと母が泣きながら破片だらけの床を掃除していることが何度もあった。

一番忘れられないのは、私が小学校低学年のとき

テレビに夢中になっていて、「早くお風呂に入りなさい」と言う母に、もうちょっと観てから入る!と言い、お風呂時間が遅くなってしまった。私がお風呂に入ると同時ぐらいに父が帰ってきたのだが、なぜか激怒。怒りの矛先は母へ。

「なんで早く風呂に入らせないんだ!」

母を蹴る音と、痛いと叫ぶ母の声を浴室でちぢこまって聞いていた。

しかも私は、お父さんが怖かったのと自分のせいでお母さんが痛い目に合っているのが申し訳なくて、お母さんに声をかけることができず、お風呂から出たあと小走りで寝室に逃げた。床に座り、泣きながら蹴られた箇所をさすっている母の背中が今も焼き付いている。

あの時「大丈夫?」と声をかけていれば、母は少しは救われただろうか。勇気をだして父に立ち向かっていれば、何か変わっていただろうか。まだ10歳にもならない私には、見て見ぬふりをして逃げるのが精一杯だった。

数年後父は出ていくのだが、出ていったあとは母が怖かった。

教育ママで、言う通りにしなければ怒る。

宿題参考書を解いてるときは横に張りつき。解いてる途中でも、少しでも違っていれば頭をはたかれる。

怒られてる時は一切口答えできない。ただ泣いて我慢するしかなかった。怒りながらテーブルガンガン叩いているのが恐怖だった。物が飛んでくることもしょっちゅうだった。母へプレゼントしたコップが飛んできた時は凹んだ。

高校受験前は、ありがたくも塾に通わせてもらってたんだけど、志望校には落ちてしまった。「この金食い虫が」と言われた。

土下座して滑り止めの高校入学させてもらった。「資格をたくさん取ってたくさん勉強します」と念書も書かされた。

「お母さんは、よその着飾っている母親たちとは違う」「お母さんは、あなたよりもあなたのことを知っている。だからお母さんの言うことを聞きなさい」が口癖。

高校に上がると私は反抗する術を覚えた。口では勝てないので私も物に当たるようになった。この破壊行動は、20代に入り就職実家を出る頃まで続く。母は自分に都合の悪いことは知らぬ存ぜぬを貫く人で、話し合いで解決したことひとつもない。

話が通じないから物に当たることしかできず、ガラスを何枚も割り、扇風機や障子も躊躇なく投げた。

物を破壊しても満足できなければ、母を張り倒した。

母なんて死ねばいいと本気で思っていた。そのうち本当に殺してしまうんじゃないか自分が怖くなるときもあった。

あれから幾年。私は30代に入り、母はとっくに還暦を過ぎた。母はだいぶ丸くなったが、私は未だに母の前では笑えない。丸くなったといっても、私の就職先にケチをつけたり頼んでもないのに転職先をリストアップしてくるから本質は変わっていないと思う。

父の消息は知らない。高校卒業時、親戚の計らいで私とだけ再会したことがあったが、その後お金をせびられたので連絡を絶った。

母は、父から暴力を受けていたことは覚えていないという。私に吐いた暴言も、覚えていないと言う。

周りからは「女手一つで大学まで行かせてくれたんだから」「留学もさせてくれたんだから」「今は丸くなってるんだから」親を大事しろと言われる。

でも、大人になった今でも、忘れられない。

母に叩かれていたこと。

友達の家に遊びに行く度に、友達の家に「遊ぶな帰ってこい」と電話をかけてきたこと。

金食い虫と言われたこと。

土下座させられたこと。

反論するたびに出ていけと言われたこ

学校を辞めさせると脅されたこと。

辛かったことを伝える度に、私がそんなことを言うわけないと否定されつづけたこと。

かに助けてほしかったけど、誰にも言えなかったこと。

父に蹴られる母の泣き声と破片だらけの床。

「産んでくれたから」「学費を出してくれたから」ぜんぶ忘れて、水に流して、優しくしなければいけないのだろうか。

こういった、俗に言う辛い過去を抱える人は今は成功して幸せになりがちだと思うのだが、私は平々凡々。むしろパワハラ上司に負けて会社を辞めてニートまっしぐらだ。唯一の救いは、こんな私を見捨てないでくれている彼氏と、飼い猫が私にはもったいないぐらい可愛いことぐらいだ。いやそれで十分なんだけど。

から、初耳学のあの発表を見て、封印していた黒くてドロドロしたものが溢れ出てしまった。

いつか父のように暴力をふるってしまうのだろうか。

お金にだらしなくなってしまうのだろうか。

母のように、言ったことを「言ってない」と言い張り相手を混乱させてしまうのだろうか。

それとも母やみんなの言う通り、私は金食い虫で、一人っ子から甘くて、事実じゃないことばかり言っていて、親不孝なのだろうか。

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