はてなキーワード: 年末とは
結局また買って書かないのが関の山なので買わないんだけど、
観ている分では楽しいかもーって思いつつ。
やっぱりちょっと欲しく思ったりなんかして
お休みからおはようまでを見つめるライオン級にそう思うんだけど、
買って満足しちゃいがちな、
結局手帳ってあの多分システマチックな1日1ページの私あのフォーマットが好きなのかも知れないわ!
そう思うようにしたの、
だから
手作りで手帳の1ページの紙のフォーマットを方眼紙を作ればいいんじゃん!って
そしたら年中万年って言うの?
あの1日1ページの下のと頃にあるなんか気の効いた読み物は際限なく再現できないので、
私もしかしたらココ読みたいだけなのかしら?って。
とはいえ、
私も一応はノートの手帳ウィークリーアンドマンスリーを使ってるのよ。
これだとちょっと紙に記入して書いただけでも「を記を記」ばりに何か書いた気分と気持ちになるので、
もちろんこの時期気分と言えば、
おでんの紀文じゃない方の気分でションテンが上がる方の気分ね。
だからちょっと書いただけで書いた!って気になるからいいのよ。
全部の面を書き切れなくて真っ白いチョコッとだけ書いた1日を見ると何も書いてないって空しくなるのよ。
空を見つめながら。
その思いを握りしめるの。
手を広げてみてみたら手の中にはバブ!
いや違う違うそうじゃないの。
今は世界の危機を救うために少女にかけた希望が救えなくて儚く手のひらで消えてしまうようなバブみではなく、
私の手帳への対する思いを綴っているの。
だから
真っ白くなにも埋めることのない私の手帳、
ウィークリーアンドマンスリーだったら辛うじてなんか予定とか1つでも書いて埋めると充実した!
あ!そうだ
充実度がない!って手帳の紙の面が埋まってないとそう思うのかもー!って今気付いたわ。
そうなのかもね。
そんな鰯気になっている場合じゃないので、
まあ一応もう来年のウィークリーアンドマンスリーのノートは買ってあるから
準備的には準備万端なのよ!
そんで、
を記を記ってね。
今年の内に来年の予定を書くと鬼に笑われるっていうじゃない。
今年の汚れは今年のうちにってのはマイペット!
デスクの周りを机の上を少しずつ片付けないといけないわ。
なんか年末になると
そういったことが山積して山積みになるので、
忙しい上に忙しいのが重なるのよね。
まあ
だけどここ数年買ってないので私はこの「手帳好きだけど買わない」って確固たる意志を括弧でくくるぐらい強く言いたい気持ちなの。
でも何かに寄った際は
うふふ。
凄い食べ応えの迫力で大満足よ。
沸かして飲みながら冷ましている時間にいろいろと用事を済ませられるので、
朝方寒くなってきて冷えるからちょうど身体の中からほんのり温めるのもいいしね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
急に寒くなってきたって夜よ夜!
お布団が寒いわ。
さすがに毛布だけじゃしのげないので、
また冬のお布団干して出さなくっちゃってそう思っている矢先のころ。
早いと思うわー。
あっと言う間よ。
もらったら返信するタイプで
まあ何通かはくるかも知れないし
お年賀だけでのやり取りって人も1年に1回のやり取りしてるぐらいなのよね。
そんでこっちから先手で出すと話題が行き交って返信にならないので、
一旦もらったものの内容に近況を書いてある人はそのお返事内容するってところかしら。
でもさ
うーん
出すにもさすがに躊躇するわよね。
もうお餅何個食べた?とかお餅食べ過ぎ注意!なんてくだらないことを書くのに100円とか使うわけ?
100円と言ってるのは
そういうアバウトな感じでいう100円って記号的な意味で言っているわ。
だいたいそんなもんでしょ?
でももうすっかり手紙やハガキを個人的に書くことも年に1回も無くなっちゃったわ。
以前は近所でのど自慢の観覧募集の往復葉書をせっせと近所で開催するときは送っていたけれど、
あれ超絶競争率高いのよ!
しってた?
なんか10回ぐらいいや256回ぐらい送ってるけど
ぜんぜん当日の観覧当たんないの!
全日の予選は誰でも入場観覧好きなときに入退場できるスタイルではやっているものの、
やっぱり本番みたいじゃない!
もうそれ以降のど自慢の観覧希望へ応募する往復葉書すら買って送ることは無くなったわ。
そんな思い出ぐらいかしら?
でも今はもうPayPalとか個人でもカード決済できるツールがあるので
特にPayPalは海外送金も楽勝!少額でわりと手数料も多くないし、
だから小為替を買う事もなくなって郵便局に行く用事すら無くなってきたわ。
あ!
思い出したけれど、
ゆうパックで届いた荷物を近所の郵便局で受け取れるようにして受け取りに行くだけだわ。
なぜか
PUDOで受け取れる設定もゆうパックしたのに
郵便局に取りに行くのが億劫なので近所の事務所の近所の郵便局に転送してもらってるのよ。
いま郵便局をマックスで活用してる人って誰なのかしら?って思ってしまうわ。
簡単な封書で送れる郵便のやつはプリンターでシールを印刷して貼ってポスト投函したらオーケーだし、
まるで、
いかに郵便局はお客さんが郵便局に来ないようにするようなことしか考えてないみたいよ。
郵便局の数ってたくさんあって中の職員もたくさんいるので成り立ってるのかしら?ってそこも心配になるけれどそんなよそのお城の心配をしても仕方が無いことこの上ない山脈に向かってヤッホー!って叫ぶしかないわよね。
とはいえ、
たまに郵便局のパワーを感じる時があって
遠方に速達は意地でも翌日に到着するってその課金しておくる速達はマジ速達!って感じで速達なのよ。
これには驚くわ。
北海道の先の何もないでお馴染みの襟裳岬に送った速達がもう翌日には届いていたのよ!
何もないと言っておきながら襟裳岬には郵便局があったってことが分かったので、
何もないことはない襟裳岬に改称した方がいいのかしら?って
そこも心配になるけれど、
何もないところですっていう記述に変更がないことにしておくことにしたわ。
ただ
上がっていく郵便代にはなんとかしてほしいものだわってのもあるし、
なぜ速達は速く届くのか!って謎も解き明かして欲しいわ。
うふふ。
めちゃ早起きしてニケと思ったけど
メンテ中だったので
時間が余った分
ポタージュスープをお湯を沸かして最近ハマっている豆乳でわるのが美味しくて、
それをゴクゴク飲んできたわ。
起きてお湯を沸かしている間にニケ!って思ったらそのメンテ中だったので
お湯だけ沸かして白湯、
つまるホッツ白湯ストレートウォーラーを作って飲んだってわけ。
朝は飲むのに忙しいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いろいろ忙しくて乗り遅れたのですが余裕ができたので書いてみる。
発明初期のライセンスの諸々は省略で、あくまでプロダクトとしての10選とします。
元ネタはこの辺。
https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
現在のテトリスの基礎となる設置移動と緩急をつけて上昇する難易度が絶妙であり、
初心者からスコアのカウンターストップを目指す上級者まで楽しめる形となっている。
アーケードゲームの流行と併せ、当時の日本のテトリスブームはここから始まることとなった。
当時のゲームボーイにおける通信対戦機能を広めることになったエポックメイキングな作品。
横井軍平氏がプロデューサーを務め、通信対戦モードの導入はもちろんのこと、
当時のコンシューマのテトリス作品の中では非常に快適な操作性であったこともあり大ヒットを記録した。
「ハート」レベルは令和の現代でも通用する高難易度。現在はSwitchでの移植により遊ぶことができる。
海外版のファミコンであるNES(Nintendo Entertainment System)のテトリス。
ファミコン版はBPSから出ているが、こちらは任天堂から発売しており、ファミコン版とは操作性を含め全く別物となっている。
ゲームボーイ版に近い快適な操作性であり、またレベルアップについてもゲームボーイテトリスと同様に難易度上昇は非常に高速。
スコアのカウンターストップについては超高難易度であり、MAXOUTと呼ばれ多くのプレーヤーの最終目標となっていた。
10年ほど前からこのゲームの世界大会が開催されており、テトリスの権利元の協力もあり毎年の大きなイベントとなっている。
通常では人力では操作できないスピードに到達するためプレイに限界があるのだが、近年操作方法を工夫することにより超高速状態でもプレイをする方法が発明され、現在も世界大会のレベルが年々上昇している。
2024年1月に通常プレイを約1時間続けることによりクラッシュすることに成功したことが世界的なニュースになる等、テトリス史の中で最も重要なテトリスの一つであることは間違いないだろう。
キーホルダーサイズの小型の液晶のおもちゃ。テトリスを中心としたブロックゲームで遊ぶことができる。
入手性の高さ、そして小型のガジェットの手軽さから学生を中心に一大ブームとなった。
訴訟問題となった「テトリン55」を始めとしてほとんどが非ライセンス品であった。
その後ライセンス品としてはテトリスJr.という名前で発売された。
この時のキーホルダー型ゲームのブームはその後1997年のたまごっちに受け継がれていった。
競技向けに最適化された高難易度テトリスで、近代では一般的となった「出現後即接着(20G)」のシステムを初めて本格的に組み込んだ作品である。
続編である「Tetris: The Absolute – The Grand Master 2(とアップデート版のPLUS)」、「Tetris: The Grand Master 3 – Terror Instinct」とともに
長い時を経てようやく初代TGMとTAPの移植が行われ、今はSwitchで遊ぶことができる。
最新作である4については何度か発表と中止を繰り返しているが、2024年にテトリスのライセンスの取得をしたことをアリカが発表しており期待が高まっている。
携帯電話のアプリとして公開されたテトリス。アプリは買い切りが基本のため、十数種類の異なるバージョンが存在していた。
当時は物理キーの十字キーの中心に決定ボタンがある携帯電話がほとんどであり、その操作方法に最適化されたテトリスとなっている。
シリーズを通しておそらく遊んだことのある延べ人数としては日本最大なのではないかと考えている。
そのうちの一つであるTETRIS DIAMONDはSwitchに移植されたため遊ぶことが可能。
ワールドルールというテトリスの新仕様(ここにはT-Spinも含まれる)を盛り込んだ作品の中で一番普及に貢献したソフトであると思われる。
各種任天堂ゲームやキャラクターを活かしたステージやモードであることに加え、
システム上も新しい概念であるワールドルールをうまく昇華させたゲームバランスは見事というほかない。
そして世界中の人々と対戦が出来るネット対戦や、相手がソフト未所持でも最大10人まで対戦できるワイヤレス機能など、
3800円とは思えないボリュームがすばらしかった。宇多田ヒカル氏がエンドレスをカンストまで遊んだという逸話も。
特にネット対戦においては、近年の対戦テトリスにおける戦法はこのゲームで開発されてきたものであり、
テトリスの対戦を普及させた作品としては歴史上もっとも重要な作品であると考えている。
セガがテトリスのライセンスを取得し、ぷよぷよとの2in1として発表された作品。
ぷよぷよとテトリスの異種間対戦が売りであったが、対戦のバランスは初級者戦~中上級者戦に至るまで基本的にテトリス有利なバランスとなっていた。
理由としては、セガはコンパイル開発時代を含めぷよぷよ通ルールとしては長年の研究を経て高度化された対戦が繰り広げられていた一方、
相対してテトリスの対戦に関する知見に乏しかったのではないかと推測される。
次回作のぷよぷよテトリス2も含め、長期間にわたり日本のコンシューマのテトリスのデファクトスタンダードとして運用されてきたソフトであるため、
ゲームクリエイターとして有名な水口哲也氏がプロデューサーを務めた新時代のテトリス。
音楽と映像とゲームの融合が特徴の水口氏の作品の例に漏れず、このテトリスもステージ毎のビジュアルとサウンドの没入感が素晴らしく、各所から高い評価を受けている。特にVR機器との親和性が高く、VRでのプレイを推す人も数多い。
没入感を重視するためゲームとしては難易度を低く設定されており、文字通り誰でも遊ぶことが可能な作りになっているが、
それ以外の需要に応えていないわけではなく、各種対戦や高難易度モードも用意されている。
特に高難易度モードについては近代のテトリスの中で1、2を争うほどの難しさであり、完全クリア者は数えるほどしか存在しない。
続編であるテトリスエフェクトコネクテッドでは、先に述べたNESテトリスを再現したモードが追加しており、日本のテトリスプレーヤーにとって最も容易なNESテトリスの練習方法であった。
(なお、今年末に日本のSwitchオンラインでもNESテトリスが遊べるようになる模様)
テトリスにバトロワ系の要素を盛り込んだ作品。単純に既存の対戦テトリスのシステムを99人戦に拡張したのではなく、
独自のシステムを数多く盛り込む事で実力差がある人同士での対戦でも簡単にはやられないようになっている。
これによりバトロワ系のゲームを知らない初心者でも十分楽しめる作品となっている。
任天堂のサブスクシステムを登録している人にとっては実質無料で遊べることが大きく、テトリス単体でのソロプレイ機能も含めて非常に大きな人気を博した。
既にリリースから5年が経過しているが、現在もなお遊ばれている作品であり、2024年におけるテトリスの代表的な作品であることは間違いないであろう。
例えば飲み屋で意気投合した人が「元増田と一緒に働きたい!」って言って働けるのかってことよ。
一人旅、一人散歩、一人ご飯で楽しんでいたから他人が必要なくてなぁ
何を考えて「今後のこと」なのかわかんないけど、それ主体が元増田になってるじゃん。
趣味仲間もグループも、別に元増田のために存在するわけじゃないのよ。
所属する団体を増やしておくってのは、「複数の団体に所属できるくらい、社交性と度量を身につけておいた方が良いよ」って話。
だから、マジメにグループに入ろうと思うんだったら既に所属するためのルートが出来ている団体に入って、社交性を身につけてからじゃないと厳しいと思うよ。
この辺は、いわゆるお客様気分で参加してもむしろ歓迎されるとこ。
こういうのを経たのちに、ボランティアを探して参加してみたりとか、年末に第九を歌う会に参加してみたりとか、そういう風に進むわけよ。
いきなり知らん他人と打ち解けてグループを作れるかって言ったら無理よ。
募集してるボドゲとかマダミスとかに思い切って参加するって言うのは、良いと思うよ。単純に趣味増えた方が人生楽しいから。
ただ、そっから所属する団体を探すとか、既にあるグループに参加できるかって言ったら微妙よ。
自分で幹事やってグループ運営するくらいの気概が無いなら、まあ増えないと思うよ。
だったら、最初から入会条件が明確なグループに所属して、そこで社交性を培った方が良いよ。
そういう「えー、でもめんどくさいからグループに所属するだけで良いんだけど一人の方が気楽だし」っていうのを50代とかまで引っ張ると大変だぜってのが、たぶん最近読んだ記事なんだろ。
旅先でも友達作ってたまに絵葉書交換し合うような関係性作れるんだったら別に50代になってからだって遅くは無いと思うけど。
「めんどーだな」「ちょっと恥ずかしいな」「どうしたら良いかな」みたいなのは、マンパワーを必要としているボランティア系に参加して歓迎されながら「人と話して打ち解ける」という経験を若いうちに積んでおいた方が良いと思うよ。
その結果として、会社以外に自分が参加する会やイベントがいつも2~3ある(所属する団体が複数ある)というのが健全な状態だよ。
うちはオカンが晩年になってから急に趣味を増やして色んなグループに参加して楽しそうにしているのと対照的に、オトンは碁会所みたいなとこだけ入り浸ってたから、グループへの参加って性格とか社交性の有無で大きく難易度違うと思うよ。
俺は、ボランティア団体に参加して「俺でもとりあえず手を動かせば感謝されて参加しているメリットをグループに与えられる」というあたりで自己肯定感を高めて、趣味のグループ参加が上手くいったから。
単にこの絵はダメだと言うだけなら、そいつは何にでもケチをつける2ch脳なのかもしれない。この文章は下手で読み辛いと言うだけでも、読んでる側がアホなだけなのか区別がつかない。言及の対象が本当に程度の低いものなのかもしれない。程度って何だよって話だけど。
その辺も含めて、理由を並べない事には妥当性をもっともらしく明かせない。
専門家だから、プロだから、という権威で片付ける人も沢山いるけど。
なんで飛ぶかは知らない。でも現に飛んでる。それは多分理屈がある程度以上正しいことを何よりも示す。
じゃあ絵の出来が良いとかメシが美味いとかは何を見たらええねんっていう。
自然法則を明かすことと価値判断の妥当性の違い。妥当性なんてあるのかって話だけど。
こういう基準があって、それを満たせば程度を良いとする。基準がなければ始まらない。でもそもそもその基準自体が自明ではない。
まあ自分がどう思うかどうかが大事なんだろうとは思うけど。帰納的に「まあこういうのが良しとされるんだろうな」という感覚もあるけど、それだと基準の軸が多すぎていまいち明白にならない。
そんなもん無いとは思いつつ、真・善・美なるものの存在に期待しちゃう。それを求めて見極める能力の存在にも。じゃなきゃ年末の某格付け番組みたいなものも存在しないだろうし。
明確に覚えているサポーターとしての始まりは、昇格一試合目に行ったことだった。
その前にスワンに行った記憶は、J2初制覇の大宮戦、まだアナログ方式の電光掲示板の横で、その地鳴りのような応援だった。
こけら落としにも行ったらしいが、覚えていない。
こけら落としに行って、2002W杯を観て、ベッカムやロナウジーニョに憧れてサッカーを始めた。2004年、J1に昇格したからと、サッカーの勉強になるだろうと父親が年パスを買ってくれた。そうして開幕戦の東京に行った。
正直その頃には少年サッカーをなぁなぁでやっていたように思う。「シーパス」の為に少年サッカーを続けた。
いつの間にかN2層で飛び跳ねる客は私達家族含めた数名だけになって、私達も後からやってきたおじさんに「私たちは立ちますよ」と断りを入れていたうえで「見えない、下でやれ」と文句を言われて1層で応援をするようになった。
それから、
前半戦だけ優勝を考えた年があった。
流石にもうJ1に居られないのか、と思ったところから奇跡を見た年があった。
その翌年の後半戦は「2ステージでやってれば」と年末のサポーター忘年会で盛り上がった。
その翌年、新潟は少し繋ぐことにチャレンジした。結果は散々で、ギリギリ残留することになった。
ペナルティエリアの白線が壁に見えている前提かのような繋ぐだけのチャカチャカサッカーで、途中で解任された。
そこからあとの降格する前までは、あんまり覚えていない。呂比須サッカーとホニがいれば一年で戻れるだろと思っていた事だけは覚えている。
なんやかんやあって、どちらも開幕前には居なくなった。
劇薬の使い心地が良すぎたせいか、J2落ちてからも2年は途中で監督をすげ替えることになった。使わざるを得ないと言える状況ではあったのだが。
社長が変わって、強化担当が名解説(迷解説)になって、そうしてアルベルがやってきてくれた。夢見るような、本当にバルサのようなパスサッカーを展開するようになった。
2年勤めてくれたあと、FC東京に引き抜かれてアルベルは新天地へ向かった。
松橋さんは新任で、めちゃめちゃ大変な『スタイルを引き継ぎ進化させる』というタスクを、1年目にJ2優勝で、2年目は後半戦の安定した試合内容で、十分に結果で示してくれている。
そうして、9年前、テレビの前で泣き崩れるしか出来ることが無かった決勝の舞台へ連れてきてくれた。
クラブの運営は、前J1にいたときは大半入れ代わり立ち代わりだった編成を、数名の人数で抑えてくれている。
降格する年に上への野心を持ってやってきた男が、「このクラブを強くするんだ」と残ってくれた。降格した年にやってきた男が、その後移籍しないとは、正直思っていなかった。
そのうえで、アルベルが作ったスタイルで「このスタイルでやり続けたい」と選手が残ってくれるようになった。
このスタイルなら成長できる活躍できると、新潟を選択してくれる選手達がやって来てくれるようになった。
初昇格から降格まで、外国人頼みだった攻撃の印象を、今の新潟しか知らない人はもう持っては居ないだろう。
トップチームより先に、レディースも、ユースも、トーナメントのてっぺんを見ている。
アルビだからと行ったけれど、この時の自分は本気で応援できていたのだろうか。決勝を戦うレディースを羨んで嫉妬していなかっただろうか?純粋に楽しめたのだろうか?
11/2には、新国立で、男子アルビレックス新潟にとって初めて優勝のかかる試合になる。
一生に一度目だ。選手には全力で楽しんでもらいたい。一サポーターとして、全力で楽しみたい。
間違いなく、名古屋は最強の敵だ。
でも、楽しんでほしい。楽しみたい。
こんな経験は二度とできない。
この特権を楽しもう。そして、一緒に楽しんでくれる人たちを増やそう。
皆を巻き込んで、ミーハーでも何でも増やして全力で楽しもう。
それがサポーターの一人として、私にできる最後の足掻きだ。少しでも新潟を応援してくれる人を増やして、国立をオレンジと青で染めるための。
アッッ!だ・・・!か??⤴゛よる???、家庭ヌ出ュシ゛ャラ!家計🍂着服!?!?!?!?!?!?!!!ソレタカシ!!!!
⠀旦那ァ!!!!あれ!?え~....給与明細にナイ⤴⤴あい。明細💸!?ゥわぁお、隠し!?隠ッ💵フキ......シリッ
旦ナンも💥12月終ワリだれ💀。何???じゃ?ゼンブ着服されタ年末明細、カモン⤴!!!!!!!!!!!!
✍ッ!?🚶♂️給与!!?事実は何⤴か!?!?ってオーマイガッ!💼........💸会社のアナタ、旦那のスリペでん💵。
http://example.com/dummy_link1チェック!!会社!?!って月々ニカワル?給与は!💰ない!!源泉徴収票?!?
ゲンセンシュウ票で総合もアウトソ!!!💥!給与から着服💸💸!?。旦那が💀家計を!!
1年の終ワリ!?キテモいい?!給料....ガクガクの総支給...⤴か?🕵
そこに??源泉徴収票🤔!!支払額😮!?!?!?!?🤯
家計ブック着服!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?だが!!⤴⤴⤴ってアリ!?!?!?!?!?!?!?着フックガク!アウト!OUT!!!!!!大変だぁぁあぁァ!!!!!!
ネットで偶然、ゴスペラーズの30周年ライブを知った。年末にあるそうだ。もしかして行けるかもとチケットをみてみたら、すでに完売状態、追加販売で立ち見席のみという状態だそうだ。そうだよなぁ、と肩を落としたが改めて考えてみる。なんでこんなに人気なのに追加公演しないのか。そうか、彼らももう50を越えてるのか。もしかして、体力的な問題で全国ツアーとかはできないのかな、とか考えていたら、急に怖くなってきた。
俺はまだゴスペラーズを観ていない。人生で1番影響を受けたと言っても過言ではないアーティストなのに。昔はあんなに大好きで毎日聞いて、いつか彼らが住む東京に行こうと夢描いていたのに。大人になってだんだん聞かなくなったけど、ずっと心の支えだったのに。このまま、もし活動休止とかなったらどうしよう、人生で1番のアーティストを観ずに終えてしまうのか、と急に怖くなってきた。
そういえば、同じく大好きだった柳ジョージさんが亡くなった時は大変にショックだった。ゴスペラーズなんて全然若いから大丈夫、なんて思ってたけど何があるかわからないし、たしか誰かが体調不良だったという記事も見た気がする。
だから来年、ゴスペラーズのコンサートに行きたい。ファンクラブもちゃんと入って、事前情報をちゃんと手に入れて、チケット申し込んで、生で歌を聴きたい。嫁にも相談しないといけないな。
30周年のあとだし、次のコンサートは間が空くのかな。チケット当選できるかな。そもそも最近の歌を予習しないとな。
やることや不安なことはいっぱいあるけど、一年以上先の楽しみができたなんて、自分でも少し驚きだ。推しがいるというのはこういうことなのか。
やれることは全てやって、その日が来ることを楽しみに待ちたい。
エッセイ漫画を読んでるとメンタル病んでる女性や障害がある女性に「でも支えてくれたのは彼くんでした!」と突然生えてくる現象、私もずーっっとそこを省略するななんで病んでて彼氏が出来るんだと思ってたので、長年メンタル病んでて今も病んでる自分がどうやって理解ある彼くんを作り夫くんにしたかを1サンプルとして書きます。
振り返って思ったけどドラマチック皆無の本当にそこらへんにある流れではあります。
あとODはしたことあるけどリスカとかはしたことないです。リスカじゃ死なないから。私は生きてる実感なんて欲しくなかった。
生い立ちとか:
母親は高卒後結婚、信仰宗教にどハマり、エセ科学自然派ママ、手のつけられないヒステリー、過干渉、軽い虐待(針を刺してくるとか)、娘より優位に立ちたがる、世間体重視で娘の気持ちは無視、脅す事で言うことを聞かせる
言っちゃいけないことをぽろっと言うし何が悪いか分かってない、おそらくアスペ
私が限界になって死にたい…って泣いた時、「来世の為に頑張らなあかん、その辺のスーパーのおばちゃんに良い精神科ないか聞いてこい」と言い放った。
は????
私 本が大好きな子供だった。真面目で勉強が好きなため中高一貫進学校、大学を有名大と言われるとこにいく、が、母親と父親にけちょんけちょんにされてるので対人関係で適切な関係がわからずとにかく他人が怖い、完璧に振る舞わないと刺されると思ってる
ストレスにより頭皮から体至る所に蕁麻疹が出来る、つねに不安感で寝られない、月1,2で動けなくなる
10才の時に生きるのが辛くて辛くて遺書を書く(理由はその時は分からなかった)
深夜まで勉強してることが唯一の生きてる証
高校の時に電車に乗れなくなり心療内科に連れて行って欲しいと両親に伝えるも劣化の如く怒られる、保険証を渡してもらえない。この時治療受けていれば…と今なら思う。
同時に拒食症発症。37kgになる。部活やってたので痩せてるんだねーと心配されず。親戚からは心配されたけど痩せてる自覚なし。生理止まる。
他人が怖いといいつつも親元から離れてすごす大学生活は快適だった。
母親に本なんて読まず友達と遊べ!いつも人気者でいろ!でも私よりチヤホヤされたら許さない!(母親には友達がいない)とかいう無理ゲーを押し付けられてたため、大学では友達一人も作らず勉強だけしていようと思っていたけど、母親の支配下じゃない友人関係はとても快適でとても楽しい時間だった。今でも思い出す。
が、唯一の取り柄だった勉強で一番を取れない、週二の徹夜で実験レポと実習とバイト、なにより友達から聞く「家族像」がうちとは違いすぎて、あれ?と思うことが増える。
年末が近づくと動悸が強くなる。
抗うつ剤、抗不安剤飲みながら就活、希望の会社に入れるも動悸と不安感がすごく、新入社員ということで肉体的にも辛くなり不眠悪化、二年頑張るも「もしかして一生このままなのかな…」と絶望して退職
その後は休養と転職を7回くらい繰り返して、無職だったりぽんこつ会社員をしてたりしました。
給料と環境は一番初めの会社が一番良かった。拘束時間長かったけど楽しい仕事だった。
でも長時間働くと動悸と不安感で辛すぎるので、8時間勤務の事務職しかできなくなった。それもしんどかったけど。ゆるい会社はひどい男尊女卑で、客層も悪くて初めはびっくりした。B to Bの電話で開口一番怒鳴ってくるクライアントとかいた。
生理休暇を使った結果激減した手取りの額(11万)見ながら、私の価値ってこれだけしかないんだなぁー…と逆に乾いた笑いが出るくらいにはなった。この時30歳。(まだメンタル疾患が大変すぎて鬱と体調不良の波がありすぎて恋愛どころではない。)仕事で本当に酷いモラハラがあって、よし、死のう!と思い立ち通帳やら自分用の仕事道具を鋏で切って捨てて、スッキリして、いや死ななくていいだろと思い直し次の日から診断書あるんで休職しまーすと電話し、気になってた漫画読んだりゲームやったりした。従業員を人として扱ってたらこんな事にならないんだから会社は反省しろ。という気分だった。
相当やさぐれていた。脳がバカになっていたのでゲームや漫画は面白かったけど記憶はあまりないです。メガテン、ポケモン、ニーア、サクナヒメとかとても助けられたことは覚えてる。
その時なんとなくもう一つやりたいことがあった。大学の専攻で学んでいた事だった。家のノートPCでも出来たので、ちまちまやるようになった。
全然頭働かなかったけど、技術を理解するたびに面白いと思えるようになった。
一人で作品公開してるとちらほら反応が貰えた。ネットで人と交流するようになった。
一年半の休職期間が終わり、そのうち、まぁまた働いてもいいか…と思ってモラハラ会社は退職し転職でまた事務職に就いた。
新しい会社も微妙だったが、やる事やったら定時で帰っても怒られないのは助かった。
もうしぶとく一人でひっそり生きていこうと思い始めた。同じ趣味のネット友達と作業しながら会話するのが私の楽しみになった。
ネットで技術情報交流サーバーがあった、そこで一人もくもくと作業やってたのが未来の彼氏(夫)くんだった。
ネットではいろんな人と話してたのでいつから会話したのかわからないけど、この人と話してると居心地いいなぁと思うようになった。初めて人にときめいた。これは直感なので理由がないです。言葉や発想が優しかったとかそんな感じです。
やってたゲームが面白そうと言われたので一緒にやってみませんか?と誘ったら遊んでくれた。
何回も遊んで色々話すようになって、住んでるところが近かったので会いましょうとなった。
ですが私はすでに30才超えてる。彼くんは私より若かった。年齢は伝えたが会っておばさんかよ!と失望されるしかない、ここから恋愛は無理でしょー…と思ってたら向こうも気に入ってくれたみたいでまた遊ぶようになった。
彼くんは私より若かったけど話は合った。というか勉強して合わせてくれてたらしい。
で、デート繰り返して告白されて同棲を二年してプロポーズされて結婚した。(ここをもっと詳しく書けたらいいけど映画とか美味しいもの食べに行ったり旅行行ったり、付き合い期間が長いから婚約とかで普通すぎて)
多分夫くんの結婚の決め手は
・私が好物の料理作ってくれる
とからへんだと思う。
夫くんになるまで、とタイトルに書いたけど平凡な日常になるように
彼くんに心配をかけない、負担をかけない、っていう気持ちで暮らしてた気がします。そう心がけても体調不良で迷惑かけるからね
極力私はメンヘラを隠してました。病名は伝えてたけど、もうほぼ元気なんだー、みたいな。付き合ってる時は調子いい時に会うようにしてました。
まぁそれでも、迷惑はかけてる。
今聞いたら同棲したてのころ、体調やメンタルがやばくて泣いてたらしい。
ただ、
理解ある夫くんは自分が疲れたら適宜休んでる。辛いことがあったら辛かったよーって話してくる。
辛い時は頑張らなくていいんだ、というのが衝撃だった。言葉では知ってても実際の行動ってこんなんなんだ!
ので、私も休むようになった。
夫くんは私が休むと褒めてくれるし代わりに家事してくれたりマッサージしてくれる。
理解ある彼くんを見つけて夫くんにするまでの所、やっぱり詳しく書こうとするとその辺に転がってる話と同じになってしまう。
メンヘラ女にも調子がいい時があって、その時に接してきた優しい男性が趣味が合うから彼女に選んでるんではないか?
と言う身も蓋もない話になってしまった。
エッセイ漫画を読んでるとメンタル病んでる女性や障害がある女性に「でも支えてくれたのは彼くんでした!」と突然生えてくる現象、私もずーっっとそこを省略するななんで病んでて彼氏が出来るんだと思ってたので、長年メンタル病んでて今も病んでる自分がどうやって理解ある彼くんを作り夫くんにしたかを1サンプルとして書きます。
振り返って思ったけどドラマチック皆無の本当にそこらへんにある流れではあります。
あとODはしたことあるけどリスカとかはしたことないです。リスカじゃ死なないから。私は生きてる実感なんて欲しくなかった。
生い立ちとか:
母親は高卒後結婚、信仰宗教にどハマり、エセ科学自然派ママ、手のつけられないヒステリー、過干渉、軽い虐待(針を刺してくるとか)、娘より優位に立ちたがる、世間体重視で娘の気持ちは無視、脅す事で言うことを聞かせる
言っちゃいけないことをぽろっと言うし何が悪いか分かってない、おそらくアスペ
私が限界になって死にたい…って泣いた時、「来世の為に頑張らなあかん、その辺のスーパーのおばちゃんに良い精神科ないか聞いてこい」と言い放った。
は????
私 本が大好きな子供だった。真面目で勉強が好きなため中高一貫進学校、大学を有名大と言われるとこにいく、が、母親と父親にけちょんけちょんにされてるので対人関係で適切な関係がわからずとにかく他人が怖い、完璧に振る舞わないと刺されると思ってる
ストレスにより頭皮から体至る所に蕁麻疹が出来る、つねに不安感で寝られない、月1,2で動けなくなる
10才の時に生きるのが辛くて辛くて遺書を書く(理由はその時は分からなかった)
深夜まで勉強してることが唯一の生きてる証
高校の時に電車に乗れなくなり心療内科に連れて行って欲しいと両親に伝えるも劣化の如く怒られる、保険証を渡してもらえない。この時治療受けていれば…と今なら思う。
同時に拒食症発症。37kgになる。部活やってたので痩せてるんだねーと心配されず。親戚からは心配されたけど痩せてる自覚なし。生理止まる。
他人が怖いといいつつも親元から離れてすごす大学生活は快適だった。
母親に本なんて読まず友達と遊べ!いつも人気者でいろ!でも私よりチヤホヤされたら許さない!(母親には友達がいない)とかいう無理ゲーを押し付けられてたため、大学では友達一人も作らず勉強だけしていようと思っていたけど、母親の支配下じゃない友人関係はとても快適でとても楽しい時間だった。今でも思い出す。
が、唯一の取り柄だった勉強で一番を取れない、週二の徹夜で実験レポと実習とバイト、なにより友達から聞く「家族像」がうちとは違いすぎて、あれ?と思うことが増える。
年末が近づくと動悸が強くなる。
抗うつ剤、抗不安剤飲みながら就活、希望の会社に入れるも動悸と不安感がすごく、新入社員ということで肉体的にも辛くなり不眠悪化、二年頑張るも「もしかして一生このままなのかな…」と絶望して退職
その後は休養と転職を7回くらい繰り返して、無職だったりぽんこつ会社員をしてたりしました。
給料と環境は一番初めの会社が一番良かった。拘束時間長かったけど楽しい仕事だった。
でも長時間働くと動悸と不安感で辛すぎるので、8時間勤務の事務職しかできなくなった。それもしんどかったけど。ゆるい会社はひどい男尊女卑で、客層も悪くて初めはびっくりした。B to Bの電話で開口一番怒鳴ってくるクライアントとかいた。
生理休暇を使った結果激減した手取りの額(11万)見ながら、私の価値ってこれだけしかないんだなぁー…と逆に乾いた笑いが出るくらいにはなった。この時30歳。(まだメンタル疾患が大変すぎて鬱と体調不良の波がありすぎて恋愛どころではない。)仕事で本当に酷いモラハラがあって、よし、死のう!と思い立ち通帳やら自分用の仕事道具を鋏で切って捨てて、スッキリして、いや死ななくていいだろと思い直し次の日から診断書あるんで休職しまーすと電話し、気になってた漫画読んだりゲームやったりした。従業員を人として扱ってたらこんな事にならないんだから会社は反省しろ。という気分だった。
相当やさぐれていた。脳がバカになっていたのでゲームや漫画は面白かったけど記憶はあまりないです。メガテン、ポケモン、ニーア、サクナヒメとかとても助けられたことは覚えてる。
その時なんとなくもう一つやりたいことがあった。大学の専攻で学んでいた事だった。家のノートPCでも出来たので、ちまちまやるようになった。
全然頭働かなかったけど、技術を理解するたびに面白いと思えるようになった。
一人で作品公開してるとちらほら反応が貰えた。ネットで人と交流するようになった。
一年半の休職期間が終わり、そのうち、まぁまた働いてもいいか…と思ってモラハラ会社は退職し転職でまた事務職に就いた。
新しい会社も微妙だったが、やる事やったら定時で帰っても怒られないのは助かった。
もうしぶとく一人でひっそり生きていこうと思い始めた。同じ趣味のネット友達と作業しながら会話するのが私の楽しみになった。
ネットで技術情報交流サーバーがあった、そこで一人もくもくと作業やってたのが未来の彼氏(夫)くんだった。
ネットではいろんな人と話してたのでいつから会話したのかわからないけど、この人と話してると居心地いいなぁと思うようになった。初めて人にときめいた。これは直感なので理由がないです。言葉や発想が優しかったとかそんな感じです。
やってたゲームが面白そうと言われたので一緒にやってみませんか?と誘ったら遊んでくれた。
何回も遊んで色々話すようになって、住んでるところが近かったので会いましょうとなった。
ですが私はすでに30才超えてる。彼くんは私より若かった。年齢は伝えたが会っておばさんかよ!と失望されるしかない、ここから恋愛は無理でしょー…と思ってたら向こうも気に入ってくれたみたいでまた遊ぶようになった。
彼くんは私より若かったけど話は合った。というか勉強して合わせてくれてたらしい。
で、デート繰り返して告白されて同棲を二年してプロポーズされて結婚した。(ここをもっと詳しく書けたらいいけど映画とか美味しいもの食べに行ったり旅行行ったり、付き合い期間が長いから婚約とかで普通すぎて)
多分夫くんの結婚の決め手は
・私が好物の料理作ってくれる
とからへんだと思う。
夫くんになるまで、とタイトルに書いたけど平凡な日常になるように
彼くんに心配をかけない、負担をかけない、っていう気持ちで暮らしてた気がします。そう心がけても体調不良で迷惑かけるからね
極力私はメンヘラを隠してました。病名は伝えてたけど、もうほぼ元気なんだー、みたいな。付き合ってる時は調子いい時に会うようにしてました。
まぁそれでも、迷惑はかけてる。
今聞いたら同棲したてのころ、体調やメンタルがやばくて泣いてたらしい。
ただ、
理解ある夫くんは自分が疲れたら適宜休んでる。辛いことがあったら辛かったよーって話してくる。
辛い時は頑張らなくていいんだ、というのが衝撃だった。言葉では知ってても実際の行動ってこんなんなんだ!
ので、私も休むようになった。
夫くんは私が休むと褒めてくれるし代わりに家事してくれたりマッサージしてくれる。
理解ある彼くんを見つけて夫くんにするまでの所、やっぱり詳しく書こうとするとその辺に転がってる話と同じになってしまう。
メンヘラ女にも調子がいい時があって、その時に接してきた優しい男性が趣味が合うから彼女に選んでるんではないか?
と言う身も蓋もない話になってしまった。