はてなキーワード: 無用とは
そもそも被爆者や2世はみんなあなた達と同じ感性や意見なの?被爆者だと理屈無用なの?
リベラルって保守なんかよりはるかに頭良くて弁が立たなきゃやれないものなんだよ
なのにそうやってすぐ被害者とか弱者とかの身分制で議論に勝とうとするじゃん?
それをやって自分の脳を甘やかすからどんどんどんどん弱くなったんだと思うよリベラル
もう普通におつむでも口の回転でも保守とかアンフェとかの方が上じゃん?
リベラルってあんな程度の連中に負けるような脳味噌の人間が参加していいパーティじゃないんだよ本来
どんどんバカに退化していったこととバカに門戸を開いたことがリベラルの自壊の原因なんだよね。
本来的に言えばリベラルなんて学校の1学年に2,3人ぐらいじゃないとおかしいんだよ。多くても5人。
それ以上いたらリベラルの資格を満たさないバカが混ざり始めてるってこと。
俺はリベラルになれる。いくらでもG7失敗論を自分の頭と言葉で打ち立てられるから。(リベラルじゃないのでやらんけど)
君はなれない。「被害者様に逆らうな!」なんてことしか言えないバカだから。
そういうこと。
な、なんやこいつ
俺がなんか「弱者を切り捨てろ!生活保護撤廃!」みたいな話を少しでもしたか?
「話が自分の思うように進まない時に弱者や被害者を便利使いして巻き返そうとする悪癖はやめろ」つったんだ
それは頭使ってないから・頭が更に悪くなるからと。どんどん頭悪くなって弱くなった原因はそれだろうと。
それに対してこういう全く話が噛み合わなくて「弱者に配慮してる風」しか取り柄の無い意味不明なコメントを書く奴が現れる、
俺の言ってることの実例登場が早すぎるだろ。自演疑われるレベルだからやめてほしい。
頭がある程度抜きんでて良いために必然的にリベラルになってしまう正しいリベラル(素質的に5%もいない)と
まともな議論が出来ない・保守やアンフェに負けるレベルのおつむなのにリベラルぶってる闇リベラルがいて
後者が増えすぎてるんだよな
でも後者は全く人の役に立たない
tobalno1 保守からするとリベラルは少数派でいて欲しいから、
自分たちの側にはどれだけ頭の悪いアンフェやミソジニーがいても何も言わず、
何言ってんだ
保守は頭悪くていいんだよ
見た感じ君は明らかに頭悪い普通の日本人だから保守やった方がいい
逆にそういうレベルの人が無理してリベラルやって何になるのかを教えてほしい
普通の日本人として先例とか周りの人間とか大事にして生きれば当人はハッピーだし周りに無駄な迷惑もかけない
俺がもし保守やアンフェだったら
君みたいな知的レベルの「リベラル」が頭数増やしたってなんにも困らないどころか
そういうのをどんどんぶちのめしてイージーに大勝利大勝利って喧伝して勢力拡大やnote稼ぎに使えると思う
実際そういうのいるじゃん
頭悪いアンフェのミソジニーと言えば例えばtwitterででかいつらしてる白饅頭や小山、
でも君等はあれ以下だよな?
例えばきみはあれと口喧嘩して勝てるかって言ったら
残念ながら死ぬほどハンデ貰っても1ラウンドKO負けだろ
保守(か?)・アンフェ・ミソジニーより頭悪くて議論弱いリベラルって何?なんか存在意義があるのそれ?
やろうと思えばあいつらを凹ませてnote売上もべっこり凹ませることが出来る
最低限その程度の能力のある人間が、「仕方ないなー」って気持ちでリベラルをやるの
できてねーしさ
これだけクドクド言えば話は分かったか?
koo-sokzeshky “俺はリベラルになれる” 新しいな。G7に失望してないリベラルはどうすればいいんだ。あと個人的には、誰もバカではないと仮定するくらいでないと理屈や論理というものが存在意義を失ってしまうと思ってる。
新しくもなんともない
もともと知性と人格において抜きんでた人間がリベラルになるんだ
今のリベラルは頭の悪さを自分に許した弛緩しきったバカ集団だし
どう見ても人数が多すぎるので素質を具備しない人間が大量に混入している
ここで見ただけでもわかるように最低限話噛み合う応答すら出来ないバカだらけなんだから君の仮定はまるっきりなりたたない
そもそも理屈や論理というものを扱える人間は人類のうち一つまみしかいないし
何書いてるのか本当に読めないし、自分の主張の為に論理をくみ上げるなんてことが遊びでも出来ない
それが人類の大部分であるからそいつらは全員保守やってろ無理すんなと言っている
どんなに頭が悪くても”常識”を守れば人生を肯定してくれる保守はリベラルの100倍優しい
頭が悪い殆どの人間にとっては懐の広い慈母のような存在だと言える
リベラルは頭悪けりゃそれだけで入会お断りの感じ悪いフラタニティと思えば実態に近い
バカの癖にリベラルをやろうとして保守を敵視してるような奴はなんなんだかな
言ってない。
後悔してるくらいなら、無用なCOはしないだろ。
俺は女性が好きです。
「神聖でいながら妖艶。慈愛に満ち溢れながら冷酷さを持つ」そんな女性という偶像を愛しています。
待遇もよく給与も満足してるが人間関係や上下関係に関してはちょっと前時代的なうちの会社では、独身の俺は「結婚しろ」だの「誰か紹介しましょうか?」だの「女嫌いなんじゃないか?」だの言われる。その場じゃ笑って「なかなか難しくて」なんて誤魔化してるんだが、ここで本音を置いておく。
なお、俺は現実の女性に対して憎悪やヘイトをぶつけたり加害する気はないのでその心配は無用。このエントリが女叩き、ヘイトと勘違いされたらそれはもうどうしようもない。憲法は私人と私人の間には入ってくれないので殻に閉じこもるしかない。
しかし、現実の女性が汚いって認識は変えるつもりはない。女性だけじゃなく男性も汚い。大人はみんな汚い。俺も汚い。人間は汚い。
双方ともゴミだろ。 自称トランス女が入ってくるのが嫌だとかいうのもわかる。
だけど、マイノリティーガーとか散々わめいてたのはどこ行ったって感じだわ。大好きな多様性はどこ行ったんや?wあれはうそか?w
更に、今度はトランス女を排除したいはいいけど、男が加害者ばかりだーとか女性専用スペースはすべて防犯目的だからトイレみたいなの以外でもオールオッケー。差別と関係ない。
とか笑っちまうこと言うからな。 男性じゃなくて黒人とか在日とかでこれ言ったら一発アウトだけどな。曲がりなりにも高学歴な奴もいるはずだが、マジで言ってることわかってないんだなと。
そのおかげで、無用な男性への警戒心とか盗撮して晒上げとかみんな大好きなヘイトが蔓延し始めてるんだけど。
で、逆にトランス女入れろってやつも前述した内容を男には認めてもいいんですう・・・。って感じのやつがいるからなお気持ち悪い。
もちろん、女が被害にあおうが多様性なんです~~~ってわけわからんことも言うんだろ?
それなのになんだろ。双方とも私は差別してません!って感じの独特の気持ち悪さがある。よくこんな状況でお互いに正義だと思ってるな。
映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれた世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画『BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。
公式サイト: https://bluegiant-movie.jp/
予告編(YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk
今年の二月から上映している本作は、同名の漫画を原作としたアニメーション映画だ。音楽と人間の物語を楽しみながら、ジャズ界の独自の価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。
主人公の宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷の仙台を飛び出し、単身上京する。東京で出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校の同級生で素人のドラマー・玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。
原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成が採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみ(ピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽とアニメーションのコラボレーションの最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境の存在が大きく、Netflixの支配力が高まる現代において、専用施設の役割や可能性を示すことにもなっていた。
今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標が物語の性質に与えた影響について考えていきたい。
映画『BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽の関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味を見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。
演奏者である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身と真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身と対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。
ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽が空気を振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在を再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽や精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語と音楽と映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶるからだろう。
ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽の演奏が聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるもの」であることを実感するが、この映画ではアニメーションの技術やアイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。
また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後のライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blueの舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。
本作はジャズライブの世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーションや人間関係のあり方についても、ジャズ・プレイヤーたちの世界や文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。
ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身の活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズはロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラな状態が肯定され、自助を基調としたコミュニティ文化が成立している。
例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身の問題だから、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮を無用なものとして切り捨てる態度を取っている。
しかし、自分自身の問題であることと、周囲がその解決をサポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ、人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身の問題でしかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。
ところが、ジャズ・プレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれてしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係やコミュニケーションの方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまり「ジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。
「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョなワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズの性質を、人間関係のアプローチに転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。
この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助の圧力が高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身の問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。
この作品にはもう一つ、物語の性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。
大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一のジャズクラブ・So Blueのステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。
ジャズマンにとってのSo Blueは、野球の甲子園やラグビーの花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園や花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから「権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。
JASSはSo Blueの支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイが否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者が凡庸な人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である。
また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分が評価していないギタリストと共演しても、相手が一定のプレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分のソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界の人間もたくさん集まる。駄目バンドの烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威が肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。
若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズ・プレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。
映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画『BLUE GIANT』は、ジャズの美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの(自助を前提とした人間関係やコミュニケーション、権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。
それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助を強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽だけが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。
周回遅れの議論をしているのはお前だ。
育休制度の趣旨に関してはその通りで、社会インフラの恩恵を受ける企業が一定の範囲で人口維持にコストを割くのは理にかなっています。しかし大元の増田はそれを否定しておらず的外れな指摘です。
大元の増田は『勤務年数が成果に繋がりづらい事務職においては出産・育児を経ても職員に継続して勤務してもらえるという企業側のメリットを享受できず経営者や他の職員の理解を得づらいので利害調整が難しい』という話をしているのに、突然『あえて言うなら「国という会社の利益のための制度」です』とか言って殴り始めるのは日本語読めてるか心配なレベルです。大元の増田が求めているのは育休制度そのもののメリットではなく、経営層やしわ寄せを受ける職員が納得できる理由や、理解を得やすいより具体的なメリットの発生する制度改革であるとまともな国語教育を受けていれば読み取れるはずです。
現実の『仕事』は単一の価値観に基づいて物事が決まることは少なく、管理職は経営層や職員、育休制度を含む規則など相反する複数の価値観に基づいて利害関係を調整した上で最終的な制度や手順に落とし込まれます。育休制度は複数ある制約の一つでしかなく、大元の増田も管理職であることから様々な制約の中で最大公約数的な解答を見つけるのが『仕事』であり、そこでもがき苦しんでいます。
育児休業制度の趣旨そのものは良いことであり正しいですが、『他の職員や派遣社員の労働環境の維持・改善』、『事務業務の質の向上』、『利益を出して給与を払い納税する』といった価値観もまたいいことであり正しいことなので、育児休業制度そのものの正しさを語るだけでは不十分です。また大元の増田は少なくとも育児休業制度がある社会を前提として現実の制度の落とし込むために汗を流しており(それが管理職の業務として理解ある態度を取っているのか本心なのかはわからないが、その差異については今回の問題に実質的な影響はないだろう)、そういった人に対して「何周遅れの話をしているのか」と侮蔑の言葉を投げかけるのは非常に失礼なだけではなく、無用な断絶を招く悪しき行為だと感じますので撤回か謝罪をされたほうが良いのではないかと思います。
そもそも論なのですが、価値観が多様化した現代において現実に発生している問題の殆どは利害関係の調整が難しく、現実的な落とし所としての解がみつかっていないものであると私は考えています。その中で実際に問題の解決に当たる人というのは、個別の価値観の正しさは認めた上で多くの人が納得できる解を探すことがほとんどです(担当者個人の心情はどうであれ、仕事としてはそのようにしか進まないことがほとんどだと思います)。そういった人にとっては盲目的に個別の価値観のみに則って「~する人は全員バカです」とマウントを取る人間は周回遅れであり、「それはそれで正しいけれどもいきなりは変えられないし現実的にどうやって実現できるか考えてるんだから黙ってろバカ」というのが本音であることも多いと思います。ただそういった人たちがいることで世論が動き、世間の価値観がどちらかに寄ることで着地点が見つかることも多いので、特定の価値観のみに基づく言説それ自体が悪とは思いません。ただ今回の批判増田によって大元の増田の会社の意識が変わって問題が解決することはないと思いますが。
また現実に問題を解決しようとする人がそれを理解していればいいのですが、仮に特定の思想が強い『活動家』が仕事を始めてしまった場合、自身の信じる理想にのみ基づいて仕事を進めるため大抵はうまくいきません。例えば利害が衝突する価値観に突っかかって多くの敵を作ってしまったり、理想と関係の薄い業務を軽視しがちになり税金を使っているにも関わらず経理が疎かになったりといったようなことが起こりえます。
オレオレFCはFW森永&鈴木潤のゴールなど、今季最多の5ゴールで快勝した。前半22分、鈴木潤の左CKを森永が頭で押し込み先制。前半終了間際にもMF前田のパスに森永がボレーで追加点を挙げると、後半6分にも森永がヘディングで決め、ハットトリックを決めた。その後もDF大村、FWトーマス・ノレジーがそれぞれ初ゴールを決め、2点を追加して大勝。今季初の3連勝となった。次節は23日、アウェイで川崎フロンターレと対戦する。
【写真】後半6分、森永がヘディングでゴールを決め、ハットトリックを達成する。
圧巻のパフォーマンスを見せたストライカーが、ロイブルファミリアから“森永コール”の大歓声を3度、浴びた。今季初のハットトリックを達成。得点ランクも単独トップの7得点に「周りのおかげですし、上手く行き過ぎて、次からが怖いです」とはにかんだ。
1点目は前半22分だった。鈴木潤が蹴った左CKを「多分、来るだろうと思った」と頭でニアサイドに直接ぶち込んだ。2点目は「前田と目が合って」。パスに反応し、ゴール左隅に決めた。フィナーレは後半6分。DF村山のクロスに頭で流し込んだ。「普段の練習の成果が出た」と振り返った。スペイン・マヤSCに移籍したFW吉田の背番号9を背負う今季。3発で期待に応えるなど、早くもエースの貫禄を見せている。「雨の中で、サポーターもいい雰囲気をつくってくれて嬉しかった。もっと積み重ねたいし、沢山の人を巻き込んで、大きなクラブにしたいです」とスケールの大きい言葉を残した。
チームは3連勝。昨年1分1敗と勝てなかった鹿島に快勝。野河田彰信監督は「5点も入ると思わんかった」と苦笑いしながら「森永も含めてな。今日はほぼ完璧な試合やろ」と選手をたたえた。次節はアウェイ川崎戦。森永はチームとして1失点した事を反省し「この勝ちに満足せず、チャレンジャー精神で戦いたい」。手がつけられなくなったストライカーが、ロイブル軍団に勝利をもたらしていく。
○…DF大村、FWトーマス・ノレジーがそれぞれ初ゴールを決めた。
後半27分、鈴木亮の右CKにファーサイドで待っていた大村が頭で合わせて4点目。後半40分にはMF小野寺のクロスに反応したノレジーが200cmの打点の高いヘッドで5点目を決めた。
大村は「その前に自分のミスで失点したので、なんとか取り返したかった」と振り返り、ノレジーは「素晴らしいクロスだったので、決めるだけだった」と笑顔で話した。
鹿島が95年以来、ホームで5失点し、4連敗となった。試合前には岩政大樹監督がサポーターの元を訪れ、共闘を求めたが、言い訳無用の惨敗。試合後、サポーターと一部選手が口論となった。岩政監督は「現実を受け止めないと。選手たちはよく戦ってくれたが…」と厳しい表情で振り返った。
鹿島の吉岡宗重フットボールダイレクター(FD)は取材に応じ「申し訳ない気持ちです」と陳謝。その上で「現時点で(監督を)代えることは考えていない」と、岩政大樹監督を支えることを明言。選手との信頼関係などに問題はないとしつつも、サッカーの落とし込み方、選手の発揮率には課題があるとし、クラブとして向上に務めていく考えを示した。
こういった人たちは真面目で律儀な人だと思っていたが、最近は実は違うのではないかと思えてきた。
何かを進めるとき、杓子定規なまでに規則通りに進めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「規則通りにやりました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
何かを判断するとき、外に根拠を求めようとするのは、後で何か不都合が起こったとき、その人自身が「〇〇という根拠に基づいて判断しました」という逃げ道を確保し、自分だけは絶対に悪者になりたくないという自己保身・他責思考にすぎないのではないかと思えてきた。
自己保身も他責思考もまったく無用とまでは言わないが、しかるべき責任を負う立場にある者なら、臆することなく自らの責任において判断・行動してもらいたいものだし、自分がその立場ならそのようにしたいものだ…というのは理想論か。