はてなキーワード: 和製とは
「オシャレなのにGLAYとか聴いてる子がいる。もったいない」と語る古着屋の店主のインタビューを当時読んだ記憶がある。これ特異な意見ではない。当時は聴いてる音楽によって人間としての価値が値踏みされたのだ
メタルやアニソンや80'sヒットやTUBEや和製フュージョンなんて聴いていたら、それだけで人間として舐められた
サブスクもYouTubeもない時代、雑誌を読んで知識を得て、外資系レコード店の試聴台やFMラジオでどうにか音源にありつく。 同じCDを何度も再生し、ライナーノーツを鵜呑みにする。ミュージシャンやそのファンごとのクラスタがアライメントにおいて位置づけられ、距離や属性によって他のクラスタに価値判断を下した
昔の文学愛好者がそうしたように、当時の音楽ファンは他人から「何聴いてるの?」と聞かれたときに格好のつく「好きなミュージシャンリスト」を各自したためていた
2000年代あたりまではまだその流れが残っていたが、
演出とかさ。間が変だったり
一生懸命和製アニメに寄せて作ってるんだろうけど、もっとガッツリ中華の独自性を打ち出した方が良いのでは
他の国のアニメを見ても「外国製」と思うだけで「違和感」とかは感じない
川島透のチ・ン・ピ・ラ(1984年)。あの時代特有の街の汚さ、ハングリーな雰囲気が心地いい。
今も渋谷は不思議な空気の街だが、昔の渋谷ってああだったよなあ、という郷愁に、背景に目がいってしまう。
当時から、和製スティングとの異名はあったかもしれないが、70年代も80年代も同じくらい過去となった今となっては
むしろ熟成されて、名作感が増してきている気がする。映画もワインと同じで、飲み頃というのがあるのかもしれない。
川島作品では、ハワイアン・ドリーム(1987年)が似たキャスティングで作られている。
によると、柴田恭兵の代わりに時任三郎が主演、桃井かおりやタムリン・トミタなどのサブキャストも気になる。
残念ながらVHSでしか入手不可能とのこと。よっぽどB級扱いだったのか。。
これも多分、開いてみたら化けているかも。
まずは『長野まゆみの偏愛耽美作品集』より『魔術師』と『昆虫図』を。
実を言うとあまり得意ではない作家の作品(いうて主に食わず嫌いなのだが)が多々収録されているので、買ったはいいが読む気にならず、遅々として読み進まない。長野まゆみ作品のファンなので、頑張って読むけど。買ったし!
主人公の「私」は異国の町にいた頃のある夕べ、恋人から「公園」に行ってみようと誘われた。その公園とは日本でいうところの浅草六区をもっと酷くしたような場所だった。いい歳をした男女達の狂乱する怪しげな公園の最も奥まった所にある城が、恋人の目的地。そこでは魔術師が見世物をしており、どんな人でも一度観たら病みつきになってしまうのだという。「私」はついノリで城に入ってしまったが……。
中二病が二十歳を過ぎても治らなかった人の好きなやつ……THE大正ロマンって感じの。こういうのあまり詳しくないんだけど、航海技術の発展で新大陸への憧れが強まったりとか、産業革命からの社会不安なんかがまざりあって世界的に流行ったのかな。
まあこういうのに憧れたシーズンが私にもありましたね、という感じ。似たような路線だと、スティーヴン・ミルハウザーの『ナイフ投げ師』と『パラダイスパーク』も私は好き。
「十二階」という建物に少し言及されているけど、これは「浅草凌雲閣」という建物のこと。明治時代には東京で一番高い建物だったよう。長野まゆみ先生のインタビュー記事に、「十二階」という固有名詞は今となっては校正者にすら通じない、と書かれていた。
選集に入れられた理由は魔術師が美少年だからなのか。面白いオチだった。『春琴抄』ほどクレイジーではなかった。
すごく短い話なので省略。タイトル通り虫がうじゃうじゃする話ということだけ。
えっ、これ「耽美」なの? ……グロいんだが。耽美とは美に耽ることなのであり、常人が忌み嫌うようなものにすら美を見出だす、通人の遊戯なのだとすれば、まあ、耽美なのか? 『魔術師』に出てくる浅草六区だって、悪所の代名詞のように使われているみたいだし。
気持ち悪いし、とりわけ過激というほどの話でもないのだが、サクサク読めてなんか心に嫌なものを残す。なるほど、「文体の魔術師」か……。
『長野まゆみの偏愛耽美作品』は今回はここまで。これでやっと半分読んだことになるのか。先はまだまだ長い。うへぇ。
絵本『たくさんのふしぎ傑作集』シリーズのうちの一冊。ポルトガルのお菓子パン・デ・ローが日本に伝わり、カステラという名の伝統和菓子となるまで。
絵がなかなか渋くて好み。昔の日本の人々の顔が、そこらへんに普通にいそうなリアルさでいい。華美だったり汚らしかったりする着物を着て、髷を結っていても月代を剃っていても、現代日本人と地続きな存在っていうのがよく伝わる。
そんなに珍しいことは書かれていなかったが、パン・デ・ローの作り方は伝わったのに、パン・デ・ローを焼くには欠かせないオーブンは伝来しなかったというのには、ちょっと驚き。和製フライパンのような鍋に蓋をし、蓋の上に墨を置いて上から下から加熱してカステラを焼いていたというの、面白いなあ。何で誰もオーブンを作ろうとしなかったんだろう?
今日はここまで。
スマホのスペックが上がり、ネット接続できるテレビにしたところ行動様式が覿面に変化した。
我が母はテレビ世代のテレビっ子で素直に昼のワイドショーを信じるタイプなのだが
ネットで解禁された途端韓流ドラマの割合が1:9から3:7になり、半年も経たずに10:0になった。
親戚の叔母さんの家も似たような割合になったといとこから聞いた。
私はそも和製ドラマが苦手なので初めから見てなかったが、どうも主婦層でも日本ドラマの割合が減ってっているってのが
ネットに関わらなかった世代がこうも容易く陥落させられるということは
コロナ関連のコールセンター派遣で思ったよりも実入りがあり、漫画家になるための準備金として友人に借ていた100万を返済し始めることにした。
ゆうちょの振込で名前を入れる段になり、なにか巫山戯なきゃと思いヒラサワ_ユイと入力した(ダテナオトと入れようとも思ったが流石に失礼すぎるので止めている)。
名乗ってみるとその気になるもので、なんだか自分が唯になったような気がして、その日は漫画を描く作業中に放課後ティータイムの楽曲を流した。
何曲が聴いて「このアニメ見てたとき大学生だったな」などと当時を思い返していたが、Utauyo!!MIRACLEが掛かって脳がブッ飛ぶような衝撃を受ける。
この曲こんなに良かったか?他の曲と同様にフレーズは頭に残っていたが、こんなに圧倒されるような青さと迫力を持った曲だっただろうか。
意味がギリギリつながるような短い単語を羅列した歌詞に声優さん扮する平沢唯の上ずった歌声が乗り、まさに高校生バンドの1作といった風情でアニメOPとしてもキャラクターソングとしても良く出来ている。
いやよく出来過ぎだ。平沢唯の歌声はあまりにもカリスマに満ちていた。
この曲は進行していくにつれ感情のボルテージがぐんぐん上がり唯の声も上ずっていき、声が出なくなるのが先か感極まって泣き出してしまうのが先か、と聴いているだけでそう心配してしまうくらいの危うさを孕んでいる。
おそらく平沢唯というキャラクターはそのようなことを無自覚に、同時に自らの振る舞いを理解して、自身の音楽とはそういうものだと割り切って受け手に提供している。
こういうやつを天才と呼ぶのだろうと思った。
しかしここまで考えてとても困った事に気がついた。平沢唯は実在しない。
急に応援していたアイドルを取り上げられたような気持ちになった。一人で感極まっておいて身勝手な話だ。
しかしこう思うのは本当に俺だけだろうか。ここで蛸壺屋のけいおん二次創作同人誌を思い出してほしい。
かのサークルの二次創作は平沢唯が和製ジミヘンとして絶大な人気を得、またそのあだ名をなぞるように薬物で早世するという内容だった。残された者たちの群像劇が高い評価を得ていたことは記憶に新しい。
読んだ当時は変な本だとばかり思っていたが、この作者は『平沢唯の不在への気づき=平沢唯の死没』と置き換え鬱積した悲しみを昇華しようとしていたのではないだろうか。
蛸壺屋の同人誌では平沢唯の妹・憂が姉に扮して興奮したりバンドに潜り込んだりしている。
まるで俺じゃないか。
何ということだ、勝手に平沢唯を名乗った俺は唯ではなく憂だった。
蛸壺屋の同人誌では平沢唯亡き後周りの人間が歪み・あるいは折り合いを付けた様が描かれている。
違う。この程度のひずみは誰しも備えている(じゃなきゃ二次創作エロ同人買わない)。
この唯なき放課後ティータイムこそ俺たちだ。誰もが皆、諦めと悲しみの夜を越えてここにいる。
https://president.jp/articles/-/51508
ある30歳のエンジニアの女性は、自らの人生を次のように語った。
中略
結局労働なんていう社会様へのご奉仕で自己実現できる人なんて極わずか、そもそも労働なんてのは上級国民(及びその配偶者)にしっぽを振るポチになるってことでしかない
しかも日本の環境ではストレス過大で自殺する人が出るような奉仕行動なのに、ご奉仕したくない女性を巻き込んで「社会様にご奉仕したいですううううぅぅぅううう」って叫んでるのが和製フェミニズムが支持されない原因の一つだと思いますわ
そうじゃなくて「大事じゃない女性は全員ご奉仕活動に回すべきでしょ?そう思わん?」って男どもを誘う方が支持を得られるし女性の社会進出は加速すると思うよマジで
N「ぐぉおおおおっ!○○✕✕の奴めぇえええっ!」
H「Nさん!しっかりしてください!怒りにまかせて原作の見せ場シーンをカットなんかしては台無しに……」
N「うるさいッ!こんなクソラノベもう知ったことか!オレはこの3話で降ろさせてもらう!(でもこの構成とキャストはあとで自分のオリジナルでパクろう)」
H「Nさん!?Nさーーん!……くっ、仕方ない。あとは残された者たちでなんとかするしか……」
Y「いえ、私もちょっと……(苦笑)」
H「ですよねえ(苦笑)どうしたものか……」
S「おーっと、そういうことならワタクシめにお任せを!……ちょちょいのちょいっと!こんな感じっス!」
H「なるほど!これなら分かりやすい!町並みや衣装はどういうイメージにしたらいいだろう?」
S「ああ?そんなもん、フツーの『中世ヨーロッパ風』にしときゃいいっスよ!……は〜、現実の複雑な歴史や軍事に詳しいオレからしたら、そのへんの和製ファンタジーの設定なんて楽勝すぎるんだよな〜」
R「う、うむむむむむむ……」
K「なんてこった、2期開始直前だというのに、まさかR先生のプロットが上がってこないなんて……」
H「1期であれだけ前フリしておきながら、その後の展開を何も考えていなかったとは……」
K「……やむを得ん!できる限り前期の使い回しで引き伸ばして時間を稼ぐんだ!」
初代ライダーやV3、X、ウルトラマン、セブン、タロウなどは見た記憶があるし、友人との話題にも上がっていた。
この増田自身も雑な先入観が多くて、批判してる「特撮嫌い」と同じことをしてると思う。
庵野だってすべての「和製特撮」を手放しで褒めてるわけじゃないでしょ。むしろ偏ってると思う。
ただ、俺自身もそこまで詳しいわけではないので、あまり増田を批判できないが。
シリーズで言えばウルトラマンは海外での「USA」や「グレート」があったりして、見てはいなくとも話題には上がってブランドを延命していたし、辛うじて「ウルトラマンキッズ」とか「パワード」があって、「ティガ」に繋いでいた。
ソフビを集めてる子とかはそういうのすごい詳しくて、「USAみてー!」とか話してた記憶がある。
玩具とかアニメとか海外展開、あと「ヒーロー戦記」とかのゲームも結構キモだったと思う。
※「パワード」に関しては、庵野と仲いい樋口真嗣(ガメラの特撮)が関わってたんだけど、まあ本人たちがネタにするような出来だったりする。
映画で言えば平成ゴジラなんかはあれでもみんな割と楽しんでてメカキングギドラとかデストロイヤかっこええーってなってたし、忘れてはならない「平成ガメラ」も登場してる。
ただまあ石森系は「真 仮面ライダー」とか「ZO」とかあとなんか「ハカイダー」とか、ビジュアルグロめだったり「大人に向けた内輪向け」感が強い作品だったのが、なんだかなあ感はあった。
でも子供向け漫画雑誌で仮面ライダーのシリーズがあったり、やはり漫画・アニメの役割は大きい。
「ポワトリン」とかもあったな。
そんな中でも一番偉かったのは東映スーパー戦隊とメタルヒーローか。
「女リーダー」「全編ギャグ」といったエポックな「カクレンジャー」や「カーレンジャー」は94年、96年に登場してる。
「特撮」の本道とは少し違うかもしれないが、でもまあ本当に東映はよくやってたよ。
ここからはさらに個人的な偏見だが、昭和50年代かそれ以前の人の方が「本物の特撮」をリアルタイムで体験してる分、その後の特撮(平成ガメラ以外)にケチをつけてる印象がある。
ただこれも仕方ないというか、少年時代に「本物」を見た後には「劣化コピー」が続き、さらには「海外の本物」を同時に見てるんだもんな。
映像的にも「アビス」86年、「ターミネーター2」91年、「ジュラシックパーク」が93年。
「ジュラシックパーク」を見た前後に、じゃあ日本はどうなのかっていえば「REX 恐竜物語」とか「水の旅人 侍KIDS」とか「北京原人 Who are you?」なんだぜ・・・そりゃキツイよ。
で、まあ80~90年代と世の中全体の物差しが「世界基準」になってる中、その世界の映画監督が影響を受けたと公言してて、世界で戦えてたのが「漫画・アニメ」なわけで。
「青少年時代」にそんな体験をすりゃあ「漫画・アニメすごい」ってなるのも当然の成り行きよ。
繰り返すが、「ジュラシックパーク」のあとに「REX 恐竜物語」を見せられる気持ち、想像してみてくれよ・・・