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はてなキーワード: 学術とは

2018-02-19

anond:20180219114242

これは元増田責任じゃないけど,

理系ローカルルール勝手学術界の一般ルール敷衍するのやめてもらえます

全学対象研究不正を防止するためのweb講義を受講しなさい,これは必ず受けてね,と言っておいて延々とラボノートの書き方を解説された時は流石にふざけんじゃねえ理系学部だけでやってろと思ったわ.

学振書類理系文系で分けてほしいんだよな.書式は別々にできないにしてもせめてマニュアルは分離しろよ.何で単著論文でいちいち自分名前に下線引かにゃならんのだ.ああ鬱陶しい.

anond:20180219070454

なるべく多くの人に見てもらって情報、反応、反論等欲しかったので煽り気味に書いてるところはある。そこが気に障ったのならすまん。

まあ私の文章煽りや売り言葉に買い言葉がないとは言わないのでそこはお互い様ということで。仲良くマサカリ投げあいましょう。

あくま自分見方を紹介しているだけで理系のやることが全て正しいとも思ってない。ただ理系では日本が一流研究をしていると誇る分野が数多くある一方で、文系の多くの分野で全体としては日本学会は二流という嘆きが聞かれるのも確かだ(もちろんどんな分野にも日本人の一流研究者はいるだろうが)。

これ[要出典]ってタグ貼るべきところ? 私は最初増田anond:20180217012945)で(1つだけだけど)実例挙げたし、体験談ベースの話でよければ私の見た限りでは日本外国研究ってけっこうレベル高いと思うんだけど。外国語に訳されても遜色ないモノグラフがたくさん出てる。

理系では著書でオリジナル発見研究成果を発表する奴はまずいない。いるとしたらほぼトンデモだと思って間違いない。文系増田が挙げてる怪しい医学博士とか。

文系では違うのか。正直文系ガチ研究書は見たことがない。三浦瑠麗の著書も調べてみたが、タイトルや値段を見る限り一般向けだろう。大学書籍部や図書館を探せばあったんだろうか。ただ(博士論文出版等は除いて)著書で最新の研究を発表するというやり方は、どの部分に新規性があるのかの表明や議論双方向性等に問題がないのだろうか?新規研究成果なら第三者査読を経て論文にするのが正統なように思えるが。数学証明のように検証可能性が極めて高ければホームページで発表とかでもいいんだろうけど。

そこからか。何のために研究雑誌Book Review欄があると思ってるんだ……(和文だろうが欧文だろうがたいていのメジャー学術雑誌にはBook Review欄はあるし、場合によっては書評査読がつくよ)。ていうか普通、序章とか第1章とかで先行研究の整理をするし(一般向けも混在するレーベルだと編集に嫌がられることもあるらしいけど)、そこで自分オリジナリティについても言及するよな。

あくまで一例だけど、先日出た研究書の目次はこんな感じ→http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0871-6.html適当なUniversity PressのHPを開いて適当新刊をチョイスしただけなので、内容については何も言わないし、言えない。なぜなら私は読んでないからだ。あくまで「ちゃんと章立てに先行研究って入ってるでしょ」というサンプルとして受け取ってほしい。目次で明示されてないだけでちゃんと先行研究の整理をしている本もあるので気をつけて。それはそれとして面白そうな研究だと思うんで余裕があったら読んでみたい)。

駄目な研究は本として出版したってロクに引用されずにアカデミアから消えていくだろうし(もちろんあまりマニアックすぎて引用するひとがいないという悲しい状況も有り得るのだがそういう場合学術雑誌書評でちゃんと良い研究ですよって言われてるからな。おべっか書評がないとは言わないけど、むっちゃ辛辣書評も見かける)、まともな研究書なら議論典拠は明示してあるんだから議論双方向性に問題はないでしょ。

三浦瑠麗の著書、内容(https://www.iwanami.co.jp/book/b261983.html)を見る限りでは研究書ということでいいと思うけど。文系は割と凝ったタイトルつけるひと多いかタイトルだけで研究書じゃないと即断することはできないし(『想像の共同体――ナショナリズム起源流行』も『〈日本人〉の境界――沖縄アイヌ台湾朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』も立派な研究書です)、値段についても、うちの分野の研究書の半額くらいの値段で売れて羨ましい限りと思うけど、それが研究であることを否定する材料にはならない(ていうか一般書だとしたら3000円以上ってクソ高では)。国際政治学一般理論みたいに需要がある分野ならそれなりに廉価でも採算取れるよね。研究書は別に専業研究者けが読むものではないので、政治学者以外の教養人にも売れそうだと判断たらこのお値段になるのは別に不思議じゃない(逆にマイナー分野では……お察し下さい。売れない→高い→売れない→高いの悪循環でございます学術成果刊行助成でなんとか刊行できてる研究がたくさんあるんだよなぁ)。気が向いたら図書館で実物見てみるわ。

何度も言うけど、中身は知らない。ひょっとしたらダメダメな内容かもしれない。でもそれは、査読通ったちゃんとした学術論文でも中身がショボかったりオリジナリティ希薄だったりすることがありうるのと同じで、ダメダメから研究業績にカウントされないということにはならない。たとえそれがサラミ論文であったとしても、英語で書かれた査読つき論文だったらそれは業績としてカウントされるべきだよね。公募採用されたり学術界で優れた研究者として認知されるためには内容が優れてないといけないし、こんなサラミ論文しか書いてないやつがなんで○○大の講師なんだ! という批判はされていいと思うけど、それはあくまで内容を見た上での話であって、形式だけを見て業績じゃないと言うことはできないはず。今回の元増田批判が内容を見た上での話なら『シビリアンの戦争』を未読の私は何も言ってないし言う資格がないけど、理系増田も読んでなくて、ここではあくま形式の話をしてるんだよね。形式の話をするなら彼女学術業績としてカウントされるべき本を書いていますしか言いようがない。

一般論からすると著書はオリジナル研究業績であり得るが、逆も然りで著書は必ずしもオリジナル研究業績とはみなされないというべきなのでは。門外漢は著書数もオリジナル業績数とみなせという主張は言い過ぎだろう。

「著書はオリジナル研究業績(でありうる)」「研究書は立派なオリジナル研究成果」と私は書いてるよね? それで前段へのアンサーになってると思うし(そのうしろでちゃんと「一般向けの本」と「研究書」を分けて記述してるよな)、そもそも私は最初増田anond:20180217012945)で「新書2冊はおいといて」って書いてるので、“すべての著書”がオリジナル研究業績なんて端から主張してないってことは読めばわかってもらえると思ってたんだけど(オリジナル研究書籍化したものを「研究書」と呼ぶわけだから、“すべての研究書”はもちろんオリジナル研究業績です。一方で著書のすべてが研究書というわけではないので、“すべての著書”が研究業績というわけではありません。こう書けばわかるかな?)。

後段、著書はオリジナル学術業績とはみなされないという理系ローカルルール持ち出して他人を業績が少ないと批判する方が言い過ぎでは。いやもちろん他分野の常識に詳しくあらねばならない必然性はないけど、他人を「業績が少ない」と批判する以上は他分野の「業績」の基準も知っておくべき、って、そんな無茶な主張? 文学でも歴史学でも政治学でも社会学でも教育学でも文化人類学でも哲学でも法学でも、おおよそメジャー文系研究分野ではだいたい研究書はオリジナル研究業績としてカウントされるんだから(これは英語圏でも変わらないと思うよ。少なくとも私の専門分野や隣接分野では英語だろうがフランス語だろうがドイツ語だろうが韓国語だろうが研究書はオリジナル研究業績です)、文系からするとその常識通用しない方が非常識ですよ。理系ローカルルール勝手学術界の一般ルール敷衍するのやめてもらえます

院生だろうが単著論文を発表するのがふつうの分野の人間からすると、理系では指導教授論文の著者に名前を連ねるのか、変わった慣行だなぁ、って思うけど、それは理系慣行なんだなとして受け止めてるし、この研究者自分学生論文名前を連ねて論文数稼ぎしてる! なんて主張しないよ(もちろんギフトオーサーシップ批判されるべきだけど、理系では自分指導してる学生論文の共著者になるのはギフトオーサーシップではないんだよね? このへん詳しくないので間違ってたらごめん)。分野が違うと業績のカウントの仕方も違うんだなぁ、って受け取っておけばいいじゃない。

その上で現在日本語地位が低い分野や日本語でやる意義がまるでない分野まで、日本語で最新の論文を書いてもよい、あるいは日本語地位を高めていこうなんていう理由がよくわからない。例えば挙げてくれた西洋古代史の最新論文日本語で書くことに何の意味がある?日本全然関係ないのに?解説書や教科書は別だ。日本語で多くの人が学べることには意味がある。でも論文なのだとしたら欧米研究者が読まなければ学問進歩に乗らないんだからただの自己満足だろう。アマチュア研究者だとしたらそれでもいいんだが、大学研究者プロだろう。国から研究費貰って英語が中心の分野で日本語しか書かないのは国民が納得しないだろうから税金泥棒しか言えない。

将来英語が中心じゃなくなることもありうるだろうという論を挙げているがそれは詭弁だ。理系だってラテン語から現代語への変化やドイツ語フランス語凋落を経ているが、最新の論文を主流の言語で書かない理由はない。(欧米科学力を中国が圧倒的に上回ることは考えにくいが)将来中国語になるんだとしたらそれもいいだろう。もし仮に日本がその学問分野で覇権国家になるプランがあってそのためのリソースを投じているっていうなら別だけど、そうじゃないなら英語に圧倒的に負けてる分野はさっさと降伏して英語ベースにしたほうが世界中学者のためになるし日本人世界に認められる学問的成果をあげるためにも効率的だと思うんだけど。国際政治学についていえば英語圏研究が中心だという知識増田にもあって、反米主義だったり日本世界覇権を夢見ていたりといった特殊思想的背景があるわけでもない研究者英語論文を書かないのだとしたら、怠慢あるいは研究先進性の不足の誹りを免れないであろう。

これ最初にも書いたけど、主要国のアカデミアでは文系研究の多くの部分を自分の国の言語でやってます。たとえそれが自分たちとは縁遠い地域のことだとしてもね。日本語英語以外の言語で書かれた日本学論文なんて日本人研究者はあまり読まないんじゃないかと思うけど、たとえばポーランド人ポーランド語日本学論文書いてるし(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006355425。ちなみに、このポーランド人みたいに、日本人外国研究者がその国の言葉日本での研究状況を紹介するっていうのは既にあちこちでやられてます)、それは日本アカデミアで読まれていないとしても日本学の発展に寄与ポーランドアカデミアを豊かにしていて、仮にポーランドで極めてオリジナリティが高い研究が出てきたら日本人日本学者も何らかの方法でそれを読まないといけないだろうと思うわけですよ(別に自分で読む必要はない。他人に読んでもらえばいいんだから翻訳ってそういうことだよね)。ポーランドアカデミアは当然ポーランド固有の問題意識を持っているし、その土壌から日本にはない新鮮な日本観が生まれてくるかもしれない、という点で、色々な国のアカデミアがそれなりに独自の発達を遂げていることは重要だと思うけれども。

当たり前だけど西洋古代史の論文日本語で書いてあっても最新の研究動向は反映されているわけ。書いてるひとは西洋諸言語読めるわけだしね。向こうがそれを読めない、または読もうとしないからといって先進性がないわけではない。読まれる/読まれないという尺度研究先進である先進的でないという尺度は別だよね? 混同すべきじゃない。そこにはちゃんと研究蓄積というもの存在しているんだよ。明治期以来、主要文系分野では日本語の分厚い研究蓄積がある。もちろんそこには西洋猿真似だったり「横のものを縦にした」だけの研究もたくさんあるかもしれないけど、それらは日本アカデミアを間違いなく豊かで質の高いものにしてきたと思う。

で、哲学の本場はドイツとかフランスとかイギリスとかだと思うけど(イメージ貧困すぎたらごめん。正直哲学のことはよくわからないんだ……)、日本人哲学者が優れた哲学書を発表すればそれはちゃんと英訳されてオックスフォード大学出版から出版されていたりするのね(https://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani)。これは日本語圏で外国人に読まれない研究を積み上げていても、良いものを書けば「日本研究者面白いことやってんじゃん。翻訳して読んでみようぜ」ってなる実例なんじゃないかと。

根本的な話をするなら、「国際政治学」という分野の標準言語英語である必然性はどこにもないわけだよね。それは英語圏で優れた研究が積み上げられてきた帰結であって、英語圏の人が自分たち言語研究成果を積み上げた結果それが参照されるべき言語になっているだけの話。要するに彼らは先行者利益を得ているわけ。現代思想の分野でフランス語大手を振って歩いているのも、フーコーやその他の人たちがフランス語で優れた成果を書いてきて、それが受け入れられてきたか英語日本語フランス語の文献が訳されまくっているという現状がある。日本語がこの高みを目指してはいけない理由はないよね。

私はここまで書いてきたような理由日本語論文を書くのも重要営為だと思う(加えて、執筆言語自国であることは東アジア欧米の主要国の文系アカデミアとしての標準に則っているので、ことさら日本アカデミアだけが批判される謂れはないよな、とも思う)。ただ理系増田がそれにどうしても同意できないなら、それを説得する言葉を私は持たないなぁ、とも思う。私の論拠はだいたい言い尽くしたので、執筆言語問題についてこれ以上理系増田に答えようとは思わない。なんと言って終わらせればいいかからないけど、とりあえず、お互い研究頑張りましょう。

anond:20180219033321

横やり失礼、最後の箇所の意図がよくわからなかったからもう少し詳しく説明して欲しい。日本社会への貢献と個人研究論文として多くの人の目に留まることは全く違うベクトルじゃない?

文系研究では、もちろん社会から遊離したことを扱ってる人も大勢いるけど、社会とか政治とか歴史とか文学とか言語とか、現実普通の人の営みと切り離せないテーマを扱うことが(理系と比べて)比較的多いんじゃないかなと思う。そして研究者問題意識もその研究者の埋め込まれ社会から自由でいられないわけで、最先端研究成果を日本語で発表することは日本社会への貢献としての価値も持っているという話(つまり外国政治学者に読んでもらえなくても無価値というわけじゃないよ)をしたかったんだけど、伝わりにくい文章だったらごめん。

国粋主義とまでは思わないけど、そう受け止められられるかもしれない気がした。

でも、国民の皆様の税金から研究費をいただくってのはそういうことじゃない? なんらかの形で日本社会還元することを求められているよね(国粋主義を強く批判するような立場研究だって、「日本国国威発揚」には資してないにしても、「大勢異民族外国人が暮らす日本社会」には間違いなく貢献してるわけで)。自国研究プレゼンスを高めるために多くの論文英語で書くべきだ、というのと、学術言語としての日本語価値を守り育てていこう、というのは、同じベクトルじゃないかと思うんだけど。

anond:20180218204936

業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。

理系研究者を名乗るには必ず「まだ誰もやっていない新しいこと」を研究する必要がある。

文系でも同じですが。研究という営みの本質文系理系も変わらんでしょ。お作法がかけ離れているか相互理解が難しい局面があるだけで。一部の理系研究者の「お前ら文系研究とは何なのか正しく理解していないのかもしれないが~」みたいなナチュラル上から目線はほんと何なの?(あと、仮に百歩譲って理系文系で「研究」の本質がまるで違っていたとして、なんで問答無用理系の方が標準的であり正しいものなのだと思えるの?)

もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線研究をしていることが前提だ。

いや、レビューオリジナル研究業績じゃないってのはその通りだけど、著書はオリジナル研究業績(でありうる)っしょ? 何度も言うけど三浦瑠麗論文や著書は読んでないので、どのくらいオリジナリティがあるのかは知らない。ただ文系では研究書は立派なオリジナル研究成果だ。博士論文書籍化なんてその典型。もちろん一般向けの本とかを書くひともいて、一般向けと専門向けの中間みたいなレーベル典型的には講談社選書メチエみたいなやつね。パンピー向けの概説書とガチオリジナル研究成果が混在してる)もあるから、そこにはグラデーションがあるわけだけど、著書がオリジナル研究成果じゃないというのは不当な言いがかりでは。

ひょっとして文系研究書とか見たことなくてどんなことが書いてあるかイメージ湧かない?(いや別に異分野の研究書を読んだことないのは悪いことじゃないけど、実物を知りもせずにイメージだけで語っていいんですかね、「理系」ってのはずいぶんと気楽なもんだ、と嫌味のひとつも言いたくなる)

理系から視線として、博論を除けば日本語レビュー啓蒙しか書いていない三浦瑠麗は「最先端研究者」とは見られない。

から、私そこは否定してないよね? 三浦瑠麗個人研究者としての資質をあげつらうならどうぞご自由に。私だって彼女政治学者として素晴らしいなんて微塵も思ってないし、私の知ってる(まっとうな)政治学者彼女学者として評価してる人なんて見たことない。でも和文は業績じゃないかのように扱うのはやめてね、っていうのが私の指摘の趣旨ですよ。彼女雑誌に書いた文章が全部レビューだってのは、ブコメでkyo_juさんが指摘したことであって、元増田最初和文しかない」ことを問題にしていたよね? そう言われたらそりゃ「和文でも立派な業績になりうる」と反論するに決まってるでしょ。「言語を問わずレビューしか書いてないなんて研究者はいえない!」という主張ならなんの異議もなかったよ。

いずれにせよテレビ研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。

そこに関しても私はまったく否定してないよね。和文論文研究業績であり、また共著が研究業績としてカウントされないことは不当である、と言ったけど、三浦瑠麗の業績が学振PD東大講師、あるいはテレビ出演者にふさわしい立派なものである、とは一言も言ってない。あんなのを東大講師にするなら私の先輩たちに職を用意してやってくれよ、と思うし、テレビに出ずっぱりの「学者」がマトモな学者だった試しなんて滅多にないよね、とも思うけど、そんなの私や「文系」あるいは「政治学者」に言われても知らんわ。東大の人事は東大問題だし、テレビがロクに論文書いてない若手を連れてきて「社会学者」や「政治学者」としてチヤホヤするのはテレビ問題言論人として活動してる人を肩書だけ見て研究者と誤認するのは視聴者リテラシー問題でしょ。理系学位肩書がそういう怪しげなショーバイに一切利用されてないってんならともかく、現実には医学博士号を利用してニセ科学撒き散らしてるひととかいるよね。アカデミアが自由開放的性格を維持していく上では、アカデミアのハクを利用してそういうことをする人たちが出てくるのはどうしても避けられないんじゃね、って私は思うけど(まあ、アカデミアでは全然相手にされてませんよ、と表明する責務くらいはあるかもしれないけど、それはもう色んなひとがやってるよね)。

文系増田日本研究者日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用アピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中学者言語習得に苦労するだろう。

うんだから文系研究者が色んな外国語勉強してるのはそういう事情があるわけ。たとえば西洋古代史を研究するんなら、まあ英語に加えてフランス語ドイツ語研究文献を読めないと話にならんわなぁ。一つの研究分野に標準言語がいくつかあるのは文系だと割と普通で(古代中世に関する研究だと権威ある学術言語がいくつもあってどれかひとつに決められなかったりするし、複数国にまたがる地域や事例を対象にしている場合なんかは一意に定めることが不可能なのは流石にわかってくれるよね?)、その中で日本語地位が低いことをどう捉えるか、だよねぇ。

これに関して、日本語を諦めて別の言語で書くべきだ派と、日本語地位を高めていくべきだ派と、日本アカデミアを最優先に考える派(これが実のところ多数派だろうねえ)がいるんだなと私はぼんやり思ってる。私が見ている範囲では、現代日本文系研究者多様性は、アメリカイギリスほどじゃないにせよフランスドイツロシアとは肩を並べられる水準にあるんじゃないかな。日本史英文学からアフリカ人類学オセアニアの少数言語中央アジア歴史、とあちこちの分野に手を伸ばしていて、アメリカ人フランス人ドイツ人がそうできるように、自分たち言語でそれらの分野の最先端研究成果を手にすることができる。東アジア中央アジアからは、自国のことを研究するために日本に来て日本語博論を書いて自国教授になるひともいるんだよ。これは、欧米人が読めない・読もうとしないってだけで捨て去るには勿体無い環境だと私は思うけども。

もちろん、日本研究を専門としていない欧米人日本語をわざわざ読ませるのは難しいだろうけど、たとえば日本論文につけられた欧文要旨なら彼らは読めるし、和文で書いたもの翻訳して欧米人にも読めるようにしている研究者だっている。どうやら俺らには読めないがチェックすべき先行研究日本にはたくさんあるようだ、と彼らが認知すれば、いずれ彼らの側から、じゃあ日本語読めるやつに翻訳してもらおうとか、そういう話が出てくるかもしれないし、せめて「読んでないけどこういう先行研究があるらしい」と書かれるようになるかもしれない(これは重要なことだよ。「気づかれない」と「読まれない」はぜんぜん違うんだから。この辺はウンベルト・エーコが書いてたな)。地位向上って、そういう積み重ねの上に成り立つものだと思うんだよね。

こういうプロセスって、文系だけじゃなくて理系にもあるよね。たとえば、優れた魚類学の論文アメリカ人日本語翻訳してまで読みたがったとか、和文論文をチェックしなかったせいでアメリカ人が大損こいたとか(http://shinka3.exblog.jp/8059554/)。それに英語が標準言語になったのは、せいぜいがここ半世紀程度の流れにすぎない。その前はドイツ語とかフランス語とかロシア語とかも有力言語だったけど(たとえば、ちょっと前にサザエの新種記載がされたときは、18世紀フランス語の本が引用されてたよね→https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id468.html)、英語頭角を現してきて残りの言語は標準言語とは見なされなくなっただけで、別にからずっと英語が標準言語だと決まっているわけじゃないし、今後もそうなるとは誰にもいえない(数十年したら欧米人中国語で作文するようになるかもね。そうなったら英文業績しかない人が「中文論文を書いてないなんて!」と馬鹿にされたりするのかな)。日本産動物種の研究だと英語論文和文論文引用されてるのもちょくちょく見るし(網羅的にたくさん読んでるわけじゃないので、私の錯覚だったらごめん)、標準言語統一されてないとダメだ! というのは近視眼的見方だと思うけどなぁ。

いくら書いても読まれないんじゃ意味がない、という元増田感覚はわかるんだよ。というかそれは文系研究者にとっても当然のことだと思う(そりゃ全員が意識高いわけじゃないけど、それは文理問わずだよね)。繰り返すけど最近の若手研究者には外国語積極的に発信しているひとが大勢いる。ただ、日本国民1億人が最先端研究成果を自分たち言語で読めて、どんな地域研究だって自分たち言語遂行できる、という環境が、無意味なこととは私は思えない。増田は、日本にまつわるテーマなら標準言語日本語でもいいんじゃないか、と言った(これは良い感覚だと思うので大事にしてほしい)。でもたとえば、ツキノワグマ研究ホッキョクグマやマレーグマの研究と繋がっているよね。日本史研究する上で西洋史探究されてきた研究モデル概念意味を持つことだってある。国文学だって世界文学の中に位置づけられる必要があるだろう。外国政治についてなんの情報もなしに、自国政治改革ができるだろうか? 外国の失敗や成功についてしっかり学ぶためのツール必要なんじゃないか? ジャーナリスト政治家欧州統合アフリカ経済アメリカ大統領選について勉強しようと思ったときに、日本EU研究者アフリカ研究者アメリカ政治研究者がみんな英語論文を書いていて、日本語にはあっさりした概説書しかない、というんじゃ、不便じゃないのかな。そういう意味で、日本語による研究発表は、世界で読まれていないのだとしても、社会貢献としての意義はけして小さくない、と私は信じてるよ。

2018-02-17

特定研究者を叩くのはいいけど他の研究者への流れ弾はやめてほしい

当方文系若手研究者

https://anond.hatelabo.jp/20180215032409

英語論文出してない「国際政治学者」って大丈夫か?

それとも日本で言うところの国際政治学ってやつはあくま国内政治の一研究分野なのか?

国際分野なのに英語論文発表してないことが最大の違和感。必ずしも三浦瑠麗を叩きたいわけじゃなくて、日本国際政治学全体のレベルが低い?あるいは政治学者仕事世界に向けた学術研究発表よりも国内政治ご意見番をすることのほうが重要っていう認識業界一般的になってるならそれも受け入れる。

著書「シビリアンの戦争」は博論出版したものって理解でよいか文系博論は分厚くて書くのが大変とは聞く。でもグローバルな表題なのに世界では通用しない研究(少なくとも英語でないので読んでもらえない)って考えると悲しい。


こういうの勘弁してほしい。三浦瑠麗を叩くならどんどんやればいいと思うしやってほしいけど、叩く対象限定してくれ。

文系では和文でも立派な研究業績になる。最近の若手研究者積極的外国語論文書くようになってるし、私だって欧文論文の1本や2本あるけど、仮に査読論文和文しかなくても質が高いものを書いていて博士号もらってれば立派な西洋史研究者英文学者/アメリカ政治研究者etc.だよ。そういう世界なんだ……。

「ちゃんとした雑誌に載せてる論文が3つしかない」っていうのもどうかと思う。業績リスト見たら、まあ新書2冊はおいといて、それなりに専門的っぽい本を分担執筆してるよね。その本を読んでないから何ともいえないけど、雑誌じゃなくて本(アカデミック論文集)の1章として学術論文を発表することはあるし、それはふつう業績としてカウントするよな。繰り返すけど中身は見てない。中身はメチャクチャレベルが低いのかもしれないし、その場合「この程度の論文しか書いてないじゃないか!」っていう批判は正当だと思う。けど共著を業績にカウントせずに「業績が3本しかない!」っていうのはやめてあげて。

私も、さすがに学振PD持ってて日本Ph.D.獲ってるのにこの業績数はショボいだろ……と思うけど、博士号取得に際して論文数の要件がなければ(少なくとも私の出身大学院では存在しない)、とりあえず雑誌投稿とかしないでひたすら博論執筆するっていう研究スタイルもアリだと思うし、一概にそれが駄目とはいえない(単に茨の道ってだけで、制度不可能ではない)。あと一部の国では「博論に既発表論文を大幅に組み込むのは禁止(=博論は書き下ろせ。既発表論文切り貼りは不可)」っていうルールがあったりするから、そういう国に留学してた人は博士課程のあいだに出した論文数がどうしても少なくなっちゃう。

和文で書いてればレベルが低いっていうのは誤解。そりゃレベル低い和文論文もたくさんあるだろうけど、質の高い研究はたくさんある。もう15年以上前のことだけど、日本西洋史研究者研究対象の国のひとたちと論文集を出した時は、日本参加者レベルの高さが評価されたりしてたし(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/39022/1/50-013.pdf)、それらは「外国研究者から読んでもらえない」かもしれないけど「レベルが低い」わけじゃない。

何が言いたいかっていうと、三浦瑠麗の言説の酷さは都度指摘すればいいし、彼女研究問題があるなら存分に批判すればいいと思うんだけど、業績リストだけを見て和文しかないとか批判しだすのは他の文系研究者に流れ弾あたってるからやめやがれください。ていうかやめて(自分の業績リストを泣きながら握りしめる)

『シビリアンの戦争』は、彼女博論タイトルそのまんまだから博論書籍化という理解でいいと思う(https://ci.nii.ac.jp/naid/500000550395)。私はどちらも読んでないので違ってたらごめん。博論書いてそれを本として出版するのは、文系研究者としてはよくあること。

せっかく質が高い研究してても読んでもらえないのは悲しいってのはその通りで、日本語文献が読むべき先行研究として通用してる分野は日本東アジアにかかわる研究くらいかアメリカ人でも前近代中国史やってたら日本語読むことを要求されると思う。中東研究する日本人フランス語要求されるみたいな感じで)。これの解決は難しいけど、欧文で和文文献のレビューをするとか、欧文で良い論文書いてその中で和文文献引用しまくるとかして、「日本では面白そうな研究をやってるんだなぁ」と認知してもらうことがまず必要なんじゃないかと思ってるんだけどこれは三浦瑠麗とは関係ないので措いておく。

ていうか、欧米日本学だって英語仏語独語日本についての博論書いてるんだから日本人イギリスフランスドイツに関する研究日本語で発表してもいいよね。日本だけじゃなくて、ある程度歴史と規模のあるアカデミアがある国では、文系博論論文自分らの言葉で書くことは結構あると思うんだ。

あとこれな。

https://twitter.com/chutoislam/status/963834829723729920

https://twitter.com/chutoislam/status/963834833360248832

これも、一般人デイリーメールを端から信用しないのは処世術としてはいいんだろうけど、時にはそういうソース依拠することが必要なこともある研究者もいるんだから、「デイリーメール引用してる」って理由だけで叩くのはやめて、って話だと私は理解した。余計なところに流れ弾を飛ばされると「それは違うでしょ」と三浦瑠麗弁護みたいな立ち位置にならざるを得なくなるというか。私だってこんな記事書いたけど三浦瑠麗学者としての資質は相当疑っている。ただ流れ弾を撒き散らさないでほしいだけなんだ……

追記

vkgofboston 査読の有無は和文英文に関わらず業績として見なす上で肝だと思うが、それに関しての考えを聞きたいね

三浦瑠麗が書いた雑誌のうち、『レヴァイアサン』は知らないけど『年報戦略研究』は査読あるよ→http://jsss.sakura.ne.jp/PDF/jsss-1507-tokokiteiyoko.pdf(当時もあったのかは知らん。『国家学会雑誌』はどうなんだろ。あってもなくても不思議じゃない。でもあそこ連載論文とか載せるからないのかなぁ)。ていうか和文の主要な研究雑誌にもそりゃ査読はあるし、だれも査読重要性は否定してないんですけど……(ただ、査読がなくても良い論文なら業績として扱っていいんじゃない、とは思う。査読つきの良い業績を積み上げてる人が一番評価されるべきなのは当然として、いちおう査読はされてるけどクソつまら研究と、査読されてないけど面白い研究だったら、一概に前者の方が業績として立派とはいえないんじゃない? 当たり前だけど公募では業績を提出させるわけで。まあわたし査読無しの媒体にはあまり書きたくないけどね)。

anond:20180216101648

学術受賞も箔つけるためみたいなものはあるけれど17人中15人って多すぎる。正直に公開してるからまだいいのか。

憶測だが、受賞できなかった2人は博論の中身が駄目だったからとかではなく民間企業就職決めたからみたいな話がありそう。

文系博士取るのが大変なのは事実だし、結局は視聴者側が、期待の若手研究者じゃなくて、大学に籍だけ置いてる博士号持ちの文筆家くらいの目線で見ればいいという話かもしれない。

はいえこのご時世さっさとアカポスは空けて欲しいし、テレビにはもっと議論だけじゃなくて基本の考え方の解説をできる学者タイプの人を出して欲しい。忙しいから受けてくれないというのもありそうだけど。あとワイドショーじゃ意味いか

2018-02-16

anond:20180215032409

学術的な著作が一本(博士論文)あって、形式的には論文3本あるので、非常勤(常勤?)講師になるには不足とは言えない。ただ留学もしてないし、研究者としての王道には乗ってないのかな。

受賞は論壇系のものばかり。博士論文が「特別優秀賞」とあるのが唯一学術受賞っぽいけど、この年の博士号取得者17人中15人が受賞してる。

http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400064210.pdf

この資料だと、優秀な博論修論学会誌採録されるとのことだが、そのリスト三浦氏名前はない。(20頁以降参照)

私見だが「優秀な若手研究者」というより「博士号を持ってる保守論客」くらいの立ち位置では。

2018-02-13

空間認識能力に男女差があるっていうのは、もう学術的に認められたことなんだっけ?

それが生物学的要因によるものなのか、生まれた後の育ち方の差によるものかとかもわかってる?

2018-02-06

10年来の鬱とADHD傾向が改善した

 今年で28フリーター


 幼少期(小学校の低学年頃)に脳に疾患が見つかって、以来十年近く投薬治療をしていた。

 また、高校の頃からずっと鬱を患っていた。頭の中が鉛のようになって自由に動けなくなる。生活の上でそういうことが多々あった。


 ADHDも併発している。破壊的な過集中を経て朝まで眠れないことが多かった。

 バイトシフトにはちゃんと遅刻せずに行く程度の社会性はあったけれど、やはりと言うべきかミスが多く、恐らく責任者も俺のことを発達障害者として認識していたみたいで、指示を出す時も俺にだけ妙に細かい明確な指示を出してくれたりした。それはそれでありがたかったのだけれど、時々ヒスを起こされることとなった。自分が主原因になっていることは分かっていたから、どちらかと言えば申し訳ない気持ちの方が強かったけれど。


 現役で地方駅弁大学入学して、卒業が近くなってから資格試験講座に通っていた。で、途中から引き篭もるようになる。

 一応何とか大学卒業できたけれど、定職に就くことはできなかった。


 自分は、根本的に人生ディシプリンというか一種の訓練期間だという固定観念を持っていて、それと同時に、より効率的自身を訓練できる人間がより優れた人間なのだという価値観を持っていた。だからと言うべきか、高校時代は朝5時に起きてジョギングを繰り返していた。

 恐らくその頃が、自分学力ピークになっていたと思う。

 確か当時の全国模試総合偏差値は70を超えていたはずである

 でも、そういう訓練が破綻を来たすのは思っていたよりも早かった。

 何年も日課にしていたジョギングが、高校生活半ばに突如として億劫になったのが始まりで、それ以来上手く眠ることができなくなったのだ。

 その頃から学力の減退も生じていて、自分自分コントロールできない感覚に苛まれるようになっていた。志望校ランクを一つ落として、何とか国立大学合格することはできたものの、今にして思えばあれが自分人生の最盛期だったのではないかと思う。


 大学に入ってからは、過密的な訓練期間と白痴のように生活崩壊する期間を繰り返すようになった。訓練期間には、暇があればジョギングに出かけ、膨大な量の学術書に当たった。また、複数語学習得を目指し大学ゼミを幾つも掛け持ちしていた。そして、大抵はそのような訓練期間は三ヶ月と持たずに破綻し、再び自分コントロールできずロクに睡眠も取れない白痴のような生活が始まるのだった。

 俺はそうやって訓練期間が破綻する度に、自分計画の建て方や訓練の方法に恐らくは問題があるのだと考えていた。実際、その考えにはある程度事実に沿う部分もあって、当時の俺はその自分が打ち立てた訓練方法の細部を限りなく修正し続ける作業に集中することとなった。そして、その細部を修正したトレーニング理論に基づく何ヶ月かの訓練タームを集中的に実施し、そしてその訓練タームの後には、訓練タームよりも更に長い破滅的な破綻の期間を迎えるということを繰り返していた。そのような生活大学卒業してからも戻らず、そんな具合に二十代の半ばを迎えた。


 何かが間違っていることには気付いていたけれど、何が間違っているのかはもはや分からなかった。考えつく限りの細部には工夫を凝らしてきたつもりで、主に食事における栄養バランスの調整には念入りという以上に念入りになった。卵、バナナ、木綿豆腐牛乳納豆青魚、葉野菜。こういうものバランスよく摂るようにしていた。でも、自分自分コントロールしているという感覚はついぞ訪れることはなく、相変わらず愚にもつかない趣味に熱中しては朝を迎え、疲弊しきった精神バイト先に行き、そして週末は48時間家に引き篭もって過ごすことも多くなっていた。


 いわば、この辺りが人生の暗黒期だったと言えるだろう。むしろ、そう言わずして何と呼べるのだろうか? もし他に呼び方があるとすれば誰か教えておくれ。


 さて。

 結論から言えば、この生活は現時点でかなり改善している。

 いわゆる躁鬱の躁期に入っただけの可能性も有ると言えば有るのだが、しか実証的に体系的に改善を目指した結果として、根本的に自己コントロールしているという感覚が数年ぶりに戻ってきたので、そこに関してはある種の信頼を置いている。


 原因というべき原因については既に見当がついていて、つまりそれは脳に対する血流の低下である身体におけるありとあらゆる不調や、自身コントロールを掌握できていない感覚殆ど場合、血流の低下に基づいているのであるADHDや鬱の改善に血流を効率よく増やす有酸素運動有効であることはとっくに知られていることで、つまり結局は脳の血流の有無が自己コントロール能力の有無へと繋がっているということなのだ。これを改善する為の様々な手段を講じ続けてきた結果、その中で極めて有効もののみが残ったので、それらについて以下に紹介していきたい。


 シンプルながら散歩ADHDや鬱の克服に大変役立つ行為である普段自転車原付で移動する距離を、例えば自転車原付を手で押しながら移動することで、とにかく歩く歩数を増やすことに集中した。iPhoneヘルスメーターも一応活用しており、実際に散歩した分の歩数が如実に数値として現れることにはかなりモチベーションを刺激されることとなった。


 腰の尾てい骨の下に柔らかいタオルを敷いた上での足の上げ下げなど、身体を横にして安定した状態にした上での筋トレは圧倒的に脳への血流を増やすことができる。これで週末の鬱傾向が随分と改善している。なお俺は心肺能力に二十代の半ばからかなり不安を抱えるようになったため、そこまで負荷を掛ける筋トレ実施していないが、自分の体調と相談しながら負荷を増やしていくことが肝要であるようだ。


 ドストエフスキー夏目漱石などといった純文学が望ましい。これらを読む際に脳に鋭い拒否感(としか呼びようのない感覚)が走る人間ほど、読書はうってつけの鬱・ADHD改善法となると俺は思っている。大抵の場合活字を読んだ際に訪れる決定的な拒否感は、脳に対する血流が急激に増えることに由来しているのである。そのように活字に対する拒否感が生じる際にはそっと目を閉じて、左前頭葉辺りに意識を集中してみると、はっきりと自分の脳への血流が増大している様子を感じることができると思う。特に、血流を増やす為には身体を横たえた状態でいることが望ましいのだけど、当然屋外や座った状態での読書も随分と効果を発揮する筈である。また、外国語の読解などもこの読書カテゴリーに加えておく。


  • 絵を描くこと(普段行わない趣味を行うこと)

 基本的に鬱の人間は、日々変化に欠ける生活を送っている場合が多い。

 同じパターンというか、悪い意味で安定しきった生活を送っていることが多いのである

 すると行動の多様性や、積極的な行動への意志が驚くほど抜け落ちていくという事態に遭遇した鬱持ち・ADHD持ちの人間は非常に多いのではなかろうか。というわけで俺はどちらかと言えば趣味としては読書文章を書くことに取り組むことが多く、空間的に物事を把握しそれを描写する絵などにはあまり集中力を払わないことが多かったのだけれど、これがどうやらいけなかったらしい。最近は、漫画イラストを模写したりだとか、積極的に絵を描く時間生活の中に設けるようにしている。ファミレスハンバーガーショップなどに行った時にサッと手帳を取り出して、軽く文章やそれに付する絵を描いたりすることも日課となっている。

 ここで言いたいのは、必ずしも絵を描くことが鬱やADHD改善に役立つといったことではなく、同じ行動パターンや同じ行動に固執することが如何に脳に悪影響であるかということなである。なので俺は最近文章を書き、絵を描き、詰将棋を解き、読書をし、と、とにかくやる事を一つに限定せずコロコロと変えることを意識して生活するようにしているのだ。

 鬱持ち・ADHD持ちにありがちな思考の切り替えや行動の切り替えが上手くいかない人間には、是非絵やその他普段行うことのない趣味を増やすことをオススメする。


 上で書いた通り、卵や牛乳青魚といったナチュラルフードが脳のパフォーマンスに影響することは学術的に証明されて久しい(と俺は思っている)。これはもう殆ど記述する必要性がない事実だが、しかし敢えてここに記述するからには、そこには当然ながらそれなりの理由がある。

 つまり、俺のような鬱・ADHDの併発した人間には、料理を行う際にとある事柄が圧倒的なハードルとして持ち掛かってくるということなである。つまりそれは、そう、料理煩雑さや億劫である

 基本的に鬱傾向やADHD傾向を持った人間はありとあらゆる行動に億劫さを感じるもので、よほどその行動に高い利益や見返りが見込めない限りは、その行動を行いたくないと思うものなのである。そういった面から言って、料理は味よりも栄養価と手間の少なさを重視するように俺は心がけている。準備や片付けの手間をできるだけ減らすために、単に塩焼きにしたり茹でるだけだとか、できるだけ工程の少ない料理(というか殆ど調理)で済ませられるようにしている。

 また、週末になれば殆ど外食で済ます

 脳に一定以上の煩雑さや負担押し付けないことが、ADHDや鬱改善の要点である。時にはサボることも非常に重要だ。


 追記。瞑想効果あると思う。瞑想時に、個人的には脳への血流が如実に感じられることが多く、恐らく脳に対してかなりポジティブ効果が起こっていると思われる。

 読書の後など、脳に負荷を掛けた際にその情報の整理や休憩の為に、短めのカジュアル瞑想を行うことがある。これもまたオススメ


 など


 こんなところだろうか。

 思い出し次第追記を行いたいと思う。


 今年に入って、文学小説の脳に対する効能が非常に大きいことに気付けたのは重要発見だったと思う。読書の際に襲ってくる倦厭感がむしろ血流の増大と関わっていることに気付けたのは、自分としては非常に大きな発見だったと思っている。というわけで、かなり重篤な症状持ちの人間としては、以上のような改善法を進める次第である

 上では書かなかったが、俺は重篤インターネット依存症持ちでもある。

 しかしその依存症もこの数ヶ月で劇的に改善した。俺という人間は、言うまでもなく長所よりは短所欠点の方が随分多く付きまとう人間であるからには、そんな人間にすら効果がある対処法は、恐らく全人類的に効果のある対処法となっていること請け合いである

 是非とも、皆さんにも実行してもらいたい。

 自身病癖を繰り返すようで悪いが、やはり疑いなく、「よい訓練こそが、よい人生なのだ


 それでは。

2018-02-05

anond:20180205153146

この前書き込んだときは、内容が専門的すぎたのか、学術的・専門的な議論他所でやれだのなんだの言われたのに、同じ人間がシモに関する話題を書き込んだけで低学歴扱いされるのって、読む人がいか先入観に左右されるかが浮き彫りになって面白いよね。

2018-02-02

発達障害

借金玉がやってる発達障害者ハウツー、たとえば「女性が実際に生き抜く上では男性社会適応することが現実問題として必要なので気立てのよさを身に着けましょう」とか言ってるのと何が違うのかわからないので全く信用する気にはなれない。「発達障害者が実際に生き抜く上では健常者社会適応することが現実問題として必要なので健常者仕草を身に着けましょう」。当然それはある女性発達障害者個人として実践する生き方だったならばそれを否定することはできないけど、それを運動にし始めたなら社会変革を理念目標とするフェミニストにとっては迷惑しかない。多分、借金玉は「発達障害基本的デメリットであることは疑いようがない」と思ってるんだろうなと思う。物忘れが多いとか、ルールを守ることができないとか、根気がないとかが、まったく問題にならないような社会を作ることが必要だという意識を持っていない、もしくは無視している。借金玉がやってるのは個人ローカル実践の延長やみたいなことを多分言ってるんだけど、集団を動員している以上それではすまないところもある。『みなさん、やっていきましょう』。外からみたら運動の動員にしか見えないわけだから。ある種の価値観を広めていることは間違いないわけだから

関係ないけどここ数日のツイッターバトルは運動とか実践とか当事者とか学術とかコロコロ自分属性操作して無敵になろうとしてるのが激ヤバムーブ過ぎて普通に複素数太郎かわいそうだなとおもいました(こなみかん)。

2018-01-31

ないのは金ではなくもっと別の

芸術に金を出さないどころか、学術にも金を出さない。

科研費はクソシステムで、その上削られる一方で、その上、役所から言われる煩雑事務手続き研究者時間をどんどん削る。金を出さないなら、先生たちの時間を奪うなとずっと思っている。

まあリソースは有限だというのはわかるんだけど。

・それはそれとして、問題はどうも最近ジャンルを問わず専門的なジャンル知識技術経験に対しての敬意みたいなものが色んなとこから消えてる気がする。

絵描き報酬とか、エンジニアのいうことを聞かない上の人たちとか、専門研究者意見からかけ離れていく政策とかもそれなんじゃないかなーって

2018-01-24

法華狼は

http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20180122/1516666370

ジュリアン・フントさんの警告を躱し続けている御仁様が立派な高説垂れなさる

外交的敗北が内政的勝利によって外交的勝利にすりかわったのだ」

いたな~ジャパン蔑称啼き喚いてた代表

究極の剥離…ハム速保守産経への姿勢

おのれの所業への姿勢が随分と違うことかな

ジャパン蔑称啼き喚きを批判もせずに引用した御仁様が

史実歴史学学術的なことに明るいらしい

ジャパン蔑称啼き喚きによる被害の訴えだけを

加害の押し付けと一緒くたにし

御仁様が何かを重視しているんだろうか

2018-01-18

anond:20180118142653

現代ミステリしょっちゅう古典ミステリを引き合いに出すからドイルやらクリスティ作品は相当引用されてると思う

そして誰もいなくなった、とかどこにでも出てくるし

ミステリ以外の物語なら、シェイクスピアが最強。

もうちょい新しいのだと星の王子様とか、コメントにあるロボット三原則とかだな。あとハルヒか?

あと、詩集とか俳句集を書物定義に入れるならそっちも相当強そうだな

ただ最強は数学とか学術系の専門書だと思う

(追記)

読み直したら小説って書いてたか詩集以下は取り消すわ

とりあえずハムレットに一票

2018-01-16

anond:20180115180218

まさか学術調査を揚げ足取って騒いでるアホな奴らなんて思いもしないだろ?

から話が逸らされたの?

2018-01-15

anond:20180115125826

迷信っていうか卵はコレステロールが多いからたくさん食べちゃいけないってのが学術的に否定されたのわりと最近なんで親が信じてたのは仕方ないよ。

2018-01-14

黒塗りについての学者見解

ゼミで聞いてみた

まあ、名前言えばみんな知ってるくらいの大学社会系の学部

詳しくは身バレが嫌なので控える

曰く、肌の取り扱いについても文化の差が大きくて

白人黒人マジョリティの国ではお互いを真似ることができない

からこそ明確な断絶が起こる

一方、東洋人がマジョリティの国では白人黒人の肌の色を真似ることはごくごく当たり前の文化として定着してる

この文化の違いについては、学術的に答えが出てるらしい

文化相対性と言ってどちらが優れてるとか劣ってるってことはない

もの食べるのに、手で食べる箸で食べるフォーク食べるのに優劣はつかない

から、肌の取り扱いについても他の文化圏での取り扱いに口を出すべきではないし

どちらかに合わせるべき物でもないということになるらしい

俺はなるほどなと思ったんだが、かしこはてな民はなにか反論できる?

2018-01-10

鳥インフルエンザ(H7N2型)が、「猫に感染し、ウイルスが猫の間で保持されていたことが明らかとなっ

ウイルスが猫を介して人やそのほかの動物に伝播する可能性が示唆された」との論文を発表しました。

それは猫による鳥インフルエンザのヒト感染を拡大させ、パンデミック(大流行)を引き起こす可能性がある。

猫は、飼育動物種の中では、例外的に人の占有管理義務付ける法律日本にはありません。野良猫放置や猫の放し飼いは、感染症拡大のリスクを高めます

猫の飼育管理においては、日本再考すべきでしょう。 

東大ニューヨークネコ流行したH7N2インフルエンザウイルス特性を解明 .

ニューヨークネコ流行したH7N2 インフルエンザウイルス特性を解明

2016年12から2017 年2 月にかけ、米国ニューヨーク市動物保護シェルターで500 匹以上ものネコが、H7N2 ネコインフルエンザウイルス感染した。

このネコから分離されたH7N2 ネコインフルエンザウイルスの性状を解明するため、哺乳類を用いて感染実験および感染伝播実験を行った。

・このH7N2 ネコインフルエンザウイルスは、1990 年代後半から2000 年代初めにニューヨーク近辺のトリ市場で発生が報告されていた低病原性H7N2 鳥インフルエンザウイルスに由来することがわかった。

・H7N2 ネコインフルエンザウイルスは、哺乳動物の呼吸器でよく増え、また、ネコ間で接触および飛沫感染することが分かった。

・H7N2 ネコインフルエンザウイルスの性状が解明されたことで、鳥インフルエンザウイルス由来のインフルエンザウイルスネコ感染し、ネコの間で保持されていたことが明らかとなった。

また、本ウイルスネコを介してヒトやそのほかの動物に伝播する可能性が示唆された。

このウイルスは、哺乳動物の呼吸器でよく増え、また、ネコ間で接触感染および飛沫感染することが分かりました。

研究成果は、新たなインフルエンザウイルス株あるいは鳥インフルエンザウイルスが、ネコを介して、ヒトあるいは他の哺乳動物に伝播する可能性があることを示しており、今後のインフルエンザ流行あるいは新型インフルエンザウイルス対策計画策定および実施する上で、インフルエンザウイルス中間宿主としてのネコ重要性を示しています

この東京大学らの研究結果の報道は、かなり日本動物行政関係者動物愛護(誤)活動家らに衝撃を与えたようです。

一部の動物愛護活動家らは、猫の鳥インフルエンザ感染拡大の危険性の火消しに必死になっている人もいるようですが

(これは昨年SFTSが猫から感染した人の死亡例が報道された時も同様でした)。

しかし、鳥インフルエンザ初期型のH1N1から今回報道されたH7N2型に至るまで)の人感染はかなり以前から確認されています。また、

ネコ動物鳥インフルエンザに対する感受性が高く(感染やすい)、イエネコネコ動物感染例も早くから確認されています

鳥インフルエンザ感染したトラが複数殺処分された例もあります実験レベルでは、H7N2型以外でも、猫間の感染さらには猫から他の哺乳類感染確認されています

かねてより、鳥インフルエンザ変異し、人への感染拡大や、ネコ動物中間宿主となる危険性が指摘されていました。

私は著しい偏向を感じます

かつて2010年宮崎県を中心とした、口蹄疫の大流行があり、多数の家畜殺処分されました(2010年日本における口蹄疫流行)。

感染拡大を防ぐために、自動車タイヤの消毒や、畜舎に出入りする人の消毒の徹底などが行われました。

しかし、自由に移動する野良猫対策は皆無でした。その後のこの口蹄疫流行分析した複数学術論文では、「猫などの小動物感染拡大の一因となった」としています(*1)。

野良猫自由に移動し、自動車と異なり、畜舎の中にまでよりウイルス拡散させやすいのは、少し考えれば分かることです。野生動物より、人の生活圏に入り込んでいます

しか野良猫放し飼い猫による、口蹄疫感染拡大のリスクを報じたメディアは皆無でした。「野良猫危険性」を報じることを避ける了解でも、マスメディアにあるのでしょうか。この偏向には疑いを持たざるを得ません。

早くから

  1. 鳥インフルエンザによる人への感染(多数の死亡例あり)」、
  2. 「イエネコを中心としたネコ動物の多くの感染例~ネコ動物鳥インフルエンザ感染やすい」、
  3. 鳥インフルエンザの猫から猫への感染例、猫からほかの哺乳類への感染例が発見されていた」のです。
  4. さらには「猫から人への感染」も疑われていました。

2018-01-07

古市憲寿の代わりに落合陽一を使うべき10の理由

古市憲寿社会学落合陽一は学際情報学で分野は確かに違う。だが、古市憲寿を使うほとんどの場面で、落合陽一の方が良い仕事をすると思う。

  1. 古市憲寿早生まれ1985年まれ落合陽一は1987年まれ落合陽一の方が3学年も若い
  2. 古市憲寿社会学者と名乗るだけの大学院生落合陽一は正真正銘准教授大学院生を教える側。落合の方が古市より3学年も若いのに!
  3. 古市憲寿議論の場で関係ないプライベートなことを持ち出す。小沢一郎離婚について尋ねたり。落合陽一は変人だが効率重視なので、そういう無益なことはしない。
  4. 古市憲寿は今の社会分析する(分析できているとは思えないが)。落合陽一は未来社会を作る。技術は単なる道具。どっちの価値が高いかは明白。
  5. 古市憲寿は、あれ、多分英語論文読み込んでない。落合陽一は読み込んでいる。
  6. 古市憲寿社長じゃない。落合陽一はピクシーダストテクノロジー代表取締役社長
  7. 古市憲寿越谷北高出身落合陽一は天下の開成高校出身
  8. 落合陽一は、博士号研究科で初めて早期修了で取った。古市憲寿は、その博士号すらまだとれていない。
  9. 優秀な博士課程の学生お金を出す学術振興会特別研究員制度というのがある。落合陽一は、博士課程在籍時にDC1というのを取っていた。古市憲寿はまだ博士課程の学生である上に、それすら取っていない。
  10. 落合陽一は大学の同じ学年内で最優秀の学生に与えられる筑波大学学長賞を取っている。古市憲寿慶応SFCAO入試卒だが、学長賞など取っていない。

新人も(同僚も)自分のやることを忘れてしま

出勤してきたら、まずグループウェアメール確認するスケジュール確認するって行うのがウチの日課なんだけど

どうしてもそうやってもやらなければいけないことが頭から飛んでいく新人と同僚がいる。

最初の内は、1時間おきにでも確認するように言ったんだけど出来ない。確認自体を忘れる。

朝だけはなんとか習慣づいてできるようになった。

どうしようもなく覚えないので、メモをとるようにやることリスト作成させるよう指示した。

メモをとったりする事で行動自体記憶に刻まれていくのか、記憶に残りやすいからだ。学術的にそうなのかは知らない。

で、箇条書きで何日に受けたものか締切は何時か等を書かせてみた所、新人の子はそれが覚えやすかったのか

やることリストに追記していく度に忘れないようになった。

新人学生の流れみたいなもんなんだろうか、リストを作らせてから本当使えるようになった。

一方…同僚はそもそも面倒くさいのが苦手なようで覚えない。上司に怒られている。

こっちどうしたもんか…。

2018-01-06

anond:20180106181453

からそんなゲイばかりじゃないから、他のゲイが快く思わないんだよ

そもそも女装だってテレビ用で普段普通に男やってるタレントだっていっぱいいる

そもそもドラッグクイーンだってゲイ自発的ってのはどうかと思う

文化的なもんはそんな簡単自発的か外部要因かなんて判断できない

見方によっては同性愛者のサーカスで、人が集まるように過剰な演出していったとも捉えられるんじゃわないの?

それとも学術的に自発的ものだって定義されてるもんなの?

それに黒人だってみんなコミックリリーフな訳じゃないのに、面白おかしく笑いの種にされるのが不快だって演出もある

ステレオタイプに凝り固まった差別的演出なんて腐るほどあるじゃん

はてな的あるいは反差別的な理屈では、お前が別物としたところで、不快に思う人がいるんだから自粛すべきなんじゃないの?

せどりをやっているので、いろんな本の中身をチェックするんだけど

学術書専門書はもちろん、ビジネス書なんかでも、傍線が引いてあったり角を折ってある本がある、それはわかる

だけど、恋愛マニュアル本に線引いてあるのは、なんかちょっと怖い

それで成功するのだろうか、と思ってしま

2018-01-05

まあ、古文漢文は要らないよね。ブコメスプラトゥーン差し替えると良く分かる。

古文漢文って、基本的には要らないよね。

昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。

努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味現代では「積極的廃止すべき」だとも思う。

ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。

元増田の「人生を左右する受験必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。

そもそも立脚点スプラトゥーンとの違い)

高等学校学習指導要領スタートにするのは同意してもらえると思う。

そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。

古典Aと古典Bだよな。

からブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、

それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。

その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。

だってスプラトゥーン短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。

オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーン受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。

スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。

なぜ漢文効能を謳うだけではダメなのか

とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。

から、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。

古典Aと古典Bの効能ではないから、なんだよね。

高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。

そこを無視すると「歴史イケメン口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの

そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。

その観点学習指導要領を読むと、もうブコメ効能とか的外れも良いトコだよね。

古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、

古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。

本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって

「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。

そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。

その上で、元増田意見には反論できてしま

オレは要らないと思ってるからそれは後述する。

ただなあ、元増田の「古文漢文人生を左右しかねない学力試験必須か?」には、オレは反論できる。

高校学習指導要領に定まっているから。

元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学高校否定するつもりはない」って。

じゃあさ、そもそも入試って何よって話ね。

大学受験における入学試験学力試験な。アレは何を計測しているの?

基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。

要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。

大学本来学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?

知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。

「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。

から高校学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学学力試験確認するのは、合理性がある。

元増田意見とは異なるが、オレは古文漢文はもう要らないと思う。

さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。

保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験ベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。

正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。

古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家伝統から来た明治文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。

帝国大学国家ノ須要ニ応スル学術技芸教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃から残滓に見える、とも言える。

高い学識と深い教養を持った官僚学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいいか、と。

から高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。

高等学校卒業認定試験学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。

大学入学資格検定の時にはあった家庭科廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)

高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。

まとめ

元増田の主張は、「古典(古文漢文)を受験科目に加えるな」だった。

それは大学側への要請だ。

増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。

オレの主張は、「古典学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。

学習指導要領古典目標をみても(保健体育や芸術目標意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代高等教育の意義からするとズレがあると思う。

最終的には、芸術地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。

論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史理解するなら地理歴史だろう)

法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領改定するところからだろうと。

そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、

入試程度の古典知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。

漢文問題法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。

もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないもの高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。

現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本しか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)

ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?

anond:20180104132743

anond:20180104132743

そもそも大学目的が「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的道徳的及び応用的能力を展開させること」(学校教育法83条1項)。

タテマエとはいえ、「専門の学芸」の前に「広く知識を授ける」場所。「広く知識を授ける」前提となる、前段階の教育課程において身につけたはずの「一般的教養」(同51条2号、64条2号)が備わっているかをはかるのが、大学入学選抜試験目的ひとつ。あとは何が「一般的教養」として重要かという問題で、これはもう歴史的背景に基づいた社会的合意によるとしかいいようがない。

道徳家庭科を軽視するというわけではないが、古文漢文により重きを置くと選択しているのが日本社会

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