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はてなキーワード: 織田信長とは

2017-12-15

ブクマカなら、センターはてな史で出そうな問題知ってるよな?

織田信長は、ひとつめの記事炎上させ、ついでふたつめのフォロー記事で更に炎上させる間に、新たな炎上記事ネタを込める鉄砲隊を生み出した。○か×か?

徳川家康は、仲の良いブクマカ同士でブクマあい生産性を高める一方で、ブクマしなかった人間を密告する制度を生み出した。これをなんというか?

織田徳川の生み出した制度はてなブログは活気づいたが、フェイスブック会を引き連れた勝間和代はてなに乗り込んだ。互助会はなんとか抗おうとしたが、下関で音声入力親指シフトによって焼き払われた。これをなんと呼ぶか?

2017-11-20

anond:20171120164635

めっちゃ関係ないけどなんで大名名前っていちいち音がカッコいいんだ?

武田信玄とか上杉謙信とか織田信長とか明智光秀とか豊臣秀吉とか徳川家康とか

いちいち声に出しても漢字もカッコいいとか卑怯すぎない?

現代人にこんなカッコいい名前のやついないし

いても名前負けするに決まってるからズルいわこんなん

2017-11-17

anond:20171116224132

得意分野を活かせないようなやつをおもしろがってくれるってことは

実力主義でも権力主義でもないってことになると思うけど、

そんなロマンチスト大名として生き残れるわけないだろ。

逸話判断するなら織田信長じゃない?

2017-11-16

anond:20171116130659

バイだよ戦国武将殆どバイだよ

そうじゃない秀吉武家の嗜みがない農家出身からだよ

織田信長前田利家との若い頃の肉体関係をみんなの前でのろけたと記録に残ってるよ

2017-11-11

https://anond.hatelabo.jp/20171110182155

御成敗式目は「道理」と「先例」に基づいているというのは中学校とかで習うことだが、これに典型的に表れているのだが、日本では「思想を持たない」というのが思想であるわけだ。武士社会通底する何等かの思想があってその思想法律として表現したものではなかったわけで。

例えば過去中国ではあらゆる法律制度天命思想に基づいていることは当然のこととされていた。この為天命思想確立に力添えをしてきた時代ごとの思想家たちが偉大な思想家として記憶されている。現代中国では天命思想否定されている。しかし、思想に基づき国家統治されるというのは今でも常識であり、だからこそこの前の党大会習近平思想の扱いがどうなるかが注目されたわけだ。

では遠くヨーロッパを眺めてみればどうかと言えば、メルケル発言を見てみればよい。

ヨーロッパキリスト教クラブでないというのは正しい。しかヨーロッパ人権市民権を基本とするというのもまた事実です。そしてここドイツでは、人権市民権キリスト教人間像に重ねているのです

ここでは明確にキリスト教という思想(思想宗教区別する人たちも世の中にはいるがあえて区別する必要はないと俺は思う)に基づいて統治が行われることが宣言されている。だいたいメルケル政党名前からして「キリスト教民主同盟」なわけで。

このような考え方があるため、ヨーロッパにおいても偉大な思想家というのが度々現れる。

思想とはもちろん政治思想だけを指すのではない。だが、個人生き方という面でも日本では思想は明確に否定される。状況に応じて態度を切り替えられる人間が通常日本社会ではまともな人間として扱われるのであって、強固な信仰思想に基づいて一貫性のある立場を取ろうとする人間はあまり高く評価されない。究極のプラグマティズムであり、究極の事大主義だ。

こうした社会においては「偉大な思想家」は存在し得ない。このような社会の状況を言論表現する学者過去様々に存在していたが、当然ながらそのような人たちは記憶されることもない。

一向宗創価学会など政治的に大きな影響を振るった新興宗教いくらかあったが、結局のところ日本社会伝統に破れていった。石山合戦織田信長勝利に終わったし、公明党池田思想を捨てて自民党改憲軍拡追従する勢力となった。その自民党にしたところで明確な戦前回帰のような思想があるわけでもなく(故に日本会議イデオローグたちは安倍政権批判である)たんに「アメリカに言われたから」とか「北朝鮮が」「中国が」などという状況に反射的に対応しているにすぎない。

2017-11-05

わずUSA!USA!」したくなるトランプカリスマ

あれはヒラリーにはなかったものだな。

ヒラリーだと「Hooooooo!!!」まではあっても「USA!USA!USA!USA!」は起こせない。

日本じゃああい政治家は生まれないだろうなあ

わず万歳三唱で出迎えたくなるような脅威のカリスマ性の持ち主は多分歴史上にも存在しない。

戦国ノンフィクションファンタジー世界で暴れまわる織田信長はかなりの物だけどね。

あと武田信玄

実際戦国時代にいって本物みたらそこまで凄くはないんだろうなあ。

流石に理想的すぎるもの

でも現れないかなあ。

ヒトラートランプのような脅威のカリスマ性を持ったヒーロー

2017-10-26

明治維新150周年とはつまり江戸しぐさ伝承殲滅150周年のことになる

江戸しぐさ伝承者は官軍によって根絶やしにされ、最後のひとりにいたるまで徹底した殲滅戦が行われた。

織田信長も一回につき2万人ほどストレス解消に殺したと言うが、明治政府もそれに劣らぬ残虐な行為を行ったわけだ。

江戸しぐさを信奉する立場の人は「明治150年」など粉砕すべき忌まわしいイベントの筈である

粉砕するか、それとも御霊を安んじる、しめやかセレモニーを行うか要注意である

2017-10-21

anond:20171021200303

誰だっけな、たしか曽野綾子

織田信長比叡山焼き討ちをして僧侶虐殺したのは知的業績である」ということを理解するにはある程度の知的鍛錬が必要となる

みたいなこと書いてたけど、結局そういうことだと思うよ

おわかり?

2017-10-06

anond:20171006144106

それよく言われるけど個人的には実感ないんだよなあ。

ユーザーが工夫しなくても欲しいサイトが表示される」って、

トヨタ」で検索したらトヨタ公式サイトが表示されるとか、

織田信長」で検索したらWikipediaが表示されるとか、

そのレベルの話でしょ。

そんなのGoogle以外でも実現できてたし。

画面がシンプルなことと検索オプション豊富なことがGoogle長所じゃね。

2017-09-29

https://anond.hatelabo.jp/20170929162824

横だが、ろんぱっぱーって150年ぶりに聞いた。

懐かしい。あの頃は日本室町時代だった。

織田信長が天下を治めていた。

2017-09-23

3大誰がやっても同じ風になる偉人

誰が演じても、性別が逆転しても「この人はこういうイメージ」で固定されてる

2017-09-22

キムジョンウンって織田信長明智光秀どっちの生まれ変わりなんだろう

いろいろと非凡さを感じる

日本が昔アメリカ敵対したときパニックになって真珠湾したのに北は何で暴走しないんだ

金正恩日本軍にいたら大東亜戦争に勝ててたんじゃないかと思ってしま

2017-09-07

白泉社前史

 白泉社創立の由来は、当時集英社織田信長みたいな、能力と才能を持ち容赦なかった若菜正の、ライバル・梅村義直追い出し策にある。その頃の集英社派閥は大きなものが二つあり、少年ジャンプを中心とする長野規一派(少年漫画派)と、ノンノマーガレットを中心とする若菜正一派(少女漫画広告取り雑誌派)がいた。両派閥の内部での結束と団結は強く、必然的派閥外の者(特に二人より年長の者)は追い出されることになった。

 梅村義直はかつてりぼん編集長であり、それより出世して当時、りぼん内での独立系派閥を持っていた。梅村義直の忠実な家臣の小森正義は、りぼんから別冊マーガレットに移り、さら白泉社移籍した。山岸凉子三原順などのコネクションは小森に由来する。

 小長井信昌は少年漫画部門にいた関係長野規の盃を受けた身であり、少年漫画編集の野望を抱きながら(それは後年、白泉社少年漫画雑誌創立につながることになる)、その手法少女漫画に生かし、別冊マーガレット美内すずえ和田慎二などを育てた。編集者の腕と頭の切れは抜群であるが、ワンマンで旗幟不鮮明な小長井は若菜正に警戒された。

花とゆめ」創刊時は、付録つき月刊誌ということで、りぼん意識しながらより低年齢の読者を対象にし、花とゆめコミックス装丁りぼんマスコットコミックスを模したものだった。

 しかし、とある年に、週刊マーガレットライバル雑誌だった講談社少女フレンドが月2回の刊行になるという事態が生じ、売れ行きがさほど悪くなかった週刊マーガレットをそうするわけにもいかず、白泉社花とゆめを月2回刊行ライバル誌にするという策を集英社は打った(余談だが、これは講談社のぼくらマガジンに対して小学館集英社グループ少年ジャンプを作った策と同じである)。

 当時の少女フレンド大和和紀庄司陽子里中満智子その他強力連載・読み切り陣を揃え、花とゆめは苦戦したが、美内すずえガラスの仮面」、和田慎二スケバン刑事」という大和武蔵級の作家によって巻き返しをはかった。

(多分続かない。これは伝聞を元に整理したもので、キャラ設定その他脚色が入っており、史実とは異なります

2017-08-30

https://anond.hatelabo.jp/20170830090641

歴史上の人物、あるいは架空人物と同じくらい遠い存在からだよ。

お前、織田信長さん、卑弥呼さん、みたいに言うか?

2017-08-22

偉大なリーダーを超える話

グレンラガンとか、ゴッド・ファーザーとか、ロマサガ2(ジェラール)とか、

尊敬を集めたリーダーが死んだ跡目を継いで、やがてそのリーダーを超える男に成長する話が好き。

ちょっと変則的な所だと、タッチ上杉達也とかもそんな感じ。

実在人物だと、チンギス=ハンとか織田信長とかだな。

アルスラーンは、親父が悪役だったかちょっと違う。

あくまで先代(とか兄貴とか師匠とか)が尊敬される人物で、その人が死んで「あんな頼りないのが後継者じゃこの組織ももう終わりだ―」って感じになってから見返す展開が熱い。

ヤマト古代進あんまり沖田艦長を超えてない気がするのでダメ。というか、沖田がきっちり最後まで仕事して死んでるんで、古代は後を継いだというより単に昇進した感が強い。

ワンピースも最終的には兄貴超えを果たすはずだが、跡目を継いでるわけではないのと、最初から仲間の支持は絶大だからあんましカタルシスが期待できないのが難点。

俺が好きなのはルフィが死んでウソップが「代わりに俺が海賊王になる」とか言い出してふざけんなバカヤロー的な展開で一味が解散した所からウソップが成長していくような展開。

まあ、絶対にそうはならんのだが・・・

2017-07-28

https://anond.hatelabo.jp/20170728215921

織田信長徳川家康の両方の血が混じってる感じなのか??

誰か、ホトトギスの歌のパロディ説明してくれよ。そのAmazonCEOの人。

  

追記...

ブクマ時代破壊者でもあり、ケチでもあるということで、織田信長徳川家康の両方の血が混じってる感じなんて、思いつきを書いちゃった。そっか、権力者間の血縁関係なんて意図的につくれちゃうのですね)

2017-07-16

歴史真実は正直どうでもいい

織田信長は実は本能寺以降も生きていたなどの突拍子の無いもの

国同士の歴史認識の違いのような大それたものではなく、

西郷隆盛普段私達が見ている肖像画の顔とは違う、ですとか最近ですと井伊直虎男性だったなど。

実際に会えるわけでもないし真実確認することなんてできないわけで、どう伝わっていったのかも含めて歴史だと思います

真実を知るのも結構ですが例え間違っていたとしても長い時代を巡り巡って今の形になったことも含めて「歴史」のような気がします。

2017-07-10

https://anond.hatelabo.jp/20170710122143

その進歩がない状態家康個人意図的に作り出した社会構造であって

情報が入ってこないように意図的遮断していたのを大多数の人間がそれを望んでいたというのは間違い

それがヤマト民族歴史の中での歪みの始まりだと言っている

仮に織田信長が死ななければ自由貿易を行っていたはずだ

時の支配者権力を甘く見すぎだ

 

田舎DQNが不幸そうに見えないのはお前の観察が単に足りないからだ

DQNDQN自分無知無学に不幸を感じたり変えたいという欲求を持っている

単にそれを実現する手段を知らないだけだ

その状態DQN幸福なんて思ってないし変革したくないなんてのも思ってない

人並みに変わりたいし救われたいし幸福になりたいと願ってる

土人暮らしを拒み増田笑顔で利用するお前と田舎DQNは何一つ変わらないんだよ

から言ってるだろうが江戸時代人間とお前も変らないって

2017-07-09

https://anond.hatelabo.jp/20170709154334

「漢」という大きな国で「黄巾の乱」という農民反乱が起きる。

朝廷は各地に将軍派遣してようやくその乱を鎮める。

そのあと董卓っていう奴が独裁者になって暴れるんだけど、部下の呂布という奴に殺される。

朝廷はぐちゃぐちゃで統制が効かなくなってしまい、各地の将軍たちが独立して戦国時代みたいになる。

そのころは大陸の北の方が豊かで人口も多く、その覇権を巡って曹操袁紹という二大勢力が戦って、曹操が勝つ。

曹操日本戦国時代で言えば織田信長みたいな冷徹天才タイプ

北半分を手中に収めて圧倒的な勢力を持つようになった曹操

しか大陸の南東のほうで勢力を拡大していた孫権という奴に「赤壁の戦い」で大敗する。

孫権徳川家康みたいな地域密着型の苦労性タイプ

また、孫権に協力していた劉備という奴が、その戦いのあとの隙をついて大陸の南西の方を占領する。

劉備豊臣秀吉…と言いたいけどわりと違くて、やたら仁義忠義にこだわる良い子ちゃんタイプ

実は西遊記三蔵法師に近いんじゃないか

北半分を得た曹操の「魏」、南東を得た孫権の「呉」、南西を得た劉備の「蜀」。

この三国が鼎立するから三国志演義」。

特に劉備主人公格で、義兄弟関羽張飛と共に、紆余曲折を経て国を打ち立てるまでが前半。

でも建国した矢先、関羽は呉と戦って殺されてしまい、張飛も部下に裏切られて殺されてしまう。

義弟たちを殺されて怒り狂った劉備は呉に攻め込むんだけど大敗して死ぬ

そして劉備軍師であった諸葛孔明が、劉備亡きあと、圧倒的な力を誇る魏に対してさまざまな奇策を持って挑む、というのが後半のストーリー

既に曹操も死んでいるから、魏の将軍司馬懿という奴が孔明ライバルになる。

孔明は魔術的な天才軍師として描かれ、司馬懿相手連戦連勝する。

しかし彼我の戦力差はいかんともしがたく、やがて孔明死ぬ

孔明の死後は、後継者姜維を中心に、蜀も粘るんだけど、ついに魏に降伏することになる。

具体的に言うと、鍾会という野心旺盛なエリート姜維を釘付けにしているあいだに、鄧艾というドモりが酷いおっさんが間道を通って蜀の首都を攻め落とす。

でも鄧艾のことが気に入らない鍾会は、鄧艾の勝手な振る舞いを讒言して殺してしまう。

さら姜維に唆されて、鍾会は蜀の地で独立してやろうとするけど、あっさり発覚して鍾会姜維は殺される。

この頃の魏は、司馬懿の息子たちがすっかり権力を握っている。

そいつらが蜀の滅亡の後に魏を乗っ取って、「晋」という国をつくる。

この晋の名将に羊祜という奴がいて、最後に残った呉をいつ滅ぼそうかと手ぐすねを引いていた。

しかし、このときは呉にも陸抗という名将がいた。

二人は国境を挟んで互いのことを認め合い、手紙や酒を送りあうほどだった。

この頃の呉は、晩年に耄碌した孫権が、悲惨後継者争いを引き起こして国力が低下。

陸抗の力によってようやく保っている有様だった。

やがて羊祜も陸抗も亡くなったあと、羊祜の後継者となった杜預という奴によって、ようやく呉は滅ぼされた。

魏も呉も蜀も消え去り、晋が大陸統一したのだった。

おしまい

2017-06-20

織田信長も知らなければ〜」

「戦もしたことないですし〜」

滝沢カレン天才以外の何者でもない

2017-06-01

自分が変わるのが嫌なら一億総保守でいいものを、人に変化を押し付けるのだけは大好きだから困る

織田信長が好かれるのもあいつの肩を持てば周りに革命押し付ける気分になれるから

2017-05-26

http://anond.hatelabo.jp/20170525213710

かわいい子が快楽墜ちして、

4Pくらいでガンガン中出しされてるのを想像して興奮した。

自分が孕ませるんだとやる気マンマンの男達に

ローテーションで何度も何度も出されてるイメージ

織田信長鉄砲隊みたいに。

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

目次 [非表示]

1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

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